次の日。  崇人たちは改めてヴァリス城の王の間へと招かれた。 「なあ、マーズ。いったいどうしてまた呼んだんだ?」 「なんでも私たち……えーと、なんだっけ? ハリー騎士団か。それにきちんとした任務を授けようとのことらしいよ。真の目的は、インフィニティを守るため……らしいけどね」  マーズの言葉に、崇人はいかんせん納得がいかなかった。  しかし、決まってしまったことだ。それを受け入れなくてはならない。  かくして、崇人はそれに関する不満は一先ず飲み込んでおくこととした。 「やあやあ、遅れて済まなかったな」  国王――ラグストリアル・リグレーがやって来たのは、それから数分後のことだった。その間、崇人たちはマーズと崇人が一言二言会話を交わしたのみだった。 「ああ、そんな堅苦しい話ではないから気を楽にして」  そう言って、国王は長机の崇人の目の前に座った(描写されていないだけだが、彼らは椅子に腰掛けている)。 「さてと……それでは本題に入ろうか。『機械都市カーネル』のことは知っているね?」  それを聞いて、崇人たちは頷いた。  機械都市カーネル。  エイテリオ王国との国境付近にある城塞都市のことだ。自治権を与えられているため、カーネルは国同等の権力を持っているということになる。しかしながら、実態はヴァリス王国――ひいてはヴァリエイブル帝国の管轄となっている場所だ。  街の中心にはリリーファー応用技術研究機構、通称ラトロが存在している。ラトロはリリーファー開発の第一線で活躍する組織のことだ。非政府組織でも非営利組織でもないラトロが、この都市の権力を握っている、つまりは政府機関と同一である。  各国はラトロが開発したリリーファーを、ヴァリエイブル帝国を介さずに購入することができる(裏を返せば、管轄にあるヴァリエイブル帝国も、対等の立場としてリリーファーを購入しなくてはならない)。カーネルが高度な自治権を得ているのは、こういう世界事情からなるものだった。  ちなみにリリーファーは各国の研究所でも研究・開発はされている。しかし、彼らラトロの技術開発は群を抜いている。世代でいえば、三つ四つは今の世代より平気で秀でているのだ。 「……機械都市カーネルがどうかなさいましたか?」 「実はだね、カーネルが鎖国をすると全世界に言い放ったのだよ」  その発言は至極シンプルで、至極残念なことだった。  機械都市カーネルは、リリーファー開発の第一線にある場所。そして、最新のリリーファーを研究して、販売している場所だ。  もし、そこが世界との取引をやめると発表すれば、どうなるか――それは崇人たちにも充分に理解できることだった。 「君たちにも解ると思うが……正直言って『アレス』も『ペスパ』も『アルテミス』……これはペイパス、敵国のリリーファーだったな、これも凡てはラトロが開発したパイロット型を、我が国で改良したものとなっている。即ち、リリーファー開発の第一人者といってもいい、ラトロが謂わば独立を宣言している。彼らの戦力は驚異的なものだ。だが、起動従士が居ないだけマシではある。だから君たちには……カーネルに向かい、何かあったらそれを食い止めて欲しいのだ」 「食い止めるって言ったって……」  崇人が思わずそう言いたくなったが、その前にマーズが手で制した。 「かしこまりました。『ハリー騎士団』、そのご命令をお守りいたします」  それを聞いて、国王は小さく頷いた。  ◇◇◇ 「どうしてあんな命令引き受けたんだ」  マーズの家に帰って、崇人はマーズに訊ねる。崇人の表情は口をへの字に曲げて不機嫌というのが一目で解る程だ。 「だって拒否権はないよ。私たちは国王直属の騎士団だ。国王の命令が来たら「はい」と言うしかないね。たとえ『首を切って死ね』と言われても、だ」 「それはおかしいだろ」 「それが騎士道だ」 「俺たちは起動従士だ。騎士などではない」 「だが、騎士団という名を冠している。そしてお前はその騎士団長だ。騎士団長がそうであってどうする? 困るのは私たちなんだぞ?」  マーズの言葉も、確かに正論だった。  だが、納得いかない崇人でもあった。  そんな抽象的な命令は、企業戦士だった時もあまり承らなかった。  だから、今回も何とかして逃れるか、もしくはもう少し具体的なことが欲しかったのだが――マーズに遮られてしまった。 「まあ、なんとかなるだろ。そんな感じで私はここまで来たからな。女神とかどうとか呼ばれている外部の評価は割とどうでもいいが、今の立場に立ったのは大体運だ。世の中そんなもんだよ」  マーズは小さく呟くと、どこか遠くを見つめた。  マーズは、何かを知っているようだったが――崇人は敢えてそれを訊ねなかった。  二日後。  崇人たちはヴァリス城地下にあるリリーファーの倉庫に来ていた。  彼らのリリーファーが正式に配属されるためである。  崇人はインフィニティ、マーズはアレスと決定している。しかしほかの人間はまだ決定していない。そのためにリリーファーを決定するのだ。 「リリーファーもそうないんじゃないか? なのに、こんなできたばかりの騎士団にあげる余裕があるのか……」  マーズは道中そんなことを言っていたが、それも実際に倉庫に行けばそんなことも払拭されてしまった。  そこに並んでいたのは、数多のリリーファーの躯体だった。見た感じ、十機近くは並んでいる。それも、凡て同じ形で、カラーリングだけが異なるものとなっている。滑らかなカーブで構成されているそれは、ほかのリリーファーと同じだったが、それを分類するかのようにカラーリングされている。少なくともここにあるのは十機で、深い青が二機、水色が一機、深い緑が二機、黄緑が一機、茶色が一機、灰色が一機に黒が二機となっていた。 「やあやあ、君たちじゃないか。懐かしいね」  その声に彼らは振り返る。そこにいたのは大会時にいた整備リーダー――ルミナスだった。 「ルミナスさん、どうしてここに……?」 「やだね。私はもともとここにいる人間だよ。大会時は人が足らなくなるからあっちに居るってだけだ」 「それじゃ、いつもはここに」 「そういうことだね。一応、これからこのハリー騎士団に就くよう言われたから今日から私も同僚だ。よろしくね」  そう言って、崇人とルミナスは固い握手を交わす。 「ところで」  話を切り出したのはエスティだった。 「あれは一体?」 「あれはね……量産機だよ。量産型リリーファー『ニュンパイ』という。ああ、全体の名前がそういうのであって、実際はカラーリング毎に名前が異なるけれどね。……さて、リリーファーを持っていないのはこの内誰だい?」  ルミナスが訊ねると、素直にコルネリア、ヴィエンス、エスティの三人が手を挙げる。 「正直でよろしい。……まあ、この中から一機選んでもらうだけなんだけれどね。カラーリング以外は性能は凡て一緒だし」 「ええっ?」  その言葉に一番驚いたのは他でもないエスティだった。  エスティの言葉を無視してルミナスは、 「さあ、選んでくれ。そして、それが君たちと一生付き合う『愛機』になるからね」  そう言って小さく微笑んだ。  こうして彼らは愛機を選別する作業に入ったが、思いのほか早くその作業が終了してしまったので、ルミナスも目を大きく見開いてそれを見つめていた。 「え……え? 大丈夫? ほんとうに、大丈夫?」 「はい! 大丈夫です!」  初めに言ったのはエスティ。それについで、コルネリア、ヴィエンスも頷く。 「そ、そう……そうならばいいんだけれど……」  エスティが選んだのは黄色、コルネリアは水色、ヴィエンスは深い緑であった。 「いいね。このカラーリング。ばっちりだと思うよ」  コルネリアは自らのカラーリングを決めて、小さくほくそ笑む。  これからは、彼らは『ハリー騎士団』として活動を開始するのだ。  多くの危険が待ち受けているのは、百も承知だ。 「とりあえず、これから急いでカーネルに向かってもらうよ」  ルミナスに言われて、崇人たちはハッと彼女の方を見る。  対して、その発言者はシニカルっぽく微笑んだままだ。 「あれ? 王様から聞いてないかな? リリーファーを選んだ後、速やかに機械都市カーネルへと向かう……って」 「聞いてないよ! というかもうちょい時間的猶予が欲しい!」  崇人がそう言ってルミナスに突っかかるが、彼女に突っかかっても意味はない。彼女に言うなら国王に直接いう方がいいだろう。昨日はあれほど「これが騎士道だ」だとか宣っていたマーズの表情も少々堅い。  騎士道など、聞いて呆れてしまう表情だった。 「……ひ、一先ず。私たちはそれに従わなくてはならないわね……。まだまだ時間もあるし、別にそう急がなくてもいいのでしょう?」 「と、思うでしょう。実はこの奥に専用ステーションがあってだね」  それを聞いたマーズの顔はみるみるうちに青ざめていった。  そして、ゆっくりと口を開け、ルミナスへ訊ねる。 「……まじで?」 「大マジよ」  マーズは未だにそれが信じられなかった様子だったが、ルミナスはおどけた表情で答えた。  ルミナスはそのあと、床に投げ捨ててあった器具を手にとって、壁に設置されている棚に仕舞うと、再び崇人たちの方へ戻ってくる。 「ほら。さっさとステーションに行った行った。私はこれからリリーファーをカーネル近くにある基地まで送るための準備をしなくてはならないから、正直あんたたち邪魔になるのよ」  起動従士にその言い草はないだろう、と崇人は思っていたが彼女たちにも彼女たちの仕事があるのだ。そして、崇人たちにも崇人たちの仕事がある。それぞれの仕事がせめぎ合っている。そして、ルミナスたちの仕事は崇人たちの裏方の仕事となる。多少愚痴を零しても仕方ないのかもしれない。  マーズは一つため息をついて、ステーションがあると言った方向へとあるていく。それを見て、ぽつぽつと崇人たちもステーションへと向かった。  ◇◇◇  ステーションは『ステーション』の名を冠しているが、実際には荒屋に近かった。ゴミが散乱していて、床には張り紙の残骸がこびりついている。 「こんなところに電車が来るのか……?」  思わずマーズは呟いたが、一段下がったところに線路が引かれているし、電線もあることから、ここは電車の駅に間違いなかった。 「しかしここに電車が来るのか否かと聞かれたら愚問だろ。ルミナスが言ったんだ。それを信じるしか選択肢はない」 「それはそうなのだけれど」  マーズはそう言って、身震いする。崇人はそれを見て、ふと思った。考えてみればこの部屋は非常に寒かった。地下――というより閉鎖された空間――だったからかもしれない。  閉鎖された空間は、暖かさを感じにくくなる。  それは崇人が元居た世界でも、この世界でも、どの学者が言っていたかは覚えていないが、有名な事実である。学説として証明もされている。ただし、それは『閉鎖』というものの定義を明確にする必要こそあるのだが。 「そういうことより、本当にここに電車が来るの? まったく解らないのだけれど」 「ルミナスさんも言ってたし、来るんだろ」 「あら、随分と彼女を信じているようね」 「信じている、たって……あそこで居たステーションの存在を知っている人間はルミナスだけだぞ? 信じるも何も判断材料が彼女の話しかないんだから」 「そして、あなたはルミナスの発言を信じた、と」 「…………」  そういうことだった。  確かにルミナスひとりの発言を信じるのも不可解にも思えるが、彼女がティパモール紛争(正確には『赤い翼』によるテロ活動)における功績は計り知れない。だから彼女の発言を信じるのも道理だった。 「確かに彼女が行ったことは偉大よ。それで勲章も受けているからね。けれど……あまり信じ込むのもどうかと思うわよ、タカト・オーノ」 「それは、同居人としての誼(よしみ)かい?」 「違うわ。騎士団長としての自覚が足りない、と言っているのよ」  マーズはすぐに崇人の言葉を否定する。  電車の警笛が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。光が崇人たちの体に当たる。それはとても眩しかった。 「あれが私たちの乗る……?」  エスティは訊ねるが、その答えを知る者は今誰もいない。  そして、電車はホームにゆっくりと停車した。  一両編成のこじんまりとした列車だった。行き先表示には『特別列車』と記されており、とても軍人が乗るようなものには見えない。  ――と、そんなことを考えていると運転席にある扉が唐突に開いた。  そして、そこから出てきたのは――少女だった。大きさは崇人より拳三つ分くらい小さい。しかしその格好は立派な運転士だった。 「えーと……?」  エスティや、その他ハリー騎士団の面々が困惑していると、その運転士は口を開く。 「何をしているのよ、早く乗ってちょうだいよ!」  声を聞いても、彼女が運転士とは到底思えない。なんというか――どう見てもどう聞いても幼児のそれにしか見えないし聞こえないのだ。 「えーと、どうしてここにいるのかな?」  マーズが膝を曲げ、少女の顔を見て話す。  しかし少女は被っていた帽子を外すと、それでマーズの頭を攻撃した。 「いいから乗れ! 私は専属運転手だ!」  マーズは苛立ち殴ってしまおうかと思ったが――その容姿をもう一度見て何とか思いとどまった。  仕方なく、彼らは乗り込むことにした。  目的地は機械都市カーネルということは知っているが、果たしてこの電車はどこまで行くのだろうか――気になって崇人は訊ねようとしたが、 「この列車は機械都市カーネル行き、直通列車でございまーす」  どうやらカーネル直通のようだった。 「カーネルに直接向かう……って、何かあったらどうするんですか!?」 「しらん、軍人だろ。それくらい何とかしろ」  エスティの問に、無機質に答え運転士は運転席へと戻っていった。  確かに、崇人たちは軍人だ。それは否定できない。  だが、まだ新米だ。新米の騎士団にこのような命令が下った時点でおかしかった。  だからマーズと崇人は薄々嫌な予感がしていたが――彼女たちのそれが命中するのは、少し後の話となる。  電車がゆっくりと動き出し、暫くすると外に出た。工場の敷地内に出たのは恐らくカモフラージュのためだろう。 「まあかくしてこれでカーネルへと向かうわけだが……何か質問でもあるか? 知っていることならなんでも私が話してやろう」  そうマーズが言ったので、崇人が手を挙げる。 「カーネルってのは、ラトロが権力を握っているのか?」  その問に、マーズは首を傾げる。 「確かにそういうのが外部……私たちヴァリス王国の考えだ。しかし実際には違う可能性がある。カーネルといえばラトロ、だからラトロが権力を握っているのだ――とかそういう考えに回り込ませるためのダミーと考えている連中も中にはいるよ」 「結局、どっちだか解らない……と?」  そういうことになるな、と言ってマーズはシニカルっぽく微笑んだ。 「なんだ、つまりは結局知らないってことじゃないか」  崇人がマーズの答えを聞いて、ぶつくさ言う。  しかし、マーズの反応は冷ややかなものだった。 「知らないよ、そりゃ。だって、あの街は言論統制が当たり前の街だ。カーネルに入るにはパスポートで入国審査よろしく入『街』審査を行うからね。まったく、あの街はただのヴァリエイブル帝国領カーネルではない。もはや、『カーネル』という国にすらなっているよ」  マーズはそう言ってため息をつく。 「カーネルってそこまで権力が一国家ほどに強いんですか?」  次に訊ねたのはエスティだった。 「だって、そうじゃない。最新鋭のリリーファーを作る唯一の研究所がある都市よ。一国家と対等に対話できるのだから、それなりの権力があっても間違いではないわ」 「一国家と対等な権力を持つ都市……それだけ聞けば恐ろしいですね」  エスティがマーズの言葉を聞いて、思わず身震いさせた。  機械都市カーネルという場所の恐ろしさ。  尊敬と畏怖の念を込めた各国と、ラトロを含むカーネルとのせめぎ合いが最近活発化しているのも目を見張るところだ。  ふと、崇人は外を眺める。  外は煙を吐く煙突が犇めきあっていた。煙突を見て、漸く首都とは違った場所に出たのだと、崇人は察する。 「この辺は新興の工業都市だよ。名前はララーニャ。けれど、ここの工場から出る煙がひどいって噂でね。鉱毒もそれなりにあるらしいよ」 「それなり、って……。鉱毒は『それなり』で片付けられるほど曖昧な問題でもないと思うがな」 「そういうもんよ。時に人は人を傷つける。自分の利益のために、他人の利益を平気で奪う人間がいる。世の中ってのはね、奪うものと生み出すものがいるの」  マーズの言い分も尤もだが、それは少々抽象的な考えだろうと崇人は考える。  ララーニャについて崇人が昔から知っているわけでもないが、この都市が工業都市になって経済が潤ったのも事実だろう。  経済が潤うことで、富を得るのもまた真理だ。  そしてそれを手にするのも道理だ。  どこだかの経済学者が『人口は幾何級数的に増加するが、富は算術級数的にしか増加しない』などと言っていたのを崇人は思い出す。確かにそうだとするならば、社会制度の改良だけではそれを改善することは出来ないだろう。  人類みな幸福を提言する宗教のチラシを、この世界に来て見た記憶がある。  しかし幸福というのは決まっている量であり、それを増やそうとしてもそう簡単には増えない。しかし人間というものはあっという間に増えてしまう。崇人の居た世界の、崇人の住んでいた国では出生率が1.40人を切っていても世界的な出生率は非常に高いから、それでも幸福の平等な分散とは程遠いものになる。  幸福の平等な分散は、世界にあるいまだ解かれ得ない問題の中の一つに数えられている。その解決方法は経済学者が何度も解こうと努力しているが、いい結果には至っていない。 「……おっと、」  マーズが不意に立ち上がったので、崇人はふとそちらを見た。  マーズは失笑しながら、後方へと歩いていく。 「どうやら、鼠が迷い込んでいたようね」  そして、後方にある運転席の扉を容赦なく開いた。  そこに居たのは、ひとりの人間だった。そして、その姿は崇人とエスティには見覚えのある人間だった。 「ケイス……!?」  エスティはそう言ってケイスにゆっくりと近づいていく。 「君たちを騙していたつもりはない。僕は、ケイス・アキュラであるが、君たちに見せているあの姿は仮の姿だよ。この姿こそが……僕の本当の姿だ」 「……どういうことよ」  エスティの声は無意識のうちに震えていた。  対して、ケイスはこれ見よがしと言わんばかりの顔をして答える。 「僕はね、『新たなる夜明け』というテロ組織のメンバーだ。おっと、けれど君たちと争う気はない。戦闘経験の豊富な面々が居るのに、僕が単身戦うとなればその結果は戦わずしても解るだろうしね。無駄な戦いは好まないんだ」  ケイスは呟く。 「……何がのぞみだ?」 「さっすが。騎士団長は、話が早いね」  崇人の言葉に、ケイスは軽く受け答える。 「じゃあ、単刀直入に言うよ。提案だ。これは、希望ではなくあくまでも提案ということになる。それをキチンと理解していただけると有難い」 「了解した」 「ありがと。それじゃあ、話せてもらうよ。我が『新たなる夜明け』は『ハリー騎士団』と協力関係を結びたい。特に、今回の機械都市カーネルに関連する戦いに関して……という但し書きが必要となるけれど」  その言葉を聞いて、崇人の顔が強ばった。 「……そもそもの話をしていいか。『新たなる夜明け』とは、一体何者だ? いや、なんの組織だ?」 「僕ら『新たなる夜明け』は君たちがティパモールで戦った『赤い翼』の別組織……大きい捉え方をするならば、残党と言ったほうがいいかもしれないね」 「赤い翼の残党? それでよく俺たちが応じるとでも思ったな」 「残党はあくまでも大きなカテゴリーだと言っただろう。別組織、だ。赤い翼はあれほどの人数がいるが、そもそもひとつの組織として磐石にあったわけではない。赤い翼は幾つかの小さな組織が集まって出来たものだ。ヴァリエイブルと似たようなものだよ。その中でも、ティパモールに強い執着を持ちながら故郷を捨てる計画を立てていたのが、あいつの赤い翼だ。僕たち『新たなる夜明け』はティパモールに執着はしているが、それでもヴァリエイブルとの共存を目指すために何とかしている。強いて言うなら赤い翼とは真逆の立ち位置にある組織だ」 「逆の立ち位置……そう言われて信じるとでも思うのか。まずそちらの手の内を明かしてもらわなくては……。なぜ、ハリー騎士団と組もうと考えた?」  崇人が訊ねると、ケイスは一枚の紙を取り出した。そこには何か絵が描かれていた。  それは小さな箱だった。箱は真ん中でセパレートされており、その中には小さなボールが置かれている。 「……これは?」  崇人はこの不可思議な絵に興味津々となり、訊ねる。 「これはカーネルが開発した最新鋭のリリーファーエンジンだと言われている。このボールと箱の素材は反発係数が弄られており、これによって無限のエネルギーを生み出すことができるという」 「永久機関だと!? 馬鹿な……、そんなものがあるというのか……!?」  崇人はそれを聞いて、思わず電車の真ん中に置かれている簡易テーブルを叩いた。絵がふわりと浮かんだ。 「ピークス-ループ理論に聞き覚えはないかい?」  その言葉を崇人とマーズを除くハリー騎士団の面々は聞いたことはなかった。  そして、その言葉を聞いたことのあるマーズが呟く。 「ピークとなる値をループさせることで、エネルギーを循環させ、かつエネルギーをその循環により増やしていく理論……だったかな。あくまでも人伝えに聞いただけに過ぎないがな」 「そのとおり。そして、ピークス-ループ理論を導入したエンジン、それがこれ。――PR型エンジンだよ」  ピークス-ループ理論はメリア・ヴェンダーが提言した理論の事である。エネルギーを循環させることで、限界値以上の値を引き出していくという理論だ。崇人の昔いた世界ではそんなことは有り得ない。等価交換――字を当ててごとく、『等』しい対『価』で『交換』するそれが大前提として成り立っているのだ。  だが、この世界は崇人の居た世界とは違う。魔法もあるし、このような巨大ロボットもある。少し科学が進んだだけの世界かと思えば、様々なイレギュラーな存在もあるから、ピークス-ループ理論だとか、無限のエネルギーを生み出すとかそんなことは崇人も今となってはあまり驚かなくなってしまった。 「PR型エンジンは、ピークス-ループ理論を導入して、初めてエネルギーの循環とそれからの無限のエネルギーを引き出すことに成功したエンジンだ。……まあ、とはいえ処理にも限界はあるから厳密に言えば無限ではないのだろうけれど」  名前詐欺には間違いないかな、とケイスは呟く。  それを聞いて崇人は不満気な表情を浮かべる。 「……それで、そのPR型エンジンを見てどうすればいいと?」 「そこからが本題さ」  ケイスはそう言うと、ニヤリと笑った。 「ぼくらはこのエンジンを使って何か恐ろしいことを行おうとしているのではないか……そう考えているのだよ。その恐ろしいことは、きっと僕らが考える斜め上をいくに違いないけれどね」  ケイスがそう言うと、ぼんやりと外を眺めた。小高い丘にある塀に囲まれた町。それこそが機械都市カーネルだった。カーネルは、直ぐそばまで迫っていた。 「別に嫌なら嫌で構わない。ただ、僕らもカーネルに潜入するのは事実だ。仮に鉢合わせたときに無駄な戦いで無駄な血を流すのも嫌だからね……」 「なるほど。つまり、今回の同盟は鉢合わせや無駄な戦いを抑えるため、更にはお互いの利権が合致するだろうとそちら側が睨んだから……そう解釈して相違ないな?」  崇人の言葉に、ケイスは頷く。どうやら交渉が成立したようだった。 「それでは、既にステーションに待機させている。彼らと合流しよう。僕が保証する。これで彼らはなにも君たちには手出ししてこないということをね」  ◇◇◇  その会話が終わってからステーションに着くまではそう時間はかからなかった。  サウスカーネル・ステーションはカーネルの南にある。カーネル・ステーションを態々通過したのは二つの理由が挙げられる。  ひとつは、直接乗り込んでは『戦争』とみなされ、ヴァリエイブルが圧倒的に不利な状況に立つこと。  二つ目としては、サウスカーネル・ステーション近辺には軍事基地があるから、リリーファーをそこから乗ればよいなどといった軍事的利便が良いということだ。  サウスカーネル・ステーションへ降り立った崇人たちハリー騎士団とケイスは、駅舎を出て北へ向かった。一直線に伸びる道路を進むと、目の前に異様な光景が広がっていた。  それは人がたくさんいる光景。  人数にして一個小隊レベル。  それが一列に並んで、崇人たちを待ち構えていた。 「なんだ、あれは……?」  崇人が怪訝な顔でそちらを見ると、ケイスが一歩前に出て、崇人たちの方を向く。 「あれこそが、僕たち『新たなる夜明け』の面々だ」  崇人たちが『新たなる夜明け』の列に近づいていくと真ん中に立っているひとりの男がこちらに近付いてきた。  黒いウェットスーツに身を包んだ男だった。首元にはボビンのような筒があり、それは隊員全員のウェットスーツについているようだった。男の顔は思ったより若いものだった。 「……お初にお目にかかる。ハリー騎士団の方々、私は『新たなる夜明け』のリーダーである、ヴァルト・ヘーナブルという。以後、お見知りおきを」  ヴァルトは頭を下げて言った。それを聞いて、崇人たちも頭を下げる。 「お……いや、私はヴァリエイブル帝国国王直属騎士団の一つ『ハリー騎士団』騎士団長のタカト・オーノだ」  崇人が仰々しい(初めてのことなので、少々ぎこちなく見える)挨拶を済ませると、ヴァルトは煙管を取り出してそれに火をつけた。 「これから仕事をするパートナーというのもあるし、そういう仰々しいことは無しにしよう……と思うのだが、どうかな?」 「ああ。それはいい」 「心が広いようで、感謝する」  ヴァルトと崇人の短い会話も終わり、崇人を先頭にして彼らは歩き出した。  暫く歩いていくと、リリーファーが既に収められている南カーネル基地へと到着した。サウスカーネル・ステーションから歩いて十分あまり。住宅街の中に突如としてそれは出現した――ただしそれは、如何にも普通にある雑居ビルの形として、だが。  雑居ビルに入ると、カウンターにいる女性が崇人の方へと向かってきた。 「ハリー騎士団の皆様ですね。……えーと、奥の方々は?」 「協力を取り付けた面々だ。仕事をする上でやりやすいと思ったので、今回協力に至った」  左様ですか、と女性は言って崇人にカードを手渡す。 「こちらはカードキーとなります。そちらのエレベータへはそれを使うことで乗り降りが出来ます。では」  そう言って、女性は再び窓口へと戻る。  崇人たちは女性に頭を下げ、エレベータへと向かった。  ◇◇◇  エレベータに乗り込んで、数秒もすれば目的の階へと到着した。扉が開くと、そこには巨大な空間が広がっていた。  リリーファーが格納されていて、既にスタンバイが完了しているようだった。インフィニティにアレス、イエローニュンパイ、アクアブルーニュンパイ、グリーングリーンニュンパイが既に鎮座していた。 「もう出撃は完璧よ」  その光景に目を奪われていた崇人に近づいてきたのはルミナスだった。  ルミナスはリリーファーの方を指差すと、小さく微笑んだ。 「まあ、今回の作戦に必要はないと思うけれど。あくまでも調査……ってのが前提で、うまくいけば話し合いで解決。誰も血を流さないのが一番なのだけれど……まあ、そうもいかないでしょうし」 「いやいや、早速それをいうのもどうかと思うぞ。可能性は最後まで信じてやれよ」 「騎士団長サマがそういうのならば構わないけれど……そんな甘い考えのままでいると痛い目見ると思うわよ?」 「肝に銘じておく」  そう言って崇人は胸で十字架を切る。別に崇人はそういうのに興味はないのだが、そういうのはついついやってしまうものだ。 「そういえば……後ろにいるむさい集団はなによ?」  むさいと言われ、少ししょぼくれてしまう新たなる夜明けの面々。  それを見て、崇人は慌てて答える。 「新しいメンバーだ。誰もリリーファーを扱えることが出来るらしいんだが……何かないかな」 「そう急に言われても何も……」  ルミナスは一瞬考えるが、すぐに何かを思い出したらしく、ポンと手を叩いた。 「そうだ、あったよあった。リリーファーはリリーファーでも、『二人で操縦できるリリーファー』だよ!」  まあ機能性の問題で直ぐに廃止されてしまったんだがね、とルミナスは続ける。 「機能性ってどういうことだ?」 「ほら。二人組で操縦するってことはそれなりに二人の意志が協調されていないといけないわけで。そうなれば例えば双子とかそういうのじゃないと難しいのよ。操縦が」 「なるほど。……双子といってもそう都合のいいのが」  いるわけがない、と崇人が言おうとした、ちょうどその時だった。『新たなる夜明け』の面々からちょうど二本の腕が見えた。  それを見て、崇人はニヤリと微笑んだ。 「案外、居るもんだな」  崇人が呼び出してから、その二人が崇人の目の前に来るまではそう時間はかからなかった。  それは子供だった。そしてこれを双子と言わずになんというか――コピーしたような感じだった。七三を少しボサボサにしたような髪型に、茶髪に、黒いウェットスーツ(尤も、これは新たなる夜明け全員が着用している標準装備であるが)、知らない人間を前にして恥ずかしいのか目をそらす仕草など、殆どが一緒だった。 「……あまりにも似すぎて見分けが付きませんよね……」 「そうだ。見分けがつかない」  ヴァルトは崇人の言葉を聞いて、シニカルに微笑む。 「だからこそ使える人材というわけだ。……ちなみに二人の名前は、」 「エルフィーです」  右手を挙げて、左の子が言う。 「マグラスです。エルフィーとの違いはエルフィーはリボンを付けていますが、僕は付けていません。さらに言うなら僕は男で、彼女は女です」  右の子――マグラスが右手を挙げて言う。  そう言われてみれば、エルフィーはマグラスに比べれば若干痩せている(よく見ないと、もっと言うなら二人が並んで立って見比べないと解らないくらいの誤差だ)し、顔の形もマグラスの方が若干硬ばっている。そして、エルフィーの髪を見ると申し訳無さ程度に淡いピンクのリボンを付けていた。それが違いになるのだろうが、それを知っていないと解らないくらい些細な違いだった。 「……それじゃ、この二人をそのリリーファーの起動従士とするのはどうだろう?」 「いやいやいやいや、それってどうなのよ。いくらリリーファーに乗れるといっても自称じゃない。しかも二人乗りよ? 無理に決まっているじゃないの」 「無理というから無理なんだよ。何でもかんでも先ずは挑戦だ。そうでなきゃ始まんない。ところでルミナス、この名前は?」 「アシュヴィン。とてもかっこいい名前だろう? このリリーファーの壁に刻まれていたよ」  そう言ってルミナスは彼女の後ろにある躯体を指差す。  そこには群青色の躯体があった。足には『Asuvin』と刻まれていた。  よく見ればそれは普通のリリーファーと比べれば異常といえるものだった。  腕が四本あった。人間の仕組みとは異なる、異形。  崇人はそれを見て直ぐに浮かんだのは、阿修羅だ。  阿修羅は古代ペルシアの聖典『アヴェスター』に出る最高神アフラマズダであると言われている、カミサマのことだ。実際には三面六臂であるのだが、彼はそこまで詳しいことは理解していない。  ともかく、彼はそれを見て、 「まるで阿修羅だ……」  気がつかないうちに彼の口からそれが出てしまっていたが、それは誰にも聞こえることはなかった。 「しかし……これはどう操縦すりゃいいわけなんだ? 流石に難しいだろう。二人で操縦にもなれば」 「そいつは操縦席を見てもらえれば解るんだけれど。あまりにも滑稽で難解なものよ」  ルミナスはそう言って、崇人と双子を呼んだ。  それに従って、三人はルミナスについていくこととした。  ◇◇◇  マグラス、エルフィー、崇人の順で彼らはコックピットに入った。  コックピットはインフィニティやペスパに比べるととてもコンパクトなものだった。  そして特徴的なのは、目の前にある大きなキーボードにウィンドウ。パソコンがコックピットに設置されていた。 「パソコンが……どうしてここにあるんだ?」 「恐らくは複雑な命令をリリーファーに向けるとき、結局その分の選択肢を与えたりリリーファーコントローラーを用いたりするんだろうけれど、それじゃ体感的な命令が与えられないらしいんだよ。そして、これならば体感的な命令が与えられる。無限の組み合わせが可能となるわけだ」  ルミナスはそう言って、画面を指差す。 「出した命令はこちらに出力される。そして、そのまま出るわけだ。なお、ここにあるボタンを押さないと『入力完了』にはならないし、出力もされないから気をつけてね」 「二人で同時に命令を送るのか?」  崇人の問に、ルミナスは首を振る。 「そういうわけではないね。例えば、こちらは『ファーストコックピット』と呼ばれていて、もう一つあるのが『セカンドコックピット』なんだけれど、ファーストから半分命令を送って、セカンドでもう半分送ることで命令が成立したり、その逆もあるし、ファーストとセカンドが命令を送るのが何回か繰り返されるのもある。理由としては、簡単。命令が複雑になると、その分打ち込むコマンドの量も増える。一人で打つにはあまりにも多いほどに、ね。だからこそ、これを適用したんじゃないかな。しかし……もしかしたらもうラトロはこの改良版を出している可能性もあるね。なぜなら、こんなふうに気が通った二人を教育していくのはそう簡単なことじゃないから」 「なるほど」  ルミナスの言葉に、崇人は小さく頷く。  そして、視線は自然と輝いた視線をコックピットに送る二人へと向けられる。 「やってみるか?」  それは、あくまでも優しい口調で。  それは、あくまでも期待半分で。  二人は、そんな崇人の思惑を知ってか知らずか大きく頷いた。  ファーストコックピットにエルフィー、セカンドコックピットにマグラスが座り、ついに『アシュヴィン』の駆動が開始される。起動従士はいても、息の合った起動従士が二人とは今まで居なかったために、これが初めての駆動となる。一応、何が起きてもいいように救護班や整備リーダーがそばにいた。  ファーストコックピット内部、エルフィー。 『エルフィー、大丈夫?』 「ええ、大丈夫よ」  マグラスの声が聞こえて、彼女は大きく頷く。 『それじゃ、そっちでコードを入力して』 「りょーかいっと」  短く返答して、エルフィーはルミナスから言われたとおりにキーボードに打ち込んでいく。打ち込んだあとは、直ぐにエンターキーをおした。  するとキーボードが淡い緑に光り、画面に『SECOND KEYBOARD INPUT NOW』との表示が出る。この表示のあいだはセカンドコックピットにてコードが入力されていることを意味している。  淡い光が消えたのは、それから直ぐのことだった。直ぐに二人は入力完了ボタンを押す。  すると、アシュヴィンがゆっくりと駆動した。初めての駆動は、何事もなく成功したのである――。  とはいえ、まだまだ課題もたくさんあった。  アシュヴィンの効率の悪さである。  アシュヴィンは二人が揃って完了ボタンを押さないとコードが出力されない。非常に手間のかかるリリーファーであったのだ。  だからとはいえ、これを使わない手はない。  すぐさま、ハリー騎士団はこれの改良に取り掛かった。  とはいえ、そんなことが簡単にできるのかといえばそうでもない。  なぜなら、これ自体が現時点でカーネル以外に出回っていない、割と最新型のリリーファーだからだ。  だから先ずは、アシュヴィンは抜きとして、起動従士だけでカーネルに偵察へ向かうこととした。 「そうだけれど、どうやってカーネルに潜入するんだ? 入るにも門は封鎖されている……実質鎖国状態にあるんだろ?」  崇人が訊ねると、マーズは棚の上に置かれていた紙を取った。 「そんなこと、考えていないわけがないでしょう。ちゃんと抜け穴くらい考えているよ」  マーズが取った紙は地図のようだった。  地図はサウスカーネル・ステーション近辺のもので、よく見ると北方に赤いバッテンがついていた。 「ここには地下道がある。古くは地下鉄を走らせてたんだけれど……今は使われていない。そして封鎖もされていないそうよ。場所はカーネル内部に走っている地下鉄のどっかにつながっているらしいし……これを使う手はないってわけ」  それって罠じゃないのだろうか――崇人はそんなことを考えたが、既にマーズがそう決めていたのならば彼女を信じる他ないと考え、崇人は頷き、ハリー騎士団と新たなる夜明けはそこを通ってカーネルへ潜入することとした。  サウスカーネル・ステーション北方にある基地――正式名称は南カーネル基地だ――から歩いて数分もしないうちに地下トンネルがある山へと到着した。サウスカーネル・ステーションから歩いた大通りは、古くは鉄道が走っていたらしく、廃線となった今はその土地を有効活用して道路としたらしい。  ベルグリシ山と名付けられているその山は、決して高い山ではない。しかし、鉱脈が埋まっているためか方位磁針がうまく機能せず、結果として迷子となる人間が続出する、場所だ。  ベルグリシ山、ビヴロストトンネル。  その入口は高い塀に覆われているが、よく見ると上部はまだ穴が開いていた。完全に封鎖まではしていないようである。 「とりあえずあそこから入るか……」  トンネルの入口前に立ち尽くすハリー騎士団は、崇人の呟きを聞いてまた落胆する。 「騎士団長がそんな気楽でどうするんですか。もう少々やる気ってもんを持ってくれよ」  マーズが崇人に言う。 「まあ、追々そういうのも身につくだろうよ。それに今はそれを言う時間でもないだろ?」 「……うーん、それもそうね」  マーズは納得したようだ。果たして納得したのか? と崇人はまだ納得していなかったが、これはこれで割り切らなくてはならない。  さて――崇人が何とかこの壁を抜ける作戦を考えようとしたその時だった。エルフィーが手を挙げた。 「どうした、エルフィー?」  エルフィーは咳払いを一つして塀を触る。  エルフィーはぺたぺたと塀を触って、時偶「うん、この素材だったら……」とか呟いていた。  一分ほど調べていると、エルフィーは元に戻り、崇人の前に立つ。 「これならば、爆発魔法を使えばいいと思います。私は、小規模の爆発魔法を使うことを進言致します」 「小規模でも爆発魔法を使っては山肌が崩れ、いや、もしかしたら山の内部にトンネルを通って爆音が伝わりカーネル側に知れ渡ることは考えられないか? あくまでも隠密に侵入せねばならないんだぞ」 「大丈夫です」  エルフィーが胸を張って言ったが、どうしてここまで自信満々なのか崇人には解らなかった。  崇人は他に考えられないかと頭をフル回転させるが――それよりも早く、エルフィーが塀に何かを描き始めた。 「何を――!」  崇人が注意しようと声を張り上げたが、もう遅かった。  地響きが鳴った。  山を崩し、大地を唸らせる地響きだ。  数瞬も経たないうちに塀が破壊され、トンネルが姿を現した。 「おいおい、いくらなんでもこれはバレるんじゃないか……?」  崇人が頭を抱える素振りを見せ、マーズはグーサインをして何とか落ち着かせたが、それでも彼らの中にある一抹の不安が消えることはなかった。  トンネルは暗く、広々としていた。閉鎖されてからは何も手をつけていないためか、まだ地面には線路が残っている。 「暗いな」  そう言ってヴァルトは続いて、小さく何かをつぶやいた。  すると手に持っていた枯れ枝の先端に炎が点いた。どうやら火炎魔法を放ったようだった。  火炎魔法は種類がある。その分類は範囲とその威力によって分けられている。今ヴァルトが放ったのはその中でも一番小さい部類である『ファイア』だろう。それは詠唱のみで発動出来るリスクの少ない魔法の一つである。  詠唱が完了し、続々と持っている枯れ枝に炎が点けられる。ものの数分もしないうちに崇人、マーズ、ヴァルトの三名が光源となって、ハリー騎士団と新たなる夜明けを照らした。 「俺が|殿(しんがり)を勤めよう。騎士団長殿は安心して進んでくれ」  そう言ってヴァルトは後方に退いていく。その言葉に素直に従って、崇人はトンネルの暗闇を一歩一歩と歩き、照らしていく。  ◇◇◇  その頃。  機械都市カーネル、中心部にある高い塔を取り囲むように建てられた円形の建物がある。古くからある高い塔を取り囲む建物はコンクリートで出来ていて、まだ出来てから時が浅いようだった。  カーネル起動従士訓練学校。  建物はそう呼ばれていた。  建物にある一階廊下、ひとりの男が歩いていた。  法務衣を着ているのは、白髪の男だった。  ひとりの男の隣には、少女が歩いていた。  少女はずっとスマートフォンの画面に指をすべらせ、何かを調べているようでもあった。 「どうかしたかね、エレン」 「なんか風が騒がしいなあって」  風? と男は空を見上げる。外は今風一つない凪の状態だった。 「風なぞ吹いていないぞ?」 「風は吹いている。騒々しい風が聞こえないの?」  彼女にしか聞こえないものなのか――男はため息をついて歩を進める。  エレン・トルスティソンはこのカーネル起動従士訓練学校を卒業した数少ない起動従士の一人だ。  カーネルが鎖国を始めたのは、これが理由でもある。  自分の場所で持つ起動従士が育ったから。  その集大成とも言えるのが、彼女と、彼女の愛機『ムラサメ00』だ。  ムラサメ00は今までのリリーファーとは大きく異なる次世代のリリーファーだ。到底、前世代のリリーファーと戦っても、ムラサメ00に勝つことは出来ないだろう。  しかし、カーネルにも不安があった。  最強のリリーファー、インフィニティ。  それだけが、カーネルにとって唯一の不安要素だった。  ムラサメ00を作ったラトロ――リリーファー応用技術研究機構の研究員達でさえ、インフィニティはオーバーテクノロジーであると考えている。ラトロの力があったとしても、インフィニティ級のリリーファーを作ることはそう簡単ではない。しかも、インフィニティを作ったのは、ただ一人であった。そんなことは断じて有り得ない。  そんなことがあってはならない。  この世界では、過去においても未来においても、勿論この現代においてもラトロがリリーファー開発では一番でなくてはならない。  だからこそ、インフィニティは邪魔だった。そんなものがあってはならなかった。 「エレン」  男が言うと、エレンはそちらを向いた。 「もうすぐ、大きな戦いが始まるだろう。だが、それは君一人が戦うわけではない。この学校に居る皆と戦うこととなるのだ。……怖いかもしれない。逃げ出したくなるかもしれない。だが、それだとしても、この街のために、戦ってくれるか?」  エレンは男の言葉に、頷いた。  そうだ。それでよかった。  ムラサメシリーズは、ムラサメ00を筆頭として二十機存在する。  それらは凡て、起動従士込みで開発されたものだ。つまりムラサメシリーズの起動従士たちは、それに乗ることを前提として教育されてきたということになる。  リリーファー同士の戦争。  それがこの世界では、至極普通に行われている戦争のスタイルだった。  リリーファーは戦うためのモノなのだろうか――かつてそんなことを提起した学者が居た。  だが、今ならば、そんなことを議論する暇すら与えられないはずだった。  リリーファーは僅か二百年(現世代においては十五年)でここまで進化を遂げていた。軍事利用され、戦争へ利用され、人が死に、ラトロはただそれを開発していく。  それは果たして、正しいことと言えるのだろうか?  ラトロは、そんなことを考え始めていた。  だが、世の流れにはそう簡単に逆らうことなど出来ない。  しかし、彼らは大きな賭けに出た。  彼らが思い描いた、疑問の答えを聞きたいがために。  この世界を――あわよくば、この世界のシステムを変えてしまおうとも考えていた。  しかしそれは各国からすれば非常に旨みが少なくなる。そんなことはあってはならないのだ。もはや、戦争によって経済が回っているといってもいいほどこの世界は戦争に依存していたのだった。  戦争に依存している世界ということは、リリーファーに依存していると同義だ。リリーファーに依存している世界が、簡単にリリーファーを手放すことはない。  だから、これは、自分たちの存在意義をも問うものとなる。  それをラトロは理解していた。だから、今回のことをするに至った。 「……大人の我侭に子供を付き合わさせるのは、本当に心苦しい。だが、リリーファーに乗ることが出来るのは限られている。素質がなければ乗ることが出来ないんだ。それは知っているね?」  男の言葉に、エレンは頷く。知っているのか知らないのかは解らないが、彼女の目はまっすぐ男を見ていた。それを見るとさらに男は心苦しくなる。 「私たちは、どうしてもリリーファーで戦争をしなくてはならない。それが世界のシステムと成り果てているからだ。だが、それはいつかは終わりを見せなくてはならない。こんな世界があってはならないんだ」 「戦争で、私たちが戦うのが辛い、と?」 「そうだ」 「だが、そうだとまた別の手段で戦争を行うこととなる。戦争は決して無くならない」 「そうだ。リリーファーでの戦争がなくなったとしても、人間は別の手段で戦争をはじめるだろう。魔法でも、武術でも。人間はそういう生き物だから」  だから、と男は続ける。 「これは私たち自身の戦いでもあるんだ」  それは、エゴであったことは、男も理解していた。  きっとエレンも理解しているかもしれない――エレンは頭がいいから――男はそんなことを思ったが、それを顔に出さず、話を続ける。 「私たちは本当にこれをして良かったのか、行動の正当性を試すための……戦いなんだよ」 「だから、私たちは戦う」  エレンはそう言って、胸に手を当てる。  男はそれに頷くことしか出来なかった。  カーネルへと向かうためハリー騎士団はトンネルをひたすら進んでいた。  トンネルは思ったよりも深く、歩いていくうちに酸素が少なくなっていくのを彼らは身をもって感じていた。 「トンネルはやはり地下鉄とかそういうもののためだったんだろうが……にしても整備されていないんだな」 「整備されていないというか、このトンネルが閉鎖されて久しいんだろ。それでこうなっているんだ」  なるほど、と崇人はヴィエンスの言葉に頷く。  ハリー騎士団の中程に歩いているマーズは、何かを思い出したのか一団から離れ、壁際へと向かった。  マーズは壁を見て、触る。何かを確認しているようだった。 「……どうした?」 「どうやらもうカーネルに入っているようだね」  崇人が訊ねると、マーズは振り返った。 「なんで解るんだ?」 「カーネルってのは石灰岩で出来た土地の上にある街でね。山肌が普通の土だったが、ここまでくるともう石灰岩にまでなっている。これが意味するのは……というわけだ」 「カーネルに突入した、と」  その理論が正しいのかどうかは崇人には解らなかったが、一先ずマーズのことを信じてみることとした。  進もうとしたハリー騎士団の殿を務めているヴァルトが立ち止まったままでいるのを、崇人は見つけたのはちょうどその時だった。 「どうした?」  崇人の問いに、手で制す。  どうやら耳を澄ませているようだった。 「聞こえる」 「聞こえる?」  崇人はヴァルトの言った言葉を反芻させたが、それでも直ぐには理解できなかった。 「音だよ。こっちの方に向かってくる……ごうん、ごうんと」  音? 崇人は首を捻ったが、直ぐに彼の耳にも音が聞こえてきた。それは至極懐かしい音だった。 「なんだか聞いたことがあるような……」  崇人がそうつぶやいた、その時だった。  目の前に、電車が通り過ぎた。  驚く程に、目の前に。  ここは機械都市カーネルを一周する地下鉄『ケーニヒスベルク・ライン』の線路だった。 「こんな簡単に着いてしまうとは思わなかったな……」  崇人が呟くと、マーズが左右を見渡す。 「行こう」  そうして彼らは地下トンネルを突き進んでいく。  ◇◇◇  その頃。  機械都市カーネルの中心部にあるラトロという施設では、ひとりの科学者がコンピュータと対面していた。 「……あー、侵入しちゃってますねー。ハリー騎士団? ああ、この前出来たばっかの騎士団ね。うんうん、強いのかねー」  コンピュータに目線をおいたまま、科学者は独りごちる。その間も手を止めてはいない。 「マキナさん、まだ忙しいのでしょうか?」  マキナと呼ばれた科学者は、それを聞いて漸く目線をコンピュータから離した。  そこに居たのは、凡てを黒で統一した人間――そもそもあれは人間と呼べるのか解らなかった――がいた。 「やあやあ、どうしたんですか。あなた様がわざわざ来なくてもお呼びになれば私から出向くといいますのに」  マキナが立ち上がり、黒い人間のもとへ向かう。黒い人間はそれを聞いて、ローブを取り払った。  その中にいたのは銀髪の少女だった。白のドレスを着て、赤い目はどこか高圧的な視線を送っている。 「……怒ってます?」 「怒っていると思っているなら、怒っているんじゃないんですか?」 「ああ、怒っていますね」  マキナは銀髪の少女の頭を撫でる。少女は最初こそ嫌がっていたが、直ぐに嬉しそうな恍惚とした表情を浮かべている。 「ところで」  少女は、話をはじめる。 「ムラサメの強化計画はどうなりました?」 「ムラサメですか? あれならば……まだまだ段階としては難しいですが、それでも進行していますよ。もう少しで高みに立てるはず……。そう、あの『インフィニティ』のように……」 「インフィニティはその高度な技術というのと時代という越えられない壁があったため量産が叶わなかったそうですが、このムラサメならば……それが可能となった」  少女とマキナは互いに話をする。 「世界最高の頭脳を持った科学者を超えた……その今の気持ちは?」 「最高ですよ、まったくもって」  マキナはそう言ってニヒルな笑いを浮かべる。  少女はそれを見て踵を返す。 「だからといって、それで慢心してはいけないの。解る?」 「存じ上げています」 「よろしい。ムラサメ改良を進めてください」  そして会話が終了した。  ◇◇◇  カーネルの外れにあるスラム街。  その一つのマンホール。  それがゆっくりと『内側から』力を受けて浮かび上がった。 「ふ、ふう……」  そこから出てきたのはハリー騎士団だった。 「何とか、潜入できたか……?」 「何とかといった感じね」  崇人とマーズが言葉を交わし、辺りを見渡す。辺りには荒屋や家の形をなしていないもの、走っている子供たちは皆服装がボロボロ、泣いている子供もいるし、裸の子供も珍しくない。  だから、そんな場所にとって、崇人たちは謂わば『異端』のような存在だった。 「……これが、世界最高の科学技術を誇る都市なのか……?」  ヴァルトは思わず言葉を漏らした。それを聞いたマーズが呟く。 「そうだよ。……たとえどんな技術を持ったとしても、それを一定に広い都市全部に撒き散らすことなんて出来るわけがない。必ずこんなふうにしわ寄せを喰らう街がある。場所がある。それがここだったまでだ」 「しわ寄せを……まるで私たちの聖地ティパモールのように……!」  ヴァルトは涙目になっていた。この情景に、彼らの生まれた地を重ねたからだろう。 「……泣いている暇はない。私たちはこれからこのカーネルを調査せねばならないのだからな」  マーズのその言葉に、ヴァルトは涙を拭う。 「ああ。そうだった」  そして、彼らは改めてスラム街を見ようとした。 「あれ、どうしたのお姉ちゃん達、そんな綺麗な格好で?」  不意に声がかけられ、マーズたちは振り返る。  そこに立っていたのはひとりの少年だった。  茶髪で、黒いぶかぶかのトレーナーを着る少年。帽子をかぶっているが、サイズが合わないのか髪の量が多いからか今にも落ちそうだ。 「……君は?」 「俺はウル。このスラム街『フェムト』で暮らしているよ」 「家族は?」 「いない。俺だけだ」 「なんと。君だけと申すか」 「そうだ。俺だけだ」 「悲しくはないか?」  ヴァルトがしゃがんで、ちょうど顔をウルの顔と同じ位置くらいにまで低くした。 「悲しくなんてないよ。そういうの暇がない。だって、この街は毎日が戦争だ。生きるための、ね。それに負ければ当然死ぬ。弱肉強食の世界、ってやつだ」  ウルは、彼らが思っている以上に至極強い少年だった。 「……ところでさ、どうしたの?」 「ちょっと用事があってね」 「マンホールから侵入するほど重大な?」 「いくらで手を打とうか」  早速崇人はお金の計算をし始める。余談だが、ハリー騎士団はそれほどお金は所持してしない。 「いいや。別にいいよ。黙っておくよ。だって、今のカーネルはひどいから」 「ひどい?」  崇人がその言葉をリフレインする。 「そうだ。ひどいんだ。だって俺の兄ちゃんは、カーネルに……ラトロに……リリーファーに殺されたようなもんだから」 「……何があったのか、出来れば話してくれるかな?」  その、マーズの優しい言葉にウルは小さく頷いた。  そして、彼は語りだす。  一年前の――彼にとって悲しい悲しい出来事を。  一年前。  カーネル起動従士訓練学校、起動従士クラス二年の教室。  ダレンという青年はこのクラスでトップの成績を誇っていた。彼はこの街のスラム出身だったが、それを蔑む者などいない。それはこの学校が超然とした実力主義だからだろう。 「おぉ、ダレン」  廊下を歩いていた彼は眼鏡をかけた先生に声をかけられた。 「どうしました、先生」 「実は君に、ある実験に付き合ってもらいたいとラトロからのお達しがあってね……。なに、ここで立ち話する内容でもないから、先生の教員室で話そう。これから授業は?」 「数学の授業が入っていますが、問題ありません」 「……解った。しかし今は授業よりも優先すべきことだ。数学の先生には私から言っておこう。少なくとも欠課時数がつくことはあるまい」  先生はそう言って眼鏡をずり上げる。そうしてダレンと先生は先生の教員室へと向かった。  先生――ルフリート・エンジャンクラーの教員室は学校の管理事務施設が一堂に存在する西エリアの二階、その一番奥にある。  ルフリート、ダレンの順で彼らは部屋に入り、ソファに腰掛ける。ダレンが出口側の席、ルフリートがダレンの正面の席に座っている。 「……さて、取り敢えず単刀直入に言おう」  ルフリートが出した紅茶を、許可を得て一口飲んだダレンに、ルフリートが言った。 「ラトロを、君はどれくらい知っているかい?」 「ラトロ……リリーファー応用技術研究機構のことですよね。世界にある民有リリーファーの凡てを設計・開発し、販売している」 「それが解れば大体いいだろう。……ラトロからのお達しというのは、ある実験に参加して欲しいということだ。そして、その実験というのがね、『新型リリーファーのシミュレート実験』だ」 「新型?」 「言うなら、第五世代だね。ペイパスの『ヘスティア』は第三世代、『エレザード』は第四世代だ。ヴァリエイブルの『アレス』は第二世代からさらに|拡張(エクステンション)したものだから、実際はどの世代に位置するのかは怪しいところだけれど」 「その、第五世代に乗ることが出来る、と?」  思わずダレンは唾を飲み込む。緊張しているのも無理はない。なにせ彼が言う第五世代とは今よりも一歩進んだ世代となる。『エレザード』ですらつい半年前に出来たばかりなのだが、研究者の追求とは基本とどまるところを知らないものだ。 「……第五世代、その名も『プロジェクト・ムラサメ』だ」 「ムラサメ?」 「なんでも古くに伝わる剣の名前らしいが……詳しくは私にも知り得ない。ともかく、この名前であることは決定事項だし、君や私がどうこう言おうともそんなことは関係のない話だよ」  ルフリートはそう言って、紅茶を一口啜る。  そして立ち上がり、机の上に置かれた資料をダレンへと差し出す。  そこにはこう書かれていた。――『第五世代リリーファー駆動実験について』と。  それを見て、益々ダレンは胸を躍らせた。何しろ今まで誰も乗ったことがないであろう最新世代のリリーファーに、自分が実験台になるとは言え、乗ることができるということが、どれほど素晴らしいことか、どれほど栄誉なことか、彼は知っていた。  だからこそ。 「……やります。やらせてください」  彼は即決した。  そのあと、何が起こるのかも知りもせずに。  ◇◇◇ 「……それが、俺の兄ちゃんだ」  そこまでがウルの独白だった。  そこまでが、ウルの悲しい記憶だった。 「辛かったな」  ヴァルトのその一言に、ウルの目は泣きそうになっていたが、直ぐに涙を堪え、 「何。一人で平気さ。殺された、とは言ったけれど帰ってこないだけだ。だから、もしかしたら、生きているかもしれないし……」 「甘えてもいいだろうよ」  次に言ったのは崇人だった。 「お前は子供だ。そして俺も子供だ。泣きたい時は泣けばいい。笑いたい時は笑えばいい。感情なんて溜め込まないで、さっさと吐き出しちまえばいい。それが人間の別段自然なことだろ。自然に感情を出して、何が悪いんだ」 「……何がわかる」 「ああ、解らねえよ。けれど、ぐずぐずしている、お前も解らねえよ。本当に気にしていないなら、どうしてお前は俺たちに話したりしたんだ? もしかしたら助けてくれるかも……とかそんなことを考えたんじゃないのか?」 「そんなことは」 「考えていない、というのか?」  崇人の言葉に、ウルは唇を噛むだけだった。 「……なあ、甘えてもいいんだぜ? 何も世界がお前一人で回っているわけじゃないんだ。たまには、甘えてもいいと思うんだよ。な?」 「まあ、別に『必ず甘えろ』というわけでもないんだが……」  ヴァルトはポケットからタバコを取り出して、咥える。 「とりあえずお前の兄さんは探しておくよ。……君はここで平和に暮らしておくんだ。ここならば安全だから」  そう言って、彼らはゆっくりとスラム街を後にした。  ウルはそれをただ見ることしかできなかった。  スラム街を出て。 「……なあ、本当に良かったのか?」  崇人はヴァルトに訊ねる。 「ん? ああ、あの子の事かい? 自分で何とかする……とか思わせぶりな人間にとって一番困るんだよ。何をしでかすか解ったもんじゃない。だからこそ、こちらで何とかすると言ったまでだ。ああ、あくまでも騙したつもりはないさ。もし出来たら、というだけ」 「騙しているじゃないか」 「そもそも誰かにやってもらうのを待っていたのなら、自分でやる人間も居ないさ。こっちでしてあげてもいいけど、それが成功する保証はしないよ、というだけ」  ヴァルトの言葉は正論ではあった。  だが、崇人としては少しだけ彼を騙した気分になってしまうのだった。 「一先ず、これからどうする? 通信でもとって確認するのか?」  崇人が訊ねると、マーズが小さく微笑む。 「大丈夫よ。ある場所を知っている。そこへ行かなくてはいけないのよ」 「そこを基地とする感じなのか?」 「ん? ああ、間違ってはいないわ。けれど、基地というか協力者という感じの方が近いわね。ニュアンスの問題よ」 「そうなのか」 「そうよ」  マーズと崇人はそう会話を交わし、一先ずマーズのいうその場所へ向かうこととした。  ――したのだが。 「ところで、そこまでの交通手段は?」 「地下鉄?」 「徒歩とかだと見つかるリスクが高いのかな?」 「いや、どのみちすぐ見つかる。だったら地下鉄を使って……」 「あの」  そんなハリー騎士団の会話に割り入る誰かがいた。  その声のする方へ彼らが目線を移動させると、そこにはウルがいた。 「ウル、ここまで来ていたのか」 「あのさ。兄ちゃんが昔使っていた車があるんだけど」 「車? それはどれくらいの大きさなの?」 「結構人数は入るだろうけれど、それでも八人くらいだと思う」  ウルの言葉を聞いて、崇人は脳内でメンバーを構成していく。 「それじゃ、俺とマーズ、ヴィエンスにエスティ、そしてエルフィーとマグラス、これで六人だな」 「運転は俺がしよう」  ヴァルトが言った。 「それじゃ、任せる」 「あの」  ウルが呟いた言葉を、崇人は聞き逃さなかった。 「どうした?」 「俺も……連れて行ってくれ! 邪魔になったら置いていってもいい! ただ……兄ちゃんがどうなったのかだけが気になるんだ!!」 「危険な場所だ」 「解っている」 「死ぬかもしれない」 「百も承知だ」  崇人の言葉に対しても、ウルは視線を崇人から離すことはなかった。  崇人は小さくため息をついた。 「……解った。お前が最後のメンバーだ。残りはこのスラム街で待機してくれ」  それを聞いて残りのメンバーは敬礼した。  ウルは、何度も何度も頷いていた。 「いいの?」  マーズが訊ねると、崇人は肩をすくめる。 「しょうがないさ。あんな熱い視線を送られちゃあ」  そして、崇人たちはその車がある場所へと向かった。  スラム街の一つのバラックに、それはあった。  ビッグサイズの4WD車だ。前は綺麗な赤色だったのだろうが、土埃をきちんと落としていない(もしくはわざと落とさなかった)ためか色は赤茶色になっていた。  そういえば崇人はこういう車を元の世界でも見たことがあったように思えたが、しかし今はそれを考えている時間などない。  運転はヴァルトに任せ、崇人は助手席に乗り込む。マーズ、エスティ、ヴィエンスが真ん中、後ろの方にエルフィー、マグラス、ウルが乗り込んだのを確認して、漸く車が発進する。 「しかしまあ……この車は、よく動くな。エンジンが至極調子いいぞ」  運転席に座るヴァルトはそう言って、鼻歌を歌い始めた。崇人は頷いて、窓から外を眺めた。  外は、直ぐにスラム街から離れ、徐々に町並みが広がっていく。  町並みはスラム街と比べれば恐ろしい程違っている。高層ビルが立ち並び、道路には針葉樹が等間隔で植えられている。街を歩く人たちはどれも高級そうな服に身を包んでおり、この都市の格差がひと目で理解できる。 「酷いな」  ぽつり呟くと、ヴァルトがそちらに目をやる。 「なんだ。今更気がついたのか。ここの酷さに」 「……逆に、気がついていたというのか?」 「当たり前だ。何もこの街凡てが平等的に豊かさを共有しているなんてそんなことは有り得ない。それこそ資本主義から反する。君も勉強を本分としている学生ならば、それくらいは理解していて当然の事であると思うのだがね」 「知っているさ。ああ、勿論知っているよ。人間は幾何級数的に増加するが、食物は算術級数的にしか増加し得ない。まあ、つまり極論をいえば、人間は生活の最低基準の食物しか得ない部分までも増え続けてしまうことを意味している、学説のことだったかな」 「それくらいを知っているなら、君は私の言葉を充分に理解していると、考えていいかな?」 「まあ、いいだろうな。間違えてはいないだろう」  崇人がそう言って鼻を鳴らす。ヴァルトは目の前にある高い尖塔を指差した。 「あれが見えるかい?」 「ああ」 「あれはこのカーネルを統べている『ラトロ』の中心管理施設だよ。名前はユグドラシルタワー。なんでも世界を分けた樹の名前をいうらしいが……まあ、ああいう高い塔を建てて権力の象徴とすることはよくあることだが、それでも悪趣味であることは、誰がどう見ても百発百中であるよね」  ヴァルトはそう言って、ポケットから何かを取り出した。 「手、出して」  その言葉の通り、崇人は両手を出した。それを見て、ヴァルトは崇人の手に何かを落とす。  それは、紙を折りたたんだ何かだった。  それを見て崇人は、その紙を開いていく。 「これは……?」  崇人はそこに書かれている中身を見て、すぐにはっきりとした反応を示すことは出来なかった。  崇人の反応を見て、後部座席に居たエスティがそれを取る。  エスティがそれを見て――目を疑った。 「ヴァルト……さん、これって……」 「リリーファーがこの世界で開発されている、凡てをラトロで行っている。では、そのラトロが……もし、開発を中止し、独立するなんて事態に発展したとするなら、それは世界そのものを壊しかねないだろうね」 「ラトロの目的は……そういうことだと、いうのか……!」 「そうだ。そしてそれで困るのは今の時代、それで恩恵を受けている人たちだ。この『新たなる夜明け』のような組織だってそうだ。私たちは表では傭兵派遣サービスを行っているからね。それが貴重な財源ともなっているわけだ。……それはさておき、戦争がなくなる事はないにしろ、急にリリーファーでの戦争が出来なくなれば困る人間は得する人間の比じゃないということだ」 「なのに、彼らはそれを実行しようとしている?」 「ああ。大方、自分たちが時代の革新者にでもなろうと思っているのかもしれないな。そんなことをしたとしても、時代は勝手に変わってくのに、だ。この時代だってそうだぞ? 例えば野菜が今こそは豊富にあるが、これが暫く続けば野菜が無くなってしまうかもしれない。そうなったら、野菜に代わる新たなものを作るか、見つけねばならない。……それがそう簡単には出来ないだろう? つまりはそういうことだよ、彼らは『賭け』に出ている。『世界を変えることができる』という方に、ね」 「世界を変える、ねえ……。なんとも陳腐な考え方だとは思うけれど」  崇人はまだ、顔を外の方に向けたままだった。  マーズが小さく顔を顰めて、カバンから何かを取り出した。 「あっ、それって」 「腹が減っては戦は出来ないからな。レーションは常に持っている。だが、このレーションがまったくもって、不味い。一言で言うならば、不味い。どれくらい不味いかっていうと……まったく味の比較が出来ない。そうだな、消しゴムを食っているような感覚だ」 「食べる気失せるわ!」 「ああ、タカト。だが、心配しないでくれ。仮にも私はリリーファー起動従士だ。それなりのレーションをもらっているし食べている。別にグルメな舌ではないが、それなりに舌鼓を打てるようなレーションだよ」 「例えば?」  崇人の問いに答える代わりに、マーズはカバンから取り出した缶詰を開く。  そこに入っていたのはチョコレート味のパンだった。 「へえ……今ってレーションにパンとか使うのか」  崇人はそれを見て、呟く。 「美味いぞ。食うかい?」 「頂こうかな」  そう言って、缶詰から取り出したパンを少し千切る。  崇人はそれを頬張って、腰に携えている水を一口飲んだ。 「ふむ、なかなかチョコレートの味が広がっていて、うまい」 「だろう? 軍用食料も馬鹿に出来まい。何れは君たちもこれを数日分持ち歩くことになるんだ。初めに食べておいて、味を確認しておいたほうがいいだろうよ」  ふうん、と崇人は鼻歌を歌いながら、また景色を見始める。エスティはもう一口マーズからチョコレートパンを千切り、微笑みながら頬張った。  暫く車を走らせていると、市街地を出た。  市街地を抜けると、荒野が広がっていた。川はあるのだが、どこか澱んでいる。場所によっては銀色や鈍色など、とても水が綺麗なものとは思えない色ばかりが流れていた。 「なんだよここは……」  崇人が言葉を漏らした。 「人々は最高の利便を追求した。結果としてこのような事態に陥る。ただし先程の市街地……『中枢都市』ではそのような被害は見られない。強いて言うならば、そんな被害が見られるのはその中心よりは離れた場所……『外郷』だよ。その場所では、経済が不完全である。不完全競争市場となっているわけだ。いや……寧ろ競争をしているのだろうか。市場という形態を為しているのかが怪しいところだ。ともかく、この街の工場を持つ会社は、そういう汚水を綺麗にしたりとか、そういうのを怠っている。だから、とことん切り詰められる。当たり前だ。そういう、事後処理ってのは一番お金がかかるからね。だが、そういうのを無視して、進めていくわけだ。するとどうなるだろう? 『中枢都市』と『外郷』の状況はますます隔たりが生じてしまう。まるで、別の国みたいに」 「それがこの都市の現状だ、ということか……!」 「そういうこったな。……おっ、見えてきたな。あそこか?」  ヴァルトはマーズに訊ねる。マーズはそれを見て、小さく頷いた。  よく見ればそこは少し変わった場所だった。  バラックであることにはかわりないのだが、そこから突出した要素が幾つか存在する。  例えば、大きなパラボラアンテナ。  例えば、地平線まで伸びているのかと思わせる白線。  そのどれもが、変わっていた。 「……なんだよ、ここ。寧ろ隠れ家にしちゃ、無理な場所じゃないか」  崇人は嘯くが、そんな不安をよそに車はバラックの隣に停車した。  家の玄関にマーズ達が立ち、先頭に立っていたマーズが扉をノックする。ノックには反応がなかったが、マーズは崇人に向かって小さく微笑むと、ドアノブを捻った。  呆気ないほどに扉は開かれた。この扉には鍵がついていないのだろうか。  家の中は恐ろしくシンプルなリビングだった。ダイニングテーブルに、四脚の椅子、何だか解らないがないとしっくりこない独特の存在感を放っている風景画に、小さいながらもテレビまでついている。 「ここは、いったいなんだ?」  訊ねたのはヴァルトだった。別に彼以外誰も疑問を抱かなかったというわけでもなく、いつ誰がその質問をしてもおかしくないほどに、その部屋は変わっていた。生活感はあるのに、誰も居ない。まるで、急にここに住んでいた人が消えてしまったような……そんな感じだ。 「おっかしぃなぁ。ちゃんとここに行くよとは事前に連絡しておいたのに」  マーズが呟きながら、部屋を歩き始める。ただ、崇人達はその様子をずっと眺めていたのだが――。  ――不意に、マーズがある場所で立ち止まった。  そこには、小さな本棚があった。本棚には神話の本や、雑学の本、物理の本などジャンルが様々な本が雑然として並べられていた。 「……これね」  その中にある一冊の本を取り出す。  すると、ゆっくりとその本棚が横にスライドし始めた。 「これって……隠し扉?」 「まったく、厄介なことばかり作っている人ね……。だからこそ『天才』だなんて呼ばれるんだろうけれど」  マーズはそんなことを嘯きながら、スライドしていく本棚をただただ眺めている。  本棚がスライドを終えると、そこには小さな扉があった。隠し扉というやつだろう。しかし、実際に言われないと解らないほどの難易度である。それを考えると、ここに住んでいる人間はよっぽど変わっているのだろう――崇人はそんなことを考えると思わず頭を抱えてしまう。  扉を開け、中に入る。そこにあったのは、階段だった。階段はずっと地下へ続いており、そのほの暗さは恐怖すら思わせる。  その階段を――マーズは何も思うことなく、降りていく。それを見て、崇人たちは一瞬考える素振りを見せたが、しかし直ぐにそれを追いかけるように扉の中へと入っていった。  階段の壁は等間隔に松明が置かれていた。正確にはそれは松明ではなく、松明に象られたただの照明に過ぎないのだが。 「いったいここには何があるんだ……?」 「もう少しすれば、幾らなんでもあいつの部屋があるんだと思うんだけれどなあ……」  そんなことを言っているうちに、彼らが歩く先に光が見えてきた。 「ここね」  そう言ってノックもせず、マーズを先頭にして中に入っていく。  そこには機械だらけのワンルームがあった。壁が一切見えず、寧ろ壁が機械と化していた。そして、画面を覗き込んでいる男が、そこには居た。 「いたいた。だから、言ったじゃない。私が来るって」 「んー?」  画面から目線を逸らし、マーズの居る方へ振り返る。  眼鏡をかけて、若干白髪混じりの男だった。白衣を着ていたが、その中はランニングを着た、中肉中背の男。それが彼の特徴だった。  呆けた声で、彼は答えて――眼鏡の位置を直しながら、彼はマーズたちの顔をひとりひとり見ていく。 「マーズ、君が直々に来てくれるのは聞いていたが……残りは?」 「ハリー騎士団という騎士団と、『新たなる夜明け』という秘密組織の面々よ」 「なんてこった。そんな騎士団がいつの間に完成していたんだ」  そう言って男は肩を竦める。 「嘘を付け。私はきちんと『騎士団も行く』と言ったはずでしょうよ」 「……そうだったかな? メールをきちんと読んでなかったからかなあ。記憶が曖昧過ぎちゃうよ」 「電話だったんだが、もはやそこから記憶が捏造されているのか?」 「そうだったかなあ。うーんと……」  そこで男は頭を上げる。 「ああ、そうだったよ。電話だった。電話。ええと、そうだね。ハリー騎士団? だっけ? 聞いたことないんだけど、新設されたのかい?」 「この前に、ね。最強のリリーファー≪インフィニティ≫を守護するために結成した、というね」 「そうなのか」 「そうだったんですか」 「やっぱり」  男、エスティ、ヴィエンスがそれぞれの反応を示す。 「……まあ、一先ず。私がここに来た理由……解っているよね?」 「ああ。……なんだっけ?」 「おいおい。忘れないでよ。二つ、あなたに提示したでしょ? 一つ、ここをカーネル侵攻時の拠点とすること」  マーズは右手の人差し指で、男を差した。 「そして……こっちが重要。二つ目として、エスティ・パロングとヴィエンス・ゲーニック両名の『パイロット・オプション』を解放すること」 「……僕も聞いたときは驚いたが、本当にいいのか?」  男の目の色が変わったのが、崇人たちには解った。  そして、一番動揺したのは、 「パイロット・オプションを解放する……?」  ここまでまったく聞かされていなかったエスティとヴィエンスだった。 「なんだい、話していなかったのか?」 「話さないほうがサプライズ性が増すかな、と」  マーズが即答した返事を聞いて、ため息をつく。 「君のそういう悪戯さは昔から変わらんな」 「褒めてもらって嬉しいねぇ」 「……で、結局そちらの方は?」 「なんだ。それすらも説明していないのか、マーズ」 「サプライズ」 「……ああ。解ったよ」  何かを悟ったらしく、小さく頷くと、崇人たちの方を向いて、小さくお辞儀をした。 「はじめまして。僕はコルト・ヴァルヘルン。これでも科学者をしている。どうぞ、よろしく」  そう言って彼は――左手を差し出した。崇人は「それは右手じゃないのか?」と思ったのだが、そこは相手に従うこととして、崇人も左手を差し出し、二人は握手を交わした。 「……済まないね。おかしいと思っただろう? 僕はどうも、利き手を預けるのが嫌でね、けれども握手はせにゃあかんときもある。だから、そういう時は極力左手だけにしている。右手は預けない。そういうのが基本なのさ。だから、違和感を感じたかもしれないね。その辺に関しては、僕のくせということで捉えてくれるとありがたい」  くせというのだから仕方がない。  崇人はそう自分に言い聞かせることとした。 「さて」  コルトはそう話を切り出した。 「それじゃあ、早速パイロット・オプションの解放に移るかい?」 「お願いするわ」 「ちょっと待て。パイロット・オプションを解放とかずっと言っているんだが、そんなことが……そんなことが……実際に可能なのか?」  エスティとコルトの会話に割り入るように、ヴィエンスは訊ねる。ヴィエンスは驚きを隠せない様子だった。  対して、マーズは呆れたような表情を示した。 「流石にそんなことが出来なかったらここに連れてこないわよ。彼は……パイロット・オプションを解析し、起動従士となる人間からパイロット・オプションを引き出すことに、世界で初めて成功した科学者なのよ。今は金も名誉もいらない、ただ研究したいんだー! などとほざいてこんなところで一人ぽつぽつと研究をしている……謂わば『変人』よ」 「変人と言われるとちょっとなあ。僕的にはただ研究がしたかっただけなんだけれど」  マーズの言葉を聞いて、コルトは嘯いた。 「それを変人というのよ。この世の中では」  それに対して、マーズは答える。  コルトは覚束無い足取りで、壁の機械に触れる。そこにはボタンがあったのか指紋認証があったのかは知らないが、無機質な電子音が直ぐに部屋に響いた。  そして、壁が、ゆっくりと左右に開き始めた。 「……それじゃあ、向かおうか。本当は気が乗らないんだけれど、マーズの頼みならば、致し方ない」  そう言って、崇人たちはコルトについていく形で、その通路へと入っていった。  コルトに連れられて、ハリー騎士団の面々がやって来たのは小さな研究室だった。  大きく張られた窓の向こうには、ベッドと、大量の電子機器。 「一先ず、ここで待っていてもらおうかな」  コルトがそう言うと、ハリー騎士団は窓前にあるソファに腰掛ける。 「それで、えーと、誰だっけ。ヴィエンスくんとエスティさん。君たちは……僕と一緒にこの部屋に入ってもらうかな」  そう言うと彼らは頷いて、コルトについていく形で部屋の中に入った。部屋に入るとベッドと電子機器があった。どうやらこの部屋は先程の窓を通して見た部屋らしい。窓が見当たらないのは、あの窓がマジックミラーだからなのだろう。 「この部屋で、実験を行う。……ああ、そこまで恐ろしいマッドサイエンティストがやるような狂気で残酷な実験ではないよ。僕は昔みたいな感じはやめたからね。何しろ年齢に合わない」 「前はやっていた、ということなのか……?」  心なしか、ヴィエンスの声は震えていた。  対して、当の本人は口笛を吹いてどこ吹く風と聞き流していた。 「そんな感じでやっている暇があるのか」 「いいじゃないか。どうせまだ時間はある。楽しもうじゃないか、これを」  楽しむと言われても、現に実験の被験者となっている彼らにとって、それは気持ち悪く、恐ろしく、出来ることならさっさと穏便に終わらせてしまいたかったことだった。  まったく知らされていなかったことであるが、起動従士となったからには避けて通れない道ということも彼らは知っていた。  だが、実際に通ってみると――至極恐ろしい。  過去の起動従士は皆、これを通過儀礼としていた。それを考えるとヴィエンスは自分がすごく小さく、見窄らしく思えた。  無意識に身体を小さく震わせていたヴィエンスを見て、コルトは小さくため息をついた。 「……別に誰もが皆、これを通過儀礼としたわけじゃあない」  まるでその言葉は、ヴィエンスが考えていたことが筒抜けとなっていたようだった。 「例えば、マーズだって、今は『女神』とか言われているくらいだが、ここに訪れた時は君みたいに怖がっていたよ。でも、彼女はパイロット・オプションを手に入れた。それは彼女が怖がっていたのを、無理矢理に僕がやらせたとか、そういうわけじゃあない。彼女は怖がっていたが、最終的にはそれを受け入れたのさ。自らの使命、自らの生きる道、自らが必要とされている場所はどこか……ってね。そうして彼女は戦場を生きる場所とした。だから、彼女にはパイロット・オプションが宿ったんだろうよ。パイロット・オプションはたしかに生まれながらにしてあるものだが、それを解放出来るかどうかは本人の気持ちというのもあるが、『カミサマに受け入れてもらえるか』というのもある。なあに、何も強い信仰心を持て、ということではない。自分がその運命を受け入れることが出来るか……それが問われるんだ」 「つまり」  ヴィエンスはコルトに訊ねる。 「結局は運次第、ってことか」 「そうじゃないさ。運も実力のうち、だなんて言うが実際はそうでもない。運はたしかに必要な時もある。だが、運が超絶悪かったとしても生き延びて、結果として武勲を得るのだっている。だから、『運も実力のうち』だなんて言葉は今はもう昔のことのようにも思えるね。かといって、運を度外視してたらどうなるかわからないし……。結果としては、運を実力と捉えるか捉えないかは君次第、というわけだ」 「話がこんがらがっていないか? 結局はまったく進んでいないようにも思えるんだが」 「そうかな? 進んでいるようで進んでいない。イライラするかもしれないが、これが僕の話し方でね。なんていうのかな、匍匐前進? 一歩進んで二歩下がる? そういうスタイルが好きなのさ」 「戻ってるぞオイ」  ヴィエンスとコルトの会話に、若干ついていけなくなっていたエスティは、ここで小さくため息をつき、ベッドに腰掛ける。  それを見て、コルトは咳払いをした。 「待たせてしまっていたね。申し訳ない。……それじゃあ、改めて『パイロット・オプション』とは何ぞやということから入ろう。エスティ、君はパイロット・オプションについてどれくらい知っている?」 「え?」  突然指をさされたエスティは、慌ててしまった。狼狽えて、何も言えなくて、ただ声にならない声を出すだけだった。  コルトはそれを見て小さく微笑むと、眼鏡をずり上げる。 「少しだけ意地悪な質問をしてしまったかな。それじゃあ、ヴィエンス。君ならどうだい?」 「パイロット・オプションとは、リリーファーを操縦する起動従士、それも国付きの、正式に自分の機体を授かった起動従士にだけ備わる特殊能力のことだ。大抵は自分が所属する国であっても、管理はリリーファーを整備する整備リーダー等しか知り得ない機密となっている。しかしながら、何処からかそれが流出して、結局はその隠蔽も無意味になっている。……えーと、ここまででいいのか?」  次に指をさされたヴィエンスは、さも用意してあった通りに答えた。  最後にコルトに訊ねると、コルトは手を叩いてニヤリと笑った。 「最高だ。百点だよ、ヴィエンス。まだ起動従士になって日が浅いというのに、そこまで知っているとは感激だ」 「これくらいは……常識だろう」  よほど褒められるのに慣れていないのか、どことなくヴィエンスの顔が赤かった。  コルトはうんうんと頷いて、ベッドの横にある電子機器のスイッチを入れる。 「これから君たちの深層心理に働きかけたいと思う」  そう告げたコルトの言葉に、ヴィエンスとエスティは首を傾げる。 「深層心理?」 「深層心理というのは、心の奥にある……無意識的なプロセスさ。人間の思考のうち、自分自身で自覚が出来ている部分はおおよそ十パーセント程度とも言われているんだが、その他の『無意識』な部分では、自分自身の制御が直接的に及ばない要素が数多に存在しているんだ。例えばの話をしよう」  そう言ってコルトはすぐそばにあったホワイトボードをヴィエンスたちの前に持ってくる。  ヴィエンスたちがホワイトボードに目線を集中させているのを確認して、コルトは黒いサインペンを手にとった。 「心理構造を深海と例えてみよう」  そう言ってまず線を一本引き、左側に『beach』と書く。砂浜のことだ。 「ここから右にあるのは海。強いて言うならここはまだ浅瀬だね、深さも申し分なく、泳ぐには最適なエリアだ。ここだと意識として外部に見える『表層』として捉えられるよね。これが普通に人間が感じたり表現したりする『表層部分』だ」  そう言って、さらにその右側に線を一本引く。  そして、そこから先を青いサインペンで塗りつぶした。 「そして深海……ここから先は人がそう簡単に泳ぐことができない。……オーバーなことを言うと、潜水艦でもないとそこまで到達することはできない。だから空から見ればそれは見ることができない。だが、その深海は表層に影響を与えることだってある。しかしそれは外部からは見えないという非常にロジックに富んだ場所がある。これが『深層』。これが『深層心理』だ」  コルトの話はさらに続く。 「深層心理とは、幼少期や思春期における体験、あるいは劇的な体験……まあ、例えば近親者が死んでしまったり、犯罪や戦争を経験したり目の当たりにしたりなどとしたことによって形成される……そういう学問ではそのように考えられている。君たちがたまに聞く『トラウマ』というのは心に大きな傷を負った……謂わば心理的外傷のことを言うんだ」 「……どうして、深層心理が関係あるのか具体的に答えてくれないか」  ヴィエンスは、コルトの独壇場が始まってから気になっていた疑問をぶつけた。  対してコルトは肩を竦める。 「だから言っただろう。そして、それは先程君が答えた『パイロット・オプション』の答えにもあったじゃあないか」 「?」 「いいかい。『パイロット・オプション』はもともと気がつかないうちに備わっているんだ。そしてそれに気付くのは、自分で気付くのか、それともこのようなことをやって気付くのかはそれぞれだ。パイロット・オプションは深層心理に眠っている、自分自身の制御が直接及ばない要素なんだよ」 「それを揺り起こす……そういうことを言いたいのか?」  ヴィエンスの言葉にコルトは小さく頷いた。 「揺り起こす、という言い方は少々訂正したほうがいいかもしれないな。正しくは、『解き放つ』。もともと君の身体にあった力だ。揺り起こす、よりは表現として解き放つと言ったほうが適当だろう?」 「表現としての問題か!?」 「いやいや、案外大事だよ。こういうのは」  そう言って、コルトは何かを取り出した。 「それは……注射?」 「そうだね。まあ、詳しい成分は言わないでおこう。面倒臭いからね」 「面倒臭いってなんだよ。大丈夫なんだろうな」 「それは大丈夫だ。さて……まずヴィエンス、君からやろうか」  そう言われたので、エスティとヴィエンスはベッドから立ち上がる。エスティは脇に避けて、ヴィエンスのみコルトの指示に沿ってベッドに横たわった。 「別に痛くはない。それは安心してもらいたい」 「別に痛みを感じても泣くことはない。それほど弱い生き物だと思っていたのか」  ヴィエンスの言葉に、コルトはニヒルな笑みを浮かべる。 「ふうん……そうかい、ならいいよ。それじゃあ、君の精神力次第で、パイロット・オプションが目覚めるかどうか決まる。……健闘を祈るよ」  そして、コルトは右手に持っていた注射針をヴィエンスの左手の動脈に突き刺した。  ヴィエンスの意識は、そこで途絶えた。  ◇◇◇  クルガードという国があった。  クルガードという町があった。  それが突如として発生した原因は、殆どの人間が忘れてしまっていたが、その戦争自体は殆どの人間が覚えていた。  クルガード独立戦争。  クルガードはヴァリエイブルに面するアースガルド王国の一区画である。クルガードが独立を宣言した(ヴァリエイブルの差金とも言われているが真偽は定かでない)とき、アースガルドはその承認を待つよう命じた。これに対してヴァリエイブルは石油権益を手にするためにクルガードの独立を支持した。  だから、ヴァリエイブルとアースガルドの戦争は、避けられないものとなった。  そんなとある集落。名前もない集落で、一人の少年が泣いていた。  少年はずっとそこにある母親だったものを揺さぶっていた。それは、家だった瓦礫の下敷きになり、身動きが取れなくなっていた。  徐々に身体が冷たくなっていくのを感じて、少年はまた涙を流す。 「母さん」  少年は涙声で、それに声をかける。しかし、もうそれは動くことはない。  そんなこと、少年だって解っていた。  解っていたが、現実を受け入れられずにいたのだ。 「母さん……」  軈(やが)て、少年は。  理解を受け入れる。  そしてそれを――封印する記憶として、彼の心に永遠に留めることとした。  ◇◇◇ 『果たして、ほんとうにそれでいいのか?』  それを見ていたのは、ヴィエンスだった。そして、その情景は幼子の頃のヴィエンスとその母親だった。  彼の脳内に、コルトの声が響く。 「……悪趣味というか、ひどい人間だなあんたも」 『君の心の奥底に眠る深層心理を呼び覚ましたまでだ。決して何も悪くないよ』 「何をすればいいんだ?」 『先ずはこの事実を受け入れることから始まるだろうね。大方、君はこの記憶を封印していたのだろう。「閉ざされた記憶」、そういえば聞こえはいいが、結局はただのエゴだ。そんなものは、ただのエゴに過ぎない。自分勝手に記憶を改竄することは、ときに人を苦しめる。そんなことを理解もしてない子供が、起動従士になるため、パイロット・オプションを手に入れるなんてできるはずがない』 「やらなければ……解らないだろうが……」  ヴィエンスの頭にふつふつと怒りが込み上げてくる。  どうして、他人にそこまで言われなくてはならないのだろうか。そもそも自分の身体は自分だけのものだ。他人に迷惑をかけなければ何の問題もないだろう……と、そんな感情を抱いていた。 『正直言って、それは違う』  しかし、コルトから帰って来た返答はあまりにも淡白だった。 「……なんだと?」 『君が君であるために、いや、君が君であろうとするためにその記憶を封印した。だからこそ、パイロット・オプションは君には宿らない。宿ったとしても、深層心理に封印された記憶などある君にとっては……無理だ』 「別にパイロット・オプションを解放せずとも、起動従士としてはやっていけるだろう?」 『そうやって、逃げるのか?』  コルトの言葉に、ヴィエンスは言葉が詰まった。  図星だから、というわけではない。  その気持ちを見透かされたから、というわけでもない。  ただ、彼の中ではまだ『この記憶は永遠に忘れ去ってしまいたい』という気持ちがあったのだろう。  そしてそれが、彼の異常なまでに戦争を憎んでいる、その気持ちに発展したのだ。 「戦争を嫌って、何が悪い」 『別に戦争を好きになれ、という話ではないよ。ヴィエンス・ゲーニック。ただ、「戦争を受け入れろ」というだけだ。死んだ人間が、戦争を悲しむことで、戦争を嫌うことで、戻ってくるのか? 答えは否だ。そんなことは絶対に有り得ない。戦争は絶対なる犯罪かといえば、そうでもない。戦争はビジネスという人間も居るからね。たしかに、戦争によって経済が潤うところだってあるさ。だが、それは人命を犠牲にしている、それ以外はクリーンなのか? いいや、違うね。戦争のために駆り出されたリリーファーだって、一台使うだけで整備代が馬鹿にならないし、起動従士の訓練だって、僕がやっているパイロット・オプションの解放だって、そうだ。今や戦争には国家予算の殆どといってもいいくらいお金をかけている。そして……戦争を行うことで、その数倍以上のリターンが見込まれている。それならば、若干の人命を犠牲にしてでも、戦争は永遠に行われるだろう。……戦争はいつからか変わった。それは、人海戦術を使うのではなく、リリーファーという巨大ロボットを使うことで、人材を極限にまで削減した、「ビジネスモデル」だ。戦争はもはや、戦争ではない。ビジネスモデルなんだよ。だから、お前がそれを嫌いになろうとも、その意志には関係なく、戦争が起き続け、人は死に続け、金は世界を回り続ける』 「……でも、俺は戦争を受け入れることは出来ない」 『すぐに受け入れなくても構わないだろう。彼女……マーズだって、どこかそういうので一種のトラウマがあるらしいからね。だが、彼女はリリーファーに乗り続けている。そんなカカオ百パーセントのチョコレートみたいな苦い人生を送ってきた。だから、というわけでもないが、ウジウジしてても何も始まらないし、何も終わらないんだよ。始まりもなければ、終わりもない。だが、終わりがない物語は、至極さみしいものだ。そして、始まりのない物語も、それは物語と呼べるのかは怪しいが、悲しいものだ。いつかは一人で道を切り開かなくてはならない時だってくる。その時に聞ける先輩は、殆ど居ない。それを君が何処まで理解しているのか……それだけが疑問だけれどね』  コルトの声は、なんだか彼が笑っているようにも思えた。  それは嘲笑っているのではなく、期待を込めた笑み。  つまり、ヴィエンス起動従士として期待しているということの同義だ。 『パイロット・オプションを手に入れるには、凡てを解放しろ。そして……凡てを理解するほかない。怖がってはいけない。お前は戦争を嫌っているのに、戦争へと出向こうとしている。それは矛盾ではあるが、理解し難いものではない』  コルトの言葉が、ヴィエンスの頭に響く。  ヴィエンスはそれを聞いて一人考えていた。  自分は戦争を嫌っている。  なぜだ?  その理由は――母親が戦争で死んでしまったから、ほかならない。  だが、それはただ自分が戦争を嫌う常套句にしているのではないだろうか。  ヴィエンスはそんなことを考えるようになった。  いや、コルトに言われて、改めてそう向き合うようになった、というのが正しい。  コルトはそのために、わざとそのように言ったのではないか? ヴィエンスはそう考えたが、今となってはもう考えるに値しない。  ヴィエンスは考える。自分という存在が、自分を為している要素が、どのように自分に影響を与えているのか、漸く解るようになってきていたつもりだった。  しかし、コルトの言葉を聞いて、まだまだヴィエンスは自分のことを知らないものだと悟った。  そして、 「……ああ、解ったよ。俺は、受け入れるべきだったんだ。あの過去を。受け入れて、向き合うべきだったんだな」  ヴィエンスは小さく微笑んで、前を見つめた。  彼は、前だけを見つめていた。  ◇◇◇  彼の身体の中から、力が沸き起こるのが感じる。  それは、彼の中にある力を受け入れたからかもしれない。  それは、彼の中にある力を彼自身が見誤っていたのかもしれない。  そして彼は――。  ◇◇◇  気がつけば彼はベッドに横たわっていた。 「ここは……?」 「安心しろ。凡てが終了した。おめでとう、ヴィエンス・ゲーニック。これで君もパイロット・オプションを獲得した。君のパイロット・オプションは……うーん、これは言ってもいいのかな?」  ヴィエンスが目を開けると、そこにはコルトの顔があった。  コルトの顔は少しだけ顰め面だった。 「言ってもいいだろう」  その声は、部屋の外にいるマーズのものだった。  コルトは頭を掻いて、小さく頭を垂れる。 「……それじゃあ、教えてあげよう。君のパイロット・オプションは『鉄血の盾』だ。名前のとおり、かもしれないが、絶対的に防御力を上げる事が出来る。ただし、その場合血を代償とする。そのため……恐らく対象時間は二十分。そして、その後は十二時間程パイロット・オプションを使うことが出来ない。それが、副作用だ」 「鉄血の盾……」  ヴィエンスはコルトから言われた言葉を反芻する。  まだ彼はパイロット・オプションを手に入れたという実感はない。 「まあ、それを試すのもいいだろうが……その副作用からして、そう簡単に使ってはいけないだろうね。その副作用が一番ネックになっている。だから、その二十分は大事にすべきだ。いいね?」  そう言って、コルトは立ち去っていった。  ベッドから起き上がり、立ち上がり、辺りを見渡す。既にエスティもパイロット・オプションを手に入れたのか、コルトとともに部屋を後にしていた。それを見て、彼もそれを追った。  部屋を出ると、マーズが一同を集めた。 「諸君! これから我々はカーネルの実態を調査するため、様々な場所へと向かうこととする! 私とヴィエンスは北方、エルフィーとマグラスは南方、エスティと崇人は中央を調査する! いいか、決して無茶はするな!」  マーズの言葉を聞いて、彼らは敬礼をする。しかしながら、この騎士団のリーダーは崇人であるのだが、崇人が軽視されているという現状は、どうも否めないし、長く軍属だったマーズのほうがリーダー的役割を果たしてくれるだろうと崇人は思っているので、簡単に改善しそうにはなかった。  それを見て、コルトはニヒルな笑みを浮かべる。 「どうした、コルト?」 「だっておかしいじゃない。僕の聞いている話は、リーダーは君ではなくて、そこにいる小柄な少年だろう? リーダーはしかるべき行動を取らねばならないと思うがね」 「だが、私は副団長だ。騎士団長はまだ軍属となって日が浅い。というよりか、まだなって数日しか経っていない。そんな状況で騎士団長になることがあんまり有り得ない。本人の目の前で言ってはいけないことだが、この騎士団は『インフィニティ』を守護するための騎士団だ。本人は謂わばお飾りに過ぎないわけだ」 「お飾りの騎士団長かい? 笑えるねえ」  本人を目の前にして続けられる会話は、崇人にとっても面白い話ではない。  しかし、彼にその実力がないのもまた事実だし、それを知った上でマーズが指揮を取っているのも、当たり前のことだ。 「……まあ、そんなことを言っているのも時間の無駄になってしまうし、一先ずは行動を開始しよう。いいね?」 「我々はどうする?」 「新たなる夜明け。あなたたちは分散して調査してちょうだい。そんな大人数でずらずらいられても困るし」 「解った」 「それじゃ――作戦開始よ」  マーズの言葉に、ハリー騎士団と、新たなる夜明けは大きく頷いた。  ◇◇◇  その頃、白い部屋。 「漸くハリー騎士団は行動を開始したか……。なんというかブーストが遅いよね」 「誰も彼も素早いわけではない。人間というのは煩悩と、駆け引きと、様々な負の要素がある。その柵が適当なタイミングに解き放たれないとおかしくなる。今回の彼らみたいに、だ」  帽子屋とハンプティ・ダンプティの会話は続く。 「しかし、人間というのはどこまでも愚かな行為をするものだ」  帽子屋は、本棚から一冊の本を取り出した。それは黒いハードカバーの本だった。重々しい本の表紙を開けると、そこには何も書かれてはいなかった。 「この本は……これからどう進んでいくのだろうか」 「それは君だって知っているだろう?」  その声を聞いて、帽子屋はそちらを向いた。 「チェシャ猫、仕事は?」 「終わらせたよ。さっさと。あれほどまでにつまらない仕事はもう二度としたくないね」  本をかかえている少年は、そう言ってソファに腰掛ける。 「じゃあ、顛末を聞かせてもらおうか」  帽子屋は向き合うようにして、目の前のソファに腰掛けた。 「……えーと、一先ずカーネルの新聞社にはソースを放り投げておいた。そして、反社会派の集団にもね。暫く見張っていたが、奴ら明日にも政府にデモを仕掛けるらしい」 「明日か」  帽子屋は顎に手を当てる。 「予想よりも遅かったね。てっきり当日中に行われるものかと」 「人間はそう簡単に素早い行動はしないよ。特に、きちんと計画を練っているなら、ね」  ハンプティ・ダンプティはそう言って紅茶を一口飲んだ。今の“彼女”は白いドレスを着た幼女の姿となっている。なんでもこの姿が一番活動しやすいし、一番エネルギーの消費が少ないらしい。 「しかし、どうする?」 「予定のズレは、もはやどうにもならない。作戦決行は明日に変更だ。これは、世界を変えるためのものだ。いや……その流れはもう始まっている。≪インフィニティ≫、それが大野崇人の手によって動き始めた時点でね」 「……なあ、帽子屋。お前はいったい何を考えている?」  ハンプティ・ダンプティが茶菓子のクッキーを一口齧る。  それを見て、帽子屋は肩を竦める。 「何だい、僕が悪いことをしているみたいじゃないか。そんなわけは全くないよ。寧ろこれは誰にもいい事だ。世界を凡て元通りにするんだよ。別に悪くはないだろう?」  その言葉に、ハンプティ・ダンプティとチェシャ猫は返すことはなかった。  帽子屋はそれを見て、さらにニヒルな笑いを浮かべた。  ――ゆっくりと、ゆっくりと、水面下で、何かが動き始めていた。  北方地区、その中心部にあるパーティカルビル前に二人の人間が立っていた。  一方は黒いハンチング、赤のチェック柄シャツ、黒い迷彩柄のズボンに茶色のローファーの格好をしたヴィエンス。  もう一方は赤のプリーツスカート、紫のキャスケット、茶のロングブーツに黄緑のカットソーという格好をしたマーズ。  それぞれは、いつものように着ているパイロットスーツでは調査に目立ってしまうために、事前に私服風の格好を入手しておいたのだった。 「しかしまあ……目立ちません?」 「大丈夫大丈夫。すっかりあなたは普通にいるちょっと小洒落た学生だから」 「その『小洒落た』部分が引っかかるんですがね……」  ヴィエンスはそう言うが、実は少しだけ照れていた。  マーズ・リッペンバー――彼女のことはよく『女神』などと揶揄されている――が目の前にいること、というのもある。  彼女の服装があまりにも女性らしかった。ヴィエンスの(勝手な)イメージではジーンズにタートルネックのような男性チックな格好をするものだと思っていた。  しかしよく見れば髪はパーマがかかっているしカラーコンタクトも入っている。これが彼女の素なのだろう。  その姿を見て、照れてしまっていたのだ。それは彼のいつもの姿からは想像もし得ないが、彼は女性とまともに話したことがなかったのだ。  それを見て、マーズもどことなく悟っていた。 「ふーん……」  マーズはニヤニヤと笑いながら、ヴィエンスの左手を取ると、マーズは右手でそれを握った。 「!?」 「いや、だって恋人同士の設定のほうが何かと便利でしょう?」 「そうですけどそうですがそうなんですけど!!」 「あーあー、煩いなあ。バレちゃうよ? 私とあなたが恋人同士と思われなかったら、何かと疑われてしまうよ?」  マーズはそう言って小さなため息をつく。  対して、ヴィエンスは。 「……解りました。行きましょう」  そう言って、手を握り返した。 「それで、いいんだよ」  マーズは小さく微笑むと、二人はゆっくり歩き始めた。  北方地区は世界最大級のショッピングモール『テラバイト・ショッピングモール』がある。名前の由来は情報量の単位バイトから取られており、大量の商品が並んでいることからそう呼ばれている。  彼女たちが立っていたパーティカルビルもその一部に含まれており、一先ず彼女たちはウィンドウショッピングと偽って調査をすることとした。  テラバイト・ショッピングモールは人で賑わっていた。ここが鎖国をしていて、いつ戦争が起きてもおかしくない状況だとは、少なくともここを見ただけでは感じられない。 「しかしまあ……いろんなものがあるねえ……。おっ、このワンピースかわいくない?」 「完全にウィンドウショッピングを楽しんでいるようだが……?」  マーズはヴィエンスに言われ、頷く。 「やだなあ。大丈夫だよ。何もしていないと言えば否定はできないが、きちんと任務はこなしている」 「矛盾を孕んでいる発言が聞こえてきた気がする……」  ヴィエンスはそう言ったが、その言葉はマーズに聞こえることはなかった。 「……見ろ、ヴィエンス」  マーズがヴィエンスの耳に口を寄せ、小さくそう言った。  それを聞いて、ヴィエンスはそちらを見た。  そこに居たのは、軍服を着た男だった。二人組になって、会話もせず、背中にはショットガンを背負って歩いていた。 「あれがこの街の警官的役割にいる『治安維持軍』だ。……ああ、だからといって、誰もが見ていい治安を維持するための軍隊ではない。おそらくは、あいつらにとっての治安を維持するための軍隊ということだ。発言が聞き取られれば、少なくとも私たちは確実に牢屋行きか、悪かったら即斬首刑の何れかだ」  ならば今言わなくてもいいのに――ヴィエンスはそう思ったが、その不安をよそに治安維持軍の二名はゆっくりとヴィエンスたちとすれ違い、何事もなく通過していった。 「……そうだ。ヴィエンス、腹が減らないか?」  マーズに言われたのと、彼の腹の音が鳴るのは同時だった。それを聞いて、ヴィエンスは小さく微笑んで、頷いた。 「私もちょうど腹が減っていたんだ。どこかいい店にでも入って食事がてら今後の方針でも立てようじゃないか。まあ、こういう格好だから何をするかは限られているがね」 「いいですね。たしかに」  ヴィエンスが直ぐに了承したのは、お腹が空いていただけではない。  彼女たちがここまで来たのは、コルトが発明した『空間転移装置』によるものだったため、充分に作戦会議は行わないまま(というより、各自で行うようマーズが支持した)ここまで来てしまったからだ。 「それじゃあ、了解も得たところだし、食事にしよう。えーと、どこかいいところはないかなあ……」 「あそこなんてどうです」  ヴィエンスが指差した先にあったのは、小さなパスタ屋だった。昼過ぎというのもあり食事処はどこも混んでいたのだが、そこだけはまだ若干空きがあるようだった。 「そうね、そこへ行きましょう」  どうせ会話をするならば人が居ない方がいい――そう思ったマーズはヴィエンスの言葉に小さく頷いた。  パスタ店に入ると、少し遅れてウェイターが訪れる。お二人ですか、との声にヴィエンスは頷く。小さく微笑みながら、ウェイターは右手を差し出して、席へと案内する。  案内された席は窓際のある場所だった。ヴィエンスとマーズが腰掛けると、ウェイターはメニューを置きその場を去っていった。 「さあ、どうせ食事代は経費で落ちるんだ。なんでも食べるがいい」  マーズが言うと、ヴィエンスはメニューを見始める。あまり人が入っていないようだったが、メニューの種類は豊富だった。ミートソース、カルボナーラといった定番のパスタからスープパスタ、ニョッキやリゾーニを使ったメニューまである。 「この『パンツェロッティ ミートソース添え』って何なんでしょうね?」 「パンツェロッティは確か詰め物をしたパスタじゃなかったかな。かなり美味いらしいぞ。ただしボリュームが半端ないだろうが」 「ふーん、じゃあ俺はこれにしますかね」 「そうか。それじゃ私はカルボナーラにでもしよう。すいませーん」  マーズが呼ぶと直ぐにウェイターが到着した。 「ご注文、お決まりでしょうか」 「えーと、『パンツェロッティ ミートソース添え』と『カルボナーラ』を一つ。あとアイスティー二つ。以上で」 「かしこまりました。それでは、少しお待ちください。パンツェロッティは少々お時間をおかけしますが、よろしくお願いします」  そう言ってウェイターはメモに注文を書き留め、その場から去った。 「それでは、飯が来る前に少しだけ話を始めようか」 「どこから始めます?」 「君は機械都市カーネルをどこまで知っている?」 「リリーファーを制作・設計している唯一の機関『ラトロ』がある地域だということ、しか知り得ませんね」 「ラトロが設立されたのは二百年前。はじめはリリーファーを製造しておらず、ただの普通の研究所に過ぎなかった。当時、何を研究していたのかは、もう殆どの人間は知らない。ラトロ本部に行けば解るかもしれないが」 「ラトロは初めからリリーファーを造っていない、と」 「そもそもリリーファーが完成したのは皇暦五三〇年頃と言われている。ヴァリエイブルにその資料が残っているからだ。その名前は『アメツチ』。そのリリーファーが今はどこにあるのかも解らない。壊れてしまったのか、未だにどこかに存在しているのかすら」 「『アメツチ』……、そんなリリーファーがあったんですか」 「あったのではない。『いた』のだよ。気がつけばそこにアメツチがあった。ラトロが開発したものとなっているが、それは間違いであるという資料もある。ラトロが開発したのではなく、そのリリーファーは発掘されたものなのだと」 「『アメツチ』とは、いったいどういうリリーファーなんです?」 「それが……どのレベルの強さなのか、解らないんだ。解れば苦労しないがな、どの歴史書を見ても変わらない。『其の時、|天地(あめつち)といふ機神がありけり』という内容しか書かれていない。機神がリリーファーだとするならば、それはアメツチという存在だといえる。だが、ラトロによって開発された事実はヴァリエイブルの資料を見た限りでは有り得ない」 「ヴァリエイブルの資料は、本当に歴史的に正しいって言えるんですか?」 「どうなんだかなあ。解らないね。本当かもしれないし、嘘かもしれない。ただ、ヴァリエイブルの資料は、国中にある史料を集め比較参照をした上で作り上げたものだ。決して一つの歴史書のみを見た結果ではない。幾つもの歴史書から作り上げたものなんだ。だから、信頼性は高い」 「しかし……そうだとしても、どことなく信用出来ない」 「まあ、ところどころおかしな点はあるがね……。しかし、ある程度の基準を設けねば、議論は展開出来ないんだよ」 「たしかに」  ヴィエンスが頷くと、ウェイターが注文をもってやってきた。 「失礼します」  そう言って、ウェイターはテーブルに皿を置いていく。先ずは取り分けるための皿を二枚、そして大きなパンのようなものを乗せた皿をヴィエンスの前に置く。次いで、カルボナーラの皿をマーズの前に置いた。  そして、水と水の容器を置いて、小さく頭を下げる。 「それでは、ごゆっくり」  そう言って、ウェイターは去っていった。 「食べようではないか、冷めてしまわないうちに」  マーズはそう言ってフォークを取り出し、パスタを一口分巻き取った。それを見てヴィエンスもナイフとフォークを取り出し、『パンツェロッティ』なる謎の食品(店で出されているのだから食べれるに違いないとマーズは豪語しているが、現時点ではパンツェロッティを食べようとは思っていない)をナイフで切ってみる。  すると中から肉汁が溢れ出してきた。それから少し遅れてトマトソースが溢れ出る。どうやらこのパンツェロッティの中身はトマトソースのようだった。 「トマトソースですね」 「ああ、そうか」 「……自分は食べたくないけど、何だか気になるから注文させたとかそういうわけではないですよね?」 「カルボナーラも美味いぞ」  そう言ってマーズは話題を逸らそうとするが、ヴィエンスは皿に一口分分けてマーズの傍に差し出す。 「いやいや、食べないぞ私は」 「あれほど『美味い』などと言っておいて、ずるいですよ。この美味しさを味わってくださいよ。どっちにしろ量が多くて食べきれないですし」 「うーん、まあいいか」  そう言ってマーズは一口それを頬張る。  すぐに口の中にトマトの香りが広がった。トマトとひき肉のハーモニーが口の中で広がり、それでいてくどくない。まさに完璧だった。 「……美味い」 「でしょう?」 「……待ちなさい。話がずれている。私たちが話していたのはリリーファーについてのことだったのに」  ヴィエンスとマーズがそれぞれ食事に花を咲かせかけていたが――それを既のところでマーズが話を方向転換させる。 「そうでしたっけ?」 「そうよ! あなたさっきからキャラ崩壊しすぎよ! ちょっとは修正する気持ちで挑んで!」 「修正ってどういうことですか!?」  思わずヴィエンスは立ち上がりそうになったが、マーズが咳払いするのを聞いて我に返った。  ヴィエンスは席に座り直し、改めて会話を再開する。 「そういえば、リリーファーって何世代まで存在しているんですか? ちょっと詳しく知らないんですよね」 「そうか。君は知らないのか。……それじゃあ、詳しく見ていくこととしようか」  そう言ってマーズはフォークを皿の上に置く。 「まず現行で起動しているリリーファーで一番古いのは第二世代、正確には第二.五世代の『アレス』になる。そして、『ヘスティア』は第三世代、『ペルセポネ』は第四世代、『エレザード』も第四世代だったかな。大会でも使用された『ペスパ』は第二世代だ。ああ、君たちの乗る『ニュンパイ』は一応第三世代ということになるかな」 「なるほど。それが一応の最高ってことになりますかね」 「いいや、違う。スラム街でも聞いただろう? ラトロは一年前に第五世代を開発していた、と。あれから一年が経っている。第五世代が出来ていて、量産されていてもおかしくはない。寧ろ、そのタイミングを狙って今回の鎖国に踏み切った可能性すらある」  マーズはそう言ってニヒルな笑みを浮かべた。まだ彼女は何かを知っているようだったが、今それを聞くのも野暮だ――そう考えたヴィエンスはここで訊ねることはしなかった。  あとは、彼女たちは食事を、特に何の感想もなく進めただけだった。 「ああ、満腹になったな。……さて、会計をしよう」  そう言って伝票をマーズが取ろうとしたが、それよりも早くヴィエンスが取った。 「僕が支払っておきますよ。……ほら、一応恋人設定なんでしょう?」 「ん、あ、ああ……。そうだったな」  一瞬マーズが照れたようにも見えたが、ヴィエンスにはそれが見えなかった。  そしてヴィエンスは伝票を持ってレジスターへと向かった。  店を出て、マーズが財布を整理しているヴィエンスの方に近づく。 「いくらぐらいかかった?」 「三千二百ルクスですね。まあ、こういうファッションモールだったら妥当な値段かもしれないですが」 「ああ。そんなもんかー。ならいいだろう。どうせ後で経費で落ちる」  そんな服装の女子が言う発言ではないことを連発しているマーズを見て、ヴィエンスは小さくため息をついた。 「さて。どうします?」 「どうするかねえ……。やはりこの辺を適当にぶらつくほかないだろうな。まだ明確な情報も見つかってはいない。ほかのチームがどうなっているかは解らないが、彼らにも賭けてみるしかあるまい」 「じゃあ、僕らは適当に散策、ということで?」 「まあ、そういうことだな」  そして彼らは会話を終了し、再びこのショッピングモールを探索することとした。  その頃、崇人とエスティは中央地区にあるリリーファー起動従士訓練学校、その校門前へとやってきていた。 「……にしても、荘厳というか厳かというか……」  崇人はそう言って苦虫を潰したような表情をする。エスティもそれを見て小さく微笑む。 「……一先ず、ここにいると目立っちゃうよ。だから、どこか別の場所へ行きましょう」  エスティと崇人は、それぞれマーズがコーディネート(正確には整備士たちが考えたコーディネートを、ただマーズがしたと思わせているだけなのだが)した服装だった。  崇人は茶色のジーンズに黒のパーカー、迷彩柄の帽子という格好。どちらかといえば、目立たない格好だ。  対してエスティは白いフリルつきのスカートを履き、茶色のジャケットを羽織っていた。極端に目立つ格好ではないものの、傍から見れば彼女の格好はお嬢様そのものだった。 「何というかさ……エスティの格好がすごい新鮮だよ」 「えー? 私、この前のセントラルタワーに行った時もこんな感じの格好だったよ?」 「そ、そうだったか?」  崇人は覚えていないようだったが、以前セントラルタワーへ彼女と向かったときは、エスティは白いワンピースを着ていた。 「そうよ、私は私服はそういうのを着るんだから!」  そう言ってエスティは頬を膨らませる。 「いや、決して悪いことを言ったんじゃないよ……済まなかった」  エスティの怒りを抑えるためにも、崇人はそう言った。  さて。  そんな茶番のような会話はそれまでにして。  彼らは一先ず中央地区をぶらりと探索することとした。勿論遊びではない。目的があるゆえの行動だ。  中央地区にあるのは、なにも訓練学校だけではない。  中央地区にあるもの、それは。 「ねえ、崇人。遊園地に行ってみない?」  機械都市カーネルの最新鋭の科学技術で構成された、世界最高の遊園地『ハイテック』。  それがある場所だ。  ハイテックは三年前にオープンしたばかりだが、その客足は三年経っても衰えることを知らない。つまりは、現在になっても入場制限がかかるくらいの大人気なのだという。  そんな遊園地の人気がカーネルだけに留まるわけもなく、ヴァリエイブル全体、さらには世界各国にまでこの遊園地は有名になっていた。 「私、ここ一度行ってみたかったのよね! 嬉しいなぁ……任務じゃなかったら一日中遊んでいたいのに」 「何言っているんだ。俺たちの任務はあくまでも状況把握。やることはそれ以上でもそれ以下でもない。言われたからにはやらなくちゃな」 「わ、解ってるよそれくらい。私だって任務を忘れて遊んだりしないもん!」  崇人がそう言ったのを聞いて、エスティは慌てて反論する。  それを聞いて崇人は小さく微笑み、「はいはい、そうだな」とその場を流した。  ◇◇◇  ハイテックに入った崇人とエスティは周りから見ればカップルそのものだろう。  それに崇人が気付いていたのかは解らないが、少なくともエスティは周りの視線に気がついていた。  それに至極優越感を持っていたし、至極恥ずかしかった。  彼女はこういう気持ちになっていたのを、崇人は気付いていないのかもしれない。  もしかしたら、このままだったら、気付かれないのかもしれない。 「ねえ」  エスティが言うと、崇人が振り返る。 「どうした?」 「……手、繋いでもいい?」  その言葉を言って、エスティは顔を真っ赤にさせた。  エスティは今、自分がどんな表情をしているのか理解していない。  崇人はもしかしたら疑問に思っているかもしれない。 「いいよ」  その気持ちを知ってか知らずか、崇人はエスティが出した手を握り返した。  エスティにとってそれは、すごく嬉しいものだった。  彼女は、彼女の内に秘めている思いを、いつ言えるのだろうかと思っていた。崇人は知らないのかポーカーフェイスなのか解らない。だが、いつかは自分にけじめをつけなくてはならない――そんな時がやってくる。  そんな時が来たら、彼女は逃げ出したくはない。そう決心を固めていた。  だが、怖かった。  もしかしたら、断られるかもしれない。  断られたらどうしようか、と。  普通に考えれば断られてもどうしようもないかもしれなかったが、彼女としてみればその気持ちは、たとえ断られても変わらないのである。  タイミングは何時でもあった。  どんなタイミングでも、彼女はその思いを伝えられることが出来たはずだった。  だけれど、彼女はその気持ちを伝えることが出来なかった。彼女の決心が固まっていなかったのかもしれない。彼女の気持ちが中途半端だったのかもしれない。彼女はそんなことは考えていない(寧ろ完璧だと思っていた)が、タイミングを悉く逃していることを考えると、彼女はまだ気持ちが振れていたのかもしれなかった。 「……エスティ、どこへ向かう?」  そこで彼女は我に返った。崇人は彼女に訊ねていた。「どこへ向かう」というのは、どのアトラクションに乗るか――ということだ。  エスティは首を傾げて、その質問の意味を訊ねようとしたが、 「ああ、アトラクションだよ。別に一個や二個くらい乗っても文句は言われないだろうし、俺も少しは遊んでみたいなーって……」  崇人はそう言った。彼の頬は少しだけ赤らめていた。  崇人の言葉を聞いて、少しだけエスティは考えて、そして一つの答えを導いた。  ◇◇◇  ジェットコースターと言っても侮ってはならない。  その正式名称はローラーコースターと呼ばれ、ジェットコースターと呼ばれるのは崇人がもともといた国『日本』だけである。由来としてはジェット噴射をしているかのように加速していることが由来であるが、勿論ジェットエンジンなどは使用されていない。  ローラーコースターは、乗客がいる列車自体に基本的に動力が存在しない。一般にはチェーンリフトを用いレールの最高到達点まで車両を巻き上げ、そこから下りの傾斜を走らせることで位置エネルギーを運動エネルギーに変換させ、速度をつける。そしてある程度下ったら再び傾斜をかけ上がらせて運動エネルギーを位置エネルギーに転換する。しかしながら、エネルギーは摩擦等で減衰していくので頂上が徐々に低い位置になっていくのだが、今はそれを詳しく語る理由もない。  そういうわけでローラーコースターはくねくねと畝っており、その高低差によって一瞬生じる無重力状態に人は歓喜したり、ときには阿鼻叫喚するのだ。  エスティと崇人は今そのローラーコースターの前に来ていた。  『サイクロン』と書かれた看板はどことなく赤い液体が垂れているデザインだった。それが血以外の何と言えばいいのか、今の彼らには想像もつかない。 「なんでこんなホラーな看板なんだ。お化け屋敷じゃあるまいし……」  崇人の身体は小刻みに震えていた。  それを見て、エスティは呟く。 「さあ、乗ろうよタカト!」 「ちょっと心の準備をさせてくれないか?」 「もしかして、怖い?」 「そういうわけじゃないぞ? ただ、初めての場所だから」 「よーし、行こー!」  そう言ってエスティは崇人を強引に入場口へと引っ張っていった。  崇人の「いやああああああ」という断末魔を、エスティが聞いていたかどうかは、彼女にしか解らない。  サイクロンの躯体に乗り込んだエスティと崇人の表情は、まさに天国と地獄と言える程の差が現れていた。  エスティはローラーコースターが大好きなのか、まさに天使のような晴れやかな笑顔を浮かべていた。  対して崇人はため息をついたり外をぼうっと眺めたりしていて、それをどう見ても『晴れ晴れとした表情』などとは言えないものだった。 「どうしたのタカト! 楽しもうよ!」  そんな崇人の表情を見て、エスティは肩を叩く。しかし崇人はまったくそれに反応しなかった。強いて言うなら、肩を叩かれてもため息をついているだけだった。 「大丈夫だよタカト、ね? だから……そうだ! 手をつなげば少しは楽になるかもよ?」  楽になってはいけないのだが――という野暮なツッコミがいつもなら入っている発言だったが、崇人が落ち込んでいるので、そんなツッコミはなかった。  そんなツッコミを期待していたエスティだったが、崇人からのツッコミは全くなかったので、恥ずかしくなってしまって、その気持ちをどうにかこうにか吐き出そうとしたが、その段階として、結論として、崇人の手を改めて強く握ることとした。  それは彼に安心感を与えるものだった。  それは彼を少しでも安心感を与えようとする、エスティの心意気だった。 「……ありがと」  崇人はそれに小さく答えた。  ただ、それだけだった。  だが、優しさを見せてもサイクロンに乗ることを取り止めはしない。昔から決まっていたことではないが、まるでそうではないかと思わせてしまう。  そして。  発車を報せる電子音が鳴り響き――ゆっくりとサイクロンの躯体が動き始めた。  ◇◇◇  サイクロンを出た崇人の表情は、見るも無残なものだった。 「……大丈夫だよ。ね、ごめんね?」  崇人は泣いてこそいないが、それに近い表情を浮かべている。至極情けないようにも見えるのだが、彼はもはやそんなことはどうでもいいらしい。 「ごめんね? ……あの、ほんと、お詫びにさ、何でもするからさ……」 「ちょっと……休みたい……。このままだと吐きそう……」  崇人がそう言うので、近くにあるベンチに崇人を座らせ、エスティは小さく息を吐いた。  エスティは光景を見ながら、崇人の回復を待った。  崇人は朧げな意識を保ったまま、うとうととしていた。サイクロンに乗り込んだせいで、想像以上に自分の体が疲れているようだった。  そして彼は――微睡みに沈んでいった。  だから、彼は気付かなかった。  その後に起きた、小さな悲劇を。 「何をしているのよ、こんなところで」  崇人が次に目を覚ましたときは、頭上から声がかかった時だった。 「コルネリア……か?」 「そうよ」  頭を上げて、立ち上がる。少し眠ったからか、気分も晴れていた。 「ところで、エスティはどうした?」  そこで彼は、異変に気がついた。  隣に座っていたはずの、エスティがいないことに。 「……エスティ!? たしかにここにいたはずなのに……!」 「こいつは厄介なことになったようだね」  そう言ってコルネリアは舌打ちする。辺りを見渡すも既にその痕跡は残っていなかった。  コルネリアは一先ず崇人を立たせ、スマートフォンを手に取る。  連絡先は、マーズだ。 「もしもし、コルネリアです。ええ、マーズさん。実はちょっと由々しき事態が発生しまして……」  マーズとの通話は直ぐに終了した。  その間崇人はじっとコルネリアの姿を見ていた。  コルネリアは崇人の方を見て、また一つため息をついた。 「マーズさんからの伝言」  そう言って――コルネリアは崇人の右頬を叩いた。  そのことは予測できていたが、しかし崇人ははじめ何が起きているのか解らなかった。 「お前がきちんと見ていないでどうする。このアホ」  その言葉はおちゃらけた様子にも聞こえたし、凡てを包み込んでくれるようなそんな優しい様子にも聞こえた。  だから、崇人は。  改めてコルネリアに頭を下げる。  済まなかった、という誠意の気持ちを込めて。  対して、コルネリアは小さく微笑む。 「今謝っても意味はない。……彼女を救うことだけを、考えなくてはならないね」 「ああ、そうだな」  そして、崇人は前を向いた。後ろを向くでもない。その気持ちを延々と引きずるわけでもない。ただ、彼は前を向いて――進んだ。  ◇◇◇  マーズとヴィエンス、エルフィーとマグラスがハイテックへとやって来たのはそれから三十分後の事だった。  マーズは改めて崇人とコルネリアから状況を聞き、小さくため息をつく。 「……全く、どうしてタカトが居たのに攫われてしまったんだ……。というか、どうしてお前らは探索もせずジェットコースターで遊んでいたんだ!?」 「それについては、本当に言い訳が出来ない」  崇人は項垂れた様子で言うと、ヴィエンスが崇人の胸ぐらを掴んだ。 「おい、タカト。お前やる気があるんだろうな? 騎士団長という役目も出来ないんなら、今回の任務はお荷物に過ぎないと思うんだが」 「それまでにしておけ、ヴィエンス」  マーズの言葉を聞いて、ヴィエンスは舌打ちをして手を離す。  マーズは咳払いをして、話を始める。 「……予想外の事態が起きてしまったことには変わりない。ここで、もうひとつの作戦を考える。機械都市カーネルの攻略に次いで、エスティ・パロング団員の救出作戦を、現時刻を持って開始する」  その口調は静かで、重々しいものだった。  そして、その一言は、騎士団の意識を高めるものでもあった。  マーズのスマートフォンが通知音を鳴らしたのはその時だった。 「……ルミナスからか」  そう言って、マーズは通話に応じる。 「もしもし、こちらマーズ」 『マーズ? ルミナスだけど』  ルミナスの口調は、どことなく緊張しているようだった。 「そいつはスマートフォンの画面表示で嫌というほど解る。用件を手短に頼むよ。こちとら一つ大事な作戦が追加されてしまったからな」 『そうかい。だったら、悪い知らせになってしまうね。残念ながら』 「……おい、どういうことだ」  その発言に耳を|欹(そばだ)てるマーズ。  騎士団の面々は、マーズの一挙動一挙動を見てそわそわしていた。その内容によっては、彼らに課せられる任務の重量が増したり減ったりするからだ。 『悪い知らせといい知らせが一個ずつある。どちらから聞きたい?』 「どっちでもいいが、悪い知らせを先に聞いたほうがいいだろうな。気持ちの問題だが」 『わかった。それなら、悪い知らせから話そう。つい先程、カーネル側からヴァリエイブルへ通告がきた。通告というよりかは勧告に近いかもしれないな。内容はどんなもんだと思う?』 「まあ、大方予想はつくな。ラトロのことだ。インフィニティのことに関してだろう?」  それを聞いて、崇人がマーズの方を見る。  そのあとも、マーズは電話を続ける。 『そうだ。カーネルは「インフィニティの分析・研究を認めるならば、今回の戦争を終えても良い」と言い出してきた。当然ヴァリエイブルは反発したさ。そんなことをされては戦争の切り札が奪われることになるからね。我々としてもまだ解析が済んでいない「|番外世代(アウタージェネレーション)」のインフィニティをおめおめとラトロに奪われたくはないしな』 「だったら、どうするんだ? カーネルもそう簡単には引かないだろう?」 『ああ、その通りだ。だから、カーネルはだというのなら、戦争をしようと持ちかけた。「よろしい、ならば戦争だ」と言いたげにな』 「ほう……」  マーズはゆっくりと、しかしその事態を楽しむかのように、にやりと口が綻んでいく。 「面白いことになっていくようだな、今回の戦争も」 『戦争を楽しんでいるのは君くらいだよ、まったく』  そう言ってルミナスは小さくため息をつく。 「そういえば、もうひとつのほうは?」 『ああ。それがね――』  その時、崇人は背後から近づく足音に気がついた。  そして、彼はゆっくりと振り返った。  そこに居たのは――。 「……アーデルハイト?」 『今作戦においてペイパスとヴァリエイブルが休戦条約を締結。なおかつ、協力としてアーデルハイト・ヴェンバック少尉が参加するようだよ』  アーデルハイトの和やかな笑顔が、崇人の目に写りこんだ。 「良い知らせってのは、そういうことか……」  マーズは通話を切って、改めてアーデルハイトと対面する。  アーデルハイトは今、完全に私服であった。青のダメージジーンズ、白いTシャツ(模様はよく解らない幾何学模様である)に緑のジャンパーを羽織っていた。 「……それって私服?」 「ええ、そうよ」 「すんごいヤンキーっぽいな……。イメージと違う」 「あなたの方こそ、私服はすごく可愛らしいのね。イメージと違うよ」 「ま、まあまあ。今は争うことじゃないし……」  マーズとアーデルハイトが火花を散らしているのを崇人が手で制して、アーデルハイトは小さく頷いた。 「まあ、そうね。たしかに今はそんなことを言っている場合じゃない。さっさと事を済ませなくてはいけないわ。事はあなたたちが思っている以上に重大になっているからね」 「……と、いうと?」 「私が再びヴァリエイブルに召還されたことを考慮しても、解るんじゃない?」  崇人の問いにアーデルハイトは明確な答えを示さなかった。 「カーネルが提示した『インフィニティの解体を含めた解析・研究』をヴァリエイブルは頑なに否定した。そりゃそうだろう。たとえそれがヴァリエイブルでなく、ペイパスやアースガルズでもそうだっただろう。しかし、問題はそれから先だ。カーネルはその事象に酷くお怒りだそうだ。なんでも、『研究においては一番である自分たちに任せないのはおかしい』というとんでも理論を展開している。まったくもって、薬でもキメているんじゃないかと思うくらいだ」  アーデルハイトはそう言って肩を竦め、鼻で笑った。  そんなことはどうでもいいとでも言いたげな表情を浮かべていた。 「……そうして、どうするんだ? ヴァリエイブルはもうカーネルには協力しない。ということは、交渉は決裂。戦争をする……そこまではルミナスの電話でも聞いたとおりだ」 「そこまで聞いていたのなら、話は早い」  アーデルハイトはそう言って、ポケットから何かを取り出す。それは情報の電子化が進んでいるこの世界では珍しく何かの用紙だった。  その用紙は折り畳まれており、アーデルハイトは何も言わずそれを広げる。  それは地図だった。それも機械都市カーネルの地域地図であった。 「……ただの地図じゃないか。これがどうかしたのか?」 「バカ、タカト。これがどういうことなのか理解していないのか」  崇人の言葉にマーズが指摘する。 「どういうことだ?」  崇人の言葉に答えたのはマーズではなく、アーデルハイトだった。 「これはただの地図じゃない。バツ印でマーキングされている場所があるだろう? そこは私たち……いや、正確にはヴァリエイブル軍の息がかかった場所だ。アジトと言ってもいいだろう」 「そのアジトに潜り込んで、勝機を狙うってわけか?」 「間違っているようで間違っていない。その返答はどうも中途半端だ」 「その言葉こそ、回りくどくて中途半端にしか見えないな」  崇人の言葉は、アーデルハイトの心に深く突き刺さるものだったが、そんなことは崇人は考えてなどいない。強いて言うなら、あるべき指摘をしたまでである。 「アジトは凡てで八十八箇所存在する。その八十八箇所凡てにリリーファーの整備施設が敷設してあるし、ミーティングルームも常備。仮眠室もあればレストランも存在している」 「そんなものを作る暇があるなら、別のものを充実するとかすればいいんじゃないかな」 「ともかく!」  アーデルハイトはひとつ咳払いをして話を続ける。 「これからアジトに向かい、体制を整えます。何があったかは、詳しくは聞いていないけれど、大体の様子で解るもの。……一先ずは、私が入って欠員を補います。それでいいね?」  アーデルハイトの言葉にハリー騎士団の面々は頷くほかなかった。 「……あれ? 何をしているの?」  そこに、不意に声が聞こえ、ハリー騎士団の面々は振り返る。  そこに居たのはエスティだった。 「エスティ!」  はじめに崇人が抱きつく。エスティは思わず顔を赤らめて、崇人の顔面に右ストレートを浴びせた。  ◇◇◇  八十八箇所あるアジトは、その地図を見なくては本当に行くことは出来ないのだろうか?  答えはイエスだ。そんなものできるわけがない。もっとも、脳内に地図を凡て叩き込んでいるならば話は別だ。  アーデルハイトが起動従士として、国の戦力として、雇われているには幾つかの理由がある。  一つにはパイロット・オプションの適格者であること。これは重要であるし、起動従士になるのであれば譲れない。  次に圧倒的な記憶力。それは彼女が持つ特異体質とも言えるし、彼女しか保持できない記憶力であるといえよう。  なぜならば、今彼女は。  カーネルにあるヴァリエイブル軍のアジト、八十八箇所の位置を凡て把握しているのだから。  西カーネル地区にある小さな郵便局に崇人たちはやってきた。  郵便局、とは言っているがもう既にその機能は停止していて、現在はただの廃墟となってしまっている。  郵便局の扉を開けようとするも、棧が錆びてしまっていたらしくうまく開かない。崇人とヴィエンスが二人で押し合って漸く扉が開くぐらいには、そのドアは錆びついていたのだった。  いったいどれくらいの時間、この郵便局(とは言っているが、ポストもなければそれっぽい特徴もないので、アーデルハイトから「ここは昔郵便局だったのよ」などと言われない限り解らない)は使われていなかったのだろうか。 「……にしても、よくこんな場所を使おうと思うな」 「こういう場所を使うからこそ、隠れ家として役立つんでしょ」  崇人の言葉にマーズが答える。  マーズはカウンターの後ろにあるソファに腰掛け、そして寝そべった。 「そんなところで寝たら風邪をひくぞ」 「寝るたって横たわっているだけなのだから、問題ない」  そんな言い訳をするマーズにアーデルハイトは一瞥をくれて、小さく微笑む。そしてメンバーを見渡した。エスティが少しふくれっ面だったが、それ以外は皆健康そうな表情を浮かべている。 「まあ、そんなことは置いておきましょう。作戦を考える必要がありますから。……従来通り、私たちはどこへ向かうのか、タカト……いいや、騎士団長ならば知っているのでしょう?」  その言葉を聞いて、崇人は首を振った。 「あら、ならば誰が……」 「私なら知っているぞ」  対して、その疑問に答えたのはマーズだった。 「どうして、あなたが知っているのかしら?」 「あいつに知らせたくなかったからだ」 「今の彼は一般人ではない。ハリー騎士団の騎士団長サマよ?」 「それでも、だ。あいつはまだ一般人から殻を破ったヒヨっ子に過ぎないよ。そんなやつには荷が重すぎる」 「……ああ、その甘えでよくあなたは『女神』などと呼ばれるのだろうか。いや、もしかしたらその甘えで人々は救われるから女神などと呼ばれるのかしら?」 「……いいえ、違うわ」  アーデルハイトの挑発には乗らず、ただマーズは自分のペースで語りだす。 「決して甘えなどと呼ばれるものではなく、どちらかといえば希望を伝えるもの。……いつ言うかというタイミングを決め兼ねていたのもあるけれど」 「やはり。甘いのよ、あなたは」 「……今はそんなことを話している場合じゃあないだろう?」  アーデルハイトとマーズがあわや接触する――と思っていたその時、助け舟を出したのはヴィエンスだった。ヴィエンスは壁に寄りかかりながら、作戦会議に参加していた。 「そうね。確かに今はそんなくだらない議論をしている場合ではない」  そう言ってマーズは立ち上がった。  カウンターに置いてある、先程マーズが買っておいたコーヒー缶の蓋を開け、それを一気に飲み干した。  それから、缶をカウンターに再び置いて、マーズはカウンターに寄りかかる。 「先ず、私たちの狙いは起動従士訓練学校だった。あそこは起動従士を育てている学校だ。当然リリーファーに載れる人間も多いだろう。そいつらを片っ端から殺す」  それを聞き、崇人は思わず肩を震わせる。  それを見て、マーズは小さくため息をついた。 「……だから言いたくなかったんだ。タカト、お前は優しすぎる。そんな性格は戦争ではやっていけない。だから、私は、なるべく作戦の情報を知らせたくなかった。どうにかしてタカトを蚊帳の外に追いやろうとした」 「マーズ、それも甘えよ。あなたは仕事についてはそんな優しい人間ではなかったはず。『女神』などと呼ばれるのはあなたが居た戦場は十中八九ヴァリエイブルが勝利しているから。畏怖する他国がつけたコードネームみたいなものだった」 「だけれど、それを知ったヴァリエイブルはそれを正式な名前に仕立て上げたのよ。おかげで、リリーファー『アレス』と私は揃って、戦場の女神等と揶揄されるようになった。その勢いは公式のファンクラブが、会員規模一万人を超えるまでにね」 「だけれど」  ここでアーデルハイトは話を転換させる。 「今のあなたは少しおかしいわ。優しすぎる」 「戦争を知らない人間を邪険に扱うことの、何が甘えなのかしら?」  アーデルハイトが今のマーズに深く切り込んで話をするには、幾つかの理由があった。  一つとして、出来ることならチーム内での隠し事は避けておくたいということ。これは『チーム』で戦う上ではかなり重要となる案件だ。  第二に、マーズが何らかの思いを隠しているのではないかということ。  それは彼女の話している雰囲気からして、恐らくアーデルハイトの推論は正しいものであるだろう。 「あなたは何かを隠しているのではないかしら?」  だから、アーデルハイトはそれを確信して話を続ける。  マーズはその言葉を聞いて目を細める。 「……どういうこと?」 「だってあなたは何かを隠しているふうにしか見えないもの。結局、どうなの? あなたは何か隠していないの? 隠していないというのなら、このチームで協力するというのなら、あなたは凡てを曝け出して欲しいのだけれど」  アーデルハイトとマーズは向かい合って、睨み合った。  お互いがお互いを敵視している形となり、基地の中では緊張が走った。  その緊張の糸を解したのは――。  ――ぐう。  誰かのお腹から鳴った、腹の音だった。 「……」  一体誰からのものなのか、誰も探ろうなどとはしなかったが、直ぐにエスティが顔を赤らめているのが、アーデルハイトの目に映った。  しかし、彼女はそれを追求しようなどとはしなかった。  それを問い質そうなどとする必要もなかった。  対してマーズは、その腹の音に感謝すらしていた。 「……ともかく、作戦の続きを話しましょう」  マーズの言葉に、アーデルハイトは小さくため息を付きながら、頷く。 「一先ず、作戦の最初として、訓練学校へと向かい、そこにいる未来の起動従士たちの息の根を止める。その後、残った現行の起動従士の居る場所を突き止め、そのまま殺してしまうか、捕虜にする」 「そう簡単にうまくいくものかしら?」 「うまくいかせなくては行けない。そうでなくては、生きていけないよ」 「……ふうん」 「それに、カーネルはもうこんなことをしないように軍備を縮小、あわよくばゼロにしてしまいたいものね。そうでなくては、この世界の安寧があっという間に消し飛ぶこととなる。カーネルは世界のリリーファーのほとんどを製造している。それゆえ、世界の最先端技術が一同に集まっている。これがどういうことだか、言わずとも解るよね?」  カーネルを倒すことは、どの国にとっても躍起になるべき事象だ。  カーネルを統治すれば、最先端技術が丸々入ってくる。  カーネル自体は自治権を持っているため、統治とはいえ貿易の優先を図るなどといった外部的支配に過ぎないのだが、それでも貿易が優先されるということは、リリーファー等最先端のものがいち早く手に入るということになる。  これはほかの国と戦争していく上では重要となることだ。  戦争は、どの国も知らない技術を使っていれば、それによって相手の隙を狙うことが可能となる。  だから、どの国も躍起になってカーネルを手に入れようとしているのだ。  今回の戦争でヴァリエイブルがカーネルを倒したとしても、それで戦争は終わったと言えない。それにより、漁夫の利を狙おうと企む他国が現れてもおかしくないからだ。 「……カーネルは結局今回の戦争の顛末をどうするつもりなのだろうね」  アーデルハイトは小さく呟き、腰につけたポーチから小さいペットボトルを取り出す。  ペットボトルの中に入っているのはどうやら緑茶のようだった。蓋を開け、一口飲んだ。 「それは解らないんだよ。現時点においても、カーネルが何をしたいのかが見えてこない。恐らくは世界から独立するのが目的なのではないかと思われているが、それとは違うようにも見える。……ならば、何だというのか? それは私の推測に過ぎないが……カーネルは『凡てを終わらせたい』と思っているんじゃないだろうか」 「凡てを終わらせる?」  マーズの言葉が、アーデルハイトの考えていることの斜め上をいったからか、彼女は気持ちが抜けたような、そんな中途半端な声を上げた。 「……考えてもみれば解る話よ。カーネルは世界的に科学崇拝の場所よ。科学を知らない人間は虐げられるし、それだけで存在意義を失ってしまう場所。そんな彼らのプライドは恐ろしい程に高いでしょうね。プライドの高い彼らが他国に吸収され、顎で使われ、ただただ作っていくことが飽きてしまったのだと思う。そうして彼らは発起し、凡てを終わらせてしまおうとした。これはただの戦争なんかじゃあない。リリーファーとリリーファーがぶつかる、勝者によっては世界が大きく変わる戦争よ」 「世界が変わる……、それは文字通りの意味か?」  崇人が訊ねると、マーズは小さく頷く。 「ええ、その通りよ」  世界が大きく変わる。それは言葉通り、文字通りの意味だった。  もし、カーネルがマーズの考えている通りの意味で戦争を起こしているのだとすれば。  カーネルが勝てば、リリーファーによる絶対的な権力のもと、世界から離脱することすら考えられる。  ともなれば、リリーファーや、それ以外の科学技術は大きく衰退する。リリーファーはこの二百年という時間で恐ろしい程の機体が現れ、カーネルが新機体を発表する毎に世界の期待も大きく膨らんでいった。  世界の期待を大きく背負う機体は、それに見合う価値を産み出し、世界へと羽ばたいていく。それは開発者からすればどのような気持ちだったのだろうか? 自分の発明が、世界を破壊し、混沌の根源となっているのを見て、どう思っていたのだろうか?  その気持ちは――誰にも解らない。  しかし、いい気持ちではないはずだ。  だとすれば、どのような行動をとるか――それは直ぐに理解できる。 「……だったら、どうする?」  崇人は、マーズとアーデルハイトに告げる。  マーズは少なくとも今、自分を庇っている。自分は無力な存在だ――崇人はそう考えていた。  しかし、崇人は男だ。  そして、前の世界では企業戦士として日夜戦ってきていた。  そして、この世界に来て、『自分の世界とは違うから』とあまり戦いたいとは思わなかった。  だが。  それがどうしたというのか。  リリーファーによる戦闘と戦争。  間に合わない納期とデスマーチ。  似て非なる二つは、どれも似たようなものではないか。  彼は考える。ここで、どの結論を導くのがベターなのか。  そして、崇人は。  ひとつの結論を導いた。 「……教えてくれ、マーズ」  それは、マーズにとって、出来ることならその選択をして欲しくなかった結論。  しかし、現時点においては最善の選択でもあった。 「その、もともと伝えられていた作戦というのを」  彼の目はまっすぐ、マーズの目を見ていた。  その頃、白の部屋にて数人の人間がティーブレイクを楽しんでいた。  分厚いハードカバーの本を読みながら、その合間にクッキーを小動物のように頬張るのはチェシャ猫。  紅茶の入ったティーカップを傾け、愉悦に浸っている幼女がハンプティダンプティ。  そして、白い長髪の少女がただ部屋を眺めていた。  少女は目鼻立ちがよく、一度歩けば周りの注目を凡て受け持ってしまうだろう、それくらいの美貌だった。 「……ここも変わったわね、チェシャ猫」  少女の言葉は聞くだけで相手を凍えさせるような冷たさだった。 「ここは帽子屋が生まれてからだいぶ変わったよ」 「その帽子屋が見えないようだけれど」  少女はそう言ってテーブルに置かれたティーカップを手に取る。  ティーカップの中から湯気が出ている。まだ暖かい紅茶を一口飲んだ。 「この紅茶……チェシャ猫が?」 「うん。やっぱり紅茶は自分で淹れるに限るよ」  チェシャ猫はそう言って、小さく微笑んだ。  チェシャ猫は紅茶を淹れるのが好きだった。それ以外にもクッキーを作ったり、ケーキを作ったりとこういうことを趣味としているのだ。  チェシャ猫曰く、俗物の食事を作るのも悪くない、とのことだ。 「紅茶を淹れるのは、貴方には適わないからね」  少女はくつくつと笑う。 「……ところで、今日はどうした?」  ハンプティダンプティが訊ねると、少女は口に手を当てて小さく微笑んだ。  少女の微笑みは、凡て吸い込まれそうな畏怖すら感じさせた。それは人間だけではなく、彼女と同族であるハンプティダンプティですら、身を震わせてしまう。 「今日はね、少しだけお話に来たの。歓談ってやつよ」 「歓談か」  ハンプティダンプティはニヒルに笑みを浮かべる。 「君はずっとここに居なかったからね。色んな状況報告をしてもいいだろう。先ずは、インフィニティ計画について、かな?」 「インフィニティ計画? 聞いたことないわね……。もしかして、私がいない間にそんな計画が始まっていたの?」 「ああ、帽子屋が主導となってね。『アリス』を先ずは探さなくてはならないが」 「アリスは見つかっているのかしら?」 「見当はついているようだよ」  ハンプティダンプティの言葉を聞いて、少女はソファに背を預ける。  少女はどこか遠くを見つめていたが、直ぐにまたハンプティダンプティの方へ視線を戻す。 「にしても、アリス、ねえ……。今更とは思えないかしら? 確かに私たちは『アリス』から生まれたわ。だけれどそれはオリジナルに過ぎない。殆どのシリーズはもう何代目だったか、ともかく代わってしまったのばかりよ。そんなのが、アリスを戻しても特に意味はないんじゃあないかしら」 「私だってそう思ったさ。しかし、彼が言うにはアリスを戻す意義がその計画では必要らしい。何故かは知らないがな」 「計画の全容は、あなたも知らないというの? アリスから一番最初に生まれたあなたでも?」  少女の問いに、ハンプティダンプティは頷く。  少女はそれを聞いて益々帽子屋が怪しくなってきた。  彼女が『白の部屋』から居なくなって暫く経っていた。その時間は、人間の一生では到底比較できない程にだ。彼女が白の部屋にいた時は、シリーズの姿も大分違っていた。ハンプティダンプティ以外は、何代と代わっている。  代わっている、というのはつまり死を迎えたということである。どうして死を迎えたのかは、色んな理由がある。例えば、戦争に巻き込まれて死ぬケースもあった。例えば、自ら望んで『シリーズ』から脱退するケースもあった。  シリーズは姿を変えることはない。しかし中身はすっかり変わってしまっている。  それを少女は嘆いているのだ。  しかし、少女も恐ろしい程の時間を過ごしているのは事実だ。  少女は人間ではない。シリーズという存在にカテゴライズされる。  シリーズという存在は、もともとアリスから生まれたのだが、それはオリジナルのみに過ぎない。オリジナルではない、二代目以降の存在に関してはどれから生まれたのかは解らない。  人間から生まれたり、モノに霊体が植えつけられそれによって生まれたり などとそのケースは非常に多種多様だ。  だからこそ、人間を観察するのがシリーズにとっては楽しみであるともいえる。 「……まあ、そんなことはさておき、計画について話してもらおうかしら」 「計画について、興味が湧いてきたのかい?」 「そんなところね」  少女は小さく呟く。  それを聞いて、ハンプティダンプティは立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。  それは茶色の表紙のソフトカバーの本だった。表紙には何も書かれていないから、表紙を見ただけではそれが何の本なのかは全く解らない。 「それは?」 「残念ながらあまりにも情報量が多すぎてね。本を読まないと説明が出来ないんだ。済まないが、これを見ながら説明させてもらうよ」  それなら仕方ない、と少女は右手をハンプティダンプティに差し出す。 「先ず始まりは小さな出来事だった。七代目帽子屋が就任した時だよ。彼は元々人間だった」 「人間……だっただと?」 「特に驚くこともなかろう? シリーズが人間だった例はほかにもあったのだから」  ハンプティダンプティの話は続く。 「ともかく、私は彼にシリーズとしての役目を与えた。暫くは|白の部屋(ここ)で色々と監視したり、歴史を眺めたりなどと割と充実した生活だった。そうそう、私ともよく話をしていたよ」 「へえ、珍しい。ハンプティダンプティ、あなたと親しく話をするのなんて私くらいしかいないんじゃあない?」 「そうかもしれない」  そう言ってハンプティダンプティは紅茶のティーカップを持ち、一口啜った。  そのあとは元の位置に戻し、ふう、とため息をつく。 「……しかしある日、彼があることを言い出した。『この計画は世界の仕組みを大きく変えることの出来るものだ』と言ってね。私としては傍観者の地位……これはシリーズ全体に言えることだがね、その地位を守ってきていたから、手を出すのはどうかと思った。しかし、帽子屋は問題ないと言った」 「彼が自発的に考えた……そう言いたいのか?」  思わず少女はそう言って立ち上がった。 「だからそう言っているだろう?」  しかし、ハンプティダンプティは姿勢を崩さないまま少女の顔を見つめて、答えた。 「……そうか、話を続けてくれ」  少女はそれで納得したらしく、ソファに再び背を預ける。 「解った。話を続けよう。彼が提案したのはインフィニティ計画と呼ばれるものだ。私はそれをどういうものなのかは完璧に理解していない。だが、これだけは言える。これは非常に運に左右されるものだということだ」 「運?」 「ああ、それがどういう意味なのかはプロジェクトを聞いていけば解ると思う。先ず、『インフィニティ』というリリーファーは知っているね?」 「インフィニティ……、確かあの世界では初めに造られたリリーファーだろう。製作者が誰なのかも解らないという、特殊なリリーファーだったな。その割には性能はオーバーテクノロジーとも呼べるもので、リリーファーが製造されて二百年以上がたった今ですら技術力が追いついていないというものだったかな」 「そうだ。そして、それはある人間にしか乗ることのできない代物だった。製造は帽子屋が選んだ人間に任せた」 「帽子屋は製造者を知っているというのか?」 「……ああ、知っている。だが、彼しか知らない。私にも、チェシャ猫にも、ほかのシリーズにも知り得ない情報だ」 「秘密主義だというのか。あの帽子屋は」  少女は笑った。  小さく、小さく、唇を歪めて。  ハンプティダンプティから聞いた情報は、まだ断片的ではあったが、少女はある確信を持っていた。  帽子屋は、シリーズそのものの仕組みを破壊しようとしている。  その、明確な証拠もない確信を、彼女は持っていた。  ハンプティダンプティの話は続く。 「……まあ、そういうわけで、インフィニティというリリーファーはこの世に生を受けた」 「生を受けた? あれは生きていないはずだろう。ロボットの完成に『生を受けた』という表現は少しばかりおかしな気もするが」  指摘を受けても、ハンプティダンプティはそれに対して修正することはなく、まるでその指摘を聞いていないかのように話す。 「インフィニティは完成した。しかしさっきも言ったが、ある一人の人間にしか運転することができないという厄介な代物だ。当然というか必然というか、それは森の奥にある倉庫に置かれ暫くの間放置されることとなった。運転が出来る『起動従士』が来るのを待って」 「それが――あの男だというのか?」 「まあ、少し話が飛んでいる。どうして彼がああいうことになったのか……いや、それを話すとつまらないな。リリーファーのシステムについて、少々補足しておこうか。リリーファーを造ったのは人間たちの記録ではラトロというリリーファー製造機関ということになっている」 「違う、と?」  少女の言葉にハンプティダンプティは頷く。 「ああ、違う。違うんだよ。だって私たちが作ったんだから。いや、正確にはアリスが造ったということになるかな」 「アリスが? リリーファーが出来たときには既にアリスは居なかったはずじゃあ……」 「いいや。アリスは存在していたよ。ただし、初代のアリスではない。つまり私たちを生み出したアリスではないがね」  その言葉の意味を、少女は理解しかねた。  その言葉は、アリスも転生し続けるということを意味しているからだ。 「アリスも……転生し続けている、というの……? だとすれば、それは一体誰が……」 「それは僕たちにも解らない」  そこで、第三者の声が入った。  少女とハンプティダンプティはそちらを向いた。  そこに立っていたのは、帽子屋だった。 「帽子屋……!」  少女は立ち上がり、帽子屋に掴みかかる。 「どうしたんだい、綺麗な顔が台無しだ」  対して、帽子屋はこんな場面においても涼しい表情を見せる。 「あなたは……何処まで世界を変えるつもりなの……! 私たちは飽く迄も『観測者』!! 世界を眺め、世界を管理し、カミからその代行者となった存在! にもかかわらずあなたは……何を……!」 「そんなことか」  少女の声を遮るように帽子屋は言うと、彼女の手を払った。  少女はそのままゆっくりと踵を返し、元居た席へと戻る。  それを見て、帽子屋は小さく笑った。 「うん。今はそれが賢明だね」  帽子屋は彼女の隣に座り、ハンプティダンプティに右手を差し出す。 「さあ、話を続けてくれよ」  それを聞いてハンプティダンプティは小さく頷く。 「……そうだね、話を続けよう。インフィニティは主を得て、真に目覚めた。活動を開始した、といってもいいだろうね。そうしてインフィニティは様々な試練を乗り越えていった。……これからは、帽子屋。君が言った方がいいんじゃあないか? なにせ君が計画の発起人なんだから」  ハンプティダンプティから話を振られた帽子屋は口に手を当て小さく微笑んだ。 「ああ。そうだね。それじゃあ……続きは僕から話すことにするよ。インフィニティはリリーファーとは違うあるシステムが組み込まれているんだ。リリーファーのシステムは話したかい?」 「そういえば、さっき話が流れてしまった気がするわね」 「そうか。……リリーファーがシリーズと同じシステムというのは聞いたね?」  帽子屋の言葉に、少女は頷く。 「システムが一緒ということは、リリーファーは単なる機械ではないということだ。単なる機械ではないとはどういうことか? リリーファーは生きているということだ。……まあ、それはどういうことかは教えてあげられない。しかしそれが計画には重要なことであるのは変わりない」 「……なんだい、勿体ぶって」 「勿体ぶらせてもくれよ。ただ、君も世界を観測していくのであれば、いつかはそれを知ることになる。嫌でもそれを知ってしまう」  少女は首を傾げる。 「何だかなあ……。初めて会ったんだけど、君が興味深く思えてきたよ」  対して、帽子屋はニヒルな笑みを浮かべる。 「そう言ってもらえて嬉しいよ」 「あのー、ところで……どうしてここに来たんですか?」  そう言ってチェシャ猫は紅茶を注いでいく。どうやら今まで席を外していたのは紅茶を入れ直していたからのようだった。 「チェシャ猫はさっきもそれを聞いていたわね。……まあ、久しぶりに暇だったから」 「暇、というか。君は旅をするのが好きだからな。私たちみたいにこの部屋でモニター越しに観測するのがつまらないと言いたげに」 「実際そうだもの。嫌よ、そんなつまらない生き方は」 「生き方、ときたか……」  ハンプティダンプティはほくそ笑む。  少女は立ち上がり、窓から外を眺める。 「ほんっと、このだだっ広い白はいつ見ても無機質でつまらないわね」 「そうかな? 白は何でも生み出せる。無限の可能性を秘めているよ。しかし何も生み出さなければそれは何もないままということで何も起こらない。ただの空間に過ぎないし、もしかしたらそれすらも定義されないかもしれない」 「……小難しいことを話しているが、嫌いではないね」  少女はそう言うと、モニターを見つめた。  モニターは今、砂嵐となっていた。つまり、電波を受信していないということである。 「モニター越しに観たいのかい?」  ハンプティダンプティが訊ねると、少女は再びソファに腰掛ける。 「なにせ久しぶりだからね。久しぶりのことは思いっきり楽しんでしまおうと思うわけだ」 「珍しいね。君もあの世界では色々と興味があるものが見つかったんじゃあなかったのかい?」 「そのはずだったんだがね。まあ、結論からしてそれほどいいものはなかった。何百年と旅をしてきたが、人間は私の眼鏡にかなうほどの進化は遂げてこなかったようだ」 「君のお眼鏡って」  ハンプティダンプティは思わず上半身を起こした。 「相当理想が高いように思えるけれど? そんなの、今後千年ほど経たないと叶いっこないさ。勿論、このままの科学レベルで進歩し続ければ、の話だけれど」 「私は人間に高望みしていたのは事実よ。だって、初めての高等知能を持った生物。そんな生き物を見ていて楽しくない?」 「楽しいのは事実だし、それが私たちの仕事だからね」 「ハンプティダンプティはこれだから頭が固いんだ。私たちに課せられた仕事をもっと楽しまなくちゃ。つまらないよ?」 「それはそうだがな……」 「まあ、いいや。話だけ聞ければそれで充分。さあ、モニター越しに世界を見てみようじゃないか。私にとっては久しぶりだからね。それだけで楽しめるんだ」 「そうか。それじゃあ見ることにしようか――」  そして、ハンプティダンプティは彼女の名前を口にした。 「――バンダースナッチ」  それを聞いて、バンダースナッチはニヤリとした。  カーネルの中心地から一歩離れた廃虚では、崇人たちハリー騎士団の作戦会議が未だ続いていた。 「学校はセキュリティが高いけれど、裏口はそこまで高くない。ざる警備と言ってもいいくらいにね。ならばそれを利用する。裏口から潜入し……そうね、先ずは最高学年の教室を制圧しましょう。そして、それと同時進行でリリーファーを破壊する」 「破壊と言ったってそう簡単に出来るもんじゃあないだろ? プラスチック爆弾と地雷、それに一挺の拳銃くらいしか各個人に渡されていないんだぞ」  マーズの説明に崇人は割り入った。確かに彼が言うのも一理ある。  しかしながら、起動従士たる者武術も出来ないといけないのは最早常識の範疇でもある。そうでなければ、例えばリリーファーが行動不能に陥った時どう対処すれば良いのだろうか? ということになる。  そうなれば、最早信じられるのは己の肉体のみだ。  己の肉体で、戦場を制する。  そうもなればリリーファーなど必要ないのだが、実際には違う。  飽く迄も起動従士が持っている体術は『戦場を切り抜ける』ためのものであって『戦場を制する』ものではない。  戦場を制するための力は、少なくともそのようなものではないからだ。 「破壊……そうだな、そいつは『内面的に』破壊するのか『外面的に』破壊するのかによって違いがある。外面的ならばタカトが言ったように爆弾等を用いて外装を破壊し行動不能とする方法。内面的はプログラムにハッキングをかけて行動不能にさせる方法。地味ではあるが、内面的の場合そこでコーティングをかけてしまえば外面的よりも多く時間が稼げるだろう」 「そんな方法で簡単に行くのか? そもそもプログラムにハッキングとかいうがそれをする人間は誰だ? まさかマーズ、お前じゃあるまいし」 「これよ」  マーズはそう言ってウエストポーチから何かを取り出した。  それはコンパクトディスクのようだった。白いコンパクトディスクの表面にはただ黒い字で『program』としか書いていなかった。 「……何じゃこりゃ?」 「メリアが開発してくれたハッキング用のプログラムコードが入っているの。これをインストールするだけで自動実行されてプログラムが正規のプログラムを完膚なきまでに食い潰す」  その思想は聞いているだけであまりにも恐ろしいものであった。  食い潰すという表現は誇張表現ではなく、まさにそれなのだろう。 「これを使うことでプログラムが消え去り、それに近いダミープログラムが実装される。ダミープログラムの内容は全くの無関係のシステムが構築され、リリーファーが動くことはない」 「ほんと恐ろしいプログラムを作ったなあいつは……。味方にすれば百人力だけれど、敵に回したくない人間だな」  そう言って崇人はため息をつく。 「敵に回したくないのは私だってそうさ。だって彼女は恐ろしい程の科学力を持っている。そりゃひとつの国を破壊し、一体のリリーファーを破壊するほどの科学力を持っていても何ら不思議はない」 「不思議じゃない、と言ってもなあ……」 「不思議じゃないことを不思議と思うことがおかしな話だとは思わない? それともあなたはそういうことを不思議だとは思わず、もしくは勝手にリジェクトしてしまう?」  リジェクトをしてしまうというかそういう訳ではないのだが――と崇人は思ったがそれ以上特になにも話すことがないと思い口を噤んだ。  アーデルハイトは会話が終了したのを見て、手を上げる。 「あー、そろそろいいかな? もう話も終わったんだろうし、作戦を実行しようと思うのだけれど」 「作戦……ああ、そうだったな」  マーズは小さく呟き、そして手を掲げる。 「――今ここに、『カーネル陥落作戦』を開始する!」  その号令が、部屋に響いた。  ◇◇◇  エレン・トルスティソンはあるものを見上げていた。  それはリリーファーだった。  リリーファーの躯体は黒く、それは最高技術を持ったリリーファー――『第五世代』であった。  カーネルが開発した最先端技術を兼ね備えたリリーファー。  それが彼女のリリーファー『ムラサメ00』であった。  ムラサメは最高のリリーファーだ。この世界でこのリリーファーを倒すことが出来るリリーファーはたった一台しかいないだろう。  インフィニティ。  インフィニティは最強のリリーファーだと言われている。  最高のリリーファーと最強のリリーファー。  それらが戦うことで、何が生み出されるのか。  それは未知数だ。そもそも戦いに予測など通用しない。時に科学者が『戦闘の予測』を行うことがあるが、こんなことこそが愚かだった。  そんなことが成り立つわけでもなく、そもそもそんなことは気まぐれが重なったことで結果が生まれるのだから、予測という冷徹な宣言が成り立つはずもない。 「……インフィニティと戦って勝つ可能性、〇.七パーセント……」  エレンはスマートフォン端末の画面に浮かび上がる文字を無機質に読み上げた。  まったく、何の感情も抱かずに。 「リリーファー同士の戦闘が予測によって成り立つわけではない。それは確かにそのとおりだろうな」  声が聞こえ、振り返るとそこには黒いローブを着た銀髪の少女が居た。 「……あれ? マキナの方に行ってたんじゃあ?」 「マキナは凡て完璧に進めている。このままならば今日中にも終わるだろうよ」 「そうだね。……噂だと反政府派組織『シュヴァルツ』が明日にもデモを働くらしいし」  エレンが呟くと、少女はニヤリと微笑む。 「なあに……まだ終わっちゃいない。どうせ『あちら側』もそのデモに会わせて行動を開始するのだろう。それにヴァリエイブル連合王国の人間も、凡てまとめてムラサメが、|魔法剣士団(マジックフェンサーズ)が破壊すればいい。そうすれば世界はカーネルのモノになる」 「でもさあ……科学者の方が言ってたよ。『巻き込んですまない』って」 「あなたは人を殺して辛いと思う? なんの理由もなく人を殺して、悲しいと思う?」 「そんなこと思っていたらこんなところには居ないよ」  少女の問いに、エレンは答える。  それを聞いて、少女は高らかに笑った。 「いい、いいね! エレン! それだからこそ、僕は君に『魔法剣士団』のリーダーを任せたんだ。アンドレア、バルバラ、エラ、エリーゼ、バルバラ、ドロテーア、ドーリス、エルナ、フローラ、エルヴィーラ、イーリス、イザベラ、イルマ、ハンネ……どれも僕が直々に鍛えた人間ばかりだ。だけど、君は! 最高だよ……。それでこそ、僕が認めた存在だ」 「インフィニティとの戦闘は、本当に面白いものになるんだろうね」  エレンの問いに、少女は目を閉じて頷く。 「ああ、君が心配せずとも問題はない。インフィニティは最強のリリーファーだ。そして君はそれを倒すためのアンチテーゼだ。同じ黒い躯体のリリーファーだが、性能はムラサメの方が高い。それは間違いない」 「互角ではなく、圧倒的に?」 「それは君次第だ。君がどれほどムラサメの力を引き出せるかによるよ」  それを聞いて、エレンは小さく頷き、目の前にある階段を上っていく。階段はムラサメのコックピットへと伸びていた。 「コックピットに乗っても?」 「構わないよ。君のリリーファーだからね」  そう答えて、少女は踵を返し、その場をあとにした。  エレンはコックピットに乗り込むと、背凭れに体重をかけ、顔を赤らめた。  これから始まるのは、歴史的に重要なターニングポイントとなる戦争だ。  いや、既にその戦争は始まっていた。  どっちに転がっても、世界は大きく動き出す。  その運命を握っているのは――崇人が起動従士のリリーファーであるインフィニティと、エレン率いる『魔法剣士団』が起動従士のリリーファーであるムラサメだけだ。  マーズたちはカーネル中央部にあるリリーファー起動従士訓練学校、その校門前に来ていた。  真ん中には高い尖塔が立っており、その重々しさは見るもの凡てを圧倒させた。  尖塔の頂点を見ながら、マーズは舌打ちする。 「まるで悪魔が住んでいそうなくらい、物々しいわね」 「ヴァリエイブルは……これほど迄に大きな建物は建てませんものね」 「飛行機を飛ばすためにはどうしてもそうせざるを得ないのよ。それがどうしても無理な場合は合図を送って回避を促す。それくらいはしなくては大惨事になりかねない」  ヴァリエイブルでは航空法というものが定められている。軍事に重きを置いているから――というわけではない。寧ろその逆の発想で、商業用の飛行機についての法律だ。  その法律は建物の高さについても言及しており、一部の建物を除いて建物の高さは十五メートルまでという風に規制されている。  それについては王国の許可を得て航空灯を頂点につければ問題はないのだが、そう簡単にはうまくいかない。また、うまくいってもある建物の高さを超える建物を建築するのは難しい。  それは、城である。  王国にとって城は権力の象徴である。そんな場所の高さを超すような建物をそう簡単に国が認める訳もなく、結果として殆どの建物が城より低い建物となっている。  しかし、ここは違う。  王政が敷かれていない、別の国と化した機械都市カーネルという場所。  その場所では、ヴァリエイブルのようなことが通用する訳もなく、カーネル独自のシステムが構築されている。そのシステムはあまりにも未来志向だった。 「ここの政府機能を持つのって、何処だったかな。確かカーネルには支所があったはずなんだけれど、まぁこれよりは高くはない」  マーズが歌うように言うと、後ろにいたマグラス――ではなくリボンを付けていたからエルフィーだ――が続けた。 「高い建物を造って権力を高く見せたいのでしょうか……?」 「まぁ、お偉いさんの考えはよく解らないよね。たまに私だって『あれ』の考えていることが解らなくなるからね……」  マーズの言う『あれ』とはヴァリエイブル連合王国の国王、ラグストリアル・リグレーの事だが、彼女がそれには気付かなかった。  改めてマーズは、天に突き刺すように建つ尖塔を見上げる。そのおどろおどろしさに思わず身を竦めてしまいそうになったが、周りにはハリー騎士団の|部下(メンバー)がいる。そう簡単に弱みを見せてなどいけない――彼女はそう思うと、一歩前に踏み出した。  作戦の概要としては、非常に簡単だ。裏門から潜入し、クラスに居る学生を尽く殺していく。  容赦はいらない。情けなどいらない。  そんなものをかければ、やられるのはマーズたちだからだ。  生きるため、勝つための最善の選択肢――それこそが『未来の可能性を潰すこと』、それ以外に他ならない。 「……改めて作戦の概要を説明していくわね。ハリー騎士団はこれから裏口から潜入する。そして速やかに教室を占拠。学生を有無を言わさず射殺していく。銃弾のストックは充分にあるな? そうでないと作戦は実施出来ないぞ」  マーズがハリー騎士団の面々に告げる。彼らは一瞬腰に携えてある拳銃を一目見て小さく頷いた。  それを見て、全員が頷いたのを確認してマーズも大きく頷いた。  裏口には鍵がかかっていなかった。はじめマーズは罠かと思ったが――直ぐにその可能性を否定し、団員達に入るよう指示した。  裏口から入るとその恐ろしい程の静けさにマーズは目を疑った。どうしてこれほどまでに静かなのか、それを呟いたが誰もそれについて知る由もなく、ただその声だけが廊下に虚しく響いた。  一階、二階、三階、四階……その何れもの教室を巡ったが誰も居なかった。 「まさか、私たちの行動が誰かにバレていたなんてことは?」 「そんなことは有り得ないわ。……たぶん」  否定したくても、現実は容赦なく彼女たちに突き付けられる。  もしかしたら、敵に筒抜けだったのだろうか? マーズはふとそんなことを考えたがその迷いを振り切ってまた歩を進める。  そして、ついに彼女たちは最後の部屋に到達した。  リリーファー保管庫。そう書かれた場所には多数のリリーファーが保管されている……らしい。断定的な言い方となっていない訳はそれが変わってしまっている可能性を考慮に入れていないためである。  カーネルが『独立』を宣言してそう時間は経っていないが、幾らなんでもその行動がノープランによるものとは考えにくい。ともなれば、随分と前から作戦を組み立てていたはずである。 「開けるぞ」  呟き、マーズはドアノブに手を伸ばす。その手には汗をかいていた。緊張していたのだ。  このカーネルにある訓練学校が、幾ら新しく出来た場所だからとはいえ、つい昨日にでも突如として完成した訳ではない。  この学校、ひいてはこの校舎が完成したのは今から十五年前になる。尤も、そのうち十三年間(即ち、二年前まで)はヴァリエイブル連合王国の訓練学校の分校という立ち位置であったのだが。  マーズは起動従士になってから、一度この学校に訪れたことがある。  だからこそ、この学校の仕組みについてはこの中では一番知っていた。  この中にはリリーファーがある。それも、分校とは思えぬほど大量に。  はじめは『カーネルで開発した不良品』ということで大量にあるのだという学校の人間の言葉を鵜呑みにしていたが、今思えばこのためだったのではないかとマーズは考え、舌打ちする。  そして――マーズはゆっくりと扉を開けた。  その光景に思わず彼女たちは息を飲んだ。  そこに広がっていたのは、大量のリリーファーが一列に並べられている光景だった。  そのリリーファーは、どれも同じリリーファーだった。そのリリーファーの名前はムラサメというのだが、今の彼女たちがそれを知る由もない。 「カーネルめ……とんでもないのを作っていたようね」 「あら? とんでもないとはどう言う意味かしら」  そんな声が聞こえて、マーズはその声がした方を向いた。  そこにはひとりの少女が立っていた。  黒と白のチェック柄のスカートに、ブラウンのブレザー。その間からは白いワイシャツを覗かせる。これだけ見れば、とても起動従士とは思えない。  しかし、そんなマーズたちの想像を見透かしているように、少女はニヒルな笑みを浮かべた。 「ようこそ、ヴァリエイブルの人間たちよ。カーネルのリリーファーを見た感想はいかがかな?」 「まったく、性格の悪い都市だこと」  マーズが呟くと、少女はその場で消えた。 「!?」  彼女たちは、それにより、結果としてほんの一瞬隙を生み出してしまった。  そして。  気がつけば彼女たちは何者かに取り囲まれていた。  それにマーズたちは気づくことが出来なかった。  そして、その人間はよく見れば先程の少女と同じ格好だった。  まるで、人造人間のようだった。  まるで、鏡写しのようだった。  その中のひとりが、呟く。 「……おかしい。確かハリー騎士団には≪インフィニティ≫の起動従士が居たはずだ」  そう言って、マーズの胸ぐらを掴んだ。  マーズはそうされてもなお何も言わなかった。 「何処にいる」 「はて。なんのことかな?」  マーズはどこ吹く風という感じで返したが、少女はそれを見てマーズの頬を叩く。 「……マーズ・リッペンバー。君は『女神』として戦場を駆け抜けた起動従士だったな。それが蹂躙される気持ちを味あわせてやろうか?」 「それもいいねえ……と言いたいところだが、お断りさせてもらうよ」  マーズが言うと、少女はきつい目つきでマーズの方を見て、舌打ちする。 「こいつらを連れていけ」  どうやら彼女はリーダー的存在であるらしく、彼女たちはその言葉に従って、マーズたちを捕らえた。  崇人とエスティは下水道を進んでいた。  カーネルには下水道が網目のようになっており、即ちそれを通ることで様々な場所に行くことができる。  裏を返せば、下水道さえ通れればどこへでも行けるということだ。 「この下水道を通ればいいとか言われたけれど……本当に辿り着くのか?」  崇人は訊ねるが、到底答えなど求めてはいない。  何故ならエスティにも解らないことなのだから。少なくとも、この問いは、今ここにいる二人に答えられるものではない。  彼らの目的は、第五世代のリリーファーについて情報を掴むこと、それ以外にほかならない。それ以外に関してはマーズたちが行うのだという。それを聞いて崇人は安心したが、それでも一抹の不安が残っていた。  マーズはカーネルについてよく知っていない。それも言えば崇人なんてこの世界についてまったく知らないというのに、何を烏滸がましいことを言っているのかということになる。  カーネルの実力は未知数だ。何も戦力を一極集中させているとは思えない。リリーファーの研究のみに力を注いでいるわけではなく、他の研究も行っているのもまた事実だろう。それはヴァリエイブルだって変わらない。  ヴァリエイブルもカーネルも、何も一極集中に拘っているわけではないし拘っていないのが事実だ。 「一先ず、この下水道を抜ければ着く、とはこの地図に書いてあるけれど……」  エスティは手に持っている地図を見てそう言った。 「それじゃあ」  そう言って、崇人は上を指差す。  そこには、マンホールがあった。そこからは光が漏れていた。 「ここから外に出ればなんとかなるかな」  外に出ると、そこは廊下だった。窓からは光が漏れていて、まだそこまで時間が経っていないことが見て取れる。  廊下を見て、人の気配が居ないことを理解して、彼らは漸くマンホールから外に出る。  そこは学校の廊下だったらしいが、音が一切ない空間は心理的に圧迫感を感じさせる。 「……ここは、学校か」  一先ず、崇人は事実を確認する。 「それじゃあ、第五世代の情報は見つからないんじゃあない?」 「そうだと思うか? 結局解らないわけではないぞ。……そうだ、図書館でも行けばそれに近い情報が手に入るかもしれない。第五世代のリリーファーは門外不出だったが、ここは門の中だ。門の中なら自由かもしれない」  そんなことを言ったが、それが正しいとは思っていない。寧ろ間違っているようにも見えるが、少しずつ慎重に考えると、そんなことは有り得ないという一つの結論に辿り着いた。  何故ならここはカーネルの中でラトロの次にリリーファーのある場所だからだ。起動従士は何も操縦の仕方だけ学ぶ訳ではなく、リリーファーそのものについて学ぶ必要もある。  動かす物を学ばなければ、それを動かすことなど到底出来はしない。  だからここにはリリーファーに関する書物がたくさんあるはずなのだ。  崇人はそんな思いを抱きながらエスティと共に図書室を探した。  ◇◇◇  図書室は思ったよりも簡単に見つかった。彼らが侵入した廊下の、その突き当たりにあったのである。 「こんな近くにあるとはな……」  図書室の扉は開け放たれていて、少なくとも外から見た限りでは中に誰も居ないようだった。  中に入ると、一層圧迫感が増した。  大量にある本棚と、それいっぱいに詰め込まれている書物が原因のようだった。 「ここから探すのは至難の技だな……」  崇人は呟いて、右手の方を指差した。 「俺はこれから向こう側を見て回る。だからエスティは逆側を見てくれないか」 「解った。それじゃあ」  そう言ってエスティは小さく手を振って彼らは別れた。  とはいえ元から大量に、それこそ|堆(うずたか)く積み上げられた書物を一目通すだけで日が暮れそうだが、だからといって崇人は正直に凡ての書物を見るつもりもなかった。  ある程度、方針を立てていたためである。これについては日本に居た企業戦士時代に培った業だ。  先ずジャンルを『工学』に定める。次いで端書きに何世代のものか書かれているかを見て、その内容を確認する。  それにより、大体七割近い書物が除外出来る。とはいえ、まだ三割存在するのだが。  ともかく大多数の書物が除外出来たのは事実だ。これにより再びカテゴライズし、最終的に七つの小分類に分割することが出来た。残りはこの小分類をしらみ潰しに見ていくだけである。  崇人としては早く見つけたかったが、この大量にある書物の前にただただ圧倒されるのみで、それを抑え込むだけで精一杯だった。 「……やっぱり探すほかないんだよなあ」  崇人はそう言って一冊目の書物を取り出す。赤茶けたハードカバーの書物だった。書物の表紙を開けると、ところどころ穴が空いていて見えなかった。  辛うじて見た中身が紅茶のレシピであることが判明し、崇人は思い切り書物を床に叩きつけた。 「なんでこんなものがあるんだよっ!」  そうして、再び別の書物を取り出す。  タイトルにはこう書かれていた。  ――『第五世代リリーファー「ムラサメ」とは』 「これだ」  小さく呟くと、彼はその書物を食い入るように見始めた。  第五世代リリーファー、ムラサメとはラトロが製造した最新型リリーファーである。半年前に製造を終了したニュンパイなどもはや敵ではない。  ラトロは自らをライバルとしてリリーファーの製造に応る。その為ではあるが、結果として性能が向上するのだ。  しかしそれは単なるバージョンアップではない。姿形が変わってしまうほどにその性能を上げる。ゆえに、どれもオンリーワンな躯体となっていた。  そんな中、作り上げた量産型リリーファー『ニュンパイ』はラトロが考える計画の第一歩として造られた、新たなリリーファーであった。  このリリーファーは様々な問題点が発覚したために市場への販売を開始し、以後世界で使われるようになった。  そして、それから。  改良に改良を重ね。  新たなリリーファーをつくりあげた。  それこそが『ムラサメ』だった。  ムラサメのコントロールは今までのリリーファーコントローラーとは異なる。何故ならば、その操縦の複雑さゆえに体感的に操縦することもままならないためである。  そのため、カーネルとして『教育』した起動従士をムラサメ専属の起動従士とする。  それこそが、魔法剣士団だ。  魔法剣士団は名前のとおり魔法も使うことが出来るのだが、そのメインの目的はムラサメを従えた『リリーファー兵団』である。かつての古文書に書かれていた機神という言い方を使うならば、『機神兵団』と名乗ってもいいのかもしれない。  では、どうやって操縦するのか?  ムラサメにはキーボードが設置されている。これでコードを入力するように制御するのである。それにより複雑化した命令も耐えることが出来る。  ムラサメには幾つかの機能がある。一つ目として『人工降雨』を挙げる。人工降雨はドライアイスを核とした弾丸を空に撃つことで人工的に雨雲を生成する機能である。それだけでは特に意味もないように思えるが、その雨は強力な酸性雨であり、ムラサメには無害だが他のリリーファーの躯体を融かしてしまうほどの強酸性である。  そこまでを見て、崇人は絶句した。  このようなリリーファーが、量産されている事実を知ったから。  一体ならともかく大量にいる。  そんな存在に、本当に勝つことは出来るのだろうか。  気付けば崇人の足は震えていた。  怖い。  そんな感情を抱いていた。 「彼らは第五世代の情報を手に入れたわけか」  白い部屋で、ハンプティ・ダンプティは紅茶を飲みながら画面を見つめていた。  ハンプティ・ダンプティのほかにいたのはバンダースナッチだけだった。それ以外は何処かへ行ってしまったのだ。  それに気づいたバンダースナッチは、ハンプティ・ダンプティに訊ねる。 「あれ? 帽子屋たちは?」  それにハンプティ・ダンプティは答える。 「チェシャ猫は事務処理、帽子屋は……ありゃもう完全に趣味だね」 「趣味?」 「趣味というよりかは計画、かな」 「ああ」  そこでバンダースナッチは何かに気付いて、頷く。 「インフィニティの起動従士に会いに行ったんだな」  それを聞いて、ハンプティ・ダンプティは頷く。 「どうなるか……楽しみだよ。少なくとも、帽子屋と彼は会った事がない。シリーズの襲撃に抗ったことはあったにしろ、直接帽子屋と彼が会うのは初めてのはずだ」 「直接?」 「あの大会があっただろう? あれにも出ていたのだよ。インフィニティの起動従士の様子見、という面もあって」 「なるほどね」  その言葉で会話が一旦終了し、彼らは再び画面に集中した。  ◇◇◇ 「どうしたの?」  そこで唐突に声が聞こえて、崇人は我に返った。  エスティが、彼の手を握っていたのだ。 「い、いや……何でもないよ」  嘘だ。  崇人はムラサメの怖さを知ってしまった。それだから、そのように怖い思いを抱いているのだ。  それをエスティに教えてもいいのだろうか。  彼女が怖がってしまって、どうなるのだろうか。  それは崇人には解らない。 「……何か解ったんでしょう?」  しかし、エスティの言葉は彼が『言って欲しくない』フレーズだった。 「だったら、教えてよ。タカトだけじゃあなくて、私にも。情報は共有しておくべきでしょう?」 「それは……」  そうだ。その通りだ。  その事実を否定することが、崇人には出来なかった。  彼女を傷つけてしまうような気がしたからか?  それは、彼のエゴだ。勝手である。  だから。  彼は、先程知った事実を彼女に吐き出した。  彼女は驚いていた。絶句していた、と言った方が正しいのかもしれない。 「だから、いったんだ」 「……いいや。でも、私はこれを知れてよかったよ」  そうか。と崇人は頷く。 「とりあえず、この事実をみんなに伝えなくては……」 「それは無駄さ」  そんな声が聞こえて、崇人とエスティは振り返った。  そこに居たのは一人の青年だった。 「お初にお目にかかるよ、タカト・オーノ……いや、君はどっちで呼んだほうがいいんだろうかな。解らないけれど、とりあえず『この世界』での呼び方とさせてもらうよ」  それを聞いて、崇人の表情が|硬(こわば)ったものとなった。 「……何者だ」  崇人の声が、自然と低いものとなる。  それは、そこにいる存在を警戒しているからだ。  そこにいる、前の世界の崇人を知る存在は。崇人にとってチャンスだった。  だが。  今、この世界から居なくなってしまえば、ハリー騎士団はどうなる? エスティは? マーズは? ヴァリエイブルは? 崇人の中でそのような思いが渦巻いていた。  その様子を、青年は気が付いていたらしく小さくため息をついた。 「この世界に愛着でも湧いたのかい、タカト・オーノ。まあ、それは僕らにとっても喜ばしいことだ」 「誰だ、誰なんだ、お前は!!」 「もう気付いているんじゃあないかい?」  崇人の激昂にも怯まず、寧ろ落ち着いた様子で青年はゆっくりと近づいてくる。  ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。  崇人とエスティの心情を汲んでいるのか、焦らしながら、青年は崇人たちの方に近付いてくる。 「僕は――『シリーズ』の帽子屋と言うよ。はじめまして……でいいのかな、一応は」  帽子屋は、そう頷いて微笑んだ。  ◇◇◇  カーネルのどこかにある建物の地下には巨大な牢屋群が存在する。一つの牢屋の収容人数は一名から、多い時は八人まで収容できる巨大な牢屋がある。  その中の一つの牢屋にマーズたちは収容されていた。両手をロープで縛られており、手を使うことが出来ないようになっていた。さらには扉の前には監視役が居り、そう簡単に抜け出すことは出来ない。 「……ふむ、どうする?」  マーズは小さくため息をついた。監視役に見られないように必要最低限の口の上下運動をして、コミュニケーションをとっていた。  何のために?  それは簡単だ。ここから脱出するためだ。 「一先ずあの監視役をどうにかしなくてはいけないでしょう。……にしても、ここはいったいどこなんでしょうね?」 「それが解れば苦労しないよ」  マーズはそう言って、鬱陶しそうな表情を浮かべる。 「まずはこのロープをどうにかしなくてはいけないな……」 「これでどうでしょう?」  その声を聞いてマーズたちは振り返る。  そこに居たのはコルネリアだった。コルネリアは茶がかったショートヘアをさらりと手で撫でて、手が自由であることをアピールする。 「コルネリア、あなた手は……?」 「この通りよ。まあ、私にかかればこれくらいどうってことはないわ」  そう言ったコルネリアの言葉を聞いて、マーズは訊ねる。 「あなた、どうやったかは解らないけれど……それを私たちにも出来る?」 「どうってことないわ」  そしてコルネリアはハリー騎士団の他のメンバーにもその術式を施していく。  あっという間に終わってしまい、はじめマーズは嘘かと思ったが、しかしそれは事実なのだった。 「……あなた、これどうやったのよ?」 「魔法……とでも言えばいいですかね。私はもともとヴァリエイブルの生まれではないものでしてね。法王庁領の生まれなもので」 「法王庁領。なるほど、それなら魔法が使えて起動従士の素質があるというのも頷ける」  そう言って、マーズは小さく頷いた。  ヴァリエイブル連合王国にいる起動従士の大半は魔法を使うことが出来ない。これは素質の問題であるが、その根底には血筋という根本的に解決できない問題があった。  血筋というのは非常に重要である。リリーファーと同調する素質を持った血筋というのもあるし、魔術師になる素質を持った血筋もある。  しかし、希に魔術師の素質もあって起動従士になる素質もある、変わった血筋を持つ人間が出来る。  それを大切にして起動従士としているのが、北方にある『法王庁領』と呼ばれる場所だ。  首都は自由都市ユースティティア。地位による格差がほとんど存在せず、平和に暮らしている地域だ。正確に言えばこの地域は国というカテゴリには属さない。政府組織が存在しないためである(とはいえ、法王庁が実質的に支配しているため、政府組織は法王庁ということになるのだが)。  法王庁の信念として、魔法を使える人間はカミサマからの贈り物を頂いた特殊な人間であるということがある。そのため、魔法を使うことの出来る人間は高い職に就く事が出来る。例えば、法王庁に三名しか居ない大司教という存在は高位魔法を悠々と使うことができるし、専用リリーファー『|聖法衣(ヴェストメント)』を操縦することが出来る。つまりは魔法もリリーファーも操縦出来なければ高い地位にたつことなど出来ないのである。  しかも魔法も使えてリリーファーの操縦も可能な血筋は非常に珍しく、そういう血筋の人間は軍でも地位の上昇が早いとされている。珍しいからこそ、だ。 「……法王庁領だったら一生平和で暮らせていけたはずじゃあないのかしら」  マーズは訊ねるとコルネリアは、 「平和というのは、いったいどう定義すればいいのでしょうね?」  そう、答えた。 「それはつまり、どういうことだ?」  マーズはさらに訊ねる。  コルネリアは俯いて、それに答えた。 「平和というのは誰が定義することによって変わってしまう、ということですよ。例えば、常に戦争が起きている国から見れば『平和』は戦争が起きなくなったことを差すでしょう。しかし、戦争がまったく起きていない国に居た私にとって、『戦争が起きている』今こそが平和なのです」 「……何を言っている?」 「私の発言が、あなた方からすればおかしいことは重々承知しています。ですが、単なる認識の違いということですよ。それでいいじゃあないですか」 「認識の違い? それで済む問題だというのか?」 「寧ろすまないのですか?」  マーズとコルネリアは気がつけば顔を合わせていた。彼女たちの表情を見ると、マーズの表情は厳しいのに対しコルネリアの表情は先程とまったく変わっていない。  マーズは厳しい戦場を生き抜いてきたから、コルネリアの言っている言葉が戯言にしか聞こえないのだった。戦場を生き抜いた人間にそのような言葉を浴びせれば、間違いなく逆鱗に触れるものだ。コルネリアはそれを解っていた。解っていたにもかかわらず、彼女はそう言ったのだ。  なぜか?  彼女はチームメンバー全員が凡てをさらけ出すことで初めてチームとして存在できると思っていたからである。  メンバーの中で秘密を共有することで、それは秘密を隠し合う存在へとなりうる。それが漸く『チーム』としてなるのだ。  コルネリアにはそのような信条があった。だから、マーズに自分の信条を告げたのだ。 「……まあ、今はそれについてどうこう言う場合ではない」  マーズはそう言うと、監視役がこちらを向いてない隙を狙ってそちらを指差す。 「コルネリア、お前にはあるのか。あれを倒す方法を」 「一応一つくらいは考えつきましたね」  それを聞いて、マーズの顔に微笑みが浮かんだ。  ◇◇◇  監視役を務めるレヴィエント・サーファイヴは暇だった。  どうして自分が監視役などしなくてはいけないのか――そう考えると虚しくなってしまった。 「……ねえ」 「ん?」  そこで声が聞こえて、レヴィエントはそちらを見た。  そこではコルネリアが鉄格子を持っていた。彼女は悲しげな表情を浮かべていた。 「どうした」  レヴィエントは低い声を立てる。  対して、コルネリアはしくしくと涙を流して、言った。 「……怖いのよ」 「怖い? お前たちがした行為に対する行為だ。決しておかしな話ではない」 「怖いの。何かに襲われているような……」  そこで、彼は。  彼女が発している言葉の意味を、漸く理解した。  彼女が怖がっているのは、捕まったという状況ではない。  それ以外の――何かがいるのだ。 「何だ」  興味に駆られて、レヴィエントは訊ねた。 「何に、怖がっているんだ。恐れているんだ」 「それは……」  そう言って。  コルネリアが顔を上げた――その時だった。  レヴィエントは頭に強烈な痛みを感じた。  それは殴られたからだということは、薄れる意識の中漸く彼が気づいたのだった。 「案外騙されたわね」  マーズが鍵をレヴィエントのポケットから取り出し、鉄格子の鍵を開けて言った。  マーズとしても、正直ここまでいくとは思わなかった。失敗した時にどうなるかも心得ていた。なのに、こう簡単にうまくいくとは思わなかった。 (こいつはコルネリアに感謝するしかないわね……まあ、一先ずはここを脱出してからの話なのだけれど) 「一先ず、ここを脱出しましょう……と言っても、ここはいったいどこなのかしら?」 「一応、北はこっちです」  マグラスがそう言ったのでマーズはその通りに指差す。 「それじゃあ、北へ向かいましょう。もうどうなってもいいわ。もし、リリーファーでもあればいいのだけれど」  そして、ハリー騎士団は行動を開始した。  ◇◇◇ 「……お前が……シリーズ……だと?」  その頃、崇人とエスティは帽子屋と邂逅していた。帽子屋はニヒルに微笑むと、さらに一歩踏み込む。 「そうだよ。僕はシリーズ、その中でも参謀役を勤めている。『帽子屋』と言うよ。よろしくね、君とは長い付き合いになるはずだから」 「どういうことだ」 「まあ、僕が言うより実際に体感する方がいいのだろうけれど……これだけは言わせてもらうよ」  帽子屋はそう言って、堆くある書物の山に腰掛ける。 「この戦争も、今までに君があったことも、凡て。それどころか、この世界が始まってから凡て、人類だけではない、僕たちによって動かされてきた……ということをね、知っておいて欲しいんだよ。自覚して欲しい……と言った方が正しいかな」 「なぜ、俺たちに言ったんだ」 「だから言っただろう?」  帽子屋は首を傾げる。 「君たちには知っておいて欲しい、自覚して欲しい、ってね」 「自覚、ね」  崇人はそれを聞いて、鼻で笑った。  おかしかったからだ。 「果たして、それを聞いて俺たちが信じるとでも?」 「信じるか信じないか、ではない。そういうふうに動くのだよ。時代はすでに決められていて、君たちは結末まで動かされるマリオネットだということを、自覚してもらいたい……僕はそう言いたいわけだ」 「信じないわ、そんなこと」  それを言いだしたのは、エスティだった。エスティは一歩踏み出し、ちょうど帽子屋を見下ろす位置に立った。 「信じようが信じないが知らないと言っただろう」 「だから、そんな事実変えてみせるって言っているのよ」  それを聞いて、帽子屋は鼻で笑う。  立ち上がって、エスティを睨みつけた。 「いいかい、君は知らないんだ。これから起きることを。だから、教えてあげようじゃあないか。これから起きることを少しだけね」  そう言って帽子屋は「うーんと」と言って右上を指差す。  崇人とエスティには何をしているのかまったく解らなかった。  そして、帽子屋は一言言葉を紡いだ。 「これから起きる戦争は解決する。しかし、タカト・オーノ、君は大いなる悲しみが降りかかることだろう。それを乗り越えることが出来るかは……君次第だけれどね」 「どういうことよそれ……」  エスティがそれに反論したそのとき、彼女は急に咳き込み始めた。咳はあまりにも激しく、見ていた崇人が背中を何度も激しく摩る程だった。  それを見て帽子屋は失笑した。 「まあ……その子が大切なら、大切にしておくべきだよ。大切なら、ね」  そして、帽子屋はその場から姿を消した。 「あいつ、シリーズって言ってたよね」  エスティが言った言葉に、崇人は頷く。 「シリーズ……本当にどのような存在なんだ……」  崇人は、帽子屋が言っていた言葉をリフレインする。  ――タカト・オーノ、君は大いなる悲しみが降りかかることだろう。それを乗り越えることが出来るかは……君次第だけれどね。 「あいつは……いったい何を知っているんだ……!」 「タカト」  エスティがそう言ったので、崇人は振り返る。  エスティはじっと崇人の目を見ていた。  怖い気持ちもあっただろう。恐ろしい気持ちもあっただろう。  それでも彼女は――前を見ていた。 「……行こう、マーズさんのところへ。そして、私たちが手に入れた情報を教えるの」  それを聞いて、崇人は大きく頷いた。  牢屋からの脱出に成功したマーズたちだったが、然れどその状況を喜んでいる様子ではなかった。 「この牢はあまりにも広すぎる。それは方位を解らなくさせる程にね」  そう。  この牢屋はあまりにも広かった。彼女たちが知る由もないが、カーネルの起動従士訓練学校地下全体にこの牢屋が広がっている――そう説明すれば、ここの広さがどれくらいであるかなんとなくの見当はつく。  だが。  そう簡単には諦めない。  そう簡単には転ばない。  どんな物事にも終焉がある。  終わりのない物事など存在しない。  起動従士はそんな簡単に物事を諦めたりはしないのだ。 「こうなれば適当に看守らしき人間を叩いて出口の情報を奪うほかないようね……」 「マーズさん、流石にそれは不味いんじゃあ……」 「捕まった時点で、もうどうだっていいのよ。相手がそうやってきた。だったらこっちだってやってやるのが当たり前じゃあない?」  マーズの言葉には誰も返すことが出来なかった。確かにその言葉は正論だったからだ。 「倍返し、してやろうじゃあないの」  そう言ってマーズたちは牢獄を駆け出していく。  ◇◇◇  その頃。  カーネルのある壁外。  一体のリリーファーがそこに現れていた。  厳戒態勢が敷かれ、壁内からは大砲やらコイルガン、はたまたレールガンを出して徹底的に応戦するようだった。  壁はリリーファーにも用いられている素材で造られているため、非常に堅い。そう簡単に潜り抜けることは出来ない。  そしてそれを舐めるように見る黒いリリーファーがいた。  ペイパス王国の所有する『国有リリーファー』ではない、『民有リリーファー』の一つ。しかし現在はペイパス王国が持つ半国有リリーファーと化すリリーファー。  その名前はペルセポネ。  テルミー・ヴァイデアックスという人間が操縦するリリーファーのことだ。世代では第四世代であり、ムラサメと比べると若干バージョンが低いものとなる。  今、テルミーは小さく微笑んでいた。  何を考えていたのだろうか?  何を考えているのだろうか?  それは彼女にしか解らないことだ。彼女にしか知り得ないことだ。 「……世界が変わろうとしている」  テルミーの隣には、帽子屋が立っていた。 「世界?」  テルミーが居る場所はコックピット。即ちそう簡単に入ることも出来ないのだが――テルミーはそれを無視して話を続ける。 「世界はあっという間に変えることが出来る。それも新しい世界ではない。元々あった姿に、だ」 「元々あった……つまり世界は変容してきていた、ということ?」  その言葉に帽子屋は頷く。 「君は賢いね。そうだ、そういうことだよ。世界は変容していき……まもなく昇華する。それはどちらに昇華するのかは……僕たち『シリーズ』にしか解りえないことだ」  テルミーは帽子屋の言葉をうんざりがるように頷く。  帽子屋はそれを見て、小さくため息をついた。 「……どうやらもう会話をする時間でもないようだね。ここでお別れだ、テルミー・ヴァイデアックス。また会おうじゃあないか」 「あんたみたいな輩とはまた会おうだなんて思わないけれどね」 「謙遜か」  帽子屋は呟く。 「そんなものじゃあない」  テルミーは答える。 「……そんなつまらない認識じゃあない」  そして、帽子屋はコックピットから姿を消した。  再び、コックピットはテルミーだけになる。  テルミーはため息をついて、前方を向く。  再び、壁と対面する。  壁は大きく、とても簡単に壊せるとは思えない。  にもかかわらず、彼女はここにいた。  理由は簡単だ。  ラトロの権益は喉から手が出るほどに、どの国も欲しがっているものだ。リリーファーの最新技術が手に入るからだ。  この世界において、最新技術が手に入るということは戦争で優位に立つ事が出来る。  即ち。  それは彼女が実際に『したい』ことではない。  だが。  それを彼女が口に出した瞬間、彼女は彼女では居られなくなるだろう。  起動従士はその秘密を厳重にするため、起動従士が殉職すること以外で辞職する場合においては、その記憶を凡て消し去らなければならない。  起動従士に関する記憶だけではなく、それ以外凡ての記憶を消し去る理由は、起動従士だった人間をそのまま抹消する意味を持つからである。  では、そのあとの起動従士だった人間はどうなるのだろうか?  答えは簡単だ。記憶だけを消した状態で『偽りの記憶』を植付け、名前も変えてどこかの場所へと住まわせる。保護は国が行う。少々面倒臭い方法ではあるのだが、リリーファーの秘密を守るためにも重要な事であるのだ。  だから、彼女は従わざるを得ない。  たとえその任務が理不尽であろうとも。  彼女はそれに従わなくてはならないのである。 「……やるぞ」  彼女はマイクを手に取り、通信を行う。 「これから、リリーファー『ペルセポネ』は壁の破壊を試みる!! いいか、壁の破壊に成功したら追撃しろ!!」 『――了解』  短い返答を聞き、テルミーはマイクの電源を切る。  そして。  テルミーはニヤリと微笑んだ。 「さあ――作戦開始だ」  ◇◇◇  その頃。  崇人とエスティは廊下を闊歩していた。  どこへ向かっているのか?  待ち合わせ場所に向かっているのであった。  では、その待ち合わせ場所は? 「……そういえば、待ち合わせ場所ってどこだったっけ?」 「さあ?」  二人は今迷子になっていた。  元はといえば、待ち合わせ場所をきちんと聞いていないことが問題であるのだが、このままではたくさんの問題が生じてしまう。 「……どうにかして、先ずはここから脱出せねばならないだろうな……」  崇人がそう呟くと、エスティは再び咳き込んだ。  それを行ってから、「ああ、ごめんね」とエスティは頭を下げる。 「エスティ、大丈夫か?」  崇人の問いに、エスティは頭を縦に振った。 「風邪?」  さらに崇人は訊ねる。  対して、エスティは首を傾げる。 「風邪、なのかなあ。解らないんだよ、正直言って。リリーファーに乗り始めてそれほど時間は経っていないけれど、たしかリリーファーに乗り始めてから風邪っぽい症状になったよ」 「休むことはしないのか?」 「人員が足りない、ってマーズさんがよく言うからね。人員過多とまで言われる状況になるならば悠々と休めるのかもしれないけれど。まあ、自分にはそんなこと出来る余裕なんてないけれどね」  そう言ってエスティはシニカルに微笑んだ。 「そんな余裕なんて……まあ、確かにないな」  崇人はそこでふと昔のことを思い出す。それは彼が企業戦士だった頃の話だ。  企業戦士。  それは企業のために自らの身も家族をも顧みず会社や上司の命令のままに働く姿を『戦場で戦う戦士』として例えたブラックジョークに近いものであるが、現にそのような人間は、崇人の居た世界では常識だった。  だから、彼は自分で考える力はあるものの大抵は上司や会社の命令に忠実に従う――そういうスタイルをとっていた。  だが、この世界ではそういうものをうまく組み合わせなくてはならない。崇人が元々いた世界の常識は通用しないと思っていいだろう。  常識が通用しないからこそ、崇人は自らの頭で考えねばならない。ヴィーエックのような例外も確かに存在するのだが、平均化すれば全員が崇人の『常識』を『非常識』と認識しているということなのだ。  それを考えるならば、崇人には常に余裕がない状態である。強いて言うなら、この世界に慣れてきて漸く余裕が出てきたくらいだろうが、それでも緊張は続いている。気を抜いて前の世界の常識を出してしまえば取り返しのつかないこととなるかもしれないからだ。 「だけれど……」  エスティの声を聞いて、崇人は我に返る。 「余裕がないのは、まあ解る。しかし、この状況では余裕がないとどうなるかは解るよな? だから、どうにかしなくちゃいけないんだ。だけれど、どうにかするといってもどうすればいいのかが解らない」  崇人の言葉に、エスティは頷く。  エスティは崇人の言葉に納得していないようであったが、崇人の話は続く。 「余裕がなければ最善の選択をとることも出来ない。それは即ち意味がないことと同義だ。……エスティ、解るだろ? ここでの選択の誤りは、何を引き起こすか解らない。自分を死に追いやることだって考えられるんだ」  崇人は自分の人生で、手に入れたものをエスティに語っていた。何しろ、人間が生きている上で手に入れているものは、どのような価値にも代え難いものだ。 「……じゃあ、どうすればいいのよ」  エスティはそう言って口を尖らせる。 「それは……解らない」 「解らない?」 「そうだ。ともかく、ここから出よう。でなくては、話にならないだろ?」  その言葉に、エスティは小さく頷いた。  ◇◇◇  その頃、マーズたちはここから脱獄するため、行動を開始していた。  マグラスの言った『北』を目指して歩く。途中かなりの確率で牢屋の向こう(鉄格子の向こう、と言った方が正しいだろう)から暴言が聴こえる。しかしマーズはそんなことはシャットアウトしていた。他の団員にもそれはするよう伝えてあるが、殆どの人間が軍籍になって数日の、謂わば素人とも言える人間ばかりであることを考えると、恐らく恐れ戦いてしまっているに違いなかった。  とはいえ、その威嚇に乗るのもつまらない。無駄に時間をかけてしまい、逃亡出来なくなってしまうからだ。だからといって囚人たちをそのままにしておくのも不味いだろう。これほどの声だから、看守たちに大まかな位置が知らされているかもしれないからだ。ともなれば先回りされている可能性がある。  先回りされていて仮に戦闘に発展した場合、マーズたちハリー騎士団に勝ち目は無いだろう。 「どうすればいいかしら……!」  そんな時だった。マーズの耳に囚人たちの声に紛れてか細い声が入ってきた。  直ぐにそれが何処か判断し、その場所に向かう。そこは独房だった。独房には茶色いローブを着た人間が立っていた。 「何の用だ」  マーズが短く訊ねると、人間は答える。 「……聞こえたようでよかった。そうでなければあなたたちを助けることは出来なかっただろうから」 「お前が発したのは軍で使われていた救援信号だった。怒号に紛れてもそれだけは聞こえたものだからな」 「……手短に話しましょう」  そう言って人間は鉄格子を開けた。それを見て、マーズは思わず目を見開いた。 「牢を出入り出来るならば何故脱獄しない?」 「しない、のではありません。出来ないのです」  そう言った人間の言葉を聞き、一先ずマーズたちはそれに従うこととした。  独房は思ったよりも広く、マーズたちハリー騎士団が入ってもその広さは充分だった。マーズが入ってすぐ監視について訊ねたが、ローブを着た人間は「ダミー映像を流しているので、問題ありません」と軽く笑うだけだった。 「ところで、いつまでそのローブをかぶっている? 別に外してもいいんじゃあないか」  マーズに訊ねられ、それは小さく頷きローブを外した。  その正体は少女だった。透き通った白い髪は見るものを圧倒させる。目の色は青く、肌も血の色が感じられないほど白かった。今そこにいるのは人形なのではないか――そう錯覚させる程であった。 「私の自己紹介から行きましょうか。私の名前は、ロビン・クックといいます。『シリーズ』の番外個体……というとかっこいいけれど、実際にはシリーズから除外された存在です」 「シリーズから……除外?」  その言葉にロビンは頷く。 「私はあることをしてしまったためにシリーズから除外されてしまいました。それがどういうことなのか、今はお教えすることは出来ませんが……おかげで私はこのような場所で隔離されましたが、こうしてあなたたちと会うことが出来た。特にタカト・オーノ。あなたには……って、あれ?」  そこでロビンは違和感に気がついた。 「タカトなら、ここにはいないけれど?」 「おかしいですね……。確かここに来るはずだったのに」 「来るはずだった?」  マーズはその言葉を聞いて、ロビンの肩を掴む。 「それって、どういうことよ」 「そのままの意味。私は『目』を持っている。その『目』は凡てを見通す目であるし、凡てそれに|準(なぞら)えて進んでいく。私が話の流れを作っていた」 「……何を言っているのかよく解らないけれど、つまりはあなたは『預言者』だったということ?」  マーズの問いに、ロビンは頷く。 「預言者、というのは少々大層らしいけれど、まあそれに近い存在だったのは確か。けれど、それでも私はシリーズには必要ない存在だったようだけれどね」 「シリーズには……序列が存在するとでもいうの?」 「あなたが『シリーズ』をどう思っているかは知らないけれど、案外人間味のあるものよ。きちんと序列がされてあるし、人間のように趣味を持って語らったりすることもあるくらいに、ね」  マーズにはそれが理解出来なかった。  彼女が知っている『シリーズ』というのは、人間とは程遠い存在であると思っていた。しかし、そういうわけでもないようだった。  『シリーズ』はもしかしたら、人間を知ろうとしているのではないか? 「……そんなことはありませんよ、少なくとも私だけの解釈でありますが」  しかし、その考えはロビンに直ぐに否定された。 「シリーズが人間を知ろうとしていた……そう思うのはあなたの勝手です。しかし、実際は異なるのにそうも考えてしまうのは、私としても非常に鬱屈です。ですが、私としては、あなたたちに協力せねばなりません」 「どうして? その理由をはっきりしてもらえないと、私は信用出来ないわ」 「……いいでしょう」  そう言って、ロビンはため息をついた。 「タカト・オーノはこのまま行けば『最悪の存在』になることでしょう。それは誇張表現ではなく、まったくそのままの意味です」 「まったくそのままの意味……?」 「それを今、あなたたちにいうことは出来ません。ですが、タカト・オーノ、彼だけには言わなくてはならないのです。真実を、凡てを」  ロビンの言葉を、未だマーズは信じることは出来なかった。  しかし、ロビンの目は濁ってなどおらず、ただまっすぐマーズを見ていた。  それを見て、マーズは立ち上がる。 「……解ったわ」  ロビンを見上げ、マーズは言った。 「あなたのことを、まだ信じたつもりではない。それだけは覚えておいて」 「恩に着る」  そして、マーズはロビンに手を差し出した。  ロビンはそれを微笑んで、手を差し出し、握り返した。  その頃、崇人とエスティは学校から脱出するために廊下を走っていた。  廊下はあまりにも長い。その長さゆえにループしているのではないかと錯覚するほどだ。 「ここはいったい……」  どういう場所なんだ、と崇人が呟いたちょうどその時だった。 「ねえ」  声をかけられたので、崇人は振り返る。そこに居たのはひとりの少女だった。崇人はその少女に見覚えがあった。セレス・コロシアムで開催された『大会』、そこで会った少女。 「君は確か、『大会』で会った……」 「タカト、どうかしたの?」 「君は真実を知らないだけ」  そう言って、少女はエスティを指差す。  少女は笑うことも悲しむことも怒ることも哀しむこともなく、ただ無表情でエスティの方を見ていた。 「真実を…………知らないだけ?」 「そう。知らないだけ」  少女はそう言って、口を歪めた。  少女の姿を改めて見てみると、少女は白いワンピースを着ているだけだった。金色の髪はどことなく透き通って、輝いて見える。  少女の表情は無機質だった。まるで半導体のシリコンウエハーのように、何もない平坦な表情を浮かべていた。 「……エスティ・パロング。あなたはまだ知らないのかもしれない。だとするなら、あなたは何れ真実と向き合う場面にぶつかる。それは権利じゃあない、義務よ」 「まるで、これから何が起こるのか知っている口ぶりだな」  崇人が訊ねると、少女は鼻で笑った。 「私が仮に凡てを知っているとして、だとしてもそれを教えることは出来ないよ。権限的な問題でね」 「権限的な問題、だと? だとするなら、どうしてここに来たんだ」  崇人は訊ねると、少女はゆっくりと歩き出し、やがて崇人の目の前で立ち止まった。 「なに、……質問、かな?」 「質問?」 「後悔をしているかしていないかの、質問」  そう言われただけではあまりにも範囲が広すぎて、少女が何を聞きたいのか――崇人には解らなかった。 「君も勘が冴えないね。それくらい言われても気が付かないのかい? 元の世界がよかったか、今の世界がよかったか。その後悔に決まっているだろう?」 「勝手に決められたことなのに、後悔も糞もあるかよ」  崇人は乱暴に答えると、少女は声高々に笑った。  余程滑稽だったのだろう。しかし崇人からしてみれば、何が面白かったのか、まったくもって解らなかったのである。  対して、少女はその笑いを少しづつ抑えて、 「悪かったね。とてもテンプレート通りの発言ではないからね。いいものを聞かせてもらったよ。確かにその通りだ、君は『何者かに』勝手にこの世界に連れて来られた。それは間違いでもないし、正しいことだ。なるほどね……とても有意義な発言を聞かせてもらったよ」  急に饒舌になった少女は、口調すらも変わっていたように見えた。  しかし崇人は別段それを気にすることもなく、話を続けた。 「……それはともかく、お前はいったい何者なんだ? 『大会』の時といい、今といい。まるでこの世界に居る人間じゃあないような……」 「そこまでだ」  そう言って、少女は手で言葉を制した。 「それ以上は、言ってはいけない」  崇人はその言葉に不審な点を抱いたが、そもそも彼女の存在自体が『不審』であり、崇人はそれに対して何とか解明しようとしているのだが、何分ヒントが少ない。だから、そう簡単にはいかないのだった。 「まあ、あなたが今知り得る情報では、ここまでとさせていただきましょう。それ以上は、また話が進んで……という感じにはなりましょうか」  まるでRPGの重要キャラみたいだ――崇人はそんなことを思ったが、口に出すのはやめた。  そして。  少女は崇人たちの目の前で――姿を消した。 「消えた……」 「ねえタカト、彼女は何者だったの?」 「何者……と言われても、知らないんだよなあ」  崇人はそう言って苦笑する。  エスティもそれを見て、それ以上少女のことについて訊ねることをやめた。  ◇◇◇  その頃。  ロビン・クックと行動を共にするマーズたちは牢屋から隠し通路を伝って一つ上のフロアへと来ていた。  チェイン・シティ。鎖の街として言われているその場所は飽く迄もニックネームに過ぎない。  チェイン・シティはそれ自体が一つの区画として存在する街である。労働環境もあり、市場として動いており、ここが『街』そのものとして動いている証拠であるといえる。  しかし、牢屋の中にあるためか、そこに住む人間にも荒っぽい人間が多いのは、避けようのない事実だ。 「にしても、私たちはここに不法入『街』しているのは事実です。いいですか、少なくとも騒がしくはしないでください。飽く迄も穏便にお願いします」  ロビンがそう言って、マーズたちを先導する。  マーズが見て、まず驚いたのはそのスケールの大きさである。  この街は本当の街をそのまま地下にそっくり作っている。空さえ見上げなければ本当の街であるかと錯覚してしまうほどだ。 「どうしてこのような施設を作ったのかは私にも解らないのだけれど……、表向きには『囚人たちが外の世界に非常に近い空間で集団生活を行うことで、悪は砕かれる』とかいうことらしいのですが……」 「まぁ確かに……悪は砕かれているように見えるわね、表向きは」 「表向き?」  マーズの言葉にコルネリアは訊ねる。 「あれを見れば解るわ。嫌でも、ね」  対して、それに答えたのはマーズではなくアーデルハイトだった。  アーデルハイトの言った方を見ると、そこでは二人の人間が口論を交わしていた。いや、よく見れば片方は唇を切っていた。それを見るからにあれは口論ではなく、喧嘩だということが解る。  それも一方的な喧嘩――所謂、カツアゲだろう。 「見ろ。表向きじゃあそう謳っているかもしれないが、裏向きじゃああんな感じだ。結局、『力こそ凡て』と考える人間が多いわけだし、こんな場所に閉じ込められようとも変わらないわけだ。だから、ここは完全に世紀末……ってやつだな」  マーズは言うと、改めてロビンの方を向き直す。 「……さて、ここまで来たのはいいが、この上に進む通路はあるのか?」 「解りません」 「……え?」 「解らないのです。ここから、どのように上に行き、脱出すればいいのかが。まったく……まったく解らないのです」  ロビンはそう肩を落として言った。口調も弱々しく、申し訳なさそうに見える。  マーズはそれを見て、彼女は嘘をついていないだろう、そう推測した。  しかし、そう簡単には信じていけない。本人が言うには、彼女は『シリーズ』だった存在だ。協力する、とは言われたがまだまだ不安を抱えているのもまた事実だ。 「とはいえ、それ本当なんでしょうね? 嘘をついているとか……そんなことはないわよね」 「それはない。だって今私はあなたたちに協力しているんだ。そんなのが、ここで嘘をついて何の得になる? ならないでしょう? つまり、そういうことだよ」  ロビンは早口でそう言った。どうやら、彼女の言葉を信じるほか道はなさそうだった。  一先ず、マーズたちは街をぶらつくこととした。はじめ、直ぐに見つかってしまうのではないかと、内心びくびくしていたが、特にそういうこともなく彼女たちはチェイン・シティを歩いているのだった。 「にしても、あまりにも広いわねここは……」 「何せここの広さは、地上にあるリリーファー起動従士訓練学校とほぼ同一ですからね。そこに大都市があることを考えると……、恐らくは活気だけなら世界一なんじゃあないでしょうか?」 「にしても、こんな地下施設がカーネルの地下にあるとは知らなかったがね」  マーズは苦笑する。 「まぁ、カーネルが何を考えているのかはまったく解らないが、こうなればとことん潰してやるのがいいだろう? こちとら牢屋に叩き込まれたんだ。そいつは立派な戦争と言ってもまったく間違いはない」  そこまで言って、マーズは不意に咳き込んだ。それも咳払いに近いような軽い咳ではなく、何度も続くひどい咳だ。 「大丈夫?」  アーデルハイトが訊ねると、マーズは手でOKサインを作った。 「……大丈夫よ、落ち着いた。何かしらね? 風邪じゃあないと思うのだけれど……。大事をもってこれが終わったら検査でも受けるべきかしら」  マーズはそう言って、ひとつ深呼吸をした。 「それじゃあ、向かいましょうか。上への階段がありそうな場所へ。ひとつくらい、見当はついているのよね」  そして、マーズたちはチェイン・シティを再び歩き出した。  チェイン・シティを歩くマーズたちは、マーズが一つ見当がついている場所があるということで、そこへ向かうこととなった。  そして、今そこへ辿り着いた。 「……ここって……」 「そう、警察署だよ」  そこにあったのは一際小さな建物だった。入口の看板にはこう書かれていた。  『チェイン・シティ警察署』――そう書かれた看板を見て、アーデルハイトはため息をついた。 「ねえ、マーズ。いくらなんでもこれはどうなのかしら。確かに囚人を監視する立場の人間が警察署にいる可能性はなくもないだろうけれど、そこまで単純なものかしら? だったらとっくに脱獄なんて出来てしまいそうなものだけれど」 「出来ないんだよ、それが」 「?」 「確かにここに居る人間どもは悪人どもだ。そしてその殆どが脱獄してでも上の世界に逃げ出したい人間ばかりだろう。だが、それをしない理由を逆に考えてみようじゃあないか。……この街はあまりにも完璧過ぎる。上の世界のイメージを持った人間がここに入れられたらある決まった感情を抱く。アーデルハイト、それは何だと思う?」  マーズから質問を出され、アーデルハイトは辺りを見渡す。まず彼女が見たのは建ち並ぶビルの数々だった。そこにはたくさんの施設が入っており、昼間でも明かりがついている。  次に見たのは空だ。ここは確かに地下のはずなのに、異常に明るい光源があった。恐らく魔法によるものだろう。  他にもアーデルハイトは辺りを見渡した。  そうしてアーデルハイトは、漸く一つの結論を導いた。 「もしかして……『違和感』?」 「そのとおり。違和感、だ。この街は上の世界に似ているようでよく見れば異なる街になっている。そういう違和感を、きっとここに来たばかりならば抱いているはず。しかし、この空間に慣れてしまえば話は別だ。ここが現実なのか、上の世界が現実なのかがはっきりとしなくなってしまう。挙げ句の果てに、ここは地上とは非常に異なる空間であるというのに、ここが地上だと言い張ることもあるのだろう。おかしな話だ」  一息おいて、マーズは空を指差す。 「あの空は、まやかしの空だというのに」  マーズは目を細めて、そう言った。  チェイン・シティは違和感ばかりが並べられている街だ。  しかし、そのチェイン・シティにずっと居座ってしまえば、何れそれが違和感ではなくなってしまうということだ。  とどのつまり、このままマーズたちも居座っていればここで暮らす囚人たちのようになってしまう――そういうことである。できることならば、それは避けておきたいし、戦いが始まっているかもしれないこの状況でゆっくりしてなどいられなかった。 「だとすれば、尚更急いでここから出なくてはいけないな……!」  アーデルハイトはそう嘯く。それを聞いて、マーズは乾いた笑いを見せた。 「だからこそ、そう、だからこそ私たちはここにいる。ここを脱出して、戦争を終わらせなくてはならない」 「戦争を……終わらせる」  対して、それに答えたのはコルネリアだった。  戦争を終わらせる。  この世界において、その言葉には重みがあった。それも、どのものよりも重い。『戦争を終わらせる』という言葉の意味を理解しているからこそ、その言葉を言うことに対する意味はとても大きい。  だからこそ、普通ならばその言葉は敢えて明言を避ける兵士が殆どであるのだが、彼女はそれを口にした。それほどの自信があるとかそういうわけではなく、それほどの自信を持たねばならない――ということだ。 「……アーデルハイト?」  そこで不意に声が聞こえた。  アーデルハイトをはじめとして、ハリー騎士団の面々は振り返った。  そこに居たのは、ひとりの男だった。黒髪の散切り頭、白黒の縞模様のいかにも囚人服といった格好の男だった。  頬は痩せこけていたが、それでもアーデルハイトは彼の姿に見覚えがあった。  アーデルハイトは身を震わせ、漸くその言葉を呟く。 「……兄、さん?」  男は頷く。 「そうだ、アーデルハイト。私だ、ティルクス・ヴェンバックだ」  ティルクスはアーデルハイトに近づくと、そっと抱き寄せた。 「会いたかった……会いたかったよアーデルハイト。もうあれからどれくらい経つ? 十年か? いや、もっとか? 恐ろしい時間だ。あまりにも恐ろしい時間が経ってしまったよ、それを君は忘れてしまったのか? いや、忘れてしまいたかった?」 「うるさい……!」  そう言って、アーデルハイトはティルクスから離れ拳銃を構える。  それを見てティルクスは小さくため息をついた。 「やれやれ……君は忘れてしまっているのかい? そして、相当に傷を負ってしまっている。……申し訳ないと思っているよ、だが、漸くここまでなおったんだ。先ずはアーデルハイト、君に会いたかった」 「ならばどうしてここに居る……ここは牢獄のはずだ!!」  拳銃を持つ手が震える。アーデルハイトはゆっくりと、ゆっくりと照準を合わせ始める。  対してティルクスはまだずっと笑っていた。ずっと、ずっと、その表情を崩さなかった。  アーデルハイトの恐怖に歪んだその表情はまるで蛇に睨まれたようだった。なぜ、そこに居るのか――アーデルハイトは恐怖で、怖くて、たまらなかった。 「……ふう、やはりそう簡単には騙せないか」  ピシッ――と。  まるでガラスが割れたような音が響いて、その刹那、ティルクスの姿にヒビが入っていった。  それについて、アーデルハイトは言葉を失っていた。呆気なく話の流れが進んでいるから、ではない。何が起きているのか理解できないから、でもなかった。  そして、完全にティルクスの姿が無くなってしまい、そこに居たのは――。  凡てが白い服で整えられ、手に大きな本を抱え込んでいる少年だった。  少年は笑って(ただし目は笑っていない)、呟く。 「おめでとう、アーデルハイト・ヴェンバック。だまされなかったのは君が五人目だ。おめでとう、本当におめでとう。……まさか、僕の『変身』に騙されないなんてなあ……。ねえ? ちなみにどこで解ったの?」 「……なんで、こんなことをしたのよ」  アーデルハイトは未だ拳銃を下ろしてはいなかった。  それを見て、少年は一歩後ろに下がる。 「ひゅーっ、怖い怖い。それじゃあ、先ずは自己紹介と行こうじゃあないか? 僕の名前はね、『チェシャ猫』っていうんだ。それさえ聞けばどことなく解るかもしれないけれどさ、僕って『シリーズ』の一員なんだよね」  チェシャ猫は隠そうとする素振りも見せずに、簡単に自分の正体を明かして見せた。  対してアーデルハイトはその状況になっても、慌てることなどしなかった。 「シリーズ……またあなたたちなのね。この世界を裏から操るという、化物」 「化物?」  チェシャ猫は近くに置いてあった蓋付のゴミ箱に腰掛けた。 「そいつは聞き捨てならないなあ。ぼくらは別に化物なんていうカテゴリーには属していないよ。そうとも思ってはいない。『化物』なんていうのは君たちが勝手にカテゴライズしているだけじゃあないの?」  そ・れ・に。チェシャ猫は指を振るのにあわせてそう言うと、さらに話を続けた。 「世界を裏から操る……それは合っているようで間違っているんだよねえ。別に僕たちは『操る』なんてことはしてはいないんだよ。えーとね、君たち人間の思想から言えば、『実験している』という意味になるのかな」 「実験? 人間を使って、世界を使って、実験をしているというの!?」 「声が大きいよ、アーデルハイト。……そう、そうさ。僕たちは『実験』をしている。それに変わりはない。君たち人類が誕生してどれくらい経つか僕たちはもう覚えてはいないけれど、少なくともそれよりも昔からずっとこの世界を『実験台』にしてきたのさ。まあ、これはあくまでも僕の見解で、『シリーズ』全体の見解とは違うかもしれないけれど、さ」  チェシャ猫が語ったのは、仮にそれが事実であっても事実でなくても、彼女たち人間から見ればひどく共感できない事であった。  チェシャ猫は小さく顔を俯け、ニヒルな笑みを浮かべる。 「そもそも、だ」  チェシャ猫は一歩前へ進む。 「僕たちはこの世界をここまで成長させて行ったんだ。それは僕たちの計画がうまくいったからこそ、ここまで発展したことに誰も理解していない。当たり前だ、だって僕たちは今まで進んでこの世界に出てこようとしなかったからね。けれど、ムカつくんだよ。発展のために何もしようとしなかった人類が、まるで自分たちだけの力で成長した……そうして世界を支配しているのが、さ。笑っちゃうね、僕たちのおかげでここまで来れたというのに」 「でも、この世界を維持し続けたのは私たち人間よ」  マーズが言うと、チェシャ猫は薄らと笑みを浮かべた顔をゆっくりと強ばらせ始める。 「何を考えているのか知らないけれど……、そもそも人間には人間の役割があり、『シリーズ』には『シリーズ』の役割がある。それは間違ってはいない。僕がすることと君がすることは一つ一つ違う。当たり前だ、生き方が違って、生きる目的が違うのだから。人は、生きる目的に生き方がひとりひとりまったく違う。例外なんてないだろうね」 「例外なんてない? それはおかしな話だ。『例外』がないわけはない。例外は作るものだ。人間はそうやって、様々な『例外』を作っていったんじゃあないかな?」  チェシャ猫は鼻を鳴らし、持っていた本を両手に持った。そして本を開いた。そこにはたくさんの文字が、ページが真っ黒になるくらいに埋められていた。 「これはこの世界の歴史が書かれている歴史書だ。今までの歴史も書かれていれば、これからの歴史も書かれている」  そう言って、ゆっくりとそのページを手で触り始める。 「……ここには、あのこともずっと前から書かれていたよ、アーデルハイト。君の兄が死んだあの『事件』もね」  それを聞いて、アーデルハイトの顔が即座に硬った。 「それをいうのはやめなさい」  そして、アーデルハイトは再び拳銃を構えた。その腕は震えていた。 「……どうした、アーデルハイト? 腕が震えているぜ?」  チェシャ猫はそれに対してそう煽り始めた。  アーデルハイトはその震えをどうにか抑えようとさらに腕に力を込めるが、しかしそれは逆効果だった。力を込めたことで、さらに緊張し、腕が震えてしまう。  アーデルハイトは無意識のうちに怯えていた。怖かった。  彼女はその『事件』を乗り越えたつもりでいたが、やはりまだ深層心理ではそれを乗り越えるに至ってはなかった。 「……おいおい、そんな気持ちで『シリーズ』を倒せるとでも思っているのか? 僕を、シリーズの一人を、倒せるチャンスだぞ?」  アーデルハイトはそれでも撃てない。  撃てないことが解っているからこそ、チェシャ猫はそう言うのだ。  アーデルハイト以外の人間は何をしているのか?  確かに、このタイミングならばやろうと思えばチェシャ猫を殺すことなど造作もないはずだった。  しかし、動けなかった。チェシャ猫が強力な魔力で彼女たちを押さえつけているようだった。  それでもマーズはどうにかしてこの状況を打破しようと色々と試みようとしたが、 「動かないでね、これは僕と彼女だけのことだ。君たちが加わることは非常にナンセンスなことであるからね」  チェシャ猫はそう言ってマーズの方を向き、さらに魔力による拘束を強めた。 「き……さまあ!!」 「君たちは戦争のときは『勝てばいいんだ』とか思っているかもしれない。だから、一対多数でも全然悲しまない。寧ろ、『やられた方が悪い』とでも言いたげだろう? だけれど、僕は違う。綿密に考えたプランに沿って実行する。『シリーズ』は決して結託はしない。意見を求めることはあるかもしれないけれどね。もしかしたらそれは僕だけの考えで、他のシリーズは違うのかもしれないが……まあ、今はそれを言う必要はない」  そう言って、改めてチェシャ猫はアーデルハイトの方に向き直る。 「……さてと、話を再開しようか。というわけで、マーズ・リッペンバー並びにハリー騎士団の方々、次この話に水を差すような真似をしたら容赦なく殺すから、そのつもりでね」 「卑怯な……っ!!」 「卑怯? 君たちが勝手な真似をしないように牽制しただけじゃあないか。それくらいはやっても問題ないとは思うんだけれどね」  チェシャ猫はゆっくりと歩いて、アーデルハイトのところまで向かう。  そしてついには彼女の息がかかってしまうほどに近い距離まで近付いてきた。 「……さてと、話を再開しようか。アーデルハイト」 「近付くな、鬱陶しい」  アーデルハイトが言うと、チェシャ猫はその言葉の通り一歩下がった。 「これは失敬。少しばかり前に進みすぎてしまったらしい。謝罪するよ、申し訳ない」  そう気取った風を見せるが、しかしアーデルハイトは銃を構えたまま姿勢を崩さない。  そんなアーデルハイトを見て数回手を叩いた。 「アーデルハイト、そこまでやってられるのは賞賛に値するよ。でもね、もう死んじゃったんだよ、帰ってきやしない。どうだい? 少しは『諦めよう』とかそんな気はなかった?」  そう言って、チェシャ猫はゆっくりとその姿を変えていく。まるでスライムのような粘性を持ったそれは、ゆっくりと少年ではない、別の存在へと姿を変えていく。  そして、そこに現れたのは、ティルクスだった。 「やっぱりこの姿がしっくり来るなあ……どうだい、今度は僕を愛してみる?」 「ふ……ざけるなあああああ!!」  アーデルハイトはそう言って引き金を引いた。  銃弾は放たれ、ティルクスの心臓を貫通した。  ――が、倒れる様子などなかった。 「残念でした。君がどう狂おうと僕は僕だ。人間じゃあない、まったく別の存在。心臓を一回撃たれただけじゃあ死ぬこともないのさ」 「ならば……何度でも……!」  そう言って。  アーデルハイトは再び撃ち放った。  二回目も、心臓に命中。今度もティルクスは笑うだけだった。  三回目も。  四回目も。  五回目も。 「だから何度撃ったって無駄だよ」 「うるさい、うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!」  完全にアーデルハイトは逆上していた。  だからこそ、だからこそ、気がつかなかった。  六発目の銃弾を撃ったとき、ティルクスはとうとう話さなくなった。  あのチェシャ猫は死んだのだ――と思いそちらを見ると、チェシャ猫はその場に立っていた。しかし、チェシャ猫のすぐ目の前にはひとりの青年が倒れていた。  その姿にアーデルハイトは見覚えがあった。 「兄……さん?」  そう。  六発目の銃弾に倒れたのは、チェシャ猫が化けたまやかしのティルクスではない。  正真正銘、本物のアーデルハイトの兄、ティルクスだったのだ。  彼の白を基調とした服は血で真っ赤に染まって、口からも血を吹き出していた。彼を中心として血の水たまりが出来ていたが、それに気にせずアーデルハイトはそちらへ駆けていく。 「兄さん……ごめんね……!!」  しかし、もうすでにティルクスは息をしていなかった。 「あーあ、殺しちゃった」  アーデルハイトの背後で、チェシャ猫の声がした。  アーデルハイトはそれに何も反応できない。 「君が殺したんだよ、せっかく僕がチャンスをあげたのにね? 死んだお兄さんを生き返らせてあげて、そのままハッピーエンドだったのに、君は『またお兄さんじゃあなくてチェシャ猫が化けているんだ』って勝手に思っちゃったもんだから、躊躇なく撃っちゃった。けれど、結果は違ったわけだ。本物のお兄さんを、君自身の手で殺しちゃったわけだ。ははは、愉快愉快!」  チェシャ猫の笑いに、一番怒りを募らせていたのはマーズだった。なんとかこの結界を抜けようと試みたが――あまりにもチェシャ猫が作った結界は固かった。 「チェシャ猫おおおおおおおっ!!」  マーズは結界をどうにか脱出しようと試みるが、やはりその結界の強度は計り知れないほどに強く、脱出することもままならない。 「そんな簡単に結界を超えることが出来るわけがないだろう? 普通に考えてみて、さ。だって『シリーズ』の造り出した結界だよ?」  そう言ってチェシャ猫は泣き崩れるアーデルハイトの肩を叩く。それはまるで慰めているようでもあった。 「自分をあまり責めないほうがいいよ、アーデルハイト。事故だよ。君は確かに実のお兄さんを君の手で殺してしまったわけだけれど、さ」 「ううう……うわぁぁぁ!!」  アーデルハイトの自我は、もう崩壊しかけていた。  恐らくチェシャ猫による精神攻撃は、彼女が兄を撃ち殺してしまったという事実より重くのし掛かっているのかもしれなかった。  チェシャ猫の精神攻撃は普通ならば通用するはずはないのだが、『兄を殺した』というちょっとした切っ掛けによって心にほんの少しの油断が出るそのタイミングを狙うことで、このような相乗効果を得るのだった。 「アーデルハイト、気をしっかり持って!」  マーズは必死に結界を抜け出そうとしながら、アーデルハイトに声をかけ続けていた。  このままではアーデルハイトの自我が崩壊してしまうからだ。崩壊した自我はそう簡単に元に戻せないという。しかし例え心がたくさんのダメージを受けていたとしても、自我が崩壊さえしていなければ、時間はかかるが治る見込がある。  マーズはそのために声をかけ続けていた。声をかけ続けてさえいれば、アーデルハイトの自我が崩壊することはない――と信じていたからだ。 「無駄だよアーデルハイト。大方彼女の自我を崩壊させないように声をかけ続けているのだろう? でも、それは本当に無駄なことになる。……どうしてか、って?」  チェシャ猫は微笑む。  それはまるで悪魔のような、腹黒い微笑であった。  チェシャ猫はアーデルハイトの頭を撫でる。いや、頭だけではなかった。頭から首、首から肩にかけて舐めるように撫でていく。撫でられていたアーデルハイトにとってそれはとても気持ちの悪いことだったが、彼女としてはそれを考える余裕すらなかった。 「アーデルハイト、もし君がまたお兄さんに会いたいというのならば……選択は一つ、君が簡単に出せるその選択があるんじゃあないかな?」 「……一つ?」  少し考えて、アーデルハイトは右手に持っている拳銃を見た。  それを見て、チェシャ猫は頷く。 「やめなさい、アーデルハイト」  マーズはチェシャ猫が何をしようとしているのか、大まかな予想がついていた。  だからこそ、強く言った。 「マーズさん、まさかチェシャ猫は……」  コルネリアの言葉に頷く。  マーズは意外にもこの状況において冷静だった。  無論、冷静でなければ軍人とはいえないだろう。ただ、彼女も人間だ。何か不測の事態が起きてしまえば、彼女とて冷静を保てないだろう。  アーデルハイトが冷静を保てていないからこそ、今は彼女だけでも冷静を保たねばならない――そう思っていた。なにせ『新たなる夜明け』から来た二人を除いて残りのメンバーは少し前まで学生だった身分だ。  そんな人間がいきなり戦場に放り込まれて『戦え』と言われて、戦うのは容易ではない。誰か経験者がリーダーでなくてはならないのだ。  恐らくヴァリエイブルの王はそれを推測した上でマーズを副騎士団長に推したのだろう。  だからこそ。  彼女は行動しなくてはならなかった。 「……アーデルハイト! チェシャ猫の言うことなんぞ聞いてはいけない!!」 「あーあ、外野はそういう事言ってるけれど、どうしちゃう? ここで踏み止まったらどうなるんだろうね?」 「聞くな!! 聞くんじゃあない!!」  アーデルハイトとチェシャ猫の攻防は続く。  ゆっくりと、ゆっくりとアーデルハイトは拳銃を上げていく。  その銃口の先には――|蟀谷(こめかみ)があった。 「やめろ!! やめるんだ!!」  マーズの必死な問いかけにアーデルハイトは答えない。  対して、チェシャ猫はその様子をただじっと眺めていた。  もうこれ以上チェシャ猫が押すこともない――そう判断したのだろう。  ただ、チェシャ猫はそれを眺めていた。  そして、アーデルハイトは引き金に手をかけた。 「アーデルハイトっ!! 早まるな!!」  マーズはまだ諦めてはいなかった。ずっと、声をかけ続けていた。  それに対して、ハリー騎士団の他のメンバーは目を瞑っていた。しかし『新たなる夜明け』のエルフィーとマグラスはただそれを眺めていた。  それが彼らの違い。  戦いを経験している者とそうでない者の違いだ。  戦いを若いうちから幾度となく経験しているマグラスとエルフィーの二人は、このようなことについて表情を変えたりなどしない。  対して戦い――ひいては戦争を初めて前線で経験した他のメンバーについては、今まで親しかった人間の自殺をする現場を目撃するというのは、あまりにも衝撃が強すぎた。だから彼らは決まって目を背けてたり目を瞑ったりしていた。 「エルフィー、他の人を責めてはいけないよ。彼らは『戦争』を身近で経験したことのない人材なのだから」  エルフィーがそれを咎めようとしたのを、マグラスが言葉で制した。 「どうして? 彼らは騎士団。このような現場は幾度となく目撃するでしょうし、幾度となく乗り越えなくてはならない。今ここで泣いたり目を背けたり……そうね、もっと強くいえば『逃げたり』している暇なんてないんじゃあない?」 「そうだ。エルフィーのいうことは正しいよ」  マグラスは頷き、話を続ける。 「でもね、彼らは前線にて戦争を初めて経験した人間ばかりだ。いきなり『慣れろ』などと言われて慣れる方が変わっている。忘れたとは言わせないよ、僕らだって最初は悲しかったはずさ、苦しかったはずさ、辛かったはずさ。そんな感情を誰しもが抱くものだよ、……特に最初はね」 「……だけれど、今は私も違う」 「それは慣れたからさ」  マグラスは結界の支配下に置かれているのに平然としていた。 「慣れたからこそ、このような光景を見ても普通でいられる。それは道理だ。だがね……だからといって初めてその光景を見る人が怖がった顔を見せたとしても、決して蔑んではいけないと思うよ」 「その通りだよ、マグラス・ディフィール。君の言うとおりだ。この状況を初めて見て怖がらない人間が居ない方がおかしいというものだよ。……少しは黙っているといい」  アーデルハイトは蟀谷に拳銃の銃口を当てたまま、ずっとそのままにいた。彼女はまだ最後の決心がついていなかったのかもしれなかった。  まだ銃を撃たないのを見て、チェシャ猫は小さくため息をつき、 「何だい、まだ判断を下さないのかい? 君は強突張りだね。さっさと撃っちまえばいいんだ。楽になっちまえばいいんだ。どうだい?」 「いい加減にしろ、チェシャ猫!!」  マーズは激昂し、結界を抜けようと試みる。しかし、何度やっても結界から脱出することは出来なかった。 「ハハハハハ! 何を言っても無駄だよ!」  チェシャ猫はアーデルハイトのすぐ後ろへと歩き、そこで立ち止まる。  アーデルハイトの腕は震えていた。すでに引き金に指を伸ばしていたというのに、その状態で停止していた。  アーデルハイトは無意識のうちに涙を流していた。  それは誰に対する涙なのか、誰にも解らなかった。  そして――アーデルハイトはその引き金をゆっくりと、そしてはっきりと引いた。  ――が。  アーデルハイトの持っていた拳銃から、銃弾が放たれることはなかった。 「……は?」  その光景にチェシャ猫は思わず呆れたような声を出した。  まるでチェシャ猫もそれは想定外だったようにも思えた。  しかしながら。  その事態を一番に理解したのは、マーズだった。  アーデルハイトの拳銃には一発も銃弾が入っていなかった。  なぜだろうか――という質問への解答はこういうものとなる。  アーデルハイトの拳銃には最初六発しか銃弾が入っていなかった。というよりかはそういう拳銃だった――というのほうが正しいかもしれない。  つまるところ、アーデルハイトは兄を殺してしまった時に六発分撃ってしまったために『七発目』は存在しないということになる。 「アーデルハイト!!」  それを見て改めてマーズはアーデルハイトに声をかける。  彼女の心を崩壊させないというのならば、今がチャンスだ。  逆に言えば、これを逃してしまえばもう無理だろう。 「……ま、マーズ……」  アーデルハイトはゆっくりと言葉を紡ぐ。  それを見てチェシャ猫は小さく舌打ちした。 「まさかこんなことになるとはね……、しょうがない。ここは撤退させてもらうよ。……さようなら、マーズ・リッペンバー」  そして。  チェシャ猫はモーションなく姿を消した。  マーズたちの行く手を阻んでいた結界が消えたのも、それと同時だった。  マーズは急いで彼女に駆け寄り、拳銃を彼女の手から離した。 「アーデルハイト……もう大丈夫だから……」  マーズは涙を流していた。彼女を抱き寄せ、ただ泣いていた。 「ねえ、マーズ? 泣かないで……?」  アーデルハイトの自我は、まだ保たれていた。  しかし、その声は震えていた。  急いで治療せねばならない――そう思ってマーズはアーデルハイトの肩を持って、 「総員、退避! これから急いでここを脱出するぞ!!」  そう言った。  その言葉に他の団員は大きく頷いた。  ◇◇◇  その頃、崇人とエスティは学校をあとにして、サイクロンが目の前に見えるベンチへとやってきた。もう夜になっていて、空を見上げると星が輝いていた。 「……ねえ、タカト」  エスティは訊ねる。 「どうしたの、エスティ?」 「私さ……いろいろなことを僅かの時間で見てきたなあ、って思ったんだ」 「いろいろなこと?」 「そう」  頷いて、エスティは話を続ける。 「入学式であなたと会って、その後のリリーファー起動訓練で『シリーズ』を倒して……そして大会が始まったでしょう? ああ、違うっけ。その前にショッピングモールにも一緒に行ったよね。結局あの時はテロみたいなことが起きちゃったせいで色々と興ざめしちゃったけれど……それでも私楽しかったよ」  エスティの言葉に、うんうんと崇人は相槌を入れるだけだった。  エスティの話は続く。 「そして大会が始まって……あのときも大変だったなあ。『赤い翼』、だっけ? そういう人たちが会場を占拠しちゃったせいで結局大会の結果も有耶無耶になっちゃって……」 「恨んでいる?」 「恨んでいる、というか……何かさ。今まで自分が『行きたい!』と思っていた大会に行けたとき、そして実際にそれを目の当たりにしたとき、私こう思っちゃったんだ。自分が夢見ていた『大会』は、ただのごっこに過ぎなかったんだって」 「ごっこ?」 「そう、ごっこ」  エスティの言葉はとても軽い調子で話しているようにも思えたが、内容はそうには思えなかった。とても重たい、重たいものだった。 「そして騎士団が結成されて、色んな人と交流することになったなあ。マーズさんはかっこよくて綺麗だし、それでいて頭がいい。コルネリアは鼻につくのが少し厄介だけれど、それ以外はとても頼りになりそうだし、ヴィエンスもああいう性格なだけで根はいい人だもんね。こう羅列してみると、みんな個性的でいい人……ここにいれていいな、って思ったよ」 「じゃあ、『大会』が自分の思ったものよりも酷くても、よかった?」 「結果としては、ね」  崇人の言葉に付け足すように、エスティは言った。 「楽しかった、本当に楽しかったんだよ……」 「おいおい、それじゃあまるで今から死んじまうみたいな言い方だぞ?」  そう崇人が訊ねるとエスティは悪戯っぽく微笑んだ。 「馬鹿だなー、あくまでもたとえだよ。死ぬわけないじゃあない。大丈夫sだよ、私は死なない。だから安心して」  そう言っていたが、エスティの心の中は恐怖でいっぱいだった。無理もない、今まで一介の学生に過ぎなかった彼女が、唐突に戦場に送られることとなったのだから。恐怖で支配されていないコルネリアやヴィエンスのほうが変わっているとも言えるだろう。  ただ、彼女の心は恐怖でいっぱいだったが、恐怖で支配されてはいなかった。  それだけが、数少ない彼女の長所ともいえるだろう。 「死なないなんて、絶対に言えないだろ。いつかはきっと、死ぬ。そしてそれはどうやって死ぬかは解らない。……大丈夫だ、俺が守ってやる」  そう言って、崇人はエスティの肩を抱き寄せた。  それは無意識な行動だったのか、意識した行動だったのかは解らない。  だけれど、彼女の心が落ち着いたのだけは間違いない。 「……ありがとう、タカト。そんなことこんな場所で行ってくれるのあなただけだから」  そう言われて、崇人は思わず顔を赤らめた。  ――なんてことをしているんだ、俺は。  現実世界ではまったくしていない(そもそもするような機会がない)ことをするというのは、ここまで恥ずかしいものなのか――崇人はそう考えていた。しかし彼は顔が真っ赤になっているというのはまったく気付いていない。 「こんなことを平気で出来るやつってほんと精神鍛えられているよな……感心しちまう」  そんな呟きは、幸いにもエスティに届くことはなかった。  崇人とエスティは暫くそのベンチに腰掛けていた。  しかしその間、特に会話をすることもなく、ただ座っているだけだった。  学校に囮として潜入したマーズたちを待っていた、ただそれだけだった。 「マーズたち、遅いな……」  崇人が呟くと、エスティも頷いた。 「大丈夫かしら。囮になって、私たちが……とは言っていたけれど」  そう。  エスティはマーズが彼女に言ったことを思い出していた。  それは、マーズたちが囮となって、エスティと崇人が第五世代に関する情報を集めるというものだった。  結果、彼女たちは第五世代の情報を集めることに成功したわけだ。  しかし、マーズたちはどうなったのか、現時点では解らない。  それが彼女たちにとって唯一の不安要素であった。 「……あ、あれ」  崇人は遠くにあるものを見つけ、指差す。  エスティもそれを聞いて、そちらを見た。  そこに居たのはマーズたちの姿だった。 「タカト、エスティ! やはりここに居たか……!」  マーズは崇人とエスティの姿を確認したところで、漸く一息ついた。  崇人はマーズ、コルネリアとメンバーのひとりひとりを確認して言って、そこで漸く気が付いた。 「アーデルハイトが……ひどく疲れているみたいだが、何かあったのか?」 「その件については話せば長くなる。結論だけ言おう。アーデルハイトは心労が祟り、もうこれ以上この戦争に参戦するのは無理だ。このままカーネルの外へ出すつもりでいる。問題ないだろう、騎士団長?」  それを聞いて――理解したかどうかは別だが――崇人は大きく首を縦に振った。 「一先ず、タカトとエスティ、あなたたちが無事で居るということは、第五世代の情報は入手した……そういうことでいいのよね?」  マーズの言葉に、崇人は小さく頷く。  第五世代の情報はマーズたちにとって必要不可欠な情報だ。  何もこの情報が戦争のみに役立つのではない。新しいリリーファーを開発する時にも、この資料は大いに役立つのである。  リリーファーを開発する上で、敵の情報を手に入れることについて、然程難しいことでもない。しかし、その難易度というのはやはり手に入れる情報により決まるというのもまた自明である。  例えば手に入れたものが実際のリリーファーの一部分であったとするなら、それにより解析が進められ、より良いリリーファーを造ることが可能となる。  対して手に入れた情報が口伝として残っている曖昧なものだったり、書類や書物から得たものだとすれば、もしその情報からリリーファーを造ったとき、その戦力は前者とは比べ物にならない程に低い値を弾き出す。  だからこそ、研究者や開発側としてはリリーファーの一部分或いは全体を求めている。それにより対策が変わるのは明らかである。そして研究者たるもの研究に生涯を捧げるのは当たり前である――とされ、現にリリーファーの研究開発においては年齢層が幅広いものとなっている。 「……第五世代、それを一言で言うならば……今までのリリーファーとは段違い、ということだろうな……」  そう崇人は言って、第五世代の説明を始めた。  説明には約二十分程の時間を要した。崇人自身が未だに第五世代とリリーファーのことを理解できていないということと、マーズたちが理解できるに等しい水準にまで説明が満たしていなかったことにより、何度も説明を繰り返したためである。そのため、説明が終了した頃には崇人はもう第五世代の説明はすらすらと言えるほどにまでなっていた。 「リリーファー兵団……魔法剣士団……か」  崇人の説明を漸く理解したマーズはその単語をつぶやいた。  魔法騎士団。  彼女たちの目の前に現れたあの鏡写しのような少女たち。  あれは凡て魔法騎士団というリリーファーを操縦するためだけに生まれた人間だった――ともなれば、あの少女たちの説明はつく。  つまりカーネルのリリーファー起動従士訓練学校では、一般人から起動従士になりたい子供を募っているわけではなく、『魔法騎士団』というつくりあげた組織を完璧なるものにするために造られたものだということだ。  そこまで考えて、マーズは歯ぎしりした。  カーネルの連中は、人間の生命をあまりにも軽いものと認識していたからだ。もし失敗すればまた投げ捨てればいい。そうとしか認識していないのだろう。 「人の命を……何だと思っている……!!」  マーズはそう言って拳を強く握った。  マーズは強く怒りを覚えていた。しかし、なぜ彼女がそれほどまでに強い怒りを覚えているのか、崇人には解らなかった。 「ともかく、これからどうするかを……今ここで考えなくてはならないだろう? アーデルハイトは、マーズが今言ったとおりここで脱退してもらうとして……それからはどうするんだ?」 「アーデルハイト抜きの作戦を考える必要がある。それは間違いないわね」  マーズは自分自身の言葉に頷く。 「アーデルハイト抜き……と言っても、実際はハリー騎士団だけの作戦だから、特に問題もないだろうな」 「タカト、そうも言っていられるかしら? 他国とはいえ軍籍に居る人間が抜けた。それは非常に手痛いことよ」 「でもこっちには世界を股にかけるテロ集団が居る」  そう言って崇人はエルフィーとマグラスの方を指差す。差されたふたりは特に謙遜することもなく、マーズの方を見ていた。  対してマーズは彼女たちを一瞥しただけだった。 「……まあ、確かに彼女たちはテロ集団としては世界一でしょうね。けれど、これは軍の行動。戦争なのよ。彼女たちに大きな役目を任せるわけにもいかない。別に彼女たちを信じていないわけではないけれどね」 「信用してくれなくても、いい。ボスの意向は解らないが……私たちとしては、ただ任務を遂行するだけ」  それに対して答えたのはエルフィーだった。  マグラスはそれを聞いて宥めようとしたが、 「ふうん……随分と挑戦的な口調じゃあない」  しかしその前にマーズが反応してしまった。 「そんな陳腐な煽りに乗ってくるなんて、『女神』という名にも偽りがあるんじゃあないの?」 「そうですねえ……でもそれがどうかしたというのかしら? あなたは私の『女神』という名前を貶めて、どうかしたいの?」 「女神という名前を貶めても名にも変わらないけれど……私たちのことを傷つけられたのが少し、ねえ」 「まあ、メンバーの貶め合いはここまでにしようじゃあないか」  マーズとエルフィーの会話――というより口喧嘩が発展するその時だった。  二人の間に崇人が割り入って、そう言ったのだ。 「……まあ、騎士団長が言うのであれば」 「そうね、タカトが言うのなら……和解しましょう」  意外にもあっさりふたりは和解したので、崇人はほっと一息ついた。  崇人はゆっくりと立ち上がり、ほかのメンバーが全員見えるところで立ち止まった。 「それじゃあ、作戦会議と行こう。奴らはもうとっくにこちらの侵入に気がついているはずだ。そうだろう、マーズ?」 「あ、ああ。そうだ。奴らはもうこちらを待ち構えていた。だからこそ、こちらも注意が必要だ」 「だろう? ということは、急いで実行すべきじゃあないのか?」  何をだ――と、崇人の言葉の真意を聴く者はいなかった。  もはや時期尚早であると言う人間もいなかった。 「だから、」  崇人は、告げる。 「そろそろ活動をしてもいいんじゃあないか。俺たちは起動従士だぜ? リリーファーを使わずに戦争をして、どうするというんだ」  その発言は、今までリリーファーを毛嫌いしていた崇人からしてみれば、あまりにも予想外と言える発言でもあった。素っ頓狂とも言ってもいいだろう。兎角その発言は、特にマーズを、驚かせるものとなっていた。 「……どうした?」  暫く黙りこくってしまったハリー騎士団の面々を見て、崇人は呟く。  息を吸って、話を続ける。 「いいか、このままじゃあ、戦局は確実に向こうに流れると思う。となれば、どうする? このまま見す見す戦場をいいように振り回されていいのか? 俺はいいとは思わないね。自らで動き、自らの手で勝ち取る! これこそが、俺たちの、リリーファーを操る起動従士としての使命であると思うのだけれどね」 「……タカトの言うとおりよ」  それに最初に賛同したのは、マーズだった。  マーズは崇人の言葉に頷き、そして崇人の隣に立った。 「騎士団長の命令通り! これから我々はリリーファーに乗り込むため、一度このカーネルから脱出する! その後、基地にてリリーファーに乗り込み、再度カーネルへと潜入を試みる、以上!」  その言葉を聞いて、ほかのハリー騎士団のメンバーは大きく頷いた。  ◇◇◇ 「動き始めているようだね」  白い部屋、バンダースナッチはハンプティ・ダンプティの言葉を聞いてそちらを向いた。 「裏切り者のロビン・クックに帽子屋、チェシャ猫……それぞれがそれぞれの思いを持って人間と接触を図っている。そしてそれらは成功し……彼らは人間と接触を果たしている。非常にいいことだ。非常に優良なことだ」 「あなたは――計画を知っているというの?」  バンダースナッチの言葉にハンプティ・ダンプティ(今もなお少女の姿である)は肩を竦める。 「いったと思うよ。僕は知っていると、ね」  ハンプティ・ダンプティはそう言って、薄らと笑みを零した。  ハリー騎士団のカーネル脱出作戦が幕を開けた。  作戦はいたってシンプルであった。都市部の外れにあるコルトの家へ向かい、彼と接触する。ただ、それだけだった。 「コルト、といったか。あの男がそこまで信頼出来る男なのか?」  ヴァルトが訊ねると、マーズは小さく頷いた。 「ええ、少なくとも彼ならば信頼出来る。だって彼は元々リリーファーシミュレーションセンターで働いていて、はじめてパイロット・オプションを起動従士から引き出した人間。金も欲も無い、だがそれゆえに裏切ることもない。そういう人間だから」  マーズがそう言うが、ヴァルトはどうも気になっていた。  はじめてコルトと出会った時に見た、眼光。  科学者にしてはあまりにも鋭いそれは――彼に一抹の不安を植え付けるには難くないものであった。  だからこそ、ヴァルトはマーズに確認を兼ねてそう質問したのだ。  そしてそれは、同じ『新たなる夜明け』に所属するマグラスとエルフィーも感じ取っていた。  彼らは人の心を、様々な場所から読み取ることが出来る。  例えば、眼光から。  例えば、仕草から。  例えば、行動から。  人というのは、本人が気がつかないうちに本性を曝け出しているものである。そして、それは例外など存在しない。  しかしあの男――コルトはそれが見られなかった。仕草も行動も完璧だった。まるで何かを隠しているような――そんな雰囲気もみてとれた。  行動も思想も仕草も変わり者。ただし、それはその裏にある何かを隠しているように見えるほど、わざとらしいものだとヴァルトは思っていた。 「……まあいい。一先ずそこまで向かうんだな?」 「そういうことになる」  マーズの言葉に、ヴァルトはため息をつき、 「……解った。今はそちら側に従うのが道理というもの。そちらの言うことを聞こうではないか」 「なによそれ。まるでコルトがスパイのような言い草ね」 「そうだといったら?」  ヴァルトは冗談めいた言葉で返した。  マーズはそれを聞いて、もうそれ以上会話を続けることはなかった。  ◇◇◇  カーネルの町外れ。  コルトの住む家は、大きなパラボラアンテナがあるために遠くからも見ることが出来る。  それが近づいていくと、そのパラボラアンテナの大きさがみてとれる。 「やはりあのパラボラアンテナは何度見ても、気味が悪いものだ」  ヴァルトの言葉に、マーズは首を傾げる。 「果たして、そうかしら? というより、あなたはまだ二回しか会っていないじゃあない。それなのに『疑う』というのもどうかと思うけれど?」  マーズの言葉は正論そのものだった。  しかしそれでもヴァルトは疑っていた。それほどに彼は疑り深い男だった。  もしかしたらそれは、彼だけではなく、彼の職業――テロリストという存在だからかもしれない。テロリストという存在は味方もいればその分敵もいる。だから自ずと疑心暗鬼になったり、人を見る目が鍛えられている……ということなのだろう。 「……ま、あなたの疑いももうすぐ晴れるでしょ」  そう言ったマーズの言葉と同時に、彼女たちが乗った車はコルトの家の前に停止した。  車から降りて、家に入る。前にやったように本棚のある書物を引き出し、隠し扉を出現させる。その後階段を下りて、たどり着いたのは機械があまりにも多く犇めき合い、それが壁に等しいほどに積み重なっている場所である。 「……おーい、コルト! どこに居るんだ?」  マーズの言葉は虚しく空間に消えていく。 「ふむ。居ないな……、いったいどこに行ったんだ?」 「ここ以外に彼が行く場所は?」 「いや、それはないな。あいつは変わり者で、買い物も凡て宅配に任せる。だから滅多に外出することはないはずだ」  崇人の問いに即座に答えるマーズ。  マーズは彼が行くであろう場所を必死に考えていた。  しかし、まったく出てこない。  何故ならば、彼をこの部屋と上にある部屋以外で見たことがないからだ。それ以外の部屋は行こうとも思わないし、そもそも行く理由がないから、まったく知識が無い状態であったのだ。 「じゃあ、コルト……彼に助けてもらう線は消えたということでいいか? これ以上探しても時間の無駄だ。恐らくカーネル側もこちらを探しているだろうし……」 「それもそうね」  意外にもあっさりとマーズが折れたので、一瞬崇人は失笑しそうになったが、それは抑えて、そこを出ようと階段に一歩足を踏み込んだ。  外に出て、崇人たちは再び車に乗り込み、カーネルをひた走ることとした。  コルトの協力を仰ぐ作戦は失敗に終わってしまったわけだが、かといって策が尽きたわけでもなかった。 「こうなれば仕方ないわ……一気に脱出する他ないわね」 「一気に脱出……って! そんなこと可能なのかよ?!」  後部座席にいたマーズがそう言い、思わず崇人はそれに食いかかる発言を口にした。 「可能よ。そんなもの不可能でも何でもないわ」  そう言って、彼女はあるものを取り出した。  それは小型ラジオだった。小型ラジオはいつも彼女が携帯しているものらしく、年季が入っていた。  そんな感じで崇人はそのラジオをじろじろと見つめていると、 「見るんじゃあないわよ。その姿を見せているのでなくて、問題は今流れているラジオの内容」 「ラジオの内容?」  そう言う彼女の言葉に従って、崇人はそのラジオの音声に耳を傾けた。  ラジオからは、こんなことが流れていた。 『――繰り返しお知らせします。本日リリーファーが壁外に居ることが当局から発表されました』  それを聞いて、耳を疑った。  キャスターと思われる男性の声はひどく焦っているようで、震えもあった。  しかし、そんな声だったとしても、さらにキャスターの言葉は続く。 『リリーファーのタイプは「ペルセポネ」。当局が掴んでいる情報によればペイパス王国のテルミー・ヴァイデアックスが起動従士であるということです。壁外にはそのリリーファーのほかにもペイパス王国のものとみられる軍隊が居り、ヴァリエイブルと協力してカーネルを陥落させるものと考えられ――』 「……解ったでしょう?」  そこまで聞いたところでラジオの電源が切られ、かわりにマーズの声が聞こえた。  マーズはラジオを手早くしまうと、車を引き続き運転しているヴァルトに告げた。 「これから壁外へ脱出するわ。場所は南カーネルの住宅街、エル・ポーネ!」 「了解した」  そしてヴァルトは――ペルセポネが壁を破壊した、カーネルの住宅街、エル・ポーネへと向かうために、ハンドルを切った。  ◇◇◇ 「ただいま」  その頃白い部屋には帽子屋が帰ってきた。 「早かったね」  その場所にはチェシャ猫、バンダースナッチ、ハンプティ・ダンプティがモニターを眺めていた。しかし帽子屋の声を聞いて彼らは振り返った。 「意外と早かったね。残りはどうするんだい?」 「残り?」  ハンプティ・ダンプティから訊ねられ、帽子屋は首を傾げる。 「あれ? 話が噛み合っていない? 『残り』といったらそりゃ……計画が残りどれくらいで終わるか……ってことじゃあないのかい?」 「ああ。計画はあと二割くらいじゃあないかな。……それは飽く迄も、今回の結果がうまくいけば、という話だけれど」 「今回の結果、といえばデモは行われないようだね」  ハンプティ・ダンプティはそう言うとゆっくりと立ち上がる。  それに対して帽子屋は何も言えなかった。  ハンプティ・ダンプティはゆっくりと近づいていく。  そして、ハンプティ・ダンプティは帽子屋の頬を撫でていく。今のハンプティ・ダンプティは幼い少女の姿だった。しかし、ハンプティ・ダンプティはゆっくりと浮かび上がり、ちょうど帽子屋の頬に近いくらいまで底上げしていたのだった。  白磁のような滑らかな肌に、触ってしまえば折れてしまいそうな細さの指。  それが、帽子屋の頬に触れる。  そして、体温が伝わる。  あまりにも冷たい、それが――帽子屋に伝わる。  触れられて、帽子屋は身震いした。  ハンプティ・ダンプティの身体があまりにも冷たかったから?  いいや、違う。 (――なんだ、このそこはかとない不安は……)  帽子屋はそれを実感していた。  理由が解らないが、彼は不安に襲われていた。  ハンプティ・ダンプティに見つめられていたからかもしれない。  若しくは、自分で何か懸念材料があるのかもしれない。  だが、 「……デモに関しては行われるかどうか、それについて議論する必要もない。もともとプラスアルファに過ぎなかったのだから」  今はそれを考えることなく帽子屋はハンプティ・ダンプティの腕を払った。 「プラスアルファ……あれが? 君はあれほど大分そのデモに熱を入れていたじゃあないか。それを含めて『作戦』だ……ってね」  ハンプティ・ダンプティの言葉を聞いて、帽子屋は苛立った気持ちを抑えて、話を続ける。 「確かにそう言った。そう言ったよ。けれど、今はそれを討論する時間でもない。作戦のあるひとつのパターンが消滅しただけに過ぎないのだから」 「パターンの一つ……が、そのデモだった、と?」 「そうだ。そして、そのデモは本来ならばカーネルの反社会派組織が行う予定だったものだ。我々が情報を流し、そう誘導した……はずだったんだがね」 「だが、それは失敗に終わってしまったわけだ。ひどく残念な話だが……まあ、それは仕方ないことだ」 「仕方ない? まあ、そうかもしれないな。そもそも人間どもがこの計画を理解しているわけがない。裏切り者のロビン・クックですらこの計画の全容は知り得ていないからな」  帽子屋はソファに腰掛けると、テーブルに置かれていた、もう冷め切っている紅茶を口にした。  ふと、モニターを見やるとそこには崇人たちが車に乗っている映像が映し出されていた。 「これは?」 「彼らは今、壁外に行こうとしているらしいよ。何でも『ペルセポネ』というリリーファーが姿を現して、壁を破壊したとか」  そう言ってハンプティ・ダンプティは帽子屋に向かって何かを放り投げた。  それを無事に両手で受け取った帽子屋は、改めてその投げられた何かを見る。  それは一冊のファイルだった。青い半透明のファイルで、『reliefer's person』と黒い字で書かれていた。  表紙をめくると、 「それだ」  とハンプティ・ダンプティが告げた。 「テルミー・ヴァイデアックス……彼女がペルセポネの起動従士だと」 「ああ、そうだ」  ハンプティ・ダンプティの言葉はあまりにも味気ないものだった。が、今はそれを気にする時間ではない。帽子屋は改めてその資料を見始める。 「……彼女の実家であるヴァイデアックス家はペイパス王国の貴族として名高く、起動従士の輩出も多い。さらに彼女の父親であるクロウザー・ヴァイデアックスは財界人として経済にも王政にも介入できるほどの権力を持っている。……何だいこりゃ、つまり彼女はコネクションを最大限に使った結果起動従士になったってこと?」 「そうとも言えるが、しかしそうでないとも言える。彼女のパイロット・オプションの項を見てみてくれ」  言われた通りに帽子屋はテルミーのプロフィールに書かれているパイロット・オプションを確認する。 「……なんだよ、これ。『皇帝の意思』……、それを発することで『誰もが』行動を停止する……って、まるで」 「言うな。私もそれを一度は思ったが、しかしこの時代において『彼女』の代わりになる存在は、帽子屋、君が言ったアーデルハイト……彼女だけのはずだ。まあ、その彼女も今は精神が疲労してしまって、もはや戦線に戻ってこれるかも怪しくなってきたがね。誰かさんのせいで」  そう言って、ハンプティ・ダンプティはチェシャ猫の方を睨みつける。  対してチェシャ猫は済まなそうな仕草を見せたが、何もいうことはなかった。  それを見た帽子屋は立ち上がり、チェシャ猫の胸ぐらを掴んだ。 「……チェシャ猫、おまえなんてことをしたんだ……! 計画に支障が出たらどうするつもりだった?!」  帽子屋の声は震えていた。それほど怒っていた……ということだ。  対してチェシャ猫は、先程までの様子を変えず、 「だって君がいったことじゃあないか。僕は忠実に守ったんだよ? 『アーデルハイトと兄を対面させろ』って」 「その結果がこれ……だけどねえ」  バンダースナッチがそう言うと、彼女が手に持っていたリモコンのようなものの何かのボタンを押した。  するとモニターの流れている映像が突如にして、変更された。  それは先程、チェシャ猫によってアーデルハイトとその兄が対面した場面だった。  映像は常に鳥瞰になっており、誰がどういう仕草をしているのか一目で解るものだった。  アーデルハイトは兄と対面し、チェシャ猫と会話する。  アーデルハイトは兄が死んでいるとして、銃弾を放っていく。  そして――六発目。  紛れもない、彼女の兄に、銃弾が命中し、その命を散らしていった。  その映像が、帽子屋の目に焼きついていった。  そこまでを見て、帽子屋はチェシャ猫の胸ぐらを持つ手の力を強める。 「……そこまでする必要はなかった!! 兄と逢わせ、いや、見せるだけで良かったんだ!! それなのに貴様は……!!」 「何をそんなに怒っているんだい? 僕らは人間とは違う、別の次元の存在だ。別に人間ひとりくらいにそんな気持ちを傾けていちゃあいけないさ。君はシリーズになったのが僕たちに比べて早かったから、僕たちの役目を一番理解しているものだと思ったけれど」 「何も、彼女だけの話ではない……! 計画を円滑に進めるために……、どうして最短ルートでの活動を行わない!」 「だってそんなことしたらつまらないじゃん。考えても見てよ、人々の死にゆく様を見ていかないで、計画を遂行したら僕たちの本来の役目である『観測者』が成り立たない。だったら少しくらい別の仕事をやってもいいじゃあないか、ねえ? ほかのみんなもどう思う? 君たちも観測者としての役目に疲れ始めているから、様々なことを試しているんじゃあないの?」  チェシャ猫の言葉に、シリーズのメンバーは何も言い返せなかった。  それは、帽子屋も一緒だった。 「君も一緒だな、帽子屋。そういう点では、ね」 「一緒にして欲しくないな、少なくともチェシャ猫……お前とはな」  帽子屋はチェシャ猫の胸ぐらから手を離した。チェシャ猫は鼻を鳴らして襟を正し、再びソファに腰掛けた。  モニターの映像は気が付けば元に戻っていた。未だ崇人たちは着いていないのか、車中の映像が続いていた。 「私たちの本来の役目に戻るとしようか」  バンダースナッチのその言葉に、誰も従わないことはなかった。  ◇◇◇  その頃、崇人たちは未だ車中にいた。  しかしとてもドライブを楽しめる様子でもなかった。 「くそっ……! やつら感づきやがった……っ!!」  ヴァルトはそう言いながら、ハンドルを細かく切っていく。  彼らが乗る車の背後には、迷彩色の車――恐らくはカーネルの警察車両ともいえる存在だろう――が数台迫っていた。  迷彩色の車は、崇人たちの乗る車に対して警告をすることもなく、だからといって銃を撃ち放つこともなく、ただ車を追いかけているだけだった。 「急げ! 急ぐんだ!」 「これが限界だ! アクセル踏み抜いている……っ!!」  崇人は後ろを何度も確認しながら、運転席のヴァルトに告げる。その様子は徐々に緊迫を増していた。  しかしヴァルトはもうアクセルをこれでもかというほど踏み抜いていた。だが、思った以上に車は加速しない。それほどまでに、彼らが乗る車は古い車だということなのか、それとも整備を怠っていたのが原因なのだろうか……それは今の彼らに考える余裕などない。 「なあ」  ここで今までカーネルの地図と睨めっこしていたヴィエンスが漸く口を開いた。 「どうした?」  それにマーズは答える。  ヴィエンスはそれに対して、マーズの目の前に、彼が見ていた地図のページを見せた。 「これはカーネル……特に南カーネルの地図だ。そしてここが今走っている場所だと思われる」  そう言って彼は指差した。  その場所は地図の右から伸びる真っ直ぐな道の途中だった。 「それがどうかしたか」 「問題はここからだ」  そう言って、ヴィエンスは左ページのある場所を指差した。 「ここが今向かっているエル・ポーネだ」  そこには『El pone』と書かれていた。  それにマーズは頷く。 「そして」  ヴィエンスは指を下に動かす。ゆっくりと動かして、エル・ポーネから少し東にあるスラム街、そこで彼は指を止めた。そこには『Femto』と書かれていた。  それを見てマーズは目を大きく見開いた。 「まさか……」 「そうだ」  ヴィエンスは地図を改めてマーズに見せつけた。 「今から向かっているエル・ポーネ……そしてそのそばにはウルが住んでいたスラム街、フェムトがある」  ヴィエンスのその表情は、真剣な目つきだった。  フェムトというスラム街は、食に困っていない数少ないスラム街である。  そもそもスラムというのは町が行う公共サービスを受けられない極貧層が居住する過密した地域のことを指し、だから『食に困っている=スラム』というのは少々お門違いなところがある。  フェムトでは畑を共同管理して、それから出た産物を管理時間の割合で配分する――というシステムを導入しており、つまり貧しい生活ながら食に困ることはそうない、ということである。  共同管理システムによる食料管理。  これを実現させた数少ないスラム街、それがフェムトである。  その町に暮らすひとりの少年、ウルは今日も取り分である産物の入った袋を抱え、彼が住む家へと向かった。  家に入り、荷物をキッチンに置く。キッチンとはいうが、実際には木箱の上にまな板代わりの小さい板とサバイバルナイフ、水桶があるだけという簡素なものである。  麻袋の封を開け、中から産物を出していく。じゃがいも、さつまいも、大豆、人参、トマト、豚肉、それぞれ一個(またはひと切れ)づつ出した。  これが彼の夕食の材料である。主食がないように見えるが、そのような贅沢をする余裕など彼にはない。 「今日はどんな料理を作ろうかな……」  そんな長閑な風景が広がっていた。  そんな、時だった。  その音を聞いたとき、ウルは最初にこう思った。  ――巨大な獣が、叫んだ声だ  しかし、直ぐに彼はその考えを撤回することとなる。  なぜか?  スラム街から見える、カーネルを囲う壁が破壊されていたのを見たからだ。壁は破壊されて、そこからあるものが覗いていた。 「リリーファー……」  ウルは、それがリリーファーであることを直ぐに理解した。  黒い躯体に、引き立てるように存在するピンクのカラーリング。  彼がリリーファーに詳しかったならば、直ぐにそれが『ペルセポネ』であると解っただろう。しかし彼はリリーファーがリリーファーであることが解っただけでも、普通の人間ではできないことだ。恐らくは、彼の兄がリリーファーの起動従士訓練学校に入っていたから――だろうか。  リリーファーはゆっくりと動いて、壁の中へと入っていく。  足元にある建物や、人々は、地面に群がる蟻のように無残にも踏み潰されていく。  それについて、意外にもウルは怒りを覚えなかった。  どちらかといえば、嬉しかった。  彼はこの世界から解放されたかった。  兄を殺した――いや、もしかしたら生きているのかもしれないが――この|都市(カーネル)を出て行きたかった。  しかし子供の独り身。お金もなければ働いていく技術もなかった。  だからこの都市から出してくれる機会を、今までずっと待っていたのだ。 「……ああ、カミサマ……」  彼には、そのリリーファーが神様に見えていた。  そのリリーファーは、彼の住んでいた場所を、これから破壊し尽くしていくというのに。  それだとしても。  今の彼がそれを聞いたとしても――関係ないと突き放すだろう。  今の彼に、この都市を懐かしむ気持ちなどない。  ◇◇◇  その頃。  エル・ポーネを目指していた崇人たちは、新たにフェムトに向かうことに決定した。理由は単純明快、ウルを助けるためである。 「普通ならばそんなことは絶対にしないはずだが……まあ騎士団長の命令だから仕方がない」  ヴァルトはぶつくさ言いながらも進路を変更し、今崇人たちを乗せた車はフェムトへと向かっている。  そもそも彼らが乗る車はフェムトでウルの兄が持っていた車だった。だからそれを返却すべきだ――崇人がそう言ったためである。 「……お前くらいだぞ。実際車を返却しに、わざわざ戻るのは」 「戻るんじゃあない。これは『任務』のためには必要なことだろう?」  崇人の言葉に、マーズはため息をつく。  マーズは別に崇人の意見に反対しているわけではない。むしろ賛成の立場である。  にもかかわらず、そのような反応をするのは、崇人がはっきりとそう物事を口に出したからということである。  この年齢で、そう物事をはっきりと口に出して行動出来る人間は居ない。彼がそれを出来るのは外見こそ違うが内面は三十五歳の企業戦士だからということなのだが、それを知るのはマーズやアーデルハイトといった数少ない人間だけである。 「『任務』……か。随分と、この時代には生きづらそうな騎士団長だな。まあ、≪インフィニティ≫のためには仕方のないことなのだろうが」  そう言ってヴァルトは皮肉を飛ばすが、崇人はそれを聞いてただ微笑むだけだった。 「そんなことを話している場合か?」  ヴィエンスが口を開いたのは、ちょうど会話の間となった時だった。 「どうかしたか、ヴィエンス?」 「お前たちがなんだかんだ色んな話をしているうちに、どうやら目的地が見えてきたようだぞ」  そう言ってヴィエンスは窓を開け、前を指差した。  そこに見えたのは、見覚えのある高層ビル群と破壊された壁だった。 「あそこまで破壊したのか……ペイパスのやつら、少し強引過ぎだ」  そう言ってマーズは舌打ちした。  彼らを乗せた車は、南カーネルの住宅街エル・ポーネへと進んでいく。  ◇◇◇  エル・ポーネでは人々が逃げ惑っていた。  無理もない。突然のリリーファーによる壁の破壊は、人々に大きな不安を植え付けた。  逃げ惑う人々を、容赦なく踏み潰していく存在。  リリーファー『ペルセポネ』。  民有リリーファーだが、ペイパス王国に属するこのリリーファーは今、カーネルを壊滅させるために動いていた。  ペルセポネの目的は、カーネル壊滅。  そしてその後の、ペイパスによるカーネル支配も視野に入れた形で、という条件付きではあるものの、今、ペルセポネはそれを達成させるために動いている。  凡ては計画通り。  そんなペルセポネのコックピットにいるひとりの少女は――操縦しながら未だ考えがまとまらずにいた。  なぜ自分はこのようなことをしているのか? なぜこんなことをしなくてはならないのか? 彼女の頭の中は疑問だらけだった。  しかしながら、彼女にはそれを断る権利など存在しなかった。  理由は簡単、彼女の父親のせいだ。  彼女の父親が彼女を起動従士に推薦した。理由は彼の地位のためだ。  彼の地位をより固いものとするために、彼は自分の娘を起動従士としたのだ。  それにより彼はペイパス王国で絶対的な地位を誇り、今や王族すらも凌駕するほどだという。  その報告を、ひとり本宅から離れた起動従士の寮で聞いて、彼女は苛立ちを覚える。  ――どうして、あの男のために、戦わなくてはならないのだ!  彼女は何度も何度も反抗しようと考えた。  しかし、ヴァイデアックス家の後ろ盾を無くしてしまうと彼女の地位が無くなってしまう。  即ち、彼女の存在が無くなってしまうということと同義である。  彼女はそれを知っていたから、思い切って父親に反旗を翻すのが難しかった。  だが、もう――。 「……私はこのままだとヒトで無くなってしまうかもしれない」  彼女が行ったことは、人間としてやってはいけないことだった。  人間の大量虐殺。  それを考えて――ふと彼女は自分の手を見た。  彼女の手は白く透き通るような美しさだった。しかし、今の彼女にはそれが血に塗れているような錯覚に陥っていた。 「もう……戻れない……」  彼女はもう、まともな考えを持ってはいなかった。  気がつかないうちに、人間という考えから常軌を逸脱していたのだ。  エル・ポーネの郊外に到着した崇人たちは、その光景を見て目を疑った。 「何てことだ……」  そこに広がっていたのは、まさに地獄絵図といえる光景だった。  人々の死体が転がり、建物は破壊され、残っている建物も血に塗れている。彼らが車中から見ていたあの高い建物は、もはや建物の形を保っているのが奇跡ともいえるほどに崩壊していた。 「……いったいどうなっているというんだ……」  崇人はそれを見て嗚咽を漏らす。エスティも、ヴィエンスも、コルネリアも、それを見て何も言えなかった。  当たり前だろう。この状況を見て吐き出したり精神に異常を来たしたりしないほうがおかしい。 「一先ず、先に進むぞ」  そう言って、マーズたちはエル・ポーネの街を歩く。  歩けども歩けども、破壊された区々と、人々の死骸が散乱していた。  血の匂いが強く、鼻をつまむほどの匂いが漂っていた。 「……こんなこと、誰が」 「解っているはずだ、ペイパスのあいつだよ」  先頭を歩いていたマーズが目の前を指差した。  そこにいるのは、ペイパスの民有リリーファー『ペルセポネ』だった。  対して、ペルセポネに乗るテルミーはそれを発見していた。 「あれは……」  かつて、彼女が戦った相手。  かつて、彼女が倒しかけた相手。  ヴァリエイブルの女神、マーズ・リッペンバー。  そして、彼女が『その戦いを止めざるを得なかった』元凶。  ≪インフィニティ≫の起動従士、タカト・オーノ。 「あの二人が……リリーファーも乗らずに……」  もはやテルミーは人間の思考をしていない。  況してや、起動従士間に課せられた暗黙の了解となっているルールなど、忘れているに等しい。  起動従士はリリーファーに乗ることで、その存在意義を満たす。  即ち、リリーファー対リリーファーとなることが可能である人間同士の戦いであるならば、そうあるべきだ――というルールが存在するのだ。  そのルールを誰が作ったのかはわからない。  しかしそのルールは、気が付けば起動従士は誰しも守るルールとなっていた。  それが、精神に異常をきたしていない常人であるならば、普通にそのルールに則っていたことだろう。  しかし彼女は、ペルセポネに乗るテルミー・ヴァイデアックスは、なぜかそんなことを考えられる余裕は無かった。  そして。 「――――――シネ」  容赦なく。  その右足を、その持ち上げた右足を、地面に叩きつけた。  ◇◇◇  少しだけ、時間は戻る。 「……おい、あれって……俺が最初に戦ったリリーファーじゃあないか?」  崇人が訊ねると、マーズは頷く。  その表情は、どことなく強張っていた。 「そうよ、あれこそがペルセポネ。ペイパスに居る民有リリーファーよ」 「そうゆっくりと説明していてもいいのか……? ここだと格好の的だぞ」 「いいえ、大丈夫よ。そういう暗黙の了解があるの。『起動従士同士での戦いの際、決して起動従士がリリーファーに載っていないタイミングで攻撃してはならない』……ってね」  そんなルールがあったのか――崇人はそう思っていたが、しかしそのルールがイマイチ理解できなかった。  理解できなかった、というよりは信頼出来なかったというほうが正しいだろう。  崇人はこの世界の住人ではない。だからこの世界独自のルールというものがイマイチとっつきにくいのだ。 「心配しなくていいわ、タカト。別にそんなルールを破るほど残酷な人間でもない。そんなことをすれば、それは起動従士の風上にもおけない……いや、人間でもないわね」  マーズの言葉は、ほかのメンバーを安心させるものだった。  しかし、それでも。  崇人はまだ不安だった。  ペルセポネはゆっくりとこちらに向かってやってくる。  そして、その右足を、持ち上げ――。  それが崇人たちに向けられた『攻撃』であることに気がついたのは、その時だった。  崇人たちは、攻撃を見てその攻撃が届かない場所へと走る。  エスティも、それを追いかけようとした。 「タカト!」  エスティの声を聞いて、崇人は振り返る。  するとエスティは倒れていた。顔だけをあげて、ただそこに倒れていた。 「どうした、エスティ!」  崇人は急いでそこへ向かおうとする。 「――来ないで、タカト! あなたも死んでしまう!!」  しかし、それをする前にエスティに遮られる。  そして。  崇人たちの目の前に――『ペルセポネ』の右足が地面に着地した。  ペルセポネは、崇人たちを一瞥し、そしてそのまま去っていった。 「……たす、かった?」  マーズは拍子ぬけた、とでも言わんばかりにため息をつく。  崇人は、ペルセポネの右足があった場所をただ眺めていた。  そこには人の形など残っておらず、ただ右足の形に沿って血が広がっていた。  それを見て、マーズは崇人の肩を叩く。 「……行こう、タカト」 「…………許さない」  崇人は、彼女の言葉を聞かず、駆け出した。 「タカト!」 「追うなよ、どうせ逃げ出したんだろう」  ヴァルトが言って、マーズは崇人を追いかけようとした意思を既のところで踏みとどまった。 「あなたは……、タカトとエスティの関係を知らないから言っているのよ!!」 「ならば、どうした? 私の言葉を気にせず、彼を追いかければ良いではないか」  ヴァルトの言葉はマーズの心に鋭く突き刺さる。  なぜ彼女は直ぐに崇人を追いかけなかったのか。  なぜ彼女は迷ってしまったのか。  それは。  崇人を信じていないからではないのか?  崇人がまた戦いから逃げ出す――そう思っていたからではないのか?  マーズは心の中で苦悩する。 「おい」  しかし、それに割り入るようにヴァルトは言った。  マーズはヴァルトの顔を見た。ヴァルトは怒っているのか、それとも常にこの表情だったのか、仏頂面だった。  もしかしたら今のマーズを蔑んでいるのかもしれない。  今のヴァルトの顔は、咄嗟に行動出来ないマーズを蔑んでいるようにも見えた。 「……今はお前がリーダーだろうが。お前が行動出来なくてどうする。お前が指示出来なくてどうする。今の私たち……『新たなる夜明け』はお前たち『ハリー騎士団』の命令で動いているんだ。お前が何か言わなくては、私たちは何も出来ない。『リーダー』とはそういうものだろう」  ヴァルトの言葉は尤もだった。  しかし今のマーズには、それを考えることが出来ない。  考えられない、のではなく――考えることがあまりにも多すぎるのだ。  しかし、それも今は言い訳に過ぎない。  彼女は、早く決断しなくてはならない。  崇人の心情は、もはや誰にでも察することが出来るだろう。それほどに衝撃的な出来事だったからだ。 「……急いで、追いかけないと」  マーズはそう呟いて、改めてハリー騎士団全員が見えるように向き直った。 「これから、騎士団長を追う! そう遠くに行っていないはずだ! 見つけ次第確保、或いはわたしに伝えること!」  その言葉を聞いて、全員が同時に頷いた。  崇人は街を走っていた。  ひたすら、ひたすら、ひたすら、どこへ走っているのか、解らなくなるくらいに。  エスティが死んだ。  木っ端微塵になって、死体も残らなくて。  死んだ。  その事実は、激しく彼の心に突き刺さる。  死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ――!!  エスティが、死んだ。  その事実は、忘れたくても、忘れられることができない。 『なあ、誰が彼女を殺したんだと思う?』 「違う、俺は殺していない……!」 『逃げているだけだ』 「違う!」 『違わないだろ? 現に彼女は死んじまった。最後までお前のことを見ていたじゃあないか』  違う違う違う!! 崇人は顔を左右に激しく振って、さらに走る。  目を瞑れば、またあの光景が蘇るからだ。  エスティの、最後に見た、救いを求めた、だけど拒んだ、あの目。  なぜ彼女は死ななくてはならなかったのだろうか?  なぜ彼女は救いを拒んだのだろうか?  なぜ彼女は死の直前まで、他人を助けたのだろうか?  なぜ――なのか。  それが彼には解らなかった。  解りたくなかった、ともいえるだろう。 『解りたくなかった? そんなのは嘘だろ。解ろうとしなかったんだろ。ほんとはエスティが死んで、せいせいしたんじゃあないか?』 「そんな……そんなわけが!」 『いいや、それは欺瞞だね。お前は自分を欺いている。お前はお前だ。そして人間は……自分さえ生きていればいいと思うのさ。それが人間なんだからな。人間らしい生き方をしているんだよ、お前は』 「うるさい……うるさい……」  崇人は走る。  気が付けば壁の外まで出ていたが、それでも彼の足が止まることはない。 「……どうすれば」 『あいつを倒せばいい』  其の時、崇人の耳に悪魔の囁きが聞こえたような気がした。 「……あいつ?」 『そうだよ。エスティを踏み潰したリリーファーを。エスティの死体が無くなるほどにした、リリーファーを倒せばいい。そうすれば彼女への手向けにもなるだろ?』 「確かに……たしかにそうだ」  エスティを殺した、あのリリーファーを倒す。  今の崇人の頭には、それしかなかった。否、それを考えるほかなかった。  まるで誰かに口添えされたように、冷静に叫んだ。 「来い……≪インフィニティ≫!!」  誰に命令されたわけではなく、彼自身の意思で、インフィニティを呼んだ。  ◇◇◇ 「これを予想していたのか……帽子屋。相変わらず君は下衆な考えを持っているよ」  白の部屋、ハンプティ・ダンプティがモニターから目を離し、帽子屋の方を見て小さくつぶやいた。  対して、帽子屋はすまし顔でハンプティ・ダンプティの方を見た。 「ほんと帽子屋、君は気分の悪いことをするのはピカイチだよ」  チェシャ猫の言葉は褒め称えるようにも蔑んだようにも見えた。 「私から言えば最低な行動にも見えるけれどね」  しかし一人だけ、素直なのかどうかは知らないが、バンダースナッチがばつの悪そうな表情でそう言った。 「……随分と手厳しいね、バンダースナッチ。だけれど、別にそれは悪いことじゃあないさ。あぁ、そうだ。悪いことじゃあない。僕がやっている……この『インフィニティ計画』は、人類にとってもそう悪い話じゃあないんだ」 「悪い話じゃあない? 少なくとも今やっていた行為は最低に見えるけれど?」 「僕がエスティ・パロングの死を招いた、と? 確かに計画には入っていたよ。だがね……早すぎた。彼の『覚醒』はもう少し後の予定だったんだ」 「覚醒?」  バンダースナッチは帽子屋が言ったその言葉を反芻した。  バンダースナッチは困惑の表情を浮かべていた。それを見て、帽子屋は微笑む。 「まぁ、それは、僕が言うよりも実際に見てもらった方が早いだろうね。……ちょうどインフィニティも来た頃だし」  そう言われてバンダースナッチは改めて視線をモニターに移した。  そこで彼女はふと考えた。  インフィニティ。  タカト・オーノが乗る、リリーファーだ。彼しか乗ることの出来ない専用機であるとともに、この機体が世界最初のリリーファーである。  そんなリリーファーの名を冠した『インフィニティ計画』とはいったいどのようなものなのだろうか?  名前を冠したものなのだから、恐らく何らかの関係はあるのだろうが、少なくとも現時点ではイマイチその関係性が見えてこない。先程、帽子屋がリリーファーについて何か言おうとしていた気がしたが――そう思いバンダースナッチはそちらの方を向くと、もう帽子屋の目線はモニターに釘付けになっていた。  今質問してもうやむやにされるだけだ――そう思った彼女は、改めてモニターに視線を向けた。  ◇◇◇  インフィニティのコックピットに彼が乗り込んだのは何回目になるだろうか。  先ず、三十五歳の身体で乗り込んだ一回目。あれはどちらかといえば、『困惑』が彼の心を満たしていた。  そして二回目。大会のとき、赤い翼のリーダーに言われ乗り込んだときは、作戦を考えていたからか、意外にも冷静を保っていた。  そして、三回目。  彼の心は『憎悪』で満たされていた。  そこはかとなく、そして何物にも代えがたい『憎悪』。 『……マスター、ご命令を』  フロネシスの言葉を果たして聞いていたのかどうかは解らないが、彼はただ一言――こう言った。 「あのリリーファーを……殲滅する」  それは命令ではなく宣言に近かった。エスティを殺したリリーファーを倒す――もはや彼の頭の中にはその考えしか無かった。 『――かしこまりました』  フロネシスは人間ではない。オペレーティング・システムだ。マスターの命令は何でも聞くよう、プログラムが施されている。  だからフロネシスはその命令に逆らうことは出来ないし、逆らうことを許さない。  そして、インフィニティは心を憎悪で満たした崇人を乗せて、ゆっくりと動き出した。  それを見たマーズは舌打ちした。 「幾ら何でも早すぎる! あのままじゃあ大変なことになるわ!」 「マーズさん、別にあのままペルセポネを倒してもらえばいいのでは……」  マーズの言葉にコルネリアが訊ねる。 「そんな甘い話じゃあないわ。今のタカトは心が不安定な状態にあるのよ? そんな状態で戦闘なんてさせてみたら何が起こるか……想像も出来ない」 「それじゃあお前たちは、あの騎士団長サマを止めるわけか」  ヴァルトの言葉にマーズは頷く。  それを見てヴァルトは、小さく首を振った。 「だとしたら現時点で俺たちに出来ることはない。安全圏で見守ることにするよ」 「えぇ、そうしてもらった方が有り難いわ。ただし、エルフィーとマグラス、彼らは借りていくわ」 「好きにしろ」  恩に着る、そう言ってマーズたちはリリーファーが保管されている基地へと向かった。 「あれでいいんですか、リーダー」 「ん。ローグか。お前いつの間に居たんだ。……まあ、そういうのは相変わらずだな」  ヴァルトは振り向くと、そこには凡てを黒く塗りつぶしたような人の形があった。少しだけ見ると生きている人間とは思えないくらい、生きている気配を感じなかった。 「……ローグ、その『死んだような』気配はどうなんだ? いや、仕事の時は構わんが、私の時くらいはそういうのをやめてくれよ」 「すいません、不器用なもので」  ローグは頭を下げると、漸くその『死んだような』気配を漂わせるのをやめた。 「……まったく。それは困りものだぞ。それ以外ならば君は完璧な人間だというのにな」  その言葉に対し、ローグは何も答えない。 「……まあいい。ともかく、ここから逃げるぞ」 「はっ」  その言葉を聞いて、ローグは姿を消した。  残りの『新たなる夜明け』も、それを見て、歩くヴァルトのあとを追った。  ◇◇◇  リリーファーが置かれている基地は、幸いにも壁からそう遠くない位置にある。  おかげでマーズたちはそう時間もかからずに基地まで辿り着くことが出来た。 「どうしたのよ、そんなに慌てて……! それにあの衝撃は……!」  基地に入るやいなや、待ち構えていたルミナスが激昂していたが、マーズはそれを軽くあしらう。 「そんなことより、リリーファーはどこ」 「リリーファー? ……地下にあるに決まっているじゃあない。あれ、エスティさんは?」 「……エスティは、死んだ」  マーズのその言葉を聞いて、ルミナスは耳を疑った。  何もいうことも出来ず、ただそこに立ち尽くしていた。  それを見て、マーズは話を続ける。 「……そして、それを目の前で見たタカトがペイパスのリリーファー、『ペルセポネ』と戦ってる。しかし彼は今……どちらかといえば『暴走』しているわね。それを何とかして止めないと。ペルセポネを破壊したあとは、どこにその手が向かうかも解らないわ」 「マーズさん、ペルセポネはペイパス一のリリーファーとして知られていますよ。それに、一時期はラトロが作った最高傑作とも言われていた、リリーファー……なのにどうして、それでもタカトが勝つと?」  訊ねたのはヴィエンスだった。 「ヴィエンス、流石に調べているわね。そう、たしかにあのリリーファー『ペルセポネ』は強い。だからといって、タカトが乗っているリリーファーのことを忘れちゃいけないわ。あの最強のリリーファー≪インフィニティ≫のことを……」 「インフィニティ……そんなに強いんでしょうか?」  さらに、エルフィーが訊ねる。 「強いなんてものじゃあない。もしかしたら私たちのリリーファー凡て出揃ってもあの力を止められるかわからないくらいの実力、それが≪インフィニティ≫よ。『有限』だなんて言われているけれど、そんなことは有り得ない。あれは実際には有限であって、理論上無限にその力を引き出すことが出来る……とされている」 「詳しいのね、あのリリーファーに」  ルミナスが、目を背けて言った。  マーズは、それほどまで知らないけれどね、とだけ言って、ルミナスに頭を下げて、その場を立ち去った。  ◇◇◇  その頃。  エレン・トルスティソンはリリーファー『ムラサメ』に乗り込んでいた。  コックピットにあるのは、今までのリリーファーにあるコントローラとは異なり、コンピュータのキーボードだ。キーボードは幾つも存在するが、その中の、彼女の目の前にあるそれに手を置いた。  彼女以外の――魔法剣士団と呼ばれる存在も――すでにムラサメに乗り込んでいた。あとは、起動命令を待つのみである。  ため息をついて、改めてそのキーボードを撫でるように触る。 「このリリーファーの初陣だ」  このリリーファーは、ラトロが全精力をかけて開発した最強のリリーファーだ。  ラトロの科学者が、最強と謳われるインフィニティを超えるために開発したリリーファーだ。  インフィニティ以外に負けることなど有り得ないし、インフィニティに負けることも有り得ない。  しかしながら、彼ら科学者はインフィニティのデータを完全に獲得していない。  そのためか、対インフィニティ用装備は不完全なものとなっている。  しかしながら、ほかのリリーファーには絶対に負けることがない――それが『ムラサメ』である。 「だからこそ、負けるわけにはいかないのよ……!」  彼女は拳を強く握る。 『――どうかしましたか、リーダー』  そこで、スピーカーから声が聞こえた。  透き通った優しい声だ。 「ああ……大丈夫だ、エルナ。問題などないよ」 『そうかしら? ひどく疲れているように見えるけれど』  見えてなどいるわけがない――エレンは小さく呟く。  エレンとエルナは、同じ学校のクラスメートでもあり、同じ孤児院の出である。  魔法剣士団は、皆身寄りのない子供から構成されている。上は十七歳、下は八歳とその差は大差ない。しかしながら、剣士団は全員子供でるということに変わりはない。  子供が一番リリーファーの操縦に向いている――ラトロの科学者であるピオール・アンフィリクはその著書の中で述べた。  発達途上の子供のほうが、発達しきった大人よりも制御しやすいのがリリーファーの特徴だ。なぜそうなのかははっきりしない。  ただ、ピオールの著書では、『発達途上の子供の方が、大人よりも複雑な操作を覚えやすい』と述べている。(しかしながらアリシエンスのような例外もあるため、一概にそうとも言えないというのが現在の考えである)  そして、その著書を忠実に再現し、実行したのが、現在のラトロで最高権力者として君臨する、グロヴェント・オールクレイト率いる『三賢人』と呼ばれる存在だ。  三賢人は先ず、最強のリリーファーに見合う最強の存在を作ることにした。最強に乗るパイロットも最強でなくては、その力を真に引き出すことができない。三賢人のひとり、マキナ・ヴァリフェーブルはそう語った。  マキナ・ヴァリフェーブルを主導として、全世界から身寄りのない子供を集めた。そしてその中から、『最強』といえる遺伝子を探した。  ラトロの地下には、ある人間のDNAを保管している。  伝説の起動従士、イヴ・レーテンベルグの遺伝子だ。  イヴ・レーテンベルグは世界最初のリリーファー『アメツチ』を操縦した起動従士として、その名を歴史に刻んでいる。  アメツチはラトロが開発したものでない、と一部の歴史書ではそう記されているが、それが正しい歴史である。  ラトロに残されていた歴史書にも、そう記されているのだ。  ただし、ほかの場所にある歴史書よりも、その部分は事細かに記述されている。  それによれば、アメツチは発掘されたものであった。  しかしそれとともに、棺桶が発掘されたのだ。  棺桶の中には、ひとりの少女が入っていた。  死んでいるのか、生きているのか、わからない。  はじめ、それを見た人間は、人形なのではないかと思った。あまりにも精巧すぎて人間と間違えているのではないか、そう思った。  しかし、彼女は、困惑している人間をよそに目を開けた。  彼女は、人間に目をくれず立ち上がると、一目散にアメツチの元へ向かった。  倒れていたアメツチの胸に立つと、彼女はアメツチに吸い込まれていった。  突然のことで何も言えなかった人間だったが、直ぐにその光景に驚愕することとなった。  なぜなら、アメツチは突如として起き上がったからだ。  人間は逃げ出した。なぜなら、そのロボットが攻撃をするのではないか――そう思ったからだ。  しかしながら、いつまで経ってもそれをする気配がない。  恐る恐る振り向くと、そのロボットが手を振っていた。  これが、世界最初のリリーファー『アメツチ』と、世界最初のリリーファーを乗りこなす起動従士、イヴ・レーテンベルグの、歴史書に残された一番古い史実である。  イヴ・レーテンベルグはその後、どのような人生を送ったのかははっきりとしていない。  だが、イヴ・レーテンベルグが世界最初の起動従士としてその名を知られるようになったのは事実だ。  そんな彼女の遺伝子が、どうしてラトロにあるのか、今はもうはっきりとしない。  ラトロにあるその遺伝子は、言わば彼らの持つ最終兵器でもあった。  彼女の遺伝子と合致した遺伝子を持った子供を見つけ、それを鍛え上げる。そうすることで、彼女を大量生産出来ると同じ意味となる。  そして、最強の起動従士達――兵団はつくりあげた。  次はリリーファーだ。  リリーファーを手がけたのはヴェルバート・アンフィリクである。ピオール・アンフィリクの子供である彼もまた、リリーファーの権威として知られている。  ヴェルバートは先ずあるものに着目した。  それはコマンドだ。今までリリーファーコントローラーが球体だったりレバーで操作したりしていたので、そのコマンド数はとても少なかった。  これが、リリーファーの行動を制限しているのではないか――ヴェルバートはそう考え、|操縦席(コックピット)の刷新を行った。  その結果生み出されたのが、『キーボード』であった。  コンピュータのキーボードをモチーフに、コックピットを造り変え、制御方法を大幅に変更した。  そして、それによりコマンドの数が大幅に増加した。  コマンドの数を増やしたことで、今までに実現できなかった機能が実装出来た。  コマンドの組み合わせによってはアクロバティックな操作が可能であるし、装備とともに使うことで、最強のリリーファーと云える。  最強のリリーファーは、最強の装備をしていなくてはならない。  そのために、そのリリーファーには『クロムプラチナ』という特殊な金属を躯体に使っている。クロムプラチナはクロムと白金を特殊な技法で結合させ、新たな金属を作った、その結果である。クロムは希硫酸、希塩酸に弱く王水に強いが、プラチナは代わりに酸に対して強い耐食性を持ち、王水に弱い。これらを組み合わせることで、『絶対に融けない』金属が完成するのである。  そのクロムプラチナを全身に使ったリリーファー、それは最強の硬度を誇ったリリーファーであった。  さらにピークス-ループ理論を使った、PR型エンジンを用いて、エネルギーの生成スペースの省スペース化を図った。  そのリリーファーに、ヴェルバートはこう名づけた。 「このリリーファーの名前……それは『ムラサメ』だ。ムラサメは最強のリリーファー、誰もがその名前を聞いて、誰もが恐怖する! そうだ、ムラサメ! ハッハッハ……、ついに≪インフィニティ≫をも上回るリリーファーが完成したのだ!!」  ヴェルバートはこれをムラサメと名づけ、さらにその量産化を図った。それが成功したのは、最初のムラサメが完成してから、三年後のことだった。  その頃には、イヴ・レーテンベルグの遺伝子を持った子供達の選別が完了していた。  その数、十六名。  その子供達の教育を行ったのが、ベルーナ・トルスティソンだった。  子供達に行ったのは、苗字を奪うことだった。  それにより、自分の親の存在を忘れさせることを狙った。そしてそれは実際に成功した。  子供達は絶対にカーネルを裏切るようなことをしてはならない。  子供達は、これから『最強』のリリーファーを操縦する最強の起動従士にならねばならない。  子供達がカーネルを裏切ったとき、カーネルは終焉したといえる。  だから、ベルーナは先ず、子供達をカーネルに絶対服従させることをした。  簡単に言えば、洗脳である。  そして、結果として、子供達はカーネルに絶対的な忠誠を誓い、最強になるための訓練を積んだ。  しかしながら、子供達全員が起動従士になったかといえばそうではない。  子供達の一人の洗脳が解け、突然リリーファーに突っ込んだのだ。  リリーファーはほかの子供がすでに乗り込んでおり、駆動していた。  その一人はリリーファーの進路に突入し――そして死んだ。  その行動に、ベルーナはほかの子供達も洗脳が解けるのではないかと思い、さらに強い洗脳を子供たちにかけたが、結果としてベルーナが危惧するようなことには至らなかった。  十五人となった子供達はそのまま起動従士となり、そして子供達はその子供達の固有名詞として、こう名付けられた。 「あなたたちは……最強の存在なの。最強のリリーファーに乗ることが許された、最強の存在なのよ。魔法も使える、最強の剣も持っている。あなたたちはこの訓練によく耐え抜いて来れた。あなたたちは、もう誇っていい。あなたたちは、選ばれた存在なのだと。……もう、『|子供達(チルドレン)』とは呼ばない。あなたたちは、こう呼ばれるべきなのよ。……『|魔法剣士団(マジックフェンサーズ)』と」  魔法剣士団は最強のリリーファーに乗ることが許された、最強の存在として、来る時を待って訓練を重ねていた。  そして、今日。  カーネルは『独立宣言』をし、魔法剣士団にも『出動命令』が下った。  魔法剣士団の面々は「ついに来たか」と、胸を躍らせた。なぜなら魔法剣士団は戦闘に特化した面々だ。今まで擬似戦闘ばかりだった魔法剣士団にとって、これは初めての『本物』の戦闘ということになる。  本物の戦闘と擬似戦闘は、やはり違う。  何が違うといえば、臨場感。それにスリルが違う。  コンピュータのシミュレートによる擬似戦闘では味わえないスリルと臨場感を、魔法剣士団の面々は楽しみにしていた。  そして、話は彼女たち――エルナとエレンの会話に戻る。 『疲れていない……それは事実だと受け入れます。ですが、何かあるのであったら、私に言ってください。隠し事は良くないですし、そもそも私たちは同じ孤児院の出。何を言っても構わないのですから』 「……ありがとう、エルナ。でも、大丈夫。私はリーダーだからね」  そう言って、エレンは通信を切った。  エレンは通信を切って、小さくため息をついた。  彼女は、いや魔法剣士団の全員は戦闘が好きだ。  しかし、実際に戦闘が始まる――そう考えてみると、その恐怖に打ちのめされない方がおかしいのであった。  怖い。  恐怖に打ちのめされている自分がいることが、とんでもなく情けない。  エレンは思った。  情けないこの気持ちを、ほかのメンバーに見せてはならない。  魔法剣士団の面々は殆ど平等の実力を持っている。  即ち、ここでエレンが一瞬でも泣き言を見せれば、直ぐにほかの人間にリーダーが変わってしまう。  それは絶対に、あってはならないことだった。  それは彼女のプライドが許さなかった。  彼女のプライドが、そのような行為に至ることを許さなかった。  彼女の苗字である『トルスティソン』は、実際には彼女の苗字ではない。彼女たち魔法剣士団を『教育』したベルーナ・トルスティソンの苗字である。彼女が認めた存在――リーダーは彼女の苗字であるトルスティソンを冠するのである。  魔法剣士団にとってトルスティソンの苗字を手に入れることは、とても素晴らしいことだ。どんなことをしてでも、それを手に入れようとすることは、もはや当然と思える。  そして、エレンに次いでナンバーツーになっているのが、先程会話を交わしたエルナであった。  エルナとエレンはクラスメートで、ともに実力が高い存在だ。  それゆえ、はじめベルーナもどちらをリーダーにさせるか、とても悩んだが、最終的にエレンがリーダーになるべきという選択をした。  エルナは表面には出していないが、きっとエレンがリーダーになったことについて、深い憎悪を抱いている――エレンはそう思っていた。  だからこそ、彼女にはあまり心を許してはいない。  場合によっては、戦闘のどさくさで闇討ちされる可能性もあったからだ。 『――総員に告ぐ』  ベルーナの声がコックピットに響いたのは、その時だった。 『これより、「魔法剣士団」は出動する。ターゲットは≪インフィニティ≫。繰り返す、ターゲットは≪インフィニティ≫である。幸運を祈る』  それだけを告げて、ベルーナとの通信は終了した。  エレンは目を瞑って、精神をゆっくりと落ち着かせていった。  そして。 「――了解、『魔法剣士団』エレン・トルスティソン、出る!」  魔法剣士団が乗り込んだムラサメが、続々と飛び出していった。  ≪インフィニティ≫に乗り込んだ崇人はひどい絶望に苛まれていた。  なぜ彼女が死ななくてはならなかったのか。  なぜ彼女は助けを求めようとしなかったのか。  崇人はずっとずっとずっとずっと考えていた。 『……いかがいたしますか、マスター』 「このリリーファーが出せる、最強の装備を……使う」  崇人には、もう相手を倒すことしか考えていなかった。  どうやって倒すのではなく、ただ、倒す。  方法は決めない。  ただ――目の前にいる敵を倒すのみ。  それが彼の思考を独占していた。  インフィニティのAI、フロネシスはそれに従うしかない。  彼女にその命令に抗う権利など存在しないからだ。  インフィニティは、フロネシスが操作する。  インフィニティの躯体に装備されていた、銃口がゆっくりと外に出てくる。  他のリリーファーにとって、エネルギーの消費が莫大過ぎる故に装備されなかった荷電粒子砲、エクサ・チャージ。  元々規格外の装備であるにもかかわらず、彼のパイロット・オプションである|満月の夜(フルムーンナイト)、それがさらに性能を限界までに引き上げる。  それを行うことで、インフィニティは、もはや他のリリーファーに負けることは有り得ない。 「エクサ・チャージにエネルギーを注入しろ」  崇人の声は、意外にも落ち着いていた。  そして静かだった。  フロネシスは、それに対し返事をしなかった。  そしてゆっくりとコックピットが震え始めた。インフィニティに装備されているモーターが駆動し始めたからだ。インフィニティは毎時十エクサボルトエネルギーが生成される。そしてエクサ・チャージはそのうち九エクサボルトを消費する。インフィニティは常に毎時一エクサボルトを消費するだろうと設計されているらしく、エクサ・チャージを撃つ時以外は、最大までエネルギーを生成しない。  今の振動は、エクサ・チャージのエネルギーを充電しているためである。  エクサ・チャージはその莫大過ぎるエネルギーの消費故にそれを撃ったあと、一時間は撃つことができない。エネルギーの保存が出来ないために、このような不便なこととなっているのだが、今の崇人はそれを知る由もない。 『「エクサ・チャージ」エネルギー充電まで残り二十秒です』 「解った。充電完了後、遅滞なく撃ち放て。目標は『ペルセポネ』だ」 『了解しました』  フロネシスは静かにそれに答えた。  ◇◇◇  その頃、ヴァリエイブルのリリーファー基地。 「総員、コックピットに乗り込んだわね」  マーズが『アレス』のコックピット内部でそう告げた。  今、ハリー騎士団の面々は全員がリリーファーに乗り込んでいる。マーズはアレス、コルネリアはアクアブルーニュンパイ、ヴィエンスがグリーングリーンニュンパイ、そして、エルフィーとマグラスはアシュヴィンに乗り込んでいた。 『了解』 『了解』 『了解』 『了解』  それぞれが同時にそう言った。  もう彼らを止める術などない。  強いて言うならば――同じ条件に揃うことがあれば、出来る話だ。 「以後、私のことは『サブリーダー』と呼べ! そして、これから作戦を発表する。これから、ペルセポネと戦闘を行っているインフィニティを止める! レーダーが、他のリリーファーを捉えているため、もしかしたらカーネルからのリリーファーによる攻撃もあるだろう。なので、私とコルネリアはインフィニティとペルセポネの戦闘に介入し、ヴィエンスとエルフィー、マグラスはカーネルからのリリーファーの攻撃に備えること、以上!」  それを言った直後、ハリー騎士団はリリーファー基地から出発した。  ◇◇◇  そして、また別のところにて。  出撃した魔法剣士団が乗り込んだムラサメはカーネルの南にある街エル・ポーネへとたどり着いていた。 「ここからも見えるように、インフィニティとペルセポネがいる」  エレンはそう呟いた。 『エレン、これからどうするつもり?』 「命令通り、インフィニティを倒す。だが……その前にあれが邪魔だな」 『ペルセポネ、か。ペイパス王国の持つ、リリーファー。しかし、ラトロ開発ということもあるが、型遅れのリリーファーだった。エレン、あなたなら一人で倒せるんじゃあないかしら?』 「そうね。だけど、私は出来ることならインフィニティと戦ってしまいたいところね」 『あなたはそう言うと思っていたわ。……それじゃあ、インフィニティはエレン、あなたの方に譲るわ』 「ありがとう、エルナ。それじゃあ、あなたたちはペルセポネを?」 『そういうことになるわね。……恐らくそれ以上の敵が出てくると思うけれど』  それを聞いて、エレンは考えることもなく答えを出した。 「……ハリー騎士団ね」 『ええ。彼らも「インフィニティ」の勝手に始めた戦闘に対して好ましく思っていないはず。だから、私たちはそのハリー騎士団の攻撃も受ける。まあ、私たちに敵うとは到底思えないけれど』 「その慢心が、油断を引き起こす……よく解る話でしょう?」 『ええ。解っているわ。……あなたも、慢心をしないことね』  そして、会話は終了した。  その時だった。  エレンはあるものを感じた。  大地そのものが揺れる、その振動を。 「総員、退避!! 避けろ!!」  彼女の身体は、無意識に震えていた。武者震いだ。彼女は気付かないうちに恐れ戦いていたのかもしれなかった。 『……何だ、エレン。そんなに慌てて……』 「いいから避けろ、来るぞ!!」  そして。  そしてそしてそして。  彼女たち、魔法剣士団のリリーファーに強烈な熱線が命中した。  その熱線は、あまりにも強烈であまりにも高熱であまりにも衝撃的だった。  インフィニティが規格外の強さであるということは、魔法剣士団の面々には周知の事実であったが、これほどまでに圧倒的な強さを誇るとは、誰しもが予想出来なかった。 「何……だっ、これは!!」  エレンはコックピットでキーボードを拳で思い切り叩いた。そのようなもので壊れることはなく、虚しくその音だけがコックピットで響いた。 「エルナ、応答しろ!」  しかし、返事はない。  辺りを見渡すが、彼女が乗るムラサメ以外の姿は見られない。  あまりの高熱で蒸発してしまったというのだろうか。  有り得ない有り得ない有り得ない。  そんなことは断じて有り得ない。  そんなことがあってたまるものか。 「おい……おい! アンドレア! バルバラ! エラ! エリーゼ! バルバラ! ドロテーア! ドーリス! フローラ! エルヴィーラ! イーリス! イザベラ! イルマ! ハンネ! ……誰でもいい、応答しろ!!」  しかし。  その通信に答える者など、誰もいなかった。 「どういうことだ……インフィニティは……それほどまでに強いというのか……?!」  エレンは先程までエルナと通信していたことを思い出す。  もっと早く、自分が気付けていれば――魔法剣士団へのダメージを減らせたのかもしれない。  しかし、結果は最悪のものとなった。エレン一人を残して、魔法剣士団は壊滅してしまった。 「なぜだ……なぜなんだよ……!!」  彼女たちは『最強』の存在だ。  しかしながら、彼女たちは本物の最強を知らなかった――だから負けた。  それだけのことだった。  その頃、漸く戦場に辿り着いたマーズ率いるハリー騎士団は、その変わり果てた光景に呆然としていた。  今まであったはずの瓦礫、人の死骸、廃墟が熱で溶かされ、ごちゃ混ぜになっていた。 「これを……《インフィニティ》一機が行ったというのか!」  マーズはその悲惨な状況を、あまりにも悲惨な状況を嘆いた。  インフィニティは自分達が想像している以上に規格を外れているものだと、改めて思い知らされた。  インフィニティは、もはや人間が扱うことすら許されないものなのではないか。  あのままでは、タカトがおかしくなってしまうのではないか。  マーズはそれをずっと考えていた。 「インフィニティは、あまりにも強いリリーファーだった。だから『最終兵器』と呼ばれる程の強さを誇っていた。……だから封印されていた、ということね……」 『インフィニティというのは、そこまで恐れられていた存在だったんですか』  コルネリアが訊ねる。  マーズは頷いて、それに答えた。 「インフィニティはそもそも『操れる人間』が今までいなかったのよ。そして、姿を現した、唯一の操作出来る人間……それがタカトだったの」  インフィニティは、操縦する人間を選ぶという。  どうしてかは解らないが、インフィニティを見つけた科学者がいざコックピットを見て、操縦を試みようとしたとき、異変が起きた。  リリーファーコントローラーが存在しないのだ。  いや、普通に操作する手段はあるが、それではあまりにも足らなすぎる。  操縦するための補佐となる何かが足りないのだ。  そして、その手段だけではインフィニティを起動することができないのであった。  ならば、どうすればいいのか?  科学者は手段を考えた。方法を考えた。作戦を立てた。  それでも。  インフィニティを起動させる方法は見つからなかった。  最強のリリーファーであるインフィニティを起動することさえ出来れば、それは国の大きな戦力となる。  しかしながら、それを起動する方法が見つからなかった――ならば、それを封印するほかなかった。  いつか、インフィニティを起動させることの出来る人間が現れることを信じて。 「……さて、どうしたものか」  マーズは改めて正面を見る。  インフィニティが放った何かは、あまりにも衝撃的なものだった。掠っただけでも致命傷は避けられない。ならば、それには絶対に当たらない――そうした方がいいだろう。  ならば、遠距離での戦闘ではなく、近接攻撃をした方がいいという結論に至るのは当然のことだ。近接攻撃にすれば、インフィニティが放った彷徨(と思われる何か)は使えない。もし使えばインフィニティの躯体そのものにも影響が出てしまうからだ。 「もちろん、タカトがそこまで考えられるだけの余裕があれば……の話だけれど」  マーズはぽつり呟く。しかしその言葉はほかのメンバーに聞こえることはなかった。  ◇◇◇  そのころ。  崇人はインフィニティの中で苦しんでいた。  エスティを殺したのは自分だ。  エル・ポーネがこんな惨状になってしまったのも、自分のせいだ。  全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部、自分のせいだ。  自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ自分のせいだ――! 「あああああああああ――――っ!!」  崇人は頭を抱える。  もう彼にまともな思考など、できるわけもなかった。  気が付けば、コックピットの周りには深い闇に囲まれていた。 「ああああああ、ああああああ!!」  崇人は頭を振る。頭を振る。  少しでも、自分の頭の中で聞こえる『声』を無視したいから。  少しでも、楽になれると思ったから。 「ああああああああ、あああああああ!! うるさいうるさい!! 俺は悪くない!! 悪くないんだ!! エスティが死んだのも! エル・ポーネが滅んだのも!!」 『ほんとうに?』 『ほんとうなの?』 『ほんとうにそうだといえるの?』  崇人の頭に、そんな声が谺する。  その声は、聞いたこともないのに、エル・ポーネの住民の声にも聞こえた。  そして。 『ねえ……タカト?』  彼の目の前に、血まみれのエスティが姿を現した。  それが幻覚だということに――崇人は気付く由もなかった。 「あ、ああ……」  崇人はゆっくりと、ゆっくりと顔を上げ、そのエスティの顔へと手を差し伸べる。  しかし、エスティの顔は徐々に青ざめていき、彼女の目から赤い血のような涙が流れる。 『どうして、私を助けてくれなかったの? 私、「助けて」って言ったよね? 私、あなたに助けて欲しくて、ダメな時でも、たとえダメでも、来て欲しかったのに。ねえ?』  それが嘘だというのに。  それが事実とは違う――彼自身がつくりあげたまやかしであるというのに。  それでも崇人はそれを信じてしまう。  それを疑う余裕などない。  彼の指に、エスティの目から流れる血の涙が滴る。それは指から腕へ、腕から肩へ、そして身体へ、崇人自身の身体を濡らしていく。 「あああ、あああああああ……」  崇人はそれを見て、目を背けたくなった。  そして、彼は手で目を覆った。  手はもう血で赤く染まっていた。そしてそれを顔に当てたことで、彼の顔も赤く染まっていく。  それを見て、エスティは笑っていた。  彼の目の前にいるエスティは、笑っていた。 『うふふ……うふふふふ。ねえ、タカト? どうして私は死ぬことになったのかな? どうしてリリーファーに踏み潰されるような、そんな惨たらしい死を遂げなくちゃいけなかったのかな。ねえ? 解らないよ、タカト……』  エスティの手が崇人の顔に触れる。  それは恐ろしいほどに冷たかった。 「え、エスティ…………」 『ねえ、タカト。どうしてだと思う? どうして私が死んで、あなたが生き残ったんだと思う? 私には、まったく解らないんだ』  そんなことは崇人にだって解るわけがない。  だがそれを答えることはなかった。 『ねえタカト』  エスティは告げる。 『どうして……あなたはそう感情に身を任せていられないの? 私だったら、もし私がタカトと同じ状況だったなら、私は感情に身をゆだね、そりゃあもうとんでもないことになっちゃいそうだよ』 「…………」  もう崇人は答えない。  もう崇人が質問に、言葉に、返す余裕もない。 『ねえ、タカト』  にもかかわらず、エスティは話を続ける。  冷酷な一言を、突きつけるために。 『――あなたはどうして生きているの?』  その言葉は、崇人の精神を瓦解させるには――あまりにも大きすぎる一言だった。  ◇◇◇ 「とうとうやりやがった! 充分過ぎる結果だ!」  白い部屋。帽子屋はそう言って高笑いした。手を叩き、この結果をとても喜んでいた。 「帽子屋……あなた、何をしたの?」  今までの光景をモニタリングしていた『シリーズ』の誰しもがそれに疑問を抱いた。  ――いったい帽子屋は何をしたというのだろうか?  その言葉について。  最初に訊ねたのは、バンダースナッチだった。  帽子屋はそれを聞いて、鼻を鳴らすと、 「簡単なことさ。彼の心を揺さぶった。あとは勝手にエスティの魂がなんだのどうだのと……馬鹿だ、ほんとうに人間というのは馬鹿者だよ! たかがそれだけで、友人から『なぜあなたは生きているの?』などと聞かれるのだからな!」 「それじゃああれは凡て……」 「そうだ。タカト・オーノが自作自演しているのだよ。だが、その自作自演という事実は本人にすら気付いていないがね。だから勝手に傷つく! 勝手に精神を瓦解させていく! 勝手に自滅していく! 勝手に……僕の思うがままの方向へと進んでいく! これ以上に素晴らしいことが、果たしてあるだろうか!」 「あなた……ほんとうに最低ね」  バンダースナッチはそう言ったが、しかし帽子屋はそれについてただ笑うだけだった。まるで、自分が考えたことに失敗などない――そう言いたげだった。 「最低だとか最高だとか、決めるのは人それぞれが持つ基準によるものだ。だってそうだろう? 君が『最低』だと思ったから僕を最低と罵った。別に構わないよ、そんなことは……。何れ、そんなことなんて考えなくていい、そんな時代が来るのだから」 「そんな……時代? あなたはいったい、何を計画しているというの?」  バンダースナッチがさらに訊ねようとしたが、帽子屋は唇に指を当てて、小さく微笑んだ。 「あとは、また別の機会だ。今はこれまでしか教えられないが、何れ全員に『インフィニティ計画』の全容を伝える時が来るだろう。その時が来るのは……そう遠くないだろうね」  そう言って。  何かを確信したように、帽子屋は口を綻ばせた。  ◇◇◇  血が噴いた。  頑丈と思えたインフィニティの躯体だが、しかしそれを操縦する起動従士の身体は頑丈とはいえない。  インフィニティの欠点の一つでもあるが、しかしそれは立派な特徴とも呼べる。  インフィニティは、全力を出せない。  インフィニティは高い戦闘能力を誇っているのは最高の性能があるゆえの話である。  しかし、その最高の性能をフル活用しようと思うと、それに起動従士の身体が耐えきれないのだ。  起動従士の身体が弱いから、インフィニティは全力を出せない――話だけを聞けば、滑稽な話である。  しかしながら、それが滑稽であると思いたくないのが、一人残された魔法剣士団のリーダー、エレンだった。  彼女は今、震えていた。その姿は、あまりにも惨めだ。無惨だ。だが、それを咎める者など、今は居ない。 「……なんだ、なんだ、なんだというのだ、あれは!」  エレンは震える身体を抑えながら、それを見る。  そこには、インフィニティが居た。  しかし、その姿は大きく変わっていた。  巨大だった銀の躯体はどこかスマートになって、カラーリングも青になっていた。また、ボディラインも人間らしいものとなっていた。  腰を曲げ、犬歯を見せ唸り声を上げるそれは、まるで獣そのものだった。  グルル……と唸るインフィニティを見て、エレンは恐怖よりも疑問が浮かんだ。  ――あれは本当にリリーファーなのか?  リリーファーはロボットである、というのが科学者たちの見解、そして起動従士たちが知っている常識である。  しかしながら、あのインフィニティの姿を見れば、それが明らかに違うことが解る。  ならば、インフィニティはリリーファーではない、ほかの存在なのだろうか? そうだとしたら、あれはいったいなんだというのか?  リリーファーでないのならば――何か別の定義があるはずだ。  インフィニティは――リリーファーなのか?  エレンはそんな考えを巡らせたままで、その場から動くことはなかった。動揺こそしていたが、先ずは相手の力を見定める必要があるからだ。  しかしながら。  彼女は油断していた。  そしてその状況を嘗めていた。  インフィニティという存在は、常に人間の考えを上回る、恐ろしいリリーファーであるということを。  ◇◇◇ 「インフィニティ・シュルト。それがあれの名前だ」  帽子屋がそう言うと、ハンプティ・ダンプティは首を傾げる。 「シュルト……どこかの言葉で『罪』だったかな」 「そうだ。責任とも、罪とも言う。このフォルムにはとても似合った名前だと思うよ」 「シュルト、ねえ。……これがあなたの考えていた計画の一つ?」 「一つではあるね。完全体ではない。だが、だいぶ進んだのも事実だ」  帽子屋はそう言って言葉を濁した。 「……君はまだ何かを隠しているようだね、帽子屋」 「ん、そうかな?」  ハンプティ・ダンプティからの言葉をさらりと流した帽子屋は、モニターを指差す。 「さあ……クライマックスだよ。このカーネルの話も、ね」  そして彼らは再び、モニターに集中した。  ◇◇◇  その頃。  インフィニティ・シュルトはもはや誰も味方とは認識していなかった。とはいえ、誰も敵とも認識していなかった。  強いて言うならば、インフィニティ・シュルトに敵対する凡てが、インフィニティ・シュルトにとっての敵と云える。  インフィニティ・シュルトは理性を失った代わりに、体力や運動神経といった駆動力が倍増している。まさに『暴走』という一言が相応しい。  コックピット内部に居る崇人は、もはや操縦をしていなかった。  インフィニティにあるOS、フロネシスと崇人が一心同体となってしまい、フロネシスに崇人の意識が乗り移っているのが原因であるといえる。  フロネシスと崇人が一心同体となる――シンクロすることで、インフィニティは新たな形態へと変化する。  だが。  崇人がそれを意識して行ったのかと言われれば、それはだれにも解らないのであった。  そして、彼に向かう集団が居た。  彼が騎士団長を務める、ハリー騎士団。  そしてその先頭を走るのは、マーズが乗り込むリリーファー『アレス』だ。  アレスの中に居るマーズは、インフィニティ・シュルトを見て愕然としていた。 「何だよあれは! インフィニティにフォルムチェンジなどという機能があったのか!? いや、そもそもインフィニティ……あれはリリーファーなのか!!」  概ねエレンと同じような意見を述べるも、その足を止めることはない。  彼女たちは、暴走しているインフィニティを止めなくてはならないのだ。  彼女たちは、悲しみに暮れるタカトを止めなくてはならないのだ。慰めてあげなくてはならないのだ。 「総員、作戦は頭にはっきりと叩き込んだな!! 作戦の確認をする必要はもはやない!!」  マイクを通して、ハリー騎士団の面々にマーズの声が届く。  そして。  マーズはリリーファーコントローラーを強く握った。  その瞬間だった。  アレスからレーザーが放たれた。そのレーザーの出力はリリーファーの中でも高く、インフィニティ・シュルトの躯体を貫くことはないにしろ、そのレーザーで傷が付くことは、まず間違いなかった。  ――はずだった。  ――はずだったのに。 「嘘……どうして、傷一つついていないの……!」  そう。  インフィニティ・シュルトの躯体には傷一つついていなかった。  アレスの出せる、最高出力のレーザーであったにもかかわらず。  それは傷一つつかず、寧ろ、レーザーが撃たれたかもどうか解らないような、そんな感じだった。  そしてインフィニティ・シュルトは、アレスに向かって走ってくる。  敵対したから、インフィニティ・シュルトは『ターゲット』としてしまったのだ。  インフィニティ・シュルトは駆け出してくる。  アレスはそれを待ち構える。  十メートル、五メートル、三メートル、その差は徐々に縮まっていく。  そして、一メートルにまでその差が縮まったとき――アレスの腕がインフィニティ・シュルトの足を掴んだ。 「!!」  インフィニティ・シュルトは困惑し、それを離そうとするが、しかしそれよりもアレスの力のほうが強かった。 「インフィニティ、捕まえたり!」  其の時、彼女は完全に油断していた。  敵は、インフィニティ・シュルト以外にいることを、完全に忘れていた。  それは、彼女にとって、痛恨のミスだった。 『マーズさん、後ろ!!』  コルネリアからそう言われた時には、もう遅かった。  刹那、アレスの背中にレーザーが命中した。  それを撃ったのは、間違いなくペルセポネであった。  ペルセポネの起動従士、テルミー・ヴァイデアックスは漸く自分が置かれている立場を理解した。 「いったい……これはどういうことなの……!」  テルミーは今まで自分の状況について激しく苛まれていた。  しかしながら、それをしていたせいで、彼女は眠れる獅子を起こしてしまった、そういうことだった。 「あの躯体……インフィニティか? しかし今までと比べればフォルムが違ったものとなっている気がするが……」  彼女ははじめて意識して、インフィニティ・シュルトの姿を見た。  それは宛ら、『鬼神』のようにも思えた。  鬼のような存在。インフィニティ・シュルトをはじめて見た彼女は、そのように思ったことだろう。 「あんな存在が……あんな恐ろしいリリーファーが、いてたまるか! あってたまるか!」  テルミーは叫んだが、それがインフィニティ・シュルトに乗り込む崇人に聞こえるはずもない。  テルミーは震えていた。あんな存在と――これから戦うのだと思うと。  インフィニティ・シュルトに撃ったはずのレーザーはアレスに命中してしまった。彼女にとってこれは誤算だった。  インフィニティ・シュルトの目があちら側に向いているうちに最高出力のレーザーをぶっ放し、インフィニティ・シュルトに幾らかのダメージを与えようと思っていた。  しかし、こうとなれば凡て水の泡だった。もう逃げるほか、手段はない。  リリーファー同士の戦闘においても敵前逃亡というのは、あまりにもみすぼらしい。 「だからといって……あれから逃げなかったら私の身が持たない。ったくアレスめ、余計なことをしやがって……!」  彼女はそう言って舌打ちするが、そうしたからといって、事態が変わるわけでもない。寧ろ、早く決断しなければペルセポネは粉々に砕け散るかもしれない。  ならば、だとするならば。  やるしかない、やらざるを得ない。  何としてでも、インフィニティ・シュルトを行動不能にまで陥らせなくてはならない。  ならば、一人では無理だ。  ならば、誰かに協力を仰ぐか? そう思い彼女は辺りを見渡すも、味方の軍は既に全滅していた。  味方など、たった一人も居るわけが無かった。 「結局、一人でやるしかない……そういうことか」  テルミーは考えを自己完結させ、そして、改めてインフィニティ・シュルトが居るはずの正面を見た。  ――が、そこにインフィニティ・シュルトとアレスの姿は無かった。  瞬間、ペルセポネが横からの衝撃をモロにくらった。 「くっ……!!」  コックピットは、リリーファーの躯体に伝わる衝撃をなるべくそこに伝わらせないような構造になっている。  しかしながら、それによる衝撃の緩和があったにしろ、コックピットは激しい振動に襲われた。  振り返ると、そこに――居た。  インフィニティ・シュルト。  インフィニティから進化した、第二形態。  シリーズ、帽子屋が企むインフィニティ計画の第二形態でもある。  それが、ペルセポネの目の前にまで迫っていた。  ――怖い。  テルミーは気が付けば、そんな一言を呟いていた。  起動従士は、特にテルミーは、様々な戦場をくぐり抜けた存在だ。  そんな彼女が、「怖い」と呟いた?  無意識だったにしろ、そんな言葉を呟いた? 「いや……そんなことは有り得ない!」  インフィニティ・シュルトは何度も何度も何度も何度もその拳をペルセポネの躯体に叩きつける。  そんなもので壊れるはずがない――テルミーはそう思っていた。  しかしながら。  ミシミシと音を立てるペルセポネの躯体は、徐々に限界を迎えつつあった。  彼女はそれに気付くこともなかった。慢心していたとも云える。  そして。  ペルセポネの躯体が、音を立てて砕けた。  躯体の一部が破壊され、外からコックピットが丸見えになる。しかしながら、コックピットは躯体よりもさらに頑丈に制作されている。  だから、そう簡単に壊せるはずがないのだ。 「躯体が壊れたからといって……なめるんじゃあないわよ!!」  そして、ペルセポネは体の向きをインフィニティ・シュルトに合わせ、リリーファーコントローラーを強く握る。 「インフィニティを……吹っ飛ばしてやる」  ペルセポネから、収納していたレーザーを撃つための銃口を出す。そして、リリーファーコントローラーを前へと突き出す。 「これで、チェックメイトだ」  だが、それよりも早く。  インフィニティ・シュルトの拳が、ペルセポネのコックピットを破壊した。両手で、最高出力で、勢いよく。コックピットを完膚無きまでに破壊した。  その力はコックピットを破壊しただけに留まらず、ペルセポネの躯体を真っ二つにした。そして、インフィニティ・シュルトの拳が地面まで振り下ろされると同時に、真っ二つになったペルセポネが地面に倒れた。  ◇◇◇  それを見ていたアレス、アクアブルーニュンパイ、グリーングリーンニュンパイ、アシュヴィンはただただ愕然としていた。  インフィニティ・シュルトが、拳だけでリリーファーを破壊した、その惨劇を目の当たりにして、震えが止まらなかった。  武器も使わずに、拳だけでリリーファーを破壊したインフィニティ・シュルトを止めることが出来るのだろうか。 「……行くわよ、みんな」  マーズの言葉を聞いて、誰も通信を返すことはなかった。 (当たり前ね……。ペルセポネはペイパス王国最強のリリーファー。それが拳だけで真っ二つにされた。それを目の前で見てしまえば……戦意が喪失しない方がおかしい)  だが、彼女はまだ諦めてはいなかった。  彼は、崇人は、元の世界に戻りたいと言っていた。  なのに、このような場所で燻っていてはいけない――マーズはそう思ったのだ。 「タカト――ッ!!」  そして、アレスは単身背を向けているインフィニティ・シュルトへと走り出した。  ◇◇◇  インフィニティ・シュルト内部。  崇人はぶつぶつと呟いていた。  それは傍から見れば恐ろしい人間にも見える。気が触れた人間が行っている行為であるという風に見ることが出来る。 「エスティ、許してくれ、エスティ……僕は悪くない……僕は悪くないんだ……」  未だ、崇人の脳内ではエスティがずっと呪いの言葉を唱えていた。  そんなもの、デタラメであるというのに。  彼の目にはエスティが死んだ時の、あの表情が未だに焼きついている。  彼女を救うことは出来なかったのか。  どうしてあの場面で自分は立ち止まってしまったのか。 『ねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうして――』 「うるさいうるさい!! 頼むから……頼むから、声をかけないでくれ!」  エスティの声が彼の脳内にこだまする。  ――どうしてあなたは生きているの?  エスティは、エスティは、エスティは。  どうして、どうして、どうして、死んでしまった。  どうして目の前で死んでしまった。  どうしてどうしてどうして――!  崇人は今、硬い殻に篭っていた。  閉じこもって、一人だけの世界に明け暮れていた。  だからインフィニティ・シュルトは、彼の支配下には置かれていない。  インフィニティ・シュルトは崇人の憎悪によって支配される――そんな罪深い形態であった。  崇人の心は深い悲しみに包まれていた。それでいて、憎悪の炎に燃えていた。  エスティを救えなかったことへの悲しみ。エスティを救えなかった自分に対する憎悪。  その凡てが、混ざって混ざって混ざって、大きく広がる。 「……もうどうにでもなればいいんだ」  インフィニティ・シュルトが破壊しつくされた街を闊歩するその状況を。  インフィニティ・シュルトの暴走を止めようと奔走するハリー騎士団を。  どちらかでも見ていれば、少しでも現実に救いを求めていれば。  彼は、崇人は、もしかしたらその殻を破っていたかもしれない。その現状に疑問を抱いたかもしれない。  しかし、少し遅すぎた。  彼は今硬い殻に篭っていた。この殻を破壊するなど、そう簡単には出来ないだろう。 「なんで、なんで、なんで……!」  その問いは誰にも答えることは出来ない。エスティを踏み潰したリリーファー『ペルセポネ』の起動従士、テルミー・ヴァイデアックスも今この世には居ないのだから。  彼はずっと硬い殻に篭る。  篭ったままではなにも変わらないというのに。 『……ねえタカト。どうしてあなたは私を助けてくれなかったの?』 『タカト、どうして私が死んであなたが生きているの?』  その言葉は、崇人に重くのしかかる。 「やめろ……やめてくれ……」  崇人の精神は、もう限界だった。  ◇◇◇  アレスはインフィニティ・シュルトに向かいレーザーを撃ち放つなどということはしなかった。  もっというなら、作戦の変更である。  このまま真正面から兵器で攻撃をしても、きっと倒すことは出来ないだろう。  だからこそ、マーズはたった一人で、その作戦を実行したのだ。 「タカト!!」  インフィニティ・シュルトはアレスの方にゆっくりと振り向いた。  インフィニティ・シュルトは首をかしげ、アレスの方へとゆっくりと向かってくる。  アレスには秘策があった。  そしてそれは、アレスだけにしかできない。  だからこそ、ほかのリリーファーには停止命令を下したのだ。  インフィニティ・シュルトが迫ってくる。それを見て、アレスは引き返さない。決して、引き返すことはしない。  寧ろ、それに立ち向かっていくように。  インフィニティ・シュルトと向き合う。  そして、彼女は。  インフィニティ・シュルトの胸部に思い切りアレスの頭部をぶつけた。  非科学的思想であるが、リリーファーにはこのような仮説が存在する。  それは、リリーファー同士が強い力で激突すると起動従士の心が、そのままごちゃまぜになってしまうというものだ。  これは実験の仕様がない。リリーファーを二機無駄にする可能性もあるし、それが果たして何の意味を為すのか解らないからだ。  マーズも、メリアから冗談めいた言葉として聞いただけで、それを信じ込んではいなかった。  しかし、今ならそれを信じたくなる。  そのことが、仮に本当であるならば――タカトを助けることができるかもしれないからだ。  リリーファーは起動従士が居なければ動くことはできない。これはインフィニティにも言えることだ。  これが崇人の精神状態に比例しているのであれば、崇人をインフィニティから外すことでインフィニティは動かなくなるかもしれない。  マーズはそんな不確かな可能性にかけていた。  気が付けばマーズは一人暗闇の中にいた。 「……ここは?」  外を見ることも出来ず、ただ自分の体がぼんやりと光を放っていた。  そこがインフィニティの空間。  そこがタカトの心の中――だとは、今のマーズにも解らなかった。  ◇◇◇  その頃、コルネリアは自分の愛機アクアブルーニュンパイからその様子を眺めていた。  動かなくなったインフィニティ・シュルトとアレス。 「大丈夫なのかしら……マーズさんとタカトは」  コルネリアは呟く。 『大丈夫だろう。俺たちはそうして指をくわえてじっと眺めているしかない。そういう命令なのだから』  どうやら通信が繋がったままだったらしい。そのコルネリアの呟きにヴィエンスは答える。  ヴィエンスもまた、その様子を眺めていた。その頭の中は疑問でいっぱいだった。  なぜマーズはそんなことをしたのだろうか?  その疑問は、拭いきれない。  彼女はいったい何がしたかったのか?  彼女はどうしてそんなことをしたのか? 「……解らない」  ヴィエンスは解らなかった。  まったくもって、理解できなかった。 『それは簡単だ。マーズは一つの可能性にかけたんだ。リリーファー同士の衝突によって希に発生するという「精神混線」に』 「なるほど、そんな機能が……って、え? 精神混線?」  突然入ってきた通信にヴィエンスは困惑する。  しかし、その声は続く。 『一応……はじめまして、になるのかな。私はメリア・ヴェンダーという。しがない科学者だ。リリーファーシミュレートセンターの代表も勤めている。自己紹介はそれだけにしておこう。これから話すのは非常に重要なことだから、耳の穴をかっぽじってよーく聞くように』  そう言ってメリアは話を始めた。 『いいか。先ずあのアレスとインフィニティが何故ああなっているのかについてはさっき言った「精神混線」を起こさせるためだ。しかし実際起きるかも解らないし、起きなかったらそのままアレスは破壊されてしまう。そうなれば今度こそインフィニティは暴走の限りを尽くして、世界を破壊しかねない。あのインフィニティは自分の消費エネルギーを発電出来るのだからね』 「だとしたら、どうやってあいつを止めれば……!!」 『騒ぐな。私たちだって対策は取っている。すでにヴァリエイブルの特務部隊がそちらに向かっている。あとはそれを運び、地下にてベークライトで保管する。しょうがないが、最強のリリーファーは当分見納めだ。恐らくタカトも軍法会議ものだろうな』 「馬鹿な……タカトは目の前でクラスメート……エスティを殺されたんだぞ! 殺してやりたい気持ちは解る!」 『戦場では当たり前のように人が死んでいく。それはヴィエンス、戦争孤児の君ならば痛いほど解ると思うがね』  そして、メリアの方から一方的に通信が切られた。  ヴィエンスがコックピットにある肘置きを叩いたのはそれと同時だった。 「結局、俺たちは使い捨てだった……戦争なんて人の生き死にが軽い世界だ。あっという間に人間は死んでしまうし、代わりは幾らでもいる。俺たちだってそうだ、リリーファー起動従士はたくさんいるが、起動従士が専属に持つリリーファーは少ない。だから、中には起動従士が死んで喜ぶ人間も多い。起動従士がリリーファーに乗れなかったらただの人間だからな」  だが、インフィニティは違う。タカト・オーノ、彼にしか乗ることのできないリリーファーだ。そして、最強のリリーファーとしても知られているそれは、例えタカトの精神が瓦解していたとしても使うだろう。  それほどにインフィニティを使うことで、ヴァリエイブルに降りかかるメリットは大きいということだ。  インフィニティは、タカトは、どうなってしまうのか。  ヴィエンスも、コルネリアも、そんなことを思い――インフィニティ・シュルトとアレスの停止し組み合った姿を眺めるのであった。  暗闇の中をマーズは歩いていた。  一寸先は闇――とはまさにこのことである。いけどもいけども何も見えてこないこの現状に対して、マーズは少し焦りを感じ始めていた。 「まずは崇人が何処に居るのか探さねば……!」  この世界がどんな世界であるかも解らないのに、なぜかマーズは崇人のことを探し始めた。  その思考は偶然ではなく、必然なのかもしれない。  暫く歩くと、何かが見えてきた。 「これは……扉? でも何でこんなところに……」  その扉はスチールドアの開き戸だった。窓もついていたが、半透明だったためそこから中を覗くことは出来ない。  彼女はこの中に何があるのかは解らない。しかし、どことなく嫌な予感がしていた。  だが、彼女が迷っている暇などなかった。  彼女はドアノブを握って、扉を開けた。  扉の奥では、パソコンが何台も一列に並んでいた。それが何列もあった。その何列が凡て隙間なく並べられているのではなく、二列ごとに隙間が開けられている――そんな形だ。  そのパソコンは凡て電源が落とされていた。  たった一つを除いて。  それに向かってずっと何かを打ち込んでいる人間がいた。  マーズはそれが誰だか忘れるはずもなかった。 「タカト……!」  そこにいたのは崇人だった。  しかしその姿は今とは違い、三十五歳の姿であった。  それを見て、マーズは今更ながらに悟った。この世界が、タカトの心の中の世界だということに。 「それが解ったからといって、私はいったいどうすればいいのよ」  マーズは自問自答する。  たしかに、彼女は起動従士の心の中に入る『精神混濁』という方法を知っていた。しかしながら、それは実際に出来るものとは到底思っておらず、『最後の手段』としか考えていなかった。  しかし、実際にそれが出来てしまえば話は別だ。  彼女がここで何ができるかを、きちんと考えねばならなかった。 「……私はここで、」  ――タカトを救う。  だけど、どうやって?  どうやって崇人を救い出す? 「彼の心を、外面に向けさせる」  マーズは呟く。  ――だけど、それが出来るのか?  マーズは自問自答する。  今崇人はパソコンの画面に向かってずっと何かを打ち込んでいる。今話しかけたとしても彼が反応することもないだろう。  ならば、それ以外の方法を使うべきだ。  とはいえ、それが直ぐに考えつく訳もなかった。 「じゃあ、どうすればいいのか?」  考えるまでもなかった。  考えつくまでもなかった。  パソコンの画面を齧り付くように見る崇人の身体を、強引にパソコンから引き剥がす。パソコンから引き剥がされた崇人は狼狽えていたが、マーズは話を続ける。 「自分の世界に閉じ篭っているんじゃあないぞ、タカト・オーノ」  マーズの言葉を聞いてもなお、崇人はパソコンに手を伸ばしていた。 「パソコン、ああ……これはお前の元の世界の幻影ということか。元の世界の幻影でここまで齧り付いていられるというのか。羨ましいねえ」  崇人は怯えているが、さらにマーズは続ける。  もう彼女を止める者などいなかった。 「それでいいのかタカト・オーノ! お前はこんなあまっちょろい幻影で満足するのか! お前はそんな人間だったのか! インフィニティを使って、エル・ポーネの区々を破壊したお前が! こんな殻に閉じ篭って、元の世界の幻影を作り出して、満足していたのか!」 「ち……違う」  崇人はそこで漸く反論した。 「ほう、ならば言ってみろ。何が違うんだ? 私はただ客観的に事実を述べたまでだ。間違っていない。寧ろ正しいことだと思うぞ」 「違う! 違う違う違う違う、違うんだ!」  崇人の叫びとともに――世界に亀裂が生じる。 「お前が苛まれるわけでもないし妬まれるわけでもない。悲しむ気持ちは解るが、エスティを殺した奴は……もうこの世にはいない」 「違う! エスティを殺したのは」 「自分……だと言いたいのか?」  崇人はその言葉に、何も言い返すことは出来なかった。 「お前が、タカトが、エスティを殺したとでも言いたいのか? それは違う。エスティを殺したのはテルミー・ヴァイデアックス。ペイパス王国の貴族サマだよ。お前ではない、お前ではないんだよ」 「違う、俺が殺した……俺が殺したんだ……」  そこまで話して、マーズは舌打ちする。  このままでは埒があかない。マーズがそう思った、その時だった。  唐突に、天井に光が差し込んだ。 「あれは……!」  マーズと崇人が天井を見上げた。  しかしその光源は何か確認することはできない。 「体が……」  崇人の呟きを聞いて、彼女は掌を見た。  すると、彼女の身体は透けていた。  彼女が知る由もないが、『精神混濁』を行った場合、他人の精神世界に入り込んだその精神はある時間によって拘束される。即ち、その時間を超えてしまったら、マーズは強制的に崇人の精神世界から弾き出されてしまう――ということだ。 「もうタカトの精神世界に居られない……ということね」  しかし、彼女は凡てを察していた。  そして、崇人の肩をつかみ、 「いい、あなたは決して生きることを諦めてはいけない。凡てやりきるの。例え時間がかかったとしても……私たち『ハリー騎士団』はあなたが帰ってくるのを待っているから」  その言葉を最後に、マーズの意識は途絶えた。  ◇◇◇  次にマーズが目を覚ましたのは小さなベッドだった。 「……ここは?」 「気が付いたようね」  マーズが呟くと、ベッドの傍にある椅子に腰掛けていたメリアが声をかけた。  メリアは立ち上がると、テレビのリモコンを使って電源をつけた。  テレビはニュース番組を映し出していた。 『――というわけで、繰り返しお伝えします。本日、カーネル自治政府がヴァリエイブルの軍事介入を容認することを発表し、内閣総辞職しました。それによりかつて置かれていたカーネル自治政府は撤廃され、ヴァリエイブル連合王国の手によって直接管轄されるものと見られています』  ニュースキャスターは慌てずにそう原稿を読み上げる。  マーズはそのニュースを見て事態を漸く理解した。 「終わったのね」  それを聞いて、メリアはため息をつく。 「ああ、インフィニティが放ったあの荷電粒子砲によって『ムラサメ』に載っていた魔法剣士団は一機を除いて凡て『消失』した。軍事介入して漁夫の利を狙おうとしていたペイパス王国もペルセポネの消失によってこの件から手を引くとのことだ。まあ、それが賢明な判断だろうな」 「それが事の顛末……ってことね。まあ、あっさりしすぎじゃあないの?」 「しょうがないでしょ。だって世界最強のリリーファーとして謳われる『インフィニティ』が暴走を起こして、一つの街を破壊した。それが報じられてからの世界の影響はどれほどのものか、あなたは知っているのかしら?」  それを聞いて、マーズは思い返す。あの暴走したインフィニティが齎したことを。  そして、この戦争が何を齎し、何を失ったのか――その凡てを知る者は、今ここにはいない。 「……というわけで、これでカーネルの話は一応終わりを告げたわけだ。意外と早く終わってしまったね。用意しておいた保険も使わなかったし」  白い部屋、帽子屋の発言と同時に『シリーズ』はモニターから意識を外した。  チェシャ猫は直ぐ様立ち上がり、お盆をどこかに持っていった。大方新しいお茶を用意しに言ったのだろう。シリーズの今の風景は、まるで家で映画を見ているような、そんなアットホームな雰囲気を漂わせていた。 「……あのインフィニティ・シュルトがあなたの計画のピースであることは理解した。だが、まだ理解し得ない点がたくさんある」 「君がそれをつっこみたい気持ちは大いに理解できる」  バンダースナッチの発言を、帽子屋は言葉で制した。 「だがね……事実を知ってはつまらないだろう? 我々は観測者……きみはたしかにそう言ったが、実際は違う。我々は言わばシナリオライターと演出家だよ。この世界の行く末を僕たち『シリーズ』が演出していくわけだ」 「演出家……ね」  バンダースナッチはため息をつき、立ち上がる。向かったのは部屋の壁に接して置かれている本棚だった。本棚にはハードカバーの本がずらりと並んでいた。  そしてバンダースナッチは、その中にある一冊の本を手に取る。 「……世界の演出、ね」  その本のページは凡て真っ白だった。――最初のページを除いては。  そのページにはたった一言、こう書かれていた。  ――インフィニティの封印が、ひとりの起動従士によって解かれる  そう、はっきりと書かれていた。  ◇◇◇  ヴァリス城、その地下奥深く。  あまりの恐ろしさに誰も行こうとはしない場所があった。 『うわあああああああああああああああああああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああ!!』  その部屋と外界とを唯一つなぐ扉から絶叫が漏れ出してくる。  その部屋を守る看守が、もうひとりの看守に訊ねる。 「……なあ、もうあの絶叫が五分に一回くらいのペースで聞こえてくるぞ? ずっと聞いてちゃまいっちゃうよ」 「なんで俺たちがこの部屋を守るように言われたのか、お前知らないのか? 先の戦争で活躍した『インフィニティ』の起動従士がいるという噂だぞ」  この部屋に誰が居るのか、知っている人間は数が限られている。  ここに幽閉されているのはほかでもない、タカト・オーノだ。  彼の精神は、マーズによって回復こそしたが、それでも戦闘ができるほど余裕があるとは思えなかった。  ヴァリエイブル連合王国の元首であるラグストリアル・リグレーはこの事態を「誠に遺憾である」としながらも、インフィニティの存在価値を考えて、崇人をこの独房に閉じ込めたのだ。  治るのは恐ろしいほど時間がかかる――メリア・ヴェンダーはそう語っていた。  しかしながら、それを王は糾弾した。早く治せと責め立てた。  それは崇人が思った以上の功績をあげたからかもしれない。  だからといって、目の前で友人が殺された崇人を、そのまま戦場に行かせる――そんな王の命令を鵜呑みにできるハリー騎士団ではなかった。  ハリー騎士団は代わりとしてある少女の加入を提示した。  ラグストリアル・リグレーはそれを聞いて、直ぐに了承した。  その少女とは魔法剣士団の団長、エレン・トルスティソンだった。  ◇◇◇ 「……時は誰も待ってくれない、という言葉を聞いたことはあるかい?」  再び白い部屋。帽子屋がチェシャ猫、ハンプティ・ダンプティ、バンダースナッチ、ハートの女王、白ウサギにそう訊ねた。 「聞いたことがあるぞ。少し前の小説にそう書いてあった気がする」  答えたのはハートの女王だった。女王とは言うが、実際には男である。だが、シリーズという存在はもはや性別すら超越しており、『女王』に誰がなっても代わりはないのであった。 「……にしても、『女王』ね。僕からしてみればその名前はなんとも皮肉だよ。その制度を恨むくらいさ」  ハンプティ・ダンプティはハートの女王の身体を舐めるように見つめながら、そう言った。 「そうかな? 僕は別に構わないけれどね。女王が女王じゃあなくたって構わない。もはや『帽子屋』や『ハンプティ・ダンプティ』といったのは名前ではなく能力名。キャストのようなものだからね」 「キャスト……まあ、そう言われればそうになる」 「ハンプティ・ダンプティ。そういえば君はこの中で一番古いんじゃあないかな? アリスだってもうだいぶ変わってしまったし……正直な話文献よりも君の話を聞いたほうが昔話も理解しやすい」 「とはいえ、私も大分むかしの記憶を無くしてしまっている。無くしてなかったとしても、『こうだったのではないか』という朧げな記憶を元に新しい記憶を構成してしまう。そんなところは人間もシリーズも変わらないだろうな」 「……私はまだ、はっきりと記憶が残っているよ」  そう答えたのは、バンダースナッチだった。 「君の場合はどちらかといえば、昇格したほうが正しいだろう? もともとは僕たち『シリーズ』がつくりあげた木偶人形だったのだから」 「仲間にその言い分はなかろう、帽子屋」  帽子屋の失言を、ハンプティ・ダンプティが制す。 「僕たちは『仲間』と呼べるほど結束力もそう高くないさ。強いて言うならば、『インフィニティ計画』を実現するため、そのために結束しているだけに過ぎない。そうだろう?」 「……まあ、それは間違いないな」 「それに、バンダースナッチ。君はそう言うが、まさかタカト・オーノのあの状態を見て僕たちから寝返るなんてことはしないだろうね?」 「すると思っているのか、帽子屋」  バンダースナッチの返事を聞いて、帽子屋はくつくつと笑い出す。 「……ああ、いや。君は元々あの世界ではカミサマみたいに言われているからねえ……。世界最初のリリーファー『アメツチ』に乗り込んだ最初の起動従士……という設定。僕たちの書いたシナリオを忠実に実行してくれた。しかしながら、まさか君がシリーズになるというのは、本当に予想外だったけれどね……、イヴ・レーテンベルグ」 「よせ、昔の話だ」 「昔の話……まあ、そうだ。君が人間界で活動したのは百年ほど前、人間の寿命でもぎりぎり届くくらい前だ。でもね、バンダースナッチ」  帽子屋は本名のイヴ・レーテンベルグではなく、バンダースナッチに再び呼び直した。  帽子屋の話は続く。 「君がどう足掻こうとも、今更シナリオの変更は出来ないんだよ。彼らは僕たちシリーズの書いたシナリオに沿って動き、僕たちが望んだ結末へと動いている。それは今もそうだし、止めることもできない」 「……タカト・オーノの精神をあそこまでしたのも、計画通り?」  バンダースナッチの問いに帽子屋は頷く。 「ああ、そうだ。タカト・オーノの精神へのダメージを与えることによってインフィニティは新たな力を引き出す。それがインフィニティ・シュルトだったわけだ。それについて、質問があるのかな?」 「……どこまで答えてくれるのかは甚だ疑問だけれど、インフィニティ・シュルトの解放は別にエスティ・パロングの殺害を引き金にする必要はなかったのではないかしら?」 「君は頭が固いね。きちんと理由があるよ」 「ならばその理由をはっきり言ったらどうだ! ほかのシリーズも、どうして帽子屋の横暴に抗議しない! これは重大な使命を違反していることに……」 「うるさい」  刹那、バンダースナッチの頭が横にスライドした。  そしてそれは、白い部屋の壁に激突し、べっとりと赤い血を壁に付けてゆっくりと重力に従って床に落ちていく。  帽子屋は血で濡れた指を持っていたハンカチで拭いた。 「……バンダースナッチは殺しても良かったのか」  チェシャ猫の問いに、帽子屋は頷く。 「最近帰ってきてから彼女はうるさかったからね。計画にいらない子はゴミ箱に捨てるのが一番だ。そして新しい人員を入れてやったほうがよっぽどマシだよ」  気が付けば、帽子屋たちが座るソファの後ろにひとりの女性が立っていた。  それに気がついて、帽子屋は振り向いた。 「ねえ。……バンダースナッチ?」  そこには、エスティの姿があった。 「これは……」 「大丈夫だ、すでに生前の記憶は消してある。あとは彼女に『バンダースナッチ』という記憶を植え付ければいい」  帽子屋は立ち上がるとバンダースナッチ『だった』女性の頭に人差し指を突っ込んだ。  少しして、人差し指を引き抜くと、人差し指に粘り気のある光り輝く白い液体が付着していた。それを見て満足げに微笑むと、エスティの方に向かう。  エスティの頭に人差し指を押し当てると不思議なほど抵抗もなく指が入っていった。  そして、指を取り出した時にはもうそれはなかった。 「ようこそ、バンダースナッチ」  目を瞑っていたエスティ――バンダースナッチが改めて目を開けて、ニヤリと微笑んだ。