「|徽章(きしょう)が盗まれる?」  騎士団長と国王が集まる定例会議にて告げられたその一言に、ハリー騎士団副騎士団長マーズ・リッペンバーは思わず聞き違えたかと思ってしまった。  今ここに居るのはヴァリエイブル連合王国元首ラグストリアル・リグレー、ハリー騎士団の副騎士団長マーズ・リッペンバー、メルキオール騎士団の騎士団長ヴァルベリー・ロックンアリアー、バルタザール騎士団の騎士団長フレイヤ・アンダーバード、カスパール騎士団の騎士団長リザ・ベリーダ――これら四つの騎士団はヴァリス王国に所属している――さらにエイテリオ王国のモーセ騎士団騎士団長サマンサ・クロート、エイブル王国のチェリス騎士団騎士団長ノーリス・アッカンバーの七人である。彼らは逐次連絡を取り合うが、月に一度集まって会議を執り行うのだ。  彼ら七人が集まって会議を執り行うのであるが、その最初のテーマとしてバルタザール騎士団の騎士団長フレイヤ・アンダーバードがこう告げたのだ。 「我ら騎士団であることを証明する徽章が何者かに盗まれるという事案が発生しました」 「……ヴァリエイブル連合王国に直属する騎士団の一員であることを証明する、あの徽章が?」  訊ねたのはラグストリアルだった。ラグストリアルは顎鬚を捻りながら、フレイヤの言葉を聞いていた。  徽章とは職業・身分・所属などを示すためにつけるバッジのことで、ヴァリエイブル連合王国では右胸につけるようその義務が為されている。 「徽章を盗むとは……なんでしょう? 自分の力を見せつけるためでしょうか?」  そう言ったメルキオール騎士団騎士団長ヴァルベリー・ロックンアリアーは少女だった。どちらかといえば少女というよりも子供――に近かった。年齢は誰も知らないが、その背格好さえ見ればタカトたちと同じくらいに見える。しかしながら、彼女は騎士団長を務めているのだから、その実力は認められているものだ。  マーズはヴァルベリーの容姿に少し疑問を抱いていた。何故ならばヴァルベリーの容姿は彼女がこの国お抱えの起動従士になってからずっと変わっていないためである。  普通に考えればおかしな話だが、誰もそれを口に出さない。一応騎士団群のトップを務めているのはバルタザール騎士団のフレイヤ・アンダーバードなのだが、そのフレイヤですら一目置いている、言わば影の騎士団群トップを務めるのがヴァルベリー・ロックンアリアーなのだった。 「……徽章は君たちが持っているそれで間違いないのか」 「ええ、確認済みです。私たちが管理している南方地域だけではなく、首都でも見られると聞いていますが」  そこでフレイヤは首都を含む北方地域の管轄であるカスパール騎士団騎士団長のリザ・ベリーダーを睨みつけるが、当の本人はそれを気にする様子ではなかった。それどころかフレイヤの視線を無視しているくらいであった。  いつからこの会議は険悪なムードで終始続いていたのだろうか――マーズはふとそんなことを考えていた。  元々はヴァリエイブル連合王国創始時から始められていたこの会議は週に一度集まるほどだった。しかし昨今は通信技術の発達などから回数を減らし、今では月に一度程度の集まりで済むようになってしまった。  どの騎士団も活躍すればその分働くチャンスが広がる。そのため、どの騎士団も躍起になり、王が直接対話するこの会議では誰もが良い顔を見せようと取り繕うのだ。  マーズ・リッペンバーはその点から考えるとフレイヤ以外の騎士団長から嫌われていた。何故ならば彼女は国王ラグストリアル・リグレーが見初めたために起動従士になった人間だ。それに比べてほかの起動従士は努力して何とかこの地位まで辿りついた人間である(噂ではヴァルベリー・ロックンアリアーは国王に見初められたなどという話もあるが、眉唾物で誰も信じてはいない)。 「……首都では現時点で確認されていない。これは事実だ。間違いではない」 「さあどうだか」  フレイヤは鼻で笑うと、話を始めた。 「話を続ける。一先ず私たちバルタザール騎士団の調査の結果、徽章を盗んだのはある一団ではないか……という可能性が浮上している」 「何だそれは。はっきり言ってみろ」  それについて訊ねたのはマーズだった。 「『赤い翼』」  その単語を聞いて、会議室の空気が明らかにしんと静まった。  そんな静まり返った空間をよそにフレイヤの話は続く。 「……ティパモール紛争において殲滅したはずだったのですが、未だその残党が居るらしいとのことです。なぜなら彼らは『赤い翼』の徽章を隠さずに見せつけていたらしいのですから」 「らしいらしいと断定的な発言が目立つね。それは確証があるのかい?」  訊ねたのはモーセ騎士団騎士団長サマンサ・クローセだった。黒い髪は女性と思わせるほど艶やかであった。唇にもピンクの口紅をつけていて、肌の手入れも欠かしていないらしい。傍から見れば女性と間違えられそうな外見をしている。  そんなサマンサがマーズは嫌いだった。絶世の美女よりも外見が美女らしく絶世の美男子よりも男らしかったサマンサは女性など引く手あまたなのだが、それでも彼はマーズを選んだ。だが、マーズはそれを断った。サマンサはどうも裏の顔がある気がしてならない――マーズはそう考えていたからだ。そんなことをフレイヤに一度漏らしたことのあるマーズだったが、其の時フレイヤには「そんなもん嘘っぱちじゃないの? ちょっとくらい冒険してみたら?」と冷やかされる始末だった。  サマンサの発言にフレイヤはポケットを弄り、あるものを取り出した。そして、それを全員に見えるように見せつけた。  それは徽章だった。しかしそれはヴァリエイブル連合王国の徽章ではなく、炎が羽となっている鳥がデザインされている徽章だった。 「……それは」  サマンサはそれを見てため息をついた。 「そう。これは『赤い翼』の徽章です。ティパモール紛争やそれ以前のクーデター等を会議や定時連絡等で知っている人もいると思いますが、紛う事なき『赤い翼』の徽章です。これを見ても未だ『赤い翼』の仕業でないと言い張るんですか?」 「ええい、もういい」  そこまで言ったところでラグストリアルが立ち上がり、手を叩いた。ここまで散漫になった会議を強制的に取りまとめるためにその行為を行ったのだろう。判断としては間違っていない。 「これ以上話をしてもいい結論は得られまい。一先ず今までの情報をまとめたほうがいい。そうだろう、マーズ・リッペンバー?」 「なんで私に……まあ、そうですね」  マーズは苦言を漏らしながらもラグストリアルの意見に賛成した。  それを聞いて「ありがとうございます」とフレイヤは告げ、話を再開した。 「まとめると、近頃徽章を何らかの手口で盗むという事案が多数発生しています。私たちが管理している南方地域だけでなく首都でもその事案は確認されている様子だということ。そして、その徽章を盗む人間が『赤い翼』の残党である可能性があるということ。これらを騎士団のメンバー全員に伝え、これ以上の被害の拡大を防いでください。また、私たちも当たり前ですが、各騎士団の方々、もしそのような怪しい人間を見つけたら徽章を確認してください。そして、このような徽章であったならば確保のほどよろしくお願いします」  そしてその言葉を最後に会議は終了した。  会議終了後、会議室から続々と騎士団長が出て行った。  マーズはため息をつきながら廊下を歩いていた。 「ねえ、マーズさん」  背後から声がかかると、マーズは再びため息をついて振り向く。  そこに立っていたのはサマンサ・クローセだった。サマンサはにこりと微笑みながらゆっくりと近付いてくる。  マーズはそれが嫌だったのでじりじりと後退するが――すぐに壁に当たった。それを見て、マーズは舌打ちする。 「どうしたんだい、マーズさん。僕はただ話がしたいだけなのに。どうして逃げるんだい?」 「あんたはいけ好かないから、話もしたくない」 「ふふん、そういう強気な女性は嫌いじゃあないね」  サマンサは壁に手を当てる。 「ちょっと何してんのよ、サマンサ・クローセ」  サマンサの隣にはひとりの少女が立っていた。その少女はフレイヤ・アンダーバードだった。 「何だいフレイヤさん、君とは会話をしていないだろう?」 「私は彼女と会話したいのよ」  フレイヤはそう言ってサマンサを突き放し、マーズの右手を握る。 「さ、行くわよ」 「待ちたまえ。どうして私をそういう風に除け者にしようと思っているのかな?」 「あんた、マーズから嫌われてんだよ。少しは自覚したらどうだい? あんたくらいなら頑張らずとも結婚出来るだろうに」 「マーズさんだからいいのさ。僕だってファンクラブの一員としてね」 「またファンクラブか、あのくそジジイ……」  マーズはそう小さく呟いて舌打ちする。  フレイヤはそれを聞いて苦笑いした。 「まあまあ、そんなことはいいでしょう……とりあえずまたあとで」  そしてフレイヤとマーズはその場を後にした。  ◇◇◇  フレイヤとマーズが二人で廊下を歩いていた。 「……そういえば彼は大丈夫なの?」  フレイヤの言葉にマーズはすぐ答えることはできなかった。  フレイヤの言った彼――というのは崇人のことだ。インフィニティが暴走し、精神が崩壊し、自分の殻に閉じこもった存在。  フレイヤは崇人と直接会ったことはないが、同じ起動従士として彼を心配していた。もしかしたら、実際に心配しているのは崇人の存在ではなく、インフィニティの存在価値だったかもしれない。 「タカトはそう……まだあの感じでは戻らなそうね。今もまだ自分の殻に閉じ篭っている。どうやってそいつを自分の殻から出してやろうかとメリアが躍起になっているよ」  そう言ってマーズは両手を上げる。  対してフレイヤはため息をついた。 「……大変ね、あなたも」 「いいや、私は国王からそう命じられたからね。命じられたことは常識の範囲内ならばこなさないと。幾ら相手があのくそジジイだとしても、よ」 「ほんとあんたくらいよね……王様にそんな口叩けるの。聞いている方がヒヤヒヤしちゃう」 「そうかな? 皆の神経が細すぎるんじゃあないの?」 「あんたが図太すぎるのよ……」  フレイヤはため息をついたちょうどその時、彼女たちは丁字路へと差し掛かった。 「それじゃあ、私はこちらだから」  フレイヤは右に曲がり、マーズに手を振る。  フレイヤと別れたマーズは一人、物思いに耽っていた。  崇人がこれからどうなってしまうのだろうか――ということについてだ。すでにエスティの両親には会って彼女が死んだことは告げている。母親は悲しんでいた。  当たり前だ。この世界で子供の死を悲しまない親が何処にいるというのだろうか。  エスティの母親にその真実を告げるとき、決してマーズは感情を外に出さなかった。  それを見たエスティの母親はマーズの肩に掴みかかって何度も何度も叫んだ。 「どうしてうちの子は死んでしまったの」  と。  マーズは言えるわけはなかった。あなたの子供はリリーファーに踏み潰されて、容赦なくその命を終えた――と。  言えるわけがなかった。そんなことを躊躇なく云える人間はもはや人間ではなく、別の存在ともいえるだろう。  だから、彼女は耐えた。何を言われても、ただひたすら耐えた。  それを思い出すだけで、彼女の目からは涙が滴り落ちる。 「うっ……」  嗚咽を漏らしながら、マーズは廊下を歩く。  カーネルでの戦争を終え、ハリー騎士団は否応なくその力を発揮した。実際には崇人――インフィニティが暴走し、南カーネルの大半を破壊し、ペイパス唯一のリリーファーとその起動従士を『抹殺』した。  それによる成果はペイパス王国の戦力を大幅に削いだことでもあり、カーネルの機能をヴァリエイブルに依存することで最大限になるということに成功した。  だが、それはヴァリエイブルが世界中からの非難を受けたことにほかならない。  ヴァリエイブルは近いうちにペイパス王国を併合し、一つの共和国にすることが決定している。また、連邦制を取り、ヴァリエイブル連邦王国に国名を変更することがあとひと月――七二一年一月に迫っていた。あのカーネルの戦争が七二〇年七月だったことを考えると、それから半年も経ったということだ。  この半年近く、恐ろしいほど平和に過ごしていたハリー騎士団は日々鍛錬に励んでいた。  そして七二〇年十二月十八日。  比較的温暖な気候にあるヴァリス城の廊下を歩いて、マーズは漸くハリー騎士団の詰所へとやってきていた。  起動従士訓練学校は昨日をもって冬休みとなっており、そのため今日は全員居る。エルフィーとマグラスもあの戦争のあと、正式にハリー騎士団に加入した。エレン・トルスティソンも最初は嫌々訓練に参加していたが、今は馴染めている様子だった。 「やあ、エレン。どうやらもうこの騎士団に馴染めているようね」  マーズが訊ねると、エレンは小さく頷いた。 「こう見るとただの小さい子供なんだけれどねえ……アレス以上のリリーファーを巧みに操っているだなんて思えないね」 「それは皮肉と受け取っても?」 「まさか」  マーズはそう言って微笑んだ。  エレンはそのままダンベルを持ち上げ始めた。  ここで行うのは基礎体力を上昇させるためのトレーニングだ。ハリー騎士団は魔法を使える起動従士が居ない。そのため魔法を鍛えるためのトレーニングを行える施設は存在しないのである。 「そういえば副騎士団長、会議はどうだったんだ?」  訊ねたのはヴィエンスだった。 「あなたはまず敬語を覚えましょうね……。まあ、それはさておき、会議はつまらないものよ。強いて言うならば最近徽章を狙う人間が居るってことくらい」 「それすごい重要じゃないですか!」  そう叫んだのはコルネリアだった。  エルフィーとマグラスは右胸につけた徽章を見ていた。鷹が描かれた徽章だった。徽章はヴァリエイブル連合王国に属する人間であることを証明するものだ。それを手に入れることが目的ということは即ちヴァリエイブル連合王国に仇なす者だということになる。  そんな者を連合王国直下にいる騎士団が制圧するのは、普通に考えて当たり前のことといえるだろう。 「……まあ、恐らく特にないと思うけれどもし炎の翼をもった鳥の徽章をつけた人間に会ったら注意はしておいてね。もしかしたら、徽章盗みの犯人である可能性が高い」 「『赤い翼』の残党である……と言いたいのか」  マグラスの言葉にマーズは小さく頷いた。 「そうね、あなたは元『赤い翼』だったものね。……そうよ。『赤い翼』の残党がまだ生きていて、ヴァリエイブル連合王国に存在を確認させるため、そして今は勢力を集めて反旗を翻すためにこのヴァリス王国のどこか……もっというならこの首都のどこかに潜伏している可能性がある」  マーズのその表情はとても固かった。 「『赤い翼』の残党が私たち『新たなる夜明け』以外にもいるというのか?」  訊ねたのはマグラスだった。 「たしかにあなたは『赤い翼』の残党だったわね。でも、あの徽章はつけていないでしょう?」 「それはそうだ。今はヴァリエイブル連合王国の直下にある騎士団に所属しているからな」  そう言ってマグラスは右胸につけられている徽章を見せつけた。  『赤い翼』はティパモール独立のために発足されたテロ組織だ。  その組織の団結力は非常に強く、『組織』とはいうがその組織には絶対的権力を持った存在を筆頭として、幾つかの部隊に分けられている。  しかしその絶対的権力を持った存在――リーダーは『セントラルタワー』の占領のテロで死に、『赤い翼』の大半はティパモールのテロで殲滅した。 「……だから『赤い翼』の残党はもうあなたたちしか居ないはずなのよ」 「――そうですね、たしかに私たちしか居ない」 「いいや」  エルフィーの言葉に反論したのはヴィエンスだった。  ヴィエンスはベンチに腰掛けていた。訓練が終わり、休憩していたのだろう。 「『赤い翼』の残党は『新たなる夜明け』以外にも居る」 「ヴィエンス、あなた知っているの?」  ヴィエンスはマーズの言葉にため息で返し、それに答えた。 「『ロストナンバー』……彼らはそう呼ばれているよ」 「ロストナンバー……」 「聞いたことがある。『赤い翼』には特務部隊が居るということを」  ヴィエンスの言葉を聞いて、エルフィーが答える。 「特務部隊?」  マーズが訊ねる。  エルフィーは歌を歌うように説明した。 「ええ。『赤い翼』には六つの部隊が存在している。『新たなる夜明け』もその一つ。だけれど、『赤い翼』には七つ目の部隊が存在しているのよ。七つ目の部隊はほかの部隊よりもリーダーに忠誠心があったという。もちろん、私たちのようにほかの部隊でも忠誠心はあるけれど、もしかしたら彼らならばその徽章を盗むことすら可能かもしれない。――赤い翼復活ののろしを上げようとしていることは容易に考えられる」  ◇◇◇  その頃、ヴァリス城・王の間。 「のう大臣」  ラグストリアルは大臣のラフターとともに居た。ラグストリアルはずっと考え事をしていて、ラフターはそれが何だか気になっていた。 「なんでございましょうか」 「……タカト・オーノはどうなった? インフィニティは安定状態にあると聞いたが」  ラフターは小さくため息をつくと、ポケットからメモ帳を取り出した。  そのメモ帳を開いてあるページを見る。 「今は落ち着いている様子にあります」  ――ヴァリス城の地下奥深く、その牢獄。  ひとりの少年が十字架に雁字搦めにされていた。 「が、まだ彼の精神は戻らないでしょうね」  タカト・オーノはまだ、過去の自分を恨んでいた。  何故エスティは死んだのか?  ずっとずっとずっとずっとずっと、考えていた。 『ねえ、タカト』  崇人の背後にエスティが声をかける。  崇人は体育座りをして、頭を下げていた。 『なんで』 『なんで』 『なんで』 『なんで』  その数はどんどん増えていき、崇人の周りに広がっていく。  崇人はその声が聞きたくなくて、耳を塞いだ。  けれどそれをしても、容赦なく声は耳の中に響いていく。 『ねえタカト』  崇人の目の前にいるエスティは言った。エスティの身体は下半身が引きちぎられていた。恐らくリリーファーに踏み潰されて、強引に上半身と下半身が引きちぎられたのだろう。  そんなエスティは、ゆっくりとゆっくりとゆっくりとゆっくりと崇人に近づいて――崇人の右足をしっかりと左手で掴んだ。 『なんで私を見捨てたの?』 「違うっ!!」  崇人の声が響いたと同時に、十字架にヒビが入った。 「俺は見捨てたわけじゃない! 俺は見捨てたわけじゃない! ただ……救えなかっただけだ!」 『それは言い訳でしょう? あなたが救えなかったそれを、私のせいにしただけ』 「違う違う違う違う!!」  十字架のヒビはさらに増していく。  それと同時にアラームが鳴り響く。  そして、牢獄全体に粉末が振り撒かれる。 「違う違う……違う……違うんだ…………違う………………え…………エスティ………………」  やがてその粉末が崇人の身体をゆっくりと夢の中へと誘っていった。  そしてそれをモニタリングしているメリアは漸くため息をひとつついた。  タカト・オーノは予想以上に精神の損壊が激しかった。  精神の損壊を修復すること自体については容易だ。人間は時間さえあれば勝手に記憶が朧げになり精神を修復していく。  しかし、問題はそこからだ。精神の損壊を修復し、それを普通の生活が送れるほどまでに回復させていくことが難しい。  自分の意志で精神を修復させるわけではないが、それを遅らせることは可能だ。今の崇人みたいに自分の殻に閉じ篭っていればいい。  しかし今はそうであってはならない。メリアはそう考えてパソコンに齧り付いていた。  マーズが告げた、崇人の真実。  崇人が別の世界の住人であるということ。  その事実を聞いて暫く経ったが、メリアは意外にもすんなりとその事実を信じられた。  だが、メリアは解らなかった。  どうしてマーズはそこまでして崇人のことを気にかけるのか――ということに。  訊ねたとき、マーズはこう言った。 「……別に。タカトが居なくちゃ、戦力が半減しちゃうじゃあない。ただそれだけよ」  ――それ以外にも何か理由があると、メリアはそれを聞いて直ぐに思った。 「……マーズ、あいつのこと好きなの?」 「ぶぼっ?! な、なによ突然!」 「うわー……恐ろしいくらい素直な反応ね……」 「なによ! 素直に反応して悪い?!」 「いいや、別に」  そのあとマーズが何だか五月蝿かったが特に反応しないでおいた。  暫くするとマーズはそのまま去っていった。怒鳴っていてストレス発散でもなったのだろう。 「……しっかし、あのマーズが恋愛なんて感情持ってるとは思わなかったわ」  本人が居たら殴られるでは済まないような発言をして、再びメリアは作業に戻った。  崇人は現在様々な機器によって管理されている。理由は単純明快。インフィニティが再び暴走してしまったら今度こそ太刀打ちできないためである。それに、彼が居るのはヴァリエイブル連合王国の首都直下。インフィニティが暴れることで何が起きるか――想像は容易だった。  ヴァリス城は間違いなく破壊され、首都は壊滅する。それによりヴァリエイブルの均衡は崩れ、残り二国によりヴァリス王国は支配される。  さらにヴァリエイブル連合王国が崩壊することにより世界のパワーバランスは大きく崩れることとなる。ペイパスもエイテリオもエイブルも、どうなるかは解らない。 「世界のパワーバランスがいつ崩れるか解らないから、インフィニティの回復を急ぐ気持ちも解るが……タカト・オーノ、彼一人だけに背負える所業なのか、それは」  メリアは誰に訊ねるでもなく呟いた。  そして、当たり前のようにその返事は誰も返さなかった。  かつてメリア・ヴェンダーはタカト・オーノがとても変わっている人間だと思った。  しかし今の状態を見ると、あまりにも自分の予想が的中していたことに微笑が溢れるほどだった。  ――彼はこのままヴァリエイブルに、クローツに置いておくべき存在なのだろうか?  ――彼はこの現状を改善する『救世主』になり得るというのか?  メリアは考える。モニターにはぐっすりと眠っている崇人の様子が映っていた。 「……今、それを考える暇はないな」  頭を掻いて、メリアは立ち上がると机に置かれていた空のコーヒーカップを持って背後にあるコーヒーメーカーへと向かった。  次の日。  ハリー騎士団は首都を探索することとした。理由は簡単だ。『赤い翼』の残党――ヴィエンスは『ロストナンバー』と言っていた――を捜索するためだ。  ヴァリエイブル連合王国の首都ヴァリスは城を中心に同心円状に道路が存在している。そしてその円と円の間に家屋が建ち並んでいる。 「こういうわけで路地裏が多いんだよな、この首都は。だからそういうふうに闇に蔓延る人間も多いわけだ。……君たちにはそれを監視してもらう」 「監視?」 「なあに。そう難しい話じゃあない。路地裏を全員で覗いていく。ただそれだけだ」 「ただそれだけ?」  コルネリアの言葉にマーズは頷く。 「ああ、ただそれだけだ。それだけだからといって、気を緩めちゃあいけない。首都の路地裏は警察や軍隊が何度出撃しても犯罪が無くならない、ならず者のたまり場として有名なんだ。だから国として『首都の路地裏には絶対に入ってはいけない』と注意するしかないんだよ」  ヴァリエイブル連合王国の必要悪として存在している『OBSS』も路地裏を主にして子供を手に入れているということもあるくらい、路地裏の治安は最悪だ。  路地裏の治安は最悪だから、だったら監視カメラ等を付けて路地裏の治安を少しでも良くしていくべきではないかという民意もあるが、予算の都合か裏に働く何かの力かは知らないが、現在においても監視カメラなどによる治安の向上には至っていない。 「……だから私たちは特にこれに力を入れなくてはならない。批判はよく届くからな。そういう批判はさらに増していく。さらに別の場所に飛び火する。例えば、最初はこの路地裏の治安についてだったのに、気が付けばリリーファーの存在性について議論になっていたら、それは議題がすり替わっているといえるだろう? つまりそういうことだ」 「ということは、俺たちはリリーファーに乗ることなく、ただ路地裏の|破落戸(ごろつき)を倒してしまい治安をよくする……そういうことか?」 「まあ、そういうことになるわね。今は≪インフィニティ≫があんな状態になっているにもかかわらず世界情勢が安定しているからね。世界情勢が安定しているならば騎士団は戦争をする必要なんてないわけ。じゃあ、戦争しない騎士団はどうするのか、ってわけになるでしょ? 騎士団は自国の安全を守るのがお仕事だから、こういうことをするのも大事というわけ」  長々とマーズは語ったが、要するに騎士団は汚れ仕事も受け持つということだ。  騎士団は幾つも居るが、そのどれもが崇高な目的を掲げている。  その一つが『自国の安全を守る』ということだ。  自国の安全を守り、多額の税金を貪る騎士団――おもにリリーファーについてかかるのだが――の批判を避けるのが目的であり、実際それは成功している。  しかしながらそれも批判されていることがある。そのほとんどが内部からのもので、さらにそれは騎士団の人間からのものだった。  騎士団はそのようなものではない。戦争で、リリーファーによって、平和を自らの手で掴み取る存在なのだ、そう思っている騎士団の人間は少なくない。それが各国に一定数居るのだから、どの国も悩みの種になっているのだ。  悩みの種をどうにかして無くしたいのは、誰にだってあることだ。  しかしながら、起動従士が不足している中、自分が気に入らないからと起動従士をばっさばっさ切っていっては無駄になる。動かせる人が居なくなるから、リリーファーを使った戦争が出来なくなる。  この時代において、リリーファーが居ない国は他国からの格好の餌食になる。ある場合はほかの世代から大幅にグレードを落としたリリーファーを高値で売られ、ある場合はそのまま占領され圧政を敷かれたりされる。  リリーファーのない国に、明るい未来は待っていない。  それは誰もが理解していることだ。だからこそ、国王は起動従士にあまり強く言い出せないのだ。起動従士が逃げてしまったら、リリーファーはただのガラクタに成り下がってしまう。  かつて、王族もリリーファーが乗れるようにすべきだと進言した大臣が居たが、しかしそれは見事に失敗した。  起動従士になるには様々な条件がある。そのため、王族がなるには難解なことだった。 「さて、先ずはこの路地裏だ」  マーズの目の前には細い路地があった。その路地は日が入らないためかとても暗かった。寧ろその路地は明かりを吸い込んでいるのではないかと錯覚させるほどだった。 「……しかしまあ、お|誂(あつら)え付きな場所ね。何か潜んでいてもおかしくなさそう」  そう言ってマーズは路地に一歩踏み込んだ。  それを見てコルネリアたちもゆっくりと路地に入っていった。  ◇◇◇ 「『ハートの女王』が姿を暗ました、だって?」  白い部屋。帽子屋はチェシャ猫からの報告を受け、小さなため息をついた。  帽子屋はチェシャ猫が出してくれた紅茶を、香りを楽しみながら飲んでいた。チェシャ猫は膨大な本の知識がある。そのためか、紅茶を淹れるのも一番上手い。恐らく人間と比べても一番だろう。 「『ハートの女王』はさっきまでこの部屋に居たはずなんだが……居なくなってしまった。もういいかと思って安心してしまったよ」 「まだ人間の頃の理性が残っていたか……まったく、人間とはつくづく恐ろしい生き物だ」  そう言って帽子屋はモニターの電源を点けた。  そこにはマーズたちが映っていた。マーズたちは路地裏に入り、散乱しているゴミを避け、徐々に奥へと進んでいた。 「……ああ、路地裏の探索というわけか。インフィニティが動かなくなれば、なんとも暇になるのだな……」 「しょうがないでしょ。世界情勢が均衡しているわけだし。戦争するメリットがデメリットを大きく上回らない限り、戦争を起こすことはないだろうし。……今ペイパスに攻め込むのは最悪だろうからね」 「ペイパスはもうヴァリエイブルに編入されるのは確定なのか?」 「確定だね」  帽子屋は紅茶を一口啜る。 「インフィニティ計画には国土の拡大も縮小も関係ない。強いて言うならばヴァリエイブルが滅ぼされインフィニティが解体されない限りはね」 「だからカーネルの科学者に罰を与えたのか」  チェシャ猫はそこまで話してようやくソファに腰掛けた。 「まあ、そういうことになるね。彼らには計画の片鱗を話していたが、まあひどかった。話さなければよかった、と後悔しているよ」 「……仕方ないかな。急にそんなこと言われれば抗いたくなるものだよ。科学者とは、自分のために研究するようなものだからね」  帽子屋は紅茶を飲み干すと、それを目の前にあるテーブルに置いた。  そして、テーブルに置かれていたクッキーを一枚取ると、それを頬張った。 「……話がずれてしまったね。ハートの女王はどこに行ったと思う?」 「ハートの女王……あいつは元は人間だったからね。特に彼は『異世界』からの住人だろう? そういう人間が同じ人間と|連(つる)む気持ちもどことなくわかるよ」 「へえ、君にもまだ人間の気持ちが残っていたのか」 「…………まあ、忘れたいものだがね」  そして、彼らは再びモニターを見始めた。  そこにはマーズたちが映っていた。マーズたちは路地裏の奥まで辿りついたらしいが、その奥地には何もなかったようだった。 「どうやら骨折り損の|草臥(くたび)れ儲けだったようだね」 「儲けてすらいないと思うけれどね」  彼らはそういう話をしながら、モニターによる監視を再開した。 「結局、何もいいことはなかったな」  マーズはそう言うと、ハリー騎士団の面々からも小さな溜息がもれた。当然だろう。本日の釣果はゼロだ。まったく何も成果が上げられていない。このままでは大変なことになる――というわけでもないが、かといってまったく成果を上げないのも他の騎士団に示しがつかない。  ハリー騎士団が存在しているのは、二つ理由があると言われている。  ひとつは表向けの目的である、インフィニティの保護。  インフィニティは最強のリリーファーだが、それを操縦する起動従士は不安定な状態にあった。だから、インフィニティだけを野晒しにしてしまったら、使える戦力も使えなくなってしまう。それを保護するために騎士団を、インフィニティを中心にして作った。  もうひとつは実際には語られない、どちらかといえば噂のように語られている出来事だ。  それはマーズ・リッペンバーを国王ラグストリアル・リグレーが痛く気に入っているということ。  一般の人間から見ればそれは噂のようにも思えるし、嘘のようにも思えるが、起動従士たちの間からするとそれは当たり前というか何を今更という感じだった。  マーズからしてみればそんなことは有り得ない――というより、国王と付き合うことは普通に考えれば玉の輿もいいところなのだが、マーズにはその意思がまったく無かった。とはいえ、国王の方も「マーズちゃんと会うとマーズちゃんに会いたいたのしみが減っちゃう!」と宣っており、結果として、それも嘘っぱちのようだった。  だから、実際にはそれがどういう意味なのかを理解している人間など居ないのだった。 「さて、作戦会議と洒落込もうではないか」  ハリー騎士団の詰所で、マーズは不機嫌そうな表情を浮かべながら一同にそう言った。 「作戦会議といっても……今日はほとんど回っていないですよ? 強いて言うならばホームレスがあまりにも多すぎた路地裏を通ったくらい」 「まあ、そうだ。たしかにそうだ。このペースで路地裏を回っていれば、いつになっても『徽章』を盗んだ犯人を探し出すことはできない」 「たしかにそれはそうですね」  コルネリアは呟く。 「それじゃあ、メンバーをチームで分けて行くんですか?」 「まあ、そういうことになるね」  マーズはそう言った。マーズはコーヒーを飲みながら、きちんとしていた姿勢を崩した。ラフな姿勢に崩したほうが話もしやすいというものである。  と、そんなときマーズがコーヒーメーカーを指差して、 「どうだ、お前たちも飲みながら会議でもしようじゃあないか。そのほうが気分も楽になっていい」 「カフェイン中毒ですか?」 「その考えは否めないね」  マーズはそうせせら笑うと、またコーヒーを飲む。 「とりあえず、明日以降はペアを組んで向かうことにしよう。常套手段だ。えーと……私とヴィエンス、コルネリアとエレン、マグラスとエルフィーで組もう。三つの路地裏を一気に回れるかな? それでなんとかなるだろう」 「ちょっと待ってください。それでもし徽章を盗んだ相手が見つかったらどうするんですか?」 「見つかったら……どうするって? そりゃあ簡単だ。殺してしまえ。今までの罪を考えれば、それくらいが妥当だ」 「殺す……って。私とマグラスは構わないかもしれないけれど、残りは学生ですよ?」 「私だって、きちんと戦闘の技術を学んでいるのだけれど」  エルフィーの言葉に、エレンが否定の意思を示す。 「そうだった。忘れていました」  エルフィーはそう言いながら、コーヒーを飲む。その口にコーヒーは合わなかったのか、一瞬苦々しい表情を見せた。  それを見ながら、エレンは小さく微笑む。 「……まあ、それはいい。ということはそれによって戦力がうまい具合に分散され、平均的に路地裏を潰していく。そういうことになりますね?」  エレンが訊ねると、マーズは頷く。 「そういうことだ。平均的に路地裏を潰していけば、具体的にその数は明らかになっていく。そして最後まで潰していく。時間はかかるが、これが確実な方法だろう」  そして、彼らは解散した。  ◇◇◇  次の日。  予定通りハリー騎士団はチームに別れての捜索を開始した。  マグラスとエルフィーはひとつの小さな路地へと足を踏み入れていた。その路地は昨日入った路地より少し北側にある。どちらかといえば昨日のよりかは明るい路地となっている。  しかしながら、そこには人は入らない。なぜなら明るくとも不気味な雰囲気を漂わせているのにはかわりないからだ。 「何というか……ここは昨日の路地裏よりも異変は無さそうだ」  マグラスは呟きながら、路地裏を進む。エルフィーはマグラスの直ぐ後ろについて背後を警戒していた。 「だからといってこういうのを蔑ろにしてはいけないわ、マグラス。作戦は余すところなくやり遂げなくちゃ……」 「解っている。そして、それくらいは常識だ」  マグラスはそう言うと、さらに路地裏を進んだ。  路地裏を進んで、そんな時間がかからないうちに突き当たりに到着した。  突き当たりには木製の古びた扉があった。その扉には鍵穴等は見当たらない様子だった。  それを見つけてエルフィーとマグラスはアイコンタクトをする。そして、その扉にマグラスはノックした。  三回ノックするのを一つの流れとして、計五回それを行ったが、反応はなかった。それどころか中に人の気配すらしなかった。 「……」  エルフィーとマグラスは再びアイコンタクト。それを確認し頷くと、マグラスはゆっくりと扉のドアノブを握り――扉を開けた。  中は暗かった。机や椅子が乱雑に置かれ、さらに壁には棚があった。棚にはたくさんのワインがあった。 「ここは……バーか何かだったのか?」  ともかく、明かりが無ければ何も始まらない。そう考えるとエルフィーは携帯していた固形燃料を、机に置かれていたグラスに入れた。それをライターで火種をつけた。  簡易ランプに明かりが灯ると、その部屋の全容が解るようになった。  部屋はやはりバーだった。しかしここ暫く営業していないからか、床には汚れが目立つ。 「こんなところにバーなんてあったんだな……。エルフィー、地図情報と一致するか?」 「いいえ。どうやら少なくとも一年前までにはここは潰れていたようね。まだワインとかがあるということは夜逃げ同然のようにも思えるけれど――」  そこでエルフィーの言葉が途切れた。そして、その原因をマグラスは知っていた。 「――先ずはこの輩を倒してからにしましょう」  闇に消えていたエルフィーの右手にはナイフが構えられていて、それが男の首に当てられていた。少しでも力を加えれば男の首は斬られてしまうだろう。  それを見て、マグラスは小さくため息をつき、エルフィーから簡易ランプを受け取った。そしてそれを男の顔の近くに持っていった。 「……正直に話せ。嘘をついたその瞬間に、こいつが持ったナイフがお前の首をじわじわと斬っていく。チャンスは三回。三回目が終わったらお前の頭はもう身体とは繋がっていないだろうな。……理解したか?」  マグラスは静かにそう言うと、男はゆっくりと頷いた。 「それでは先ずお前の所属について話してもらおうか。勿論名前もだ」 「…………」 「なんだ、聞こえないぞ? おい」  そう言ってマグラスはエルフィーを見た。エルフィーは頷くと、ナイフを構えている手に力を加えた。と同時に男の首から血が滴り落ちる。 「……!」 「なんだ、その目付きは。おれに聞こえなかったから嘘をついていると思ったのでな。……こうされたくないのなら、きちんと話してもらおうか」 「……私の名前はクランチ・アーチボルト。所属は……」 「所属は?」  クランチはそのあと、簡易ランプの明かりを避けた。  賭けられているものが自分の命であったとしても、言いたくないことでもあるのだろうか。マグラスはそう考えると再びエルフィーにアイコンタクトを送った。  エルフィーは頷くと先程よりも強くナイフをクランチの首に押し付けた。心なしか、クランチの痛みを抑える声が聞こえた。 「……これで二回目だ。次はないぞ」 「解った、解った……。言う……」  そう言ってクランチは目を瞑った。  それを見てマグラスは少しだけ簡易ランプをクランチの顔から遠ざけた。 「だったら最初から言えばいいのに、ごうつくばりな人間だよ」 「……私の所属は『赤い翼』だ」 「嘘をつくな。私たちだって元は『赤い翼』だ。だが、他の部隊にお前のような人間は居なかったはずだ」  マグラスの言葉にエルフィーも頷く。  それを見てクランチは首を横に振った。 「違う……違う! 私は赤い翼だ。それは間違いない!」 「なら部隊名を言え。それではっきりとする」 「私の所属は……『ロストナンバー』だ」 「ロストナンバー……赤い翼の特務部隊か……!」 「その通り」  その声は、マグラスの背後から聞こえた。その姿を見たエルフィーは、クランチのことを忘れて叫んだ。 「マグラス、後ろに!」  それを聞いた直後だった。  マグラスの背中が何者かに斬り付けられた。 「マグラス!」 「遅い」  その声は、クランチのものだった。  エルフィーの気持ちが途切れた、その咄嗟のタイミングを狙って、彼女からナイフを離させた。 「貴様……!」  だが、エルフィーが攻撃に転じることはなかった。  クランチがエルフィーを気絶させたのだ。 「……どうやら成功したようだな」  その言葉を聞いて、クランチは頷く。 「まさかあんたの言う通りにしただけでこうなるとはな……。あんた、いったい何者だ?」 「ハハハ、それは聞いちゃいけない約束だろう? 僕はただの人間だよ。それ以上でもそれ以下でもない」  そこに立っていたのはヴィーエックだった。  ヴィーエックは倒れている二人の姿を見て、小さく微笑んだ。  ◇◇◇  その頃、マーズとヴィエンスのふたりは彼らとはまた別の路地裏にたどり着いていた。そこはエルフィーとマグラスの通った路地裏からさらに北に行った場所にある。  その路地裏を歩いていたマーズとヴィエンスだったが、不思議と戻りたいという意志は無かった。  それは今彼女たちが任務としてこれを行っているから――というわけではない。  ただ、その路地裏に入りたいと思ったからだ。  それを聞くと少々難解な気もするが、しかし案外そういうのは形容しがたく、よくあることだ。 「……なーんか怪しい匂いがプンプンするのよねぇ……」  警察犬よろしく鼻をひくつかせるマーズの姿は、正直言って淑女にあるまじき姿だった。  だが直接の上司であるマーズに、礼儀を重んじるヴィエンスが指摘出来るわけもなかった。 「……まぁ、とりあえず進むとするか」  漸くその『行為』を終えると、マーズとヴィエンスは先に進んだ。  途中途中でマーズが咳き込んでいたが、ただの風邪だろうとヴィエンスは決めつけ、特に気にしなかった。  路地裏の突き当たりには何もなかった。  それを見て、マーズは小さくため息をついた。 「はずれ……かぁ」 「そのようですね」  二人はそれぞれそう反応すると、先にマーズが踵を返した。 「戻るんですか? 詳しく調べる必要は……」 「とはいえ、それどう見てもただの壁だからねぇ……」  マーズの言う通り、そこには壁が広がっていた。奇妙な点を、強いてあげるとするならば、あまりにもその壁が真っ白だというところだろうか。しかし、それを除いてしまえばただの壁。調べる余地など、まったくもってなかった。 「次、行きましょう。私たちにはそこまで時間が設けられているわけでもないし」 「……戦争が起きればそんなことをしている暇はない、ということですか」 「まぁ、そういうことになるね。そもそも私たちはリリーファー同士の戦争へと変容した時代があったからこそ、世界が必要とした。これが仮に昔みたいに人間主体の戦争だったら、私たちなんてただの一兵卒になっていただろうね」 「リリーファーがあるから……俺たちは存在している、と」  ヴィエンスの言い分は、案外的を得ていた。  リリーファーが戦争で活躍するようになったのは、ここ百年のことである。『アメツチ』が発見され、多くの技術が世界に溢れた。  だが、それぞれの国がリリーファーの権益を求めて戦争をするようになると、人間主体の戦争があった時代よりも多く死者が出るようになった。軍人の死亡率は減ったが、その兵器でとばっちりを受けた一般市民の死亡率が大幅に増加したのだ。  そのため、法王庁はクローツにリリーファーの研究所を開設した。元々そこには研究所が存在していたが、そこを法王庁が買い上げ、新たに作り上げた。  それがいわゆるラトロである。リリーファーの技術を一点にし、一国にリリーファーの技術が集中し過ぎないようにする、独立した法人だった。  ラトロではリリーファーの開発のほか、販売も行う。その時の値段は凡てどの国を相手としても一定の値段にするよう決められている。だが、そうだとしても一機購入するだけで大国の国家予算に相当する額がかかるとの噂があり、そう簡単にリリーファーを買うことなど出来ない。  そこで、ヴァリエイブル連合王国は独自にラボを併設し、ラトロから数段階技術が遅れてしまうものの、自国でのリリーファー開発に成功した。  しかしそれが出来る国はそう多くない。現在でもラボがあるのはヴァリエイブルのみであると言われている。  だが、普通に考えてもリリーファーを作るのには金がかかるし、勝つには常に最新鋭のものを揃える必要がある。だからヴァリエイブルも自国にラボを持ったあとも定期的にラトロを利用していた。  そうしてラトロは潤沢な資金を手に入れた。  だがラトロは『リリーファーからの脱却』を決断し、それを行動に移した。  もしそれが成功していたとするならば――ヴィエンスたちのような起動従士はどうなっていたのだろうか。  無論、マーズの言うようにただの一兵卒になれる可能性もあるだろうが、それは非常に低い。  リリーファーにより命を失った人間はそう少なくなく、今も毎日数十人といった人間が亡くなったとされている。  リリーファーが無くなってしまえば起動従士は用済みだ。人々に恨まれるだけの存在を、国はそのままにしておくだろうか?  それはあり得ない。その可能性は充分に低い。もしかしたら人々の恨み辛みの捌け口として、公開処刑などの処置を取られる可能性もあった。 「……そうね。まぁリリーファーが無くなることはないだろうし、リリーファーが無くならないとすれば私たちも職に困る心配なんてない。確かにリリーファーは買うのも管理も金がかかる。ただ燃料は自分で発電するシステムだから最初に力さえ与えてやればいい。その面を考えると省エネだよ。……ただ、リリーファーの技術ばかり進歩させすぎて、それ以外の技術が殆ど進歩していないから、市民の鬱憤も溜まっていくんだろうねぇ……」  そこまで言ってマーズは腕時計を見た。 「さて、休憩は終わりだ。次の路地裏に向かうぞ。……そう言えば他の二チーム、定期的に連絡を入れるように、と言ったのにまったく連絡が無いな……」 「まさか、早速見つかったとか……」  ヴィエンスの言葉に、場は一瞬の静寂に包まれた。  そして、時が動き出したかのように、マーズがその静寂を破った。 「そんなことはないだろう。あちらには『赤い翼』のエリートが居る。他のチームには『魔法剣士団』のリーダーがいる。どちらも場数は踏んでいるはずだし、何かあったら直ぐに連絡を送ってくるはずだ」 「そう……だといいんですがね」  路地裏を立ち去る時から、ヴィエンスは嫌な胸騒ぎを覚えた。  ――まさか、やられたんじゃ……。  予感が的中したのを、ヴィエンス本人が確認するのはそれから少し後の話になる。  その夜。  ある程度路地裏を巡り宿舎へと帰還したハリー騎士団のメンバーは、それぞれの釣果を報告するための会議を開いていた。 「さて……エルフィーとマグラスはどうした? 作戦会議をする旨のショートメールも送信したはずだったが……どうだ? 誰か何も聞いちゃいないか?」  マーズのその言葉にハリー騎士団の面々は全員首を横に振った。  それを見てマーズは小さく舌打ちする。 「……ったく、どこに行ったんだ? 作戦会議をするし、チーム同士の連携をはかるためにも連絡は小まめにするように言ったのにな……」 「連絡もないんですか?」  コルネリアが訊ねるとマーズは頷く。それを見てエレンが小さく微笑んだ。 「ハリー騎士団は連携のれの字もない、ってわけ? まったく使えない騎士団よ」 「それにあなたも所属しているわけだけれど?」 「仕方ないじゃあないの。偶然よ、偶然」  マーズはこれ以上エレンと会話しても無駄だと判断して、会話を打ちきった。  マーズは近くにあった紙を見て、会議を始めた。 「……結論からして、今日の内容は釣果ゼロということでいいのかな。もしかしたらエルフィーとマグラスの二人は、まだ見つからないからって話でまだやっている可能性もある」 「それは憶測でしょう?」  エレンのツッコミをマーズは無視した。 「憶測とか言うのはやめてちょうだい。まだまだ話は積もり積もっている。そして事件もまったく解決していなければ進展すらしていない。これは由々しき事態よ。場合によっては騎士団が解体されることすら有り得る。……まあそれは、今の戦争の形態が変わらない限り有り得ないことにはなるけれどね」  その言葉に、会議の場は静まり返る。  そして、その沈黙を破るように誰かのスマートフォンから着信音が鳴り響いた。  そのスマートフォンがマーズのものであると解るのに数瞬の時間を要した。 「……あら、どうやら私の電話みたい。誰からかしら……」  スマートフォンの画面を見たマーズは、そこで一瞬思考を停止した。  そしてそれを見たコルネリアが恐る恐る彼女に訊ねた。 「マーズ……さん? あの、いったいどうしたんですか……?」  未だ着信音は会議の場に鳴り響いている。  マーズは、ゆっくりとその電話を受けた。 「もしもし?」  マーズは一言呟く。  直ぐにマーズは驚愕の表情を浮かべる。通話は非常に長かったが、その間マーズはずっと相槌をするだけだった。  通話が終了してからマーズは信じられないという表情を浮かべていた。  しかし、そのあと直ぐにスマートフォンはメールを受け取った。メールを見たマーズは表情を徐々に悪くしていき、わなわなと身体を震わせはじめ、スマートフォンをテーブルに叩きつけた。その力は非常に強く、スマートフォン自体が歪んでしまうほどだった。 「くそっ!! あいつらめ、そう簡単に捕まる人間が居るか!」 「捕……まる?」  ヴィエンスの言葉にマーズは頷く。その表情は慎重な面持ちだった。 「あぁ、そうだ。……エルフィーとマグラスが捕まった。その相手は赤い翼の特務部隊、ロストナンバーだ」  ◇◇◇  マーズのスマートフォンにかかってきた通話、その相手は先ず赤い翼のロストナンバーの一人であると語った。  そしてその人間はエルフィーとマグラスがロストナンバーに捕まっていることを語った。  はじめ、そんなことは有り得ないと思っていたマーズは、その後に嫌でも信じたくなる写真が送られてきた。 「これがその写真だ……!」  マーズはそれをハリー騎士団のメンバーに見せた。それはエルフィーとマグラスの写真だった。  彼女たちが鎖で身動きが取れないようになっており、それを見てマーズは錯乱したのだ。  そしてそれを見せつけられたハリー騎士団のメンバーも信じがたいものだった。 「……彼らがそう簡単に捕まってしまうものなのか?」 「知らん。だが彼らは『新たなる夜明け』の中ではとても優秀であるということは聞いている。……そんな人間がそう簡単に捕まるのだろうか……」 「結論は出ているんじゃあないの、とっくに」  マーズの言葉に続けたのはエレンだった。 「……何を言いたいのかしら、エレン」 「何を言いたいのか……って、あなたにだって解りきったことでしょう? 彼らはスパイだったのよ。スパイとして潜り込み、リリーファーの技術を盗もうとした。そしてやることが無くなったか、盗む技術が無くなったかどうかは知らないが、最後にこのように使われた。……これが一番考えやすい推論に見えないかしら」  エレンの推論は至極筋が通ったものだった。  しかしそれでもマーズは――彼らを信じたかった。信じてみたかった。 「考えてもみれば解るはず。それは私にも言えることだけれど……たかが会って少ししか経っていないのに、『信じる』という行為にまで発展するのがおかしいのよ。もう少し慎重に考えてみたら? あなたは『騎士団長』なのでしょう?」 「確かに……エレンの言葉には一理ある。もう少し慎重に考える必要があるわね……。それに彼らは何の要求もしてこなかったし」  マーズが気になったのはそこだ。  どうして『ロストナンバー』と名乗った彼らはハリー騎士団に対して何も要求してこなかったのだろうか。  寧ろ要求するのであれば、エルフィーとマグラスではなく、マーズを捕まえればいいはずなのに、どうして彼らを捕まえたのだろうか。 「……ひとまず、だ。これ以上話しても結果が良くなるとは到底思えない。先ずは報告をする必要があるだろうな」  マーズはそう言って会議を半ば強制に終了させた。  それから数時間とも経たないうちに、マーズは王の間に辿り着いていた。  ラグストリアルはとても眠たげだったが、それでも服装を整えて玉座に腰をかけている。 「して、こんな夜に何の話だ」  眠たいからかいつものような口調ではなかったが、逆にマーズにとってそれは新鮮だった。 「実は調査を進めていたのですが……」  そして、マーズは先程彼女にあったことを事細かくラグストリアルに告げた。  それを聞いたラグストリアルははじめ何も言わず考え込んでいたが、暫くして口を開いた。 「……それは罠の可能性が高いな。きっと奴らの狙いは……マーズ・リッペンバー、きみだ」 「私が?」 「世界最強のリリーファーの起動従士であるタカト・オーノが幽閉中である今、ヴァリエイブル連合王国最強は君だ。多くの国や組織が狙っていても何ら不思議でない」  ラグストリアルはそこまで言って大きな欠伸を一つした。  国王に語っているのは、国を揺るがすかもしれない重大な事であるというのに……マーズはそう考えると小さくため息をついた。 「まぁ……どちらにしろ今から動くのは早計だ。何せ場所も解っちゃいない。場所が解っていないのに飛び込むのは非常に危険だ。事態をさらに悪化しかねないからな」 「存じ上げております」  マーズはそう言って丁寧に頭を下げた。  そしてマーズは王の間から姿を消した。  マーズが居なくなったのを見て、ラグストリアルはゆっくりと玉座から立ち上がった。玉座から立つと後ろにある扉へと向かった。  扉を開けるとそこは寝室だった。クローゼットの隣には小さい白いベッド――サブベッドがあった。サブベッドから少し離れたところに冷蔵庫があり、大きなベッドがあった。  窓からは月明かりが零れ、部屋を仄かに照らしている。  ラグストリアルはその景色を眺めながら、窓際にあるロッキングチェアに腰掛けた。  ラグストリアルはロッキングチェアに揺られながら、ここ暫くあったことを思い起こしていた。  ハリー騎士団が結成されて半年、その騎士団は新しく出来たばかりの新米騎士団らしからぬことが起きた。結成前にもあったが、結成後の方がその規模は巨大だっただろう。 「あの騎士団には……何かを呼び寄せる、そんな力でも備わっているのだろうか?」  その『何か』をラグストリアルは知っているはずなのに、敢えて『何か』でぼやかした。  それはきっと何らかの理由があるのだろうが、少なくとも今は語るべきでない。  とはいえ、もはやハリー騎士団はヴァリエイブル連合王国を代表する騎士団にまで成長した。唯一の難儀な点として挙げられるのは、『騎士団長が不在である』ということだろう。  ハリー騎士団の騎士団長は誰もが知る人間だ。何せ彼は幾度と無く注目を浴び続けてきたのだから。  しかし、彼は今居ない。半年前に起きたある出来事により、彼の存在自体が不安定になっているのだ。 「もし……彼が居ないことが他国に大々的に知れ渡っていたら……」  いや。  既に知れ渡っている。  にもかかわらず、どの国も攻め込もうとしないのが、恐ろしく不気味なのだ。  まるで、この後にある『何か』に身を潜めているかのように。 「不気味だ……あまりにも不気味過ぎる……」  ラグストリアルは呟く。  一国の王が不気味がるほど、今回の事態にはおかしな点があるということだ。  それがどういうことか、数を挙げればきりがないが、しかしこれだけははっきりと言うことが出来る。  今回の事件には赤い翼のような一テロ組織だけではなく、もっと大きな何かが関わっているのではないか――ということだ。  しかし、それについての証拠は上がっていない。  結果として、ラグストリアルが言っているそれはただの推論に過ぎないのであった。  ◇◇◇  その頃。  法王庁自治領、その首都。  自由都市ユースティティアは周囲を高い塀で囲っている。その理由は至ってシンプル、人を無闇矢鱈に入れたり出したりしないためだ。  ユースティティアに住民登録している人間は『自由』の権利が与えられ、様々な事柄から解放される。その一つが『身分による分配』の法則だ。現在、ユースティティア(或いは法王庁自治領)以外では身分に応じて様々なものの分配割合が変更される。租税ならば、高い身分に応じて低い割合の租税を収める。社会サービスならば高い身分に応じて高い質のサービスを受けられる(分類にもよる。例えば最低限の生活を保証するために支払われる『低身分配付金』では名前の示す通り、低い身分の人間が受領出来る)。  これらがユースティティアでは撤廃されるのだ。租税は皆が平等に収め、賃金も皆が平等に受け取る。しかしながら、幾つかの問題があるために後者は若干バラツキがある。  とはいえ、ユースティティアは完全ではないものの、自由都市の名に値することが可能になっているのだ。  ユースティティアの中心に位置する法王庁は夜になるとその不気味さが増していた。元々法王庁の建物はコンクリートで覆われていて、その壁には隙間が一切存在しない。それを見ると、何も知らない人間はそれが『天まで突き刺すように伸びる高い壁』と錯覚させるのだ。  法王庁内部にある会議室では、四人の人間が話をしていた。夜も遅いからか、そのトーンも低めだ。 「……さて、それでは会議を始めよう。先ずは『ヘヴンズ・ゲート』の取扱についてだ」  人間の一人、部屋の一番奥に座っていた男がテーブルに置かれていた資料を眺めながら、そう言った。 「ヘヴンズ・ゲートは未だ大丈夫だろう? ここ暫くはうんともすんとも言わなかったはずだ」 「あぁ、そうだとも。だがな、『あれ』は我々の範疇をとっくに越えている代物だ。オーバーテクノロジーと言っても過言ではない。寧ろ『あれ』が存在していて優れたリリーファーが開発されていないのがおかしなくらいだ」 「実は高性能のリリーファーを隠しているという可能性は?」 「まぁないだろうな。ゼロと言っても構わないだろう」 「そりゃまた随分と大きく出たな。『ナイトメアカルテット』の力を買い被っているようだ」  一人が笑うと、その男の話は続いた。 「……私は確かに彼らのことを多少優秀であると思っている。だから重宝するのだ。それに関しては否定も肯定もしない」 「『ナイトメアカルテット』……法王|猊下(げいか)がいたく気に入っている、あの四人組はどうもいけすかん。|彼奴(きゃつ)らは我々の諜報活動には秀でているが、まさか我々を諜報しているのではあるまいな」 「メルデレーク卿ともあろう御方が何を仰るのですか」  メルデレーク、と言われた男はその発言を聞いて頭を下げる。 「……むむ、済まない。そんなことは有り得ないと思ってはいるのだが……」 「いいのですよ、メルデレーク卿。失敗は誰にだってあります。そしてそれは、謝罪すれば許されるのです」 「……さておき、議題を元に戻すとしよう。ヘヴンズ・ゲートの話題だったが……それがどうしたというのだ? 他のメンバーも言っていたが……、ここ暫くは何もなかったはずだろう?」 「早い話が、そういう場合では無くなったということだよ」  その言葉にメルデレーク含めるほかの三人が首を傾げる。 「どういうことだ。その口振りだと……」  もう、他の人間は薄々気が付いていた。  彼が何を報告するのか。そしてヘヴンズ・ゲートで今何が起きているのかということを、彼らはその頃には気付かされていた。  その様子を見て、男は小さく微笑むとテーブルにあるものを差し出した。  それは写真だった。古いカメラで撮影したものなのかは知らないが、ピントがぼやけていたり画質が粗かったりした。  その写真はあるものを映し出していた。それは森だった。もう少し詳細を述べるなら、森の中に小さな門があった。観音開きの、こじんまりとしたそれは開かれていた。  門の中は何もなかった。強いて言うならば、『無』が広がっていた。ただ、それだけだった。それだけのことだった。  にもかかわらず、その写真は会議室に居た人間全員が驚いた光景だった。なぜならば、その写真に写っていた門こそ、彼らが長らく話していた『ヘヴンズ・ゲート』なのだから。 「ヘヴンズ・ゲートが完全に開かれているではないか……!」  男は言った。 「これ以上の報告は上がっていないのか……!?」 メルデレークの言葉に、写真を提出した男は頷く。 「これ以上の被害はありません。ヘヴンズ・ゲート監視隊がゲートの異変に気付き、ゲートの封印を強めました。あくまでも応急措置にはなりますが」 「……御託はどうでもいい! つまり、ヘヴンズ・ゲートの向こうの世界から何かが出てくるような、そのような事態には陥っていないのだな?」  メルデレークは、まるでゲートの向こうの世界を知っている口振りだった。  そして、それに直ぐに気が付いたメルデレークは、わざとらしく大きく咳払いして話を取り繕った。 「ともかく、現時点で何も異常が無ければ問題あるまい」 「何が『異常は無い』だ。現にゲートが開放しているのだぞ!!」  あまりにも能天気なメルデレークの言葉に、他の人間は憤慨した。  しかし、それでもメルデレークは能天気に天井を眺めていたのだった。  この会議は、どの公式記録にも載ることなく、夜の|帳(とばり)の中に沈んでいった。  タカト・オーノは微睡みの中で目を覚ました。  そこは大きな木の根元だった。あたり一面には彼が見たこともないような花畑が広がっていて、タカトはそれを見て思わず笑ってしまうほどだった。 「……いったい、ここはどこだっていうんだ?」  タカトは立ち上がり、周りを見渡す。  しかし、周りにもその花畑が延々と広がっているだけで、特になにもなかった。  タカトはここが何の空間だか解らなかった。  強いて言うならば、ここは自分の生きていた世界とはまた別の世界だということを、証拠こそなかったが確信していた。 「なあ……誰かいるなら返事してくれよ……」  タカトはそう言って、ゆっくりと庭園を歩き始める。しかし、いくら歩いてもなにも出てこなかった。 『ここだよタカト』  そんな時だった。  彼を呼ぶ声がした。  その声はか細いものだったが、それでもタカトの心を直接揺さぶるような、そんなはっきりとした声だった。  いったいこの声は誰のものなのか。  そんなことは、彼が考えなくてもすぐ解ることだった。 「……エスティ、エスティなのか!?」  タカトは叫んで、その声のする方へと駆け出した。  走って、走って、走って、走り続けて、それでもなにも世界は変わらなかった。 「エスティ……エスティ……、お前はいったいどこに居るんだ?!」 『タカトくん、もっと、もっとこっちだよ。もっと、もっと、もっと、もっと、その先へ』 「もっと、か!」  走って、走って、走る。  エスティの声を聞いて、さらにタカトは走っていく。  それでもなにも景色が変わることはなかった。 『そうよ、タカト。さらに進むの……頑張って……その先へ……』 「もっと、もっと、もっと、もっと!」  走る、走る、走る、走る。  彼自身の命の炎を燃やすように。  彼女に会いたい、というただ一心で――タカトはその世界を走っていた。  もう彼女は死んでしまっているのに。  もう彼女の姿を見ることはできないというのに。  それでもタカトは諦めたくなかった。  それを考えると、タカト・オーノ――いや、大野崇人という人間は諦めが悪すぎる人間ということになろう。  しかし、それが人間というものだ。  人間というものは、案外そういうものを忘れられずに、諦められずに、そのままそれを追いかけてしまう傾向にあるものだ。  だからこそ、人間はそれを追いかける。そして、それを追い求める。  今のタカト・オーノもそれに漏れず、エスティ・パロングというひとりの女性を追いかけていた。  タカトは彼女が好きだったのだ。  だからタカトは彼女の声を聞いて、彼女に会いたい気持ちがタカトの心を支配してしまったから――彼女の声を求めることとしたのだ。 「エスティ……どこだ……どこにいるんだ……!」  タカトはそう叫んで、さらに大地を駆け出す。裸足だったからか、足の裏は汚れていた。さらに傷だらけで、その傷から血が滴り落ちていた。 『私はこっち……』 「どこだっ!!」  タカトは追いかける。  ただ、彼女の声のみを頼りにして。  その大地は間隔を空けて樹木が生えていた。その樹木の大きさも様々で、中には今から生えて大きな樹へと育つような若葉もある。  それを横目に、さらにタカトは駆けていく。  そしてタカトは漸くそこへ辿りついた。  そこはひときわ大きな木の根元だった。 「……なんだここは……木?」 『タカト……ここだよ……』 「エスティ、どこにいるんだ!」  タカトは叫んで、周りを見渡す。  そして、タカトはついにひとつの結論を導いた。 「まさか……エスティ……お前、この木だっていうのか!?」  そこにあった一本の大木から、エスティの声が聞こえてきていたのだ。  エスティの声は、さらに続ける。 『そう……。私はこの木の中から聞こえてくるのね。そうよ、そうなの。……ねえ、タカト……あなたは決して死んではならない』 「死んで……? 馬鹿な、生きているぞ!」 『それはまやかしに過ぎない。あなたは死んでいるの、既に、とっくに』 「まやかし? 死んでいる? どういうことだ?」 『あなたはとっくに死んでいるの。そう、死んでいるのよ。その事実に気がつかないだけ』 「気がつかない? 何が言いたいんだ? まったくもって理解できないぞ」  そう。  今のタカト・オーノはエスティの言葉を理解出来なかった。  理解することが出来なかったのではない。理解しがたいことだったのだ。  現にタカト・オーノはこの場に立っている。そしてエスティと会話をしている。  だのに、どうして『死んでいる』といえるのだろうか? タカトはまったく理解できなかった。 「……俺は死んでいない。俺はここに居る、それは間違っていないはずだ!」 『間違っていない……そう。たしかにあなたはなにも間違っていない。間違っているのは私……なのかもしれない』 「な、なあ……エスティ……まったく意味がわからないよ……」 『私はエスティ・パロング。だけれど、「あの世界」のエスティ・パロングではない。私はこの世界におけるエスティ・パロングなのよ』  タカトはそこで漸く意味を理解した。  タカトは死んだのではない。気を失ったのではない。  また別の世界へと、移動してしまったというのだ。  拉がれるタカトをよそに、エスティの言葉は続く。 『……ここはまた別の世界。だけれど、クローツがある世界と結びつきが強いのもまた確か。だからあなたが来ることは充分ありえるし、それを待っていた』 「どういうことだよ……どうしてエスティは姿を見せてくれないんだ」  タカトはそう言って、木に拳をぶつけた。  だが、木に反応もなく、エスティが現れる様子もない。 『ここはあなたが来てはいけない場所なのよ』  エスティの話は続く。 『ずっとずっとずっとずっと、待っていた。何度間違えても、あなたはここへやってきた。私は選択を誤ったなんてことはない。たしかにこの世界に留まっていれば、あなたはいい人生を送れるのかもしれない。平和な生活となるのかもしれない。だけれど、そうもいかない。あなたは元の世界へと戻らなくてはならない。そのためには、あの世界へ、「クローツ」へ戻る必要があるの』 「エスティ、一緒に戻ろう。君も一緒に、あの世界へ戻ろう」  そう言って、タカトは弱々しく手をあげた。  そして、その手はゆっくりと、しかししっかりと、木に触れた。 「なあ、エスティ……戻ろう」  タカトの目からは涙が零れ落ちていた。 『……ダメです。ダメなんです。私はこの世界から離れることは出来ない。私はこの世界に住み、この世界に生きるもの。あなたの世界に行って、共にすることは無理なんです』 「……本当に、ダメなのか?」  その声とちょうど同時に、タカトの背後にまばゆい光が照らし始めた。  その光に気づいて、タカトは振り返る。 『……ついにあなたが帰る時がきました。さあ、帰るのです』 「いやだ! エスティ、君も行こう!」  しかし、エスティの姿は見えない。 『私は……この世界でしか生きることが出来ない……』  タカトは何かに捕まったような感触を覚えた。  光から伸びてきた手足に捕まってしまっていたのだ。 「い、いやだ、いやだ!」  タカトは必死に抵抗する。しかし、無情にもタカトの身体はゆっくりと後退していく。 『さようなら、タカト・オーノ。また会えることを願っています……』 「エスティ、まだ間に合う!! 来い!!」 『ダメです。なぜなら私は――』  ――そして、タカトの視界を完全なる光が支配した。  タカトが居なくなって、エスティ・パロングは小さなため息をついた。  最後の言葉は、彼に届いただろうか。  最後の言葉の意味を、彼は理解してくれるだろうか。  いや、きっと理解できないだろう。  そして、その言葉を聞いていることもないだろう。  それでいい。それでいいのだ。  この世界での彼女は、ただタカト・オーノを元の世界に戻すだけで、充分な価値を見出していたのだ。 『出来ることならば、また……いや、きっとまた会えるはず』  タカト・オーノに再会を約束して、エスティ・パロングの声は消えた。  マーズ・リッペンバーはラグストリアルとの会話の終了後、直ぐにハリー騎士団の面々を集めた。 「これからミッションに関して、ブリーフィングを行う」  その言葉を聞いて、彼らは驚きを隠せなかった。 「……もしかして、エルフィーとマグラスを救いに行くミッションということですか?」  コルネリアが言ったその言葉に、マーズはうなずく。 「待ち構えていてもなにも変わらない。だったら乗り込んでやろうではないか。やつらの望みが何であるかは未だに不明瞭だが……それでも彼らはれっきとしたハリー騎士団の一員だ。守らないでどうする」 「確かにその通りだ。……だが、それにはリスクもある」  そう言ったのはヴィエンスだった。  ヴィエンスは席から立ち上がると、マーズの目の前に立った。  そしてゆっくりとその顔をマーズの顔へと近づけていく。二人の顔がゆっくりと、あと少しで完全に触れるところまで近づいた。 「……あんた、その『リスク』を考えて話をしているのか?」  ヴィエンスは、その状況でそう言った。  マーズは頷き、「当たり前だ」と言った。  ヴィエンスはそのあと、マーズの瞳を舐めるように見つめた。 「……なるほど、嘘をついていない、しっかりとした眼だ。やはり、リーダーに相応しい」  ヴィエンスはそう言うと、自分の席に戻った。  ほかのメンバーはその間なにもいうことはなく、ただ二人のやり取りを野次馬よろしく見ていただけだったが、マーズはひとつ咳払いすると、彼らの視線が再びマーズに戻った。 「さて、話を戻しましょう。それでは彼らはいったいどこへいるのだろうか? あなたたちは先ずそれを疑問に浮かべるはずです」 「知っているというのですか?」 「ええ、もちろん」  そう言うと、マーズは指を弾いた。  直ぐに彼らが取り囲んでいるテーブルの中心にあるものが浮かび上がった。  それはホログラムだった。ホログラムはあるものを、立体的に再現していた。 「これは……ビル?」 「ええ、それも廃墟となったビルです。三年前にこのビルのテナントが閉鎖されて以降、持ち手がつかないまま三年という月日が流れ、現在は|破落戸(ごろつき)どものたまり場となっています」 「そんなわかりやすい場所を、敵が使うでしょうか?」  コルネリアの質問は正確かつ的確だった。  そして、それを待っていたと言わんばかりに、マーズは大きく頷いた。 「そのとおり。これに関しては私はきちんと裏をとってきてある。ヴィエンスと今日の昼、ともに行動したときにヴィエンスが尿意を催してな、少し時間が空いていたのだよ。其の時騎士団の一員である特権を使って少しばかり破落戸から話を聞いた」  マーズの話は続く。 「……なんでもそのビルの四階にあるテナントの一つは少し前から人の出入りがあるらしい。それも複数人だ。それを聞いた破落戸がいたらしいが、彼らはその質問に答えなかったという。そうして私は気になって、『赤い翼』の徽章を見せてみた。そしたら」 「見事にそれに反応した、というわけか」  エレンの言葉を聞いて、マーズはそちらを向いて大きく頷いた。 「そう。そのとおり。そうして、私たちは――」  マーズは手を掲げる。  ホログラムはそれに反応して、建物を切り裂くように断面図を見せた。ちょうど、CTスキャンで身体の内部を輪切りにしたように。  四階には通路のほかに大きな空間があった。その空間は内部が明らかになっていないからか、ただの空白となっていた。  その部分が先程マーズが言った『テナント』であるということは、ハリー騎士団の面々は容易に想像出来た。 「作戦はいたってシンプルだ。今晩零時、テナントに乗り込む。私とエレンが先遣隊となり敵陣に侵入し、敵と接触を試みる。その間にほかのメンバーは裏方に回って、侵入してくれ。私たちができる限り、敵をひきつける」 「私たちは囮……というわけか。しっくりこないが、やるしかないな」 「エレン、こういう役割になったことはないのかもしれないけれど、よろしく頼むわね」  マーズが右手を差し出す。  普通、こういったとき相手も右手を差し伸べて握手するのだが、エレンはそれを受け流した。 「勘違いしないで欲しい。私はハリー騎士団には入ったが、君たちと仲良くするつもりなぞ毛頭ない。ただ強い存在と戦うことができるここを選んだだけだ」  それを聞いてマーズは一瞬俯いたが、直ぐに顔をあげた。 「……そうね、ならば、この任務が終わったら私と戦いましょう。模擬戦ということにはなってしまうけれど、それでどうかしら? それで手を打ってくれない?」 「お前は強い、のか?」 「自分で言うのもなんだけれど『女神』と名が知れ渡っているわ。私を憧れて起動従士になる人も多いのよ」  それを聞いて、エレンは「ふうん」と言った。それに関してはあまり気にしていないようだ。  ただ、強いか強くないか。  彼女にとってはそれがパラメータとなっていたのだ。 「……それじゃあ、強いんだな」 「ええ、もちろん」  マーズのその言葉に、エレンは小さく頷いた。 「解った。それじゃあ、これが終わったら戦おう。それまではやる気が出ないが、この作戦を終わらせよう」 「どうやら話し合いは終わったようだな。……俺たちはどこへ向かうんだ?」  ヴィエンスはホログラムとして出ているその廃墟となったビルを指差して、言った。  マーズは指をホログラムに翳すと、ゆっくりとホログラムの廃墟は消えていった。  そして、少し遅れて、今度は立体視された地図が姿を現した。 「ここ」  赤くマーキングされた場所を指差す。 「ここか」  マーズの言葉をヴィエンスがリフレインする。  赤くマーキングされた場所から王城までは一レヌル(一レヌル=一メートルである)の距離がある。 「……これ一レヌルいくつに設定されているんですか?」  コルネリアはマーズに訊ねた。 「一レヌル五百レヌル。だから五百レヌル圏内にこの廃墟が存在する、ということ」  その言葉を聞いて、ハリー騎士団は行動を開始した。  ◇◇◇  首都にあるとある廃墟。  その廃墟は破落戸たちが|屯(たむろ)していた。ここは元々巨大な食品会社が参入していたが、資産運営がうまくいかずに破綻し、ビルを引き払った。そのため、今は誰も使っておらず、その場所に家を持たない破落戸たちが住むようになったのだ。  その四階は、その破落戸たちが出す雰囲気とはまた違う雰囲気を醸し出していた。 「……ここか」  そこにマーズとエレンがやってきていた。  エレンとマーズは騎士団の格好ではなく、普段の格好であった。  マーズは赤と黒の格子状になったネルシャツにジーンズを履いた格好、エレンはフリルつきの白いスカートにワイシャツといった風貌で、特にエレンの風貌はまるでお嬢様のような優雅なオーラすら放っていた。 「エレン……あんた私服だととんでもなく可愛いのね……」 「何か言ったかしら?」  どうやらエレンに『可愛い』というのはタブーらしい。  そう考えるとマーズは口を噤んだ。 「さて……それじゃあ、入るわよ。きっとここが敵のアジトのはず。準備はいい?」 「いつになったら入るのかしら。私はもう我慢できないのだけれど」 「……解ったわ」  マーズはエレンに押されながら、ドアをノックした。  ノックの返事はなかったが、彼女たちは扉を開けた。  ヴァリス総合病院には世界でも類を見ない数のベッドがある。そのため、世界各地から入院患者が集まっている。『医療に国境などない』と、まるで崇人が前に住んでいた世界にあったようなスローガンを掲げていることもあるだろう。  そんなヴァリス総合病院、北二階病棟にある『回復室』。  その中の、ひとつのベッドに大野崇人は横たわっていた。  ベッドの横にはメリア・ヴェンダーと白衣を着た赤髪の女性が立っていた。 「……メリア、大丈夫よ。とりあえずあなたも一度寝たほうがいいわ」 「大丈夫だ、カルナ。私はいつも研究やなんやで遅くまで起きている。だからこういうことは特に問題がない」 「そういうわけじゃあないのよ……あんた、彼が入院してからほとんどつきっきりじゃない。リリーファーシミュレーションセンターのみんなも困っていたわよ? あなたがいないと、きちんとしたシミュレーションが出来ない、って」 「それはセンターの職員の腕が悪いのよ。私がいつもやっているから、それにかまけて、やり方を覚えずにいただけ」  メリアとカルナ・スネイクは旧知の仲である。とはいえ、その仲を取り持ったのはマーズだ。ヴァリエイブル連合王国に来て間もないころ、マーズとともにやってきたヴァリス総合病院で出会ったのが、カルナ・スネイクだった。  カルナ・スネイクは医者だ。  ヴァリス総合病院の腕利きの医者であり、一番人気の医者だ。専門は内科だが、それ以外のこともその専門の医者程度の実力を持っており、まさに『医者のエキスパート』ともいえる存在だった。  また、王家・騎士団直属の医者でもある。そのため、崇人の治療を行うのも彼女だったということは、すでに決定しているようなものだった。 「……でも、まだ予断は許さない状況なのでしょう?」  メリアが訊ねると、カルナはゆっくりと頷く。 「ええ。認めたくないけれど、彼の病状は最悪といってもいい。はっきりと言って、先ずは意識を取り戻さないかぎりはなにもかにもがうまく進まない。寧ろこの半年、この状態を良くも悪くも保ち続けたことが奇跡といっても過言ではない」  そう言って、カルナは崇人が横たわるベッドを見た。  崇人は今、酸素マスクをつけられていた。腕にはいくつかの管がつながっていた。そして、その先にある袋には何らかの液体が入っていた。  心電図に映し出される波形は未だ直線にはなっていないが、とても弱々しいものだった。それは、彼が少なくとも良好な状態でないことを嫌でも思い知らせるものだった。 「……本当に助かるすべはないのか」 「意識さえ取り戻せば、助かるすべはいくらだって考えることはできるでしょう。しかし、意識を取り戻させるために行った手段を、この半年で何度も行ってきました。……ですが、その結果がこれです。未だ小康状態にあるのですから、どうなるかは医者である私にも見当がつきません」 「お前……それでも医者か」 「医者ですよ? ですが、医者は命の行方を操ることなんて出来ません。それこそ、カミサマが成し遂げる『奇跡』なのですから」  それを聞いて、メリアはパイプ椅子に腰掛ける。  奇跡。  カルナはそう言った。  奇跡が起きなければ、タカトを救うことが出来ない――まるでそう言いたいように、彼女はそう告げたのだ。 「『奇跡』が起きる確率はいくらだ」 「……メリア、奇跡は『起きない時に起きる』から奇跡なのよ。その確率が決まっていちゃあ、それは『奇跡』とは呼べないんじゃあないの?」  奇跡の確率が決まっていれば、それは奇跡と呼ばない。  それはカルナの言うとおりだった。  だが、メリアはそれを信じたくなかった。『もしも』が起きる確率が僅かでもあるならば、それに賭けてみたかったのだ。  最強のリリーファー『インフィニティ』に乗る起動従士が、こんなところで死んでもらっては困る――メリアの心配の理由その一がそれだ。  しかし彼女には――もっとそれ以上の思いがあった。  インフィニティ以上に、何か理由がある。  それは何なのだろうか?  それは、メリア自身にも解らなかった。 「……メリア?」 「あ、ああ」  カルナに声をかけられ、メリアは我に返る。 「あんた、ほんとうに大丈夫? 別に休んでも構わないのよ。この病院は二十四時間体制で稼働している。何かあったらすぐにわかるし、ナースや私のように常勤の医者が向かう。私もすぐそこにいるわけだから、」  そう言ってカルナは右側を指差した。  そこには壁があった。そして窓があり、その向こうにはたくさんのナースが働いていた。 「タカト・オーノに異変がおきたらすぐに駆けつける。だから、今日は休め。シミュレーションセンターもそうだが、あんた自身の研究も最近捗っていないのだろう? なんとかしないといけないんじゃあないのか?」 「うるさいわね……余計な一言よ」  そうしてパイプ椅子を仕舞って、メリアが帰ろうとした、ちょうどその時だった。  ――崇人が寝るベッドがわずかに軋んだ音がした。  それを聞いて、メリアとカルナは崇人のベッドの方に振り向く。  崇人が起きていた。  崇人の上半身が起き上がっていた。 「……」  崇人の目はうつろで、まだ体調を取り戻している様子には見れなかった。 「タカト、大丈夫か?」  メリアは駆け寄って、肩を触る。  崇人は一瞬その言葉が聞こえなかったようだが、直ぐにその言葉を噛み砕いて、理解する。 「……め、メリア……か?」 「そうだ。メリア・ヴェンダーだ。覚えていてくれてなによりだよ」  メリアが頷きながらそう言った。  その隣に立っているカルナは信じられないという表情を浮かべていた。 「信じられない……だって、彼はこの半年意識を取り戻すことなんてなかったのに……」 「私だって、どうしてこうなったのかはわからないさ。一先ず、連絡しなくちゃな」  そう言って、メリアはスマートフォンを取り出す。  それを見て、カルナはメリアの肩を叩き、壁に貼られている紙を指差した。  そこには『当院では携帯電話のご利用は専用スペースのみとさせていただきます』と丁寧に書かれていた。  それを見て、メリアは小さく頭を下げると、回復室を後にした。  ◇◇◇  その頃、ハリー騎士団はテナントの内部に潜入していた。  テナントの内部に入ると、そこは静かだった。人っ子一人いる様子もない。生き物が生きている実感がわかない。それくらい静かだった。 「……静かだな」  マーズの言葉に、エレンは頷く。  テナントはただのだだっ広い部屋だった。何も置かれておらず、人が住んでいたという気配すらなかった。 「それじゃあ……ここじゃあないってことか?」 「いいや、違う。ビンゴだよ」  その声はとても若い声だった。  その声は、彼女が思っているよりも若い声だった。  その声は彼女たちの背後から聞こえた。  だが、振り向けなかった。否、振り向くことが出来なかった。 「あ、今君たちは魔法で振り向けないようにしてあるから。気をつけてね。無理に首を動かそうとしたらその首、へし折れちゃうかもね?」  そう言って、それは不気味な笑みをこぼした。 「……なあ、このままで会話するのか? 話は人の顔を見てするのがマナーだって親に学ばなかったか?」  マーズが言うと、彼女たちの身体は無理やり半回転させられた。  即ち、彼女たちと『それ』は向かい合った、ということだ。  それを見たマーズの表情が引き攣ったのを、エレンは見逃さなかった。 「……どうした、マーズ?」 「……そうか。マーズ・リッペンバーは僕を知っているのか。一時期は僕を捜索対象として、探していただろうからね」  それは歩き出す。  電気がついていないテナントは、とても暗かった。  唯一の光源はドアの窓から漏れる、光だけだった。  その光がうっすらと――『それ』を照らした。  その姿は、ヴィーエックだった。  ヴィーエック・タランスタッド。  彼は崇人と同じく、『あの世界』からやってきた人間だった。  そして、ティパモール紛争の際には行方不明になってしまったこともあった。だが、直ぐに彼は戻ってきた。  その彼が今、攫った張本人であるはずの『赤い翼』に肩入れしている。  その事実を、マーズは改めて受け入れていた。打ち拉がれていた、というのが正しいようにも思えるが、なにせ彼女は軍人である。このような事態を予測していた。 「……だからといって、まさかあなたが赤い翼に肩入れしているだなんてね」 「失敬な。僕はそんなことを思ったつもりなんて一度もない」 「ならば、どうして?」 「どうして?」  ヴィーエックは首を傾げる。 「簡単なことです。……全ては『インフィニティ計画』のために」 「インフィニティ計画……?」  マーズはそれを聞いて、直ぐにそれが思いついた。  最強のリリーファー、インフィニティ。  その名前を冠した計画が、この世界のどこかで進行している?  マーズは「深い闇に片足を突っ込んだようだな」と呟いた。それを見てヴィーエックは微笑む。 「だからといって、あなたたちはどうするつもりです?」  勝ち誇ったような表情を浮かべていた。現にそうだろう。彼の目の前に立っているマーズとエレンは彼の力で動くことが出来なくなっている。今の彼女たちを彼が恐れることはないだろう。  しかし。  彼は、その存在に気がつかなかった。 「いまだ!!」  マーズの掛け声とともに、ガラスが割られる。その音を聞いて、ヴィーエックはそちらを向いた。  ガラスを割って入ってきたのは、ヴィエンスとコルネリアだった。彼らはマーズの指示があるまで外で待機していたのだ。 「……ヴィーエック、まさかお前が今回の犯人だったとはな」 「ヴィエンス……君とはここで会いたくなかったね……」  其の時、ヴィーエックは完全に背中をマーズたちに見せていた。  それこそが、彼の運の尽きとも言えた。  突然、彼の腕が誰かに掴まれたのだ。何度も何度も何度も抵抗しても、それは腕を離すことはなかった。 「……くっ、誰だ!!」 「私だよ」  マーズだった。  マーズ・リッペンバーが、ヴィーエックの顔を覗き込むように見つめていた。  束縛魔法は意識をずっと相手に向けていないと、その効果を発揮しない。  マーズはそれを利用して、敢えてヴィエンスたちを呼び寄せたのだ。  危険性はもちろんあった。半年間訓練を積んだとはいえ、彼らはまだ学生の域を出ない。だからこそ、危険だったのだ。中途半端のままで実戦に繰り出せば、何が起きるのか……マーズはそれを知っていたから。 「よくやった。ヴィエンス、コルネリア」  マーズは二人にそれだけを投げかけると、ふたりはそれぞれ頭を下げた。  ヴィーエックを持っていた縄で縛り、その場に転がす。これだけで何とかなるとは思わなかったが、あくまでも応急処置である。 「……さて、洗いざらい話してもらう前に先ずは彼女たちの場所を教えてもらおうか」 「彼女たち? はて、なんのことかな」 「しらばっくれる……そういうつもりか」  マーズは呟くと、近くにある蛇口をひねる。どうやら水は出るらしい。  それを見たマーズは、その水を水筒に入れ始めた。  それが満杯になると、蛇口をひねり水を止め、そうして改めてヴィーエックの方へと向かう。 「本当に言わないつもりだな?」  改めてマーズは確認したが、それに対する返事はなかった。  マーズは頷くと、水筒に入っている水をゆっくりとヴィーエックの顔へ流し始めた。 「お前が言わないのであれば、それで構わない。しかしこれがずっと続くぞ。苦しいぞ? これを止めて欲しいのだったら、言うんだな」  マーズはニヒルに笑って言った。  しかし言われた方のヴィーエックは苦しそうな表情を浮かべてはいるものの、言う素振りは見せなかった。 「言わないか。……ならばそれでもいいが、だがずっとこれは続く。お前が死ぬほど苦しい思いを味わっているにもかかわらず、どうしてそれを隠したい?」  マーズの言葉にヴィーエックは答えない。  水筒に水を補給し、さらにそれをヴィーエックの顔へぶちまけていく。  しかし、そんな状況であるにもかかわらず、ヴィーエックは何も答えなかった。 「何をそこまで駆り立てるのか……まったく解らんというわけでもない。お前は、組織を守っているのだろう?」  マーズの言葉に、ヴィーエックが何かモーションを示すことはない。  そういうことは解っていたから、さらにマーズは話を続ける。 「組織……なんだろうな。まあ、察しはつく。恐らくその組織は……『シリーズ』だろう?」  それを聞いた瞬間、ヴィーエックの表情が一瞬変わった。  それを見て、マーズはニヤリと微笑む。 「シリーズか……やはりお前『シリーズ』の一員だったな?」 「なぜ、解った」  ヴィーエックは漸く口を開いた。  マーズの話は続く。 「理由などない。お前が戻ってきてから様子がおかしいということはアーデルハイトから聞いていた。そこから考えれば容易だ」  それを聞いて、ヴィーエックは立ち上がった。  彼は今、雁字搦めにされた縄により、動くこともままならないというのに。  立ち上がると、その場に彼は浮かび上がった。それにハリー騎士団は圧倒されてしまい、動くことが出来ない。 「……そうだ、そのとおり。僕は『シリーズ』だよ。その中の一人、『ハートの女王』だ」  そう言ってヴィーエック改めハートの女王は自らの名前を仰々しく告げた。  ハートの女王は、小さく頷く。 「……だが、バレてしまっては仕方がない。僕としても明確に目的があったわけではない。それに、君たちに捕まって『シリーズ』の技術をなくなく盗まれてもダメな話だからね。帽子屋に怒られてしまう」 「帽子屋?」  マーズは訊ねるが、ハートの女王は答えない。 「『シリーズ』と計画の全容を解らせないようにしてやる。もう僕はここまでだ。彼女もここには居ないから……ね」 「…………彼女?」  ハートの女王は答えなかった。  微笑んで、目を瞑った。  そのときだった。  ハリー騎士団全員のスマートフォンがけたたましく鳴り出した。  ヴィエンスは突如電子音が鳴り響くスマートフォンを見つめた。 「……! マーズ! 高エネルギー反応がハートの女王の中心部から発生している! もっと、もっと、もっと、エネルギーが高まりつつあるぞ!!」  ヴィエンスの言葉を聞いて、マーズは改めてハートの女王の方を見た。  ハートの女王はそれでも動じなかった。  もう覚悟は決まっているのだろう。 「もう……いいんだ。凡ては僕があの場所へ行く前から決まっていた。知っていた。知っていたんだよ……」  そして、ハートの女王の身体が光に包まれて――音もなく、消えた。  ◇◇◇ 「消えたか」  モニターを眺めていた帽子屋が一言呟いた。  その言葉を聞いて、ハンプティ・ダンプティは帽子屋の方を見た。 「想定外だったのかい?」 「いいや、あれも計画のうちだ。いい働きをしてくれたよ、彼は。シリーズの心配を最後までしてくれたからね」 「……あれも駒のひとつだった、とでも?」  その言葉に帽子屋は頷く。  それを見て、ハンプティ・ダンプティは微笑んだ。 「君はほんとうに入念に計画を決めているものだね。恐ろしいよ。もしかしたら僕が死ぬことも含まれていたりしてね」  その言葉に、帽子屋が答えることはなかった。  マーズ・リッペンバーがメリア・ヴェンダーからその一報を聞いたのは、それからすこししてのことだった。  マーズは作戦中、集中を保つためにスマートフォンの電源を切っておく。それが仇となって、彼女が大事にしていることを忘れてしまっていたのだ。  メリア・ヴェンダーは徹夜にもかかわらず、マーズに電話をかけていたのだ。そして、その膨大な着信履歴に気がつき、改めてマーズはメリアに電話をかけなおし、そこで彼女は重大な事実を知った。  ――タカト・オーノが意識を取り戻した  という、ひとつの事実を。 「タカト!」  マーズが病室に駆け込んだ時には、もう夜も遅かった。作戦を終わらせたのが、もう夕方というよりはとっぷりと日が暮れていたので、当たり前と言えば当たり前である。 「静かにしろ、マーズ。ここは病院だぞ?」  声をかけたのはカルナだった。  その言葉を聞いて、マーズは少しばかり気持ちを落ち着かせる。 「……容態は安定している。それに、意識を取り戻したからか、安らかに眠っているよ」 「そうか……そうか……よかった」  マーズは一瞬笑おうとするが、カルナの顔を見て直ぐに表情を戻した。 「どうしたの。笑えばいいじゃあない。チームメイトが、無事復活したというのに?」  カルナの言葉にマーズは小さく溜息をついた。 「いや、まあ色々あってな……。騎士団のメンバーが行方不明になっていたのだよ。いや、正確には敵に捕まっていた、といったほうが正しいかな」 「ほう」 「だがね、先程発見し保護した。……本当に良かったよ。一安心だ。これで何とかハリー騎士団は全員揃ったという形になる」 「なるほど。そいつはよかったな」  カルナは他人事のように、そう言った。   マーズはそれを聞いて、思い出したように質問をカルナに投げかけた。 「……こいつがまたリリーファーを乗って動けるようになるには、どれくらいの時間がかかる?」 「ひと月、だね」  カルナは指を一本立てた。 「ひと月、か」 「それも、この病院の最高級の設備を使い続けて……の話になるけれど。本人の根気とやる気、それに精神力も持つかどうかは微妙なところだ」  カルナは崇人の方を横目に見る。 「……あんなことがあったのではな」 「……ああ。とりあえず、私はもどるよ。顔は見れた。私はこれから会議があるのでな」 「なんだ、いやにあっさりだな。……彼の意識が戻るのが待ち遠しかったんじゃあないのか?」 「何を突然」  マーズが立ち去ろうとして踵を返していたが――その言葉を聞いて、直ぐに戻った。 「それが証拠だ。立ち去ればいい話なのに、反論したいからって立ち去らなかった。なぜ? 理由は簡単だ。……彼のことが好きだからだろ?」 「それをあなたに言う必要性は感じられない」 「認める、ということでいいのかしら?」 「認める、というか」  マーズは頭を掻いた。 「あいつが気が付かないだけだ」  そう言ってマーズは病室を後にした。  それを見てカルナは「相変わらず素直じゃないなあ」と一言呟くと、崇人の眠るベッドから後にした。  ◇◇◇ 「これで一先ず終わりかな。計画も半分近くまで来ている。変に横入りが無ければ、そう長い時間もかからないうちに計画は完遂する」  帽子屋とハンプティ・ダンプティは法王庁領にある自由都市ユースティティアの近くにある『目覚めの丘』にて会合を開いていた。  帽子屋はそう言うと、向かい合って廃墟の壁だったものに腰かけているハンプティ・ダンプティに問い掛けた。 「……果たしてどうだろうね」 「なんだ、ハンプティ・ダンプティ……否定するのか? 君らしくもない。本当に、珍しいことだぞ」 「なんか気分が乗らなくてね……嫌な予感しかしないんだよ」 「ふうん?」  帽子屋は恍惚とした表情で言った。 「そうか、そうなのか。まぁ、計画にいつ何があってもおかしくないからね。そういう忠告は受け取っておくよ」  ハンプティ・ダンプティは真面目な口調でそう言ったが、帽子屋はそれを流した。  計画が巧く行き過ぎていることが一因にあるのかもしれない。インフィニティ計画はもはや半分まで来た、と帽子屋は告げた。それによって、帽子屋が『失敗』の二文字を消し去っていたとするならば……話は早い。 「まぁ、失敗するんじゃあないか……だなんて言うけれどね、きちんと段階を踏んで、計画は着実に進行している。きっとそう遠くないうちに……小さな爆弾が見え始め、人間に大きな不安をもたらす……。ハンプティ・ダンプティ、君には『リリーファー』の副作用について話したことはあったかな?」 「いいや、無かったな」 「そうか。ならば話させてもらうよ。リリーファーは人間が乗るには負担が強すぎるんだよ。『アメツチ』の話からしてもそういう風に伝えてはいるが、しかし今の大人はそれを信じるか信じないかといえば……後者に入るだろう。そんなことがどうでもいいくらい、リリーファーによる戦争は人々に依存してしまったのだから」 「そのように仕組んだのも、我々だろう」 「……まぁ、そういうことになる」  帽子屋は微笑むと、さらに話を続けた。 「ともかく、我々の思うところはこうだよ。この世界を新生させる……そのための計画だけれど、やはり油断して大変な事態が起きても困っちまうわけだ。……さて、かつて僕はリリーファーはただのロボットじゃあないって話したきがするけれど、おぼえているかい?」  その言葉に、ハンプティ・ダンプティは頷く。  それをみて、帽子屋の口が緩んだ。 「実はほかの『シリーズ』にはあまり話したくないのさ。彼らは完璧に人間を嫌っている……というわけでもないからね。まだまだ人間もやり直せるなどとほざいているが、僕はそうではないと思っている。君もそうだろう?」 「まあ、そうだな。人間がこの状況からやり直し、みんな手を取り合って平和になるなど有り得ない。それはカーネルの併合から決定的に変わった」 「そうだ。その通りだ。カーネルの併合により、人間は平和を拒否した。拒んだのだ。それによって、我々シリーズとしても従来から進めていた計画をさらに邁進していくという結論となったのだが……まあ、仕方がない。彼らはまだ人間のいる世界を監視し続けていたいだけなのかもしれない」 「彼らは暇つぶしの手段を何度も考えていて、それを実際に何度も行った結果、結局は人間の監視をし続けたほうがなんら問題はないことに気がついたわけだ。最初は彼らもひどかったからな。人間を無作為にあの部屋に呼び寄せて、どこが一番痛みを感じるかと人体の凡ての場所に針を刺していたんだぞ? しかも笑いながら、な。それであまり痛みを感じなかったからってエスカレートして首をのこぎりで切っていって、どこまできれば死ぬのか的なこともやっていた。それを考えれば僕の計画がどれだけ人を傷つけなくて済むか」 「規模的には君のほうが巨大であるのには変わりないからね」  そりゃそうだ。帽子屋はそう言って小さく笑った。  ――夜は静かに明けていく。  それぞれの意思を、激動の日々を、すべて、すべて洗い流し――新たな世界へと導くように。