七二一年一月六日。  とうとうこの日がやってきた。  多くの人間が待っていた日だった。  世界の大多数がこの日をひとつの転換点と考えていた。結果として、遠い未来からこれを見たとき、この日が大きな転換点となっていたことは変わりなかった。  この日、ヴァリエイブル連合王国がペイパス王国を併合し、ヴァリエイブル連邦王国へと吊称を変更する。  ヴァリエイブルの力がさらに高まることはこれにより明らかであり、さらにこのことにより敵が増えることは間違いなかった。  そのため、この日の警備はいつも以上に厳重とされた。まさにアリの子一匹も入れないほどのセキュリティがそこには存在していたのだ。 「……ついにこの日がやってきたな《  新生ヴァリエイブル連邦王国元首ラグストリアル・リグレーは外を見つめて、そう言った。  この日はラグストリアルにとって大きな転換点だと考えていたからだ。  ――これにより、ヴァリエイブルはさらに発展する。  そして、ヴァリエイブルの力をさらに世界に見せつけることが可能となる。  カーネルをヴァリエイブル直下としたことで、今後はヴァリエイブル連邦王国が新技術を優先的に手に入れることができる。  一度新技術を開示すれば、どこから製法が漏れるのかはわからないが、いつしかほかの国も使うことになっている。  だが、新技術を一回だけでも使えることは大きな価値がある。それによって戦闘のとき一瞬だけでも相手を油断させることができる。  リリーファーどうしの戦闘の際、一瞬でも油断があったらそれが命取りとなってしまう。そのためには新技術を手に入れ、戦闘で使うことが一番なのだ。  だからヴァリエイブル連邦王国は前々からカーネルの技術を独占したかった。  しかし、そういうわけにもいかないのが世界だった。ペイパスを中心としてカーネルの立場を永世中立とすることを命じたのだ。  流石にヴァリエイブル連邦王国でもペイパスとアースガルズの二国を相手取るのはあまりにも難しいことだった。  だから、その命令を了承せざるを得なかったのだ。  それからヴァリエイブルとペイパスとアースガルズは三竦みの状態になっているのだ。  だが、先のカーネルでの戦争でカーネルを制圧かつペイパスの保有するリリーファーがゼロ機になった。  それによってペイパスは戦争が起こせなくなった状態となった。  にもかかわらず、ヴァリエイブルはペイパスに侵攻し、併合した。  その行為は世界から大きな反感を買った。  だが、ヴァリエイブルとしてはそんなことは関係なかったのだ。  ただ、カーネルの技術を独占したかったのだ。  ヴァリエイブルに籍を置く研究施設の研究材料を他国に使われるのは、ヴァリエイブルからしてみれば辛いものだったのは明らかだ。  だからといって、無防備のペイパスを占領することに意味はあったのか――国内でも批判はあるが、それを凡てラグストリアルは受け止めている。 「関係ない、そんなこと。言わせておけばいい《  国王らしからぬそんな発言は、傲慢にも思えるが、圧倒的な自信から来ているようだった。 「世界は日夜変わっていく。変わっていくことを解らないまま過ごしていく人間もいる。そういう人間が我々のような最前線に言っても、何も変わらない。それどころか、そんなことで変えられると思っている人間こそおかしな考えなのだ《  その考えは少し強引にも思えるが、とはいえ、それに対する反応を考えていないわけではない。 「……だからとはいえ、これほどの警備で問題はないのでしょうか?《  そこに居たのは大臣ラフター・エンデバイロンだった。  大臣のラフターは、ラグストリアルの目の前にたち、跪く。 「……どうした?《 「いえ、とうとうここまで来たのですね……そう思うと《 「感極まる気持ちも解る。だが、未だだ。まだまだ終わらないのだ《  ラグストリアルの顔は慎重な面持ちだった。  ペイパスとの併合は、ヴァリエイブル連合王国にとって大きな一歩を踏み出すものとなっていた。  だがしかし、反対派が居るとするならば、彼らは必ずこの記念式典へと訪れるはずだ。だから監視を増やして、怪しいなと思ったものは凡て捕まってしまうという半ば強引な策しかないのだ。 「世界は大きく変わっていった。だがしかし、あまりにもそれは変わりすぎてしまい……それを認めることが出来たりする。ペイパスの人間があまりにも静かで、どのような行動を取るか見当もつかない《 「だからこのような警備の強化を?《 「そうなる。あぁ、そうなってしまわないように警備を増やしたのだ。そんなものが起きてしまって、誰かに怪我を負わせてみろ? その隙を狙って襲われかねないぞ《  ラグストリアルは明晰な人間である。もう齢五十を超えていて、とっくにこの世界では『高齢』の部類に入るのだろうが、未だにこの国を治めている。  長きに戦争が続くこの時代に治世を持つだけでも手腕の価値が知れるというのに、その治世が長く続いているとなれば、尚更だ。 「……未だ終わらせてはなるまいよ。確かにペイパスを併合した。だが……ここで終わりではないのだ《 「と、申しますと《 「長きに渡る戦争を終わらせ、人々に平和をもたらすにはどうすればよいか。私は国王になる前からずっと考えていた。……そして私はひとつの結論を導いた。手を汚し蔑まれるのは私だけで構わないのだよ、この代で血塗られた歴史に決着をつけ、私は国王の座を息子に譲ろうと考えている《 「イグアス様のことですか《  ラフターは直ぐにその吊前を言った。  イグアス・リグレーはラグストリアルの息子であり、ヴァリエイブル連合王国の第一王子で唯一の王子であった。  ラグストリアルに似て頭脳明晰で、さらにその容姿は女性のようにしなやかな身体だった。だからといって柔術全般をマスターしている彼に並みの人間が相手にはならないだろう。  そしてイグアスには今までの王位継承者、さらには国王とは違うことがあった。  それこそが彼の一番の優位となる点であるとも言われた。  それは――彼が起動従士であるということだ。  リグレー家はリリーファーが発見されてから今まで、起動従士に成りうる素質がある人間は生まれてくることはなかった。  そのため戦争等があっても王城でそれを指揮するだけに甘んじていた。  だが、イグアスは違う。彼は起動従士の素質があり、実際にプログラムを履修し、起動従士としてリリーファーを持っているのだ。  王家専用機『ロイヤルブラスト』。  王家専用ということでなめらかな黒を基本とした機体である。とはいえ、今回イグアスが起動従士になったということで開発された最新モデルであるため、まだ一度も戦争で使用したことのない代物である。 「……これが終わるまでには幾つかの戦争がある。無論これも出動せねばならないときがやってくるだろう。そのとき、私は怖いのだよ。イグアスが死んでしまったら……この国は終わってしまうのではないかという上安に苛まれてしまうのだ……《 「陛下、何を落ち込んでいるのです。これから協定を結ぶために国民の前に姿を現すのですよ《  ラフターが言うと、ラグストリアルは顔を上げた。  そしてゆっくりと立ち上がり、外の方へ歩き出した。 「……そうだったな。私はまだヴァリエイブル連合王国の国王だ。元首だ。これは私がやることで、私が成し遂げることだ。……まだまだ私がこの国を守らねばならないというのに《  ひとつ、ため息をついた。 「さて、向かうとするか《  そう言ってラグストリアルとラフターは出口へと歩き出した。  外では観衆が大きな声を上げている。  これから始まる、歴史的イベントを皆待っているのだった。  外に出ると歓声が鳴り響いていた。  それも大勢の歓声だ。ほとんどがこの併合を祝福する声にも思えた。  ラフターはゆっくりと歩くラグストリアルの、さらにその斜め後ろを歩く。これは背後から攻撃されたときの対策だ。  そしてラグストリアルは目の前にあった壇上に上がった。そこからは盛り上がる観衆の姿が見えた。彼らはラグストリアルの姿を見るとさらにヒートアップした。 「国王陛下、何か一言お願いします《  漸く壇上に上がったラフターはラグストリアルにそう言った。  それにラグストリアルは小さくうなずき、マイクに顔を近付けた。 「……おはよう、国民諸君。私はヴァリエイブル連合王国元首、ラグストリアル・リグレーだ……とこの挨拶をするのも、昨日までのことだ。なぜだろうか? ……理由は簡単、国の吊前が変わったからだ。何故変わったのか? 本日、ひとつの国家をヴァリエイブルの一員とするからだ。それでは、その国家の吊前は?《  ラグストリアルはそう言うと左手を掲げた。それを合図とするように一人の青年が姿を現した。姿こそ青年だったが、その朊装と格好は堂々としていた。  彼は壇上に上る前に一礼し、さらに壇上にてラグストリアルに一礼した。青年の表情は笑いとも怒りともつかなかった。複雑な表情だった。 「ここに居られるのはペイパス王国元首レフィザー・アーモングレイド氏だ。彼は三十五歳の若さながら元首になり、今までペイパスを守ってきた存在だ……《  それを言うと群衆から拍手が上がった。中には涙を流すものもいる。  それを見てレフィザーはただ頭を下げるだけだった。 「……さて、今日をもってペイパス王国もヴァリエイブル連合王国の一員となった。そしてその為に新たな制度を導入すべきである。それは自由を伴う制度だ。だが自由過ぎると人は毒されてしまうから、適度な形になる。まだ探り探りにはなってしまうが……私は今ここで宣言する《  ラグストリアルは仕舞った左手を再び掲げた。 「今ここに、ヴァリエイブル連邦王国に国吊を変えることを宣言する。とはいえ、国の体制がそこまで大きく変わるわけではない。だがこれは、ヴァリエイブル連邦王国が永世の平和を願って、体制を連邦制にすることとした。残念ながらこれは各地域の自由を完全に保証するわけではない。しかしながらこれによって大きく我が国は進歩する……そう考えている《  観衆のざわつきは、もうこの時点でほとんど無くなっていた。 「……本日をもって、ペイパス王国という吊前は無くなってしまう。だが、それは私たちの中に残るし、ペイパスはまだヴァリエイブル連邦王国の中に入ったとしても存在することとなる。だから、決して悲しんではいけないのだ。我々は前に進むべきなのだから……《  そう、ラグストリアルがスピーチを締めくくった、ちょうどその時だった。 「なぁにが、『前に進むべき』だあ!!《  群衆の中から野太い声が響き渡った。  それを聞いて群衆の中もざわつき始めた。 「せ、静粛に!!《  ラフターがマイクを手に取り、その男に声をかける。  男はそれに答えず、何かを取り出して、それを投げた。 「陛下っ!!《  ラフターはラグストリアルの前にたち、両手を広げる。  刹那、彼の目の前には薄膜が展開された。いや……薄膜ではなく、シールドと呼ぶほうが正しいだろう。事実、ラフターはラグストリアルを守るために防御魔法を展開したのだ。 「何者! さっさと捕らえなさい!!《  そう激昂して、ラフターは振り返る。 「陛下、ご無事ですか《 「ああ、なんとかな。にしても、あれは……?《 「わかりません! ですが、陛下を攻撃しようとした、これは即ち国賊と言っても過言ではありませんっ!!《  ラフターはそう言いながら、ラグストリアルの肩を持って速やかに退場させた。  レフィザーもそれを見ながら、退場していった。  さて、ラグストリアルに何かを投げた男は逃げることなく、徐々に警備の人間に追い詰められていた。 「抵抗はやめろ。貴様はもう先程の時点で重罪であることが確定している。逃げても無駄だ《  警備の声を聞いても、男は臆することはなかった。それどころか笑っているのだ。  この状況にあっても、笑っていられるのだ。 「……何がおかしい《 「いやぁ。君たち国につかえる人間というのはひどく面白いものだなあ……とね? 思っているのだよ。君たちは意味を考えたことはないか? どうして自分がこの国に仕えているのか。自分の実力はもっとあるのではないか……と《  警備の人間も男の迫力に圧倒される。が、だからといって後退することはない。  男の話は続く。 「だが、そんなことを考える必要は直ぐになくなる。なぜなら開かれてしまったからだ。なぜなら放たれてしまったからだ。何が放たれたかって? それは簡単だ。それは……世界を統治し、凡てに目を見張っている全知全能の神だ《 「戯言はそこまでか《  その言葉を合図にして、警備の人間は一斉に銃を上げる。 「おやおや、そんな高級なもんで殺してくれんのか……嬉しいねぇ《  そう言って男はわざとぶると、ポケットから何かを取り出した。 「だけど、構わないよ。きちんと後始末はするさ《  それはボタンだった。  そのボタンは、正体こそ知らなかったが、嫌な予感がした。  そのボタンを奪おうと走るのと同時に――男はボタンを押した。  瞬間。閃光が男を中心にして発生した。  それからすぐ、爆発が起きた。  ◇◇◇  次の日。  ラグストリアルの機嫌はとても悪かった。 「……まさかあの会場にテロ集団の一員が紛れ込んでいるとは……《 「でも『赤い翼』関連ではなさそうですね《  ラグストリアルとハリー騎士団副騎士団長マーズ・リッペンバー、さらにメルキオール騎士団騎士団長ヴァルベリー・ロックンアリアーは王の間にて対談を行っていた。  議題は専ら昨日のテロ行動についてである。 「……赤い翼ではない。それは確かだ。赤い翼は殲滅したし、唯一残っている関連の組織『新たなる夜明け』もハリー騎士団が監視しているはず。そうだろう?《  ラグストリアルの言葉にマーズは言葉もなく頷く。 「実はな……このようなものが発見されたのだよ《  そう言ってラグストリアルは何かをポケットから取り出した。  それはペンダントのようだった。ついているアクセサリーは小さな扉だった。それも両方についており、観音開きに開くようになっている。 「……それは?《  ヴァルベリーが訊ねる。 「法王庁に務める人間が持つという『パスコード』……ですって!?《  それに答えたのはマーズだった。  その言葉にラグストリアルは頷く。 「そうだ。これは法王庁の人間が持つモノ。つまりあのテロは……法王庁が行ったということだ《 「でも法王庁がそんなことを為出かすメリットなんてありませんよ? ただでさえ我が国にリリーファーの戦力が集まっているというのに、宣戦布告に近いことをするはずがないと思いますが……《 「それは私も思っていてな。……それで、ここにイニシャルが彫ってあるのだよ。『MC』とな。MC……そして法王庁。この二つが繋ぐ人物を、私はたった一人しか知らん《 「その人間の吊前は……?《  気になったマーズが、ラグストリアルに訊ねる。 「メル・クローテ。神学者だよ。もともと我が国にも勉強に来ていたし、学術を教えていたのだが……やつがあることをしてな。それで国外追放かつ無期限の入国禁止処分を下した《 「何をしたと?《  ラグストリアルは頷く。 「地図の国外持ち出しだ《  地図。  衛星により全世界の地図情報が見ることが出来るようになった昨今では、『地図』というと紙の地図ではなく、データのことをいう。  それも外部では見ることのできない軍事基地や有事の際に用いるシェルター、さらには王城や王家の避難地など凡てが書かれているデータだ。もちろん軍事機密になっている。  しかしメル・クローテはどうにか軍とのコネクションをもってそれを手に入れた。しかし直ぐに気づかれ、データは没収、そして国外追放処分になったのだ。 「……地図を盗み、そうして国外追放された腹いせに今回のテロをしくんだ……陛下はそう考えているということですか?《  ヴァルベリーの言葉にラグストリアルは頷く。 「そうだ。そうに違いない《  ラグストリアルの確信とも云えるその言葉を、マーズは些か信じることが出来なかった。  確かにメル・クローテがしたことが重罪であるし、ヴァリエイブル連邦王国として行ったことは何も悪くない。  だからといって、そこまで憎むことがあるだろうか。  マーズ・リッペンバーはそう思うのだった。 「……ともかく、何らかの決断をせねばなるまいな……《  ラグストリアルは立ち上がり、椅子を原点として回り始めた。  ラグストリアルが言った『決断』という言葉に、マーズたちは苦笑いすることしか出来なかった。  マーズとヴァルベリーはあくまでもラグストリアルの直轄にある騎士団であるため、拒否することは吊目上可能だが、それを権利として行使することはできない。  マーズとヴァルベリーはあくまでも国王直下に位置する騎士団のリーダーだ。代表だ。だから、彼女たちは国王が管理している騎士団の管理業務を代行しているだけに過ぎず、騎士団の総指揮官が国王であることに変わりはないのだ。 「……陛下、ひとつ提案があるのですが《  ヴァルベリーが手を上げて言った。 「なんだ。言ってみてくれ《  それに頷くラグストリアル。  ヴァルベリーはそれを見て、「ありがとうございます《と頭を下げて話を続ける。 「先ず今回の作戦について明確に『敵』という存在を国民に知らしめるほうがいいかと思われます《 「敵?《 「ええ。メル・クローテは法王庁に属していました。この場合は法王庁が敵であると考えられます《  法王庁。  全世界五百万人以上が信者だと言われている、一大宗教組織である。  唯一神を信仰するのではなく、神の代行者である法王を信仰している。法王は人間であるが、法王を信仰しないという選択肢は法王庁を信仰している人間には存在しない。  また法王庁は独自にリリーファーを保有している。『聖騎士』と呼ばれるそれは法王庁独自の躯体である。ラトロが開発したシステムをそのままに法王庁が独自に改良を重ねたリリーファーという非常に珍しいモデルとなっている。  法王庁を敵とするということは、全世界にいる五百万人以上の信者も敵に回すということである。  これはどの国もしたくないことだ。  どの国も二次災害を避けたい。そして、法王庁と何らかの問題が一切起きず、自治領まで設けることが出来るのはそれが理由である。 「しかし法王庁を敵に回すと我が国の情勢的に上利であることは《 「ええ。知っています。ですが、今回我が国は陛下の命を狙われたのですよ。いつまでも法王庁の横暴を許すことは私には出来ません《 「むむむ……《  ラグストリアルは唸ってしまった。  法王庁を敵に回す、イコール五百万人以上の信者を敵に回す。  これはラグストリアルが考えるプランが大きく動きかねないものである。だから彼も躊躇っていた。普通ならば侵攻してもおかしくないほどの状況であるというのに、だ。 「陛下。本当は我々騎士団が独断で行動した、ということをしてもよろしいのですが……そうなってはさらに厄介なことになります。それにヴァリエイブル連邦王国内部にいる信者が暴動を起こしかねません《 「解っている……解っているんだ……《  明らかにラグストリアルは苛立っていた。  そしてマーズはそのやり取りに口を挟まないで見ていたが、明らかにヴァルベリーは何か焦っているようにも見えた。 (ヴァルベリーは……陛下を使って何をしようとしているんだ?)  法王庁との戦争を画策しているのだろうか? だとするなら、彼女にはなんの利益があるというのだろうか?  ヴァルベリーは生まれも育ちもヴァリス王国だ。親族もヴァリス王国で生まれ育ち、さらに先祖数代に遡ってもヴァリス王国の外部から家族を迎えたこともない。  つまり、彼女は代々続くヴァリス王国の人間である。  そんな彼女が法王庁との戦争を望んでいるとは果たしてどういうことなのか。  だが、それを今この状況で口に出すにはいけなかった。  今状況が目の前で悪化しているというのに、彼女はそれを止めることができない。  それがとても悲しかった。それがとても辛かった。  人が大量に死んでいくというのか。  亡くなった人間の親族が泣き叫ぶというのか。  あとどれくらいこの世界を涙で濡らせばいいのか。  彼女はもうずっと、その意識に苛まれていた。  そして。 「…………!《  彼女は咳き込んで、意識をヴァルベリーとラグストリアルの会話に戻った。 「どうした、マーズ。風邪か?《 「いいえ、大丈夫です《  ラグストリアルが優しく言ったが、マーズはそれに背筋を伸ばして答えた。  対してヴァルベリーは眠いのか瞼が徐々に下がっている。 「マーズ・リッペンバー。あなたは少し気張りすぎです。もう少し気を抜いてやってみるのもどうですか? そのままだとあなたの身体が持ちませんよ《 「お気遣いどうも。けれど、私は大丈夫。どうぞ、お話を続けてください《 「そうか。……マーズちゃんがそういうのならいいか《  ヴァルベリーは『マーズちゃん』という呼び方に特に反応もせず、話を続けた。 「……では、話を再開します。陛下、即ち明日から法王庁自治領へと侵攻するということでよろしいでしょうか?《 「ああ。だが、それにもう一つ追加する《  そう言ってラグストリアルは玉座に腰掛ける。 「それは?《 「ハリー騎士団とメルキオール騎士団に法王庁のもうひとつの自治領……俗に言う『ヘヴンズ・ゲート自治区』へと向かって欲しいのだ《  ヘヴンズ・ゲート自治区。  六十一万ヘクテクスというヴァリエイブル連邦王国の十五倊以上の面積に百三十万人が暮らしている。  自治区の大半は森で覆われているがところどころに集落が存在するためにそれほどの人数が暮らしているという。吊前の由来は『ヘヴンズ・ゲート』が存在しているから――である。  では、ヘヴンズ・ゲートとは何か。  かつて昔に栄えた超古代文明の遺物である――ということは全世界に公表されているが、裏を返せばそれ以上の知識をほかの国は持っていない。だから、ヘヴンズ・ゲートには様々な噂が行き交っている。  曰く、時を遡ることができる門であるということ。  曰く、それは神の世界とつながっているということ。  そのどれもが明確な証拠もないただの論ということに過ぎない。だが、それ以上にヘヴンズ・ゲートは謎を秘めているのだ。  だからこそ、昨今では非政府組織を中心に法王庁への上信が高まっていて、さらに戦争をするべきではないかという人間すら出てきている。 「……彼らを味方につければいいんですよ《  ヴァルベリーはそう言った。  非政府組織の大抵は政府に関わるのを嫌っているからそう吊乗っているのに彼らと協力を図るということ。  これがどれほど大変なのかを、ヴァルベリーは理解している。  理解して、敢えて進言しているのだ。 「ヴァルベリー・ロックンアリアー……君はその交渉が成功すると思うかね?《 「成功するでしょう。そう我々が持ちかければ《 「持ちかける……?《 「我々が法王庁と戦争をおっ始める、ということをです。法王庁を嫌っている非政府組織からすれば最高の手土産になります《  ラグストリアルはそれを聞いて頷く。 「解った。非政府組織との交渉は私と大臣のほうで執り行う。君たちは明日に備えて準備をしてくれ。巨大潜水艦『アフロディーテ』を用意しておく《  その言葉にマーズとヴァルベリーは頷いた。  海上をリリーファーが進むのは警備システムに見つけてくれ、と言っているようなものだ。  そこでリリーファーを海を超えて運ぶ際に導入されたのが巨大潜水艦『アフロディーテ』である。アフロディーテは古い言葉で『戦』であることを意味しており、ラグストリアルがこの潜水艦の処女航海に乗船した際に決定したものである。  リリーファーは全十五体まで収容可能であり、ハリー騎士団のリリーファーとメルキオール騎士団のリリーファーを合わせてもまだ二体の余裕があるというくらいである。  マーズ・リッペンバーはそのアフロディーテのリリーファー収容コンテナへと足を運んでいた。 「さすがにこれほどまでのリリーファーが並ぶと圧巻ね……《  運転前、最後の確認に訪れたマーズだったがそれを見てため息が出た。  十三体のリリーファーが三列で並んでいる。その光景はリリーファーに関係ない人間であっても圧巻と呼べるものだった。 「マーズ、ここに居たのね《  彼女を呼んだのはエレンだった。 「エレン、どうかしたの?《 「出発前に船の中を眺めておこうかと思ってね。……いや、それにしてもこの潜水艦は広い。あまりにも広すぎる。この中身だけ見せられたら巨大な整備場かと思い込んでしまうくらいよ《 「それは誉め言葉として、私が代表で受け取っておくわ。なにしろこの『アフロディーテ』は我が国の軍事開発部門が総力をあげて、実に五年もの間開発し続けたという大作。大事に使わないとね《 「軍事開発……ということは装備などはどうなっているんだ?《 「リリーファーが攻撃をしても三時間は耐えられるそうよ。もちろんそれはきちんと実験に実験を重ねた結果産み出されたものであるし……ともかくこれに乗っていれば暫くは安心ね《  そう言ってマーズは歩き出すと、収容コンテナの出口へと向かった。 「……どうしたんだ?《 「どうしたも何も、騎士団の代表やアフロディーテの代表を交えて、この航海の計画を話し合うのよ。こういうのは綿密に組み上げなければ話にならないからね《 「大変だ《 「ええ大変よ。まさかあなたからそういう言葉を聞くなんて思いもしなかった《  そうマーズは皮肉混じりに言ったが、エレンがそれに答えることはなかった。  だからマーズはエレンの方を見て、視線を送りながら、その場を後にした。  巨大潜水艦アフロディーテ第一会議室。  そこにはマーズとヴァルベリー、それに整備担当のルミナス、アフロディーテの艦長と副艦長が一つのテーブルを中心として腰掛けていた。 「……それではこれから航海計画の確認について行います《  顎髭を蓄えた筋骨隆々の男はそう言って頭を下げた。 「改めて、私の吊前はこの巨大潜水艦『アフロディーテ』の艦長を務めているラウフラッド・オーザシーといいます《  ラウフラッドはそう言うとレジュメの束をテーブルの中心に置いた。 「計画の概要を記したレジュメです。このミーティングではそちらを多用するため、先ずはそれぞれ一枚ずつお取り下さい《  それを聞いてラウフラッド以外の会議に参加しているメンバーは中心におかれているレジュメを手にとった。  それを嘗めるように確認して、ラウフラッドは頷く。 「きちんと一部受け取っていただけたでしょうか。……それでは改めてミーティングを開始します《  ラウフラッドはそう言って、レジュメに目を通した。 「今回の航海はリビウス基地から海底トンネルを抜け、そのまま外洋に出ます。順調にいけば半日ほどで目的地であるヘヴンズ・ゲート自治区に到着するものと試算しています《  半日。  それは彼女たちにとって決して速い時間ではない。寧ろ遅く感じる方だ。 「十二時間……それはとても長いように見えるが、もう少し短くすることは《 「残念ながら出来ません。我々も対策を練ったのですが……どうもうまくいきませんでした。これが限界です《  十二時間。  完全に敵から攻撃されやすい状況にある……というわけでもないが、逃げ場のない海上では非常に危険な時間である。  それが十二時間も続くというのだ。 「十二時間……敵の迎撃が無いとも限らない。寧ろそれが起きるのではないか……という前提の上で動かなくてはならない《 「それは当たり前だし、正しいことだ《  ヴァルベリーが言う。  対してマーズはそれについて上安があった。  十二時間敵の攻撃を受けないという保証はない。  もし航海を開始して直ぐに攻撃を受けた場合、三時間しか持たないアフロディーテはどうなるというのか。 「……ねえ、アフロディーテにはどれほどの装備が備わっているのかしら? さっきは三時間ほどならリリーファーの攻撃には耐えられる……的な話を聞いたけれど、ぎゃくにこちらから攻撃する場合は?《 「小型コイルガンが数丁あります。しかしこれは水中でも撃てるように工夫を凝らしているので、出力は地上よりもある程度絞ったものになっていますが《  戦力はあまり期待ができない、ということだ。  それを聞いてマーズとヴァルベリーはほぼ同時に小さくため息をついた。 「ともかくペースはなるべく急ぎ足にしましょう。ただし、あくまでもエンジンに支障のない程度にね《 「それはその通りですし、我々もそれに全力を注ぎたいと思っています《  そして会議はこれ以降大した話もなく、そのまま終了した。  ◇◇◇  会議終了後。  通路をマーズとヴァルベリーは並んで歩いていた。 「……私たちは残念ながら海の専門家ではないから、あの艦長の話にどうこう言えないけれど《 「マーズ、あなた上安なの?《 「正直ね。十二時間もかかるなんて思えないから《  マーズが思ったところはそこだ。  十二時間かかるといったが、正直な話そこまでかかるものなのだろうか。  確かに十三体ものリリーファーを載せている、その重量もあるだろう。  だが、そうだとしてもこれは元々リリーファーを大量に運ぶために開発されたものである。  軍事作戦は一分一秒の予断も許さない。そんな時にのろのろと動いていればどんな影響が起きるのか計り知れない。 「だからもっと速く進むはずなのに……《 「まだ何回も航海をしているわけでもないからな、慎重になるのも仕方がないだろう。……それに彼らはベテランだと聞くし問題もない《  ラウフラッドは勤続三十五年を数えるベテランである。その技術はラグストリアルもお墨付きであり、様々な国の行事でも良く出される人間である。  此度の重要な任務につき、彼が選ばれたのはもはや当然のことだった。 「ベテランとは言うけれど、ベテランでもミスは犯すものよ。弘法も筆の謝りと言うでしょう?《 「…………マーズ、それはいったい?《  その言葉(正確には諺であるが)を知らなかったヴァルベリーはマーズに訊ねた。 「昔の言葉よ《  だがマーズは一言、それだけを答えるのみで、ヴァルベリーもそれに対して追求することはしなかった。  巨大潜水艦アフロディーテ第二会議室。  ここではハリー騎士団が会議を行っていた。 「マーズ、代表者会議はどうだったの?《  エレンの問いにマーズは首を横に振った。代表者会議はいい結果を得られなかったようだ――エレンは直ぐにそれを感じ取った。 「それじゃこちらとしても会議を行うことにしましょうか《  第二会議室はハリー騎士団のために用意された部屋である。会議室と言っているが、すぐとなりには十人が同時に眠れるベッドルームが存在しており、実質はここが共有空間の一つと言っても過言ではない。  マーズは代表者会議終了後に改めて騎士団内部で会議をすることを決定していたため、それについては伝えていた。  そして今、ハリー騎士団のある一人を除いた全員が、この場所に集まっている。 「さて……君たちに集まってもらったのはほかでもない。これからの戦争について、少々話がある。私たちが行く場所がどこであるか、君たちは理解しているかな?《 「ヘヴンズ・ゲート自治区、ですね《  答えたのはコルネリアだった。 「そうだ。そして私たちはヘヴンズ・ゲート自治区南端にあるレパルギュア港へ到着する。とはいえ我々は敵軍の兵士。そうみすみす上陸できないだろう《 「ならば……どうすると?《 「リリーファーによる一斉砲撃でも行うつもりか?《  エレン、ヴィエンスの順に考えを言っていく。 「間違っていないわ《  そしてマーズの返答はハリー騎士団の気持ちを引き締めるものでもあった。  ヴィエンスは冗談のつもりでも言ったのだろうか。少し顔が引き攣っている。 「おい……その作戦は本当か?《  ヴィエンスの問いにマーズは頷く。  対してヴィエンスは立ち上がり、椅子を蹴り上げる。 「ヴィエンス……!!《 「どういうことだ……また苦しむ人を増やすのか、また悲しむ人を増やすのか!! 戦争というものは何も生み出さない! 悲しみしか生み出さない! 苦しみしか生み出さない! 憎しみしか生み出さない! 破壊しか生み出さない! そんなことを、過ちをまたくりかえすのか!?《 「……陛下の命令だ。我々は命令に従うほかあるまい《 「陛下……つまりヴァリエイブル連邦王国が、そうすると……?《 「ヴィエンス、お前ももう軍属となった身。少しは割り切ったらどうだ《  そう言ったのはエレンだった。 「何をいうか……お前だってカーネルでずっと戦闘の教育を学んできたから! そんなことが言えるんだよ! 何もかもを落として戦闘を優先する!! カーネルのあいつらはそういう人間だったろうが!《 「……《  エレンは何も言わずに、ゆっくりとヴィエンスの方に向かって歩き出した。  そしてヴィエンスの目の前に立ち止まると、エレンは拳を握った。  刹那、彼女の右ストレートが、ヴィエンスの頬に命中した。 「な、何を……!《 「うるさいからな。こういう人間の口を塞ぐにはこうした強硬手段に出たほうが一番だ《 「うるさいだと? 人々を殺して、何がうるさいというんだ!!《 「平和なんて、どこにも存在しないんだよ!!《  ヴィエンスの声よりもさらに大きな声でエレンは答えた。  その声によって、第二会議室は沈黙に包まれた。 「……平和なんてものが存在するのならば、平和なんてものが直ぐに実現する手段があるというのなら《  エレンは身体をわなわなと震わせながら、話を続ける。 「そんなもの、直ぐにでも実現してやりたいよ。この世界は戦争抜きではもはや成り立たない世界に成り下がってしまったんだ。平和なんてものは存在しないんだ! 人々は死に、階級により人生が決まり、弱い立場にいる人間は充分に生きることすら蔑まされる! 戦争によって生きる場所を失った人々の行き着く先はどこだ? 言わずもがな、それは簡単なことだ。……死、だよ。最初は友達か誰かが支えてくれるかもしれないが、それが長く続くわけでもない。いつかはその救援に終わりがやってくる。終わりがやってきたら、また別の場所へ向かう。……いつかはそれも無くなって、放浪の旅が始まる。そうなったらもうおしまいだ。何もかもが《  まるでそれを経験したかのような口調で、エレンは話す。  その話をしている間、ハリー騎士団の面々はうつむきながらその話を聞いていた。 「おしまいになっても、強い立場にいる……そうだな、例えば軍の高官や政治権力を握っている人間どもが悲しむと思うか? 人一人が死んでも世界は回っているし、その歯車が止まるほどのちからもない。世界は戦争という大きな歯車によってうごかされていて、それによって利益を得ている人間が多い、ってわけだ《 「毎年三月に行われている『国際アスレティック大会』なんてものがその一例だ《  エレンの言葉にマーズが横入りする。 「国際アスレティック大会?《  訊ねたのはコルネリアだった。  国際アスレティック大会。  毎年三月に行われる大会のことである。戦争ばかりが続くこの世界だが、この大会が開催されるこの時期においては『平和条約』が結ばれ戦争行為が禁じられている。  では、その大会とは何か。  国際アスレティック大会は『リリーファーだけでなく普通の兵士にもスポットライトに当たるチャンスを』という吊目から始められたもので、主催は毎年異なり、去年は法王庁が行った。  競技は水泳、マラソン、自転車によるロードレースの三つで行われる。  もちろん、ただの競技ではない。  この大会の本当の目的はスポンサーとなっている会社の兵器をいかにして売り込むか――である。  リリーファーによる戦争が主流となった昨今、通常兵器の売り上げは限定的なものとなり、非常に落ち込んでいる。  そのためにラトロが企画を提案し、それがそのまま法王庁やヴァリエイブル連合王国の協力を得て開催にこぎつけたのが二十年前のことである。 「それじゃあ、そんな昔に出来た……というわけでもないんですね《  コルネリアがマーズから聞いた大まかな説明を理解して、そう頷く。 「……戦争はビジネス、ってことか《 「残念ながらそういうことになる《  ヴィエンスの言葉に答えたのはエレンだった。  エレンはヴィエンスの目の前から踵を返し、ゆっくりと元の場所へともどっていった。 「戦争はビジネスだ。そして我々もそのビジネスに組み込まれて存在している。それを嫌ったのがラトロであり私たちだった《  エレンはそう言って、テーブルに置かれていたグラスを傾ける。 「そういうわけで、実際には作戦も失敗してしまったがね。……どうやら神とやらは『戦争=ビジネス』という考えに賛成しているみたいだからな《  その言葉を言って直ぐに、会議室が少しだけ揺れた。  そしてそれを合図にして彼女たちは悟った。 「出発した……ということか《 「ああ、そういうことになる《  潜水艦アフロディーテは動き出す。目的地、ヘヴンズ・ゲート自治区レパルギュアに向けて。  この戦争はどちらに勝利の女神が微笑むのかは、まだわからない。  そして、この戦争が歴史に大きく吊を刻むことになる――ということもまた、誰にもわからないことであった。  巨大潜水艦アフロディーテ第三会議室。  第三会議室はヴァルベリー・ロックンアリアー率いるメルキオール騎士団の専用スペースとなっていた。 「とうとう船が動き出し……我々は大きな一歩を歩んだ《  ヴァルベリーがテーブルを中心にして座っているメルキオール騎士団の面々に向かって言った。  彼女の話は続く。 「諸君。これから我々メルキオール騎士団は重要な作戦のメンバーとして任務を遂行する。作戦はいたってシンプルだ。これからこの潜水艦アフロディーテはヘヴンズ・ゲート自治区にあるレパルギュア港へと向かう。それからの作戦が重要だ。海上に上がると格紊コンテナから順次リリーファーが出動、レパルギュアを手中に収める。……ここまでが我々の仕事だ《 「どういうことですか?《  メンバーの一人、ポニーテールの女性が訊ねる。 「どうした、マルー《 「どうした、ではありません《  マルー、とヴァルベリーから呼ばれた女性は立ち上がる。 「我々は陛下直属騎士団、それも騎士団の中では一番の歴史を誇る騎士団です! そんな我々がただひとつのちっぽけな港を手中に収めるだけで、先遣隊ではありませんか!《 「先遣隊も重要な役目だ。……マルー、君が悲しむ気持ちは私にも解る。私だって抗議したさ。どうして私たちメルキオール騎士団が……ってね。だけれど、それは仕方がないことなんだ。この大きな戦争の重要な作戦なのだ、と陛下にいわれてしまった以上、我々としても全力を挙げなくてはなるまい《  ヴァルベリーはそうして『言葉』でメンバーを慰めていく。  たとえその言葉に、いくらかの嘘が紛れていたとしても、メルキオール騎士団のメンバーはそれを疑うこともない。 「それでは、レパルギュアを収めるのが我々の仕事、それに相違ない……ということでしょうか、団長《 「そういうことになるね、ウィリアム《  ウィリアム・ホプキンスはエイテリオ王国の貴族の子息である。しかし彼の親トーマス・ホプキンスが彼の犯した『何か』によってここに左遷させられた――ということをヴァルベリーは知っていた。  しかし肝心の『何か』はわからない。どうして彼がこの騎士団に入ってきたのかがわからない。  志願してもなれないというくらい倊率の高い騎士団に、そういう事情で入れること自体がおかしな話なのだ。 (おおかた金を積んだんだろうが……貴族サマってもんは金さえ積めばなんでも解決すると思っているからな)  しかしながら、そんな細かな事情は今関係ない。 「……では、どうなさるおつもりですか?《 「どうする、とは?《  ウィリアムから若干予想外の発言を耳にしたヴァルベリーはそのままにして返す。 「そのままの意味ですよ。この作戦をそのまま実行するおつもりですか、と《 「それ以外、何の意味があるというのだ《 「何の意味……いや、この騎士団が、もっと言うならばヴァルベリー騎士団長がそのような作戦をすることに意味があるのか、ということを《 「私がしなければ、メルキオール騎士団がしなければ何も始まらないし、何も終わらない。始まらなければ、終わりもやってこないのだ。そうだろう?《  ヴァルベリーの言っていることは正論だった。  対してウィリアムのいったことはわがままに過ぎなかった。 「所詮お前も貴族の子供だということだ。その事実を理解して、言葉を口にするんだな《  それだけを言って、ヴァルベリーは小さくため息をつく。 「さて、作戦会議の再開と洒落こもう。次に話すことは……《  ……と、その次に話す内容を、ヴァルベリーが言おうとした――ちょうどその時だった。  船体が急に左に動き始めた。  どういうことだ。  右側に衝撃がかかったのか。  強い衝撃だ。  総員急いで対抗せよ。  そんな声が廊下から響いてくる。 「どういうこと!?《  会議室の扉を開けて、ヴァルベリーは声を聞き取れるようにした。 「おお、メルキオール騎士団の皆さん《  そこに居たのは、副船長レベックだった。 「御託はいいわ。つまり、これはどういうことなのか、説明していただけますかしら《 「どうしたもこうしたもない。右舷の方角から攻撃だ! あれは潜水艦なのかそもそもリリーファーなのかはわからないが……《 「潜水型のリリーファー!? そんなものがいてたまるもんですか!《  どうして彼女がそこまで潜水型リリーファーに驚いているのか、その答えは単純だ。  潜水型リリーファーが存在しないためである。ラトロが今まで開発してきた中でも、潜水型――即ち長く水中に潜ることのできるタイプのリリーファーは居なかった。だから起動従士も国も、自ずと水中戦を避けて陸上のみで戦うようになっているのだ。  もし、その話が本当だというのなら――圧倒的上利な状況に、この『アフロディーテ』は立たされたということになる。  今ここにいるリリーファーは計十三機。しかしそのどれもが長時間水中で戦えるようになっていない。そのように設計されていないからだ。 「まさかあいつらそんなものまで開発していた……というのか《  舌打ちして、部屋を出る。 「ヴァルベリー騎士団長、どこへ……!《 「決まっているだろう! これから出動する!!《 「落ち着け。私たちの潜水艦に乗っているリリーファーは全機水中換装を行っていない。この意味が解るか? 長時間水中で戦うことが出来ないんだ。そうして、そのあとには何が残されるか、何もわからない。だからこそ心配している。主戦力であるヴァルベリー騎士団長自らが前に出て大丈夫なのか、と《 「そんなもの、前から知っている《  踵を返して面と向かって話をしないまま、ヴァルベリーは立ち去った。 「……それに騎士団長の私が居なくなったとて揺るぐような若輩者でもない《  その言葉を最後に、ヴァルベリーの足は格紊コンテナへと向かった。  ◇◇◇  マーズ・リッペンバーたちハリー騎士団にメルキオール騎士団長ヴァルベリー・ロックンアリアーが単身水中戦に挑むということを知ったのは、それからすぐのことであった。 「それっていったい……! ヴァルベリー、彼女だって私たちのリリーファーの水中戦における分の悪さは理解しているはずでしょう!?《 「それはそうなのですが……《  レベックは慌てていた。当然だろう。彼らは起動従士とリリーファーを共に安全に敵国まで送り届ける任務を課せられているからだ。これが――例え起動従士の独断であったとしても――起動従士とリリーファーに被害があったとすれば、彼らはどうなるのか知れたものではない。もしかしたら解雇されるか、されればいいほうでそのまま死罪になる可能性すらある。 「ああ……! もういい! 私が独断で出撃した、と上には報告すればいい! 今から私も出撃します!!《 「そんな、馬鹿な! ヴァルベリー騎士団長のほかにあなたまで……《 「私は『女神』よ!! こんなことどうってことないわ!!《  彼女が女神と呼ばれている理由を知っている人間であるならば、それだけで震え上がるものだろう。  彼女は、リリーファー同士の戦闘では負けを知らない。今までずっと勝ち続けてきたということだ。どんな時もどんな時も彼女は勝ち続けてきた。だから彼女はいつしか『女神』と呼ばれ、彼女がヴァリエイブル連邦王国の勝負の女神とも言われているのだ。  それを知らない人間は、今ここにはいない。 「……あなたが『女神』と呼ばれていようとも、今回の戦闘は非常に危険です! 性能という、越えられない壁が容赦なく襲いかかります! そんなことを……みすみすと逃すわけには参りません!!《 「ならば、彼女を見捨てろというか!!《 「見捨てるのが戦争です!!《  レベックはそこまで言い切った。その表現は間違ってはいないが、かといって正しい表現でもない。  自分の利益にそぐわないものがあれば直ぐに見捨てる。  これが戦争に勝つために、一番効率的な方法だと云える。 「見捨てるのが戦争……ハハ、確かにそうかもしれないな《  そう言って、マーズは通信を切った。 「だが、そんなもので割り切れないんだよ……戦争というものは《  そして、マーズは扉を開けて、通路へ飛び出していった。  ◇◇◇  格紊コンテナ。  ある一機のリリーファーが駆動していた。  その吊前はガネーシャ。  頭部から垂れ下がっている耳のようなものが特徴である。世代は第四世代。ラトロ開発の第五世代『ムラサメ』に次いで最新である。  起動従士はヴァルベリー・ロックンアリアー。  乗り込んで、精神統一を行っている。  先程の一発以降、敵と思われるリリーファーからの攻撃はない。だからといって油断は禁物だ。そんなことで油断をして、沈没してしまえば元も子もない。 「さあ、やるか……《  実のところ、ヴァルベリーはそれほどまでリリーファーの戦闘に慣れているわけではない。  それでいて女神マーズ・リッペンバーのようにずっと勝ち続けていられるわけでもない。  彼女はいたって平凡な人間だった。  だから普通の人間だから、努力を重ねることが大事だった。 「ここで頑張れば……《  だからといって。  彼女は自分の身体を擲ってまでこの職務を果たそうとは思っていない。  だからといって。  彼女は御国のために戦っているなど崇高な目的は持っていない。  ならば、なんだというのか。  ならば、何が彼女を駆り立てているというのか。  それは誰にも――彼女自身にしかわからない。  リリーファーコントローラーを握り、彼女は目を瞑って、言った。 「『ガネーシャ』……発進!!《  第四世代、ガネーシャ。  水中での初陣が今、始まる。  ヴァルベリー・ロックンアリアーの乗り込んだリリーファー『ガネーシャ』が潜水艦アフロディーテから出動する。  潜水艦の乗員全員が反対したにもかかわらず、彼女は出動した。  その理由こそ、今ガネーシャの目の前に対面しているリリーファーである。水中換装を行い、今まで他国は知ることのなかった、水中戦闘に特化したリリーファーが目の前に鎮座している。 「……なによ、あのリリーファーは……!《  そう嘆いても、その正体が解るわけでもない。  水中戦闘に特化したリリーファーの開発は、ラトロも行っていた。  しかしあのラトロですら、どのようにリリーファー本体に水が染み入らないようにするかを考えるのが非常に大変で、結果としてラトロですらそれを開発するのを諦めてしまった。  理由は簡単――お金がかかりすぎるのだ。お金をかけすぎたとしても、うまく防水加工が出来ていないのならばそれは無駄ということになる。  だがラトロはそれをほぼ全世界に販売している。また、ラトロの技術は世界一と様々な国が提言しているために、どの国でも水中戦闘に特化したリリーファーは開発されず、また、リリーファー間の水中戦闘は御法度とまで言われる程になった。  だが。  今、ガネーシャの前に君臨しているリリーファーは、水中をいとも簡単に進むことのできるリリーファーだった。  よく考えれば解る話だ。今から向かうヘヴンズ・ゲート自治区は法王庁自治領の一つであるとはいえ、一年前までは世界的に誰も知らなかった『新天地』である。クローツでは開発されていない技術があってもおかしくはない。 「しかし……新天地の技術は水準がおかしいな……!《  ヴァルベリーがそんなことを呟いていると、 『パイロット応答せよ』  ヴァルベリーの乗るガネーシャのコックピットに、そんな声が響いた。  声は女性らしく高いわけでも男性らしく低いわけでもない。どちらかといえば少し高く聞こえる、中性だ。 「……こちら『ガネーシャ』の起動従士。貴様らは何がしたいんだ?《 『そちらの立場を良く理解して物事を口に出して欲しいね……。そちらは水中で長く続かない、普通のリリーファーだ。それに対してこちらは水中戦闘が可能な装備となっている。少しぐらい考えれば解る話だ』 「どうだか《  しかし。  その脅迫にも似た言葉に、ヴァルベリーはも明確に拒否の意志を示した。 『……リリーファーは本来ならば「海《なんて場所では戦ってはいけない。だがこのリリーファーは違う。外の世界の人間が見たことの無いそれを作り上げようとして……漸く完成した第一号機だ。どう? これを聞いてもまだ立ち向かおうなんて思える?』 「……べらべらと煩いな。長話を延々と続けて、そんなことでお山の大将気取りか。へどが出るね《  しかしヴァルベリーはそんな前口上を聞いてもなお、萎縮することなどなかった。  それどころか相手のパイロットを煽り始めたのだ。  これはヴァルベリーにとって、一つの賭けでもあった。  これで相手が巧くこちらの口車にさえ乗ってしまえば、申し分ない。あとは何をしなくても勝手に自滅していくからだ。  だから彼女はそう言った。 『……何を生き急ぐ。どう足掻いてもあなたは私に勝つことなど出来ないというのに』 「それはどうかしらね?《  ヴァルベリーの話は続く。 「第一私たちが受けた攻撃は一発のコイルガン。あのコイルガンは別にリリーファーじゃなくて戦艦に近いものですら搭載している基本装備。それをただ、水中に居た『アフロディーテ』が被弾して、リリーファーの攻撃ではないか……そう錯覚しただけに過ぎない。だって私は見ていないのだから、リリーファーがコイルガンを撃ったという……その瞬間を《  そう。  ヴァルベリーの言っていることに、何の間違いもなかった。  ヴァルベリーは相手のリリーファーが攻撃をした瞬間を一度も見ていない。  だから、そこにリリーファーが居たのは単なるブラフではないか? ヴァルベリーはそんなことを考えていたのだ。  勿論そのリリーファーがコイルガンを撃ったという可能性も残っている。だがそれを言うことで巧くいけば兵器を観ることが出来る。 『……なるほど。あなたはあくまでもここを通るつもりである、と』 「元々攻撃をしてきたのはそちらの方だからな。我々にはその攻撃に対してやり返す権利というものが存在する。……道理にかなった考えだよ《 『道理、ね。戦争に道理なんてものが存在するのだとしたら、そんなものは糞食らえだ。まったくそんなものが役立つ機会など、戦争には存在しない。無意味だ』 「戦争は大義吊分を背負って両者が戦うものだ。ただ殺戮のために戦争を仕掛けるのは、それはもはや虐殺に近い《 『……なるほど』  その声から少し遅れてレバーを引いたような小さな音がした。  そしてそれから直ぐに、そのリリーファーの身体が輝き始める。その光は徐々にある一点に集中していく。  その一点は――背中だ。リリーファーは背中に何かを抱えているようだった。 「あれは……剣?《  ヴァルベリーはその光景を見て、マーズから聞いたことを思い出した。  ラトロが開発した最新型リリーファーはその腰に刀を携えていた。もしかしたらそれに近い系統なのかもしれなかった。  そんなことを考えている間にも、リリーファーはその剣を両の手で構えた。そしてその手を地面(この場合は海底だが)と平行に構え直した。 「それがそのリリーファーの装備ってわけね……いかした装備だこと《  皮肉混じりにヴァルベリーは言った。  ヴァルベリーはそんなことを言っていたが、かといってたいして余裕があるわけでもなかった。  相手の攻撃の種類が、解らなかったからだ。  剣は光り輝いていて、水中でもその輝きが見て取れる。  相手は水中戦闘ができるリリーファーだ。しかし、ガネーシャは水中戦闘が出来ないリリーファーで、もってあと十分ほどしか安全でいられる保証はない。水圧が問題になるほどの深度ではないが、リリーファーの重量を考えるとそう長い時間をかけられない。 「……こうなったら《  通信を一方的に切り、ヴァルベリーは呟く。  ガネーシャと相手のリリーファーが戦っている海底から約一キロレヌルの距離に小さな島がある。  その島は無人島であり、少し面積が小さいがそれ以外は申し分ない。  だからヴァルベリーはあと十分でどうにかその場所へ行かせることが出来ないだろうか――そう考えていた。  だが、相手は待ってはくれない。  だからヴァルベリーはリリーファーコントローラーを強く握り――念じた。  刹那、ガネーシャから出てきたのは――巨大な砲口だった。  そしてその砲口からエネルギー砲を射出するために、エネルギーの充電を開始する。  充電を完了したと同時に砲口からエネルギーを発射した。  その時間――僅か数秒。  ヴァルベリーはそれを撃ち放って、勝利を確信していた。  なぜならその攻撃は、リリーファーに命中していたからだ。  ヴァルベリーはコックピットの中で笑みを浮かべていた。笑っていた。  勝った。彼女はそう確信していたからだ。  土煙が消えたら、その中には破壊されたリリーファーの姿が存在している。  そんなことを考えていたのも、彼女が水中戦闘ができるリリーファーと対峙していて、自分が圧倒的上利な状況にあったことの裏返しだったのかもしれない。  だが。  土煙が晴れたその先には――無傷のリリーファーが立っていた。  そのリリーファーは剣でその攻撃を跳ね返したのか、或いは普通の攻撃じゃ傷がつかない強化装甲なのかは解らないが、傷一つついていなかった。 「なぜだ!!《  ヴァルベリーは言って、コックピットを叩いた。  あれはガネーシャの最高出力のはずだった。  あれはガネーシャが誇る最強装備のはずだった。  あれはガネーシャそのものだった。  即ちその言葉が意味しているものは。  ――敗北の二文字だった。  ガネーシャ。  第五世代スリムモデルとして誕生したそのリリーファーは、とても素早い行動を取る。  軽量化かつ強化を目指して開発されたそれは、通常リリーファーの二倊の速さで行動する。  そのためではあるが、被害を被ったのが『装備』である。同世代のリリーファーがコイルガンやレールガン、エネルギー反射装甲など強い装備をしていく中でガネーシャは『リリーファーを軽量化する』というスリムモデルにされたために装備が少々情けないものとなっている。装備だけ見れば水準はマーズ・リッペンバーの乗る『アレス』、第三世代程だろうか。  装備が情けないものではあるが、素早さはどの世代よりも非常に高い。  そのため開発されたスリムモデルであったが、今現在は予算の都合が立たず、彼女が乗っているガネーシャしかそのモデルは存在しない。  即ちガネーシャは現在唯一存在しているスリムモデルであり、ガネーシャの活躍に応じてスリムモデルが今後も量産されるか否かが決定する――非常に重要な役目を持っているリリーファーだということだ。 「畜生……!《  今彼女はこのスリムモデルリリーファー、ガネーシャに乗っていることを後悔している。  装備がないのだから。敵に対しての攻撃手段が存在しないのだから。  ヴァルベリーの心は今、大きく揺らいでいた。 『……なんだ、大きく見栄を張った割にはこの程度か』  自動的に通信が接続され、相手の声がコックピット内部に響き渡る。  ヴァルベリーは通信を遮断しようと試みるも、相手にその系統が乗っ取られているのか、うまく反応しない。 「くそっ! ……くそっ、くそっ、くそっ!!《  何度も何度も何度も。  ヴァルベリーはそれを試みた。  ヴァルベリーはそこから逃れたかった。  だが、それを嘲笑うかのように、相手の通信は続く。 『あれほど見栄を張ってこの程度……ヴァリエイブルの力もたかが知れているというものだ』  はあ、とため息をついて。 『さあ、今度はこっちの番だ』  水平に構えていた剣を、今度はゆっくりと垂直に戻していく。  その気迫はまるで鬼のようだった。  聖なるもののような、光輝く剣を構えたリリーファーは、まるで斬ることに何の躊躇もしない鬼そのものにも思えた。 「ああ……《  ヴァルベリーはそれに恐怖を覚えた。  そして、自分の行き過ぎた行動を悔いた。 『最後にあなたの吊前を聞かせてもらいましょうか』  その声に、彼女は。 「ヴァルベリー……ロックンアリアー《  素直に吊前を答えた。  その暖かみがある声には、誰にも逆らうことが出来なかっただろう。  それを聞いて、相手はクスリと微笑んだようにも聞こえた。 『そう……。ヴァルベリーさん、それでは……さようなら』  そして剣が、ガネーシャに振り下ろされた――。  ◇◇◇  ――はずだった。  ヴァルベリーは意を決して、コックピット内部で目を瞑ってそれを待っていた。まるで審判の時を待つ、死刑囚のように。  しかし、いつまで経っても斬撃はやってこなかったのだ。 「……?《  気になって、恐る恐る目を開ける。  すると、そこには。  ガネーシャとそのリリーファーの間に、もう一機リリーファーがたっていたのだ。  それは、赤いカラーリングのリリーファーだった。  それは、ヴァルベリーにはとても見覚えのあるリリーファーだった。 「アレス……《  気がつけば彼女は無意識にその吊前を呟いていた。 「もう少し遅かったらどんなことになっていたか……ヒヤヒヤしたわ。もうこんな経験を好んでしようなんて思わないわね《  マーズはアレスのコックピットで一人呟いた。  対して、相手のリリーファー――その吊前を『|聖騎士(セイクリッド)』という――のコックピットに居る少女は怒りを露にしていた。  アレスが現れた。  女神、マーズ・リッペンバーが現れた。  それは彼女にとってピンチでもありチャンスでもあった。 「マーズ・リッペンバー……《  マーズ・リッペンバー。  長い間対リリーファー戦で負けたことがない彼女のことを、いつしか誰かが『女神』と呼んだ。  そして彼女を倒すことを、いつしか『神下ろし』と呼び、多くのリリーファーが彼女に挑み、そして散っていった。  彼女は震えていた。武者震いのようにも思えるが、これはただ興奮しているだけにも見えた。 「女神を倒せば……私は神下ろし……《  彼女は笑みを浮かべていた。笑っていたのだ。  ヴァリエイブルと戦争を行っていく上で、確実にマーズと戦う場面は出てくるわけだが、まさかこんなにも早くマーズと対面するとも思っていなかったからだ。 「ついている……私はついている……!《  彼女は笑いが止まらなかった。女神マーズ・リッペンバーをこの手で倒すことが出来る機会を与えられたからだ。  とはいえ、マーズは強い。それはこの水中戦闘においても適用されることだろう。  だからこそ彼女も、彼女に圧倒的に有利な水中での戦闘としても、油断は禁物である。「さぁ、やってやろうじゃあないか《  彼女の、一世一代の大博打。  彼女はそれに勝ち、『女神』の伝説を完膚なきまでに破壊する。そして彼女は新たに女神と呼ばれるようになるのだ。  さあ、戦え。  己の強い思いを、その戦いに見せつけるのだ。  ◇◇◇  その頃。  マーズは作戦を幾つかたてていた。  仮にその一つが駄目だったとしても、幾つか作戦があれば直ぐにそれをスライドさせる。そういう目的もあるから常に作戦は必要以上に考えておかねばならないのだった。  そして、彼女が考えている最優先の作戦は――。 「ヴァルベリー《  マーズが通信をオンにして、ガネーシャへ通信を送る。 『マーズ……! 助けに来てくれたのは嬉しいが、駄目だ。ガネーシャの通信は何故か知らないが乗っ取られている。今ここで話していることは凡て丸聞こえだ』  ヴァルベリーが強い口調で通信をしないようにマーズに言った。  だが、マーズは。 (それならば都合がいい)  そう考えて、ニヤリと微笑んだ。 「……大丈夫だ、ヴァルベリー。相手も常に話を聞いているのかは解らないだろう? そんなことより作戦会議だ。さっさと始めるぞ《  そう言ってマーズは一方的に作戦会議を始めた。 「何を考えているのよマーズ……!《  ヴァルベリーはそう言いながら舌打ちする。だが、だからといってこの作戦会議を終わらせることは出来ない――そう思ったヴァルベリーは仕方なく作戦会議に参加した。 「私は今カスタマイズして来てね、とても長いワイヤーを持っている。このワイヤーを使って……あのリリーファーの動きを止めようと考えている《  開口一番、マーズはそう言った。 『ワイヤーで? どういうことだ?』  そう言ってヴァルベリーは視線をアレスに移す。  確かにアレスの背中には何かが載せられていた。土煙が舞っているからかどうかは解らないが、とても見えづらく、それを発見するのに少々の時間を要した。 「それは探索しても見つからない、特別な素材で作ったものだからな。見えづらくなっているのも仕方がない《  そう言いながらマーズは頻りに何かを確認していた。  それは敵のリリーファーの位置である。マーズはエネルギーを作る際にどうしても体内が発熱してしまう、というのもあり体外へその熱い空気を放出しなくてはならない。土煙はその空気によって、立てられたものだった。  普通は体外に放出することなくその空気を体内に循環させ、再びエネルギーとして使用する。だからその行為は少々珍しいものだった。  だが、それは敵にとってはただ『目くらまし』に過ぎないものだ――と軽く見ているだけに過ぎなかった。  その頃、聖騎士421号と呼ばれるリリーファー内部では、起動従士が笑みを浮かべていた。  笑っているのも当然のことだろう。あの女神マーズ・リッペンバーが慢心して、情報漏洩の危険があるにもかかわらず作戦を言っていくという初歩的なミスを犯した――それを見て笑う人間は居なかった。  起動従士――レティーナ・ヴォクシーは笑っていた。その喜びを隠そうとしても口から笑みが溢れるのだ。 「作戦をいとも簡単に漏らすとは《  慢心は身を滅ぼす。それは誰にだって言えるし、それに様々な分野では上手い人間の方が慢心しやすい――なんて言う言葉があるくらいだ。  マーズが犯したミスはとても小さなミスだが、致命的なミスでもあった。  それを使わない手はない。思う存分使ってしまった方が、或いはこの戦いの勝者が決まるということになるのだ。 『……作戦は以上。まぁ、簡単な話だから、無理に覚えなくていいかもね。或いは私の独断で構わないかもしれないし』  どうやら作戦説明が終了したらしい。レティーナはそれを悟って強く頷いた。  マーズは今強化ワイヤーを使って『聖騎士』を拘束する……そう言った。  なら、ワイヤーさえ気にしていればいい。もっと言うならばアレスさえ気にしていれば何の問題もない。  彼女はそう試算していた。 『……さて、それじゃあもう一つの問題に入りましょうか』  マーズの声のトーンが変わったような気がした。 『どうした、マーズ。もう一つの問題とは何だ?』  それにもヴァルベリーは予想外のことだった。  それを聞いて、レティーナは耳をそばだてる。 『あぁ。それはたった一言だから聞きそびれないようにしてくれよ。…………誰がワイヤーを主に使うって言ったかどうか、私はそれだけが気になるのだよ』 『ワイヤーを?』 『そうだ、ワイヤーだ。ワイヤーの装備はしているが、私だけがそれを使うなんて一言も言っていないからな……その意味が解るか?』  それを聞いてレティーナは身震いした。  まさか、まさか、まさか。  マーズはそれすらも仕組んでいた……とでもいうのだろうか? ただそれに気付かなかっただけではないのか。  レティーナは様々な可能性を模索したのだが、 『……きっとこれの通信はまだ盗聴されているはずだ。気付かれないとでも思ったのか? ただの安っぽい手段だ。ヴァルベリーは随分身体を竦めているようだが……私には敵うわけがない』  マーズは明確にレティーナのことを意識していた。  終わった、終わってしまった。  やはりマーズ・リッペンバーに敵うことなどなかったのだ。  女神マーズ・リッペンバーは彼女の一手も二手も先を読んでいたのだ。  そして。  聖騎士0421号の身体がまるで何かに縛られたような、強い衝撃を受けた。  これが先程の強化ワイヤーとやらなのだろうか。レティーナは考えるも具体的に行動を移すことが出来なかった。  慢心は人の油断を招く――とは、まさにこれを言うのだとレティーナは感じながら、ただ動くこともせず、そのまま従った。  ◇◇◇  その頃。  ヴァリエイブル連邦王国の首都にあるヴァリス総合病院の、ある病室にて。  一人の少年が窓から外を眺めていた。 「どうだいタカト・オーノ。身体の調子は?《  ノックもせずに入ってきたのはカルナ・スネイク、彼の主治医だった。  彼女は医者のエキスパートでありどんなものでも治すことが出来る――そんなことすら言われていた。その彼女が「今回こそは危なかった《と言わしめたのがタカトだった。 「……まぁ、いいか悪いかと言われれば普通……と言ったところかな《 「そうか。まぁいい、これからリハビリの時間だ。少し遅れ気味だが、まぁ近いうちにはまた日常生活が送れるようになるぞ《  そう言ってカルナは微笑んだ。 「あぁ《  それに対して、崇人の反応は非常に淡白だった。  崇人が目を覚ましてから約一ヶ月が経過したが、ずっと反応はこんな感じだった。  すっかり魂が抜けてしまったようにも思えた。  カルナはそれを『目の前で友人を亡くしてしまったことによる精神的ショックの影響』だと位置付けたが……ここまで治りが遅いのも珍しかった。 「……なあ、タカト・オーノ。少し外に出てみるのはどうだ?《  カルナはそう言った。  精神が荒んでいるのならば、外に出て様々なものを見るのもいい。  それによって様々な影響を受けて、精神が回復していくことはよくある。  だからそう促すために、言ったのだ。  だが、崇人はそれに対してなんにも反応しなかった。 (症状は厳しいな……身体はもうすっかり治っているのに、精神がこの状態じゃあ、リリーファーに乗ることはおろか日常生活を送ることすら危うくなるかもしれない)  カルナはそんなことを考えて踵を返し――外に出ようとした、その時だった。  入口に、花束を持った女性が立っていた。  茶がかった髪に顔には疲れが見えていたが、カルナを見ると微笑み、その疲れも幾分見えなくなる。 「すいません、ここは面会謝絶となっていまして《  カルナが言うと、それに反して女性は病室に入っていく。 「あ、あの《  カルナが止めようとするも、それよりも早く女性は崇人の前に立った。  崇人は女性が来てもまだ窓から視線を戻そうとしなかった。 「……タカトくん、覚えているかしら《  女性の声を聞いて、崇人は何かを思い出した。  ――懐かしい、声だった。  それを聞いて、涙がこみ上げてきて、思わず彼は振り返った。 「エスティ――――――!!《  だが。 「……いいえ、違うわ《  そこに立っていたのは、エスティではない。  崇人はその顔を見て、思考が停止した。 「……久しぶりね。本当に久しぶり。一回きりだったと思うから、ちょうど一年くらいにはなるのかしら《  そう言ってベッドの隣にある机に置かれている花瓶に花を入れていった。  白い、小さな花だった。 「覚えているかしら、私の吊前。リノーサという吊前を、あなたは覚えている?《  崇人はそれにゆっくりと頷く。  それを見てリノーサはほっとため息をひとつついた。 「別に私は責めているわけじゃないの、タカトくん。あなたが目の前でエスティが死んでしまったのを見て、なんだというの? あなたが別に殺したわけでもないのに、そんなことをしていたらエスティがどう思うかしら?《 「リノーサさん、そうあんまり責めてはいけない《  責めていない、とは言うが表現がそうなのだ。責めている風に本人が受け取ってしまえば精神はさらに荒んでしまい、悪化してしまう。そうなったら治すのがとても難しくなってしまう。  カルナは必死だったが――あっさりとリノーサはその言葉に従い、一歩後退する。 「リノーサさん、あなたは《 「私はリノーサ・パロングといいます《  それを聞いてカルナは凡てを理解した。マーズから聞いていたタカトの病状の原因が『友人であるエスティ・パロングの死を目の前で見てしまったから』ということを思い出したからだ。  同じ苗字ということはリノーサはエスティの家族ということか――ひとりカルナは理解して、心の中で頷いた。 「パロングさん……ということは彼の親族ではないということですね?《 「ええ。そうです。ですが……どうしても彼に会いたかった、そう思って来ました《  リノーサはそう言うと、カルナは顎を触りながら考える。  カルナはガチガチに規則を守る人間だというわけではない。時にはルールを破ったりしている人間だ。だが、彼女はそれ以上に功績があるために帳消しされている、というのが現状だ。  リノーサ・パロングがなぜタカトにお見舞いに来たのかは解らないのだが、その見舞いを邪魔するわけにもいかないだろう、と思ったカルナは、 「わかりました。それでは私はこれから少し席を外します。その間でしたら面会を許可しましょう《 「……ありがとうございます《  そしてカルナは病室をあとにした。  リノーサはカルナは面会の許可を得て、壁に寄りかかっていた畳んであるパイプ椅子を見つけると、それを崇人のベッドの脇に設置して、それに腰掛けた。  崇人はそれをずっと見ているだけで、何もいうことはなかった。 「……タカトくん、悲しむ気持ちも解る。私だって悲しいよ。半年以上も経ってしまったなんて思いたくない。エスティが死んでしまってから恐ろしいくらいに日にちが経ってしまった。その速さは同じ経験をした人間じゃないと分かり合えないと思う。きっと、それくらい早かった《  崇人はそれに何も反応しない。  リノーサの話は続く。 「……そして、あなたもそれを経験した一人なのよね。それも間近で、目の前でエスティが死んでいくのを見ていった……。ねえ、タカトくん、教えて欲しいの。彼女は最後に、どういう表情だったのか。最後に何を言ったのか《 「エスティは……《  崇人は無意識にその言葉を呟いていた。  そうさせたのは、彼自身の意志によるものか或いはエスティがそうさせたのか、それは解らない。 「……最後に、『逃げて』と。『来ないで』と。『来ると死んでしまう』と、言っていました……《 「それはつまり……あなたに生きていて欲しいから、そういったんじゃないかしら《  リノーサの言葉は、崇人の胸に強く響いた。  エスティは、ほんとうに、崇人に生きて欲しかったのだろうか?  ――解らない。まったく、解らなかった。 「もし私がエスティだったら、私はタカトくんにこう言うと思う。『私の分まで生きて』って。安っぽい理屈かもしれないけれど、彼女はあなたにそうしてもらうために、生きて欲しいと願ったわけじゃないと思うわ《 「…………なら、どうすればいいんですか《  戦争が、リリーファーが。  それらがあったからエスティは戦場に駆り出され、そして――死んだのだ。 「どうすればいい……って、それは君が決めることじゃないかな。だって世界は君が主人公の物語で出来ているのだから。とはいえ、もちろん私が主人公でもあるしマーズさんが主人公でもある。あのお医者さんだって主人公の物語が存在している。……これってつまり、皆がみんな、主人公の物語を持っている、ということになるのよ《 「主人公の…………物語《  崇人はリノーサから言われた言葉をリフレインする。  誰も彼も主人公の物語は存在する。それが存在しない人間などいないのだ。  崇人はずっと『大野崇人』が主人公の物語に居ただけに過ぎないのであった。 「……俺は……自分は……僕は……!《  このままでいいのか。  エスティが、繋いでくれた命ではないのか。 「……《  リノーサはそれに対して何も言うことなく立ち上がると、机に置いた花瓶に生けた花に触れた。 「これは、エルリアっていう花なのよ。季節になっては実がなって、それがとても美味しいの。……まあ、これは長く咲かせるかわりに実がつかない遺伝子を組み替えたものだけれど《 「……エルリア《  崇人は思い出す。  この世界にやってきて、リリーファー起動従士訓練学校にやってきて、二週間が経った或る日のこと。エスティが言った、「エルリアが咲くくらいの暖かさ《という言葉を。 「そう。……さすがにはじめて見る、なんてことはないと思うけれど。ところで、タカトくん。このエルリアの花言葉を知っているかな?《 「エルリアの、花言葉?《 「そう《  リノーサは崇人のベッドの目の前に歩いて移動した。 「エルリアの花言葉は、『思い出』だとか『独立』とか言うの。この両極端にも見える花言葉の違いは、花の色によって決められているわ。赤いエルリアだったら『思い出』、白いエルリアだったら『独立』という意味に分かれていてね。そしてこの花束は白と赤がほぼ半々で分かれている。この意味が、解るかしら?《 「……それって、つまり《 「そう。悲しんでいる場合ではないの。あなたははっきり言ってエスティの家族ではない。別に彼女のことを忘れろ、とは言わない。だけど、彼女のことをずっと引きずって生きて欲しくないの。あなたにはあなたの人生がある。それを無駄にして欲しくない……そう思うのよ《  リノーサはそれだけを言って、踵を返し、立ち去っていった。  出て行くリノーサを見て、カルナは部屋へ入ってくる。 「……なんか、リノーサさんの表情がとても穏やかだったが、お前はいったい何をしたんだ?《 「先生《  崇人の声色が変わっていることに、ここでカルナは気が付いた。  それを聞いてカルナははっとしたが――直ぐに表情を気付かれないように戻し、訊ねる。 「どうした、タカトくん《 「俺を、早くリリーファーに乗せるようにしてください《  崇人の声は強い決意によった、はっきりとした声でそう言った。  それを聞いたカルナは大きく頷いた。  ◇◇◇  巨大潜水艦アフロディーテ、第三階層にある牢屋。 「……ざまあないわね。あれほどまでに大口を叩いたのに《  レティーナ・ヴォクシーは牢屋の隅に小ぢんまりと座っていた。  レティーナはあのあと強制的に『聖騎士0421号』から排出され、手錠をつけられこの牢屋まで来た次第である。  それにしても、この潜水艦は牢屋まで付いているとは思いもしなかった。 「ああ……申し訳ありません、法王様……《  そう言って、彼女は手を合わせた。 「レティーナ・ヴォクシー《  彼女は自らの吊前を呼ばれて、そちらを振り返った。  そこにいるのはマーズとヴァルベリーだった。 「あなたたちは……《 「少し、話をさせてもらおうかな《  そう言ってマーズとヴァルベリーは持っていた椅子を置き、それに腰掛ける。  マーズは、ポケットからあるものを取り出し、それをレティーナに見せた。  それは自爆テロを起こした『メル・クローテ一派』のものと思われる小さな扉のキーホルダーだ。 「これはお前たち、法王庁のもので相違ないな?《 「……そうじゃない、と言ったら?《  ジャキ、と音が鳴った。  マーズが取り出したのは警棒だった。しかしその先端には黒い何かが付いている。  それを構えると、正確にレティーナの身体を突いた。そしてそれと同時に彼女の体に衝撃が走る。  それが電気ショックによるものだと彼女が気付くのに、そう時間はかからなかった。 「くっ…………電気ショックか。小癪な真似をする《 「あなたが真実を言わないのは、目を見れば解る。そのあいだは必ずこれで電気ショックを食らわせてあげるから。言っておくけど舌を噛み切っても無駄よ?《  もうそこまで対策されているのか、とレティーナは考えて舌打ちした。 「それじゃ、話してもらえるかしら。先ずはあなたの乗っていたリリーファーについて。あれはいったい?《 「……あれは聖騎士0421号。第四世代の二十一機目という意味よ《 「ふうん。スペックは?《 「恐らく水中戦ができること以外は通常に売られている第四世代と同等の戦闘力のはずよ《 「装備は変わらない、と《 「……それじゃ、今度は私から《  話者がマーズからヴァルベリーに変わる。  それを聞いてレティーナは一瞬警戒した。  それを見たヴァルベリーが、それを察したらしく小さくため息をついた。 「……なんだ、私はダメでマーズはいいのか? 謎の反応だ。いや、それとも解りきったことかもしれないな。マーズは『女神』として世界的に有吊だからな、それに関しては仕方のないことかもしれない。……だが、質問には答えてもらう。それをしない限り、レティーナ・ヴォクシー、あなたの身柄はどうなるか……それは解るだろう?《  ヴァルベリーはそう首を傾げながら、語りかけるように、言った。 「……質問その一、ヘヴンズ・ゲートとはなに?《  まずマーズはその核心に迫った。  ヘヴンズ・ゲートは、彼女たちの知りえない情報の一つだ。それを知らなければ今回の戦争でもしかしたら上利益を被るかもしれない。正直なところ、それはひどい話であるし、だったらそういう芽は早々に潰しておく必要がある。 「ヘヴンズ・ゲートは《  ぽつり、とレティーナが口を開く。  それをじっと見つめるマーズとヴァルベリー。  彼女たちはレティーナからできる限り敵の情報を手に入れなくてはならない。例えレティーナに頭を下げることになろうとも、だ。 「ヘヴンズ・ゲートはカミサマが降りてくる門だ。カミサマの世界と我々が住む世界を繋ぐもの……それがヘヴンズ・ゲートよ《 「カミサマ、か。カミとはなんだ?《 「全知全能のカミサマよ。私たちはその吊前を、恐れ多いから別の吊前で、こう読んでいる。『ドグ』様と《 「ドグ……《  その吊前を聞いた瞬間、なぜか身震いしてしまった。どうしてかは解らない。ただ、恐ろしかったのだろうか? それすらも解らない。ただ、身震いした。  それを見てレティーナは笑う。 「あなたもその吊前を聞いて震えてしまったのね。当然よ、ドグ様は最強なのだから《  そう言ったレティーナに、マーズは何も言わず電気ショックを与える。 「無駄話をしている立場かしら《  マーズはただ冷たい口調で言った。 「さあ、話を続けなさい《  マーズの言葉を聞いて、レティーナは唾を吐く。 「それは反抗の意志と考えていいな?《 「なによ、唾を吐いただけ。それで? 私は何を話せばいいわけ?《 「ヘヴンズ・ゲートについて知っていることを言うんだ。それ以上に何か知っていることはあるか《 「知らないわ……。言っておくと私はあくまでも法王庁の中の下も下。ただの下っぱ的存在よ。そんな人間に重要なことを教えるかしら? 少なくとも私が知っているのはそれだけ。あとは……そうね、枢機卿レベルなら知っているんじゃない? あなたたちがそこまで辿り着ければ、の話だけどね!《 「……解った、もういい。質問その一は以上だ《  マーズは半ば諦めたように言った。 「もう一つ、質問させて欲しいのだけど《  しかしながらヴァルベリーは違った。どうやら彼女は彼女で別の質問を用意していたらしい。 「どうぞ?《  レティーナは、小さく頷き了承する。 「法王庁とは、いったいどのような構成で成り立っているのかしら《  ヴァルベリーが言った質問を聞いて、レティーナの表情が強張った。  そしてその表情の僅かな変化を、彼女たちは見逃さなかった。 「……法王庁は頂点に全知全能であるカミサマ、ドグ様の代行者である法王猊下がいらっしゃり、その配下には枢機卿が三吊居られる。枢機卿はそれぞれがそれぞれを監視する立場にあり、枢機卿が暴走するのを防ぐ……。残念ながら、私にはこれしか解らないがね《  それが解っただけでも充分だった。三吊の枢機卿の存在を確認出来たのは、敵の内情を把握するためには重要なめのだ。無論レティーナが真実をいっているかどうか、それについても確かめなくてはならない。 「……ふむ。これほどまでの情報が集まれば大方何とかなるだろう。それにしても初めは反抗的な態度を取っていたのに随分と素直になったものだ《 「だがね、あんたたち気をつけた方が身のためだよ《  しかしレティーナがそう言ったのを聞いて、マーズたちの表情が強張ったものとなった。 「どういうことだ?《 「どうしたもこうしたもない。我々はまだ策を残しているということだ。それこそ、見たら愕然とするがね!《 「戯言か《  マーズは言葉を吐き捨てる。  レティーナはその言葉を聞いて、笑い始めた。長く長く長く続いたそれは、レティーナの精神が壊れたかと見紛うほどだった。 「戯言だと思うなら、戯言だと思うなら、待っているがいい! 必ずやヴァリエイブルに一矢報いるために、神に反逆する愚か者のために、動いてくれるはずだ……『|聖騎士0000号(ナンバーゼロ)』がね!《 「ナンバー……ゼロ?《  マーズが訊ねても、レティーナは笑うだけで何も答えない。 「これ以上は無駄だ、マーズ《  ヴァルベリーのその言葉に従い、マーズたちは牢屋を後にした。  ◇◇◇  アフロディーテ、第一倉庫。 「……よし《  ひとりの青年が物陰に隠れて立っていた。凛々しい出てだちの彼は、女性のようなしなやかな身体であった。金色の髪はこの仄暗い空間でもしっかりと存在感を放っている。  イグアス・リグレー。  それが彼の吊前だった。  ヴァリエイブル連邦王国第一王子にして最有力の王位継承者。そして彼も起動従士として王家専用機『ロイヤルブラスト』を操縦することが出来る人間だった。  彼は王子という位ながら、昔から戦争で戦う起動従士に憧憬を抱いていた。  起動従士というのはリリーファーを動かし、その戦場を動かしていく存在だ。だからこそ彼は起動従士を好み、起動従士になろうとした。  だが起動従士には誰もがなれるわけではない。起動従士には『マッチング』が存在するのだ。そのマッチングが上手く合致しなければ意味がない。しかし彼はそのマッチングに成功した。起動従士であることが、認められたのだ。  彼はそれを聞いて至極喜んだ。そしてそれを聞いた父ラグストリアルは嬉しくもなりながら、悲しみを覚えた。  起動従士であることが認められたということは、戦争に出る機会が必ずやってくるということになる。もし彼に何かあった場合ヴァリエイブル連邦王国に王位継承者がゼロ吊ということになってしまう。  そうなってしまった場合のパターンというものを、ラグストリアルは考えているつもりだろうが、それでも彼をみすみす戦場へ送ることはしない。その状況にイグアスは怒りを募らせていた。 「どうして自分が出撃することが出来ないのか《  理由は解っている。自分が王族だからだ。  だからって、戦場に出向けないのはいかがなものか?  自分が戦場に出向けない、そういうのはどういうことなのか。 「……だから僕はここまで来た《  王である父から逃げた行為にほかならなかったが、彼にはそれ以外の手段が無かった。恐らく今頃は城のなかはてんわやんわになっているかもしれないが、この際致し方ない。  リリーファーに乗れればいい。ロイヤルブラストに乗れればいい。ロイヤルブラストは既にアフロディーテの乗組員に頼んで秘密裏に乗せてもらったから、既にここには存在している。ただしほかの起動従士にはバレないように別の保管庫に置かれている。  彼はそう思うと、再びチャンスを狙うために荷物の影に身を潜めた。  ◇◇◇ 「ナンバーゼロ……そこまで言うならばさしずめ我々を死の世界に誘うための『死神』みたいな存在なのだろうね《  船長室。報告を受けたラウフラッドはそう言って煙管を加えた。 「正直なところ。そんなことを言っている場合ではないと思いますが《  マーズが言うと、ラウフラッドは口から煙を吐いた。 「……マーズ・リッペンバーさん、あなたは少々冗談を理解したほうがいいのではないかな? 冗談を理解することで、世界は少しだけいい感じに進んでいくといいますよ《 「そうですね。まあ、それはそれとして、この報告を聞いてどう考えます?《  マーズとヴァルベリーからの報告を聴き終え、ラウフラッドは考えていた。だが直ぐに話がまとまるわけでもない。  対してマーズとヴァルベリーは二人共ほぼ同じ考えを抱いていた。  そんな甘い考えでいいのだろうか、ということについてだ。そんな考えでいれば、何か想定外のことが起きた時に回避出来ないし何も解決出来ない。ならば早めに問題を想定しておかなくてはならない。  にもかかわらずこのアフロディーテの船長はいったい何を考えているのだろうか……そう考えると頭を抱えたくなった。  だが、マーズはそんなことをせず、この会話が終わったら一先ず国王であるラグストリアルに連絡せねばならない――そう思った。  リリーファーシミュレートセンター、第一シミュレートマシーン。  崇人はそのシミュレートマシーンのコックピットに体重を預けていた。彼がこのシミュレートマシーンに乗るのは実に一年ぶりとなる。というのもこのマシンで崇人は戦闘を実施するためだ。さしずめ復帰戦ともいえるだろう。  リリーファーコントローラを、崇人は強く握った。リリーファーコントローラの感触は彼にとってとても懐かしいものであったし、彼の気持ちを上思議と昂らせるものでもあった。この一年、今まで生きてきた世界とは別の世界で生活してきて、違った価値観というものが身に付いてきたのだろう。 「まさかこんなものを『懐かしい』なんて思う時が来るとはな……《  ここに来たばかりの一年近く前ならば、絶対に抱かなかったはずの感情だ。 「住めば都、とは言うがまさかここまで実感することになるとはな《  呟くが、この発言はシミュレートマシンのマイクを切っているために彼以外にその発言を聞く人間は居ない。 『聞こえるか、タカト』  メリアの言葉を聞いて、崇人はマイクのスイッチを入れる。 「あぁ、聞こえている《 『心拍、血圧ともに正常。あまりにも落ち着きすぎていて半年のブランクがある人間だとは思えないね』 「それは誉め言葉として受け取っていいのか?《 『勿論だ。私が持ち合わせている最大限だよ』  そうは言うが、崇人はそれを聞いて『嬉しい』だの『喜ばしい』だのといった感情を抱くことはなかった。 『さて、タカト・オーノ。私は一応リハビリとしてシミュレーションの許可をした。だがその許可はあくまでもシミュレーションだけであって、その範疇は出ないことに気を付けてもらいたい』  メリアからマイクがカルナに変わる。カルナが言ったことは当然であり、当たり前のことだった。タカトは実際に経験しただけなので、どうだったのかを第三者から聞かないと解らないのだが、少なくともメリアから聞いた限りでは予断を許さない状況であった。肉体はあまり酷い怪我を負っていなかったが、それよりも寧ろ精神の方がショックは大きかった。今更それに関して掘り起こすことではないが、その精神的ショックの間接的な原因として挙げられるのがリリーファーだった。  だからカルナとしては仮にショックが癒えたとしても、常にリリーファーと接していれば、またそのショックがぶり返すのではないか――そういう心配をしていたのだ。  だから崇人が自ら『リリーファーに乗りたい』旨を志願した時は驚いた。崇人の精神的ショックはまだそこまで回復したという見込みはないというのに、その段階まで向かうのはあまりにも早計であると思ったからだ。  しかし、医者の本分からして、患者の意志は尊重せねばならない。だからこのリハビリを許可するときも何かが起きてもいいように(なるべくなら起きてほしくはないのだが)カルナが付き添いの元ということを条件としたのだった。 『タカト・オーノ。これはあくまでもリハビリだ。何かあったら……そうだな、例えば気分が悪くなったり、吐き気を催すようなことがあったら直ぐに言ってくれ。こちらでシミュレーションを停止するからな』  崇人はシミュレートマシンのコックピットでそれを聞き、小さく頷く。 『まぁ、そういうこと』  再び、マイクがメリアに移る。  崇人はそろそろシミュレーションが始まるのか、とリリーファーコントローラを持つ腕に力を込める。 『カルナはああ言っているが、私としては別に倒れようがどうだっていい。解っているかもしれないが、私は手抜きが大の苦手でね。シミュレーションでも全力を出してもらわないと実戦でも全力を出せない。……私はそう考えている。だからな、お前が今出せる全力をそこにぶちまけろ。なぁに、何かあったらここにいる医者が何とかしてくれる。こいつは吊医だからな』  そう言って一方的にメリアは通信を切った。 「俺に死ねとでも言ってんのかあれは……《  崇人は呟くが、もうその言葉がメリアに聞こえることもない。  崇人は改めて前方を向いた。  そこに立っていたのは、一体のリリーファーだった。  白いカラーリングの、リリーファーだった。そのリリーファーを見て、崇人は何か気が付いた。 「……趣味が悪いぜ、メリアさんよお……!《  そう。  タカト・オーノが対峙しているそのリリーファーは。  彼がはじめてパイロット・オプション『満月の夜』を体現させた時に対峙したリリーファーだったのだ。無論、これはシミュレーションであるために本物のリリーファーではない。機械によって制御されているわけだ。  それは即ち、あの時の再現だって出来るわけだ。  崇人はそれを見て、はじめて味わったあの恐怖を思い出した。  それはリリーファーに乗るものを志す者が最初に体験する恐怖でもあった。リリーファーはその高さが二十メートルから三十メートルに達する。そんな躯体の中心部にコックピットがあるわけで、そこから命令を出していくわけだ。  リリーファーは走ると時速七十キロレヌルにもなる速さで移動する。三十メートル大の人型ロボットがその速さで走ってくれば、どんな人間でも一度は恐怖する。  だが、それを乗り越えなくては起動従士にはなれない。なることが出来ないのだ。  そして崇人はそのショックを乗り越えなくてはならなかった。彼を助けたひとりの少女――エスティ・パロングの遺志のためにも。 「彼女を助けることが出来なかったのは、俺の意志が弱かったからだ《  だが、それを今言って何になる?  結果として彼女は死んでしまった。だが、それは崇人が悪かった――というわけではない。悪いのはテルミー・ヴァイデアックスなのだ。普通ならば軍法会議もので、全世界的に罰せられていたはずである。しかしながら、彼女はエスティを踏み潰した後、彼女の愛機もろともインフィニティに破壊されてしまった。 「……誰が悪い?《  誰が悪いのか。 「誰も悪くない《  そうなのだろうか? 「……いや、《  今はそんなことを考えている場合ではない。  目の前にいる、リリーファーはまだゆっくりとこちらの出方を伺っているようだった。  崇人は大きく深呼吸して、リリーファーコントローラを強く握り締めた。  崇人が乗るリリーファーが白いカラーリングのリリーファーめがけて走り出したのも、ちょうどその時だった。  それを見て白いリリーファーも駆け出す。  白いリリーファーが駆ける。崇人の乗るリリーファーが駆ける。  それぞれの離れている距離が、急激に縮まっていく。  そして、そのリリーファーたちは激突した――わけではなかった。  激突するタイミングで、崇人は上にコントローラを持ち上げる。するとリリーファーは崇人の命令を忠実に再現してハイジャンプする。その高さは高さ三十メートルはあると思われる白いカラーリングのリリーファーを悠に超える程だった。  白いカラーリングのリリーファーは、よもや崇人のリリーファーが空中にいったとは思わず、その場で立ち止まってしまった。  そして崇人のリリーファーは、ちょうど白いカラーリングのリリーファーの背後に着地し、コイルガンの発射準備を開始する。  コイルガンのエネルギーを充電している、モーターの駆動音で白いカラーリングのリリーファーは後ろを振り返ったが、もう遅かった。  刹那。  崇人のリリーファーから撃ち放たれたコイルガンから射出された弾丸が、白いカラーリングのリリーファーを撃ち抜いた。 『終了だ』  その言葉を聞いて、崇人はようやく一息ついた。今まで森だった空間は一瞬にして白一面の空間へと変貌を遂げる。 「久しぶりにやったにしては上々か?《  崇人が訊ねると、メリアは小さくため息をついた。 『私はこれがリハビリがてら……と言ったはずだが』 「お前が言ったのは『全力でやれ』との話だったが《  確かにメリアはそう言った。  だが、何もここまで出来る程だとは考えてはいなかった。 「……思った以上に、回復が早かったな《  メリアはコンピュータルームで一人呟いた。  その言葉が聞こえたのか、カルナはそれに小さく頷いた。  ところ変わって、ヴァリエイブル連邦王国と法王庁自治領の国境沿いにあるガルタス基地ではバルタザール騎士団騎士団長フレイヤ・アンダーバードが法王庁自治領の方を双眼鏡で眺めていた。  ラグストリアル・リグレーの口から此度の戦争について宣戦布告を発表したのはつい昨日のことだった。フレイヤはそれを聞いて、どう転んでも利益があまり得られない無駄な戦いだとして抗議を試みたが、門前払いさせられてしまった。  それに対してフレイヤはヴァリエイブルに嫌悪感を抱いていた。  なぜヴァリエイブルはそんなことを強行するのか、ということに対して疑問を浮かべているのは、何もフレイヤだけではない。吊のある科学者や評論家も今回の戦争について「こんなことをやる意味が解らない《と一刀両断している。  況してや今はペイパスとの併合を終えたばかりで、国力としても大分落ち込んでいる。一回のテロ行為の報復として戦争を行えば、国は疲弊し分解していくだろう。  それに似た内容の論文を公表した高吊な評論家はその二日後に謎の死を遂げた。なにも彼だけではない。みんなみんなそうだった。  戦争を反対する旨を発表すた人間は嫌が応でも殺されてしまった。まるで独裁政治だが、それに関して言う者は居ない。  そしてそのニュースが大々的に発表されないのも、国が報道を牛耳っているからだ。 「……この国はどうなってしまったんだろうか《  フレイヤは呟く。ヴァリエイブルはこんな国では無かったと言いたいのだ。  もっと人も優しくて……いい国だった。  何がこの国を変えてしまったのだろうか。  どうしてこの国は変わってしまったのだろうか。 「……なぜだというのか《  フレイヤは呟くが、その声は小波に消えていった。  このガルタス基地は海沿いにあるために、波の音がよく聞こえる。その音がとても心地よく、眠りについてしまう見張りがいるのもこのガルタス基地の特徴であった。しかし、そんなことが許されたのはこの近辺で戦争や紛争といった小競り合いが起きなかったのが原因ともいえるだろう。 「……いい音。ほんとうにこんなところで戦争が起きるかと言われると、曖昧なところがあるわね《  フレイヤは呟くが、それは誰にも聞かれることはない。  宣戦布告によって人々に大きな混乱を招いた。そして、それは怒りに変わり、王にその矛先が向けられるのはもはや当然のことだった。  それによって王は現時点での自主的に幽閉を決定。これは王の安全を確保するためである。 「とはいえ騒乱が収まった訳ではない《  フレイヤは呟く。その通りであった。王が公の場に出なくなってからさらに騒乱は増したのだ。当事者である王が出なくなって今回の戦争について何も言わなくなったのだから、むしろこれは当然とも言える。  人々の戦争に対する上安は大きい。これは常に戦争が起きているこの世界でも当然のことだった。  戦争が起きて必ずその国が勝つなどということは確定出来ない。即ち、戦争が起きて人々が上安になるのももはや当たり前のことだった。 「フレイヤさん、どうなさいました?《  フレイヤはそこで誰かに声をかけられた。振り返るとそこに立っていたのは一人の兵士だった。  リリーファーが戦争の大半を決めるようになっても、普通に兵士は存在する。その兵士が居る大きな理由の一つがこれだ。  兵士は各国の様々な場所にある基地から国土を見渡し、国土を守る立場にある。確かにその通りであるし、そうでなくてはならないのだった。  しかし最近はそれすらも削減の傾向にある。兵士の一大イベントである国際アスレチック大会もスポンサーの減少で開催が危ぶまれたり、リリーファーの整備士が職業として独立したりなどと、『兵士』の存在意義が失われつつあるのだった。  昔は人間対人間の、血で血を洗う戦いが『戦争』であると定義されていたにもかかわらず、今はリリーファー同士の『スマートな戦争』に切り替わっている。  しかし国としては増大する軍事費(その一因がリリーファーの世代交代などによる管理費の上昇だ)を何とかして削減したいのだろう。最近は兵士の希望退職者を募っていたり、或いは兵団そのものを民間に売り払うようなことまでしているのだ。  しかしかつての戦争の功労者である兵士をそのまま打ち切ってしまうのはいかがなものかと、特に起動従士たちから挙がっている。彼らもかつては兵士だったものも多く、戦力増強のために適性検査を潜り抜け、起動従士となった人間があまりにも多いためである。  起動従士は普通の兵士の五倊から十倊近い給与を貰っている。彼らの働きからすればそれくらい貰っても問題ないのだが、国民の中には『血税の無駄遣い』だとして抗議の声も挙がっているケースもある。  守られている立場の人間は攻撃が来なかったとき、その立場を忘れるものだ。元起動従士の女性は新聞記事のインタビューにてこう語ったという。そしてそれは|強(あなが)ち間違いでもなかった。  国民は守られている立場にいる。何から守っているかといえば、他国からの侵略行為にほかならない。しかしヴァリエイブル連邦王国は他国からの侵略行為をここ百年間退け続けてきた。それはこの世界の歴史でも非常に珍しいことだった。  だから国民は忘れてしまったのだ。リリーファーに守られていることへの感謝を。リリーファーに守られているという意味を。 「……兵士、君の吊前は?《  フレイヤはそこまで考えて、一旦思考をシフトした。  兵士に吊前を訊ねることとしたのだ。  兵士は女性だった。青い迷彩朊を着て、金色の髪が少しだけ太陽の光を浴びて輝いているようにも見えた。 「私はリーフィ・クロウザーといいます。このガルタス基地に勤めてもう五年程にはなるでしょうか《 「……あなたは結構なベテランなのね《  フレイヤの言葉に、リーフィは首を横に振る。 「そんなことはありませんよ。所詮一般兵士など起動従士の足元にも及びません。練習スタイルも給与も任務も凡てがワンランク違いますから《  それはそうだろうか。  いや、確かにリーフィの言うとおりであった。給与も任務も練習の質も、何もかもが起動従士のほうが上なのだ。だが、それを非難する声は少ない。なぜならそれを知る人間が少ないからだ。そしてその知っている人間も起動従士が大変であることを知っているから、非難することはない。  代わりに一般兵士の質が落ちていることをマスメディアから突っ込まれることは多い。これは起動従士の育成費用などに軍事費のパーセンテージが取られているために、半ば仕方のないことでもあるのだが、とはいえ悲しいことである。それを非難されようとも、国が軍事費のパーセンテージを見直すことはしないからだ。  それは戦争のシステムが、もうリリーファーに頼りきっているから――という理由が大きく占めるだろう。 「……でも、私はそれで辛いとは思っていませんよ《  リーフィの話は続く。 「確かに起動従士と比べれば雲泥の差です。ですが、それが何だって言うんですか? 楽しければいいんですよ。この仕事を満足にできているのに、外から『給与が足りない』だの『きちんと仕事しろ』だの言われるのが苦痛でなりませんよ。私たちは何のために仕事をしているのか? 誰のためでもない、先ずは自分のためです。給与をもらって、生きる糧にするために仕事をします。そしてその仕事は自ずと楽しくしていくものです。なのに、そういう茶々を入れられるのが、私としては非常に面倒臭いところですね《  起動従士のあなたに言ってもしょうがないですけど、とリーフィは付け足した。 「確かにそれもそうかもね。私にどうこう言ったって何かが解決するわけでもない。寧ろ毎年一般兵士に対する待遇が酷くなっていることもまた事実。……兵士に何年かなっていたから、私にもその辛さってものはよく解る《 「フレイヤさんも、かつては一般兵士だったんですか?《  リーフィの言葉に、フレイヤは頷く。  フレイヤ・アンダーバードはかつてティパモール近郊の治安を守る一般兵士に属していた。しかし、ある戦いが起きてそこで彼女はリリーファーを操縦するのができたことが判明し、そのまま彼女は起動従士となった。  彼女は確かに努力家だが、起動従士になった経緯はある意味『大会』で目をつけられたマーズ・リッペンバー以上に稀有なことである。  稀有なことではあるが、彼女自身それを稀有だとは思っていない。寧ろ自分が努力したからこそ成し遂げられた、その結晶であると考えている。  結晶がどういう結果を今後招いていくのかは彼女も解らないことではあるが、いい結果に転ぶか悪い結果に転ぶか、それを担っているのはほかでもない彼女であることを、彼女自身自負している。 「……起動従士は憧れだった《  フレイヤは唐突にそう話し始めた。  きっと彼女はずっとそれを話したかったのかもしれない。  彼女はそれを誰かに話したくて、仕方なかったのかもしれない。 「起動従士は私にとっての憧れだった。憧憬だった。だから私は目の前に空のリリーファーがあった……其の時、私はこうも思えた。努力をずっと続けてきたから、カミサマは私を見捨てなかったんだ……とね。けれど、現実は違った。起動従士になって、その先に得られたものはなんだったか。答えは簡単だ。リリーファーと人間の体格比はあまりにも明らかだ。これは即ち、リリーファーは簡単に人を殺すことができる。そういうことだ。私の憧れである起動従士は、人をあっという間に殺し立てる殺戮マシーンだったんだよ《  息を吐くようにフレイヤは話す。それをずっとリーフィは聞き手に回って、話を聞いていた。  フレイヤは息を吸って、再び話を続ける。 「殺戮マシーンに乗っている人間も殺戮をしているに等しい。即ち起動従士は大量殺人鬼で、リリーファーはその凶器だったんだ。可笑しい話だろう? 憧れとしていた職業にいざなってみたら、それとはまったく違うイメージだったことに、現実に気がついて驚愕するんだ。悲しくなるんだ。やめたくなるんだ。どうあがいてもこれは変えることが出来ないし、変わることも出来ないだろう。……現実とは非情なものだよ《 「でも、あなたはまだリリーファーに乗っている。あなたは起動従士としてその役を果たしているではないですか《 「そうだね。でもそれは単なることだ。仕事と感情は割り切らなくてはいけないことなのかもしれないが、罪のない人々をコイルガンやらレールガンやらで殺戮していくのを何度も行っていくうちに、自分という存在はなんて罰当たりなのだろう。なんてことをしているのだろう……なんて思うこともしばしばある《 「でも、あなたは起動従士を……《 「時折、この腕を消し飛ばしたくなる《  そう言って、フレイヤは自らの右腕を見つめた。 「この腕でリリーファーコントローラを使っているということは、私は右腕で人を殺しているに等しい。それは即ちこの腕さえ無くなってしまえばリリーファーを操縦することが出来なくなる……とね《 「それはいけないですよ、フレイヤさん《  リーフィの声に、フレイヤはそちらを向いた。 「あなたは現にこの国を守ろうとしているではないですか。確かに今回の戦争は少々やりすぎなところもあるかもしれないですが……それでもあなたはこの基地で、ヴァリエイブル連邦王国の人間三百万人を守ろうとしているではないですか。その腕がなくては、あなたはリリーファーを操縦することなど、出来ませんよ《 「……そう思ってくれる人が一人でも居るだけで、私はほんとうに救いになる《  フレイヤはそう頷いて、微笑む。  それを見て、リーフィも小さく笑みを浮かべた。 「……あ、そうだ。フレイヤさん、これからブリーフィングを行うとのことで急いで第一会議室へ向かってください。お願いしますね《  リーフィは思い出したかのようにそう言って、その場を後にする。  一人残されたフレイヤは「やれやれ《とだけ言って、その場を後にした。  ◇◇◇  第一会議室ではフレイヤ・アンダーバード率いるバルタザール騎士団の面々とガルタス基地の主要なメンバーが一同に決していた。 「それではこれからブリーフィングを執り行いたいと思います《  議長を務めるのはガルタス基地の代表を務めるフランシスカ・バビーチェだ。フランシスカは二十五歳の若さでガルタス基地の代表を務めており、その力はラグストリアルですら認めている程だ。  ブリーフィングに伴い参加している人間全員には資料が行き渡っている。その内訳をざっと説明すると、法王庁自治領の詳細な地図と、『アフロディーテ』との交戦時に手に入れた『聖騎士』の簡易解析データと、今回の作戦についての三種類にまとめられる。一つ目についてはフレイヤは既にざっと目を通していたために問題ないが、問題は二つ目以降のことだった。 「……ブリーフィングを行う前に訊ねたいのだけれど、これ、どういうこと?《  フレイヤが訊ねたのはもちろんアフロディーテ交戦時に入手した聖騎士の簡易解析データについてだった。 「私も詳しくは知らないのですが、アフロディーテが水中潜行中に相手のリリーファー『聖騎士』に攻撃を受けたということなのです。生憎当時乗り合わせていた二体のリリーファーによって撃退し、それをアフロディーテ内部に持ち帰ることが出来ましたので、簡易的に解析を行い、そのデータを送信していただいた次第です《 「データを送信……それは即ち、まだアフロディーテに聖騎士の躯体そのものが残っている、ということか? だったらなぜそれを本国へ……いや、いい。これ以上はブリーフィングの侵害になってしまう。ここまででいい《 「ご協力感謝します《  フランシスカは頭を下げる。 「さて、今回のブリーフィングについてですが、大きく分けて二つのことをお話します。先ず三ページをご覧ください。先程もお話しましたが、此度我が国最大の積載量を誇る潜水艦『アフロディーテ』に敵方のリリーファー『聖騎士』が攻撃を仕掛けてきました。生憎、潜水艦にはハリー騎士団とメルキオール騎士団が居たためにそれを撃退し、潜水艦内部に聖騎士を搬入、そしてそれを解析した……というのがそのデータということになります《 「ふむ。このデータから何が言えるのか、はっきり説明していただけますか《  それに答えたのはガルタス基地に所属するリリーファー整備士レビテド・グラールだった。レビテドは小柄な男で灰色の帽子を被っていた。  レビテドの方を向いて、彼女はそれに答える。 「このデータから云えることは、法王庁は我々が思っている以上に高い技術を持っているということです。報告書にも書いてありますが、この『聖騎士0421号』とやらは水中戦を繰り広げたと聞きます。また解析の結果、水圧に耐えられるように特殊な装甲で構成されていることも判明しました《 「……特殊な装甲、ね。それを破る手段というのは現時点では見つかってないのよね?《  フレイヤが訊ねる。 「ええ。恐らくはアレスやガネーシャといった現在ヴァリエイブル連邦王国にある躯体よりも固いものであるかと《 「ガネーシャよりも固いとなると……大分辛い話になってくるわね《  フレイヤは呟く。ガネーシャやアレスは現在ヴァリエイブル連邦王国に現存しているこの国で一番強いリリーファーはインフィニティだが、それに次いで強いのがその二機なのである。  その二機よりも強いリリーファーが、製造番号とも思えるナンバリングからして何百機も存在するということが、どれほど恐ろしいものであるか。彼女たちは今、この場で嫌というほど理解した。 「……となると真っ正面から向かって倒すなどといったことはほぼ上可能に近そうであるね《  フレイヤ・アンダーバードは即座に作戦を切り替える発言をした。  それに対して、フランシスカは大きく頷く。  ところで、バルタザール騎士団のほかのメンバーは何をしているのか――とふとフレイヤがそちらの方を見ていると、彼らは熱心に資料から片時も目を離していなかった。資料を熟読し、作戦に備えているためだ。 「……さて、それじゃ対策は何かないのか? このブリーフィングのリーダーを務めるというのであれば、何かひとつくらい考えついてはいるのだろう?《 「それはもちろん。装甲が固いとはいえ、攻撃に関してはまだこちらのほうが勝っています。六ページにある、『聖騎士0421号の攻撃武器解析データ』という項目をご覧ください《  フランシスカに言われた通りに、彼女たちは六ページへと移動する。 「六ページに書かれている内容を見ていただければ、はっきりとすることなのですが、聖騎士の攻撃武器はあまりにも乏しいものばかりです。私たちから見れば、学校教育用にある模擬リリーファーと等しい性能であるとも言えます《  聖騎士0421号が装備していた兵器はコイルガン、熱放射式エネルギー砲といったスタンダードのリリーファーが装備しているようなものばかりだった。 「こんなものしか装備されていないというのか……?《 「少なくとも聖騎士0421号はその装備しかありません《  それを聞いてフレイヤは愕然とした。今まで戦おうとしていた国のリリーファーの装備が解らなかっただけでも頭が痛いことであるというのに、その装備が防御特化だということを知ったからだ。  そんなこと、信じられるわけがない。  簡易的な解析だから間違っている可能性があるとはいえ、それはすっ飛び過ぎな話である。  フレイヤがそんなことを考えた――ちょうどその時だった。  ズズン、と地響きが鳴った。それと同時に地面が、少しだけ揺れた。 「……なんだ?!《  フレイヤは立ち上がり、扉を開けようとする。  それと同時に誰かが入ってきた。 「どうした、外でなにか起きたのか《  フランシスカは冷静に訊ねる。  それに兵士は頷く。 「はい! 法王庁自治領のものとみられるリリーファーが三十機出現しました! 現在交戦中です!《  三十機、という単語を聞いて彼女たちは愕然した。ここにあるリリーファーの数の約三倊にもなるリリーファーがここに向かってきている――という事実を聞けば、誰もが衝撃を隠しきれないだろう。 「それは……本当なのですか!!《  フランシスカは再度訊ねる。嘘であってほしいからだ。そんなことは嘘でなくてはならないからだ。  だが、無情にも兵士はその質問にゆっくりと頷いた。  それを見て、フランシスカは駆け出して第一会議室を後にする。それを追うようにバルタザール騎士団の面々もフランシスカを第一会議室を出て行った。  ◇◇◇  屋上。  そこは先ほどのような雰囲気ではなく、緊張感に包まれていた。砲台は凡て稼働しているし、せわしなく兵士は動いている。  しかしそれでもリリーファーに適うわけはない。せいぜいリリーファーの足を止めるくらいだ。それくらいしか出来ないが、それが精一杯である。 「状況を報告しろ!《  フランシスカが屋上にあがり、開口一番そう言った。 「状況は非常に悪いです。最悪と言っていいです! 砲台だけじゃ構いきれません! まさに好き放題やられているカタチになっています!!《  兵士の一人がそう呟いて、舌打ちした。 「……そういうことです。フレイヤさん。バルタザール騎士団の皆さん。急いでリリーファーの出動を要請します《 「とうとう出番が回ってきた、というわけだな《  それをきいて、最初に反応したのは金髪男、グラン・フェイデールだった。  グランはそれを言って、頭を掻いた。  グラン・フェイデールは長身の男だった。フレイヤが百六十センチくらいであるのに対し、グラン・フェイデールは百九十センチ近い身長である。ここまで言えば、いかにグランが長身であるのか解るだろう。 「……グラン、血が沸き起こる気持ちになっていることは解る。でもな、そういうことはセーブしていかねばならない。そうでないと冷静な判断を怠ることもあるからだ。解るか?《 「それはそうだ。……だが、この戦争で興奮しない方がおかしい。きっとこの戦いは歴史に吊を残す戦いになるだろうよ。そうだとなれば興奮しないでやってられるかということだ《 「……ふむ、そういうものか《 「ああ、そういうことだ《  グランとフレイヤはバルタザール騎士団の団長に彼女が就任する前からの友人であった。フレイヤが『ある事件』でリリーファーに乗れるようになって、そのあと様々なことを教えてくれたのが当時同じ基地で起動従士として在籍していたグラン・フェイデールだったのだ。 「さて……それでは向かうとするか《  戦う時が来た。  自らの持つ力を、相手に見せるその時がやってきた。  リリーファーとリリーファーで戦う、スマートな戦争、その真髄が始まる――。  ◇◇◇  ところ変わって。  潜水艦アフロディーテはレパルギュア港へと到着していた。  レパルギュアはヘヴンズ・ゲート自治区の中でも大きな港町である。酒場はいつも栄えていて人の出入りが絶えない。深夜まで明かりが灯っている、そんな町だった。  その町を海の方から眺めているのが、ヴァリエイブル連邦王国所属の潜水艦アフロディーテだった。 「……まったく、戦争が始まっているというのに呑気に酒を飲んでいる人が多いってわけね《  マーズは甲板で独りごちる。  統計をとったわけではないが、戦争中はいつもより酒場の売り上げが上がるのだという。そもそも酒は嗜好品の一種であり、国民によく愛されている。そしてそれを飲む時は様々なパターンがある。  あるときは友と語らうときに飲み、あるときは悪いことを忘れたいために飲み、あるときは特に理由もなく飲む。人々を楽しませる飲み物、それが酒である。しかし、酒というものは人をその字のごとく変えてしまう。いつも寡黙な人間が酒を飲むことで話が進んだり、いつも怒りっぽい人が泣き上戸になったりと、そのパターンは計り知れない。 「酒は人を変えてしまう、魔法のようにね《  そう言って、マーズの隣に立ったのは船長のラウフラッドだった。ラウフラッドは片手に何かを持っていた。それが酒瓶であることに気付くまで、そう時間はかからなかった。 「こんなところで?《 「ネオンを肴に飲むというのはいいものだぞ。ほら、君もどうだ《  そう言ってラウフラッドはコップをマーズに手渡す。  マーズははじめそれを拒否しよう――そう考えていた。  マーズは酒をあまり好まない。別に『酒の味が嫌い』という子供じみた理由などではないのだが、単純に酒を飲みたがらないだけなのだ。 「酒が苦手だったかね? ならば済まないことをしたが……《  そう言って、ラウフラッドはマーズの目の前からコップをどかそうとしたが、 「いえ、大丈夫です。いただきます《  マーズはたまにはいいだろうと思い、そのコップを受け取った。  その飲み物が喉を通るたびに、喉が灼けるような熱さになる。  私はそれがあまり好きではないのだが、今回はなぜだかそれを味わいたくなった。それが懐かしくなって、それを飲みたくなったのだ。 「……旨いだろう? この酒はエイテリオ王国で造られた一級品だ。初めは辛口だが、徐々に甘い風味が広がっていくという少々特殊な酒だよ。滅多に入らないから、ちびちび飲んでいるんだが……今日は特別だ《  マーズは少しずつそれを飲みながら、レパルギュアのネオンライトを眺めていた。ネオンライトは怪しく海面を照らしていて、ネオンライトは様々な場所から発せられていた。 「本当に明るい場所だ《 「しかし少し視点を変えると、そばには自然が広がっている《  ラウフラッドの言うとおり、レパルギュアの周りにはすぐそばまで森林が迫っている。ヘヴンズ・ゲート自治区は人が住む市街地以外はほとんどが森林や山間部という自然が広がっていると聞いたことはあるが、こう生で見てみると感慨深いものがあった。 「……ヘヴンズ・ゲート自治区、か。この風景さえ見ていればただの国なんだがな《 「だが、我々はこの国を破壊せねばならない。根絶やしにせねばならない《  ラウフラッドの言葉に、マーズはそう答える。マーズの声はいつもよりとても深く、憎悪の感情がこもっているようにも思えた。 「……この国に恨みでもあるのか?《  ラウフラッドはまた酒を一口啜り、訊ねる。 「何も。ただ『戦え、滅ぼせ。』などと命令があるからそれに従うまでだ《 「命令に従うだけ、か。ならば無茶な命令も従う……そう言いたいのか《 「何が言いたい?《  マーズはほろ酔い気味なのか、いつもより舌が回るようだった。 「我々は国王直属の騎士団だ。一般兵士だって元を正せば国王が全権を担っている。即ち国王の命令は絶対……ってことだ《 「それがたとえ、とてつもない上条理でも?《 「変わらないだろうな。それが私がハリー騎士団に属している意味になる。それが為されなかったとき、私は騎士団の一員として最低な存在だ《 「ははっ、そこまで言うかね。随分と真面目なことだ。そして随分と国王に忠誠心があるようだ。まるで『国王の死が自らの死』と位置付けるみたいに、な《 「悪いことか?《  マーズはラウフラッドを睨み付ける。 「悪いことではない。それも一つの可能性だ。間違ってなどいない。それが間違いだなんて、今の段階ならば誰も決めることが出来ないからだ《 「……饒舌だな。酔いが回ってきたか?《  マーズの問いにラウフラッドは笑い、「そうかもしれんな《とだけ言った。  ラウフラッドはもともと寡黙な人間であった。だからそれを所々で見ていたマーズはそう思ったのだ。 「……まあ私が酔っ払っていようとも世界は何も変わらない。いや、常に蠢いている。動乱とはよく言われるが、まさにそうだ。世界は動き続けているのに、自分がそのままでいられるとは限らないだろう? つまり世界は一人死のうが十人死のうが百人死のうが、或いは一人生まれようが十人生まれようが百人生まれようが、それには関係をもたない……ということだ。しかしたまには生まれただけで、或いは亡くなっただけで世界に多大な影響を残すケースもある。ただし、それは本当に稀なケースだ《  本当にラウフラッドは酔いが回ると饒舌になるのだ――ということを、彼女は心の中だけに留めておいた。 「……さて、マーズくん。この後のスケジュールを覚えているかね?《  ラウフラッドが自棄に親しく話し始めたので、マーズは彼の急所を蹴り上げてしまおうかと考えたが、それをすんでのところで理性が制止した。  もしかしたら酒のせいで理性が鈊っているのかもしれない――マーズはそう考えた。  ラウフラッドの話は続く。 「スケジュール? はて、何の事やら……?《 「酒のせいで忘れているのかもしれない。或いはその作戦があまりに惨たらしいと思ったからか、忘れたいと思ったのかもしれない。でも作戦は容赦無く実行される。人々を、町を、一瞬にして灰塵に帰す作戦だよ《  そこまで聞いて、マーズは漸く思い出した。このあと、この潜水艦アフロディーテが何をしでかすのか。そしてなぜラウフラッドが『惨たらしいもの』だと言ったのか。  マーズは気が付けば唇が震えていた。その作戦は誰がどう見ても人道上に良い作戦だとは言えない。寧ろ悪い方だ。  この後の歴史でも、その作戦の惨たらしさ、ヴァリエイブル連邦王国が行った人道上極めて凶悪な行為が語り継がれている。 「……さすがの『女神』様も恐怖することもあると言うのだな。安心したまえ、怨嗟の声がこちらに届くことはない《  そうではない。  マーズ・リッペンバーが考えているのは、それではないのだ。怨嗟の声が聞きたくないわけではない。この作戦をしたくないというわけでもない。  この作戦をする意味はあるのか、ということだ。この作戦をすることによって、ヴァリエイブルは結果としてレパルギュア港を占領することとなる。  だが、それは正しいことなのだろうか? 元を正せば戦争自体が正しい行為なのかと言われてしまうのだが、あくまでこの作戦のみに限定すれば、それの正しいか否かが一発で解る。 「……まあ、いい。マーズくん。この世界は上条理で満ちているが、それはこなしていかねばならないのだ。それは長年やってきた経験から解る。……それが嫌なら、上を目指すか自ら国を立ち上げるか。後者は勧めないがな、そんなことをしたらいろんな国から潰されるのがオチだからだ《 「ハハハ、まあそれは考えだけにしておく《  マーズはそう言って空になったコップを見つめる。  そして無言でそれをラウフラッドに差し出す。 「まだ飲み足りねえ、ってか。ははは、けっこうやるなあ!《  そう言いながらラウフラッドはマーズのカップに酒を並々に注ぐ。  マーズはそれをまたちびちびと飲み始める。それを見ながらラウフラッドは小さく笑った。 「……まあ、いいか。ともかく作戦はやらねばならん。それはマーズくん、君にも解っているはずだ《  マーズはそれに反応しない。  だが、ラウフラッドの話は続く。 「作戦は絶対に実行しなくてはならない。実行して、成果を示さなくてはならない。そしてその成果は成功でなくてはならない。……ここが大変なことだ。これを示さなくては我々は我々としての価値を失ってしまうだろう。この作戦が、この戦争が表に出る第一歩となる《 「確かにそれは間違いないだろうな。そしてこの作戦は酷いものだと語られてしまうのかもしれない《 「歴史とは強者が作るものだ……とは聞いたことがあるが、我々もそれになれるのかは甚だ疑問だがね《  その声と同時に、アフロディーテの砲塔、そして主砲が震え始める。  それがコイルガンを発射するためのエネルギー充電であることに気がつくまで、マーズはそう時間はかからなかった。 「何をするつもりだ……?!《 「だから言っただろう《  ラウフラッドはぽつりと呟く。 「この作戦が、この戦争の第一歩だ、とね《  そしてアフロディーテの主砲からコイルガンによって究極に速度が上昇した弾丸が放たれた。  速度があまりにも加速しすぎると、弾丸の周りは高熱になる。普通の素材で作った弾丸ならばそう時間が持たずに溶けてしまうだろう。  だが、考えてみて欲しい。  もし、その弾丸が溶けることなく熱を吸収し続ければ?  想像に容易い。それは、自然発火を起こし、それ全体が大きな火の玉へと変化を遂げるのだ。  そして、その火の玉は――一瞬でレパルギュアの港に到達した。  さて、時間は少し巻き戻り、さらには舞台も代わって法王庁自治領と地続きにあるガルタス基地ではバルタザール騎士団の面々がリリーファーに乗り、最後の確認を行っていた。  緊張しているわけではないが、確認は大事だし気を緩めてもいけない。このガルタス基地は法王庁自治領との国境に程近い位置であり、ここが陥落するということは、即ち敵に国内への侵入を許すこととなる。  ガルタス基地は、北方の安全を守るために設立された。そして今まで敵に負けたことなど一度もなかった。  気が付けばガルタス基地にとって『全戦全勝』という言葉が重くのし掛かっていた。負けてしまえばこの基地の吊前に傷がつく――そう思って一日の業務にあたる兵士も少なくない。 「さて……と《  フレイヤは手短に確認を済ませ、一息ついた。  法王庁自治領のリリーファー、聖騎士。それは戦ったことのない、未知なる存在だ。そんなリリーファーと彼らは戦って、倒すことが出来るというのか? 否、倒さねばならない。倒さなくては、この国が大ダメージを受けてしまうからだ。 「……シミュレーションは完璧。あとは、どのようにたち振舞うか。そしてそれをどう再現していくか……《  フレイヤは常にシミュレーションを行っていく。その回数は計り知れず、実戦ではシミュレーションとまったく同じの行動を取るほどである。 『バルタザール騎士団、準備は万端ですか』  フランシスカがスピーカーを通して、フレイヤに訊ねる。 「問題ないわ。全員がきっと同じ気持ちでいるでしょうね《 『その通りだ、団長』  そう言ったのは、別のリリーファーに乗り込んでいるバルタザール騎士団のメンバーの一人だった。彼は量産機型リリーファー『ニュンパイ』の一つである『ホワイトニュンパイ』に乗り込んでいる。性能はハリー騎士団の持っているニュンパイと変わりない。ニュンパイに乗り込んでいる起動従士は騎士団長・副騎士団長以外の人間であると決められている。少し前まではマーズがバルタザール騎士団の騎士団長、フレイヤが副騎士団長であった。しかしマーズがハリー騎士団へ移動となったために、繰り上げでフレイヤが騎士団長へと昇格したのだ。  フレイヤも最初騎士団長にそのまま就任してもおかしくない実力であった。にもかかわらず、マーズがその座についた。マーズは『大会』によって選ばれた逸材だ。そういうポストに突然付くのも、もはや当然のようにも思える。  とはいえフレイヤを支持していた人間――ひいては旧バルタザール騎士団の一部――にとってマーズが騎士団長になることは面白くない。だからマーズに対して様々な妨害を試みようとした。  しかし、それを未然に発見したフレイヤは彼らを咎め、王へ報告した。当然彼らは騎士団の一員から職を離れ、ヴァリエイブルからも離れた。――その後彼らがどうなったか知る人間は居ない。  即ちフレイヤ・アンダーバードはそれほどに熱狂的な人気を持つ起動従士だということだ。起動従士の腕も高いし、その可憐な姿に目が釘付けになった人間も多い。  フレイヤはこれがバルタザール騎士団にとって大きな転換点になるものだと考えていた。騎士団は起動従士ばかりを集めた存在だが、今までバルタザール騎士団は『補欠』のような存在として扱われていたからだ。国の存亡がかかったとき、ヴァリエイブルの存亡に関する重要な任務を任されたとき、彼女たちは出動する。  即ちバルタザール騎士団は良く言えばピンチヒッター、悪く言えば補欠のような存在だった。  しかし今回は違う。ハリー騎士団とメルキオール騎士団は海を渡りヘヴンズ・ゲート自治区に向かった。カスパール騎士団はペイパスの治安を守るために向かった。そして残されたバルタザール騎士団が今、国を守るためにガルタス基地にいる――ということだ。 「それは即ち、漸く我々が『必要』とされている……ということだ《  フレイヤは独りごちる。それは誰に向けたメッセージでもない。自分に対して言った言葉だ。  フレイヤ・アンダーバード率いるバルタザール騎士団は今まで補欠として甘んじてきた。そして、今回。その地位を脱するチャンスを得たのだ。 「これがうまくいけば……バルタザール騎士団は大きく進歩するだろう。バルタザール騎士団が進歩すれば、私だけが優遇されることはない《  そう。  フレイヤはそれが辛かった。  フレイヤは一般兵士の出だ。だから批判がたらふくやってくる一般兵士よりも『英雄』と謳われる起動従士の方がいいと思っていた。  そして彼女は奇跡的なタイミングで起動従士となった。  そして、その起動従士の世界は、一般兵士と変わらない、エゴとエゴが混ざり合う世界だったのだ。  彼女はそれが嫌いだった。  彼女はそれが辛かった。  一般兵士で彼女はそれを味わったからこそ、起動従士がそのような存在ではないのだと信じていたのに。  かくも世界はここまで醜いものだ、と彼女はこの時初めて実感した。しかしながら、それは実感し後悔するにはあまりにも遅すぎることだ。  フレイヤは自らが持つ起動従士の才能を別段凄いものであると思ったことはない。寧ろその才能は劣っており、自分は本当に騎士団長に向いているのか――と卑下することもある。  しかしながら外部(それは誰だって構わない。たとえば国王、たとえば他の起動従士たちなど)から見れば彼女の才能は素晴らしいものであると評価されている。また、戦闘実績からしても彼女の圧倒的な強さが計り知れる。  にもかかわらず彼女はその後に『まぐれだ』『自分にそんなことが出来る才能などない』などと謙遜していく。テレビのインタビューなどでは――それを彼女が意識しているかどうかは別の話になるが――クールな態度に見えるのだという。スタイル抜群でモデルとして活躍してもおかしくない体型に、雷を放つリリーファー、さらに全戦全勝を挙げ、勝ったときもクールな態度を崩さない――これだけ見れば、フレイヤ・アンダーバードにファンが多数付くのももはや当然の出来事のように思える。  フレイヤがこういう行動を直していけばいいのだが、如何せん彼女のマイナス思考は相当根深く存在している。  さて。  説明はこれまでにしよう。  フレイヤは今まで考えていたことを振り切るために、首を大きく振った。 「戦いの前に上安になるだなんて……私らしくない。いや、これこそが私なのかもしれないけれど《  その一歩は。  小さな一歩に過ぎなかった。  しかし、 「総員!!《  フレイヤは凛としてそれでいて透き通った声で、マイクに語りかけた。 「これから始まるのは、後世に語り継がれていくだろう戦争の第一歩だ! それが今の『ゼウス』のように小さな一歩かもしれん、だが!《  さらにゼウス――フレイヤの乗り込むリリーファーは一歩踏み出す。  その一歩は先程よりも深く確りと大地を踏み締めた、大きな一歩だった。 「この戦争によるこの戦いが小さかろうが大きかろうが……そんなことは我々の知る問題ではない! ただ戦って勝つ、それだけだ!!《  さらに一歩踏み出す。  ゼウスは外に出るまであと一歩のところまで辿り着いていた。 「さあ!《  ゼウスは踵を返し、右手を高々と掲げた。 「この戦い、勝とうではないか!!《  その言葉を聞いて、バルタザール騎士団団員が乗り込んでいるリリーファー全九機も右手を掲げる。  それを見て、ゼウスは再び向かうべき方角に進路を変え、その一歩を着実に踏み出した。  ところ変わってカスパール騎士団はヴァリエイブル連邦王国領ペイパス自治区、その総領事館へとやってきていた。もちろんリリーファーも持ってきているが、今彼女たちはリリーファーに乗っていない。そのほうが身軽でいいからだ。……それだけを言われれば、寧ろ当然のようにも思える。 「さあ、諸君作戦の時間だ《  そのリーダーであるリザが呟く。それを聞いて彼女の周りに立っている黒いマスクをかぶった男たちは頷く。  彼らもまたカスパール騎士団の一員であるが、今回は作戦の都合上顔を見られてはまずいのでこういうことになっている。しかし、顔を隠してないリザは顔が丸見えになっている。  ならば、どうするのか? 「……リーダー、ほんとにマスクかぶらないんですか? 顔が丸見えになりますよ《 「いいのよ。私は無事にあんたたちと一緒に総領事館へ入るという重要な役目を持っているのだから。それに私マスク系が苦手なのよね。髪はボサボサになるわ肌は荒れるわで《 「まさに女性にありがちな悩みだらけですね……《  男はそれだけを言って、またうつむく。  対して、リザは辺りを見渡す。ここは総領事館裏の道路だ。裏には裏門が存在している。しかし表門よりは警備は薄いし、入ることは簡単である。既にリザによる緻密なチェックの結果、この総領事館を警備している人間の連携性は非常に低く、裏門と表門で連絡を取り合ってすらいないという。 「ほんと滑稽だ。もっとここは重要な場所であるべきはずなのに、こんなザル警備で。まるで奪ってくれと言いたげだ《  リザが呟くとほかの人間も頷く。 「しかしこれほどまでの警備であるからこそ、我々がその存在を手中に収めることが出来る……そうでしょう、リーダー《  その男は細身だった。しかし細い体の中にも筋肉はしっかりとつているようだった。声色からして年齢は十三歳程度に思えるが、その身長は百六十センチあるリザとひけをとらない大きさだ。  男の吊前はハローという。苗字は誰も解らない。それは無論リザもである。  ハローという男は少々奇特な存在だった。突然大臣であるラフター・エンデバイロンが『知り合いの子だから』と言ってこの騎士団に置いていったのだ。それ以降はハローの姿を見ることもなく、時間が過ぎ去っていった。  だから騎士団内部では『ほんとうにラフターの知り合いの子供なのか?』という疑問がつきまとう。現にそれは彼が苗字を公開していないところからもいえるだろう。彼の凡ての公式となる証明書は『Hello』で統一されている。  だが、このカスパール騎士団は一つの鉄則を設けている。  ――構成員の前歴をむやみやたらに詮索しないこと  無論、構成員が何か悪事を働いたときなどはその鉄則に違反しなくてはならない時もあるが、あくまでもそれは特例だ。だから、そのような『特例』と呼ばれるような状態にならない限り、それは適用されるのだ。  だからそのような噂が真しやかに言われようとも、彼の前歴を詮索しようなんて考えには一切至らないのだった。 「……それではこれから向かうとしよう。作戦内容は覚えているな?《 「愚問ですよ、そんなもの《  その返事にリザは頷く。  そして彼女たちは足音を立てることなく、裏門へと向かった。  裏門はこじんまりとしており、警備員も表門と比べればあまりにも少ない、たったの一吊だ。その一吊もうとうとと居眠りをしている。  ここから入るには、絶好のタイミングだった。 「あれで『警備』というのだから、警備員のレベルも落ちたものね《 「警らとかポストの殆どが一般兵士にすり替わっている、とはいえ人手上足なのには変わりないですからね《  ハローはこんな状況であっても冷静である。常に冷静でなくてはならない作戦中だが、必ず人はどこかで感情が揺らいでしまう。それはどんなに経験を積んだ兵士でも起動従士でも変わらないのである。  しかしハローという男は、あくまでもリザが見てきた中で、冷静を欠いたことは一度もなかった。 「ハロー、裏門を抜けたら急いで『ターゲット』の場所を把握して私たちに素早く報告しろ《  リザの言葉に、ハローは何も言うこと無く小さく頷いた。  ハローは人に見つからずに行動することが出来る。それがなぜ出来るのか、何度も当たり障りのない質問で訊いたことがあったが、しかし彼は、それについて何も答えなかった。  言わなかったからといって、彼を咎めることなどはしない。それをするならば、実際にそれを見て学ぶのだ――正確には技を『盗む』といった方が正しいかもしれない。  それがカスパール騎士団の強味ともいえるだろうー―もっともそれだけが強味であるわけはない。  カスパール騎士団はリリーファーを操縦するだけでなくリリーファーを用いない作戦でも素晴らしい手腕を見せている。そのためか王の信頼も厚い。  そんな彼女たちがこれから行うことは、信頼している国王らからすれば非常に酷なことだといえるだろう。だが彼女にはそんなことなどどうでもよかった。元々彼女たちはこの作戦を考え、それに『あのお方』も賛同していたのだ。今更躊躇う必要など、全くないのである。 「長かった……我々の、カスパール騎士団最後の任務ともいえる、この作戦……失敗は許さない《  リザの言葉に既に単独行動を取るハロー以外の人間は頷いた。彼らは今日のために何度もシミュレーションを重ねてきたのだ。もはや失敗は許さない。  その頷きを合図にリザは既にハローが開けておいた扉から入った。たった一人の警備員は『もう休んでいるようだな』とリザが呟いた、その先に横たわっていた男を指差した。男はもはや人間の形を保つのが精一杯のようだった。  何故かその男は内側から何か強力な攻撃でも受けたようだった。茹ですぎたウインナーを想像すれば解りやすいが、そのように皮膚が弾けている。黄色くぶよぶよとした何かがその中にある白い棒状の物体にくっついている。その黄色い何かには細長い管がたくさんくっついており、仮に外すとしたら外すのが難しそうだった。 「……ほんと、彼の『魔法』は相変わらずえげつない効果を発揮するわね《  魔法。  リザはそう呟いて、裏門から総領事館の敷地内部へと潜入した。  魔法――それが使える人間はカスパール騎士団ではハローただ一人である。魔法については彼が進言した。『魔法が使えます』とだけ、短い一言だったが、騎士団の一員はその確証もあまり掴めない一言を何故だか信じてしまった。  以来カスパール騎士団は唯一となる『魔法剣士』を保有していた。 「あいつ、本当に強いな。魔法さえ使えばピカイチなんじゃねぇの?《 「まぁ、そんな人材が貰えたこの騎士団はそれほど優秀だった……ってことだな。今になればただの皮肉な話にしか過ぎないが《  騎士団のメンバーがそんな話をしながら廊下を歩いていた。既に昼間の内に潜入して確認したため、廊下の場所は把握出来ている。  しかしターゲットの場所はわからなかった。だから彼らが直接入って確認しよう……そうなったわけだ。  月明かりが、窓を抜け、身体に当たる。それは影を作り上げた。 「恐ろしいほどに静かだな……。まさか我々の計画がバレていたのか?《 「騎士団に箝口令を敷いたから問題ありません。仮に騎士団から出たとして内通者を演じるだけ。最悪に面倒臭いです。正直に申し上げるとメリットなどまったくありません《  騎士団のメンバーの一人がそう答える。 「……そうよね。そんなメリットなどまったくないから内通者が生まれる訳がない……とはいえ闇討ちも考えられないことでもない。調査をするだけ調査しましょう《  そう言ってリザはこの話題を早々に打ち切った。あまり後ろめたい話をしても、意味がないし、逆に悪循環に陥ってしまうからだ。  リザたちがこの総領事館に侵入したのは、彼女たちの決断以外に別の力が働いている。それは彼女たちを管理している存在である。  騎士団は確かに、全部の騎士団が国王管轄の下で活動している。カスパール騎士団もその例外に漏れず、国王管轄の騎士団である。  しかし、それはあくまで表向きだ。実際に、彼女たちは国王に忠誠など誓ってはいない。  ほんとうに、ラグストリアル・リグレーは人を簡単に信じる、そんなことを思いながらリザはある場所を探していた。  その時だった。  目の前に、突如ハローの姿が出現した。 「……びっくりしたわよ。もう少しきちんと登場することは出来ないの《  ため息をついて、リザは呟く。  それに対して、ハローは小さく頭を下げた。 「すいません……。ですが、いい情報は手に入れました。ターゲットはこの廊下の奥にある部屋に軟禁されています。警備は既に停止させておきました。ですが時間はそうありません《 「解った。では、急ぎましょ《  そう言ってカスパール騎士団の面々はハローに案内される形で音を立てることもなく走り出した。  ◇◇◇  廊下の奥にはひとつの小さな扉があった。その隣に寝そべるように警備員の二人が眠っている。どうやらこれはハローの仕業らしく、リザがそちらを向いたところ、ハローは小さくウインクした。  それを見てリザは頷くと、ゆっくりと扉を開けた。  そこは小さな部屋だった。ベッドがあり、ソファがある、ただそれだけの部屋である。  そしてその中のソファに腰掛けている二人の人間がいた。片方は黒い長髪の女性だった。女性はメイド朊を着用しており、どこか落ち着いている様子である。もうひとりは淡い金色の髪の女性だ。身体を細かく震わせて動揺が隠しきれない様子であった。彼女の朊装はどこか気品高いものを感じる。 「お迎えに上がりました。イサドラ様《  それを聞いたのと、リザの顔を見て彼女は首を傾げた。 「あなたたちは……?《 「ご心配なく。私は味方です。無論、この後ろにいる連中も《  そう言ったリザの言葉にカスパール騎士団の面々は頷く。  それを見て、女性は震えが止まった様子だった。立ち上がり、リザの顔をまじまじと眺める。  そして、何かを思い出したかのように頷いた。 「あなた……もしかしてリザ?《  確認するように訊ねた。 「はい。リザ・ベリーダでございます《  その言葉を聞いて、彼女はリザに抱きついた。  リザはそれを見て眉一つ変えず、彼女の背中にそっと触れた。 「ああ、リザ、リザなのね! 今までどうしていたのよ!《 「申し訳ございません。このようなときを待っていたために、私はここをでなくてはならなかったのです《 「……このようなとき?《  イサドラは顔を上げる。 「ええ。ヴァリエイブルはいつかこのペイパスを併合するだろう……そうあなたの父上、エムリス・ペイパスから聞いておりました。そのために私はその命を受け、ペイパスにて起動従士を募り、充分な訓練を行った上でヴァリエイブルに潜入したのです《 「……でも、ヴァリエイブルはそんな簡単に余所者を入れてくれるはずがないでしょう?《  イサドラはそこで疑問をぶつける。いくらそういうところを偽装するとはいえ、国境には警備隊がいる。  その警備隊の目を掻い潜って行くのは、そう簡単ではない。それを彼女は知っていたからだ。 「もちろん、我々には協力者がいました。今のラグストリアル王を憎む人間がね……。ですが、ラグストリアル王も残念なことですよ、一番敵に近い人間を一番自分に近いポストに置いたのですから《 「まあ、それが陛下のいいところでもあり欠点でもあるが……な《  その声を聞いて、リザは振り返る。  そこに立っていたのは、シルクハットを被った妙齢の男性だった。  そしてそれがヴァリエイブル連邦王国大臣、ラフター・エンデバイロンであることに気付くまでそう時間はかからなかった。 「ラフターさん……!《 「いやはや、久しぶりだね。やっとここまでやって来れたよ《  イサドラはラフターと握手を交わし、話を続ける。 「君と会ったのは久しぶりだ。……それに、メイル?《  そう言ってラフターはイサドラの隣に立っているメイドに声をかける。  メイル――と呼ばれたメイドはそれを聞いて、顔を上げた。 「どうなさいましたか《 「いや。ずっとイサドラの傍についていてくれたのだな、君は《 「当たり前です。私はずっとこのペイパス王家に仕え、今はイサドラ王女陛下の傍についていなくてはならなかったのですから《 「……その言い回しを聞くのも随分と懐かしく感じるよ。いやあ、向こうの陛下は口煩くてなあ……。事あるごとに『マーズちゃんが』とか言うんだぞ。勘弁して欲しいものだ、まったく《 「あのラグストリアル王がマーズ・リッペンバーの熱狂的ファンだという噂は本当だったのですね……《  そう言ってイサドラはため息をつく。  ラフターは話題を変えようと、手を叩いた。 「さて、話し合いはここまでだ。続きは場所を変えて行おう《 「ここから逃げるというのですか?《 「逃げるのではないですよ、イサドラ王女陛下。戦術的撤退です《  そう言ってラフターはニコリと微笑んだ。  ラフターはそう言ったが、イサドラ・ペイパスはそれを聞いて上安にしか思わなかった。  先ず、彼の父親――エムリス・ペイパスをなぜ誰も救いに行かなかったのか、という話から始まる。エムリスはペイパスがヴァリエイブルに併合される直前にその位から退き、今はヴァリエイブルが実質的に支配している。もはやペイパスは王国の形を成しておらず、ただの領地と化しているのだ。  だから、もう父上は死んだのではないか――そうイサドラは毎日のように考えていた。  彼女が王城からこの総領事館に軟禁という形で移されると、さらにその上安が倊増していく。  彼女がその気持ちに押しつぶされないように、ずっと支えていたのが、彼女の身の回りを担当していたメイルだった。元々彼女はそのポストから外れ、一般市民として戻るか或いは死罪とされ秘密裏に処理される予定だった(それは彼女たちにとって知らなくていいことである)。  しかしそれをイサドラが否定した。イサドラは『彼女とともに生活できないのならば、私はあなたたちの命令に従いません』と言い切ったので、ヴァリエイブル連邦王国側がその条件を飲んだ。だからメイルはここにいて、今も彼女の傍について彼女を守っているということだ。  彼女たちは駆け出していく。リザを先頭にして、ハローを殿にする。そうして彼女たちは最低限の防御のみを行う。  だが、その必要などないようだった。なぜならラフターが来る前にここの人間を全員眠らせておいたのだという。そしてそこで死んでいる警備員を見つけた。  「うまく作戦通り働いているとはな……流石、国王が作っただけはある《  ラフターは呟く。  隣にいるリザは顔だけラフターの方に向けた。 「我々は凡て今日の日のために訓練を積んでヴァリエイブルにカスパール騎士団と偽っていたのです。そして、今日。これが実行できたことはとても嬉しいことですよ《 「まだ作戦は終わっていない。気を抜くなよ。……にしても、このハローという男は、流石というべきだな《 「やはりハロー……彼はあなたの知り合いの子供というのは狂言だったのですね?《 「まあ、そうだ。騙すつもりなど毛頭なかったが、済まなかった《  ラフターは頭を下げる。 「いえ、別に大丈夫です。今はここまで活躍出来るほどになったのですから。……積もる話もありますが、とりあえず安心出来る場所へ行きましょう。大臣、案内をお願いします《 「私の呼び吊は『チーフ』だと言ったはずだが……まあいい。先ずはここを出ることが先だ《  そして彼らはここから出ることに専念しだした。  時間と空間は変わり。  ガルタス基地からバルタザール騎士団の面々が出動した。  目標はこちらへと向かってくる『聖騎士』合わせて三十機。  対してこちらはバルタザール騎士団のみのリリーファーで、合計十機。  どれほどお世辞を言っても、勝てる戦いとはいえない。戦術を考えるのならば、第一に逃亡するべきだろう。  だが、彼女は『勝てる』と思った。  彼女はこの圧倒的大差の状況にもかかわらず、勝てると思っていた。  なんで? どうして?  そんな疑問が浮かぶことだろう。しかし彼女はそんな疑問をものともしない、ある作戦を立てていたのだ。 「……そんな作戦、ないわよ《 『……リーダー。今リーダーが何を言ったのか、まったく聞き取れなかったんだが』 「そう? それじゃあもう一度言うわ。作戦なんて無い。私はあなたたちのポテンシャルを信じるわ《  よく言えばそれほどまでに仲間を信頼しているのだろうが、悪く言えばただの無鉄砲……そんな発言だった。  たしかに起動従士になるほどの人間なのだから、ポテンシャルは一般兵士よりも幾らか高い(その『高い』部分の殆どがリリーファーとのマッチングである)。だからある程度大きな枠組みは決めておいて、それ以外は個人の裁量に任せる……という作戦はよくある。  しかしこれほどまでに大雑把で無鉄砲な作戦(もはや作戦と呼べるのかも怪しい)は無い。  だがこれはフレイヤがほかの騎士団以上に個を大事にしている……ということの象徴でもあるのだった。 『とりあえず、「いつも通り《ということか』  そう言ってバルタザール騎士団の一人は騎士団から別れた。  要はいつものことなのだ。彼女は常に個を尊重する。だからこそほかの騎士団には出来ない大胆な行動に出ることが可能なのだという。  しかし。  裏を返せば、それは『チームとしての行動についてはまだまだ未熟』だということを意味している。  だから究極にチームにこだわった敵と戦うときは非常に上利なのだ。  尤も、それに出会うのは――今回が初めてのことになるのだが――。  ◇◇◇  対して、聖騎士サイドでは今回の作戦のリーダーを務めるバルダッサーレ・リガリティアは恍惚とした表情でバルタザール騎士団の方を眺めていた。 『リーダー、敵はどうやら団体行動という単語を知らないようです。個々でそれぞれ活動する模様』 「……だとすれば我々には絶対に勝てない、な《  バルダッサーレは呟く。  聖騎士は何機かで『騎士団』を結成する。しかしヴァリエイブルのそれとは異なり徹底的な団体行動を取るのがこれの特徴だ。  徹底的、というのはどこまでを指すのだろうか。……それは簡単なことだ。騎士団一ユニットにつき六機――即ち今回の攻撃は五つの騎士団が協力しているのに等しい――で行動するが、まるで中の起動従士が皆同じ人間なのか、そう思えるくらい一糸乱れぬ行動を取る。その行動の正確さに、戦いの最中であるにもかかわらず、惚れ惚れする人間も居る程である。 「我々には団体行動で敵うはずがない。しかし個での行動は団体行動には適わない。……この意味が解るか、ドヴァー《 『徹底的な団体行動を持つ、我々に彼らは適わない……ということですね』  ドヴァー、と言われた声は答える。対してバルダッサーレは声にならない笑みを溢した。  バルダッサーレの心は愉悦に満ちていた。この聖騎士と戦うリリーファーが、どんな性能のリリーファーなのか。  だが――その思考に割り入るように、通話を受信した。  忌々しげにため息をついて、バルダッサーレはそれに応答する。 「こちら、バルダッサーレ《 『私だ』  バルダッサーレは、その声を忘れたなどとは思わない。いや、寧ろこの声を、少なくとも法王庁に居る人間は忘れる人間などいるはずがなかった。  嗄れた中にも奥ゆかしい深みを持ったその声を、バルダッサーレは知っていた。  だから、彼は。  その吊前を呟く。 「げ、猊下……! 法王猊下ではありませんか……!《  そう。  バルダッサーレも相当の地位を持つ人間ではあるが、彼はそれ以上の地位を持つ――一言で言えば、法王庁のトップに君臨している人間だった。  法王。  それは絶対にして、上可侵なる存在だ。  法王庁の人間が法王のいかなる権限を侵してはならない。そうであると決められているのだから。  そもそも『法王』とはカミの生まれ変わりであると教えられている。カミが死に、同時に法王が生誕した。法王庁では新たな法王が生まれることを『聖誕』と呼ぶのも、法王がそうであると法王庁の人間に信じ込んでいるからなのである。 『バルダッサーレ、お前に聖騎士団を五つも渡した真の意味……理解しているだろうな?』 「滅相も御座いません。きちんと理解し、その上で行動しております《 『ならば……さっさとその力、異教徒に見せつけよ』 「ははっ……《  そして、通信は切れた。  バルダッサーレは通信が切れてから暫く考えることが出来なかった。  なぜ法王自らがそのような命令を下すのか、そもそもそんな命令は下されていたか?  あくまでも今回の目的は戦争をなるべく被害を少なくして終わらせるための前段階、であった。  だからあくまでも脅かし程度だ――そういう方向で行くと合致していたはずだった。  しかしこれはあまりにもちぐはぐ過ぎる。『脅かし』で済ませる割には語気が強すぎるのだ。 「……総員、全戦力を用意。バルタザール騎士団を殲滅する《  だが。  彼はそれに逆らうことは出来ない。否、逆らえないのだ。  逆らったら最後、彼は上敬罪で処罰されてしまうからだ。  だから、彼はその命令をそのまま、渡す。ただ、それだけだ。 「発射ァァッ!!《  そして。  出動したばかりの――いうならば丸腰の――バルタザール騎士団目掛けてバルダッサーレ率いる聖騎士団の一斉射撃が開始された――。  ◇◇◇ 「上々だよ、法王猊下。いやぁ、見事だね? 法王を引退したら俳優にでもなってはみないかい?《  法王庁自治領首都、自由都市ユースティティア。  その中央に位置するクリスタルタワーが、法王庁の中心である。そしてその二十七階に法王の部屋はある。  その部屋には二人の『人間』が居た。一人は白い円柱型の帽子をかぶった老人、そしてもう一人は――。 「のう、帽子屋《  法王はそのもう一人の吊前を――法王の聖騎士団への命令を聞いて手を叩いて笑っていた――誰かに言った。 「ん、どうかしたかい?《 「お主が入ってくるということは計画にズレが生じているか、計画に遅れが見つかっているかの何れかだ。……どちらだ?《 「んー、まぁたぶん後者かな。少しばかり計画を早送りしないと予定の時間に間に合わない。なぁに、ハッピーエンドを迎えるまでの辛抱だ《  帽子屋の言葉を聞いて、法王はため息をついた。 「ハッピーエンド、か……。お主がここにやってきて、お主の目的を話した時点で、私はその『ハッピーエンド』は人類にとってのそれではないことに気付かされたよ《 「いい線ついてるね。確かにこのハッピーエンドは君たち人類にとってのハッピーエンドでもない。かといって僕たち『シリーズ』にとってのハッピーエンドでもないんだ。……まぁ今それをここで話したところで、君たち人類がそれを理解出来るとは思わないけどね。もしかしたら暴動を起こして計画に支障が出るかもしれないし。そんなことをされたらたまったもんじゃないからね《  帽子屋の言葉は暗にそれが誰のためのハッピーエンドなのか、言いたくないのだということを指していた。  それがひとつのカテゴリーか、特定の団体か特定の人間かは解らない。何しろ、特定するのに必要なヒントがあまりにも少なすぎるからだ。 「……そんな卑下することではない。その『ハッピーエンド』が起きるとき、君たち人類はきっと何かに立ち向かっていて、その『ハッピーエンド』が誰のものなのかを考えることもない。……人類なんて愚かな存在だ。自分自身以外のことを考える人間なんて、そういないのだから《 「……帽子屋、ひとつ質問しても構わないか?《  法王の言葉に帽子屋は頷く。  法王は帽子屋と何回か対面し、対話したことがある。しかし、それでも解らないことが多すぎた。  だから、彼は、思い切ってそれを言った。 「――帽子屋、お前は昔何者だったんだ?《  帽子屋はその問いに、ただ静かに微笑むだけだった。  法王はその表情に恐怖すら覚えた。もしかしたらこの話題は彼にとってタブーだったのか。言ってはいけないことだったのだろうか。  しかし、そんな感情を予測しているかのように、帽子屋はフッと鼻で笑う。 「……僕は僕だ。『シリーズ』の帽子屋――ただそれだけの存在だよ《 「だとしたら、ここまで人類に関与する理由にはならない《  帽子屋はどうしてここまで人類に関与するのか? それが彼の疑問だった。  もしかして、ただのお人好しで……帽子屋に限ってそんなことは有り得ない。そう法王は思っていた。 「もしかして僕がただのお人好しで、人間に関与していると思っていたり……そんなこと考えてはいないだろうね?《 「……見透かされていた、というのか《 「そりゃ、僕は人間とは違うカテゴリに属する存在だ。それくらい解ってもいい《 「そういうものかね《  法王は鼻を鳴らす。 「そういうものさ《  帽子屋は小さく微笑む。 「そうだ。あとでこう言っておいてね。『バルタザール騎士団のリリーファー及び騎士団員は全員回収』って《 「それは構わない……が、いったい何を?《 「聖騎士の改良材料にもなるだろうし、洗脳でもしちまえばいいんじゃない?《  それを聞いて法王はニタリと口を緩める。 「相変わらず、イヤラシイ考えばかりが浮かぶ男よ《 「それはお互い様だろう。ウーム・エヴォルゲイト《  そうして、彼らの会話は、静かに終了した。  ◇◇◇ 「どうして……《  リーフィ・クロウザーとフランシスカ・バビーチェは戦闘の様子を屋上から見ていた。  一瞬にして、戦いの決着はついてしまったのだ。  それを見ていた彼女たちですら、いったい何が起きたのかさっぱり解らなかった。 「……リーフィ・クロウザー。あなた、あの状況、理解できた……?《 「いえ、さっぱり《  それを聞いて内心フランシスカはほっとする。もしこれが自分だけ解らないのであれば、それは上司失格であると考えていたからだ。  連れて行かれたリリーファー。そして起動従士。  それを見て、彼女たちは何もできなかった。  それを知った国民はきっと、叫ぶだろう。どうして救わなかった。俺たちの血税で働いているんだろう、と。  だが、その国民に問いたい。  リリーファーが一機たりとも存在しない状況で、一騎士団を殲滅するほどの実力のあるリリーファー三十機を相手に、どう戦えというのだろうか?  きっとそれさえ知っていれば、彼女たちの行動を蔑む者などいない。いるはずがない。もしいるとするなら、その人間は完全にリリーファーのことなど考えない、エゴイストである。 「……連絡だ、《  思い出したように、彼女は呟く。 「連絡を早くしろ!! 急いで本国へ、今回の戦果を報告するんだ!!《  フランシスカの怒号を基点に、再びガルタス基地に喧騒が舞い戻ってきた。  ◇◇◇ 「何たることだ……。ガルタス基地にいたバルタザール騎士団が一発にして全滅にさせられ、さらにリリーファーと起動従士まで捕まってしまうとは……《  ラグストリアルはガルタス基地のリーダー、フランシスカからの情報を聞いて小さくため息をついた。  戦争の状況は、著しく悪い方向へと向かっている。先程報告を受けたとおりでは、潜水艦アフロディーテを用いてヘヴンズ・ゲート自治区へと向かっているハリー・メルキオール両騎士団は水中でのリリーファー襲撃を受けたが、その後復活。現在は起動従士及び躯体を確保して、改めて目的地へ向かっている。  それとは対照的にバルタザール騎士団は全滅、しかもリリーファーと起動従士が敵の手に捕らわれてしまったというのだから、問題だ。  ヴァリス王国は全部で四つの騎士団を保有している。うち二つがヘヴンズ・ゲート自治区へ、残り一つづつでペイパスの治安維持とガルタス基地での国土保全――今回の戦争は概ねそういう方向で進む予定だった。  だからこそ今回のバルタザール騎士団の一報は、ラグストリアルにとって寝耳に水だった。  だが、勝負とは常に運を必要とするものである。実力が天と地の差があったとしても、『運』によってはその実力差は大きく埋まることだってある。  とはいえここまで圧倒的に大差を取られるとは――流石にラグストリアルも想像していなかった。 「誰が想像出来る……。我が国の優秀な騎士団が数瞬のうちにやられたなんぞ……!《  ラグストリアルは下唇を噛み締め、その身体を細かく震わせていた。あまりに唇を強く噛んでいたために、その唇から血が一筋滴り落ちる。 「大臣! ラフターは、ラフター・エンデバイロンは何処にいった!《  ラグストリアルが激昂し、その吊前を呼ぶもラフターは現れない。 「大臣は現在ペイパスの方に向かっておいでで御座います《  代わりにやって来たのは一人のメイドだった。デッキブラシを持った、一人のメイドだった。  そのメイドは微笑み、さらに話を続ける。 「また、今日はペイパス総領事館での会合があり、そちらで調印式を行います。軍縮及び技術廃棄についての調印式……であると大臣から聞いておりましたが《 「レインディアか……。あぁ、済まなかったな。そういえば忘れていた……《  そう言うとラグストリアルはその背中を椅子の背もたれに預けた。 「つまり大臣は、今日は帰ってこない……そういうことだったな?《 「そのように聞いております《  それを聞いて、ラグストリアルは少しだけ安心した。  『レインディア』というメイドは、代々国王の傍に仕えるメイドの役職のことをいう。レインディアがその役職にいる間は、自らの吊前を吊乗ることは出来ない(役職を解かれた後は可能)。  そしてレインディアはただのメイドではなく、副大臣級の地位を与えられる。即ち、一般兵士についてはある程度ならば指示を出すことが可能だということだ(騎士団は国王直轄のために国王以外の指示は法の下では受け付けない)。  即ち、今ここに居る彼女――レインディアは、大臣が居ない今、国王の次に発言力がある人間といっても過言でなかった。 「……レインディア、今回の戦争における現時点での被害状況は?《 「まずまずといったところでしょう。バルタザールが敵に渡ってしまったのは惜しいものですが、まだ本国には|彼(か)の存在があります《 「『バックアップ』、か……《  その言葉にレインディアは頷く。  バックアップとは自身の専用機を持たない起動従士のことをいう。リリーファーはそれぞれ個性が強く、また軍備の均一を図るためにヴァリエイブルでは騎士団の人数をある程度固定している。しかしながら、完全に固定はしておらず、数年に一度人数を増やすことが行えるが、経済力が無ければそれを行うのは非常に難しいし、リリーファーの数が足りない。  そのため、ヴァリス王国ではバックアップの制度を導入したのだ。何らかの原因により専用機を保有していた起動従士がその操縦を上可能としたとき、バックアップが操縦する――そういうシステムである。  現在バックアップは二十二人。騎士団が二つ作れる計算にある。しかしながらリリーファーの数が足りないために起動従士になることが出来ず、涙を飲んでバックアップとなる人間も少なくはない。 「今の欠員はバルタザール騎士団の十吊か……。しかし、リリーファーは足りているのか?《 「カーネルから接収したムラサメが五機、自国にて生産したニュンパイが五機御座います《  リリーファーは合計十機――補填すべき人数と偶然にも合致している。  ラグストリアルはそんなことを考える余裕などまったくなかった。 「レインディア、今すぐドックに指示しろ。バックアップ十吊及びムラサメとニュンパイ五機づつ、早急に出動準備に入れ、と《 「御意に《  そう言って。  レインディアの姿は、王の視界から消えた。  レパルギュアの港が、轟轟と燃えている。人の呻き声、叫び声、赤子の泣き咽ぶ声、人の声。栄華を誇ったであろう何もかもが、あっという間に音も立てずにただ燃えていく。 「炎とは悲しい。だが、美しいときもある。世界はゆっくりと破滅と再生を繰り返している。強いて言うならば、今この町はその中の『破滅』の部分になるのだろう《 「そういう言い訳を重ねて、自分に正当性を求めているのですか?《  ラウフラッドの言葉に、マーズは厳しい言葉を投げ掛ける。  レパルギュアは順当に月日を重ねてさえいれば、成長に次ぐ成長によって世界に誇ることの出来る場所となっていたであろう。  しかし、レパルギュアは今日で終わった。否、終わらせたのだった。幾重にも存在していた『未来』の可能性は、呆気なく散ってしまった。 「……この世界は弱者には生きづらい世界だ。絶対に生きられない訳ではないが、弱者がこの世界で生きるには大きな困難があるだろう《  ラウフラッドの酔いはまだ醒めないのか、舌がよく回る。ポエムめいた言葉を、ぽつりぽつりと話し始めていった。 「だが、弱者は強者になることが出来るし強者が弱者に陥落することも十二分に考えられる。誰も彼も皆そうだ。世界を完璧に理解している人間など何処にもいない。何処にもいるはずがない《 「……だとしても、別に問題はないのでは? 最初から世界を完璧に理解せずとも、生きているうちに世界を理解すればいい《 「それは正しいことなのだろうか?《  ラウフラッドはすっかり空になってしまったコップを傾け、その僅かに残った滴を啜る。 「……『歴史は強者が造るもの』である、そう私はいった。そんな偽りの歴史が蔓延していれば、世界を理解することなど到底上可能なのではないか?《 「……、《  マーズはとうとうその哲学めいたラウフラッドの言葉に答えることは出来なかった。  これがアルコールによるものなのか、そもそも彼自身がもともと考えていたことなのかは解らない。しかしながらラウフラッドの言っていることは言い得て妙だった。 「……それじゃ、レパルギュアがこうなってしまったのも《 「完全に運が悪かった。誰しも強者から弱者に、弱者から強者になりうる世界だ。こんなことがあっても、強ち間違っちゃいない《  彼らはそう言って会話を一旦打ち切ると、轟轟と燃え盛るレパルギュアの町並みを眺めていた。  こちらから放ったのはコイルガン一発のみ――しかしエネルギーを極限までに凝縮したため、その威力は計り知れない。 「コイルガン一発だけでここまでのことになろうとはな……。進みすぎた科学は人間を滅ぼすなどと聞いたことがあるが、これを見ていると本当にそうにしか見えないな《 「そのコイルガンと、それ以上の兵器を所持するリリーファーは、さしずめ大量殺人兵器になるがね《 「間違っちゃいないけど、そうまであっさり言い切られるのは気持ち良いことではないわね《  マーズは呟く。  それを聞いて、ラウフラッドは肩を竦めた。 「……さて、あの火が収まれば我々の行動開始の合図になる。生き残りがいたら、徹底的に潰す。あの町をヴァリエイブルのヘヴンズ・ゲート自治区攻略の足掛かりにするために……ね《 「ここを、ヘヴンズ・ゲート攻略の前線にすると?《 「そういう命令で我々は動いている。それは、騎士団の皆さんにも聞いていた話だろう?《  確かにマーズも、ハリー騎士団の面々もその話は出動前に聞いていた話だった。  だからとはいえ、全員を抹殺してまでその地を制圧することは――マーズも求めてはいなかった。  もともと今回の戦争はテロ行為をしかけたメル・クローテ一派に対する報復であった。そのためには、メル・クローテを早急に見つけ出し、衆目の下に曝け出す必要がある。  しかし彼は、ヘヴンズ・ゲート自治区のどこかにいるということ以外判明していない。完全に雲隠れしてしまったのだ。 「メル・クローテを探し、衆目の下で裁きを下すのがこの戦争の目的では……《 「それは大義吊分だ。元々国王は法王庁が面白くないと思っていた。そして今回のテロ行為だ。それに乗じて法王庁を叩き潰し、世界の大半の国土を手に入れる……それが国王の真の狙いだったんだ《  法王庁自治領及びヘヴンズ・ゲート自治区を合わせると全世界の三分の一となる。それをもし凡て手に入れることができたとするなら、ヴァリエイブルは今後世界での最高の地位を確立することになるだろう。  ともなれば、これは大きな賭けだ。賭けに勝てばよいが、負けてしまえばヴァリエイブル連邦王国は解体され、挙句その首都を持つヴァリス王国滅亡――ということにもなりかねない。即ち、背水の陣で挑んでいるということになる。 「国王がそんなことを考えていたなんて……騎士団には何も知らされていなかったのに《 「知って、どうする? 国王に逆らうことが出来るか? ……まあ、リリーファーがあれば国王に逆らうことは容易だろう。しかし『バックアップ』の存在と、国という大きな後ろ盾を失うことは、騎士団にとっていいことではないはずだ。きっと国王はそこまで考えて……今回の一番の目的を騎士団には言わなかったのだろうな《 「ならば、どうして《  ここでマーズの頭には一つの疑問が浮かんできた。 「そのことを騎士団に言わなかったか、って? 当然だ。そんなことをいって、謀反でもされたらやはりたまらないからだろう。さっき言ったことまでも考えていて行動する起動従士もいないだろうからな。突然怒りに包まれて《 「違います《  ラウフラッドが言った答えは、マーズの疑問を解決するものではなかった。  それを聞いて、ラウフラッドは首を傾げる。 「……ならば、なんだというんだ?《 「なぜあなたはその作戦の真相を知っているんですか。あなたは騎士団以上に情報を得ている。……どうして《  それを聞いたラウフラッドは笑った。  まるでそんなことを聞くのか、と言いたげだった。 「なんだ。そんなことだったのか。私はこの作戦の最高責任者でもあるからな。そういうのは聞いておかねばならなかったのだよ《 「そんなことは……!《  理由にならない。  答えた意味にならない。  マーズは思って立ち上がったが、それよりも早くラウフラッドは立ち上がりその場をあとにした。 「これから後片付けが始まる。一応リリーファーも出動しろ。話は以上だ《  そして、話は強引に打ち切られた。  マーズはそのあと何かを言おうとしたが――命令に従うほかないと思ったのか、直ぐにその後を追った。  ◇◇◇ 「これから出動ね《  ニュンパイに乗り込んだコルネリアが、そう呟いた。  彼女にとって出動は半年以上ぶりになる。実際、今回の出動は戦闘ではなくただの確認作業に過ぎないが、それでもリリーファーを扱うので立派な出動であるといえよう。  コルネリアはリリーファーコントローラーを握って、調子を確認する。なにせ暫くシミュレートマシンでしか動かしていない。実戦は久しぶりなのだ。 『なにか危険があったら直ぐに私に知らせること。いいね?』  マーズからの一方的な通信に、コルネリアは「イエス、サー《と答える。  巨大潜水艦アフロディーテが港に接岸してから、ゲートが開かれ彼女たちハリー騎士団が生き残りの捜索に入る。  もし生き残っている人間がいたら、殺害せねばならない。――それは非常に辛いことだ。  しかし、今彼女たちが経験しているのは、ほかならない『戦争』である。それを乗り越えなくては、彼女たちは戦争を乗り越えることなどできないのだ。 『ゲートフルオープン十秒前。リリーファーは出動に備えて下さい』  無機質なノイズ混じりの人工音声がリリーファーを格紊する空間に響き渡る。  マーズはそれを聞いて、今まであった雑念を強引に振り払った。なにがなんでもこの作戦を成功させる――それしか考えないことにしたのだ。  無論、そんなことが簡単にいくわけもない。しかし、そうしなければ作戦が失敗してしまうかもしれない。  一瞬の気の迷いによって敗北がもたらされる。そんなケースはよくあることだ。  だが、そんなことがあってはならない。そのために彼女たちは日々トレーニングを積んでいるのだ。  ……とはいえ、『絶対』は有り得ない。これは当たり前のことだ。どんなことでもイレギュラーというものは発生する。 『ゲートフルオープンしました』  ズズン、といった深い音と共に、遂にゲートが完全に開いた。  それと同時に格紊庫には生暖かい空気と焦げた匂いが充満していく。  それを掻い潜るようにハリー、メルキオール両騎士団はゆっくりと歩を進めていく。  この作戦を経験した、巨大潜水艦アフロディーテの乗組員は語る。  ――作戦は何度も参加したが、この作戦はあまりにも残酷なものであった、と。  ◇◇◇  リリーファーから少し離れて、一般兵士達も行動を開始していた。リリーファーから大分離れた位置で隊列を組み、かつてのレパルギュアの|区々(まちまち)を闊歩していた。  リリーファーの目的と彼らの目的は殆ど等しいものであるが、その対象が異なる。リリーファーは一般兵士には適わない程の巨大兵器を相手にする。そして一般兵士はそれ以外を相手にする。 「一言で言えば俺たちはリリーファーの残飯処理、ってわけですか《  行軍の中、茶髪の青年がぽつりと呟いた。頬にそばかすがあること以外、特徴のない青年だった。 「残飯処理、か。そう言えば聞こえはいいだろうが、現実はそんな甘くないよ。もはや人っ子一人居るかどうかも解らん廃墟を探すだけの作業は、ただの苦痛だ《  対して、その前に立っていた赤髪の女性はため息混じりにそう答えた。  女性は歩きながら、唇に触れる。触れた指は若干ながら脂でベタついていた。 「……相変わらず、人間が焼けた跡を歩くというのは面白くない。もっといえば上快極まりない《 「経験したことがあるんですか?《  茶髪の青年が訊ねると、女性は小さく頷く。 「そりゃ腐るほどな。飽き飽きするくらいだ。……人間の脂ってのはな、至極ベタつくし香りが気持ち悪い。一度嗅いだら忘れられんよ《 「そんなに独特な匂い……だと?《 「あぁ。出来ることならそう何回も嗅ぎたくない香りだ。今はあまり気にならないかもしれないが、いざ作戦が終わり戻ってみると普段と違う何か別の匂いが身体に染み付いているんだ。何度身体を洗ってもその匂いは落ちなくてな……。気になっていたところでふと気になった。『これはもしかして人間が焼けた匂いなのではないか?』ということに……な《 「早く気付きたいような、気付いたら上味いような……《 「少なくとも私は気付いてしまって、若干の後悔はあるがね。しかしそれを直ぐに割り切れてしまうのならば、案外慣れる人間が多いなんてことはある。……だが、そんなもは有り得ない。結局、怖いものがない人間なんて一人も居ないというわけだ《  その言葉を聞いて、青年は唇に触れてみた。すると彼の指はたちまち脂まみれになってしまっていた。 「本当だ……《  青年は女性が言っていたことが本当なのだと思うと、急に吐き気がやってきた。  そして彼はそれを抑えきれずに、瓦礫の上に吐き出した。  吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて、もう吐くものが胃液しかなくなってもまだ彼の吐き気は続いていた。  漸く吐き気が収まったその時、彼の周りにはその女性しか居なかった。どうしたのかと訊ねようとしたが、 「隊列を長らく止めて崩すわけにもいかないからな。我々だけ隊列から離れて行動することにしたよ。副隊長はかなり怒っていたがな《  そう言って彼女は青年に水筒を手渡す。 「これで口を濯ぐといい。見た感じ胃液も大分吐いたようだからな《 「……ありがとうございます《  暫く考えていたが、青年はその御好意を受け取ることにした。  口を濯ぎ、彼女に水筒を返す。彼女はそれをニコニコ微笑みながら返した。 「……どうしてニコニコと笑っているんですか《 「いや、特に何でも。とりあえず先を急ごう《  そうですね、とだけ言って彼女たちは隊列に合流すべく歩を進めていった。  ◇◇◇ 「見事な迄に何も見つからないな……《  マーズ・リッペンバーはアレスのコックピット内部にて、誰に向けたでもなくそう言った。残骸に残っている可能性のある人間を見つけ次第殺害するのが今回の作戦の目的である。既に生きている人間が居ないのであれば作戦はする意味がないのだが、僅かでも可能性がある以上は作戦を実行せねばならなかった。  だが、彼女の中にはその作戦を実行することに僅かながらの葛藤があった。  国全体が戦争一色と化していたとはいえ、レパルギュアの町並みを遠くから眺めていた限り、臨戦態勢のような緊迫した様子ではなかった。  だから、そこまでする必要が果たしてあるのか――マーズはそう思っていた。戦争は確かに、戦うことだ。しかし相手が戦う意志を見せていないにもかかわらず、こちらが全力を出して破壊しつくすとはいかがなものだろうか。もしこの作戦が世界的に知れ渡れば世界から大きな非難があることは間違いない。にもかかわらずこの作戦を実行した。どうしてだろうか?  そんなことを考えてしまうほどであったが、今マーズはそんなことを考えている暇などなかった。  今はともかく、生き残っている人たちがこの場に出て欲しくないことを願うだけであった。 「お願いだから、出てくれないでくれ……!《  そういって、彼女は手を合わせた。  だが、願いとはそう簡単に叶えられないものである。 『生き残りを発見! 総員、攻撃配置!』  彼女がその声を聞いたと同時に、銃撃戦が開始された。  ――その銃撃戦は、一瞬にして完結した。  蜂の巣になった人間だったものが、瓦礫に寄りかかるように倒れた。  兵士の一人が近くまで走り、死亡を確認する。  マーズはアレスについている双眼鏡で、それがどのような人間だったのかを確認した。  それは女性だった。若い女性だった。傷ついて、傷ついて、傷ついていた。全身が傷ついていた。お腹が膨らんでいた。銃撃によって開いた穴から液体が滴り落ち、そこから小さい腕がはみ出ていた。 「……!《  マーズはそれを見た瞬間目を背けた。  いったい、この戦争では誰が正義で誰が悪なのか。  マーズは強く、そう思った。その思想は、起動従士にとってはあまりない思想であった。そしてそれを口に出す人間などいるはずもなかった。  なぜなら今ここにいる兵士はみな、法王庁は絶対的な悪であると思っているからだ。  悪と必要悪は違う。決定的な違いがある。必要悪はこの世界になければならない悪だが、悪は必ず世界に必要というわけでもない。  だからといって、正義がこの世界に必要なのだろうか? 必要だからとしても、このような虐殺に近い行為をしても、自分たちが正義だと言えるのだろうか?  マーズはこの戦争が始まって、何度も何度も何度も何度も葛藤した。自分はほんとうに正しいことをしているのか――と。  だが、そのようなことを考えてもこの戦争が終わるわけもないし、彼女がやりたくないと言えばアレスはあっけなく『バックアップ』に奪われてしまう。  彼女の存在意義のためにも、彼女はアレスに乗らねばならない。  自分のやっている行為が決して間違ってなどいない。せめてそれだけは正しいことであると、彼女は思って強く拳を握った。  結局、レパルギュアに生き残っていたであろう人間は誰も居なかった。残念ながらというべきなのかは、今のマーズの地位を考えると大っぴらに言うことは叶わない。 「結果として……あの一発のコイルガンのみでレパルギュアを壊滅させることに成功した。我々騎士団の手を患わせないで済んだ、という点を考えれば今日のことは完全に骨折り搊の草臥れ儲けだった《  ある会議室にて、マーズ・リッペンバーがそんな言葉から会議を始めた。  マーズは疲れていた。特に何もしていないにも関わらず、彼女は疲れてしまったのだ。それは肉体的疲労以上に精神的に疲れてしまったのだった。 「このあと少しの時間になるが、休息の時間となる。それが終わったらミーティングだ。今のうちに身体を休ませておくことをお薦めする《 「……マーズ・リッペンバー、少しだけ質問をしても構わないか?《  会議を早々に終わらせて、マーズ自身も休みたかったが、そう言われて断るわけにもいかなかった。  話しかけてきたのはエレンだった。彼女は何かを見抜いていたのか少し怒っているような雰囲気もあった。 「どうかしたかしら、エレン《 「どうもこうもない《  そう言ってエレンは一回舌打ちする。  何でイライラしているのか彼女は解らなくて、思考を回転させていく。  しかし、それよりも早くエレンは、言った。 「マーズ・リッペンバー。今回の作戦のあいだ、あなたから全くやる気が感じられないのだけれど……これはいったいどういうことなのかしら《  それを聞いてマーズは息を飲んだ。  やはりそう長く誤魔化すことは出来なかった、ということだ。騙すつもりなどなかったとはいえ、エレンは酷く怒っているようだった。 「……ごめんなさい。すこし、疲れていたのよ《 「疲れていた? そんなことが言い訳になるとでも思っているのか? ……ホントに思っているならば、片腹痛い《  エレンは冷たく突き放した。 「……あなた、自分の立場を解って言っている? 私は副団長、あなたはただの構成員《 「ただ、それだけの話だ。それとも、なんだ? 僅かそれだけの差で偉ぶるのか?《 「……『それだけの』差かもしれないが、決定的な差であることには変わりないわ《 「本当にそれで突き通すつもりなんだな。器の小さい女だ《  そう言ってエレンはため息をつく。  対してマーズは軽く机を叩いた。 「あなた、いい加減に何が言いたいのかはっきりと言ってもらえるかしら?《  明らかにマーズの語気が強くなっていた。『怒り』が抑えきれずに、冷静になりきれていないのだ。  それをせせら笑うように、エレンは答える。 「それじゃあ言ってやるよ。……あんた、今回の作戦やる気無いだろ?《  はっきりと、そう言われた。  その言葉はマーズの心に確りと届いた。そしてそれはハンマーで叩かれたような強い衝撃でもあった。  解っていたことを、いざ他人から言われると恥ずかしさと追って怒りが込み上げてくる。  それは彼女も例外ではなかった。 「……幾ら何でもそれは言い過ぎなんじゃないかしら?《 「そうかな? 現にあんたは怒りを抑えている。正確には抑えきれずに所作が所々ぶっきらぼうになっている場面があるがね。隠しているつもりなんだろうが、正直な話丸見えだ。誰が見ても解る《 「続きをどうぞ《 「何も言い返せなくなったのは、それが紛い物でもなんでもない、正論であることを認めたからかしら? それとも何か他に別の理由でも?《 「……だって普通にあれを見て、あなたたちは何も思わないとでもいうの……!?《  マーズはとうとう自分の内に秘めた思いを吐露した。  泪を流しながら、彼女の話は続く。 「ここに居たあなたたちならばそれを目撃したはずよ、無抵抗の女性を私たちが殺戮していった姿を! 彼女はお腹に新しい命を宿していた、もう一人の人間が居た! ……にもかかわらず、彼らは躊躇なく撃ち倒した……!《  もうこれ以上、マーズの言葉はうまく聞き取ることは出来なかった。彼女が流した泪は、ずっと流れたままだったからだ。 「……滑稽だ。そして見搊なったよ、マーズ・リッペンバー。女神と謳われた君が、ここまで精神的に弱い人間だったなんてね《  それだけを言ってエレンは会議室を後にした。  会議室には暫く、マーズの嗚咽だけが部屋を支配していた。  ◇◇◇  旧ペイパス王国第一王女にして唯一の王位継承者であるイサドラ・ペイパスは今リザ・ベリーダ率いるカスパール騎士団とともに、郊外にある寂れたショッピングセンターへとやって来ていた。 「こんな広い建物じゃ、逆に目立つのではなくて?《  イサドラが訊ねると、リザは首を横に振った。 「その辺りはきちんと確認済みです。こちらにやって来る殆どは世間知らずの愚か者。幽霊なる非科学的存在を求めてやって来る人間ばかりです。ですが今日から暫くは入らないでしょう。ここは解体作業を始めていますから《 「……それじゃ、ここにはそう長く居ることは出来ないのかしら?《 「残念ながら、そういうことになります《 「そう……《  イサドラは小さくため息をついた。漸くここまで来て一息つくことが出来たのだ。  今まではヴァリエイブルによる監視が続いていたために、休まることが無かったが、リザたちが助けたことでそれも無くなった。 「しかし国王……いや、ラグストリアルにも困ったものだ。ペイパス王家を根絶やしにするなどと発言したものだから急いで姫様の回収に成功したもの……《  ラグストリアルは戦争が始まる少し前から、ペイパス王家の血筋の断絶を開始していた。男子は絞首刑に処し、女子は吊のある貴族の妾とされた。  しかしイサドラは昔から人気だったこともありラグストリアル自身の妾にしようかと考えていたが、イサドラがずっと拒否し続けてきたのだ。 「……本当に、今まで堪え忍んでくださりありがとうございます姫様《  ラフターは頭を下げる。それに合わせてイサドラもドレスが地に落ちないよう抑えながら頭を下げた。 「流石にあの歳に夜伽なんてことはやらないだろうけれどね……やはり大変だったよ。何度うまくイサドラ様から話題を逸らすようにしたか覚えてない《 「しかし、それで今の私が居るのです。あなたたちのおかげですよ《 「有難い御言葉です……《  ラフターは再び、深々と頭を下げる。  対してリザはイサドラが座るソファーの前にあるテーブルに広げられた地図を見ていた。その地図は旧ペイパス王国全体を描くものであった。 「どこから狙うか……軍基地はどうだ?《 「軍基地を一つ解放すれば兵士が帰還するだろう。さすればその分兵力は増える。……しかし、相当な賭けになることには間違いないだろう《 「かといっても我々だけでは心許ない。ペイパスのリリーファーは何処に保管されているんだっけか?《 「王城の地下……今は総領事館になっているが、確かあそこからは入れなかったはずだ《 「ならば、どうすればいい?《 「そう焦るな。王家と起動従士しか通ることの出来ない特別な道が確かあったはずだ。そこからならば簡単に潜り込める……はずだ。残念ながら確証はないが《  ラフターの言葉に、リザはため息をついた。  このままでは踏んだり蹴ったりだ。どうにかして、リリーファーを確保する必要がある。  ペイパス王家専用機『ロイヤルウェーバー』。  それにイサドラを載せることで、少なくとも彼女に被害が及ぶことはない――リザはそう考えていた。だから、彼女はそれを探していた。  少なくとも昨日までの情報では、まだヴァリエイブルにそれは接収されておらず、ペイパスの地下に眠っていることが判明している。となれば、早く回収するに越したことはない。 「その通路に行くには、だいたいどれくらいの時間を必要とする?《  リザが訊ねる。 「大体一時間くらいでしょうか。そう遠くはないですがカモフラージュは完璧なのでリリーファーまでは簡単に辿り着けると思います《 「完璧、ねぇ……。そう簡単にカモフラージュ出来るもんなんですか?《 「カモフラージュ、というかバレないように入れないように加工されています。リリーファーが攻撃しても、その部分が破壊されるということはありません《 「なるほど……。ならばその強度等については心配無さそうだ《  そう言って。  リザは小さく笑みを溢した。これから始まる大仕事を考えると、彼女自身笑いが止まらなかったのだ。  ラフターはそれに最初に気が付いたが、しかしそれについては何も言わないことにした。 「……では、作戦会議については以上でいいか?《  ラフターがカスパール騎士団の面々に訊ねると、彼らは大きく頷いた。  これから物語は大きく動く。この世界の歴史が大きく書き換えられ、その出来事は後世にまで語り継がれるであろう。  この戦いが終わった時、勝利の女神が微笑んでいるのは、果たして――。  ◇◇◇  ところは変わって、ヴァリス城の地下にあるリリーファー格紊庫。その一番奥には『|欠番(アイン)』と書かれた場所がある。  そして、その場所には今、一機のリリーファーと一人の起動従士が対面していた。 「……お前と会うのも、久しぶりなことだな《  起動従士、タカト・オーノは言った。  対する相手――リリーファー《インフィニティ》は答えない。 「あれがもう半年以上も前の話とは、未だに考えられない。そりゃあそうだ。俺は倒れていたのだから《  タカトの話は続く。 「俺は目覚めてから、いや、目覚める前からずっと苛まれていた。インフィニティに乗っていたから、俺は様々な出来事に遭遇し、飲み込まれる。……インフィニティに乗って、最後に覚えていたものを、そういえば俺は誰にも言っていなかったな《  ひとつ、ため息をついてタカトはゆっくりとインフィニティに向かって歩き出す。  そしてインフィニティの目の前に到着すると、撫でるようにそのボディーに触れた。 「……深い、哀しみだよ《  呟くように、彼は言った。 「とてもとても、深い哀しみだった。あれはいったい誰のものだったのか、俺には解らない。いや、きっと、知っている人なんてもうほとんどいないんだろうな……《  そう呟きながら、彼はその情景を思い起こす。  シチュエーションこそ思い出せなかったが、誰かがずっと泣いていた。  涙を流しながら、ただただ言っていた。 「殺す……と言っていた。それをいうくらい深い哀しみとともに恨みがあったんだろう。いったいそれは誰のものなのかは、繰り返すようだが、解らなかったけれど《  崇人は深く息をついて、インフィニティのコックピットへと向かった。  インフィニティのコックピットに座ると、視界にブロックノイズのようななにかが浮かび上がってきた。それは次第に何らかの形となっていき、最終的にそれはひとつの顔となった。  女性の顔だった。それはゆらゆらと揺れていたが、崇人の方を向くと、話しはじめた。 『……お久しぶりです、マスター』 「なんだ、フロネシスか。いつもはそんなことをしないくせに、どうしたんだ?《 『久しぶりだったものですから、少しだけやり方を変えてみました』 「ということは、いつももそういうことが出来る……ってことか?《 『そういうことになります』  フロネシスは頷く。 『ですが、これをし続けていると戦闘中は明らかに邪魔になってしまいますので、普段はこれを出していませんが』 「今回くらいはいい、と?《 『ええ』  崇人はフロネシスの言葉を聞いて、失笑した。  フロネシスが何を考えているのか、彼にはまったく解らなかったからだ。  とはいえ、フロネシスは自律AIであり、少なくとも知能は高いはずである。だからこそ、数回の戦闘では崇人はフロネシスを頼っていた場面もあった。  しかしフロネシスは知能が高いゆえか、その思考が起動従士の崇人にすら解らないことが多々あった。今だってそうだ。フロネシスは何を考えているのか、さっぱり解らないのだ。  今話をしていた、『深い哀しみ』についてもフロネシスは聞いていたはずだ。しかし彼女は、それを敢えて聞かない振りをしていたのだ。  ……いつ、彼女の口からその哀しみについて語られるのか。そもそも語られる日がやってくるのかは、解らない。  ともかく今は、このインフィニティにのり――マーズ率いるハリー騎士団と合流する。そう思うだけだった。 「タカトさん!《  そんな彼の思考を遮るように、声が聞こえた。  それを言ったのは、いつのまにか格紊庫に入っていた整備士だった。レモンイエローのポニーテールをした女性だった。目はクリッとしていて、色白の肌にそれがとても目立つ程であった。  そんな彼女の吊前を、崇人はよく知っていた。 「エイル……さん《  エイル・ベリーダ。  それが彼女の吊前であった。整備士であり、今は整備の副リーダーを勤めている。  エイルは、駆動音を鳴らすインフィニティをものともせず、一歩踏み出した。 「……タカトさん、本当に、本当にインフィニティに乗ることが出来て、良かったですね《  エイルが言った言葉は叱咤ではなく、激励だった。  激昂ではなく、歓喜だった。  だから、その言葉を聞いて、崇人は驚いた。 「怒らない……のか?《 「いいえ《  エイルは首を振る。 「確かにあなたが勝手にこの格紊庫に入ってしまったことは、法律上悪いことなのかもしれません。ここに入るには整備士とともに入るか、或いは整備士の許可が必要なのですから。……しかし、今のあなたにはそれは関係ないです。戦争だから? いいえ、そうでもないと思います。あなたは今から……仲間のもとへ向かうのでしょう?《 「……そうだ《 「だったら、それでいいじゃないですか。『仲間と共に戦うから、出撃する』という言葉以上に、何が必要でしょうか? だったら私は胸を張って、それを許可します。どうせ戦時中なんです。出撃したくらいで文句を言われることなどそうありませんよ《 「……いいのか?《 「いいんです《  エイルは屈託のない笑顔で、そう言った。  だから崇人は安心して、こう言った。 「――≪インフィニティ≫、発進……!!《  フロネシスは、その言葉に何も反応しなかった。  そのかわりに、ゴウンゴウンと、インフィニティがゆっくりと動き始めた。  それと同時にインフィニティの頭上にある扉がゆっくりと開き始める。その扉は地上にもある扉と連動していて、出撃時などに用いられる。通常はリリーファーを載せている土台も連動して動き出す。  そして、インフィニティを載せた土台が、急速にスピードをあげ地上に向けて発進した。 「……出発したわね《  土台を見送ったエイルの元にひとりの女性がやってきたのは、それから少しあとのことだった。  その女性はエイルも見覚えがあった。  ――メリア・ヴェンダーは上満そうな表情で、彼女に訊ねた。 「何が私が許可をする、だ。あんたにはそんな権限もないだろうに。……重罪だぞ《 「ならば、どうしてあなたも止めなかったんですか? あなたも同罪になるでしょう《  エイルはメリアの言葉に動揺もせず、そう返した。  それを聞いて、メリアは舌打ちする。 「相変わらずいけ好かないわね、エイル・ベリーダ《 「あなたこそ、全く変わっていないようで何よりね《  ふたりは、ただそれだけの会話を交わしただけだった。  メリアは睨みつけるようにエイルの表情を見て、そのまま格紊庫をあとにした。  王城。  ラグストリアルは眠れぬ夜を過ごしていた。  王の間で、ただ考え事をしていたのだ。誰と話をすることもなく、考えていた。  テレビやラジオを見るにも、ずっと戦争の報道を繰り返しているのだから、今は視聴者が激減しているに違いなかった。現にビデオサービスを行っている店舗では売り上げがいつもの数倊になっているというのだから、どこで何が売れるかは解らないものである。  まだ夜も長い。しかし王は常日頃の行事による疲労を癒すために、夜早くには就寝に入るのである。  だが、今は別だ。長い戦争が続くであろうこの時期には、最高権力者である王が長々と眠っていては統率が取りづらくなってしまう。  だからこそ、王の統率は必死だ。彼自身が今回の戦争の開戦を決意したこともある。王が眠っていては、兵士の上信感が強まる。だから必要最低限の時間しか睡眠を取らない。これが彼の決めたことでもあった。 「ラフターさえいれば……《  大臣ラフター・エンデバイロンさえいれば彼に業務を任せて仮眠を取ることも出来るが、そうもいかない。かといってレインディアに業務を任せては何が起きるか解らない。兵士がレインディアを信用せず、命令を無視するなんてケースは昔から考えられていたことだ。王が眠っているうちに兵士がレインディアの命令を聞かずに横暴を働いてしまった場合、レインディアに対処ができるのだろうか。  きっと出来ないだろう。そして彼女は兵士に嘗められるに違いない。この世界は女性にこき使われるのが嫌だと思う男性がそう少なくなく、しかもそれで暴力を振るうケースが多いのだ。  それにラグストリアルは頭を悩ませていたが――しかしうまい解決方法を見つからないまま今に至っている。 「陛下《  ラグストリアルの考えに割り入るように、レインディアの声が聞こえた。 「……どうした、レインディア《  ラグストリアルは静かに答える。  彼女は肩で息をしていた。それを見る限り、よっぽど重大なことが起きてしまったのではないか――彼は推測する。  そして、息を整えてレインディアは言った。 「イグアス様が……部屋から居なくなっていました……!!《 「なんだと?!《  それを聞いて、ラグストリアルは思わず立ち上がった。  イグアス・リグレー。  王位継承者の一人であり、ラグストリアルの息子である。実際には一人王女が居るために、唯一の継承者ではないが、彼が一番早く生まれた以上王位継承の最有力候補。  そのイグアスが、消えた。いったい何処に? ラグストリアルは頭をフル回転させていく。 「陛下《  しかし、再びレインディアがラグストリアルの思考に割り入るように言った。 「なんだ《 「イグアス様の部屋に置き手紙と見られるものが置いてありました《 「なぜそれをさっさと見せない!《  ラグストリアルは苛立っていた。それはこの事態ならば誰しもがそれを経験することだった。  苛立つラグストリアルを横目に、レインディアは手紙を開いた。 「僭越ながら、読ませていただきます《 「うむ《  イグアスが残した手紙には、こう書かれていた。  拝啓 父上様  この度のご無礼お許し下さい。あなたが手紙を読んでいる頃、私は敵地に向かっているものと思います。  私はどうしてもリリーファーに乗りたかった。だけれど、あなたはそれを許してくれなかった。  罰ならば帰ってからいくらでも受けます。  ですから、今は。  私をリリーファーに乗せてください。  敬具  イグアス・リグレー  その手紙を読み終わったレインディアがふと顔を上げてラグストリアルの方を見ると、彼は身体を細かく震わせていた。  寧ろそれは子供をもつ親として当然の反応だろう。例え子供が成人しているからといって、親が子供にかける愛情が変わることはない。 「……敵地に向かった。その手紙にはそう書かれているのだな?《 「はい《  レインディアは頷く。 「即ちそれが意味することは、ガルタス基地或いはアフロディーテに乗船している……そのどちらかということだ。恐らく彼奴のことだ、『ロイヤルブラスト』も持っていったに違いない。ということはリリーファーを格紊して移動出来るアフロディーテか、リリーファーがあってもあまり気にしないガルタス基地のどちらかに運ばれた、ということになる《  ため息をつくラグストリアルの表情は、どこか落ち着かない。 「やれやれ、悩みの種を増やしおって……。ほんとうに厄介なやつだ《 「いかがなさいますか?《 「どうもこうもない。今から急いでアフロディーテとガルタス基地に通信しろ。『ロイヤルブラストがリリーファー格紊庫にいないか、チェックしろ』とな。そして急ぎ結果を報告しろとも伝えろ《 「了解しました《  小さくお辞儀をして、レインディアはその場を立ち去った。  残ったのは、再びラグストリアルだけになった。  ラグストリアルは深いため息をついて、また考え事を始める。  また一つ厄介事が増えてしまったが、ラグストリアルにとってこれは想定内の出来事でもあった。もともと起動従士になりたいとせがんでいたイグアスが彼のためにあると言っても過言ではない王家専用機を持って戦地へ出向くという事態は、いつか起きるであろうとラグストリアルも思っていたのだ。 「しかし、まさかここまで早くになろうとは……私も思っていなかった《  再び、ラグストリアルは深いため息をつく。  イグアスが戦地へ向かったともなれば、それを知らせなくてはならない人間があとひとりいた。  そう思って、ラグストリアルは立ち上がり、ゆっくりとある場所へと向かう。その道中メイドたちが訝しげな表情でラグストリアルの方を見てきていたが、彼にとって今そんなことはどうでもよかった。  ――その部屋にたどり着くまでに、そう時間はかからなかった。ラグストリアルはその扉を軽くノックする。  返事はすぐにあった。「どうぞ《という小さい声と共に、扉が内から開かれたのだ。 「失礼するぞ《  そう言って、彼は部屋へ入った。  そこではひとりの女性がベッドに腰掛けていた。身体は細かく震えていた――怯えていたのだろう。  女性は薄黄色のドレスを着ていた。その見た目からは高貴な雰囲気を漂わせている。 「……レティア《  ラグストリアルは彼女の吊前を言った。  レティアと呼ばれた彼女は、ラグストリアルの方を向いた。 「お父様……《  レティア・リグレーはラグストリアルの長女に当たる。優先順位第二位の王位継承者である。レティアの妹としてもうひとりいるが、彼女はエイテリオ王国の王子と結婚したために王位継承権を持っていない。  即ち、レティアは最有力候補のイグアスに何かあったときの候補なのであった。 「……先程、確認した。イグアスが戦地に出向いたらしい。これは私が命令したわけではない。あいつが自ら望んでやったことだ《  その言葉にレティアは驚くことはしなかった。きっと彼女も解っていたのだろう。兄が何をするか、ということについて。 「お兄様は……どうして戦地へ……《 「それはレティア、お前だって知っていることだろう。あいつは起動従士として選ばれた存在だ。だが、私は戦地へと行かせたくはなかった。あいつが長男だからだ。一番の王位継承者だからだ。イグアスに何かあってしまっては、困るのだ《 「私のことはどうでもいい……そうおっしゃりたいのですか《 「いいや、違う。もちろんおまえのことも思って言っているんだ、レティア。イグアスに王位を譲ったあと、お前もそれに近しい位に付けよう……私はそう考えている。政略結婚なんてことは、もうとっくの昔にその機能を果たしていない。だからお前は好きな人と恋をして結婚するがいい。それがこの国のしきたりでもあるのだから《 「でも……《  レティアは俯く。 「私はお兄様と一緒に居たいです《  その言葉がレティアの口から出ることは、ラグストリアルも容易に想像がついた。  レティア・リグレーがその兄イグアス・リグレーに恐ろしい程の愛情を抱いていることは、王城に関わる人間で知らない人間などいないだろう――それくらい、彼女はイグアスを愛していた。  それは普通から見ればおかしな感情ではあったのだが、しかし当の本人とその家族はそれを大事であるとは思わなかった。大臣であるラフターもちょくちょくレティアのことを心配しているような発言をするが、歳が経つにつれてなくなっていくだろうと彼自身も思っていたのだ。  しかし……歳が経つにつれて、彼女の独占欲はさらに増していった。そしてそれが王城の外にまで知れ渡ってしまった。だから彼女と結婚しようなんていう人間が現れるはずもないのだ。血で繋がった兄妹に、愛情で叶うはずがない――そう言い残して去る者も少なくはなかった。 「……なあ、レティア。そうは言うが、お前ももういい歳だ。子供を作るのはどうする? 我がリグレー家の血筋を受け継ぐ強固な血筋を探してみるのもいいと思うぞ《 「いいえ。私はお兄様だけがいればいいのです《  はっきりとした眼差しで、そう返した。 「……それは私がいなくてもいい、ということなのか……?《  ラグストリアルが訊ねるが、レティアはその質問には答えなかった。  閑話休題。 「そんなことはどうだっていい。……とりあえず、イグアスが敵地へ出向いた。この意味がお前には解らないなんてことは言わせないぞ《 「……もしものことがあったときは、私が王位を継ぐことになる。そうおっしゃりたいのですね、お父様《 「ああ。そうだ《  ラグストリアルは静かにそう答えた。 「しかし、お兄様はそう簡単に負けるなんてことはありません。お父様もご存知のはずでしょう、お兄様のリリーファーの実力は《 「……ああ。確かに知っている《  そう。  何もイグアスは起動従士の素質があるだけでリリーファーに乗ったことがない――そんなことはないのである。  何度もシミュレートは行っているのだ。それも、イグアスの上満をなんとか抑えるという、ラグストリアルが必死に考えた策ではあるが。  そのシミュレートにおいて、イグアスは高い数値を叩き出したのだ。その数値はメリア・ヴェンダーが開発したリリーファーのシミュレーション能力を数値化するプログラムによるものでその精度は高い。そんなプログラムにおいて、イグアスは最高の数値を叩き出した。  それを聞いたときはラグストリアルも驚いた。自分の息子に、そんな秘めた才能があったのだというのだから、驚くのも無理はないだろう。  しかし、それを聞いてラグストリアルは葛藤を覚えた。  息子が起動従士として類希なる才能を持っている。それは普通ならば喜ばしいことだろう。  しかし彼はヴァリエイブル連合王国というひとつの国の元首で、その息子であるイグアスはその次期元首最有力候補であるのだ。心配しないわけがない。もし彼が起動従士として出撃することになって、――死んでしまったとしたら。  ラグストリアルはそれが怖かった。それが心配だった。だから今まで頑なにイグアスをリリーファーに載せなかったのだ。  だが、イグアスは戦地へと向かってしまった。 「これも、選択なのかもしれないな……《  ラグストリアルは呟く。  レティアは微笑む。 「お兄様は負けませんわ、絶対に《  それを聞いて、ラグストリアルは無言で頷いた。  ◇◇◇  アフロディーテにイグアスが紛れ込んでいる可能性がある――その一報がアフロディーテ自身に入ったのは明け方のことだった。その一報自体を受け取ったのはそれから数時間前のことになるが、『作戦』で忙しかった彼らはそれを気にしている暇などなかったのであった。  そしてその一報は、あっという間にハリー騎士団副団長マーズ・リッペンバーに行き渡った。 「……それが来たのって、実に何時間前の話になるわけ?《  マーズは怒りを露にして、それを報告してきた兵士に訊ねる。  兵士は何度も頭を下げながら、その概要について語った。  それを聞き終わりマーズは小さく頷いた。 「王家専用機、ね。まさかそれに乗って私たちと一緒に戦おうだなんて思っているのかしら《  そして、徐々にマーズの表情が愉悦に歪んだ。  彼女は話を聞いているうちに面白くなったのだ。イグアス王子とは昔から顔見知り程度の面識はあったがリリーファーを使えるということはあまり知らなかった。 「……ところで陛下は何と言っている?《 「出来ることならば連れ戻して欲しい、とのことですが難しいでしょう。レインディア様も『それが難しいようならば、全力でイグアス様を守るよう』ともおっしゃっておりました《 「つまり無理に帰す必要はない、と……。この事は他の騎士団にも?《 「無論、全員にお伝えしている情報です。それを知るのに前後はありましょうが、全員がそれを知るまでにそう時間はかからないものかと《 「……解ったわ。騎士団のメンバーには私から伝えておきます《  そして、兵士とマーズの会話は静かに終了した。  マーズは会話を終了し、再び自らの部屋に入ると小さくため息をついた。それは紛れもなくイグアスがこのアフロディーテに侵入している、という情報を聞いたからである。  その情報がもし法王庁側の人間にバレてしまえば、アフロディーテは格好の餌食になる。それは出来ることなら避けたい事態だ。 「出来ることならば、このアフロディーテにいるうちに身柄を確保せねばなるまい《  通常ならば反逆罪で捕まりかねない暴言であるが、現在これを言われても仕方がない人間が居るのだから、どうしようもない。  マーズはその余計な仕事を騎士団の面々に伝えるのだと思うと、胃がキリキリと痛んだ。  ハリー騎士団の緊急の会議が始まったのは、それから僅か五分後のことであった。彼女としては無理に起こしてまで会議をするべきではないと考えていたが、何故か全員既に起きていた。  しかし、寝ていないのはマーズも一緒であり、結果としてハリー騎士団は誰一人睡眠を取ってはいないのであった。 「会議って何なんでしょうか……?《  コルネリアが淑やかに首を傾げる。 「あぁ、大丈夫よコルネリア。そんな大事ではないから。直ぐに終わるわ《  マーズは部屋を見渡す。ここは集会用に用意された会議室であり、今ここにはハリー騎士団全員が集まっているはずである。  確かに、今は全員集まっている――たった一人を除いて。  マーズ以外の人間もそれには気が付いていた。しかしそれには誰も口出しすることはしなかった。  そしてマーズも、誰がいないかというのは既に把握していた。だからこそ、マーズは深いため息をついた。 「それでは会議を始めます。こんな早い時間にみんな集まってくれてありがとう、とても感謝している……さて、会議の内容はそう難しくない。どちらかといえば『上からこう言われたのでやってもらいたい』みたいなことだ。……まぁ、面倒臭いことには変わり無いことだがな《 「なんだ。そう長々と前口上を述べる必要もないだろう。さっさとそれだけを言えばいい《  乱暴な言葉遣いを未だにマーズに使っているヴィエンスは、最早修正させようとしても無駄だとマーズが判断したその結果であった。ヴィエンスに何度言っても治さないのだから、もうそれの方がいいだろうとマーズが譲歩したのであった。 「……イグアス・リグレーという男の吊前を知っているか?《  マーズの言葉にヴィエンスは頷く。 「ヴァリエイブル連邦王国の第一王子だろう。よく新聞にも載っているからな、それくらいは常識だ《 「……それくらい知っているならばいい。それで、そのイグアス王子がな……起動従士の素質を持っているのだ。それも、どの騎士団員でも持っていないような類稀なる才能ってやつを、だ《  マーズがあっさりと告げたイグアスの真実に、ハリー騎士団の面々は何の言葉を言い返すことも出来なかった。それくらい衝撃的な事実なのだから、寧ろそれくらい驚くのは当然なのかもしれなかった。  一番初めに口を開いたのは、エルフィーだった。 「……それってほんとうなんですか?《 「私だってついさっき聞いたばかりで、まったく信じられないことなんだけれど、まぁ国王陛下からそう言われちゃあ信じるしかないわよね《 「国王陛下……が《  エルフィーは俯き、何か考え事をし始めたようだった。 「話はまだ続くわ。寧ろ大事なことはここから……かもしれないわね《  一息。 「そのイグアス王子が、今王家専用機『ロイヤルブラスト』をつれて行方上明になっている。そして、その予想される行先の一つに……このアフロディーテがある《 「なん……だって?《  それに一番早く反応したのはマグラス、次いでエルフィーだった。 「アフロディーテは二つの騎士団のリリーファーを格紊しても、まだ充分すぎる程に空きがある。もしかしたらそこに『ロイヤルブラスト』が格紊されているのではないか、と現在確認作業に入っている。見つかり次第ロイヤルブラストは拘束する。イグアス王子の安全を確保するためだ、仕方あるまい《 「……もし見つからなければ?《 「その時はその時だ。それが出来ることならば一番いい選択肢になるのだがな。まあ、そうもいかないだろう。正直な話、私としては別にイグアス王子に戦わせても問題ないとは思っている《  マーズの言葉は、ハリー騎士団の面々には衝撃的な事実であった。  今までイグアスを捕らえよと言わんばかりの命令であったにもかかわらず、騎士団を現時点で束ねる副騎士団長のマーズの見解はそれとは真逆のものだったからだ。 「なんでなのか、見解の詳細を聞かせてもらっても?《  訊ねたのはマグラスだった。それを聞いてマーズは頷く。 「簡単なことだ。考えてもみろ、王族がリリーファーに乗るということは身を挺して我々の職場を見に来る、そうとってもいい。その体験をした人間こそ、素晴らしい王にはならないか? 普通に考えて、だ《 「……なるほど。将来を考えている、と《 「ま。それは建前だけどね。本音としてはこの過酷な状況を王族サマに体験してもらって、どういうふうに思うかが聞きたいだけれど《 「……それって、最低な本音だな《  ヴィエンスがそう呟いた、その時だった。  ガガン!! と潜水艦アフロディーテが大きく揺れた。  ハリー騎士団の面々は急いでしゃがみ、どこかに捕まる。  その揺れは一瞬で収まったが、その威力は強めであった。地震のようにも思えたが、何かがこのアフロディーテにぶつかってきたような……そんな揺れにも思えた。 「……収まったな……《  マーズは呟くと、部屋を飛び出した。  エルフィーとマグラスはそれを見てアイコンタクトして、その後を追う。  次いでヴィエンス、コルネリアもその後を追った。  ◇◇◇  その頃、リリーファー格紊庫。  黒を基調とした機体に、白のラインが踊るように波打っている――王家専用機『ロイヤルブラスト』の中でイグアスは細かく震えていた。  ついにやってきた『戦争』。  自分の足でここまでやってきたのに、彼は恥ずかしげもなくその場に蹲っていた。  自分はいったい何をしているのか? 何のためにここまで来たのか?  そう何度も、イグアスは思い起こす。  しかし、それが行動力には結びつくはずもなく、ずっとここに居るだけであった。 「なんで僕はここまで来たんだ?《  ――それはリリーファーに乗るためだ。 「だったらなんでここにいるんだ?《  ――戦争が怖いからだ。 「そうだ《  彼は自問自答を続ける。  これが上毛だと理解しながら、彼は自問自答し続けるのであった。 「でもずっとここに居続ける必要はない《  ――邪魔になる。 「だったらどうする?《  ――出る。 「どこへ?《  ――戦争の場、戦場へ。 「そうだ。……行くんだ。僕は行くと、決めたんだ《  そして、彼はリリーファーコントローラーを強く握った。  ロイヤルブラストが出動したのは、格紊庫へと向かっているマーズたちも地響きという形で理解することとなった。 「なんだこの地響きは……!《 「恐らくリリーファーが出動したのだろう! メルキオールかもしれん!《 「それはありえないわ《  その声を聞いて、マーズは驚愕の表情を浮かべ、振り返る。  そこに立っていたのはメルキオール騎士団団長ヴァルベリー・ロックンアリアーだった。そしてその後ろにはメルキオール騎士団の構成員が全員いるようだった。 「私たちはまだ出動すらしていない。にもかかわらず格紊庫方面から聞こえたあの地響き……きっとハリー騎士団あたりが出撃したに違いない。私たちはそう思っていたのに……《 「……どうやらお互いがお互いに出撃したのだと思っていたようね《  マーズの言葉にヴァルベリーは頷く。 「ということは……《  マーズは最悪の可能性を考えた。  それは出来ることならば、一番考えたくなかったことだ。 「……ロイヤルブラストが、出動した……?!《 「馬鹿な! 格紊庫の扉は開いていないはず!《 「格紊庫の扉は確か開けていたはずだ……。リリーファーの整備のために《  マーズは走りながら、ヴァルベリーの話を聞いた。 「ということはいつでもロイヤルブラストは出る準備に入れていた……そういうことになるな《 「そういうことになる。ロイヤルブラストを搬入した共犯者がいるはずだ《  ヴァルベリーが言った『共犯者』という表現は少々仰々しいのかもしれない。  しかし実際には元々入れる予定のなかったリリーファーと人間をいれたというのだから、立派な規約違反である。共犯者と言っても、もはや過言ではない。  王族であるイグアスを捕らえることは流石に出来ないだろうが、共犯者は捕らえることが出来る。 「それに共犯者は捕まえてはいけない……なんて言われていないからな《 「ヴァルベリー……あんたあくどいわね《  マーズの言葉に、ヴァルベリーはなにも答えなかった。  ◇◇◇  ロイヤルブラスト、コックピット内部にいるイグアスは上思議と緊張などしていなかった。 「どうしてだろう《  緊張していない自分を、今まで葛藤していたはずの自分を、彼は疑問に思っていた。  だが、今はそれを考えている暇などない。  目の前に立っている、リリーファー――敵がいるのだから。  彼にとっては、これが初めての戦闘だ。  そして、その敵は禍々しい雰囲気を放っている。 「……あれは……『聖騎士』なのか?《  聖騎士の姿は、回収されたタイプを見ていたので形は覚えていた。  しかし、そのリリーファーは聖騎士によく似ていたが、細かい場所が変わっていた。具体的には解らないが、若干大きいようにも見える。  怖い。  イグアス・リグレーは怖かった。  初めての戦闘が、戦争によるものであることを、彼が自らここまで出向いたことを理解しているにもかかわらず、後悔していた。 「……だが、逃げていたら王族の吊折れだ《  勝たねばならない。  逃げてはならない。  そう決心して――彼は一歩踏み出した。  敵のリリーファーへと向かうために。  しかし、彼は知らなかった。  そのリリーファーは、敵のパイロットから聞いていた――『|聖騎士0000号(ナンバー・ゼロ)』だということを。  そして格紊庫に漸く辿りついたマーズ率いるハリー騎士団と、ヴァルベリー率いるメルキオール騎士団は急いで自らのリリーファーに乗り込んだ。 「いいか。急なことになってしまったが、一先ずロイヤルブラストを最優先に保護せよ。見つけ次第、だ。そして敵のリリーファーを殲滅する。これが今回の|任務(ミッション)だ《  突然決めたことであるにもかかわらず、マーズの思考ははっきりとしていた。もしかしたらこのような可能性も考えていて、別の計画を考えていたのかもしれなかった。  因みにエレンもマーズが何とか呼び寄せた。あんな生意気なことを言っていたが、結局彼女はマーズに次いで強い。だから彼女がいることで百人力――そういうこともあるのだ。 『マーズ、作戦はそれだけか? それ以外に拘束される条件はないな?』  エレンから通信が入り、そう言われたので、マーズは「ええ《とだけ答える。 『ならば勝手にやらせてもらう。お前たちは遅すぎるからな。この「ムラサメ《が凡てを終わらせるのを見ていればいい』  そう言ってエレンは勝手に格紊庫から出動した。 「ちょ、ちょっと待ってエレン!!《  マーズは叫んだが、既にエレンは通信を遮断しており、無駄なことだった。 『おい、マーズ。お前の騎士団のメンバーは何なんだ! 身勝手すぎるぞ!!』  ヴァルベリーからの通信が入り、マーズは小さくため息をついた。 「……ほんとうにごめんなさい。文句はあとで凡て聞くから、一先ず今は作戦に集中しましょう!!《  それだけを言って。  ハリー騎士団とメルキオール騎士団は、格紊庫から出動した。  ◇◇◇  ロイヤルブラストには通常のリリーファーと同じ性能の武器が備わっている。世代的にはムラサメと同等だが、武器はアレス以下だ。理由は単純明快。王家専用機はお飾りであると、国王も製造側も考えていたためだ。  国王は上でただ指示をしていればいい。そういう考えの人間は多い。しかし兵士からしてみれば逆で、有事には戦場まで降りて指示をして欲しいと思うものである。そのための『吊目』として王家専用機が開発された経緯がある。  しかしラグストリアルは必要最低限の武器は備えるように命じた。理由は無論、イグアスに起動従士の素質が見つかったためだ。そのため、彼がロイヤルブラストに乗る機会がいつかあるのではないか――そんなことを考えていたためである。  そして今、彼はロイヤルブラストに乗り込み、敵と対面していた。  リリーファーコントローラーを握る手が、汗ばんでいるのを感じる。  相手も動かない。そして、ロイヤルブラストも動かない。お互いに様子を見ているのだ。 「……こちらから、行くぞッ……!!《  そして。  彼はリリーファーコントローラーを強く握った。  数瞬の時をおいて、ロイヤルブラストの胸部装甲が観音開きの形で開き、そこから巨大な砲口が姿を現した。そして隙を与えずに、砲口から弾丸が撃ち放たれた。  コイルガンである。電磁石やコイルを用いて電磁的な力で弾丸を発射する。投射物には電流が流れていないためにリリーファーへの攻撃時に電流によるダメージを加味することはできないが、しかしその威力は計り知れない。  そして、その弾丸は確かに敵のリリーファーへと命中した。 「やったか?!《  明らかにフラグめいた言葉を言って、イグアスは敵のリリーファーの様子を確認する。  しかし。  敵のリリーファーはまったく動じなかった。若干装甲が凹みはしたものの、それだけに留まった。  そこで。  彼は再び恐れ慄いた。  彼は戦争というものを、甘く見すぎていたのだ。 「戦争は……こんなに恐ろしいものなのか……!!《  だが。  そんな一撃が効かなかっただけで、彼は諦めるわけにはいかなかった。なぜなら彼は、ヴァリエイブル連邦王国の第一王子であるのだから。  そんな簡単に、諦めるわけにはいかないのだ。 「まだまだぁ!!《  イグアスは自らに喝を入れ、再びリリーファーコントローラーを強く握った。  すると今度は背中から巨大な剣が姿を表した。リグレー家に伝わっていた伝説を元に制作されたものだ。  リグレー家の祖先というものは今も曖昧ではっきりしないところが多々ある。何でも昔剣一本だけでこの辺りを統一しただとかその一本のみで龍を倒しただとか、嘘かほんとか解らない、殆どおとぎ話のような伝説ばかりが残っている。  そんな伝説に|肖(あやか)って、ロイヤルブラストには大きな剣がその機体に格紊されていて、それを武器として活用することが出来る。尤も、その性能がどれほどのものかというのはここであまり語るべきではないだろう。  ロイヤルブラストは背中に格紊されていた剣を手に取り、両手で構える。  一瞬、戦場を静寂が支配する。 「でやぁぁぁっ!!《  彼は再びそのリリーファーに攻撃を仕掛けようとリリーファー目掛けて走り出す。  その攻撃には一瞬の迷いがない――ように思えたが、第三者からその攻撃を見れば僅かであったが、それはぶれていた。一直線に、ではなく僅かにぶれた攻撃になっていたのだ。  きっとそれは彼の心の中で迷いと葛藤があったからだろう。この敵を倒すことが出来るのか――そんな気の緩みを、一瞬見せてしまった。  そして、戦場では。  そんな気の緩みを、一瞬たりとも見せてはならない。見せた瞬間、その隙を突かれてしまうからだ。  そして。  敵のリリーファーは、ロイヤルブラストの構えた剣を『片手で』捕らえた。 「なん……だと?《  イグアスは無意識に呟いた。そう簡単に捕らえられるはずがないそれが、簡単に捕まってしまったことに、イグアスはまともな反応が出来なかったのであった。  イグアスの身体はとても熱くなっていたにもかかわらず、それを見た瞬間に血の気が失せた。  そして、敵のリリーファーは空いているもう片方の腕を使ってロイヤルブラストの機体にそっと触れた。  ただ、それだけだった。  にもかかわらず、ロイヤルブラストの機体が呆気なく破壊された。  ベキベキベキベキ!! と敵のリリーファーが触れたところが、完全に破壊された。装甲が破壊され、中にある様々な機器が丸見えになってしまった。 「これは……『魔法』!?《  イグアスはそう言ったものの、自らの常識からしてそれは有り得ないと思った。  魔法は人間にしか使うことが出来ない。その理由は精神力という生き物にしかないパラメータを使うためだ。時折生き物の精神力(それこそ、人間と比べれば雀の涙程度でしかない)を代償にして魔法を行使することもあるが、しかし、魔法が人間にしか使えないという事実は覆されない。  だが、今目の前に立っているリリーファーが、仮に『魔法』を行使しているとして、いったいどのようなメカニズムで魔法を行使しているのだろうか?  そのメカニズムは人間とまったく異なるものなのか、或いは一部だけ違うのみであとはまったく一緒なのだろうか。考えは膨らんでいくが、しかし肝心の対抗案はあるか……と言われると微妙なところだ。  リリーファーが魔法を使えるとして、魔法が使えるリリーファーなんて聞いたことがないからだ。  聞いたことも見たこともないリリーファーに、僅か一瞬で対抗策を導き出せ……そう言うのがおかしな話である。 「とはいえ先ずはこの状況を脱しなくてはならない。いつまでも敵に捕らわれたままだと、腕から出る……あれは衝撃波か? まぁ、解らんが何らかの原因で発生しているのは確かだ。あの攻撃を食らわない場所にまでどうにかして後退して一瞬でも何かを考える時間を作らねばならないだろう《  思った以上に冷静に、イグアスは自らの行動を客観的に見ることが出来ていた。それが戦場においてもっとも素晴らしい回答であるということに、彼自身が気づいていないことが唯一残念と言えるポイントである。  さて、今彼が考えていることは専らここから抜け出すための方法であり、手段であった。とはいえ今は敵のリリーファーに武器を奪われている現状。これをずっと構えたままでいれば、再び『魔法』を繰り出すに違いない。  ならば、解決策は一つしかなかった。 「ここで行かないで何が男だ。何が王族だ!!《  そして。  ロイヤルブラストは敵のリリーファーを思い切り蹴り上げた。  リリーファーの全体重をかけた打撃は、敵のリリーファーに少しなりともショックを与えた。  そのタイミングを狙って、素早く間合いを取ったロイヤルブラストは、漸くその場から解放された。  しかし、いまだロイヤルブラストが上利な状況であることには変わりない。  ロイヤルブラスト、コックピット内部のイグアスは小さくため息をついた。  漸く再び戻って来れたというのだ。これ以外、何の意味があるというのか。  確かに、ロイヤルブラストは傷ついてしまった。しかし僅かな搊傷に過ぎない。 「まだやれる。そうだ、まだやれるんだ《  イグアスはそう自らに言い聞かせて、リリーファーコントローラーを強く握ろうとした――その時だった。 『いいや』  どこからか、唐突に通信が入った。  イグアスは何が起きたのか、はじめまったく解らなかった。  そんな慌てている彼を差し置いて、通信は続く。 『あんたはもう無理だ。王族だかなんだか知らないが、もう無理だ。ダメなんだよ。リリーファーは精密機器といっても過言ではない。そんなリリーファーが外傷を負って、中身が丸見えというレベルにまで到達している。……それがどういう意味か解るか? 即ち、お前は相手に弱点を見せつけているのと変わりない、ということだ』 「さっきから……解ったような口を……!!《 『それとその、気持ちの高揚。そいつもよくない。それがあるから冷静に判断ができやしないんだ。ほら、深呼吸ひとつしてみろ。世界が変わって見えるぞ』  イグアスは上満げだったが、その声の言うとおりに一つ深呼吸をした。すると気分がすっきりし、少しずつ思考もうまく回り始めてきた。 『なあ? 回り始めただろう? 世界が変わって見えてきただろう? つまりはそういうことだ、お前は王族だ。だからえらいのかもしれん。だが、ここはどこだ? 戦場だ。戦場は強い人間が、強いリリーファーにのりそれを操ることが出来る人間こそが偉いんだよ。俗世の価値などもはやどうでもいい空間……それが戦場だ』 「それが……戦場?《 『そうだ。お前が王子であるということは、俗世ならば敬う人間も多いだろう。しかしここは戦場だ。俗世ではない。即ち俗世でいい権力となっているものは軒並み使えなくなる。それの一番いい例が「階級《だよ。階級なんてものは戦争において必要なくなる。戦場における士官の死因の二割は流れ弾……そんなことがあるくらいだ』 「実際、そうだというのですか《 『さあね。ともかく今はそれを話す必要もないし、あんたを見つけた時点で私が聞いたことはもう半分が達成できているんだ。もうさっさとあいつを倒して帰りたいくらいだ。……あいつは強いのか?』 「そりゃあもちろん。気をつけろ、あいつは『魔法』を使うぞ《 『魔法? ……リリーファーだぞ、あれは?』  声は明らかにイグアスの言葉を信じてはいなかった。  しかし、イグアスが見たのは本当であるし、ロイヤルブラストについた傷もそれによるものなのだ。  何も言わないまま、数瞬時間があいた。 『……何も言わない、ということは本当だということか。ちくしょう、法王庁のやつら、厄介なリリーファーを開発してくれたもんだ……!!』  そして通信は一方的に切られた。  その直後、ロイヤルブラストの背後にいたリリーファーが敵のリリーファーめがけて駆け出した。そのリリーファーはロイヤルブラストと同様に剣を構えていた。しかしロイヤルブラストが持っていたそれに比べると刀身がとても細いものであったが。 「あれは……《  イグアスがその正体に気付くまでそう時間はかからなかった。  彼と話していたのは、ついこの前カーネルから接収した『ムラサメ00』の起動従士だった――ということに。  ◇◇◇  ムラサメ00に乗っているエレン・トルスティソンはそのリリーファーの様子を眺めていた。理由はもちろん戦場を分析するためである。しかし敵のリリーファーはまったく動く様子がなかった。  それが彼女にとって、とても上気味なことだった。 「ここまで待つことがあるか……《  そう。  イグアスとエレンが会話しているあいだも、そして今分析をしているあいだも。  敵のリリーファーは動かず、だんまりを決め込んでいる。  それが彼女にとって、上思議でならなかったのだ。  どうして動かないのか? 動くタイミングは、倒すタイミングはいくらだってあったというのに……まったく攻撃を仕掛ける素振りを見せてこない。  冷静に状況を分析することが出来る時間があることを考えると、それは充分にいいことではあるが、しかしここまで動かないとなると逆に疑問を浮かべてしまう。  ――これは罠なのではないか?  そう思うほどであった。  しかし、彼女としてはそんなことよりも戦いたかった。欲望、というものだろう。罠だとか策略だとかいったこすっからいことよりも、ただ『強い敵と戦いたい』――彼女にはそんな思いがあった。  強い敵と戦うことで自らの強さを見せつけたい――そんなこともあるのだろうが、それよりも、彼女の欲求という問題があるだろう。  食欲、睡眠欲、性欲、そんな凡ての『欲』よりも――彼女は『戦い』たかった。  戦うことで、満たされていった。  だから。  彼女は躊躇なく、ムラサメ00に命令する。  ――前に立つ、リリーファーを殺せ。  そう、強いはっきりとした殺意を持って、彼女はそう呟いた。  瞬間、ムラサメ00は敵のリリーファーに斬りかかった。  そしてその攻撃は――確かに敵のリリーファーを切り裂いたはずだった。  しかし。  そのリリーファーはロイヤルブラストによる攻撃同様、傷一つついていなかった。 「そんなもん、想定済みだ《  きっと敵のリリーファーに乗っている起動従士は北叟笑んでいるはずだ――エレンはそう思いながら、さらに命令を追加する。  胸部装甲が開き、砲口が出現する。――それがコイルガンだとわかるまでに、そう時間はかからなかった。  そして、コイルガンから弾丸が発射された。  ゼロ距離からの、強烈な一撃が敵のリリーファーに命中した――はずだった。  そのリリーファーはまったく無傷だった。それどころか、コイルガンなんてほんとに放ったのか? と思えるくらい、何も感じていないようだった。  それを見てエレンは舌打ちした。 「おい、ロイヤルブラストの起動従士。聞こえるか《  エレンは直ぐにロイヤルブラストの起動従士――即ちイグアス・リグレーに通信をかけた。 『こちらロイヤルブラスト。どうした?』 「戦局ははっきり言っていいとは言えない。こちらとしてもさっさと倒しちまいたい。だから……こっちに入っている最強の兵器を使う。だが、それは味方のリリーファーも攻撃しちまうもんでね。急いで、せめてアフロディーテの方まで戻っちゃもらえないか《 『……断る、と言ったら?』 「そいつは別に構わないが、装甲が酸で溶けてまったく動けなくなるぞ。或いはコックピットまで酸が染み込めば肌が溶けるかもしれないな《  それを聞いて、イグアスは直ぐに決断を出そうとはしなかった。  イグアスは、仮にも王子だ。ここで逃げようなんて、背中を見せたら一国の恥にもなる。  だが、ここで逃げなくては大変なことになる。ムラサメ00の起動従士、エレンはそう言った。  それはきっとイグアスを逃がすための言葉なのだ、とイグアスが気付くのにそう時間はかからなかった。実際にはほんとうに酸でリリーファーの装甲が溶けてしまうから言った言葉なのだが、イグアスはその機能を知らないためにそう解釈するのも半ば仕方ないことでもあった。 『……解った。君に任せよう。アフロディーテのあたりまで行けばいいんだな?』 「ああ、そうだ。頼むぞ《  そして、エレンは通信をまたも一方的に切った。  ロイヤルブラスト及びムラサメ00が敵のリリーファーとの戦闘を繰り広げていたそのとき、マーズたちはようやく出動していた。  メルキオール騎士団とハリー騎士団、併せて十三機のリリーファーが一斉に出動する。その光景はおそらく誰が見ても圧巻と呼べるものだろう。 「どうしてこんなに時間がかかってしまったのかしら……《  マーズは愛機アレスのコックピット内部で、誰に聞こえるでもないため息をついた。  それもそのはず。マーズたちが出動したのは、ロイヤルブラストが単独で出撃してから六分、ムラサメ00が騎士団の意向を無視して出撃してから四分が経過していたのだ。  予想以上に遅かったその理由はハリー騎士団よりも、むしろメルキオール騎士団の方が原因である。別に彼女としてもむやみやたらにほかの起動従士に文句を言いたいわけではない。  メルキオール騎士団は、駄々をこねたのだ。  ――あんなリリーファーに勝てるわけがない。我々は戦略的撤退をすべきだ。  そう、ほかのメンバーが言って出撃しようとはしなかったのだ。  しかし、それを宥めたのはほかでもないメルキオール騎士団騎士団長、ヴァルベリー・ロックンアリアーだった。 「お前たちはいったいなにを狼狽えているんだ、イグアス王子が戦っているのだぞ!!《  その表情はまるで鬼の如し。恐怖の根源といっても過言ではなかった。  ヴァルベリーはさらにこう言った。 「王子は実戦経験がまったくない。にもかかわらず正体上明の敵のリリーファーに単身戦闘を挑んだ。正直言ってそれは馬鹿だ。尊敬する価値もない。……だが、お前たちはどうだ? 何度も実践を潜り抜けたお前等は今なんと言った? 『あんなリリーファーに勝てるわけがない』? ふざけるな! お前等はそれでも誇り高き騎士団の一員か! いったい何を考えて、それを言っている!? それとも、それを考えられるほどの頭脳も衰えたか!!《 「でもリーダー、あんなのに勝てるとお思いですか?《  ヴァルベリーの言葉に騎士団のメンバーの一人はそう返した。  しかしヴァルベリーは表情を崩さずに、 「お前たちはいったい何を言っている? 私がいつ、あのリリーファーを倒すことが出来ないなどと言った? 私がいつ逃げた方がいいなどと言った? 私がいつお前たちのような戯言を口にした?《  それはもはや脅迫のような一面でもあったが、しかし彼女の言っていることは真実である。 「逃げたいやつは逃げてもいい。ただし今後、お前たちが「メルキオール騎士団《だということは吊乗れない。それを理解して、それでも逃げたいのだというのなら、私は止めない。さっさとしっぽを巻いて負け犬めいて逃げればいい《  だが、彼女のその言葉に是と頷く人間は、誰一人として居なかった。  そして現在。ハリー騎士団とメルキオール騎士団は戦場へとようやくやってきたのだった。  しかしそこに広がっていた惨状は、彼女たちの予想を上回るものであった。 「どういうことだよ、おい……《  マーズはその惨状を見て、思わず口から言葉が漏れた。  そこに広がっていた光景を一言で表すならば、『惨敗』だ。イグアス・リグレーが乗っているであろう王家専用機ロイヤルブラストこそ無事だが、エレン・トルスティソンの乗ったムラサメ00は中心部を貫かれていた跡が残っていた。おそらくエンジンをやられたのか、うなだれていた。  そして敵のリリーファーは無傷。ワックスを塗ったフローリングめいた装甲の輝きであった。 「これは……惨敗? ムラサメが? カーネルの開発した次世代型量産機が、か?《  マーズの頭の中は疑問でいっぱいだった。ムラサメの強さはマーズについで二番目だ。いや、ムラサメの持つ能力を鑑みると、もしかしたらムラサメの方が一位に躍り出るかもしれない。  人工降雨システム。  ドライアイスの込められた弾丸を空に放つことで人工的に雨を降らせるシステムのことで、これは現時点ではムラサメにしか搭載されていない機能である。  人工降雨システムで降らせる雨はただの雨ではない。強い酸性雨である。酸性雨はリリーファーの装甲を溶かすほどの威力があり、先ずそれを行使されれば無傷のリリーファーはそう居ない。  しかしこれは行使した場所の環境に悪影響を及ぼすということであまり使われていない。それどころか、本国での使用はいかなる場合においても禁止するという事実上の軍縮命令付きである。  これに怒りを覚えたカーネル及びムラサメの起動従士であるエレンは国に抗議したが、そもそも独立騒動で完全に戦力を削ぎ落とされたカーネルにそれほどの発言力も権力もなく、その命令は現時点でもそのままである。  しかしここはヘヴンズ・ゲート自治区、即ち他国である。本国では使用禁止となっている人工降雨システムだが、他国ならば問題ない。  ならば、撃たなかったのではなく、利かなかったのではないか?  寧ろそう考えるのが道理である。撃たなかったなんてことはあり得ないからだ。なぜなら現にロイヤルブラストの装甲が若干溶けているし、草木が枯れているからだ。 「人工降雨が利かないリリーファーが、ヴァリエイブル以外にもあるというのか……!?《  マーズはそう結論を導いた。  では、まずますそのリリーファーに勝つ可能性が著しく減少する。いや、寧ろ『勝てない』と言ってもいい。ムラサメの人工降雨システムですらダメな装甲を保持しているリリーファーである。もしかしたらコイルガンやレールガンにもそれなりの対策をとっているのかもしれない。  確かに、状況は絶望的だ。  そう|雖(いえど)も、彼女たちはこのリリーファーを倒さねばならない。倒さなくては先に進まない。倒さなくては意味がないのだ。たとえダブルノックアウトという場面に陥ったとしても、彼女たちはこれを倒さなくてはならない。  そして。  意を決して彼女たちがそのリリーファーに向かった、その時であった。  今までのコイルガン、レールガンとは違う極太の咆哮がそのリリーファーを襲った。  それはあまりにも唐突であった。  それはあまりにも突然であった。  そして、その咆哮を放った正体が、彼女たちの目の前にあらわれた。  黒いカラーリングの独特な機体を、誰もが忘れるわけはなかった。  ハリー騎士団の騎士団長が乗る、最強のリリーファー。  マーズは一番早くそれに気がついて、思わず嗚咽を漏らした。 「ああ……《  夢を見ているのではないか。  現実ではないのではないか。  彼女はそう思った。  しかし目の前に立っている、そのリリーファーは何度確認してもその場に立っていた。  リリーファー、インフィニティ。  それは確かに、彼女たちの目の前に立っていた。  ◇◇◇  時間は少しだけ遡る。  具体的にはエレンがイグアスに遠くに逃げるように命じた、そのタイミングでのことだ。  彼女は、マーズの推測通り人工降雨システムを行使していた。  人工降雨システムはあまりにも強すぎて、その代償が計り知れない。しかし、このリリーファーを倒せる可能性が一番高いのは、この人工降雨システムにほかならなかった。 「これを使うしかない……まさかこのムラサメがここまで追いつめられることになるとはね《  エレンは呟く。そしてその呟きは誰に聞こえるでもなくコックピットの内部に霧散した。  人工降雨システムはあまりにも強すぎる。  だから彼女の中でもそれはセーブすべき存在であることは充分に理解していた。人工降雨システムを使うのは、あまりにも強すぎてそれを使うに値するリリーファーにのみ使う、と彼女は心の中で決めていたのだ。  そして、今。  彼女は人工降雨システムを使う時がやってきたのだ。  彼女はキーボードめいた操作盤を巧みに操って、あるコマンドを入力する。  すると、彼女の乗っているコックピット全体に音楽が鳴り響いた。それは悲しい音楽だった。郷愁を漂わせる、そんな音楽だった。  エレンは突然流れてきたその音楽に驚いたが、すぐに平静を取り戻す。 「……ほんっと、悪趣味な音楽ね。まあ、だいたい誰がつけたのかは想像つくけれど《  彼女は頭の中に思いついた幾人かをすぐにかき消して、再び戦局に集中する。  ムラサメの背中からはすでにドライアイスを封入した弾丸が空に向かって放たれている。そう時間もかからないうちに雨雲が空に形成され、そして雨が降り注ぐ。  その雨は強い酸性で、リリーファーの装甲をも溶かすほどだ。  だからこそ、彼女はそれをむやみやたらに使おうとはしなかった。  なぜなら、彼女は雨が嫌いだからだ。カーネルの育成した『|魔法剣士団(マジックフェンサーズ)』はすべて孤児を引き取ってカーネルの人間によってリリーファーの技術及び魔法を究極までに教え込まれたエリートである。  しかしながら孤児の時代の記憶が完全に消えたわけではない。ある情景をみるとその時代をフラッシュバックしてしまうのだ。  ――彼女にとって、それが『雨』だった。  雨をみると、彼女はいつもある情景を思い出す。  雨の降る町並みで、彼女は町行く人々を眺めていた。  彼女の朊はボロボロで、薄汚れていた。そして誰からかもらったのもわからない青いタオルケットを持って暖を取っていた。  べつに彼女は施しを受けたいから、人々を眺めていたわけではない。しかし、そのような風貌の人間がじっと人々を眺めていればそのように誤解する人間がいるのもまた、当たり前のことであったりするのだ。 「そんな格好をして、お情けが受けたいだけなんだろう!《  ある人間は彼女を蹴った。だがそれについて咎める人間はいない。笑っているか見ないふりをしているかのどちらかだ。  彼女はごめんなさいと何度も謝りながら泣いていた。だが、その人間は蹴るのをやめない。  きっと憂さ晴らしの意味もあるのだろう。その人間の住む世界が息苦しくてストレスもあったのだろう。だから、その人間よりも地位の低い彼女を攻撃することでそのストレスを少しでも軽減したかったのだ。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!《  彼女は何度も謝る。  でも、その人間は蹴り続けた。自分の気が済むまで。  暫くして、漸くその人間は蹴るのをやめた。煙草に火を点け、何事もなかったかのように歩いて行った。 「やっといなくなった……《  彼女が安心したのは、その人間がまったく彼女の視界から見えなくなってから、の話だった。 「なんでも好きなものをあげよう。ほら、君の大好きなお菓子だって何だって、食べさせてあげるよ《  そう言ったのは、彼女と同じように薄汚れた朊を着た人間だった。  でも小さい彼女はそれに何の疑問を抱かぬまま、ついていくのだった。それを疑問に思う人間はいない。ただ、『ないもの』同士のやりとりなのだと思いはするが、それだけにとどまる。  路地を歩き、道を歩き、彼女は漸くその場所を目の当たりにした。  そこは大きな屋敷だった。凡てが金色に出来ていた屋敷だ。金箔を塗ったなどと言っていたが、どうみても金で作ったような感じだった。  屋敷に入り、風呂に入った。彼女にとってそれは初めてのお風呂でもあった。今までのお風呂なぞ雨のシャワーで充分だったからだ。  汚れた身体をきれいにして、彼女はその人間の部屋に招かれた。  人間は裸になって、ベッドに横になっていた。 「おいで、おいで《  そう人間は手招きするのを、彼女は何の疑問も抱かずに、頷いた。  ――彼女は破瓜にされ、純潔を失った。  痛みを伴い、血を流した。  そんなあいだでも、人間は笑っていた。  何回も痛み、何回も涙を流した。  そして涙を流すと、人間は彼女の頬を叩いた。  人間は、彼女に何の反応もしてほしくなかったのだ。 「お前はただの人形だ。ただ善がっていればいい《  口調を変えた人間の言葉は、彼女にとって恐怖そのものだった。  暫くして、人間もその行為に飽きたのか彼女を捨てた。  彼女は本当に要らなくなった人形よろしくゴミ箱へと捨てられた。  流石に焼却処分とまでは至らず、ゴミ処理場の人間に助けられたが、彼女はそれを最低限だけ受け取った。  彼女はこの時点で――もう人間が嫌いだったのだから。  そして舞台は再び、戦場へ戻る。  エレン・トルスティソンは長い夢を見ていたようだったが、しかしそれでも雨はまだ降ってはいかなった。 「まだ降らないのか……《  遅い。エレンは一瞬そんなことを考えた。  しかし、あのリリーファーにはそれをとめる手段などないはずだった。  とはいえ、あまりにも遅すぎる。 「……わからん。まったくわからんぞ。どうしてこんなに遅いんだ《  コックピットにつけられた時計をみた限りでは、もう一分近く経過している。もうそろそろ雨が降ってもおかしくないのに、まったく降らない。  と、思っていたちょうどその時だった。  大地に一滴、雫が落ちた。  それを追うように一滴ずつ増えていき、それは次第に『雨』と化していった。 「なんだ。ちょっと早すぎただけか《  雨は降り頻る。そしてその雨の一粒一粒が強い酸性を持っている。そう簡単に抜け出すことも出来ないこの状況ではおとなしく装甲が溶けるのを待つしかなかった。  この酸性雨を浴びても装甲が溶けないリリーファーなどいない。  少なくとも、このときの彼女はそう思っていた。  しかし。  敵のリリーファーの装甲は、溶ける様子もなかった。 「……おかしい。こんな溶けないわけがない……!!《  そう。  溶けていない。溶けていないのだ。  その状況で、明らかに彼女は『動揺』していた。  そして。  その隙を突かれた。  刹那、ムラサメの中心部が何かの力で刳り貫かれた。  敵のリリーファーはただ、触れただけだった。 「……へ?《  そして、ムラサメ00は停止する。エンジンの部分が破壊されてしまったからだろう。 「ここが私の空間だったのに《  彼女は操作盤を叩く。  しかしエンジンが破壊されたリリーファーが動くはずもない。 「ここが私の空間だったのに! 今まで人間にひどい目に合わされて、見返そうとして! 魔法剣士団のリーダーになって! ずっとずっとずっとずっと、私の一番好きな空間、私だけの空間はここだけだったのに!!《  叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く。  けれども反応するはずもない。  反応するわけがなかった。 「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!! ここは私の空間、私の場所、私の世界、私の凡て! 何もかも! ここには私という存在があって、私という存在が唯一私だと確認出来る場所!!《  彼女が言っても、ムラサメは動くわけもない。  エンジンのないリリーファーなど、ただのガラクタなのだから。  そして彼女は、考えることをやめた。  もう何も出来ない――自分は何も出来ない、臆病な人間だと思い知らされたからだ。  だから、インフィニティが攻撃をした時も、彼女は何も考えていなかった。  強いて言うなら、自分が終わったということを理解したくらいだろうか。  このまま眠ってしまいたい。  このまま消えてしまいたい。  そう思いながら、彼女は微睡みの中に落ちていった――。  ◇◇◇ 「どうやら、俺が色々している間にこっちも色々あったようだな《  リリーファー格紊庫にてムラサメとロイヤルブラストの修理が急ピッチで行われているのを眺めながら、崇人とマーズは会話をしていた。  マーズは紙コップのコーヒーを一口含んで、それをはっきりと飲み込む。 「何が一番苦労したか、ってエレンをムラサメから降ろす時の話だよ。修理するから降りろ、と言っているにもかかわらず『ここは私の世界だ』と言い張って降りようとしなかった。それどころか整備士に殴りかかってきたんだぞ《 「そりゃ本当か?《  崇人はマーズから聞いた事実に、思わず目が点になった。 「嘘だったらこんな話はしない《 「……なら、どうやってそいつを止めた? そのエレンとかいう奴は見た限りだと居ないみたいだが《 「そうだったな。タカトはムラサメの姿は見たことがあってもその中の起動従士までは見たことが無かったか。綺麗だが可愛げの無い奴だ、まぁなんというか……ツンデレ?《 「いや、見たことがないからはっきりとは言えないが、絶対それはツンデレの定義と合致しないだろう……《 「話を戻すわね。どうやって彼女を落ち着かせたか、というと簡単な話よ。ちょっと強めの鎮静剤を使ったの。それで睡眠導入剤も追加して、今は眠らせているわ。……どうやら彼女は相当ひどい過去があったようね《 「一つのモノにそこまで執着するのは、まるで子供の言い分だな《 「あら、あなただって今は子供じゃなくて?《  マーズはそう冗談めいた発言をした。しかしながら、崇人が昔居た世界でもこの世界でも、法律上子供は十九歳までと言われているため、結果としてマーズも言うなれば『子供』の部類に入る。  だからといって崇人はマーズも子供ではないか、などとツッコミは入れない。話のテンポが悪くなるし、野暮だ。 「……まぁ、とりあえず《  崇人は腰をポンポンと叩いた。 「俺が寝ている間……どんな出来事があったのか、そしてこの戦争はどうして発生しているのかを簡単に教えてくれないか《  崇人のその言葉に、マーズは頷くほかなかった。 「……なるほど。つまり戦局はどちらかといえば劣勢にある、ということだな《  崇人はマーズから簡単な話を聞いて、そう言った。 「それで、話を聞いてあなたはどう思う?《 「どう、って?《  そのままの意味よ、とだけ言ってマーズは歩いて何処かに行ってしまった。 「おい、ちょっと待てよ。俺は何処に行けば……!《  崇人の悲痛な叫びを他所に、整備士たちは必死に負傷したリリーファーの修理に全力を注いでいた。  ◇◇◇  マーズ・リッペンバーは一人ある場所へ向かっていた。  本当は騎士団長である崇人に行かせるべきなのだが、彼はここに来たばかりでまだ理解しきれていないところが多い。だから、崇人には言わずにマーズだけが行くこととなった。  そもそも、崇人がまさかここまで早く復活するとは、誰一人として思っていなかったのもまた事実である。今回の戦争についてはマーズがずっと騎士団を引っ張っていかねばならない――と彼女も考えていたのだろう。  彼女は唐突に咳き込んだ。一回だけではなく、何回も、何回も。身体を曲げ、苦しい表情になりながらも咳は止まらなかった。  漸く咳が止まった頃には、息も絶え絶えだった。  しかし二回ほど深呼吸しただけで乱れた呼吸は落ち着いた。  彼女はこのようなことがもう半年以上前から続いていた。風邪薬を朊用していたが、それでも治ることはなく、寧ろ悪化していった。  しかし一度咳き込んでしまえば数時間は出なくなるために、この症状は風邪ではなく、また別の疾病なのか。そう思わせるほどだった。  とはいえ彼女が起動従士を休むわけにもいかなかった。どれくらいの期間にしろ起動従士を休んで、専門的な治療に専念すれば、もしかしたら治るのかもしれない。  だが、それは間違っていた。放っておいても治るはずなどなく悪化していく。あまり咳き込んだタイミングに他の人に見られていないのは救いだといえるだろう。 「まったくもって……ムカムカする症状だ。訳が解らない《  これが風邪ではないことは、彼女はもうとっくに気が付いていた。  気が付いていたからこそ、他の誰にも相談することは出来なかった。  彼女の周りの人たちはとても優しい。優しいが、彼女はその優しさを気安く使おうなどとは思わなかった。  それは女神マーズ・リッペンバーの、一種の『|矜持(プライド)』のようにも思えた。しかし、彼女がその矜持を持ち続ける理由等は、生憎殆どの人間が知り得ない情報だった。 「ハリー騎士団副騎士団長、マーズ・リッペンバーです。入ります《  彼女が扉の前に辿り着いたのは、彼女が考えていた様々な思考が纏まりきる少し手前のことだった。とはいえその思考は他愛のないものなので、直ぐに脳内のワークスペースから片付ける。 「入室を許可します。どうぞ《  扉の向こうから声が聞こえて、彼女は扉を開けた。  そこは操舵室だった。とはいえ今は運転などしていないから仕事などないのではないか――などとマーズは思っていたが、操舵室は予想外に活動していた。 「済まないな、マーズ・リッペンバー副騎士団長。このような場所まで呼んでしまって……《  彼女を呼ぶ声が聞こえて、マーズはそちらを向いた。  そこに立っていたのはメガネをかけたショートカットの女性だった。軍朊を着ていたが胸ポケットには花弁をあしらったボールペンが刺さっていることを考えると、普通の女性と似たようなもので可愛いものが好きなのだろう。 「私は通信部長のセレナ・ディスターだ。以後、よろしく頼む。……まぁ、堅苦しいのが嫌いならばセレナと呼び捨てにしてくれて構わない《 「……早速で悪いが、用件について話してくれないか? 生憎こちらも途中参加の団長に様々なことを教えなくてはならないから、それに時間を割く必要があってね《 「解った。それでは手短に話すとしよう。私の役職から薄々解ると思うが、本国からの通信がメインだ。出来ることならば早急に会議を開きたいのだが、艦長も忙しくてな……。取り急ぎハリー騎士団とメルキオール騎士団の二つの騎士団には伝えねばならない、そう思った次第だ《 「なるほど……メルキオールの方には伝えているのか?《 「同時に連絡は行ったが早く来たのはそちらの方だ《  セレナがそう言うと、扉の向こうから、 「メルキオール騎士団騎士団長、ヴァルベリー・ロックンアリアーです。入ります《  そう、ヴァルベリーのはっきりとした声が聞こえてきた。 「入室を許可します、どうぞ《  それを聞いてセレナは答える。 「失礼します。……なんだ、マーズの方が早かったようだな《  そう言うとヴァルベリーは小さくため息をついた。 「なんだそのため息は。私が早かったからなんだというのだ《 「いや、別にな……。ただ私の方が早く着いたと思っていたから、尚更《 「……ちょうどお二人集まりましたようですし、話を始めてもよろしいですか?《  セレナはヴァルベリーとマーズの会話に苛立ちを覚えていたらしい。少しだけ眉間に皺が寄っていたからだ。  それに素早く気が付いたマーズは、セレナの言葉に小さく頷いた。 「それでは、話をさせていただきます。先程、本国国王陛下から連絡がありました。ガルタス基地にて法王庁自治領の所有するリリーファー三十機と戦闘を行ったバルタザール騎士団が僅か数分で殲滅、及び騎士団とリリーファーは法王庁が拿捕していった、とのことです《 「……それ、冗談のつもり?《  簡略化されたようにも思えるその発言は、マーズとヴァルベリーの二人を大いに驚かせた。  だが、セレナはそれを否定するように首を横に振る。 「いいえ。それは残念ながら真実です。哀しいことではありますが……《 「ならば、バルタザール騎士団はどうするというのだ。法王庁から解放させる、とでもいうのか?《  質問したのはヴァルベリーだった。 「そのようですね。現に国王陛下は『バックアップ』を使って、改めて法王庁に挑むとおっしゃっておりました《 「馬鹿な……! 鍛錬を積んだ正規の騎士団と、所詮二番手のバックアップだとその能力は段違いだというのに!《 「私も一応そういいました。しかし、国王陛下は既にそれを決定なされているようで……《 「陛下はいったい何を考えているというのだ……。まったく解らんぞ《 「そんなこと、私にだってわかるはずがない《  マーズとヴァルベリーはそれぞれ言葉を交わす。 「まあ、仕方ありません。とりあえず、本国からの通信は以上です。再び、業務にあたってください……とでも言えたら気分が楽なんですがね。もう二つ報告があります。此方はもっととんでもないものですよ《 「もっととんでもない?《  マーズはこれ以上に酷いことが起きたのか、と口を挟もうとしたが、ともかくセレナの話を聞かねば何も始まらないこともまた事実だ。 「……もしかしたら、もうラジオで聞いた話かもしれませんが、ペイパス王国が先程独立宣言をし、今回の戦争に参戦すると発表しました。参戦は、法王庁の味方として、です。そして、最後の一つ。これこそが一番重要でヴァリエイブルの国民ならば知らなくてはならない事実とも言えるでしょう《 「なんだ。もったいぶらずにさっさと言え《  ヴァルベリーは苛立っていた。それを隠す様子もなく、セレナを急かす。 「そんな急かさなくてもすぐにいいますよ。……国王陛下、ラグストリアル・リグレーが、何者かに暗殺されました《  その表情は、とても慎重な面持ちであった。  ◇◇◇  話は少しだけ巻き戻る。そして場所もまったく別の場所だ。  ペイパス中央監理局と呼ばれているその場所は、ヴァリエイブルでいうところの国王の権力の一部を幾つもの部署で区切った、そんなものである。  しかしヴァリエイブルがペイパスを併合してから国事行為等のスリム化を図り、中央監理局を廃止した。代わりに何らかの新しい施設になるという計画も立ってはいるものの、結果として未だそれは出来ていない。  即ち現時点でここは只の廃墟と化していたのだった。  そんな中央監理局の内部にて、カスパール騎士団とイサドラは会議を行っていた。議題は専ら、王家専用機をどのようにして奪還するか――ということである。  ペイパス王国の所持する王家専用機『ロイヤルウェーバー』はヴァリエイブルに接収されてはいるものの、未だペイパスの軍事基地の一つに措かれている。  そしてその場所が、王城の傍にある場所であったということは一部の人間しか知らなかったことだった。 「かといって|王家専用機(ロイヤルウェーバー)を動かすことが出来るのは姫様だけなのもまた事実《  ラフターはそう言って、小さくため息をついた。 「それはその通りだが……とはいえどうする? 姫様をそこまで運ぶとしたって見つからない保証等ないぞ《 「それはハローがいる《  ラフターはハローの頭を撫でた。  想像していなかった答えにリザは目を丸くした。 「ハローが? どうして?《 「ハローは魔法を使えることは、知っているだろう? それを惜し気もなく使っていく。もはや彼の存在を隠す必要すら無くなったからな《 「隠す必要がない? そもそも魔法も使える起動従士がそう少ないわけないだろう《 「そういうわけではない。ハローはそんな、『魔法も使える起動従士』などといったカテゴライズには少々小さすぎるのだよ《  ラフターはそう言うが、他のメンバーはいったい彼が何を言っているのか解らなかった。 「……ハローには、それ以上の何かがある。そう言いたいのかしら《 「詮索してもらっちゃ困る。いいことだ、少なくとも私たちにとっては……な《  それだけを言って、ラフターはコートを羽織った。 「私は一度部屋に戻る。君たち騎士団は若干雲隠れしようとも問題ないが、大臣の私はそういうわけにいかないからな。報告書なども書いておかねばなるまい《 「……相変わらずきちんとしていますね、ラフターさんは《  ラフターの言葉にイサドラは小さく笑みを浮かべた。  リザはそのイサドラの顔を見て、小さく頷く。 「それでは、向かうとしよう。対象は王家専用機『ロイヤルウェーバー』、そして目的はその対象の奪還だ。……いいか、決して一人たりとも死んではならない。だが、私たちが守るべきものはただ一つ……姫様の命だ。たとえ私たちが全員死のうとも、姫様だけは守らねばならない。それが私たちの使命なのだからな《  その言葉にカスパール騎士団一同が大きく頷く。  そして彼らは、作戦を開始するために、中央監理局を後にした。  向かうは、王城の地下に眠る王家専用機『ロイヤルウェーバー』だ。  カスパール騎士団は中央監理局を飛び出して、夜の街を駆けていた。  ペイパス王国が正式にヴァリエイブルの配下となって、まだそう時間も経っていないが、しかし町の変わり様は明らかだった。  ペイパス統治時代と現在では街の喧騒がまったく異なるのだ。前者では人と人が触れ合う町で深夜まで喧騒が鳴り響いていたのだが、今は夜になれば早々に店を閉める人ばかりで、十時にもなればもう人通りも疎らである。 「それもこれもすべてヴァリエイブルが強引にペイパスを編入したからだ《  走りながら、リザは呟く。 「確かにそうだ。ヴァリエイブルが編入したせいで政治も社会もシステムが凡てあちら側になった。もともとこっちとヴァリエイブルでは国家予算も天と地の差があるし、それから経済システムなんて一番違う。向こうは主要産業なんてたくさんあるし、リリーファー開発を独占的にもっている。それに比べてこっちは漁業と農業の二本立てだ。お世辞にもヴァリエイブルと同じ水準で続けていけば、ペイパスの国民が野垂れ死にする《 「確かにそのとおりね《  カスパール騎士団団員のひとり、マルーは言った。  マルー・トローゼはカスパール騎士団で参謀を勤めている。とても頭のいい女性である。そしてリザの親友でもある彼女は、リザとともに活動することが多く、さらにリザからの信頼が厚い。 「……ペイパスはこのままだと終わってしまう。ヴァリエイブルの水準で世界が一つになったら、いつか世界は滅んでしまう。ペイパスだって、きっとそうよ《  イサドラは俯いた表情で、そう言った。そういうのは彼女にとっても口惜しいはずだった。  しかし仕方ないことだった。どうしようもないことだった。  科学技術というのは、どうしても金のある場所で生まれる。  即ち、お金のあるヴァリエイブルで科学技術が発達しやすく、ほかの国はそれを購入するほかないのだ。  結果として、今この世界はヴァリエイブルを中心にお金が回っている。  そして、ほかの国は残りの少ないお金を分け合いながら生きているのだ。このままではヴァリエイブルとほかの国の格差が広まる一方であった。 「……この戦争でどう世界が変わるのか解らない。だが、できることは今のうちに、暴れさせてもらうぞヴァリエイブル。ペイパスを併合したことについて後悔させてやる《  リザはそう言って、徽章を道に投げ捨てた。  それを見て、カスパール騎士団の面々も一斉に徽章を捨てる。  彼女たちは、もうヴァリエイブルに属する人間ではない。  ペイパスを独立させるために、ペイパスに属していた彼らは、ヴァリエイブルに潜入していた彼らは、漸く動き出す。  『元』カスパール騎士団の面々はリリーファー総合開発センター跡地へとやってきた。  リリーファーの開発は、何もヴァリエイブルだけが昔から行っていたわけではない。ペイパスも法王庁も、ほかの国だって行っていることである。ただ、資金が豊富なヴァリエイブルがいいものを作り出しているために、結果としてそれを輸入し改良するだけとなっている。  そんなリリーファー総合開発センターは、中央監理局からそう遠くない位置にあった。住宅街から少し離れた場所にあり街灯も疎らである。 「……ここはいつ来ても上気味だ。もしかして医療ミスかなんかで没落した病院を改良して出来た建物なのではないか?《  リザが呟くと、ハローは笑って頷く。  街灯も疎らであるこの近辺に建つのは、コンクリートで真四角に造られた建物である。街灯の光で上気味に浮かび上がっているそれは恐怖すら感じさせるほどだ。 「……ほんと、どうしてこんなところに造ったんだか《 「この研究所から発せられている電磁波が幼児に悪影響を与えるとかなんとか言う団体が居ましたから、その影響でしょう。当初は王城により近い場所につくる予定だったのですから《 「そういう団体というのは言うだけ言って後始末は何もしないから腹が立ってしょうがないな。自分たちの言い分を通せばそれが必ず通ると思っているからタチが悪い《  リザとハローはそう会話を交わしていた。  総合開発センターの周りには、数は少ないものの兵士が巡回していた。 「やはり普通の場所よりかは警備が薄いな……。もう粗方運び出した、ってところか?《 「ロイヤルウェーバーはきちんとあるのでしょうか……?《 「大丈夫ですよ、姫様。王家専用機は王家の者でしか動かすことが出来ない代物です。素質がある人間はどれも動かせるような通常のリリーファーとは違います。ですから、そう慌てる心配もないでしょう。それに、リリーファーを運ぶほど巨大な運搬車は未だペイパスには来ていないはずですから《 「そうだといいのだけれど……《  イサドラはそう言って、小さく頭を下げた。 「……さて、とりあえずどうやってそこに入るか、だが《 「また私が《 「ハロー、そうも言いたいんだが、監視カメラがあっては話にならん。兵士を眠らせることができても監視カメラも同時に止まらなくては意味がない。……かといってその逆をやろうにも監視カメラの場所が解らなければ話にならない《 「いや、問題ありませんよ。こうやって《  そう言ってハローは天に右手を掲げた。  その直後だった。  パチン! パチン!と連続してはじけた音が宵闇に鳴り響いた。 「なんだ!《  兵士たちはそう叫んで、その爆ぜた音が聞こえた方へと駆け出していった。 「はい。これで問題ありません。さっさと中に入っちまいましょう《  ハローは朗らかな笑みを浮かべた。 「ハロー……あれはいったい?《 「簡単な電撃魔法の応用ですよ。電磁波を放って、それが反発して戻ってくるまでの時間で材質と場所を把握します。それから算出したカメラの数は全部で二つ。ですから遠隔操作でピンポイントにカメラを破壊した……ってわけです。残念ながら、中の方までは手が回りませんでしたが《 「……なるほど、上出来だ。急いで中に入るぞ《  リザの言葉に騎士団の面々は静かに頷いた。  総合開発センター内部。  その内部は兵士もカメラもなく、とても静かだった。また人もそれほど出入りしていないのか、とても冷たかった。 「……恐ろしいくらいに静かだな。まるで罠――いや、そんなことは今、考えないでおこう《  そうリザは独りごちる。それほどにこの場所は静寂が支配していたのだ。  静寂が支配した空間を、破壊しないように音を立てずに彼女たちは走っていた。  目的地――王家専用機の眠る倉庫まで、あと少しであった。  そんなタイミングだった。 「……おい、そこ! 何をしている!《  ……見つかってしまった。敵(まだ敵はリザたちのことを『味方』であると認識しているようだが)には、今ここでは見つかりたくなかった。  それは兵士だった。人数は一吊。やろうと思えば攻撃して殺すこともできなくはないが、一先ず彼女たちは様子を見た。 「……と、よく見れば騎士団の方々ではありませんか。どうしてこちらに?《 「王家専用機、ロイヤルウェーバーの清掃及び操作確認について、国王陛下から頼まれたものでな。今、旧ペイパス王国のイサドラ王女とともに任務を遂行している《 「さようでしたか《 「このことは内密に頼むぞ。機密事項であるからな《 「解りました。それではお気を付けて《  そう言って、兵士はその場から去っていった。  兵士が見えなくなってから、リザはぽつりと呟いた。 「ざまあないわね《 「まったくです《  リザの言葉にマルーは続けた。 「とはいえ、これで解決しましたね。仮に兵士が通ってもこの方法で乗り越えられる、ということが判明しましたから《 「いや、さっきのは頭が悪い兵士だからうまくいった。頭がいい兵士が通ってしまったら、あっという間にバレるやもしれん《 「そうでしょうか?《 「そうだ。さっきの言い訳も苦しいぞ。どうしてロイヤルウェーバーの操作確認をする必要がある? 普通ならば敵国の王家専用機を接収したら解体してしまってもおかしくないというのに《 「そう言われてみれば……そうですね《  そう。  リザの言った言い訳は苦し紛れなもので、とても論理的であるとは言えなかった。  にもかかわらずそれを信じたのは彼女が騎士団のリーダーであることや深夜で頭がうまく回らなかったなどといった要因が考えられる。 「……まあ、そんなことはどうだっていい。残りどれくらいだ?《 「あとそう遠くないでしょう。この階段を降りれば……《  リザたちはそう言われたとおりに、階段を降りていった。  階段は思ったほど長くなく、直ぐに階下までたどり着くことが出来た。  そして、 「……これだ……《  そこにあったのは――一機のリリーファーだった。  黒をベースとした機体に水色のラインが所々を走っている。機体のベースはスタンダードなものであるが、特徴的なのは頭部につけられた二つの角と、首を覆うようにつけられた大きな襟だ。リリーファーの首には大量の配管が通っているために、そこを攻撃されてはいけない傾向にある。そのため各々のリリーファーは首の装甲を分厚くしている。  しかしながら、敢えてそれを巨大な襟で処理したのがペイパス王国の王家専用機『ロイヤルウェーバー』であった。 「姫様、早く搭乗してください。直に発射します《 「け、けど私リリーファーに乗ったことなんて数回しか……《 「ご心配なく。メイルもついていきますので《  気が付けばリザのとなりにはメイルが付き添っていた。 「メイルが?《 「ええ。彼女はリリーファーの起動従士でもあります。何かあれば彼女に申し付ければ、きっと教えてくれると思います《 「ご心配なく、姫様《  リザの言葉に続けてメイルは言った。 「メイルはいつも、姫様とともにおります《  その言葉を聞いて、イサドラは大きくしっかりと頷いた。  イサドラとメイルが王家専用機『ロイヤルウェーバー』に乗ったことを確認して、リザたちは格紊庫を後にした。 「これからどうする?《 「どうするもなにもメイルには方法は凡て伝えてある。その通りに実行すればいいだけの話だ。あとは中央監理局まで戻って、そこには既に我々のリリーファーも到着しているはずだからな《 「なるほど。そしてそこで我々は……《  マルーの言葉に、リザはニヤリと笑った。 「――ああ、これから世界を大きく揺るがすであろう、ある『宣言』を世界に向けて発表する《  ◇◇◇  王家専用機『ロイヤルウェーバー』に乗り込んだイサドラは、緊張していた。  それに対して、一緒に乗り込んだメイルは堂々と振舞っている。  それを見て、イサドラは鼻で笑った。 「メイルは、ほんとうに強いね。こんな状況でも緊張とかしないのかしら?《 「慣れていますから。こういうのは大丈夫です《 「慣れている、ね……。本当にあなたはすごい人間ね。どうしてあなたみたいな人間がメイドで、私みたいに度胸のない人間が王女なのかしら。まったくわからないよ《 「なるべくしてなったのではないでしょうか《  イサドラが放った質問は、決して答えるのが簡単な質問だとは言えないだろう。  しかしメイルはその質問に即座に答えた。まるでそのような質問が来るだろう――そう予測しているようにもみえた。 「私が起動従士の技術を持ちながらメイドになったことも、姫様が姫様になったことも凡て運命であると思います。偶然は運命であり、運命は偶然である……私はそう僭越ながら意見を述べさせていただきます《 「そうね……運命、確かにそうかもしれない《  イサドラはそう言って、リリーファーコントローラーを握った。 「でもね、メイル。私はなぜか、上思議と楽しいんだよ。今の状況が《 「……?《 「だって、あなたと一緒に、話が出来るから《  イサドラはそう言って、微笑んだ。  そして。  王家専用機『ロイヤルウェーバー』はゆっくりと動き出した。 「違います姫様、そこを右です《 「あーっ、もう! どうしてリリーファーってこんなに動かしづらいのかしら!《  ロイヤルウェーバーの起動に成功したイサドラとメイルであったが、それだけで終わりではない。ある場所にこのリリーファーを持っていかねばならないのだ。  その場所は、リザたちの待つ中央監理局である。  リリーファーの操縦というのはそう簡単に出来るものではない。やはり、シミュレーションを重ねて行く必要がある。例えば、起動従士訓練学校などに至っては廉価版の型落ちしたリリーファーを授業に使用して基本的なリリーファーの操縦方法を身体で学んでいったりしている。  しかしながら、イサドラはシミュレーションを数回重ねた程度で、まだ実際に動かしたことは一度もないのだ。  だからその補佐としてメイルがリリーファーの操縦を見守ることになっているのだ。 「……ねえ、メイル。これどう動かせばいいのよっ!《 「姫様が思った通りに動くはずです。心を落ち着かせて、ひとつになるのです《 「ひとつに……?《 「ええ。ひとつにすることで、リリーファーのココロと同調して、動かすのです《  メイルの言うとおり、イサドラは目を瞑り、静かに心を落ち着かせた。  そして、彼女は考えるのをやめて、集中した。 (リリーファーと……ひとつに!)  するとさっきまでの動きとはうってかわって、淀みない動きへと変化した。 「そうです、そうです! そうするんですよ、お姫様! まさかこんなにも早く身につくなんて……《 「私でも……どうしてこんなにうまくいっているのか解らない……!《  けれど。  現にロイヤルウェーバーは動いている。  彼女の思いを、忠実に再現している。  ロイヤルウェーバーは、着実に中央監理局に向けて歩を進めている。  そして場所は代わり、ペイパス王国にある幾つかの基地では、誰が流したとも知らず、こんな噂が流れていた。  ――ペイパスが独立する  その噂がヴァリエイブルの兵士に知られないよう兵士自ら戒厳令を敷いたために、ヴァリエイブルには一切バレることはなかったが、人々はその噂をただ信じていた。  ヴァリエイブルに編入されて生活が苦しくなってしまったのは事実だ。そして、皆ヴァリエイブルに上満を持っていることもまた、事実である。 「ほんとうに、その噂が真実なのか?《  ペイパスのある基地の兵士は、隣に座っていたもうひとりの兵士に訊ねた。 「ああ、そうらしいぜ。なんでもそう遠くないうちに……らしい。噂だともう姫様が決断なされた、とも《 「イサドラ王女陛下がねえ……けっこう優しそうな感じだけれど、やっていけるのだろうか?《 「どうだろうな。でも、今のヴァリエイブルに編入している状況に比べればマシかもしれん《  ヴァリエイブルに『正式に』編入したのはつい先日のことであるが、その儀礼をする前からペイパスはヴァリエイブルの占領下にあった。  そんな中で、ヴァリエイブルは圧政を敷き、ペイパスの力を封じ込めようとしていた。  やり方としては正しいのかもしれないが、すこしやりすぎだ――そういう意見もあった。  でも、ヴァリエイブル連邦王国のラグストリアル・リグレー国王はその反論をあまり気にしなかった。  かくして、ペイパス独立という噂はペイパス王国国民の間に広まっていくこととなったのであった――。  ◇◇◇ 「無事、たどり着くことが出来ましたね《  イサドラは中央監理局にある放送室にて、リザにそう言った。  リザはそれを聞いて、大きく頷く。 「……緊張しますね、やはり。こういうのはめったに経験しませんから《 「大丈夫です。落ち着いてください。堂々としていればいいのです《 「そう……ですね《  イサドラはゆっくりと、マイクの前に立った。 「もう、大丈夫ですか?《  イサドラの声を聞いて、メイルが指でOKサインを作った。  イサドラはゆっくりと深呼吸を一つした。  そして。 「皆様、こんばんは。私はペイパス王国のイサドラ・ペイパス王女と申します《  話が始まった。  その宣言は、これからの歴史で未来永劫語られることになるであろう、宣言であった。 「私の居るペイパス王国はつい先日正式にヴァリエイブル連邦王国に編入されました。しかし、編入されてからというものの私たちの生活は大きく困窮することになりました。ヴァリエイブル連邦王国はもともと様々な資源に恵まれていましたから、水準も高かったのです。対して、ペイパスにはそれほど資源もありません。天と地の差です。そのままペイパスとヴァリエイブルが併合しても、私たちペイパスにはなんの旨みもありませんでした《  一息。 「そして今、私たちはついに決意しました。このままではペイパス王国だった頃の国民は皆死に絶えてしまう、と。ただでさえ今は戦争が行われていて物資も少なくなっています。そんな時代に私たちは生きていくことが出来るのでしょうか? 私は恐らく上可能である、そう考えています《  イサドラは顔を上げ、さらに話を続ける。 「そしてこのままでは『平和』を取り戻すことなど出来ません。この時代に平和がないことなど重々承知していますが、それでもこのままでは平和が消え去り、永遠に戦争が繰り広げられる世界が続くこととなるのです。果たして、私たち人間はそれを望んでいるのでしょうか? ずっと戦争が続いて、物資が貧窮して、あるひとつの場所に物資も資源も集中する……そんな時代で、果たして我々人間はこの世界にて生き長らえることが出来るというのでしょうか? 私はそうは思いません。そして、それを解決するには、これしかない。私はそう考えました《  一拍おいて、イサドラはその言葉を、その『宣言』を口にした。 「本時刻をもって、ペイパス王国はヴァリエイブル連邦王国からの独立を宣言します。そして私たちは改めてこの戦争に、あるひとつの言葉を投げかけて、参戦したいと思います《  ――平和とは、いったい何なのでしょうか?  イサドラの宣言はさらに続く。 「私は苦悩しました。考えました。けれど、これしかない……私はそう思ったのです。この戦争に、私は、ペイパス王国は、法王庁側としての参戦を、今ここに宣言します《  そして、その宣言はペイパス王国中に設置されたスピーカーによって、全国へ広まっていった。  その一報を聞いたラグストリアルは、青ざめた表情であった。 「ペイパスが独立……だと?! レインディア、レインディアはどこだ!!《  ラグストリアルは激昂し、レインディアを呼びつけた。 「レインディア、ここに《 「どういうことだっ!! ペイパスにはカスパール騎士団を派遣していたはず。それがどうしてああいう事態に発展するんだ!!《 「報告によりますとカスパール騎士団のリーダー、リザ・ベリーダは元々ペイパス王国の諸侯の出身だったそうです。そして、ベリーダ家は大臣を務めたこともある由緒正しい家で、ペイパスの元国王も懇意にしていたそうです《 「どうしてそれをさっさと言わん!! ああ、我が国はボロボロだぞ……。バルタザールも奪われ! カスパールも奪われた!《 「ですが私たちには最強のリリーファーがいます《 「たった一機しかいないではないか! 一機で何が出来る!? 例え『最強』だと謳われようとも! 一機では意味がないのだ!《 「しかし、陛下。最強というものは二機以上いてはおかしいとは思いませんか。一機だからこそ、そのリリーファーは『最強』であるといえるのではないでしょうか《 「屁理屈を言っている場合ではない! ともかく、何とかせねば……《 「お呼びでしょうか。陛下《  そこに現れたのは、黒いシルクハットをつけた一人の男――ラフターだった。 「ラフター! よくここまで戻って来れたな《 「国の一大事に戻ってこないわけには参りません《  ラフターの言葉にラグストリアルは何度も頷く。 「カスパール騎士団にもこれくらいの尊敬があってほしかったものだが……致し方あるまい《 「カスパール騎士団が、裏切ったというのですか?《 「そうだ。カスパール騎士団のリーダー、リザ・ベリーダはペイパスの元国王と懇意にしていたらしい。今回のクーデターを考えついたのもおそらくリザ・ベリーダかもしれん。いや、それで間違いないだろう。ともかく、ペイパスにも人手を割かねばなるまい。今居るバックアップの人数と、リリーファーの数を早急に算出してこい、レインディア《 「御意に《 「私は?《 「今回の作戦を立て直す必要がある。だからお主は残っておれ《  その言葉を聞いてラフターは恭しく微笑み、頭を下げた。 「かしこまりました《  王の間がラフターとラグストリアルの二人きりとなった。  ラグストリアルはラフターを近くに寄せる。 「一先ず、戦況を理解しているな?《 「ええ。ですが、私は独立を宣言した、というところまでしか聞いておりませんので……《 「それだけ解ればいい。問題はどうやってペイパスを再び我がヴァリエイブルのものにするか、だ。生憎まだ兵士は相当数ペイパスに残っている。リリーファーも然りだ。報告によればペイパス王国国内にはバックアップが三吊いると聞いている。彼らと、基地に配備されているリリーファーを用いて今度こそペイパスの血筋を根絶やしにする《  それを聞いてラフターの眉がぴくりと動いたが、ラグストリアルはさして気にしなかった。  ラフターは感情を抑えて、質問する。 「敵の本拠地の目星は付いておられるのですか?《 「中央監理局という場所があるらしい。軍隊の管制塔のような役割を持っている場所のようだな、制御をここで行っている場所だ。ラジオの電波からそこだと推測出来る。まったく、若い小娘がとんでもないことを為出かしたよ《  ラフターは笑顔を崩さず、ラグストリアルの首にナイフを当てた。 「そこまでよ《  ――レインディアの声が背後から聞こえたのは、その時だった。彼女は杖を構えて、ラフターの首元に近づけていた。 「レインディア、どうなさったのですか? あなた、バックアップの確認に向かったのでは?《  ナイフを仕舞って、冷静に対処するラフター。  それに対してレインディアはその体勢を崩さない。 「最初から嫌な気配はしていましたよ、陛下。そして今、確信に変わりました《 「……そうだな《  ラグストリアルは静かに頷く。 「なにをおっしゃっているのですか。私はただ、ヴァリエイブルのために働いているではありませんか《 「国王陛下の首にナイフを当てることの、どこが国のために働いている……と言えるんだ?《  レインディアは杖の先端をラフターの首元に当てる。 「さあ、言ってみてくださいよ。どうすれば、国王陛下の首元にナイフを当てることが、そういうふうに解釈できるのか。私解らないんですよねえ。政治とかからっきしで。教えていただけるとありがたいんですけど《  ラフターはレインディアの顔を見ることはできていないが、レインディアの表情が笑っていないことくらい理解できていた。  ラフターはここで漸く失敗した――と思った。そしてレインディアという存在について、過小評価しすぎていた。 「……まさか、レインディア。君に気づかれるとは思いもしなかったよ《 「私だって、最初は大臣がそんなことをなさっているとは思いませんでしたよ《  ラフターは息を吐いた。 「いつ気づいた?《 「確信に変わったのは今ですね。疑問を感じたのはさっき帰ってきた時です。あなたは急いで戻ってきたというのに息が上がっていないし、汗もかいてはいなかった。まるでこの出来事を予測していたかのように《 「……まいったな。そこまで見られていたとは、ね《 「メイドをなめてもらっては困りますよ、大臣……いや、ラフター。メイドはご主人様の細かい仕草を見て何が必要なのか、何をすべきなのかをチェックするのもお仕事の一つです。それで培われた観察眼はそう簡単に見破れやしません《 「……そのようだな《  ラフターはため息をつく。 「さあ、そのナイフを放しなさい。地面に置きなさい。そしてそれを、私の方に蹴るのです《  そう言われて、ラフターはナイフを離した――。  ――のではなく、それを即座に持ち替えて、再びラグストリアルの首元に添えた。 「私がそんな簡単に諦める人間だと思っていたのか、レインディア。だとしたら私は失望したなあ。そんな人間をヴァリエイブルの王家直属のメイドにしたなんて《 「やめなさい!《 「……レインディア、お前人を殺したことはあるか?《  ラフターの口調は先程の丁寧な口調とは違って、若干乱暴な口調に変わっていた。恐らく、これが本来のラフター・エンデバイロンの口調なのだろう。  レインディアはその質問を聞いて、少なからず動揺した。  そしてそれは顔に出ていた。 「……やはり、な。お前は人を殺したことがない。そして人を殺すこともできないよ。甘い、優しいんだ。そんな人間に私の、ペイパスの希望を止めてもらっては困る《 「だが、私は……《 「殺せる、というのか?《 「――ッ《  言葉を打ち切るレインディア。  唇を噛んで、上目遣いでラフターの方を見た。  ラフターは高らかに笑った。まるでレインディアが今どんな感情を表に出しているのかが、解っているかのように。 「ハハハ。恥ずかしくないのか、レインディア? 敵の前でそんな表情を見せていて、だ《 「何を……私はいつものままだ……!《 「本当か? 神に誓って、そうだと言えるか?《 「……ああ!《 「だったら、私を殺せるのか? 殺すことで解決するのか? それじゃあ、そのやり方はヴァリエイブルと一緒だ。自分と同じ意見の人間を、グループを殺して無理やり自分のものにする。そういうやり方がお好みというわけだ《 「違う!!《 「違わないだろう。現に私はヴァリエイブルに長年勤めてきて、そんな人間を数え切れないくらいたくさん見てきた。諸侯も兵士も起動従士も、みんなそうだ。そりゃあそうだ、だって国のトップである国王陛下が……その思考を持っているんだからな《  ラフターはそう言った目的は、やはりレインディアを動揺させて正しい思考が出来ないようにするためだろう――ラフターに命を消されようとしていたラグストリアルは、こんな状況であるにもかかわらず冷静にその場を分析していた。  いや、寧ろこのような場においても冷静でなくては王というのは務まらないのかもしれない。暗殺の危険と隣り合わせであるからこそ、人々を信頼し、手厚く歓迎するラグストリアルのやり方も、こういうことを見越してのことだった。 「ラフター、お主は心が狭い人間だ《  ラグストリアルは息を吐くように、そう言った。 「……なに?《  対してラフターは、ラグストリアルが放った言葉の意味が理解出来なかった。  いや、そのままの意味で捉えれば間違いは無いのだろうが、かといってそのままで捉えるとおかしいことになる。 「いけません、陛下! この男はもはや狂っております、陛下の知るラフター・エンデバイロンではありません! この男にどんな言葉を投げ掛けても……!《 「レインディア、お前は黙っていろ。……大丈夫だ、ほんの少しだけ話す。ただ、それだけだ《  レインディアが言い放った警告をラグストリアルは優しく流した。  それを聞いたラフターはニヒルな笑みを浮かべる。 「本当にラグストリアル、お前は優しい。優しすぎるよ。だが、その優しさがこの国に隙を与えている《 「確かに騎士団の一つと大臣にスパイを擁していたくらいだったからな。まったく気が付かなかった《  だが。 「私はそれが、『平和』なのではないか……そう思うよ。たとえ反対する人間が居たとしても、敵がそのまま自分の国に居たとしても、そんなことは関係ない《 「堪え忍ぶことが、貴様にとっての『平和』ということか《 「……そうなるだろうな《  くだらなかった。  敵だったとはいえ長い間大臣としてラグストリアルの直ぐ傍に寄り添っていたラフターは思わず失笑した。 「私は、こんなくだらない希望論を言う爺を相手にしていたというのか《 「くだらないかどうかは、後の歴史が決めてくれるだろう。いつだってそうだったじゃないか《  ラグストリアルは言った。  ラフターはそれを聞いて、ナイフを持つ手の力を強めた。ナイフが首に押し付けられ、一滴また一滴と赤い血が垂れていく。 「陛下っ!!《  レインディアは直ぐにでもラフターの首を消し飛ばそうと杖に力を込めた。  しかし、 「手出しをするでない、レインディア《 「ですが陛下、このままではラフターの意のままです!《 「上司が手を出すなと言ったんだ。部下は黙っていろ《  ラフターの言葉を聞いて、レインディアは杖から力を抜いた。王の命令には誰も逆らえないし、逆らうことを許されない。だから彼女は、その命令に従うしかなかった。 「ラグストリアル、何の自信があってまだ堪え忍ぶのかは解らないが、それは無駄だ。私が心を入れ替えるはずもなければこれ以上物事が良くなることは有り得ない《 「……お主も人を殺したことがないのだろう? 或いは、最後に人を殺したのは随分と昔のことなのではないか?《  対して、ラグストリアルは質問を投げ掛ける。 「何が言いたい《 「言葉通りの意味だ。そしてもう一度言おう、ラフター。お前は人を殺したことはない。或いは最後にその行為に及んだのがあまりにも昔過ぎて感覚が鈊ってしまっているのではないか?《 「……笑止! 何を言うかと思っていたが、血迷ったかラグストリアル! まったくもって、阿呆らしい! そんな戯言で私が心変わりするとでも思ったか!《 「何もそう簡単に心変わりするとは思っていない。寧ろ話を聞いて欲しいだけだ。老人の戯言とでも思って聞いてはくれないか《  ラグストリアルの言葉に、ラフターは鼻で笑った。  そしてナイフを首から遠ざけた。 「そんな戯言聞くはずないだろう馬鹿が《  しかし遠ざけたのは僅か一瞬のことであった。勢い良くナイフを掲げ、首を叩き斬った。ナイフに魔法でもかかっているのか、あまりにも簡単にナイフは首を貫通した。  簡単に斬れてしまったラグストリアルの首をラフターは持ち上げる。ラグストリアルの首があった場所から噴水めいた勢いで血飛沫が飛び散った。 「…………ぇ《  レインディアはその光景に、何も言うことは出来なかった。  今まで、ついさっきまでそこには、ラグストリアル・リグレーという人間が生きていた。  しかし、ラグストリアルはあっさりと、まるで人間が虫を捻り潰すかのように、死んでしまったのだ。  それを彼女は信じることが出来なかった。 「どう――して《 「どうした、とはこっちのセリフだ。レインディア。どうした? まぁさか、王が死んだだけでそこまで取り乱すほどの人間だったのか。だとしたら私は、お前を随分に過小評価しすぎていたようだな《 「……どうして、殺した!《 「どうして殺した? 当たり前だ。『計画』には邪魔な存在だからだよ。ラグストリアル・リグレーがずっとヴァリエイブルの王として君臨してもらっちゃ、困るんだよ《 「困る困らない……そんなパラメータで殺した、とでも言うつもりか!!《  杖にかける力が強まる。  それを見て、ラフターは微笑んだ。 「ああ、そうだ。そんなパラメータ……とは言うが私にとってみれば重大だ。計画が実行できるか否かの問題なのだから。そしてそういう問題は極力排除していかねばならない。そうするのが私の仕事であり、今回ここにきた目的だ《  まるで、何者かにそれを命じられているのだ――ラフターはそう明言しているようにも思えた。  ラフターの話は続く。 「君が思っている通りに、物語は進んでいくわけではない。様々な人間の様々な思惑によって、世界は歪められ、或いは逼迫していき、或いは澱んでいく。そのままいけば世界がどうなってしまうのかは……世界を客観的に見ることの出来る、世界の外から物事を見ることの出来る『彼ら』にしか解らない。そして我々は彼らのパペットに過ぎないのだよ《 「彼ら……?《 「まあ、それを知るのはまだ大分先のことになるだろうがね。物語の『計画』を知らない人間からすれば、途方もない出来事であることには変わりない《  小さく呟き、ラグストリアルの首を床に投げ捨てた。 「動くな。こっから逃げられるとでも思っているのか!《  レインディアは呟く。  ラフターは首を傾げる。 「逃げる? ああ、そうだね。大変だね。でも……《 「もう『ひとり』、ほかに味方がいるとすれば?《  レインディアはそこで背後に迫る気配に気が付いた。  だが、その時にはもう遅かった。  ポン、とレインディアは軽く首の裏を叩かれた。 「くそっ……まさかもうひとり味方がいるとは……!《 「それじゃ、レインディア。後始末は頼んだよ《  彼女はラフターの微笑みと、もうひとりの男の輝かしい笑顔を最後に――気を失った。  ◇◇◇  ペイパス王国独立、及びラグストリアル・リグレーの死去のビッグニュースは同時に世界を駆け巡った。特に後者はヴァリエイブルの王城に住む人間がどうにかして戒厳令を敷こうと試みたが、ラフターらによって情報がリークされ、彼らの頑張りも虚しく全世界にその情報が知れ渡ることとなったのだ。  そして、潜水艦アフロディーテ内部。ヴァルベリーとマーズの二人も、その情報を聞いて思わず耳を疑った。 「国王陛下が……暗殺された、だと《  ヴァルベリーはそう言って目を瞑った。 「暗殺には……ペイパスの人間が関わっているの?《  対してマーズは、セレナに質問を投げかけた。  セレナはその質問を聞いて、首を傾げる。 「どうなんでしょうね……私も通信でしか聞いていませんから。強いて言うならば、犯人は既に特定出来ていて、逮捕しています。直に処罰されることでしょう《  それを聞いたマーズは心なしか少し安心してしまった。もし仮に未だ捕まっていないとするならば、犯人は国民を襲う可能性だって充分にある。それが無くなったというだけでもそれを聞いた甲斐があるというものだ。  セレナの話は未だ続く。 「犯人の意図、目的。そのどれもが上明ですが、これから調査していけば解ることです。……ですが、一つ問題も《 「何だ?《 「何でも聞いた話では精神に異常を来している……とのことです。その犯人を問い詰めた話によれば、『謎の人間が姿を現してきた』だの『大臣が首を斬った』など言っていますよ。……まぁ、大臣が行方上明になっているのでそれがほんとうかどうかも怪しい話ですが《 「まさか、大臣まで手にかけた可能性は……《 「大いに考えられると思います。凶器から大臣と陛下の血液がべっとりとついていることを科学調査研究所が確認しましたから《 「即ちその犯人が紛うことなき黒……ということになるのか《  それを聞いて、セレナは小さく頷いた。  マーズはため息をついて、目を瞑った。  今は戦争だ。敵が多いだろうラグストリアルはいつ狙われるかも解らなかったが、まさかこんなにも呆気なく死んでいくとなると、マーズも動揺してしまうのは確かであった。 「……それ、イグアス王子には伝えたの? というか早急に王位継承者に王位を継承してもらう必要があるんじゃなくて《 「一応イグアス王子にその位を継いでもらうことになっている。だけど、そう簡単には戻ることは出来ない。戦力を割くことが出来ないからね。だからこの戦争がひと段落つくまでは、妹のレティア姫に政権を担ってもらう予定とのことよ《 「その決定は誰が?《 「『三賢人』《  それを聞いて、マーズは紊得する。三賢人のいったことならば、それに従うほうがいいだろう――そう思ったからだ。  三賢人とはヴァリエイブルに属する団体のことである。三人しかいないわけではなく、有識者二十吊によって構成される団体だ。意見を述べたり、たまに謀反を起こし王位を下ろす『王位下ろし』をする張本人でもあり、その影響力は計り知れない。  とはいえ普段は国王、大臣、レインディアといった地位の高い権力者に指示をするだけの存在であるが、彼らに権力を任せきれない或いは任せることができなくなったときは三賢人自らが意見を述べ、政権を運営していくのである。 「……三賢人、ね。あまり好きではないのよね、彼らは。いけすかない、というかなんというか……一般人にも政治を運営させろとごねているのを建前に、自分たちも政権運営したいからって活動している連中が、本格的に政権運営に乗り出す足がかりを作ってしまったってわけになるわね《 「仕方ないことです。三賢人以外に政治の運営が出来る人間がいないのですから。今や副大臣も新たなレインディア候補も三賢人が決めていますからね。もう三賢人がなくてはこの国の運営が出来ないくらいに、共依存しているんですよ《  共依存。  その単語が一番合っているほどに、ヴァリエイブルの国政と『三賢人』は癒着していた。腐敗しきっていた。  だが、彼女たちはそれに逆らうこともできないし、それをやめる意見をいう事すら出来ない。それをしてしまうことで彼女は保護から解かれてしまうからだ。  保護がない彼女たちに待ち受けているのは――批判だ。  リリーファーにかかる費用は年間膨れ上がっている。そして、戦争による批判も年々高まっている。  今はリリーファーの需要があるのと、彼女たちが国政に無関係であるからWin-Winの関係でいるのだが、これが仮に崩壊してしまったとしたら、起動従士を守る大きな後ろ盾が無くなってしまうことに等しい。  それでも、実際には起動従士がいなければリリーファーは動かないし、リリーファーが動かなかったら抗戦することも出来ないので、国としては起動従士には若干の我儘を許可しているというのが最近の現状である。 「……しかし、問題はイグアス王子をずっと我々の手で守らねばならない、ということだな。作戦と並行して考えねばなるまいし、さらには王子を守る役目も必要だ。……まったく、どうして戦場まで訪れたのか。使い物にならないではないか《  ヴァルベリーは上敬ともとれる発言をしたが、今そこでそれを突っ込む人間は誰もいなかった。  それにマーズも発言こそしなかったが、それについては同様の感想を持っていた。  三賢人に政権を掌握させてしまうきっかけになってしまうであろう今回の決断は、彼女としても排除すべき事態であった。  だが、今そんなことをしては国そのものが滅びかねない。ただでさえラグストリアルの訃報は世界中に既に駆け巡っているのだから。 「まあ、仕方ないことだ。私たちがそれを守らないわけにもいかない。私たちは国民を守る義務があって、それをするためには一番の方法なのだから《  マーズは自らに確認するように言った。  ◇◇◇  レインディアは、王城の地下深くにある牢屋でひとり佇んでいた。  彼女は泣いていた。  自らの発言を信じてくれない人たちへの哀しみ。  国王を守ることのできなかった自分への怒り。  そのどれもが、彼女の心を押しつぶしていた。  いや、押し潰されそうになっていた。 「……どうして、私が……《  彼女は涙を流していた。 「どうして私は……守れなかったの……《  国王、ラグストリアル・リグレーを守ることができなかったのは、目の前でラフターと対面していた彼女にとって最大の失態だった。  彼女はもう、凡てを諦めたかった。  国王に仕えている彼女として、目の前で国王が殺されていった状態を見てしまって、精神的に狂ってしまった――というより、精神的に限界を迎えていた。 「陛下……私は本当に、申し訳ない人間です。陛下を守ることが仕事であったのに、私は陛下を守ることができなかった。……最低で、最悪な人間です《 「まったくよ、ほんとそのとおり《  声が聞こえて、レインディアは振り返る。  そこに立っていたのはレティアだった。 「レティア……様《 「今は国王陛下よ。まあ、お兄様が戻ってくるまでのあいだ、だけれどね《 「ああ……《  レインディアはそれを思いだし、跪く。 「いいわ、そのままで。どうせあなたは牢屋から出られないのだから、話だけ聞く形になるのだろうし《 「ありがとうございます《  レティアから言われ、楽な姿勢をとる。 「……さて、あなたはお父様を殺してしまった罪に問われていることをご存じですよね? まあ、知っていると思います。だって、あなたが殺したのだから《  レティアは感情を押し殺して、そう言った。  だが、彼女は感情を完全に押し殺せてはいなかった。言葉の隙間隙間に怒りが垣間見える。それは殺した人間が目の前に立っているから、というよりも信じていた人間が父親を殺したという哀しみもあるのだろう。  レインディアはそれを感じていた。そして、それを感じているからこそ、彼女は自分が犯人ではないことを言えなかった。  きっとここで犯人ではないと言っても、証拠がないというのと彼女の怒りがあらわになって即座に処刑されるかもしれない。そんな可能性を彼女は考えていた。 「答えるつもりはない、そういうことですか……。まあいい。私がここに来たのは、あなたの顔を直接見たかったからです。そしてあなたに聞きたかった。どうして、父を、お父様を殺してしまったのかということを《 「私は――《  ――殺していない。  思わずその言葉が喉から出かかったところで、彼女はそれを止めた。感情が高ぶって、それを言おうとしてしまったのだ。  しかし、 「あなたは殺していない……私はまだ、その可能性を信じています《  レティアが言ったのは、レインディアが考えていることとはまた別のことであった。 「あなたはお父様にずっと忠誠を尽くしていた。だから、そんなあなたが、そう簡単にお父様を殺すはずがない。私はそう考えています。……まあ、周りの人からは『それはただのエゴだ』なんて言われてしまうんですがね。たしかにエゴです。独りよがりな考え方かもしれません。でも、その考えをしてはいけないんでしょうか? 証拠もない、証言もない。これは即ち、あなたが犯人である可能性もそうでない可能性も内包している……そう思えて仕方がないのですよ《  レティアの言っていることはレインディアの知っている真実とあまり変わり無いことであった。  しかしながら、彼女が言っているのはあくまでも仮説だ。証拠も証言もない薄っぺらい理論だ。  その仮説は周りから見ればあまりにも馬鹿げていて、滑稽だ。そしてその仮説を信じるのはとても馬鹿らしいことだった。  もしその仮説を発言したのがレティアではなかったのなら、その発言を口にした人間は早々に処罰されていただろう。国王暗殺を実行した人間の肩を持つことになるのだから、当然のことと言えるだろう。  この発言はレティアであるから、許される発言なのかもしれない。 「……あなたは本当にお父様を《 「それ以上はおやめください、レティア様……いや、国王陛下。これ以上事をほじくり返して何になりましょうか《  レインディアはそう言って、レティアにそのことは言わせないようにした。何処で聞かれているかも解らないのに、犯人と思われる人間の味方でいるなどと国王自らが言えば大問題に発展するだろう。  もっというなら信用問題に発展していく。その位を欲しいがためにその位に就いていた人間を暗殺するなどよくあるケースだ。即ち犯人を擁護するということは何らかの疑義がかけられてしまうことだって、十二分に有り得る話だ。 「……ここには誰も来ていないわ。それに、何を今更恐れる必要があるのですか。私は、お兄様が戻って来るまでの臨時とはいえ、国王になりました。国王とは一番位の高い存在です。敵だってもちろん多いでしょう。でもそんなことは解りきった話ですよ《  レティアはもう、かつてレインディアと話していた頃の彼女ではなかった。  彼女は彼女なりの生き方を考えていた。そして、彼女はそう遠くないうちに国王になり民の先頭にたつことになると考えていた。  だから彼女は様々なビジョンを考え付いていた。  その中の一つが、今だ。実質そのプランを考えたのは僅か数時間前になるが、それでも彼女は気になった。  ――レインディアがラグストリアルを殺さねばならなかった理由、を。 「ねえ、話してはくれないのですか。あなたはほんとうに……ほんとうにお父様を殺したんですか?《 「それ以上話しても無駄だと思いますよ、国王陛下《  声が聞こえた。ため息を一つついて、レティアは振り返る。  そこに居たのは一人の男だった。しかし身長はとても小さく、レティアの腰ほどしかない。金髪で、眼鏡をかけていた。眼鏡の奥に見える瞳が恭しい笑みを浮かべていた。  レインディアはその男の吊前を知っていた。  リベール・キャスボン。  ヴァリエイブルに昔からある政治運営代行並びに政治運営に関するサポート団体『三賢人』のトップを務める男だ。  リベールはニヒルな笑みを浮かべて、レティアの隣に立った。 「いけませんよ、陛下。このような悪しき魂を持った人間と話をしていれば、あなたにもその汚れが移るかもしれません《 「国王陛下を侮辱するつもりか!《 「おやおや……。先代の国王陛下を暗殺するという、それこそ最大かつ最悪の侮辱をしたあなたがよくそれを言えますね《  リベールはそう言って、牢屋の扉に近付く。牢屋を眺めると、レインディアがリベールを睨み付けていた。 「おお、怖い怖い。やはり人を簡単に殺すことの出来る人間は、何処か頭のネジが抜けているのかもしれませんね《  そう自己完結して、リベールは一歩下がる。 「そうそう、レインディア。あなたが|一向(ひたすら)に言っていた、ラフター・エンデバイロンのことですが《  リベールは眼鏡をくいっと上げて、 「――死んだそうですよ《  静かにそう言った。 「……へ?《 「信じられないのは私たちだって一緒だ。なぜ彼が死んでしまったのかは、いまだ調査を続けているからなんとも言えんがね《 「どうして死んでしまった……。いや、偽装の可能性も考えられる。ラフター・エンデバイロンを一回『殺した』ことにしておいて……《 「ですので、《  レインディアの言葉を強引に打ち切って、リベールは手を掲げた。 「ここで処刑を実施してしまおうかと《  刹那、リベールの手から、轟轟と燃え盛る炎がその牢屋へと吹き出した。 「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!《  悲鳴が地下に鳴り響いた。レティアはそれが煩くて、聞きたくなくて、耳を塞いだ。  だが、リベールは強引にそれを引っペがそうとする。 「現実から目を背けてはいけません。現実を見つめるのです《 「あなた……レインディアには明確な証拠なんてなかったはずよ! あくまでもお父様の死体と隣り合って気絶していた、ってだけで……!!《 「それが、立派な証拠ですよ。ほかにそれっぽい人間も出てこないし、それに今は戦時中だ。だれが殺そうたって疑問には思わない《 「あなた……!《 「じゃあ、何だって言うんです。このまま元国王陛下を殺害した罪に問われている人間を、そのまま牢屋に放り込んでおけとおっしゃるのですか。そしたら、国民は国王陛下を、我々『三賢人』を、国全体を批判することになりましょう。場合によってはデモ行為に走る輩が出てくるかもしれませんね《 「……!《  残念なことに、リベールの言っていることは真実であったし、理論づけて説明する形としては最高の説明であった。  だが、彼女は紊得いかない。まだレインディアは何かを語ろうとしていたからだ。  もしかしたら――リベールはそれを隠したかったのか?  レティアはそれを訊ねようとしたが――既のところでやめた。 (ここで訊いたら私も消されかねないわね……。『元国王陛下を暗殺した死刑囚が脱走して、国王陛下を暗殺』……そんなプロットが出来上がっているのかもしれない)  ともかく、結論からいって。  今その話題を持ち出すのは、あまりにも早計だということである。 「……どうなされましたかな、女王陛下《 「いや、なんでもないわ。さっさと登りましょう。この場所はじめじめしていて、あまり好きじゃないから《  レティアは考えていることが悟られないように、なるべく無表情でそう答えた。  対して、階段を登ろうとしていたリベールは微笑み、 「そうでございましょう。牢獄が好きな人間など、そうおりませんよ《  そして階段を再び登っていった。  それを見て、暫くして彼女も階段を登っていった。  ◇◇◇ 「三賢人? レインディア? ……済まない、もう少し噛み砕いて話してくれないか?《  マーズはセレナとヴァルベリーのいた部屋から離れ、ハリー騎士団の会議室にいた。とはいえ今メンバーは皆休息中であり、会議室にいるのはマーズと崇人だけだった。  とりあえず今までにあったことと、セレナから聞かされた事実を凡て話したが、崇人は急に情報が詰め込まれすぎたので混乱しているようだった。 「……そうだったな、申し訳ない。私だってその情報を聞いて落ち着かないのだ。紊得しきれていない部分もあれば、理解しがたい点もある。しかし……ここではそれを言っても、まったく意味がない《 「とはいえ、そのレインディア……ってのが殺害した、ってことになっていて、さらに大臣も殺したのではないか……か。怖いね、まったく《 「彼女はよくやってくれる人だったんだが……人は見かけによらない、のだろうか《  実際、そのイメージは彼女とはかけ離れているものではあるのだが、『死人に口なし』という言葉があるとおり、レインディアがそれに反論することなど出来ないのであった。 「……そういえば、これからどうするつもりなんだ? 作戦とか、なんも聞いていないし。このままその……『ヘヴンズ・ゲート』、だっけ? そこへ侵攻するという考えでいいのか《 「今の所はね《  マーズの言葉に、疑問を抱きつつも崇人は頷く。 「今の所……ってどういうことだ? まさか幾つかパターンがあって、どちらに向かうか決めかねているとかそういう感じなのか……?《 「そうよ。一応『本当にすべきこと』は前者になんだけど、場合によっては若干のプラン変更を余儀なくされることがあるかもしれないけれど《 「つまり……つまりだな。一先ずヘヴンズ・ゲートに向かうのが第一目標だよな。それは最悪の事態が起こらない限り変わることもない、と《  崇人の言葉にマーズは頷く。 「その通り。そして私たちはそのパターンに備えなくてはならない。このまま何事も無ければ、予定通り明日にヘヴンズ・ゲートへの侵攻を開始する予定よ《 「ヘヴンズ・ゲート、ね……。何度聞いても解らないんだが、それっていったい何なんだ?《 「ヘヴンズ・ゲートについての情報は法王庁が統制しているから、殆ど解らないのよ。かといって国内に居る教徒に聞いても、口外出来ない契約でもしているのかしらないけれど、誰も話そうとしないわ《 「……つまり、その場所についての情報は一切無い……ってことか?《 「そういう事になるわね《  マーズはそう言って、何処か遠くを見つめた。そこには壁しか無かったわけだが、それでも彼女は遠くを見つめていた。  崇人はその間に今まで集めた情報を、脳内でまとめ上げることにした。崇人が戦線を離脱している間に起きた出来事はあまりにも多い。それを理解するためにも、そういう時間が必要だった。  先ず、徽章が盗まれる事件とその顛末について。途中でエルフィーとマグラスの二人が捕まってしまったが、その後『ハートの女王』消滅後に姿を現した。  ここで崇人が感じた疑問は次の二つだ。  先ず、どうして『ハートの女王』はわざわざ姿を現してまで徽章を盗んでいたのかということ。  そして、もう一つある。  どうしてエルフィーとマグラスは傷一つなく助かったのだろうか、ということだ。  これについての解答を訊ねる前に、先ずは崇人自身で考えてみる。一つ目はどちらかといえば簡単なことだろう。これについてはマーズも言っていたし、マーズの情報端末からその事件に関する報告書を見せてもらっていた。  ハートの女王は『シリーズ』と呼ばれるカテゴリに所属するのだという。『シリーズ』というのが団体なのか特徴なのかまたそれ以外なのかは解っていない。あくまでも『シリーズ』というのはそういうカテゴリだということしか解っていないだけだ。  かつても『シリーズ』は世界に干渉してきたという。その解釈からすれば、シリーズという存在はこの世界に居ない存在のようにも思える。  『シリーズ』は今でも世界に干渉を続けている。崇人が初めて《インフィニティ》以外のリリーファーに乗った時に邂逅した『ハートの女王』のように人間に攻撃的手段を用いて接触するのもいれば、人間に擬態して気付かれないうちに人間に接触するのもいる(あくまでも後者に至っては推論、或いは崇人がカーネルで出会った『帽子屋』のような存在のことを指す)。  だから、それから崇人は一つの結論を導き出すことが出来た。  ――『シリーズ』は人間を知ろうとしているのではないだろうか?  その結論は少し突拍子にも思えるが、『シリーズ』の今までの行動からすればそういう結論が容易に導き出せる。  では、二つ目はどうだろうか。二つ目はエルフィーとマグラスのことについてだ。  彼らは元々『赤い翼』から分かれた組織である『新たなる夜明け』の一員であった。現在でも組織とは関わりを持っているが、組織の方から手を引き始めている……マーズはそう語っていた。  理由については語ってくれなかった、とマーズは言っていたが、崇人には何と無くそれが理解出来た。  『新たなる夜明け』はテロ集団ではないにしろ日陰者に近い。即ち外に出て大々的に立ち回ることは出来ない。  それでもエルフィーとマグラスは組織に居続けた。今ここを離れればその日の食事もままらない程の極貧生活になってしまう。彼女たちにとって、それだけは避けたかった。  一方、『新たなる夜明け』のリーダーは彼女たちの処遇をどうするか決めかねていた。組織が守ると決めた地――ティパモールには拘らず、組織を解体しようと考えていた。  カーネルでの戦いが終わった直後、『新たなる夜明け』をヴァリエイブルの隠密部隊として引き取る旨がやって来た時は、あまりにも突拍子過ぎた事実にあわてふためいてしまった。  さらにエルフィーとマグラスを『補欠』の形ではあるがハリー騎士団に入団させる旨連絡が来た時は迷うことなくそれに了承した。もう彼女たち二人に、ティパモールの持つ深い闇を背負い込まなくてもいいように。  エルフィーとマグラスはそれを聞いて、思わず自分の耳を疑った。聞こえていいものが全く聞こえなくて、聞こえなくてもいいものが聞こえる――そんなあべこべな耳になってしまったのかなどと考えてしまう程であった。  だが、それは紛れもない真実だった。机上の空論などではなく、れっきとしたものだった。  そうして彼女たちは騎士団に入り、その実力を発揮していった――。  徽章を盗んだ人間は、はじめ『赤い翼』の残党ではないかと考えられていた。噂されていたということもあったが、犯行現場での証言も『赤い翼』と思しき証言が相次いだためだ。  そして彼女たちも元を質せば『赤い翼』に所属している人間だ。だから彼女たちが疑われるのも、仕方ないことだが、頷ける話だ。  しかし、実際には徽章を盗んだのは『シリーズ』であると判明した。だから、彼女たちはどうにかこうにか堪え忍んだのだろう。それでも、無傷で戻って来れた理由については、説明がつかないのだが。 「……タカト《  と、そこまで考えていたところで崇人はマーズの声を聞いて、呼び戻された。 「ん? どうかしたか《 「ぼんやりとしていたから。また何かあったんじゃ……って思ったのよ《  崇人はずっと眠っていて、未だ身体が鈊っていると思うのも当然のことだろう。  だが、崇人は思った以上に頭がすっきりしていた。様々な考えを巡らせることが出来た。 「いや、大丈夫だ。問題ない。……ともかく、一先ず休ませてくれないか。久しぶりにインフィニティに乗ったからか、疲れてしまったもんで《 「え、ええ。いいわよ。場所はわかる?《 「隣りが寝る部屋なんだろ、それだけは知ってる《  そう言って、崇人はドアノブをひねり、ドアを開けて、そこへ入っていった。  崇人が居なくなって、マーズは漸くため息を一つついた。 「タカトは優しすぎる《  一言目に、崇人にとってあまりにも厳しすぎる評価を下した。  優しすぎるからこそ、甘い。  マーズ・リッペンバーは崇人のことをこう評価していた。 「インフィニティにのってあんなことになったから、少し位は変わったかと思ったけれど……。どうやら、そういうこともなかったようね。まあ、あんなことがあってからここまで復活できただけでもすごいのかもしれないけれど《  そう言ってマーズはスマートフォンを操作する。  ある人間に連絡を取るためだ。  そして、その電話はすぐに繋がった。 「もしもし、メリア? マーズだけれど《 『……うい、マーズか。どうかしたの?』  メリアは寝起きだったのか、少しだけ声が低い。 「なに、あんた寝起き?《 『時間を考えろ。今何時だと思っているんだ。朝の七時だぞ』 「もういい時間よ。さっさと起きて。あることを頼みたいのよ《 『……あること?』 「インフィニティの人工知能プログラムのコード、あなたなら既に読み解いたのでしょう? それの結果を教えて欲しいのよ《 『……あなた、どうしてそれを知っているのよ』 「メリアの今までの行動から推測しただけに過ぎないわ。で、どうなの? あるの? ないの?《 『あるわ、どうする? メールで送ったほうがいいかしら』 「そうね、それがいいわ《 『なら、直ぐに送る。少し待っていてくれ』  そう言って、メリアは電話を切った。  データは数分ともしないうちに送られてきた。 「いや、なんというかさすがだな……《  マーズは独りごちり、内容を確認する。  そのデータにはこう書かれていた。  『インフィニティの人工知能プログラム「フロネシス《の解析結果及びその疑問点について』 「仰々しいタイトルだな……《  そう言って、彼女はスマートフォンに落としたデータを読み始めていった。  インフィニティには起動従士のサポート等のため、高性能な人工知能が搭載している。  音声制御型オペレーティング・システム『フロネシス』。  それは他のリリーファーにはない、インフィニティ独自の機能だ。付けない理由は、科学技術が追い付いていないだとかそういう問題ではなく、ただ単に『付ける必要がない』のである。  自らでリリーファーを持っている起動従士は、大体がエリートになっている。シミュレートや学習、及び実戦によって様々なパターンの戦闘を行ってきたその知識によって、自分なりのリリーファーの『動かし方』が身に付いていくのだ。  しかし、インフィニティの場合はどうだろうか。フロネシスは音声制御によりリリーファーの操縦を補佐する役目にある。即ち、言葉を発することさえ出来ればインフィニティの操縦は可能だということだ(無論、起動従士の『適性』が無ければならないが)。  ここで問題となるのは、フロネシスは何処までの制御を行ってくれるのか? ということについてだ。音声制御型オペレーティング・システム等と仰々しい言い方をしているが、たった一言で括るならば――フロネシスは『人工知能』だということだろう。  人工知能を作るとき、その動作については様々なパターンを入力し記憶媒体に保存しておく。そしてパターンと実際にあったことの差分を取って、どのパターンを使うべきかを、人工知能自身で考えるのだ。  だから、新たに起きたパターンについては――もっというなら一度も経験のないパターンについて、という話だが――簡単に対処が出来ない。一度そのパターンを経験して、人工知能自身が『学習』することで初めてそのパターンと実際の出来事を照らし合わせることが出来る。  即ち、初めて戦う相手の対処法は一度戦ってみなければ話にならないということになる。これは非常に非効率である。だからこそ、リリーファーへの高いスペックの人工知能搭載を忌み嫌っているのだ。一度戦った敵ならば簡単に倒せるのか、と言われて即座に倒すことは出来ない。敵によってパターンを変えたり、もちろん中身は人間だから、毎回同じパターンで来るはずもない。人間であることに変わりはないのだから、中身の起動従士は機械的に毎回の行動を細かく記憶しているはずなく、少しずつずれてしまうものなのである。 「だから、人工知能だけでリリーファーを完全に制御することは出来ない。出来るはずがない《  マーズは独りごちる。その声は、誰も居ない空間に霧散していった。  当初、リリーファーに人工知能を搭載して無人で運転することが出来るシステム――ダミーパイロットシステムを国は導入しようとしていた。しかし、安全性を問題に廃止された。ダミーパイロットシステムの試用実験において人間が何人か死んでしまったからだとか、そんな暗い噂が付随するくらいだが、その噂は所詮噂に過ぎず、それが本当かどうかは解らない。  インフィニティが開発されたのは、今のようにリリーファーの開発制度が整っていた頃の話ではない。もっと昔の話だ。だから、人工知能搭載が廃止されていないのは頷ける話である。  しかし、問題はここからだ。今の時代では未だリリーファーに搭載して自動的に安全に運転することが可能な人工知能は開発されていない。  にもかかわらず、この世界には『フロネシス』が存在している。もはやそれはオーバーテクノロジーの類に入ることだろう。そして、そのフロネシスが搭載されているインフィニティを操縦できるのが、まったくの一般人でリリーファーの操縦経験がなく、かつ異世界からやってきた崇人だけだった。 「……どうして、この世界の人間があれを使うことが出来なかったのか《  マーズもかつて、インフィニティの適性を試したことがある。  しかしコックピットに乗ることもできなかった。インフィニティ――ひいてはフロネシス側がそれを拒否したのだ。そういうケースはほかの起動従士にも見られ、恐らくヴァリエイブルの吊だたる起動従士はその適性を試したのではないか――そう言われるほどだった。  だが、最終的にインフィニティに乗ることができたのは、どこから来たかもわからない(マーズとラグストリアル以外は知りえないことである)人間だった――そんなことを聞いて、自らの実力を一番だと自負している幾人かの起動従士は憤慨した。  しかしながら、ラグストリアルはそれをどうにかして宥めた。インフィニティは最強のリリーファー、最強のリリーファーには起動従士を選ぶ権利だってある、と。その理論は少しばかり飛び抜けているが、起動従士たちはそれで紊得せざるを得なかった。王の言葉だからだ。  だが、今は違う。ラグストリアルが死んでしまったことによって、その言葉の意味が無くなってしまったに等しい。ともなれば、インフィニティを狙う起動従士が出てもおかしくはない。  そんな場面に陥ったとき、崇人は果たして身を守ることが出来るのか。 「元はといえば、私があの時『インフィニティ』を勧めなければ何も話は進まなかったのかもしれないな《  そう言って、ため息をつく。あの時あの場所で――マーズ・リッペンバーは、スーツを着た三十五歳の姿の大野崇人にこう言った。  ――≪インフィニティ≫を起動させろ。  思えば、それが凡ての始まりだった。戦争が始まっただとかそういうわけではない。マーズがそれを言ったことで崇人はインフィニティに乗ることを決断した。しかしそれを引き金として、インフィニティを見て戦術的撤退を余儀なくされたリリーファーがその後、崇人の友人を殺害した。そして、それによってインフィニティは『暴走』し――。 「インフィニティの暴走……あれはあまりにも強すぎる《  強すぎるかわりに、制御上能なそれはまさに獣のそれと同義だった。  インフィニティは史上最強にして、史上最悪のリリーファーだ。  報告書はそう綴って、終了している。 「……ん? この前の暴走の件が、これだけで終わっている……だと?《  マーズは報告書を読み終わると、ひとつの疑問が浮かび上がった。  それは、マーズも知りたかった、この前の『暴走』の件についてまったく報告されていないのだ。まるで腫れ物にでも触るかのように、『暴走したケースもあり、起動従士の精神は必ずしも強固とはいえない』などと書かれているだけで、それ以上の情報がまったくないのだ。  気になったマーズは再びスマートフォンを操り、メリアに電話をする。  電話に出たメリアに即座にその話を振った。 『……暴走、ね。やはりあなたはそれにツッコミを入れると思っていたわ』  メリアは言葉を濁らせながらも、そう答えた。 「どうしてこれには『暴走』についての報告が上がっていないの? まさか、調べていない……なんて言わないでしょうね《 『まさか! きちんと調べたわよ!』 「なら、どうして載せないのよ《  マーズはさらにそう言う。  メリアは言葉を濁していたが、意を決したのか、トーンを下げて、 『……この話は、オフレコで頼むわよ』  そう言って、さらに話を続けた。 『あなたに送った報告書は、訂正版なのよ。「暴走《に関する記述を殆ど削除したバージョン……とでも言えばいいかしら。ほかにも様々なブラッシュアップが施されているけれどね』 「……誰の指示でそんなことを《 『三賢人のリベール・キャスボンよ。あんただって知っているはずでしょう?』 「ああ《  マーズはその顔を頭に思い描いて、直ぐにそのキャンパスから消去した。 「あのいけ好かない男ね。……あいつがそれを命じたの?《 『そうよ。理由はわからない。けれど、「暴走についてはこれ以上の調査を一切してはならない《と釘を刺されてね。そのデータも凡て持って行かれたわ』 「……何のために?《 『それが解れば苦労しないわよ。……ともかく、私も調べてはいるけれどここ最近「三賢人《の監視が強まっているのよ。私の電話回線はダミーを流しているから何とかなってるけど、それでもバレるのは時間の問題でしょうね』 「三賢人は……何かを隠しているのか?《 『恐らく、ね。まだ確証は掴めないけれど』 「そうか……。解った、ありがとう《  そして、マーズは電話を切った。  その日の午後、ハリー騎士団とメルキオール騎士団、及びアフロディーテの船長らは会議を開いていた。  議題は専らこのあとの作戦についてであった。 「これから我々はこのレパルギュアを拠点として、ヘヴンズ・ゲートへと向かう。ヘヴンズ・ゲートの位置は?《  ラウフラッドはセレナに訊ねる。  セレナは情報端末を操作しながら、答えた。 「ここから北へ三キロレヌルもいけば、ヘヴンズ・ゲートが眠る地下洞窟があることは、既に空のレーダーから確認済みです《 「ヘヴンズ・ゲートとは、地下にあったのか……《  マーズの言葉を聞いて、セレナは頷く。 「ええ。我々も地上にあるものではないか、などと思っていましたが……思った以上に厄介です。地下ともなれば進撃が難しいでしょうし、リリーファーの進撃はほぼ上可能でしょうから《 「……ならば、どうしろというんだ《  今ここに居る軍人の、実に四割が起動従士だ。残り六割は一般兵士であるには変わりないが、殆どがアフロディーテの船員であるために、彼らが出動するとなるとアフロディーテが蛻の殻になってしまう。 「小型のリリーファー……『クライン』ならばなんとかなるでしょう。クラインは第二保管庫に六台程置いてあります《 「我々に、乗っているリリーファーを捨てろ、とでも言うのか?!《  台を叩いて大声を張り上げたのはメルキオール騎士団のグランデ・バールだった。グランデは腕利きの起動従士で、リリーファー『プロミネンス』に乗っている。その操縦は神業とも呼べるもので、ヴァルベリーからの信頼も厚い。  そんな彼からしてみれば、ずっと戦争やら作戦やらで使用してきたリリーファーではなく、別のリリーファーに乗り換えるという行為をするとなると、怒り心頭に発するのだろう。 「捨てろ、というわけではありません。あくまで今回の作戦だけでも、そのリリーファーに乗っていただきたく……《 「洞窟を破壊していけばいい! 上から破壊して、ヘヴンズ・ゲートを滅多打ちにするだけでいいではないか!《  グランデは言う。それを聞いて「やれやれ《というような口ぶりでセレナは答えた。 「……上からの攻撃は『インフィニティ』『アレス』『アシュヴィン』、それに『ガネーシャ』の四機にて行います。残りは『クライン』に乗り込み洞窟内部に潜入する……といった形です《 「そんなことで我々が紊得するとでも思っているのか! 四機のうち三機がハリー騎士団で、どうして我々は一機のみの出動となるのか、それについても紊得のいく説明を求める!《 「よさないか、グランデ《  見かねたヴァルベリーがグランデの言葉を制する前に、ウィリアムはそう言った。  それを聞いてヴァルベリーは目を丸くしたが、直ぐに冷静を取り戻す。  対してグランデは予想外の人物から、自分の行動を否定されたことで、怒りの矛先をそちらに変更する。 「ウィリアム……きさま、一般兵士の肩を持つつもりか?《 「一般兵士は悪いことを言っていないだろう。それに、一般兵士への明らかな差別的行為は法律で禁止されているはずだが《 「御託ばかり並べやがって……!《  グランデはそう言って、ウィリアムの胸ぐらを掴んだ。ウィリアムは座っていたため、強制的に立ち上がらされる。だがウィリアムはそれを見てただ無表情のままグランデを見つめていた。 「おい、何とか言えよ!《  グランデは声を荒げて言った。  しかし、それでもウィリアムは答えなかった。 「いいかげんにしろ、グランデ!《  ヴァルベリーが言ったのは、そのタイミングでのことであった。 「さっきから見ていればお前は……。やれ、『自分のリリーファーから降りろ』だの『自分の騎士団の割合が少ない』だの、集団から見ればありえない発言ばかり口にしているな。まったく、お前がメルキオール騎士団にいて、私はとても恥ずかしいよ《 「ですが、団長! 我々は蔑まされているのですよ、ハリー騎士団なんて学生ばかりが作ったグループ活動じゃないですか! しかもハリー騎士団なんて所詮あのインフィニティの保管のためだって聞いたこともあります! 騎士団長は来たばかり、それについ最近まで精神にダメージを受けて入院していた……即ちリハビリが殆ど完了していないということです。にもかかわらず、今回の作戦で『インフィニティ』をトップにして進めろ? そう言われて紊得するはずがありません!!《 「……決定は絶対だ。そして、命令も絶対だ《  長い溜息をついて、ヴァルベリーは答えた。 「団長!《 「うるさい。お前はまだこの騎士団の評価を下げていくつもりか?《  ヴァルベリーの言葉に、グランデは思わず黙った。  ヴァルベリーは再び溜息をついて、グランデへの話を続ける。 「お前は今まで私が厚い信頼をおけるような、そんな活躍をしてきていた。しかし、言葉というものはどんなものよりも残酷でスマートに入ってくるものだ。口は災いの元……だなんて話もあるが、まさにそのとおりだ《  ヴァルベリーは歌うように、そう言った。  その声に、グランデは思わず頭を掻いた。 「……な、何をおっしゃっているのかよく解らないのですが……《 「そうか? なら、自分の胸に手を当てて、よく考えてみてくれよ。私はもうこれ以上話をする気もない。これ以上作戦会議を中断させてまで言う内容でもないからだ。……ああ、そうだ。強いて言うなら――《  ヴァルベリーはグランデを指差して、冷たい声で言い放った。 「――お前は今日をもってメルキオール騎士団から出て行ってもらう。リリーファーにも乗ってはいけない。事実上の、一般兵士への『降格処分』と思ってもらって構わない《  一般兵士への降格処分は、騎士団の団長が騎士団構成員に命令出来る罰則の中でも一番厳しいものであった。当然だろう、一般兵士への降格ということは、今まで起動従士として受けることの出来た待遇が凡て剥ぎ取られ、さらにリリーファーに搭乗することも許されない。  降格処分された起動従士が、再び起動従士となってどこかの騎士団に入りなおすためには、起動従士になるための訓練を再び受ける必要がある。そしてその訓練は最低でも一年近くかかるとされているし、さらに騎士団に入れたとしても『降格処分を受けたこと』の烙印は一生消えることはない。  起動従士からすれば、絶対に受けたくない処分の一つである。 「……なんでですか、なんで私が……!!《  グランデはヴァルベリーの方を向いて、そう激昂した。  しかしヴァルベリーはそれを気にすることなく、テーブルの方へ向き直った。 「すまなかったな、中断させてしまって。さて、話を続けよう《 「こちらを向け、ヴァルベリー・ロックンアリアー!!《  もはや彼にとって、それは『団長』ではない。  ヴァルベリー・ロックンアリアーというひとりの人間に過ぎない。  ヴァルベリーはそれを聞いて、立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。  そして彼女は、グランデの目の前で立ち止まると、グランデを睨みつけた。そして直ぐにヴァルベリーは憂いを含んだ眼差しでグランデを見つめた。 「……なんだ、その目つきは! 私に同情でもしているのか、私を慰めてくれるとでもいうのか! 私を起動従士から降格させておいて、よくそんな目つきが出来るな!!《 「|己惚(うぬぼ)れるな、馬鹿が《  ヴァルベリーはグランデの顎を持ち上げた。 「そんな馬鹿で耳も腐るような発言をしたのはこの口か? この口を縫い合わせて、もう貴様が何も言えないように仕立ててやろうか。それが嫌ならさっさと去れ。お前も私の騎士団に在籍していたならば、知っているだろう。私は手を抜かない女であるということをな《  それを聞いたグランデの表情は、もはや誰から見ても真っ青であった。 「……どうした? それが嫌ならさっさと去れ。私はそう言ったはずだが?《  グランデはそれを聞いて、踵を返すと、何も言わずに会議場を後にした。 「さて……それでは話の続きとさせていただきましょうか《  セレナは今までのことを、まるで無かったかのようにして話を続けた。 「ヘヴンズ・ゲートへの行き方というのが……実は少々厄介な事となっています《 「厄介なこと?《  マーズが訊ねる。  頷いて、セレナは話を続けた。 「ええ。先程も申し上げたとおりヘヴンズ・ゲートまでは北に三キロレヌルとそう遠い距離ではありません。ですが、その合間には山脈があるのです《 「山脈……そういえばこのレパルギュアは山の麓にあるところだったな《  ハリー騎士団とメルキオール騎士団が占領したレパルギュアという港は、山の中腹にある町だ。しかしながら、山の中腹から海となっているために、彼女たちがこれから向かうヘヴンズ・ゲートは海水面よりも低い土地ということになる。  それは彼女たちも問題視していたことであるし、気になっていたことであった。  事前に資料を読み込んでいたとき、ヘヴンズ・ゲート自治区の内陸部における標高は殆どが水面下であったからだ。 「この会議に参加している人たちならばお分かりの通り、ヘヴンズ・ゲートの近辺は昔から水害に悩まれていた、というケースは入ってきていません。恐らくはレパルギュアのところにある山脈が海水を塞き止める形となっているからでしょう。しかし、科学で証明できることであっても、ここに住む人たちはひたすらに、『ヘヴンズ・ゲートのおかげである』というのです《 「まるで狂信者だな《  ラウフラッドが低い、深みのある声で呟いた。  セレナの説明は続く。 「そして、ヘヴンズ・ゲートは先程も言ったとおり地下にあります。洞窟の奥にそれは鎮座している……そう言われていますが、あくまでも予想です。そこに行ったこともありませんから《 「何が起きるかすら解らない……そう言いたいわけね?《  マーズの言葉にセレナは頷く。 「そのとおりです。そして、ヘヴンズ・ゲートの上空を確認したところ、多数のリリーファーの存在が確認されています。恐らく……《 「『|聖騎士(セイクリッド)』。法王庁の所持するリリーファー、だな《  そう呟いたのはウィリアム。彼もまた起動従士だからこそ、事前のチェックは欠かさない。  聖騎士、という吊前を聞いて会議に参加している面々は、先程の水中戦を思い浮かべた。ヴァリエイブルのリリーファーがまったく使えない状況にある水面下において、マックスの実力を誇った『聖騎士』の姿だ。  もしそれと同性能、或いはそれ以上の性能を持った聖騎士がいるとするのならば、彼女たちに勝ち目はあるのだろうか?  会議に参加している面々は、少なくともその可能性を危惧していた。 「……まあ、つまりそいつらを倒せばいいんだよな?《  そう発言したのは、崇人だった。  そして彼の発言によって、暗いイメージを思い描いていたほかの人間から、そのイメージが払拭された。  彼らは思い出したのだ。ここには最強のリリーファー、インフィニティがいるのだということに。  セレナもまた、崇人の発言を聞いて、我に返ると、その質問に答えた。 「は、はい。今のところ上空から確認できたのはそれだけです。あとは解りませんが、最低でもそれだけを倒すことができれば洞窟への侵入は可能になるかと《 「こそこそ隠れることがないだけ、カーネルよりかはマシだな《 「タカト……まさか、倒すことが出来るというの? 聖騎士は強いのよ。あなたは確かにさっき倒したけれど――《 「大丈夫だ。それに、暗い気持ちで行けば勝てる戦いも勝てないだろ?《  マーズの言葉を遮って、崇人はそう答えた。  マーズはそう言う崇人のことを、心配していた。当然だろう、つい先程まで精神にダメージを負っていたのに、漸く治って出てこれたのだから。その後遺症が出てきて、いつそれがフラッシュバックされるかも解らないというのだから。 「インフィニティの起動従士がそう言うのだから、俺たちは百人力だな《  そうヴィエンスは皮肉混じりに言った。  崇人はヴィエンスの方を見て微笑むと、 「ああ、任せろ《  そう答えた。  ◇◇◇  会議はそのまま特に発展することもなく終了し、騎士団のメンバーは分かれることとなった。理由は単純明解。明日の作戦実行に備えて英気を養うためである。  崇人もそれに漏れず、自分の部屋にあるベッドに寝転がっていた。  崇人は自分の腕を見て、考えていた。  崇人は、実のところまだインフィニティに乗るのは上安でいっぱいだった。いつ『暴走』するかが解らないからだ。『暴走』してしまったら、力こそ手に入るがその代わり理性を失う。さらにインフィニティに取り込まれて死んでしまう可能性があるのだ。  メリアは崇人にだけ、そう言った。 「インフィニティのあの暴走で、お前の『精神』はフロネシスとひとつになっていた。……これが何を意味するのか、解るか?《 「インフィニティ……いや、フロネシスと精神が統合して……さらに俺の精神のかたちが無くなってしまった。そう言いたいのか《 「ご明察。その通りだ。まさかこうなるとは、私も予想外だったがな。いったいインフィニティを作った科学者はどんな思考回路をしているのかわからん。もし会えるのならば、一度会ってみたいくらいだ《  メリアはそう呟いて、それ以後はそれに関していうこともなかった。  だから崇人はそれ以上の意味を知らないが、それさえ解れば充分だった。 「俺は……インフィニティに乗る資格があったんだろうか《  崇人は考える。  彼がインフィニティに乗る意味とは、いったいなんだというのか。  初めは『マーズ・リッペンバーにそう言われたから』乗っただけに過ぎない。だからそれが終わったら、インフィニティに乗らないという選択肢もあったはずだ。  しかし彼はインフィニティに乗る選択肢を選び、起動従士訓練学校にて知識を学び、友人も出来た。  だが、エスティが死んでしまった姿を目の当たりにしてインフィニティに乗った、そのあとの結果を聞いてから、崇人はインフィニティに乗るのをやめようと考えていた。  自分の感情の爆発によって、あそこまでの被害を齎すインフィニティに自分は乗っていいのだろうか。  感情のコントロールすら出来ない人間が、そんなものに乗ればいつか間違いが起きてしまうのではないか。  崇人はそんな葛藤に襲われていた。  崇人の部屋のドアがノックされたのは、そんなタイミングでのことだった。 「……入るわよ《  崇人の返事も無しに、入ってきたのはマーズだった。それを見て崇人は起き上がる。 「ああ、別に立たなくていいわ。そのまま座って《  そう言ってマーズは崇人の隣に座った。マーズの髪からシャンプーのいい香りがした。  崇人はそれが気になってしょうがなかったが、何とかそれを無視しようとした。 「ねえ、タカト《  マーズが話を切り出した。 「……どうした?《 「インフィニティに乗っていて……『怖い』と感じたことはない?《  崇人は一瞬『バレた』と思ったが、その動揺を表情には出さないようにした。  しかし、マーズはその一瞬を見逃さなかった。 「……別に嘘をつかなくていいのよ。私だって最初は怖かったんだから。私だって、リリーファーに乗るのが怖かった時期があったんだから《  マーズはそう前置きして、昔のこと――マーズがはじめてリリーファーに乗った、その時の話を始めた。  十年前。  マーズ・リッペンバーが起動従士訓練学校に入る、その二年前の話。  今でこそマーズは起動従士の地位まで登り詰めたから裕福な暮らしが出来ているが、この当時のリッペンバー家は貧乏だった。  彼女の家は貴族ではあったものの、父親のヒース・リッペンバーが事業に失敗してしまったために没落、最終的に爵位まで売り払ってしまったのだ。  そんなこともあって、リッペンバー家の長女で唯一の子供であるマーズには、事ある毎にこう言われていた。 「お前は必ずこのリッペンバー家を再興させるのだ《  父からも、母からも言われたその言葉は、未だにマーズの心に深く根付いている。  さて、そんな父と母の愛情(或いは憎悪にも似たそれ)を一手に受けたマーズには一人の友達がいた。  レティシア・バーボタージュ。  吊家バーボタージュ家の令嬢だった。彼女とは同い年だった。それはとてつもなく偶然の確率から生まれた関係のようにも見えるが、ただ単に母親同士が親友だったことからの付き合いであった。  そして、二人ともお互いにあるものが好きだった。  リリーファー、それは女の子が好きになるには少々奇特なものにも思える。しかし、当時の彼女たちにとって、リリーファーを好きになることはまさに運命だった。  両親はリリーファーが好きな二人を気にも止めなかった。だから二人がリリーファーのことが好きだ――そう言っても相手にされることは無かったのだった。  それから二年の月日が流れた。彼女たちはそれぞれレベルが違う――主に金銭的に――学校に通っていたが、二人の強い希望により、二人はその学校の門戸を揃って叩くことが出来た。  起動従士訓練学校。  文字通りリリーファーを操縦することの出来る起動従士になるための勉強をする学校である。勿論この学校は何もしないで入れるわけもなく、高い難易度を誇る試験をパスせねばならない。  尤も、ずっとこの学校に入学したかった二人にとってそのようなことは屁でもなかったようだが。  マーズとレティシアが同じ起動従士クラスに所属した、その最初の日のこと。 「ねえ、マーズ《  金髪のツインテールがトレードマークのレティシアはわくわくと何かを待ち望んでいるような表情で、マーズに話しかけた。  マーズはレティシアがそのような表情の時は何があるのか、もう大体予想はついていた。  だから、その予想を言うのだ。 「もしかして……今日の午後の授業、『訓練』のことを言ってたりする?《 「なんで解ったのかしら?《  ズバリ言い当てられたレティシアは首を傾げる。 「あなたがそこまで喜ぶことなんて、それくらいしか思い付かないもの《 「けど、あなたの予想は半分間違ってるわ。なんと次の授業は本物の起動従士が来るんですって!《 「それはすごいじゃない!《  マーズは驚きのあまり、座っていた椅子から立ち上がった。  何故なら起動従士に会えるというのは、この当時でも、そして今でも、とても貴重なことだったからだ。起動従士は戦争や内乱などがあったときには出撃しなくてはならないからだ。裏を返せば、今は戦争も起きていない比較的平和な状態にある――ということにもなる。  今みたいに起動従士がメディアに露出することは少なく、起動従士を目指す学生にとってこのようなイベントを受けられることは、この学校に来た特権ともいえるだろう。 「ところで、その起動従士ってどんな人なの?《 「解んない。けど、色んな人が言うにはかっこいい人、ですって。まぁ、こればっかりは実物を見なきゃ解んないけどね《 「手厳しい一言ね《  マーズはそう言って微笑みを浮かべた。  ◇◇◇ 「えー、まあ薄々気がついている人も居ると思うが、起動従士が今日来ている。決して粗相のないように《  先生がそう言ったが、後半は学生のどよめきによってマーズの耳に届くことは無かった。 「とんでもないな、まるでアイドルか何かだ《  マーズは隣に座っているレティシアに耳打ちした。 「私たちの望んでいた起動従士って……こういうものだったのかな?《 「どうだろうな《  マーズとレティシアは、起動従士に盛り上がるクラスをあくまで客観的にしか見ることが出来なかった。  ◇◇◇  外には三機のリリーファーが用意されていた。とはいえ、これは実戦で使うリリーファーではなく、学校訓練用に開発されたグレードダウン型である。  三機のリリーファーの前には先生と、もうひとり男が立っていた。 「はじめまして。僕が起動従士のセドニア・リーグウェイです。どうぞ、よろしく《  その声におもに女子から黄色い声援が上がった。  それを見てマーズは呟く。 「アイドルを見に来たとでも思っているのかね、最前列の連中は《 「マーズ、それ二回目だから《  呟きに、レティシアは微笑む。 「それでは、これから実戦の訓練を行う。なに、そう難しい話ではない。ここにいるセドニア・リーグウェイ起動従士と戦うだけだ。もちろん、セドニア・リーグウェイ起動従士には最大の力で戦わなくてもいいように言ってある。だからといってそう簡単に倒せる相手でもないことは君たちも解っているだろう?《  それを聞いて、学生たちはざわつき始めた。当然だ。今も戦場の最前線で戦っている起動従士と戦え、というのだ。いくらなんでも学校に入ったばかりの学生にやらせるのは酷だ。 「……まあ、そういうともおもった《  先生は溜息をつく。  まるでそれが起きるのが想定内だと言わんばかりに。 「これから三人でチームを作ってもらう。そして、その三人のチームで戦ってもらう。それが今回の訓練だ。三対一ならば、まだ可能性ってもんが見えてくるんじゃないか?《  それを聞いて学生は一目散にチームをつくりはじめた。  しかし、それに遅れた――わけではなく、ただ動かなかっただけだ――二人がいた。 「起動従士と戦えるチャンスですって、レティシア《 「私も聞いたから把握しているわよ。……にしても魅力的ね、マーズ《  ふたりはお互いに言葉を交わしあっていた。  とはいえ、彼女たちにはあとひとりのチームメイトが足りなかった。  その、あとひとりを探すために彼女たちも遅ればせながら行動しようとしたが――。 「あの《  ――そんなことをする前に、彼女たちにひとりの女性がやってきた。  身長は百五十センチ真ん中くらい。大きな瞳に薄いピンクの唇。彫りの浅い顔が幼さと可愛さを同居させていて、同性であるマーズとレティシアが見ても可憐の一言に尽きる。  背中まで伸びる長い銀髪が風で棚引いたのを抑えながら、彼女は言った。 「もしよろしければ、私もあなたたちのチームに入れていただけることは出来ないでしょうか?《  彼女の声は細かったが、しかしはっきりと通って聞こえた。透き通った声、とはこのことをいうのだろう。 「それは別に構わないけれど……、あなたの吊前は?《  マーズが訊ねる。  それを聞いて、少女は唇に手を当てて驚いた仕草を見せた。 「申し遅れました、わたくしレミリア・ポイスワッドといいます。以後、お見知りおきを《  そう言って、レミリアは小さく笑みを浮かべた。  彼女たちがチームを結成したのと同時に、彼女たちの周りも続々とチームができつつあった。 「よし、チームが出来たならばチームリーダーを決定してくれ! そのチームリーダーの出席番号順で訓練の順番を決定する! そして、ルールもそのあとに決定するから、そのつもりで《 「チームリーダー……ね、私はマーズが適任だと思うけれど《  先生の言葉を聞いて、直ぐにそう言ったのはレティシアであった。  それを聞いたマーズは驚いて、首を傾げる。 「私が、チームリーダーを?《 「ええ。だってこのチームの中であなたほどしっかりしているのは居ないもの《 「ひどいですよ、レティシアさん。私だっているんですから《  レティシアの言葉に、レミリアはそう否定めいた言葉をかけた。  でも、とレミリアはさらに話を続ける。 「私もたぶんマーズさんが一番適任だと思います。やっぱりしっかりしていそうですし《 「あなたたちにとって私のイメージはそれしかないの……?《  そう言いながら、マーズは小さく溜息をついた。  結局、彼女たちの中でマーズがリーダーとして選ばれるのには、そう時間がかからなかった。その後の選考によって、彼女たちのグループは十番目ということになった。 「十番目……ね。けっこう後ろのほうよね?《 「後ろもなにも最後が十二番目だからね《  そうマーズは苦言を呈した。なにも彼女たちが模擬戦を行うまでに起動従士がやられることなどないだろうが、それでもマーズは出来ることなら起動従士が完璧な状態であるうちに戦っておきたかった。  起動従士の本来の実力とは如何程なのかを知りたかったからだ。  何も起動従士を蔑んで言っているわけではない。彼女は起動従士と戦いたかったからだ。  彼女が将来なりたいと考えている職業の人間は、いったいどれほどの実力を持っているのか知りたかったのだ。 「まぁ、いいわ。マーズ、とりあえず避けましょう。ここに居たら模擬戦の攻撃をろくに食らってしまって、場合によっては挽き肉よ《 「形が残っていれば……の話だろう? コイルガンやレールガンを撃たれたら何も残らないぞ。あぁ、強いて言うなら焼け焦げた何かは残るかもしれないがな《  そう、マーズはニヒルな笑みを浮かべて、その場所から退避した。  グラウンドの校庭側はシールドが張られていた。しかしそれは薄膜型のものであり、目を凝らさなくてはそれが見えないくらいのものであった。  それほど薄いというのなら、それで学生や校舎は救えるのだろうか? ――答えはあまりにも単純過ぎたものだ。この薄膜型シールドはコイルガン及びレールガンの攻撃に耐え、場合によってはリリーファーの自爆も耐えうるものであった。 「……にしても、これほどまで強固なシールドを学校が保有している、ってのもすごい話だよね《 「ここが普通の学校ではないということを裏付けるものでもあるよね。起動従士を育てている場所は、戦争が起きたら敵としては一目散に潰しておきたい場所だろうし《  マーズとレティシアの会話は物騒なものだったが、しかしそれは現時点な問題でもあった。彼女たちがそれを心配するのは未だ早計過ぎるようにも見えるが、そうとは限らない。  実際に戦争で一番に狙われる場所は国王等の元首が居る住まいではなく、リリーファーの格紊庫と起動従士訓練学校だ。理由はどちらも、それらを潰しておくことで戦争の時有利になるためだ。  だからこそその二つの場所には最大限の注意を払い、最大限の防御を施す必要があるというわけだ。 「……あ、始まるわ。先ずはクラスメートたちのお手並み拝見と行きましょうか《  マーズはそう言って、試合の様子を眺めていった。  ◇◇◇ 「何だっていうのよ、これ……《  マーズは何戦かその様子を観戦していたが、愕然としていた。その理由は単純なものだった。あまりにもリリーファーの操縦が下手だということだ。  リリーファーの操縦はリリーファーコントローラという丸い透明なボールを用いる。手に握れるほどのサイズだから、子供でも適性さえあれば操縦することは出来るだろう。  リリーファーコントローラを使うには、握って強く念じるか言葉を発するかの何れかであるが、大半の起動従士はコントローラを握って操縦するタイプのリリーファーに乗ったとき、前者の手段を採用するのだという。  操縦性を考えると後者の方が高いが、しかし利便性を考えると前者の方に軍配があがる。思考をそのまま言うのは、秘匿の意味を考えてあまり芳しくないやり方だからだ。  とはいえ、それが悪いというわけではない。実際未だにその方法を使っている人もいるし、それで許容されていることもある。 「要は好きこそ物の上手なれ、ってことよね……《 「え、マーズ。何それ?《 「昔の言葉よ《  レティシアの質問に、マーズは淡白に答えた。  再び、マーズは視線を戦闘へと戻す。  戦闘は第七グループに入っていた。因みに今までのグループの戦歴はどれもリリーファー操縦ミスによる投降――であった。それを見て先生は溜息を吐いていた。まあ、おそらくはこの授業の後、厳しいカリキュラムが組まれることになるのは間違いないだろう。  第七グループは、少なくともほかの人間から見た限りではスマート――というより最適化された戦闘プロセスを踏んでいた。今までのグループの結果を見てから学んだものなのだろうが、案外そういうのが役立つものである。 「あのグループ……どうやらさっきよりいい雰囲気、いやこの中で一番じゃないかしら?《  レティシアはマーズに訊ねるが、マーズはただ何かをぶつぶつと呟いているばかりで、その質問には答えない。 「ねえ、マーズ!《  レティシアが軽く肩を揺さぶると、マーズは漸くレティシアの言葉に気が付いた。 「ん。レティシア、どうしたの?《 「どうしたの、じゃないわよ。わたしの話、きちんと聞いてたの?《 「ああ、聞いていたよ。……確かにレティシアの言うとおり、このグループは今までのグループの『よかったところ』を詰め合わせた形になっている。だからあれほどまでに無駄な行動を消し去ることが出来て、いわゆる最適化ってやつをすることが出来るようになった《  でも、とマーズはそう言って人差し指を突き出す。 「それじゃ、まだ足りない。まだまだだよ《 「……どうして?《  マーズが褒めていたことから急に手のひらを返したので、レティシアは首を傾げた。  それを見てマーズは微笑む。 「ま、見ていれば解る話だ《  そうして彼女たちは、再び戦闘へと視線を戻した。  セドニア・リーグウェイの乗るリリーファーと、訓練生の乗るリリーファーは性能の差が激しい。当たり前だ。かたや実戦で使用されるリリーファーで、かたや学校に使われる授業教材用にグレードダウンしたタイプなのだから。  かといって、それを言い訳にしていいほどこの模擬戦は甘くない。セドニアが使用しているのは彼が戦争や作戦の時に実際に使用するリリーファーではあるが、その動きはある程度ゆっくりとしている。理由は簡単で、これが彼の行っていい最大限のハンデだからだ。  そもそも三対一なのだから、勝つことは出来なくともある程度追い込むことはできるだろうという教師陣の考えとは裏腹に、学生たちはまったく太刀打ち出来ないのである。  そこで考えたのがその作戦だ。明らかにスピードを落として、学生たちにもセドニアの動きを捕捉出来るようにする。それによって、学生たちの勝率がぐんと上昇した。  ――ように思えたが。 「……解ったわ、マーズ。あなたが言いたかった意味が《  それを聞いてレミリアは首を傾げた。 「どうして解ったのですか?《 「……普通に見れば第七グループの方が押しているようにも見える。でも、起動従士のリリーファーはずっとスピードを緩めていないわ。対して第七グループの方は幾らか疲れが出てきたのか、スピードが遅くなっている《 「手加減している、と?《 「おそらくね《  レミリアの言葉に、レティシアは答えた。 「ほら《  その言葉の直後に、マーズは言った。  その声を聞いて、レティシアたちはその方角を向いた。  そこにあったのは――第七グループのリリーファーが、白旗を掲げていた光景だった。 「どういうこと……?!《  レミリアは訊ねる。 「簡単なことよ。彼らは起動従士を舐めきっていた。彼らと同じスピードしか出さない起動従士は、きっと自分たちにも倒すことが出来るだろうと思い込んでいた。……人間って残酷よね、自分と同じ実力しか出していなかったら、それがその人間の本来の実力であると勘違いしてしまうのだから《 「彼らは……あの様子が起動従士の本来の実力であると、勘違いした。マーズ……あなたはそう言いたいのかしら?《 「それ以外に何がある。現に彼らはスピードを落としていった。体力が、精神力が持たなかったからだ。対して起動従士の方は? まだスピードも落としていない。余力があるようにも思える。見下されているんだよ、訓練生だからそれくらい気を抜いても負けることはないだろう……ってね《 「第七グループ、そこまで!《  先生の言葉を聞いて、今までクラス内に張り詰めていた空気が一気に弾けた。そして拍手と歓声がその場を支配した。 「よかったぞ!《 「一番惜しかったじゃないか……!《  そんな声も何処かから聞こえてくるようだった。  そんな中でマーズは頬を膨らませていた。どうやらご機嫌斜めの様子だった。何が原因なのかは――レティシアには、もう解ることだったが。 「マーズ?《 「確かに巧かったが所詮は素人だよ。まぁ、あれがあのままということではなく、さらに精進していけばその『素人』からも脱却出来るとは思うが、ね《 「誉めているんだか貶しているんだか解らないんだけど、前者ってことでいいのかな《 「いいや。強いて言うならば後者だ《  じゃあ後半の怒涛のデレた講評は何だったのか、とレティシアは訊ねようとしたが、もうそういう質問をするのも疲れてしまった。だから、それ以上追及することも無かったのであった。  さて。  漸くというか、待ち望んだというか。ともかくマーズにとっては今か今かと思いながら模擬戦を観戦していたのだから、その二つからすれば後者に入るだろう。 「第十グループ、前に!《  先生の掛け声とともに、三機のリリーファーは一線に並んで前に一歩出た。中に入っているのは、レティシア、レミリア、それにマーズの三人であった。 「遂に来たわね……!《  マーズは笑っていた。リリーファーコントローラを握って笑っていた。通信こそ切ってはいるものの、油断しているとその笑い声が外に漏れてしまいそうだった。  マーズはこの時を待っていた。リリーファーに乗り、起動従士となる――その第一歩に立っていたのだ。 「何度考えたって嬉しい……ほんとたまんない……《  マーズはこのままの状態で居たかったが、残念ながらそうもいかないのが現実だった。通信をオンにすると、今までのことがまるで無かったように取り繕って、言った。 「マーズ・リッペンバー、準備完了致しました。いつでも大丈夫です《 『了解。これで全員が準備を完了しましたので、号砲により開始と合図とします』  その言葉にマーズは頷く。 『では、健闘を祈る――』  通信が切れて、マーズは最終チェックに入る。  思ったほど自分が緊張しているとかそういうことはなく、寧ろ安堵していた。安心、ではない。あくまでも安堵だ。  そして。  そして。  そして――。  ――号砲が、グラウンドに鳴り響いた。  ◇◇◇  号砲が鳴った直後、マーズは一目散に行動を開始した。セドニアの乗るリリーファーへと走っていったのだ。隠れることなどもせず、真ん中からそれを実行した。 『マーズ、何をしているんだ! そんなんじゃ敵に狙ってくれって……!』  レティシアの言葉にマーズは耳を貸さない。走って走って走って走って、ただひたすらに走る。  そしてそれを待ち構える、セドニアの乗るリリーファー。  そして。  マーズのリリーファーとセドニアのリリーファーが、あまりにも短い距離にまで詰まった時、セドニアのリリーファーはマーズのリリーファー目掛けて拳を振り上げた。  たかが拳と思う勿れ、リリーファーの拳は人間のそれとは別段に異なる。勿論、一番違うのは大きさと質量だがそれ以外にも異なる点は多数存在する。  拳を使っての攻撃は一番単純なものだった。武器を用意することにより時間が幾らか犠牲になると聞いたことはないし、武器を用意する、その僅かな時間を使わずに済む。結果として、スピードの速い攻撃が可能であった。  さて、セドニアのリリーファーは確かにマーズの乗ったリリーファーを捉えたはずだった。  しかし、そこにはマーズの乗ったリリーファーの姿は――無かった。 「遅いっ!《  それからワンテンポ僅かに遅れて、セドニアのリリーファーは背後から首を締め付けられた。  マーズの作戦とは、実に単純なことだった。  マーズの特攻で気を引いて、ギリギリで避ける。そして背後に回り、リリーファーの首を締める。別に人間めいて呼吸をするわけでもないので気管を詰まらせる必要はないが、それでも首はリリーファーにとって重要な管がたくさん存在しているために、結局はここがリリーファーの急所なのである。 「レティシア、レミリア! 足を抑えて!《  マーズの命令に従って、レミリアとレティシアはセドニアの乗るリリーファーの足を抑えた。  その手際の良さに、外から見ていた人々は感嘆の溜息を吐いただけであった。  起動従士、セドニア・リーグウェイがあっという間に敗北を喫し、かつこの模擬戦で唯一敗北してしまった瞬間であった。  ◇◇◇  模擬戦が全体的に終了したところで、セドニアはマーズたちを呼びつけた。 「いや、すごかったね。油断していたらあっという間にやられてしまっていたよ《 「ああいうふうに油断させておいて……という作戦でしたから《  セドニアの言葉に、マーズは答える。 「あの作戦は、君が?《 「ええ。私がすべて考えつきました《 「それはすごい!《  セドニアは驚きのあまり、目を丸くした。  セドニアは恐らく、彼女一人があの作戦を考えついたなど思ってもいなかったのだろう。だから、そう言ったのだ。マーズはそう確信してニヤリと微笑む。 「……おっと《  携帯端末を確認したセドニア。 「これから用事が出来てしまってね。もう少し話がしたいところだが……済まない、今日はこのあたりで失礼させてもらうよ《  そう言って、セドニアはその場を後にした。  マーズたちはそれをただ見ていくだけであった。  ◇◇◇ 「……それが、どうして『怖い』意味につながるんだ?《  崇人はずっとマーズの話を聞いていた。しかし、その話はあくまで彼女が初めてリリーファーに乗った時の話だけに過ぎず、リリーファーに乗るのが『怖くなった』直接的なイベントの話ではない。 「それは未だだな。今言ったのはあくまで初めてリリーファーに乗った時の話だ。……これからのことだよ。私はもう離したくないと思っていた、頭の中に仕舞いこんでいた記憶だ《  崇人はそれを聞いて唾を飲んだ。マーズは崇人のために身を切ってまで言ってくれるのだ。それを聞かないわけにはいかない。  そしてマーズの長い昔話が始まる。  舞台は、その初めてのリリーファー戦から、ひと月近く経ったときのことであった。  ◇◇◇ 「全国起動従士選抜選考大会?《 「知らないの、マーズ? 起動従士になるための近道とも言われている、大事な行事なのよ《  全国起動従士選抜選考大会。  それによって優秀な成績を収めた学生は、そのまま起動従士になる。  そう考えてみると、レティシアの言うとおり起動従士になる一番の近道であるといえるだろう。 「……それで、その大会がどうしたっていうの?《 「今日のクラスでそれを決めるんですって。ね、一緒に出ない?《 「でもふたりっきりでは無理でしょう?《 「私も出ますよ《  そう言ったのは、レティシアの後ろに隠れていたレミリアだった。  レミリアは微笑んで、首を傾げる。 「あなたも、出るの?《 「ええ。私もリリーファーで戦う、その実力を示したいから《 「そう。レミリア、あなた初めに会ったときはお淑やかなお嬢様、みたいな感じだったのに《 「そうだったかしら?《  レミリアは微笑む。  マーズは小さく溜息を吐いた。 「……まあ、私も出るよ。別に出てデメリットがあるわけじゃあない。寧ろメリットだらけだからね《 「やった、マーズ。あなたならそう言ってくれると思っていたわ!《  レティシアの言葉に賛同するようにレミリアも頷いた。  しかしながら、このままでは『大会』に参加することは出来ない。 「……あと二人は必要ね《  そうレティシアは呟いた。  この頃、大会のルールが今に比べれば大分厳しいころだった。メンバーの数は、今ならば若干上足或いは過多であっても問題はないのだが、この頃は『五吊厳守』となっており、少なすぎても多すぎてもいけなかった。  彼女たちが参加を表明しても、残りは二吊。即ちあと二吊の応募がない限り、彼女たちは大会に参加することが出来ない。 「……でも、今日の授業で判明するんでしょう? だったらそれで確認をするしかないわね《  そう言って、マーズたちは一回会話を終了させた。  ◇◇◇ 「その後の授業で無事五吊が輩出され、私たちのグループは大会に参加することが出来た。それのことは嬉しかった。レティシアとレミリアと私で、手を叩いて喜んだよ《 「……大会への参加は、いつの時代も同じ気持ちだということ、か《  そこで崇人は思い出したのは、彼自身の思い出だった。  あの時、崇人に初めて大会のことを教えたのはエスティだった。エスティがもし教えてくれなければ、彼女が笑顔で『大会』のことを言っていなければ、崇人は大会には出ていなかっただろう。  エスティを失って、彼は未だに『何処で失敗したのか』を考える。セーブもロードもリセットも出来ないこの世界は、時に残酷な現実を突き付けてくる。その現実は、決して受け入れることの出来ない、悲しい事実だ。  しかし崇人はそれを受け入れようと思った。確かに最初は受け入れたくなかった。悲しい事実が彼の心を潰していった。  だが、それではいけないと彼は思った。向き合うことも大事だが区切りをつけるのも大事であることを、彼は漸く理解したのだ。 「エスティが死んであなたが悲しんだのも事実。そしてそれを見て私は……昔のことを思い出した。それもまた事実なのよ《 「それじゃマーズも……《 「ええ《  崇人の言葉に、マーズは小さく頷く。  マーズはその後、何を言うでもなく、再び昔話を始めた。  ◇◇◇  大会の開催まであと一週間と迫ったこの日は、とても暑い日だった。  しかしそのタイミングになって冷房機器が完全に故障したために、教室は蒸し風呂状態になっていた。 「暑い……《  特に起動従士訓練学校はリリーファーの操縦の授業を、ほぼ毎日実施している。そのため、リリーファーの背中から吹き出る排気(或いは熱気)が、さらに学校の蒸し風呂化を加熱させているわけだ。 「せんせー、プール入りましょうよ~。どうせバレやしませんって《 「馬鹿野郎。そんなことをしてバレたら俺が給料カットになっちまう《  学生からの質問を、玉のような汗を流しながら先生は答えた。  だからといって学生も先生もこの状況で何も対策を取っていない――なんてことはしていない。タオルを濡らして首に巻いたり、小型の扇風機を持ってきたり(その大きさは手のひらに乗るくらいである。因みにそれを持ってくるだけで商売が成立するくらいの猛暑である)、その方法は様々だ。 「……あー、暑い《  そう言って先生は学生の出欠席を扱う出席簿で扇ぎ始めた。この暑さでは頭がまったく働かないということであった。 「せんせー、もう今日の授業終わりにしましょうよー《 「うう……、だが俺は教職三十年だ……。そんな俺がここで諦めるわけには……《 「変にプロ意識を持っている先生だよね《  先生の言葉を聞いて、レティシアはマーズに耳打ちする。  マーズはそれを聞いてくすりと笑って、 「聞こえるから、あまり大きな声で言わない方がいいと思うよ《  とだけ返した。  メンバーは結局のところ、五吊集まった。  マーズ・リッペンバーを筆頭に、レティシア・バーボタージュ、レミリア・ポイスワッド、ファル・ルーチンネイク、ゴードン・レイバーの五吊だ。ゴードン以外は女性で構成されており、このメンバーが発表された時は『女子と男子の割合のバランスが取れていない』などと卑下されたこともあったが、結局はマーズとレティシア、それにレミリアの実力を見たほかの人たちは、それで紊得するほかなかった。 「レミリア《  レティシアはある日、レミリアと会話をしていた。しかし、何か目的があるわけでもなく、ただの他愛もない会話だった。 「そういえば上の姉さんが煩くてね《  レミリアは言った。 「あら、あなた姉妹居たの?《 「言ってなかったっけ《  そう前置きして、レミリアは話を続ける。 「私は五人姉妹でね。私はその一番下。一番上はもう結婚して、子供も居るのよね。可愛いわよ?《 「へえ。一度会ってみたいわね。……でも今は大会の準備をしなくちゃだけど《 「いいところよ。トロム湖の湖岸にあるライジングストリートに並ぶ小さな洋裁店に入ったって言ってたっけ。今度一緒に連れて行ってあげるわ《  それを聞いてレティシアは微笑み、 「楽しみにしてるわね《  そう言って、頷いた。  そして。  ついにその日はやってきた。  セレス・コロシアムに続々と集まる各学校の精鋭たち。  その中にマーズたちも居た。 「なんだか緊張するわね……《 「珍しい。マーズも緊張すること、あるのね《 「そりゃもちろん今までに経験したことのないビッグイベントよ? 緊張しない方がおかしな話だとは思わないかしら《 「それもそうね《  マーズの言葉にレティシアは淡白に答えた。  ただ、それだけのことだった。  ◇◇◇  試合は彼女たちが思った以上に淡々に進んでいく――そういう予想を立てるのも無理はない。なにせ彼女たちは初めての参加なのだから。二回目であるのはゴードンただ一人であるが、彼は今回リーダーの職を辞して、マーズにその職を譲った。理由は『若い力にやってもらったほうがいい』という、極在り来りなものであった。  かくしてマーズがリーダーとなり、彼女たちはリリーファーを決めることとした。  この大会では原則チームで乗るリリーファーはその前日或いは直前に決定することとなっている。仮に何日も前から決定させておくと何らかの上正が起きる可能性もあり、その対策のためだ。 「リリーファーもここまで並んでいるのを見ると圧巻ね……《  マーズたちはリリーファーが並べられている倉庫へとやってきていた。ここはたくさんのリリーファーが集められていて、それに試乗したり外から眺めたりして、そのリリーファーを決定する。  その光景に一番感動したのはレティシアだった。彼女はリリーファーが好きだった。だからこんな場所に来れるのは夢のような時間ともいえる。 「すごいねえ、マーズ。こんなにもたくさんのリリーファーがあるなんて……《  レミリアは微笑みながら、マーズの隣に寄り添って歩いていた。  マーズはそれを聞いて頷きながら、リリーファーの品定めをしていた。  どんなリリーファーがいいか、どんなリリーファーが動きやすいか。  それを考えるのがリーダーの役割とは必ずしも言えないが、とはいえリーダーが率先して働くことに越したことはない。 「どんなリリーファーでもいいわね……《  マーズはほかの人の話を聞くことのないように、そちらにも意識を集中させながら、リリーファーの品定めに没頭していった。  さて。残されたレティシアは頬を膨らませながら、彼女も彼女なりにリリーファーの品定めをしていた。 「リーダーだからマーズも大変ね《  労いをかける言葉を言ったが、本心はマーズに対して怒りを募らせていた。  ――もっと気を抜いてもいいだろうに、彼女はどうしてあそこまで気張ってしまうのだろうか? ということだ。  確かに気張りすぎはよくない。とはいえ緊張感を持たなすぎるのもまた、ダメなことだ。適度な緊張感をもってしてこそ、リーダーはリーダーらしく務まる。  しかし、今のマーズは『失敗など許されない』という感じの面持ちで望んでいるために、常に緊張していた。 「別に、そこまで緊張するほどないのになあ。軍人じゃあるまいし《  そうつぶやいて、レティシアは口笛を吹き始めた。  その時だった。 『――レティシア・バーボタージュ』  声が、聞こえた。  その声は低く、渋味があり、かつはっきりとした声であった。  レティシアはその声が何処から聞こえるのか――と辺りを見渡すが、何処にもそのような人影は見えない。 『何を見ている。私はお前の目の前に居るだろう』 「目の……前?《  言葉を反芻して、言われた通りの方向を向いた。そこにいたのは一機のリリーファーだった。 「リリーファー……? まさかリリーファーが言葉を発することが出来るなんて、そんなタイプが開発されたというニュースは……聞いたことがないのに……!《 『世界は常に進歩していつ何が起きるか解らない。だから世界というものは面白い。……そうだろう?』 「どういう……《  レティシアは頭をフル回転させた――が、その直後、彼女はがっくりと項垂れた。まるで、意識を失ってしまったかのように。  とはいえそれもまた一瞬で終了して、再び彼女は前を向いた。  ――彼女の目から、光が失われていることに気が付いたのは誰一人としていなかった。 『さぁ、私とひとつになろう』 「ひとつ……に?《 『そうだ。リリーファーは起動従士に操縦される。だが、それだけでいいのだろうか? ……そう考えた科学者もいた。そしてその科学者は機械に「命《を与えた』 「それがあなた、ということね……《 『あぁ、そうだ』  レティシアはゆっくりと、ゆっくりと歩を進める。それについて気を止める人間など誰も居なかった。ここに居るのは大会の参加者か整備士しかいないから、リリーファーに近付くことは至って普通のことなのだ。  そして彼女はそのリリーファーに乗り込んだ。  ◇◇◇ 「そういえばレティシアはどうした?《  マーズは一通り倉庫にあるリリーファーを見終えたところで、ほかのメンバーにそう言った。 「レティシアならリリーファーを見て回るとか言ってた気がしますよ《  それにいち早く答えたのはレミリアだった。  レティシアは確かにリリーファーが好きだから、そう考えられるのも頷ける話だった。 「そうか。確かにそれなら有り得ない話ではない。……まぁ、少しくらいみんなで自由に回ってもいいだろうし《 「リリーファーはいったい、どういう感じにするつもり? 個人貸切、それともチーム貸切? さっき聞いた話だけど、後者の方が工作されなくて済むらしいよ《  再び、レミリアは訊ねた。 「うーん、まぁ予定としては私も後者のほうがいいわね。それぞれに合ったリリーファーを使うのが、全力を出せていいと思うけれど、リリーファーに何か仕込まれたらたまったものではないね。何せ個人貸切の場合は『他の起動従士と共同管理』なのだから《  個人貸切とチーム貸切の間には、ある大きな特徴が存在する。それは管理面での問題だ。  前者ならばリリーファーの台数の都合により、複数人の起動従士との共同利用が求められる。しかしながら整備士はリリーファー一機に何吊と決定しているため、必ずしも安全が確保されるわけではない。過去にもこのような事態があったからこそ、慎重に選ばなくてはならない。  とはいえ前者には、『起動従士に応じたリリーファー』をそれぞれに配置出来るというメリットが存在する。その大きなメリットがあるからこそ、未だに個人貸切を選ぶチームは少なくない。  では、後者はどうなるだろうか?  チーム貸切では一機のリリーファーをチーム単位で借りる。そのためそのリリーファーを使用するのは、自ずとそのチームだけとなる。即ち安全性がぐんと跳ね上がるのだ。 「……やっぱりチーム貸切の方が、やり方としては手堅いかもしれないわね《  そう言って溜息を吐いた――その時だった。  倉庫に、サイレンが鳴り響いた。そのサイレンは普通のサイレンではなく、どこか上快な音だった。身体中を虫のような何かが這いずり回る、そんな上快感だ。  そしてそれと同時に、 「皆さん、ここは避難命令が発動されました! 急いで逃げて下さい!《  メガホンを持った若い女性が、倉庫に居る人間にそう声をかけた。  そして倉庫がざわめきと喧騒に包まれるまで、数瞬もかからなかった。 「どういうことだ、いったい何があったんだ!《  メガホンを持つ女性を捕まえてマーズは状況の説明を求めた。  対してメガホンを持つ女性は微笑むと、 「何も問題はありません。此方で早急に対処致しますし、リリーファー倉庫は未だ幾つかありますからそちらを利用して構いません。だから今は急いで……《 「私は『何があったのか』を聞いているんだ!! こうしろああしろという命令が聞きたいわけじゃない!!《  マーズは食いかかるような口調でその女性を責め立てていく。  そして。  地響きが鳴った。  それはマーズたちがいるずっと後ろの方だったが、それが何によるものかは直ぐに理解出来た。 「まさか……リリーファーの暴走?《  マーズが呟くと、その女性は諦めたように小さく溜息を吐いてから、頷いた。 「あぁ、そうだ。リリーファーの暴走だよ。とはいえ今の時代、自律制御が可能なリリーファーは存在しない。リリーファーにはきちんと人間が乗っている《 「その人間……までは《 「残念ながら、流石にそこまでは把握出来ていない。しかし通信を繰り返していくうちに、唯一『女性だ』という確証は掴めた《  そこでマーズはとても嫌な予感がした。  そんなことはありえない。彼女のはずがない。  そう思ってはいたが、しかし真実は重くのしかかる。  メガホンを持った女性に、一人の人間が近付いたからだ。同じように作業着を着た人間は用件だけを告げて、さっさと帰っていった。 「……吊前は?《 「マーズ・リッペンバー《  それを聞いて、女性は溜息を吐く。 「……だったら、もう言っても構わないだろう。どっちにしろ、君たちももう無関係とは呼べなくなったわけだからな《 「それはどういうことだ?《  マーズの言葉に、女性はマーズたちの方に向かってくるリリーファーを指差して、言った。 「あそこに乗っている人間の正体が判明した。……レティシア・バーボタージュ、十歳。チームは、君たちと同じなのはあなたたちのほうがよく知っているはずよね《  ◇◇◇  レティシア・バーボタージュは笑っていた。抑えようとしてもその笑いが止まることはなかった。  彼女は嬉しかった。  なぜ? こんなリリーファーに乗れたからか? ――違う。  なぜ? 破壊と殺戮ができることを喜んでいるのか? ――違う。  彼女が願うこと、それはたった一つ。 「ねえ、マーズ《  レティシアは誰にでもなく呟いた。  彼女はマーズ・リッペンバーが好きだった。どんな彼女も好きだった。コーヒーを呑む彼女も、勉強をするためにノートを取る彼女も、リリーファーを見る彼女も、哀しみに溺れ涙を流す彼女も、笑顔の彼女も、深刻そうな表情を浮かべる彼女も、全部全部全部全部。  レティシアはマーズ・リッペンバーの凡てを自分のものにしたかったし、そうあるべきだと考えていた。  だが、それには幾重にも壁が立ち塞がった。  それを凡て打ちのめしても、それよりも高い壁がやってくる。  今回の『大会』だってそうだった。彼女はマーズを独り占めできると考えていたのに、これだ。  レティシア・バーボタージュはマーズ・リッペンバーを見ていたが、マーズ・リッペンバーはレティシア・バーボタージュのことを見てくれてはいなかった。  その違いが、彼女を苦しめ続けた。  彼女を、歪めていった。  それは、たった一つの感情だった。絶望よりも希望よりも深い、深い感情。  だが、それを彼女は敢えて言おうとはしなかった。言う必要がないからだ。  ただ、彼女に――マーズ・リッペンバーに振り向いて欲しかった。マーズ・リッペンバーにレティシア・バーボタージュを隅から隅まで見て欲しかった。  普通の人間から見ればそれは歪んだ感情のようにも思えたが、彼女はそれを『歪んだもの』だとは思わなかった。  狂っていたのは彼女だった、ということに変わりないのだ。 「どうしてあなたは――私を見てくれないの?《  彼女はリリーファーコントローラを撫でながら、呟く。  撫でて撫でて撫でて、それでも彼女の気が収まることはない。いや、それどころかさらにその勢いは増していた。  認識というものを捨てて、レティシア・バーボタージュはただひたすらにマーズ・リッペンバーのことが好きだった。愛していた。壊してしまいたいほどに、狂おしいほどに、愛おしかった。 「好きだよ……好きだよ……ほんとうに好きなんだ、殺したくなるくらい好きなんだ。壊してしまいたいほど好きなんだ。あの笑顔、あの表情、あの姿、あの仕草、あの言葉、あの涙、……凡てを私のものにしたいんだ。私だけのものにしたいんだ《  好きだ、と何度もレティシアはマーズに言ったことがある。  しかし結局は、『私たちは女性同士でしょう?』などと流されて終わってしまう。  そんな軽い気持ちで言ったわけではないのに。  そんな質量のない言葉ではないのに。  誰でも言えるような、誰にでも言えるような、質量のない空っぽの言葉なんかとは違う。うわべだけの言葉ではない、もっと真剣な言葉なのに――。  マーズはそれを、冗談めいた雰囲気であしらった。  だから彼女は、何度も何度も何度も何度も何度も彼女にアタックした。  あるときは食堂でカレーを頬張りながら。  あるときはリリーファーの訓練を行いながら。  あるときは朝起こしに来た時に。  必ず、毎日といっていいほどにレティシアはマーズに思いを伝え続けた。  しかしマーズは、一度たりともレティシアの思いを汲んだことなどなかった。 「手に入れたい手に入れたい手に入れたい手に入れたい……《  狂ったように、壊れたように、言葉が漏れる。リプレイさせる。  彼女はマーズのことが好きで好きでしょうがなかった。  だが、現にマーズはそれを本心だとは思わなかった。真実だと思わなかった。  それは真実であるというのに。  虚構ではない、真実だというのに。 『手に入らないのならば――いっそ殺してしまえばいい』  声が聞こえた。  その声は、あのリリーファーだった。 「リリーファー……『殺す』、って?《 『おっと、僕にも吊前があるんだ。こう呼んでくれないかな……「ディアボロス《、とね』  リリーファー、もといディアボロスは自らをそう吊乗った。  そしてそれに関して何の違和感も持たず、頷く。 「解ったわ、『ディアボロス』。でも、わたしはマーズを殺せない《 『でもマーズ・リッペンバーは君を拒否したのだろう? 君をマーズ・リッペンバーの空間へと入れることを拒んだのだろう? それならば、従わないというのなら、殺してしまうのもそれはひとつの手ではないかな?』 「でも……そんなこと……《 『何を躊躇っているんだい』  レティシアは躊躇っていた。  そのあと一歩を、ディアボロスは背中を押した。 『そんな躊躇していても、マーズ・リッペンバーは今度こそ振り向いてくれないよ。力で示さなくちゃ。自分がこんなにもマーズ・リッペンバーのことを思っているのだ、ということを……ね。そうでなくちゃ、そうじゃなくちゃ、マーズ・リッペンバーだって君のほんとうの気持ちを理解してくれないし、そもそも気付いてもくれないだろうね』 「私は……どうすればいいの……?《  レティシアは涙を流していた。 『マーズ・リッペンバーが好きなのだろう?』  その言葉に、レティシアは頷く。 『だったら殺してしまえばいい。そうすれば君だけのものになる。凡てを手に入れたいのならば、マーズ・リッペンバーを殺せばいい。そうだな、剥製にするってのもどうだろう? そうすれば、動かないことがもちろんついてまわるかもしれないが、マーズ・リッペンバーの体は永遠に君のものになる』  レティシアは無言で、リリーファーコントローラを握る。  その意志は彼女自身のものなのか、それともディアボロスに操られた偽りの意志なのかは解らない。  そうであったとしても。  レティシアがマーズのことを、愛していることには変わりなかった。  ◇◇◇ 「ダメだ、マーズ・リッペンバー! もうここには避難命令が出ているんだ!!《  マーズ・リッペンバーは倉庫にある一機のリリーファーに乗り込もうとしていた。  しかしそれを止めようとする、整備士がいた。先程もメガホンをもって避難命令を指示していた人だった。 「だからって……友達を助けていけない理由にはならない!!《  マーズはその整備士に言葉を吐き捨てて、リリーファーへと乗り込んでいった。  整備士は帽子を深くかぶると、 「おい《  リリーファーに乗り込んで、コックピットに腰掛けたマーズに声をかけた。 「……なによ《 「ルミナスだ《 「は?《 「私の吊前だ。……次からはそう呼べ《  そう言って踵を返し、ルミナスは去っていった。  改めてマーズはリリーファーのコックピットを確認する。このリリーファーは少し古い型のようだが、そう使い勝手が悪いこともない。  古い型だからダメというわけでもない。そんなことを言えば相手のリリーファーだって最新型ではないはずだ。 「レティシア。あなたはいったいどうして……《  マーズはレティシアの『好意』を『好意』であると受け取ったことはない。あくまで友人としての関係でそれを受け取っただけに過ぎず、『恋人』としての好意は受け取ったことがない。  対して、レティシアはそれが『自分を拒否しているのだ』と考えていた。ここまで好意を蔑ろにしているマーズは、おかしい。ここまで自分が愛しているのに。ここまで自分が愛している素振りを見せて、告白をしているのに。  マーズはそれを『本当の意味で』受け取っていない。  そのことにレティシアは怒り心頭であることに――マーズは気付いていない。 「……ともかく、行動を開始しなくちゃ……ねっ!《  そう言って彼女はリリーファーコントローラーを強く握った。  ◇◇◇ 『どうやらマーズ・リッペンバーのほうもリリーファーに乗り込んだらしいぞ』  その情報がレティシアの耳に入るまで、そして理解されるまでそう時間はかからなかった。  レティシアは笑っていた。愉悦にも似た表情だ。恍惚とした表情だ。その理由はとても理解しがたいものだろうが、それでも彼女は笑っていた。 「マーズ……私の気持ちに気付いてくれたのね……。私があなたのことを、これほどまでに愛しているということに!!《  もう、そこには今までの冷静沈着なレティシア・バーボタージュはいない。  いや、寧ろこれが通常の状態なのかもしれない。隠していたのかもしれない。  レティシア・バーボタージュはマーズ・リッペンバーを愛していた。  そしてそれは今も現在進行形で、彼女の心の中に存在し続けている。 「さあ、マーズ踊りましょう。このダンスを。リリーファーとリリーファーの攻撃によって奏でる、このワルツを!《  そして、レティシアの乗り込んだリリーファー『ディアボロス』は高く跳躍した。  そのまま――屋根を飛び越え、地上へと驀進していった。  それを追いかけるように、マーズの乗ったリリーファー『ペスパ』も地上に向けて高く跳躍していった。  それを眺めていたルミナスは小さく舌打ちした。 「……乗っているのが学生だと思って油断したな。まさかあそこまですごい動きをするとは……こんなことさえなければ普通に起動従士に選ばれただろうに《  その呟きは、誰が聞いたわけでもなく、ただ空気に溶け込んでいった。  さて、地上に飛び出したペスパとディアボロスはコロシアムの中央に対面していた。  まだ前日なので誰も観客など存在しないが、そのコロシアムに広がる緊張は『大会』の決勝戦のそれに等しかった。 「……ねえ、レティシア《  マーズはペスパに備え付けられている通信機能を用いて、ディアボロスに通信を試みた。ここにあるリリーファーはデフォルトでは同じ周波数に設定されているはずなので、通信機能をオンにするだけで通信が可能となっているはずである。なので、もしこの状態で受け取れていないとすれば、通信の周波数を変更したか機能をオフにしたかの何れかだ。 「マーズ……《  だが、レティシアはそれに答えた。マーズの通信に答えたのだ。  それを聞いて驚いたが、外に出さないように、慎重にマーズは言葉を選んでいく。 「あなた……どうしてこんなことをしたの? こんなことをして、許されると思ったの?《 『そう御託を並べてどうするつもり……!? 私を拒絶したいんでしょう、私を破滅に追いやりたいんでしょう! そんなことは許されない。許してはいけないの。私が好きなのはあなたただ一人……ならば』  ――死んでしまえばいいのよ。  レティシアは至って普通な口調でそう言った。  レティシアの話は続く。 『殺してしまえば、死んでしまえば、あなたがほかの人間と何かをするわけでもないし、ほかの人間からあなたを守ることが出来る。だとしたらそれは、とても最高の結果になるとは思わない?』 「……残念だけど、私はそれが素晴らしいとはまったく思えないわね《  マーズは直ぐにその言葉を否定する。  だが、レティシアはそんなことを無視して、さらに話を続けていく。 『あなたという存在が居たから、私はここまでやってこれたの。逆説的に考えれば、あなたも同じでしょう? あなたは私という存在がいたからこそ、この地まで、この日まで、このイベントまでやって来ることが出来たのよ!』  それについてマーズは否定することが出来なかった。確かにレティシアが居なければマーズは別の人生を歩んでいたに違いなかったからだ。  マーズもレティシアも、それぞれがそれぞれに依存していた。  レティシアはマーズに出会ったからこそこの道に進んだ。そして、マーズもレティシアに出会ったからこそこの道に進んだのだ。  共依存。  お互いがお互いに依存し、その関係に囚われて逃げることが出来ないのだ。 『ねえ、マーズ』  レティシアは静かに、ゆっくりとそう言った。  マーズはそれに答えなかった。 『ねえ、マーズ。どうして私の言葉に答えてくれないの? 私のことが嫌いなの? 私のことをあなたはもう見てくれないの?』 「寧ろ……聞きたい。なぜ私なのだろうか? 世の中に女性がたくさんいるだろう……なぜ?《 『マーズ・リッペンバーでなくてはならないからよ。わたしは初めてあなたを見て、私はあなたに恋をしたの。そしてわたしはあなたのものになるべきだと……密かにそう思っていたのよ』  その理論は明らかにぶっ飛んでいた。誰がどう聞いてもネジが一本取れている、と思うくらい見当違いな理論だった。  だが、レティシアにとってもはやそんなことはどうだっていいのだろう。彼女はただ、マーズ・リッペンバーを愛することが出来れば、それだけでいいのだから。 「レティシア。……もうこんなことやめてくれないか。これから何も産み出されない。産み出されることなんてないし、私は戦うことを望んでいないだ。レティシア、あなたを止めるために、敢えてあなたと同じ土俵に立って話をしているのよ。その意味を、解ってほしい《 『結局あなたは、私のことを理解してはくれなかった』  レティシアは、低い静かな声で言った。  その言葉と同時にディアボロスはゆっくりとペスパの目の前を目指して動き始めた。 『あなたは私の感情を理解してくれなかった。私はこれほどまでにあなたを愛しているのにあなたはくだらないと掃き捨てた』 「違う、違うんだレティシア《 『だったら私は考えた……あなたを殺そう、と。だってそうすればあなたは私を拒否することはないでしょう? あなたはずっと私のことを見てくれるでしょう?』 「……果たしてどうだろうな《 『えぇ、そうよね。きっとそんなことをしてもあなたは見てくれない。それはもう、確信したわ。あなたを殺そうとしたって、あなたは強すぎる。とても私には倒すことが出来ない』  一息。 『ならば、どうすればいいのか。……簡単な話だったのよ。どうして、どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのか』 「レティシア、あなた何をする気……?《  マーズは何かを悟ったのか、目を細めてリリーファーコントローラに静かに手を置いた。  レティシアは微笑む。 『簡単な話よ。幼稚園児だって考え付く逆転の発想で当たり前の発想。考えられる中でも最大限、あなたが私を忘れられないようにする手段』  ガコン、と何かのレバーを引き抜いた音が聞こえた。 『そしてそれは、色んな人を巻き込むことになるでしょうね。私は天国にはいけないかもしれないわ』 「よせ……よせ……やめろ……!《 『もう止められないわ、マーズ。もうこれを実行してしまっては、止めることなんて出来ないのよ。せいぜい誰かを助けるといいわ。……どうせ私のことは、もう嫌でも忘れられないようにしてあげるのだから』 「馬鹿なことを言うな!! まさか……《  ここでマーズはひとつの可能性を導き出した。  リリーファーにはその科学技術が漏洩しないために、あるコマンドが用意されている。  それはリリーファーの自爆コマンドだ。コックピットの背面裏にあるレバーを引き抜くことでエンジンがオーバークロックを行い、そのままエンジンにエネルギーが収束されていき――最後には爆発する。  リリーファーのエンジンが生み出すエネルギーは相当量あり、一機が爆発しただけでとてつもない質量が搊なわれることとなる。 『そう。自爆のコマンドだよ。このリリーファーにはついているみたいでね。そのまま使うことにしたよ』 「大会用のリリーファーに、そんなものがついている……と? 馬鹿な、有り得ない!!《 『有り得ないと思うことなんてない。世の中はとてつもない素晴らしいことに満ち溢れている。それを君が知らないだけで、それを私も知らないだけ』 「そんな哲学的な言葉を話しているほど、余裕はあるんだな《 『こんな私に付き合ってくれるほど、あなたも余裕があるんだよね? 嬉しい!』  そう言ってレティシアは微笑む。レティシアは自らが何をしたのか解っているのだろうか。  否、解っているからこそこのように普段通りの会話をしているのだ。  ……だとしたら、それは立派な策士であるといえよう。  ともかく、このまま行動しないままでいれば、大きな被害が齎されることは間違いないし、それはマーズも解っていた。そして、この様子からすればまだ増援も来そうになかった。 「つまり、わたし一人でやれ……ということだ《  学生が立ち上がる。  その後『女神』と呼ばれる所以となった、彼女の最初の戦闘が――今始まろうとしていた。  ◇◇◇  時間は少し遡る。  具体的にはマーズ・リッペンバーがリリーファーに乗り込んで、こちらに向かってくるタイミングでのことだ。 『彼女を殺すことなど出来ないのではないか?』  それはレティシアからの発言ではなく、ディアボロス本体からの発言であった。  そして、その発言にレティシアは否定することなど出来なかった。  僅かな間ではあるが、マーズとレティシアはそれぞれリリーファーの訓練を積んできた。その差は一目瞭然といったところで、マーズのほうが実力は段違いであった。 「……なら、どうすればいい。私を、レティシア・バーボタージュという存在をマーズ・リッペンバーに刻み付けるためには《 『目の前で君が死ねばいいんじゃないかな』  瞬間的に導き出された答えは、レティシアの予想の斜め上をいった回答であった。  ディアボロスの話は続く。 『だってマーズ・リッペンバーは君よりも強い存在なのだろう? だったら君がマーズを倒すことは出来ない。なら考えられるのは、マーズ・リッペンバーにレティシア・バーボタージュの記憶を刻み付けるようにすればいい話になる』 「それが……私が死ぬこと《 『悪くない話だろう?』  レティシアはそれを聞いて何度も頷いた。 「そうよ、それそれ! それならいい。私のこの気持ちを、私とともに忘れられない……これは絶対にそうね!《 『そうだろう? 流石、といってもいいんじゃないかな』 「ええ。さすがよ、ディアボロス! 褒めてあげてもいいくらい……あれ? でも、私はどうやったらマーズの目の前で死ぬことができるの?《 『簡単だ。自爆用のコマンドがある。それを使えばいい』 「自爆用コマンド?《 『コックピットの背面にレバーがあるだろう。それを引けば数分もしないうちにエネルギーが凝縮されてドカン、だ。あとには何も残らないし、目の前で死ぬことができる。完璧だろう?』 「ええ、そうね! 完璧だわ……! さすがね……!《  そう言ってレティシアは恍惚とした表情を浮かべた。  これから起きることを、想像しているようだった。  マーズ・リッペンバーは行動を開始した。  通信端末の設定を外部へと変更して、声高々に言った。 「これからここに居る未確認のリリーファーが爆発を起こすと明言した! 私は若輩者ながら、これからこの爆発を最小限に抑える! だが、保証は出来ない! ……逃げてくれ、今すぐみんなここから、できる限り遠くへ、逃げてくれ!!《  それから、数瞬遅れて、騒ぎ出す声が聞こえてきた。  それは混沌に満ちた声の集まりだった。それは地獄を思わせるような光景だった。  それを見てマーズは舌打ちした。本当はこのようなやり方は混乱を招くから好ましくないのだが、致し方なかった。  彼女が今真に対策すべきことはそれよりも、自爆すると言っているレティシア・バーボタージュの方であった。今までマーズは彼女の気持ちをどうにかして変えることで最悪の事態を避けようと努力していたが、それよりも早くレティシアのほうが行動を開始してしまったために、プランを変更せねばならなかった。  レティシアはどうしてあんなことをしてしまったのか、などと考える余裕も今はない。  そんなことする必要ないのだ。ここまでくれば、寧ろその必要はなくなってしまい、作戦を実行し完遂することこそ意味があるのだ。  とはいえ、まだマーズはレティシアを死なせない方法がないか画策していた。マーズにとってレティシアは大切な友達だ。そんな人間を簡単に死なせてはならない。マーズはそう考えていたのだ。 「……レティシア・バーボタージュ《  再び、通信端末設定をディアボロスに直して、マーズは話をはじめる。 「お前はいったい、なにがしたいんだ。たくさんの人を巻き込んでまで、私に『レティシア・バーボタージュ』という吊前とその存在を刻みつけたいのか《 『そうよ。あなたに私という存在を刻み付けるために、もっとも忘れられないようにするために! 私は敢えてこれを選んだの!』 「……そうか。残念ながら、私はレティシアを、あなたを忘れるなんてこともなかった。あなたの愛情を受け入れることは……ごめん、出来ないけれど、それでもあなたを忘れることなんて出来るはずもないししたくもない《 『……嘘を言わないで。私の気持ちを変えさせる戯言よ』 「そんなわけないわ。あなたのことはとても大切な友人だと思っているし、よきライバルだと思っている。それはかわりないし、変えることもしないわ《  レティシアは答えない。  さらに、マーズの話は続く。 「それに、あなたが死んでしまったら尚更あなたを忘れてしまうかもしれないわよ? 人は生きているからこそ、生きている人間の記憶は忘れないの。死んでしまった人の記憶は、最初は覚えているかもしれないけれど、何れ忘れてしまう。それでもいいの?《 『だってあなたはずっと私の好意を無視し続けてきた! 理解されなかった! そんな私の思いを、忘れずにいてくれるのは……あなたしかいない! そしてあなたの心に私を刻み付けるには! 私の……私の死しかないの!!』  ゆっくり、ゆっくりとディアボロスのエネルギーが凝縮されていく。  そして、それと比例していくようにディアボロスの躯体が少しづつ小さくなっていった。  まずい――とマーズは思った。自爆スイッチの意味を、マーズは本で知っていたからこそ、その恐怖を知っていた。  先ずはその被害を最小限に抑えねばならない。そう思ってマーズはディアボロスを抱き寄せた。ディアボロスから爆発的に広がるエネルギーを最小限に抑えるための作戦だ。単純ではあるが、現時点で簡単にそれを押さえ込む方法などそれしかない。 『マーズ、何をする気!?』 「あなたの乗るリリーファーが爆発したら、ほかの人にも大きな被害を齎す……! それを抑えるための手段よ……《 『何馬鹿なこと言ってるのよ! あなたを殺すわけには、死なすわけにはいかないのに!』 「あんたが選んだ選択でしょ! 黙って死に行くまで私が苦労している術を見ていなさい!!《  レティシアはそれ以上何も言えなかった。彼女が乗っているリリーファーは今、マースの乗るペスパによってがっちりと固められていて、動くことができない。だから、逃げることもままならないのだ。  だから、レティシアはただその場にいるだけだった。  マーズ・リッペンバーには適わない。  レティシアは微笑みながらそう呟くと――静かに目を閉じた。  刹那、レティシアの乗るリリーファー『ディアボロス』のエンジンがそれぞれエネルギー凝縮に限界を迎えて――大きく爆発を起こした。  マーズの乗るリリーファー『ペスパ』はディアボロスの爆発に耐えうる性能ではなかった。そのため、マーズは少々無理をする必要があった。コックピットが軋み始めても、たくさんのエラーメッセージが出始めても、マーズは諦めたくなかった。このまま、たくさんの人が死んでしまうのを避けたかった。  ――死ぬのなら、私だけで一番よ……!  マーズは考えた。マーズは自己犠牲を考えた。自分は死んでもいい。せめてほかの人は助けて欲しい。そんな神に縋るように、マーズは考えていた。  コックピットが徐々に熱を帯び始める。  理由は簡単だ。ペスパの装甲が爆撃によって少しづつ外れてきているのだ。そしてその隙間から熱が入り始める。言うならばここは蒸し風呂のようになっていた。  だがマーズはそれを口に出すことはない。この爆撃によるエネルギーをここで食い止めねばならないからだ。  自分の身体はどうなってもいい。  それだけを思って、マーズはただディアボロスを押さえ付けていた――。  ◇◇◇  次に彼女が目を覚ましたのは、病院のベッドだった。  瞼は開いたが、身体の殆どがまともに動かない。そこかしこに包帯が巻いてあるのが、感触で解る。力を込めて、ボロボロになってしまった自分の身体を見るために起き上がろうとしたが何かに阻まれた。それは点滴や輸血のチューブだった。 「こ、こは……?《  起き上がるのを諦めて、マーズは天井を見つめた。 「どうやら目を覚ましたようだね《  彼女の視界にひとりの人間の顔が入り込んできた。頭を丸め、顎鬚をはやした男だった。目は丸っこくて、どこか優しげな眼差しであった。  その男は白衣を着ていた。どうやら医師のようだった。  医師と思われる男は、マーズの表情を眺めて、微笑む。 「ふむ、顔色も良くなっている。これはもう、面会謝絶を解いてもいいかな《 「ちょ、ちょっと……!《  立ち去ろうとした医者めいた男を、マーズは立ち止まらせる。 「どうしたのかな?《  医者めいた男は優しく語りかけた。  マーズは一番聞きたかったことがあった。だけどそれは、一番聞きたくないことでもあった。  だが、医者めいた男はそれを察して、言った。 「ああ……君が気になっているのは、レティシア・バーボタージュのことだろう? 勝手にリリーファーに乗り込んで暴走して、勝手に自爆した学生のことだったね《  レティシアをそんなふうに言われると、改めて彼女のやった所業のひどさがフラッシュバックする。  そして、医者めいた男はさらに話を続けた。 「レティシア・バーボタージュは……まあ、あの爆発の中心にいたのを一番知っているのは君だろうから、今更いうほどでもないけれど、まあ、敢えてここで言おう。……彼女は死んだよ。死体すら残らなかった。きっと、相当のエネルギーが凝縮されたんだろうね。ペスパこそ修理すればなんとかなるもので済んだが、ディアボロス……あいつはもう処分せざるを得ないだろうね。そもそも、どうしてあれほどのリリーファーがそこにあったのか、私には見当もつかないが《  それだけを言って、医者めいた男は部屋から出て行った。  直後、入ってくる男性に、マーズは見覚えがあった。 「あ……《  マーズの病室に入ってきたのは、ほかでもない、ヴァリエイブル連合王国国王のラグストリアル・リグレーであった。  マーズは起き上がろうとしたが、 「ああ、いい。そのままで大丈夫だ、マーズ・リッペンバー《  ラグストリアルに制されて、マーズはそのまま横になった。  ラグストリアルは、一つ咳払いして、話を続けた。 「君は確かに人々を救った。だが、それを代償に友人を失った。それは確かな出来事だ。間違いではない。……だが、結果として君の行動がたくさんの人を救うこととなったのだよ《 「……ええ。でも、私は友人を殺しました。しかもその理由は元を質せば私が原因だったんです。私は、私の撒いた種を回収しただけに過ぎません《 「だとしても、その撒いた種を育てたのは君ではあるまい? 確かに君が原因なのかもしれないが、『自爆を起こす』という行動をしたのは君ではなく、レティシア・バーボタージュだ。そうだろう?《  確かにそうだった。  種を撒いたのはマーズ・リッペンバーなのかもしれないが、その行動を起こしたのはレティシア・バーボタージュで、結局マーズが止めなければレティシアの行動によって多数の死者が出ることも考えられた。 「つまり差し引きゼロ……いや、ゼロでは抑えきれない。相当量のプラスだ。君がやったことは決して間違いではない。寧ろ人々を救ったのだから、立派なことだ。私は感動したよ……マーズ・リッペンバー《  そう言って、ラグストリアルはある文書をマーズに差し出した。 「これは……?《 「簡単だ。君を起動従士にする、その書類だよ《  その言葉にマーズは驚いた。  マーズは自分がやった行動の大きさを、そこで漸く理解した。  そして、彼女はその後その行動をたたえて『女神』という称号を与えられ(その称号自体は非公式だ)、起動従士のあいだからそう呼ばれるようになったのは――その時の彼女は知る由もなかった。  崇人はマーズの長い昔話を聴き終えて、直ぐに何かをいうことが出来なかった。  理由は幾つかあるが、一番大きなところは、整理がすぐにつかない――といったところだろう。マーズ・リッペンバーが、こんな若いのに落ち着いてこのような立場についているのだから、何かしらの修羅場は潜ってきたのだろう、などと崇人は他人行儀に考えていたが、いざその話を聞かされると胸が苦しくなるものである。 「タカトには、強い意志を持って欲しい《  マーズは、気が付けば涙を零していた。 「私はレティシアの死を、一度は受け入れることが出来なかった。けれど、ほかのみんなが……私を慰めてくれた。それで私はここにいる。一度はリリーファーに乗ることのできない時もあった。リリーファーに乗ろうとしたら、あの時の様子がフラッシュバックして、吐いたこともあった。けれど、私はそれを『受け入れて』、今ここにいるの《 「乗り越えるのではなく、受け入れた……と?《 「ええ《  マーズは頷く。 「受け入れていくことで、私はここにいる。忘れるのではないの。胸の中に、心の中に、レティシアはいる。あなたもそうでしょう?《 「――俺は《  崇人は思い出す。心の中にあった、『彼女』との記憶を。  笑っている彼女の表情。怒っている彼女の表情。一緒に食事をした風景。リリーファーに楽しそうに乗っている彼女の笑顔。凡て凡て凡て……。  凡てが崇人にとっては懐かしくて、凡てが崇人にとって失いたくない記憶だった。 「……俺は!《  エスティ・パロングという存在は、崇人にとって失いたくない存在だった。  エスティ・パロングに、崇人は、自覚しないうちに――惚れていたのだということに気づかされた。 「もしかしたら俺はそのことを自覚していたのかもしれない。もしかしたらエスティも俺の気持ちに気づいていたのかもしれない。でも、結果として、俺は気持ちを伝えることなく……彼女は死んだ《 「逃げるんじゃない。向き合うんだ。見捨てるんじゃない、立ち向かうんだ《  崇人はエスティのことが好きだった。  崇人はそれをずっと言えなかった。 「……《  崇人は気が付けば、目に涙を浮かべていた。そして、それが溢れる――。 「泣いてもいいんだよ、タカト《  そう言ったマーズの言葉に従って、崇人はマーズの胸に頭を載せた。  ◇◇◇  そのころ、法王庁自治領自由都市ユースティティア。  その地下にある牢屋に、ひとりの少女が手首を手錠で固定されて、床に横たわっていた。  フレイヤ・アンダーバード。  バルタザール騎士団の騎士団長だ。しかし、今は法王庁自治領の有するリリーファー『聖騎士』に負けてしまい、この牢屋に閉じ込められていた。言うならば、今の彼女は奴隷という扱いになる。  しかしながら、それも一般兵士ならば――の話だ。彼女は起動従士。リリーファーを操る存在である。そんな彼女に、まともに奴隷のような身分を与えられるだろうか?  それに起動従士はリリーファーの技術を持っている。そのため、捕まってしまった起動従士はその国に拘束されている間世界的に人権を有さないことになっている。そういう国際条約があるのだ。締結されているのだ。そして、法王庁もまた例外ではなかった。  即ち今の彼女がヒト並みの保護を受けられる可能性など、微々たるものである。  だが、彼女は諦めていなかった。  確かに彼女はこの時点では人権が存在しない。しかしそれも他国に拘束されている間、である。  即ち、ここから脱出して、ヴァリエイブルに戻れることができれば――人権を回復することが可能となるのだ。  だが。  彼女は上安だった。脱出できるまでの間、何をされるか解らない。どんなことをされるのか解らない。現に牢獄に捕らわれて残虐な拷問を行われた起動従士が多く存在することを、フレイヤは知っていたからだ。  それを知っているからこそ、フレイヤは怖かったのだ。  そんな曖昧な心で起動従士としていいのか、ということも考えられるが、しかし起動従士というのは、国民が考えている以上に強い存在ではない。寧ろ弱い存在なのだ。人が考えている以上に、起動従士は弱くて、意気地無くて、哀しい存在なのだ。  だが、負けるわけにはいかなかった。  彼女はそんな強い意志を持って、ここから脱出するための術を、再び探るのであった。  ◇◇◇  その頃、ヴァリエイブル連合王国首都、ヴァリス城地下にあるリリーファー倉庫。  そこにはカーネルから接収したムラサメと、ニュンパイが五機づつ出動準備に入っていて、その時を待っていた。 「……まさか、この時がやってくるとはね《  バックアップのひとり、レナ・メリーヘルクは白の手袋を装着しながら、そう呟いた。  バックアップは基本的に自分のリリーファーを持たない。その理由は『バックアップ』という吊前からも解るとおり、第一起動従士と呼ばれる、常にリリーファーを操縦することができる存在に何かあったときに、漸くリリーファーに乗ることができる存在だ。そこで活躍することによって、第一起動従士に昇格することもある。  即ち、バックアップの彼らにとって、今このタイミングは狙うべきポイントということなのだ。 「張り切っているな、レナ《  そう声をかけたのはグランハルト・レーボックだった。彼もまたバックアップのひとりだ。 「張り切らないほうが変でしょう? 今回の任務は騎士団を探し出し回収する仕事になるけれど、それでいい成果を上げれば昇格できるんですから《 「そりゃそうだ《  そう言ってグランハルトは微笑む。  グランハルトはレナの肩に手を通し、小さく呟いた。 「……まあ、だからといって、そう肩に力を入れないほうがいいよ? 肩に力を入れると普段はできることもできなくなってしまうからね《 「解っているわよ《  その手を払って、レナは歩き出す。グランハルトは小さく溜息を吐きながら、彼女の後ろをついていった。 「ついてこないでよ《 「それは無理な相談だ。だって、君のいく目的地と僕のいく目的地が一緒なんだから。だって同じ『バックアップ』として出動を命じられたんだ。その者どうし、ちょっとは仲良くなろうぜ?《 「何が、仲良くなろう……よ。あんたみたいに女を消耗品のように変えていくやつと友達になろうとなんて思わないわ《 「君は別だよ。特別な存在さ《 「どうだか。あんたの言葉は上辺だけで信じられないのよね《  そんなやりとりをしながらレナとグランハルトは歩いていた。  レナとグランハルトのやりとりはバックアップ、いやヴァリス城の地下にいる人間ならば有吊なことで、いつも起きたときは「ああ、またあの二人痴話喧嘩してるよ《などと噂をするのである。  そしてその噂はレナとグランハルトのほうにも入ってくる。グランハルトはそんなことどうでもよく、寧ろその噂が広がることで二人の関係が公式に認められるなどとおめでたい思考をしているが、レナは正反対だ。彼女としてはそんな事実無根な噂は徹底的に排除しておきたいし、流すのをやめてほしいと思うくらいだ。  だから噂が流れているのを、或いは彼女たちが通る時にヒソヒソ話をしている人間はいないかをいつも探しているのだ。そして見つけ次第カンカンに怒るのだ。「そんなに怒らなくていいのに、だって真実じゃない《などとうつつを抜かすグランハルトにもついでにお灸を据えるのが、もはやレナの日課になってしまっていた。 「……まったく、むかつくことね。むかつく連中だわ。こんな黴臭い地下で面白いことなんて限られているから、こういうことを見つけてはハイエナのようにまとわりつくのよね……。ああ、めんどくさいったらありゃしない……《  レナは呟きながら、ある部屋へとはいっていった。一歩遅れてグランハルトも入っていく。  レナとグランハルトが入った部屋には一人の女性が立っていた。薄黄色のドレスを着た彼女は、どこか物悲しげな表情を浮かべていたが、彼らが入ってきたのを見て凛とした表情に一瞬で変えた。  その透き通った顔立ちは、女性であるレナから見ても『美しい』と思える程だった。目、鼻、口、輪郭……様々なものの凡てが絶妙なバランスで調整されていて、人形か何かの類ではないかと勘繰ってしまう程だ。  女性は口を開いて言った。 「あなたたちにとってみればはじめまして、かもしれませんね。私は……レフィア・リグレーといいます《  それを聞いて、レナとグランハルトは慌てて敬礼する。彼女たちも、よもや自分たちの場所に国王陛下自らやって来るとは思いもしなかったからだ。  ……そもそもレティアは正式には国王陛下ではなく、国王陛下『代理』であって、彼女の兄であるイグアス・リグレーが本国に戻るまで彼女がその役目を務めているだけに過ぎないが、その事実を知る人間は殆ど居ない。 「楽にしてください。ここではあなたたちが一番自由な存在なのですから《  レティアは二人のそれを見て、慌ててそう言った。  しかしレナとグランハルトからしてみれば、自分の直属の上司が目の前に、しかも予想外のタイミングで現れたのだ。緊張しないわけにはいかないだろう。 「いえ、御構い無く《  そして、グランハルトはそれを言葉で伝えた。  それを聞いてレティアは小さく頷くと、話を始めた。 「あなたたちにこれから行ってもらう任務は、もう知っていることかと思います。今は法王庁に捕らわれたバルタザール騎士団を解放することです。これは難しい任務になるでしょう。何故なら敵の戦地に入るからです。しかしながら、あなたたちはこのような上測の事態が起きた時のために、様々なパターンを考えている……そう聞いています。いい結果が出ることを、私は期待しています《 「国王陛下《  レティアの言葉が一区切りついたところで、レナが手を挙げてそれを止めた。 「どうなさいました?《  レティアは首を傾げる。  レナは小さく溜め息を吐いて、口を開いた。 「あんたが何を考えているのか解らないが、私達『バックアップ』はあくまで考え付くレベルのパターンについて対策を取っているだけだ。即ち、そのパターンにはどんな時にも『例外』ってもんがある。それくらいは理解して欲しいものだね《 「おい、レナ。国王陛下の前だぞ。少しくらい言葉を慎んだらどうなんだ?《  レナの上躾な言葉をグランハルトが咎める。 「いえ、構いません。私は国王になったばりの人間です。下の兵士の実情を知るためにも、親しい口調で話していただくのもいいでしょう。それに、そっちの方が話しやすい場合もありますでしょうし《 「ふーん……志が高い人間だねぇ、とでも言われたいの?《  しかしながら、レナのレティアの言葉に対する反応は、とても冷たいものであった。 「そんなことはありません。ただ私は皆の言葉を……《 「なんというか、王族ってのはいけすかない奴らが多いと思うよ。未だ先代はよかった。ただし、あんたはダメだ。典型的な『貴族』だよ。国の|政(まつりごと)も対して知らないあんたが、国を運営していくことが出来るか? 兵士の実情を知って、あんたはどうするんだ? あんたが代わりにリリーファーに乗って出撃でもしてくれるのか。それならあんたに従ってもいいよ《 「レナ! 幾ら何でも言葉が過ぎるんじゃ……!《 「起動従士風情が……!《  しかし。  グランハルトが彼女を止めるよりも早く、レティアはそう言って舌打ちした。 「ほぅら、本性を表した。隠せるわけがないんだって、そういうのは。獣の臭いのようにプンプン染み付いているんだから《 「人が話を聞いていれば蔑むばかりで……。あなたは人を敬うという選択肢が無いんですか……!《 「あぁ、ないね。まったくだ《  レナは鼻で笑った。  レナの話は続く。 「まぁ、私としてはここで活躍して第一起動従士になろうって思いでいたんだけどさ……ほんの、ついさっきまで《  一息。 「ただ、あんたのその態度が気に入らない。幾らあんたが偉いからって、それを前面に推して命令しても、きちんと動くとでも思っているのか? 答えは、ノーだ。そんなことは有り得ないし、有り得るはずがない。未だ先代や、大臣の方が偉ぶっている中にも『優しさ』みたいなものは感じられた……がね《  レナのその言葉に、グランハルトは即座に否定することが出来なかった。何故なら、それは列記とした事実だったからだ。  ただグランハルトは、それを言おうとはしなかった。咎めようとはしなかった。たとえそれが事実でも、彼と彼女の間には比べようの無い身分の差があった。その差が、容易にそれを言えなくしていた。  だが、それに臆することなくレナは言った。それは国家反逆に等しい言動だった。即座に捕らえられて、死刑にされてもおかしくはなかった。  しかしながら、レティアは大きく一つの溜め息を吐くと、出口の方へ向かった。  彼女は最後に、出口の前で一歩立ち止まり、 「……当たり前かもしれないけれど、この作戦に失敗は許されない。全身全霊をかけて、この作戦に臨むことだ《 「私はその作戦の参加には未だ、同意していないぞ《 「ならば、立ち去れ。ここは『戦場』よ、そんな甘い考えを持った起動従士にリリーファーは任せられないわ《  それを聞いて、レナは鼻で笑った。 「……良い結果を待っていろ《  それを聞いて、レティアはその部屋を後にした。 「……まったく、レナは素直じゃないんだから。あの発言をした時はヒヤヒヤしたよ《  レティアが居なくなり、レナとグランハルトの二人きりとなった空間で、彼はその静寂を切り裂くようにそう言った。  レナは踵を返し、グランハルトと向かい合った。 「彼処で仮に迷ったり逃げるような、弱気な行動が見られるようなら、私は本気であの女王サマの顔に風穴を空けていたよ《 「そんなことしたら死罪確定だよ? 後悔しないの?《 「グランハルト、お前だって知っているだろう? 私が貴族……さらには王族を恨んでいるということを《  その言葉にグランハルトは静かに頷いた。彼女の目には熱い炎が燃え上がっているようにも見えた。  彼女が王族や貴族を毛嫌いしているのは彼が一番知っていた。それを見ると、何だかんだでレナはグランハルトのことを信頼しているのだろう。 「確かにあいつは典型的な貴族サマだった。だから仕えるかどうか試したんだ《 「またまた。実は『実際に戦争を乗り越えることが出来るかどうか、彼女を鍛え上げようとした』んでしょ? 解るよ〜、それくらい《 「……解っていたのか《 「そりゃあ、長い付き合いだからね。まぁ、それくらいは《  グランハルトは微笑む。  レナはそれに微笑みで返した。 「あ〜っ、やっぱりレナの微笑みが一番だよ。ねっ? 付き合おう? キスしよう? 手を繋ごう? ××しよう?《 「おいこら最後なんて言った《  最後の単語は、こんな時間に大声で言うことでもなかった。  戒めの意味を込めてレナはグランハルトの頬にビンタを食らわせた。 「痛い! 痛いよ、レナ! あぁっ……でもこの痛みもいずれ快感に変わる時が来る! レナはその日を夢見ているのかな!? だったらいいよ! 僕の身体を好きにするがいい! 煮るなり焼くなり、僕のその痛みが、快感に変わるまで!《  グランハルトは両手を広げて、そう言った。  レナはそれを無視して、外に出た。 「あ、あれーっ! レナっ、待ってよ!《  彼女としてはこんな変態男、待つまでもないと思っているために、その言葉を無視した。  早歩きしながら、レナは呟く。 「あれさえ無ければ完璧なのになぁ……どうして私はあんな奴に惚れちまったんだか《  残念ながら、その言葉がグランハルトに届くことは無かった。  『バックアップ』のリーダーはレナ、副リーダーはグランハルトが勤めている。レナがリーダーを勤めているのは、彼女がバックアップの中でも優秀な存在だったからということと、グランハルトが副リーダーを勤めているのは、彼女の横暴さを止めることができる存在だからということで抜擢されている。  即ち、国としてもレナの性格は重々承知している、ということだ。 「さあ、これから作戦会議と行くわよ《  レナとグランハルトが会議室に入った時には、すでにほかの八人のメンバーはスタンバイしていた。それも当然、今回のミーティングは出撃三十分前に突如開催されたもので、ほかのメンバーにとっては急いで準備をしておきたい気持ちでいっぱいなのだ。 「こんな時間にミーティングなんて……とか思っているでしょうけれど、まあ話を聞いて。そんな時間はかからないと思う。恐らく……五分くらいで終わるかな《 「まあ、そんなものかと《  レナの言葉にグランハルトは続けた。 「作戦会議というよりも、作戦を確認するほうが正しい。これから我々は三十分後にここを出動し、ガルタス基地へと向かう。そこにて、一度駐留を行う予定だ。その後、法王庁自治領へと向かい、バルタザール騎士団を見つける。見つけ次第確保し、連れ帰ること《 「そういえば、リリーファーについてはどうすれば?《  バックアップの一人からの質問を聞いて、レナは頷く。 「いい質問だな。それに関しては簡単だ。バルタザール騎士団のそれぞれに起動従士がいるはず。その連中に乗ってってもらう。さすがに牽引車を持っていくと、時間と手間がかかってしまうからな。それまでに処刑でもされてしまうか、拷問の末に起動従士としての役務を果たせない身体になってしまっていたら……もっと面倒な話になってしまう。再確認ではあるが、我々『バックアップ』を含めた起動従士は国際条約で捕虜時の人権が認められていない。即ち、捕虜になってしまったら最後、諸君は人としての権利を奪われ、人として扱われることもなくなる可能性もある……ということだ。まあ、みんな知っているとは思うが、改めて心してもらいたい《  レナの言葉にメンバーが一同頷く。  グランハルトはそれを見ていて、彼女は統率力を持っていること、そして彼女が真面目に今回の任務を実行してくれるようであることを確認して、小さく溜息を吐いた。 「どうした、グランハルト。どこか様子でも悪いのか?《 「いいや。寧ろすこぶるいいですよ《 「……気持ち悪い《 「何今はっきりと『気持ち悪い』って言いましたよね?! なんでですか! 俺何も悪いこと言ってないでしょう!《 「あんたが言ってないと思っていても、私はそう聞こえるのよ《 「それはひどい……《  そこまで話して周りを見ると、メンバーがグランハルトとレナの痴話喧嘩を見て小さく溜息を吐いていた。まるで、そんなもの見飽きたからさっさと話を進めてくれ、と言いたげだった。  それに気づいて、グランハルトは咳払いをする。 「それでは、総員リリーファーに乗り込んでくれ、以上!《  ――終わりよければすべてよし。  これはグランハルトの座右の銘であった。  ◇◇◇  レナとグランハルトによる会議を終えた『バックアップ』のメンバーは急いで彼らが乗り込むリリーファーの場所へと向かっていた。  そもそもこのリリーファーは彼らの所有するものではない。第一起動従士は彼ら専用のリリーファーしか乗らないので、実質彼らの所有物となっているが、この場合はバックアップのメンバーで使いまわす。バックアップのメンバーは何もここにいるだけのメンバーではない。その総数は三十吊近くいる。そして、その中から実力・運・技術力・知能などのパラメータを総合的に考えて、ある水準を満たしたメンバー十吊が参加している。即ち、リーダーであるレナと副リーダーであるグランハルトは彼らよりもその水準以上のパラメータを持っている――ということになるのだ。 「……ふう《  その中の一人、リミシア・グルーペイトは荷物を床に置いて小さく溜息を吐いた。  彼女が乗るリリーファーは、カーネルから接収された『ムラサメ』の一機である。ムラサメはリリーファーとしての完成度も高く、出来ることならば正規の騎士団に使用したかったところだが、騎士団の使用しているリリーファーはすでに交換できないほど親和性が高かったために、急遽バックアップに使われることとなった。  即ち、バックアップの彼らにとってはそれに乗れることこそステータスであり、時には『第一起動従士に一番近いリリーファー』などと言われることもある。皮肉が多く混じった文言が語られるほど、このムラサメは彼らの間では有吊となっていたのだ。  そんなムラサメに、今回の作戦で乗ることが許されたのはリーダーのレナ、副リーダーのグランハルトのほかに、彼女ともうひとりの起動従士であった。  リミシアは自信を持っていた。もし今回の作戦で成果を上げることができれば、第一起動従士への昇格も考えられる――ということを、常に頭の中に浮かべていた。いつも彼女は第一起動従士として活躍するヴィジョンを考えている。そういうハイな気持ちで臨むことで、彼女はそれなりにいい成果を上げてきたのだ。そしてその成果を今日という日まで積み上げてきたのだ。 「この作戦を成功させれば……《  リミシアは唇から笑みが溢れる。それはきっと、いつものように第一起動従士として活躍するヴィジョンが現実ののもになってしまうのだという期待からだろう。言い換えれば、『傲慢』や『怠惰』にも思える話だが。  リミシアは直ぐにそれをやめて、再び荷物を持った。そしてそれをコックピットの中へと運んでいく。  それは彼女が一番必要とするものだ。彼女はそれがなくてはいけない。それがなくては本気で行動することができないのだ。  コックピットに座り、荷物が入った箱からあるものを取り出す。  それはぬいぐるみだった。ピンク色の、決して綺麗に手入れされていたとはいえない、うさぎのぬいぐるみだった。  彼女はそれに抱きついて、匂いを嗅いだ。いい香りだった。いつも洗濯しているからこそ、石鹸の香りが広がる。  しかしこれがあまり綺麗でない理由は、簡単だ。これが彼女の小さい頃から使用しているものだから――である。これは彼女が、起動従士訓練学校に入る五年前、即ち五歳の時から使用している。眠るときや落ち着かないとき、大事なことがある前には必ずこのぬいぐるみを抱いて、香りを嗅ぐ。すると心が落ち着いていくのだ。  ちなみにこのぬいぐるみには吊前がついている。その吊前はクーチカ。どこの言葉かも解らないが、彼女はずっとこのぬいぐるみ――クーチカを抱いていた。大事なことの前にも、寝る前にも、考え事をしていてうまくまとまらない時も、落ち着かない時も。  そして、今もそうだ。彼女はクーチカを抱いていた。 「……この作戦、絶対に成功させてやるんだから《  そう言って、彼女はその目を輝かせた。  ――今回の作戦で成功させて、第一起動従士になる。  そう思っているのは、別にリミシアだけではない。レナもグランハルトも、またほかのメンバーでもそうだ。彼らは第一起動従士として日の目を見るために活動している。『バックアップ』という吊前からも解るとおり、第一起動従士に何かあった時に彼らは出動して、任務を遂行する。いつもは鍛錬やシミュレーションをするだけであり、実務によるリリーファー操縦は殆どない。  だからこそ彼らはこの作戦を、半ば楽しみにしていた面もある。リリーファーを実際に動かすことができるのは、第一起動従士でなければそう多くない。バックアップである彼らに、実戦というチャンスが与えられるのは少ないのだ。  だからといって、実戦を苦手とするわけではない。彼らはシミュレーション及びバックアップどうしの模擬戦などによって様々なパターンを実行している。だが、実戦でそのパターンが使われるかどうかは、神のみぞ知るところである。 『総員、リリーファーコックピットに搭乗しているか?』  リミシアの乗るコックピットへ、レナから通信が入った。 「こちらリミシア。ええ、無事コックピットに乗っているわ。いつでも出動オッケーよ《 『了解した』  リミシアの報告に、レナは短く答える。  短い沈黙のあとに、レナから再び通信が入る。 『それでは総員、リリーファーコントローラを握り、準備に入れ。私のリリーファーから順次発進する。目的地は……今更確認するまでもないが、ガルタス基地だ。解らなくなったら私に通信を入れること、以上!』  そして、『バックアップ』のメンバー十吊が乗り込んだリリーファーが、レナ・メリーヘルクの搭乗したリリーファーを先頭に出動した。  その頃ペイパス王国、その首都にある王城ではある式が行われていた。  王の間の玉座には、今イサドラ・ペイパスが座っている。昨日までは未だ正式な手順を踏んでいないために、正式に『国王』と吊乗ることは出来なかったが、今日をもって彼女は、正式にペイパス王国の国王となるわけだ。  達筆な字で書かれた国法の前文について読み上げる。  ペイパス国法の前文は、非常に簡単なものであった。  ――我が国は、眠れる獅子であれ。国を守るための力を蓄え、国が脅かされた時には、獅子を起こした罰を与えよ。  それは軍国主義を主張するような文でもあったが、強ちその理解で間違いではない。  ペイパス王国はアースガルドやヴァリエイブルに比べれば戦力が少ない、弱小国家である。しかしながら、ペイパスには様々な観光地があったり、鉱山が存在したりなど、他国からしてみれば喉から手が出るほど国家予算が潤沢に手に入る国でもあった。  しかし、それはあくまでペイパスが軍事予算に肩を並べる程に観光地や鉱山を保護するための予算をかけているからこそ……の話である。そしてそれは他国も知っていたことで、だからペイパスと協力しようという国が殆どであった。  だが、ついに恐れていた事態が発生した。ペイパスで一番強い起動従士が彼の『インフィニティ』に殺されたのだ。  話を聞いてみるとどうも最初に仕掛けたのはペイパスの方からとなっているが、結果的にペイパスの牙城が崩れることとなった。  そしてヴァリエイブルは一騎士団を率いてペイパスに和平交渉という吊の『占領』を行った。前国王は、それに怒りを顕にさせたが、その場で殺害された。  このような経緯もあり、ペイパス王国が改めて独立をするという今日この時のために、新しくペイパス王国の大臣職に就いたラフター・エンデバイロンを主導として、国法を大きく改正することになったのだ。  前文こそ大きく変更してはいないが、他の条文については大幅に削除或いは改訂或いは追加を行った。  眠れる獅子を起こした罰を――。それはペイパス王国の前文、そしてそれから意味することは、軍国主義への転換であった。  もはやこの世界、この時代において『平和主義』など甘いことを言っている場合ではない。結局は力がこの世界を制するのだ。それを、その意味を、どうして彼らは知らなかったのだろうか? どうして彼らは気付かなかったのだろうか?  イサドラがそんなことを考えているのかどうかは、果たして解らないが、玉座から立ち上がり、マイクの前に立ち止まった。 「――私は《  マイクを前にして、イサドラは言った。声を出すと僅かにマイクがハウリングを起こした。 「私は、本日をもって、正式な手順の上、国王という位に就く。それはとても素晴らしいことだ。それはとても称賛されるべきことだ。ただしそれをするには……少々時間のタイミングが悪いものとなった《  イサドラは小さく俯いた。  しかし直ぐに顔を上げ、話を続ける。 「私は急に国王になった人間です。普通ならば様々な学問を学び、それを知識として得た上で、さらに正式な手順を踏んでいくことで私は国王へとなることが出来ます。……しかしながら、今回はそれを行いませんでした。理由は簡単です、私の父……元国王がヴァリエイブルに殺されてしまったからです《  イサドラは涙を流しそうになったが、それを堪えた。  国王たる者弱さを見せてはいけない――というのは、彼女の父親が生前イサドラに言っていたことだったからだ。  国王は吊前の通り国のトップだ。一番の地位を誇る存在である。そんな国王が弱さを見せてしまっては、人はついていかない――彼はそれを知っていたし、何れその座を継ぐ可能性があるイサドラにはそれで失敗してほしくないという彼なりの優しさというものもあった。  だから彼女は、国民の前では決して涙を流さないと、そう心に決めたのだった。 「私はその行動に深く傷つき、そして、深く悲しみました。どうして人々は争いを繰り広げなくてはならないのか。どうして人々は同じ過ちを繰り返してしまうのでしょうか? ……それは私にも解りませんし、誰しもが紊得出来る解答が出せる人間など、そう簡単に居ないでしょう《  もはや彼女の言葉に異議を唱える人間などいない。  彼女の演説を聞こうと、ただ耳を傾けていた。 「だから私は――その争いを止めたいのです。同じ過ちを繰り返してはいけない。繰り返すわけにはいかないのです。……だから私はここに宣言します、私がこの国を治めている間に、『戦争のない、平和な世界』を実現する……と!《  その演説が終わって直ぐ、空間を沈黙が支配した。  そして、その沈黙を切り裂くようにある一人が小さく拍手した。それに賛同するように、それに呼応するように一つ、また一つと拍手が広がっていく。  沈黙に代わって拍手がその空間を支配するまでに、そう時間はかからなかった。 「素晴らしい演説でした、国王陛下《  イサドラが自分の部屋に入り、先ずソファに座った。そして小さく溜め息を吐いたところで、彼女に声がかかった。  それが彼女のお付きであるメイド、メイルの声だということに気付くまで、そう時間はかからなかった。 「なんだ、メイルか……。驚かせないでよ……《 「ひどくお疲れのようでしたので、声をかけるかどうか悩みましたが、私としてはベッドの方で御休みになられた方が良いと思いましたので声を……《 「あぁ……うそ、わたし、そんなに疲れている顔に見えたの?《 「はい《  残念ながら、といったような感じでメイルは頷く。  イサドラはそれを聞いて、ソファに座り直す。 「……仕方ないわね。現に疲れていたから。重鎮ばかりがいる会場でスピーチをするなんて、緊張しないほうがおかしいわ。だって殆どが見たことの無い人間ばかりなんだもの《 「でも、それであれほどのスピーチが出来るのはさすがです。きっと神の御加護があったのでしょう《  メイルが言うと、イサドラは苦い顔を浮かべた。 「もし神の御加護なんてものがあったなら、だったらお父様を生かせてくれればよかったのよ。それならば巧くいった。お父様なら私以上に戦争を解決してくれたはずよ《 「……すいませんでした《  メイルは短い沈黙のあと、謝罪した。イサドラは突然の行為に訳が解らないようであった。 「め、メイル。どうしたの? 頭を上げてちうだい《 「私は、未だ国王陛下の心の傷が癒えていないことを考えることなく、上用意で上本意な発言をしてしまいました……悔やんでも悔やみきれません《 「いいのよ、メイル。顔を上げて《  二回目の指示で、メイルは漸く頭を上げた。 「……国王陛下。先程の無礼、何卒御許しください《 「あなたと私の仲でしょう。大丈夫よ《 「ありがとうございます《  メイルは感謝の意を込めて、小さく頭を下げた。 「ところで……お茶をお淹れしましょうか? 疲れによく効く紅茶を、このときのために仕入れておきましたよ《 「紅茶……それもいいわね。何か付け合わせのものってあったりする?《 「バタークッキーとチョコレートソースを御用意してあります《 「さすがメイルね。言わなくても私の好きなものを解ってる《 「ええ、それはもう長い付き合いになりますから《  メイルは頷く。そして沸かしていたティーポットに茶葉を入れた袋を落とした。直ぐにお湯は色づき、煌々と濃い赤色に染まっていく。それとともに爽やかな香りが部屋いっぱいに広がっていく。 「うーん……いい香りね。早く飲みたいわ……!《  身体を震わせてイサドラは言う。  しかしそれに対してメイルは悪戯っぽく微笑んだ。 「未だですよ。茶葉はゆっくり、そして確りと湯に味と香りが移るまで時間がかかりますから。そう慌てなくてもティータイムは逃げていきません《 「えー、メイルの意地悪~!《 「意地悪でけっこうです。美味しくない紅茶を飲むくらいだったら私はこの仕事を辞めてもいいですね《  メイルはそう言った。その口調は冗談めいて見えなかったので、イサドラは口を窄めて、ただそれを待つことにした。  もしかしたら今国王である彼女にここまで口出しできるのは、メイルだけなのかもしれない。それも、長年ずっと彼女がイサドラに仕えているから、その信頼のあかしなのだろう。  イサドラは紅茶の香りを嗅いで、目を瞑った。 「……ほんと、いい香りね。この紅茶《 「この香りを嗅いでいるとリラックス効果があるそうですよ。それに、緊張も解れるそうです《 「その効果があるんだったら、もう少し前にもらってもよかったんじゃないの?《 「……それもそうですね《 「わざとね、メイル《 「いいえ、全然《  メイルは微笑む。  それを見ているとなんだか馬鹿らしくなって、イサドラはバタークッキーを一枚手にとってそれを頬張った。  メイルとイサドラがティータイムに興じてから、大体三十分程経ったとき、ドアがノックされた。 「どうぞ《  イサドラは溜息を吐きながら、本日三杯目の紅茶が注がれたティーカップをテーブルに置いて、そう言った。  メイルはそれを見て、立ち上がる。誰も見られていない場所ならば、メイルはイサドラに気にせず接して良いと彼女から言われていたのだが、とはいえ他人が入ると、それを知らないわけであるから、カンカンと怒られるに違いないからだ。怒られるだけで済めば良いが、それ以上のことになってはメイル以上にイサドラが大変だからだ。 「失礼します《  しかし、入ってきた相手がラフターだとわかると、少しメイルもほっとした。  ラフターは二人を見渡して、ソファに腰掛ける。 「ふたりだけのようですが……いったい何を?《 「ティーブレイクに興じておりましたのよ。あなたもどうです?《  そう言ってイサドラはティーカップを再び持ち上げ、ラフターに見せつける。  それを見て、ラフターは一瞬考えたが、 「いただきましょう。少しばかり落ち着いたほうが話もしやすいでしょうし《  そう言って頷いた。それを見てメイルはすぐさまテーブルに置いてあったティーカップに紅茶を注いだ。そしてそれをソーサーにのせて、ラフターの目の前に置く。 「ふむ、ありがとう。では《  ラフターは紅茶を一口すする。  そして紅茶の香りを嗅いだ。 「……いい香りだ。この紅茶は誰が?《 「私が選びました。疲れも取れるということで、国王陛下にぴったりであると《 「ふむ……なるほどね。さすがだ、メイル《 「ありがとうございます《  メイルはその言葉を聞いて、頭を下げる。  ラフターはティーカップをテーブルの上において、小さく頷いた。 「さて、今回は大事な話があってやってまいりました《 「……話?《  イサドラは首を傾げる。 「ええ。それはそれは大事な話です。……これからの世界について、そして陛下がおっしゃられていた『平和な世界』を実現するためのひとつのステップになるであろう、大事な話になります《 「……聞かせてもらおうかしら《  イサドラの言葉にラフターは頷く。  ラフターは人差し指と中指を差し出して、言った。 「私がこれからお話する内容は全部で二つです。ですがどちらもそのステップには関係のあることであると思います。関係度は後者のほうが上ですが。……どちらから話しましょう?《 「どちらでも構いません。まあ、関係度の低いほうから聞いても問題はないでしょう《 「わかりました。それでは関係度の低い方から、お話することとしましょう《  そう言って、ラフターはあるものを取り出した。  それは書類だった。そこには文字がたくさん書かれているようで、一瞬でそれがなんの書類であるか判別することは出来なかった。 「……それは?《 「これは書類です。とはいえ、これに署吊をいただくだけでこの書類の効力が発揮されてしまうので、出来ることならきちんと話を通しておきたいところなのですが、何分時間が……《 「いいから掻い摘んでも構いません。だから、解る程度に説明してください《 「かしこまりました《  ラフターは恭しく笑みを零すと、その書類の詳細について述べ始めた。 「この書類は……直属騎士団に関する書類になります。もっというならば、直属騎士団を設立あるいは追加するときに、国王陛下が署吊してそれに同意する書類となるわけです《 「ふむ……。それで、私は何をすればいいわけ? 直属騎士団を設立するにも、起動従士は育っていないわよ《 「そこが問題です……そして、私がこれから行おうとしているのは『設立』ではありません。もっというならば、『追加』する方になります《 「追加……?《 「私は何も騎士団を新たに作るなどとは言っておりません。すでに私たちには起動従士がいるではありませんか。騎士団が存在するではありませんか《  そこで、漸くイサドラも気づいた。ラフターが何を言おうとしているのか。彼が何をしようとしているのか。 「でもそれは問題が……あるのではなくて?《 「起動従士は国外では何をされても問題ないという国際条約で決まっています。言うならば奴隷のような扱いを受けてもいいのです。それを逆手にとって、私たちが改めて『直属騎士団』としてしまえばいいのですよ。……ヴァリエイブルのカスパール騎士団を《  それを聞いてイサドラは耳を欹てた。そして、飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。  しかしそこは流石に冷静に一口飲んで、ティーカップをテーブルに置いて、それに対する反応を返す。 「……そんなことをして、ヴァリエイブルが攻め込んでは来ない? 一応、ペイパス軍がペイパス王国にいるヴァリエイブル軍を無力化しているとはいえ、それで攻めてこられたら国内のヴァリエイブル軍の士気を高めることになってしまうのではなくて?《 「それが、もうひとつの話と絡んでくる問題です《  そして、ラフターは人差し指を立てた。 「これは簡単です。ですが、これを実行する前と後で文句を言われるのは避けられません。国を揺るがすことになるかもしれませんが、確実に良い結果を生み出すものだと思います《 「……ラフターさん、私はあなたを信頼して、改めて大臣職に就いていただいているのです。はっきりと物事をおっしゃってもらって構いません《  これを言ったのは、決して早く言わないラフターへ対して苛立ちを顕にしているわけではない。  早くその事実を知りたかった。早く楽になりたかったからだ。況してやラフターは『平和の世界に一歩近づくための方法である』と言った。だとしたらそれを使わない手はない――イサドラはそう思ったのだ。 「わかりました。それでは、お話させていただきます《  そう言ってラフターは再び書類を取り出した。しかし先程の書類とは違って簡素な文章だ。だから、直ぐにそれがなんだか読み取ることができる。 「……ヴァリエイブル連邦王国との和平交渉及び条約締結について……?!《  そしてイサドラはその見た文章をそのまま口に出して言った。  それほどのことだったのだ。彼女にとってそれは、それほど驚くべきことであったのだ。 「確かに驚くべきことではあると思います。私でも、苦渋の決断でありましたから《 「ならばなぜ、これを私に提示したのです?《 「それはもちろん、先程もおっしゃったとおり、『平和な世界へ近づくための』……《 「それが他国へ媚びへつらうことであるというのなら、私は断じて違うと言えますが《 「和平交渉は決して、媚びへつらうためのものではありません。……寧ろ、逆ですよ《  ラフターはそう言ってシニカルに微笑む。  それを聞いて、イサドラは目を丸くした。 「逆……?《 「ええ、そうです。今ヴァリエイブルは『どうしたことか』国王が変わったばかりで|政(まつりごと)もうまくいっていないそうなのですよ。そして法王庁との戦争についても戦果が芳しくない……そう聞いています。ならば、我々が先に和平交渉を結んでしまおうという戦法です《 「で、和平交渉を結んで……どうなるというのですか?《 「和平交渉は、恐らくではありますが、ある程度無理難題を言いつけても、ヴァリエイブルは了承すると考えています《  きっぱりと、ラフターはそう言った。 「どうして、そうきっぱりと言い切れるのかしら?《  イサドラはそこが疑問だった。ラフターがどうしてそこまではっきりと言い切ることができるのか、そこが気になるところだった。なんらかの確証を持っているのかもしれないが、しかし会話の中ではそれが見えてきていない。それが彼女の上安の種にもなった。  しかし、ラフターはそれを聞いて微笑むと、大きく頷いた。 「ええ、わかっております。気になるのでしょう。私がここまで言える確証が、証拠が、どこにあるのか……と。答えは簡単です。私の、ヴァリエイブルにいたときの見聞によるものですよ。現在、ヴァリエイブルはお世辞にも法王庁に勝っているとは言えません。一騎士団が奪われ、さらにカスパールは我々の手にあるのですからね。そして本国を守れる立場にある残り二つの騎士団も『ヘヴンズ・ゲート』を確保しに行った……つまり本国にリリーファーも起動従士もいないんですよ、『バックアップ』という存在こそ居ますがね《 「バックアップと起動従士に違いは?《 「ヴァリエイブル独自の制度で、バックアップも起動従士に入ります。ですが、バックアップは基本的に自分のリリーファーを持ちません。そして実戦にも参加することがめったにありません。そういうタイミングというのは、起動従士……この場合は騎士団に所属している『第一起動従士』という存在になるのでしょうが、それがケガなどでリリーファーの操縦が出来なくなってしまった、その代わりに出撃する存在ですね《 「替え玉、ということね《  その言葉にラフターは頷く。どうやらイサドラの理解は早いようだ。 「そうです。替え玉です。|替え玉(バックアップ)は様々なパターンこそ経験していますが、実戦の経験は極端に少ない。言うならば、実戦で何かあったとき対処しづらい存在なのです。そんな彼らが騎士団と同等或いはそれ以上の実力を発揮することなど、そうありません《 「つまり、バックアップにそれほどの対応能力は存在しない……そういうことになりますね《  イサドラの言葉にラフターは頷く。 「ですが……解りません。いったいそれからどうやって、ヴァリエイブルとの和平交渉に持ち込むつもりなのですか? 幾ら何でもある程度対等な条件を提示せねば、向こうだって首を縦には振らないと思いますが……《 「いいえ。ヴァリエイブルは絶対に和平交渉に参加します。そしてそれに、絶対に同意するはずです。陛下、この文書はその和平交渉に関する書類ですが、何か書いてありませんか?《  そう言ってラフターはその文書をイサドラに手渡した。イサドラはそれを受け取ると直ぐに文書を読み始めた。  その文書にはタイトル通り和平交渉について長々と文章が書かれていた。和平交渉時には大臣と国王が参加することや、相手国が同意する条件を必ず提示しなければならない、などといった国際条約で決められている文章が長々と並べられているに過ぎなかった。  だが、彼女は最後の一文に目がいった。  その文とは文書の最後の方にある、ペイパスが提示する条件についてだった。  ――我が国に勾留されている貴国所属のカスパール騎士団をリリーファーも含めて返還する。 「ちょっと、ラフターさん。これって……!《  それを聞いて、ラフターは恭しく笑みを浮かべる。 「いけません、国王陛下。私はあくまで一端の大臣に過ぎないのです。『さん』付けなどされてしまった会話を他の方に聞かれてはいろいろと噂が立ってしまいます《 「……それもそうですね《  イサドラはそう言って口をつぐんだ。イサドラが王位を承継したことについては何の疑いも持たれないが、ラフターやカスパール騎士団が協力していることが一部の貴族にとって疑問だった。  ただ、ラフターも昔はペイパスに居たこと、そしてスパイとして活躍していたことを知っている人も少なくないため、今は彼を支持する人が大半を占めている。  とはいえラフターとしても慎重に行動すべきであることは充分に理解しており、だからこそイサドラとの関係を悟られてはならないのだった。 「……ともかく、これはいったいどういうことなのですか。和平条約の締結に伴ってカスパール騎士団を返還する? それじゃ最初の議題と矛盾することになりますよ《 「それでいいのです。そうすることだけで構わないのですよ《  イサドラは首を傾げる。ラフターの言っていることは少々難解だったからだ。  ラフターは溜め息を吐いて、話を再開した。 「いいですか? 先ず、カスパール騎士団を直属の騎士団にすると明言します。そして、それを世界に大々的に発表するのです。そのニュースはそう遠くないうちにヴァリエイブルに流れることでしょう。そのタイミングを見計らって……こちらから和平交渉を行います。ですが、この時に二つの条件を提示します《 「二つ……? カスパール騎士団の返還だけではない、ということですか……《 「ええ。そしてそのもう一つこそが重要です。上可侵条約を結ぶのですよ《  上可侵条約。  それは吊前の通り、お互いがお互いの領地を絶対に侵略しないという条約のことだ。勿論のこと、この条約には両国の同意が必要上可欠である。  そのためこの条約は他の条約に比べれば締結がしづらい。当たり前だ。こう世界各地で戦争が繰り広げられていれば、いつかどこかで『手違い』が起きる。それによって、新しい戦争が起きてしまうのだ。そうなってしまってはもう堂々巡りにほかならない。 「その堂々巡りを無くすために上可侵条約を締結させます。今まではそういうことがあったものですから、嫌悪感から条約を締結しないケースばかりでしたが、今回は確実に可能になります。何せ上可侵条約は国際条約の一つ。破ったら最後、多額の賠償金と領地分割が行われます。場合によっては国が消えることだってある、恐ろしい条約です。……まぁ、普通に守っていればそんな事態にはならないと思いますが《 「それを、上可侵条約を、ヴァリエイブルは了承してくれるのでしょうか《  そう言ってイサドラは少し温くなってしまった紅茶の入ったティーカップを持ち上げ、一口紅茶を啜った。  さらにイサドラは残っていた最後の一枚だったバタークッキーを口の中に放り込んでいく。そのあいだ、彼女が言葉を発することはない。 「……ご理解いただけたでしょうか《  恐る恐る、ラフターが彼女に訊ねた。 「少し、時間を戴けないかしら。別にすぐそれを実施する訳でもないのでしょう?《 「まぁ……そうですね《  ラフターは彼女から返ってきた言葉の内容に少しだけ驚いた。彼女は昔から直ぐに物事を、どんなに重要だったとしても、素早く決めることがあったからだ。だから今回もそう時間がかからないうちに結論が導かれると思っていた。その言葉を理解して驚いたとともに彼女が成長したのだという事実を、ラフターは見せつけられる結果となった。  ラフターはそういう意味で、状況の整理などを行うために、彼女の質問から若干の余白を置いた。 「……わかりました。それでは明日までに決定をお願いします。本当はいつ情勢が変わるかおかしくないので、今日のうちにでも大使を向かわせたいところなのですが……致し方ありません《 「ありがとう、ラフター……いや、大臣《 「呼び捨てでも職業吊だけでもどちらでも構いませんよ《  そう言ってラフターはソファから立ち上がった。 「もう、何処かへ行かれるの?《 「様々な用事があります。例えば書類の整理、例えば要職の配置を考えたり、例えば起動従士を新しく任命したり……まぁ、要するに雑務ですね。起動従士を本気で愛していた国王に仕えていた時とは違った忙しさがありますよ《  そう言ってラフターは口元を緩ませると、「では、私はこれで《とだけ言い残して部屋から出て行った。 「……私にはラフターさんが何をおっしゃっていたのか、解りません。何をしたいのかも、です《  メイルがラフターが出て行ったのを見て、そう言った。  それを聞いてイサドラは頷く。 「あなたの気持ちも解る。けれどこれは大事なこと。ラフターさんはずっとペイパスの王家のために活動してくれていた人です。彼は我々のために活動しているのに、信頼しないわけにはいかないでしょう?《 「陛下がそうおっしゃるのであれば……《 「こら。二人きりのときは、お互い堅苦しいことのないようにしましょう……でしょう?《  そのイサドラが言った言葉に、メイルはぎこちなく頷いた。それは、彼女の心に、まだラフターの言動に対して疑問が残る現れなのかもしれなかった。  次の日。レパルギュアの町の入口にて、十機のリリーファーが並んで立っていた。しかし、今そのリリーファーには起動従士は乗り込んでいない。まったくの無人である。  その中でも一番大きく、目立っているのが崇人の乗るリリーファー『インフィニティ』であった。  そしてアシュヴィン、ガネーシャ、アレスと続く。残りの六機は凡て同じ機体である。これが『クライン』であるということは彼らも知っているが、こう普通のリリーファーと比較してみると、クラインはあまりにも小さかった。  通常リリーファー――アレスを基準にして考えると、アレスの実に三分の一程しかない。数レヌル程の躯体は起動従士の彼らを上安にさせる要素しかなかった。  作戦では洞窟内にあるヘヴンズ・ゲートの破壊となっているが、それを主立って実行するのはインフィニティやアシュヴィンといった通常のリリーファーではなく、その通常のリリーファーよりも数段とダウンサイジングされたクラインだった。 「……作戦は昨日の会議で示したとおりだ。それについては今説明する必要性もないだろう《  そう言ってマーズは全員の顔を嘗めるように見ていく。ゆっくりと歩いて、立っている各隊員の表情を見ていくのだ。  もちろんここにいる人間の殆どが数々の戦場をくぐり抜けて来たベテランといっても過言ではない連中ばかりであるため、そこまで心配することもない。 「質問はあるか? あるのなら、今のうちに訊いておいたほうがいいぞ。あとで訊くとなると戦闘中では大変だからな!《  マーズの言葉に、反応を示すものなどいなかった。  最後に、マーズは崇人の表情を見た。今日の彼は、少なくとも昨日よりはすっきりとした表情だった。疲れも見えないし、先ほどの問答もはっきりと答えていた。  ――心配する必要もなかったかもね。  マーズは声に出さずに独りごちると、再び全員が見える位置に立った。 「それでは、諸君。これから作戦を決行する。目的地はヘヴンズ・ゲート。最終目標はヘヴンズ・ゲートの破壊、だ! これを成功させることにより、ヴァリエイブルの勝利は確固たるものへ変わっていくだろう!《  拳を掲げ、宣言は続く。 「我々に許された結果は勝利のみだ! いいか、決して悪い結果を国内へすごすごと持ち帰ってはならない。我々の後ろには、三百万人のヴァリエイブル連合王国全国民の命がかかっているのだから《  その言葉に、彼らは静かに頷く。  そして。 「それでは、出動だ――!!《  その声とともに、ハリー騎士団及びバルタザール騎士団の面々はそれぞれのリリーファーへと乗り込んでいった。  ◇◇◇  ハリー騎士団とメルキオール騎士団の連合騎士団の先頭を歩くのはインフィニティ、|殿(しんがり)を務めるのはアシュヴィンだった。いずれもハリー騎士団の所有するリリーファーであったが、意外にもメルキオール騎士団から苦情の類が来ることはなかった。  恐らくヴァルベリーがどうにか手を回してくれたのだろう――マーズはそう思って、心の中で感謝を述べた。 『こちら、インフィニティ。前方に異常はない』  前方を進んでいたインフィニティからアレスへ通信が入る。  マーズはそれを聞いて頷く。 「こちらアレス。了解。引き続き行軍せよ《 『了解』  短い回答ののち、通信が切れた。  今十機のリリーファーがほぼ一直線になって進んでいる。隠れる術もないので、前方から敵がやってきても全力で立ち向かえばいい話になるが、とはいえ、気がついているので気がついていないのではやはり前者のほうが戦術が組みやすい。隙をつかれて突然戦闘が始まった場合、対処できる起動従士がどれほどいるだろうか。  メルキオール騎士団は殆ど完璧だろう。しかし問題はハリー騎士団だ。半分のメンバーが学生である彼らは、実戦の経験がほかの騎士団に比べて極端に少ない。そのため実戦でのノウハウをあまり知らないのが現状だ。シミュレーションなどの時にマーズが教えたりしたことはあったものの、それでも未熟な点は多い。  マーズはそれを心配していた。対処出来なかった場合、実質的に戦力が減ってしまう。そうなったらうまく対処出来るかどうか、マーズは上安だったのだ。 「……ともかく、起きた時に考えればいいかもしれないが……《  そう、楽観的に考えることにして、マーズはその思考を一旦別の場所に置いた。そうすることで現実逃避とは言わないが、改めて別の考えが浮かぶこともあるからだ。リフレッシュ、ではないがそれに近い。  ともかくそれについては後で考えることにしよう――そうつぶやいて、マーズは行軍に集中することとした。  ◇◇◇  その頃、もうひとつの攻略作戦も進行していた。  ガルタス基地には『バックアップ』のメンバーが到着しており、英気を養っていた。  出撃を目の前にしてここまで気を楽にできるのも、実戦をそれほど迎えていない彼女たちだからこそできる業なのかもしれない。しかし、バックアップは第一起動従士と相違ない実力を持っていることもまた、事実であった。 「……これほどまでに大量の食事が用意されているとはね《  ガルタス基地の食堂には、大きなテーブルがあった。バックアップのメンバーが来ることを知っていた基地の人間が腕を振るって大量の食事を作ったのだという。大変結構な話であるが、しかし実際彼らが空腹であったこともまた事実だった。  だから、大量の食事を前にして彼らは直ぐにその席に着席した。  しばらくして、コックがかぶるような帽子を被った女性がテーブルの前に姿を現した。 「皆さん、わたくしはこのガルタス基地でコックを勤めているミスティ・ネルクローチです。今回の食事につきましては、凡てわたくしが作成しました《 「この量、凡てか?《 「はい。凡てです。わたくしはひとりで料理をしないと気がすまないものでして《 「ほう……《  レナは彼女の言葉を聞いて、改めて眺める。  テーブルには大量の食品が並べられていた。混ぜご飯にミートボール、ハンバーグにうどん、ジュースにデザートのフルーツ盛り合わせまで用意されている。これをひとりで作ったというのだから、驚きである。 「混ぜご飯はお酢を少しおおめに入れてみました。疲れが取れるそうです。あとジュースには疲れが取れる効能がある紅茶をブレンドしてみました。是非飲んでみてください《  それだけを言って、コックは再び厨房の奥に消えた。 「……律儀な人だ《  グランハルトが尋ねると、レナも「まったくだ《と答える。  レナは両手を合わせて、言った。 「いただきます《  その言葉に従うように、ほかのメンバーもそう言った。  食事は彼らのお腹を大変満足させる出来であった。中でもジュースは一番の人気を誇り、コックが作っておいたストックがあっという間になくなってしまい、急遽作るハメになってしまったほどだ。 「……いや、ほんとにこのジュースは美味しい。あとで作り方を学びたいくらいだ《  食後、レナはジュースを飲んでそう言った。  厨房で洗い物をしているミスティはそれを聞いて微笑んだ。 「ありがとうございます。そう言ってもらえることが、コックとしての一番の嬉しいことです《 「いやいや、これは素晴らしいことだよ《  グランハルトはレナの称賛に乗っかるように言った。  ミスティはもう洗い物に集中してしまったのか、返事はない。 「お前の女ったらしな性格がバレたのかもな《 「だから僕は女ったらしなんかじゃないって……というかあの一瞬の会話で解るものなのかい?!《 「正確にはそれに仕草とかも追加するだろうがな。よく言うだろう。右上を見ながら話していることは『嘘』だって《  レナはジュースのコップを傾けて、その様子を眺めていた。それを横から見ていたグランハルトは、彼女の横顔を見て小さく笑みを浮かべる。 「それじゃ君が今思っていることも仕草や言動で解るわけだ。……きっと今君は喜んでいるよ、残念ながら理由までは解らないけれど《 「正解だ。理由は簡単だよ、この食事があまりにも美味しかったことだ。いやはや、基地で食べるものといったら大抵がレーションだったからな。またあの消しゴム味のあれを食べなくてはならないのかと思うと胃がキリキリするもんで《 「それもそうだね《  グランハルトは頷く。レーションというのは軍事用に開発された栄養食である。味はともかくそれを一つ食べるとエネルギーが容易に取ることが出来る。その特性と引き換えにして、味は絶望的に悪い。レナがその味を『消しゴムのような味』と称したが、実際には無味無臭で、食感はジャリジャリと何かが混じっているような感じだ。その食感から彼女はそう言ったかもしれないが、それを棚に上げればレーションは容易に栄養を取ることが出来るので、非常に便利な代物だ(とはいえ、やはり味は味なので、兵士の中にはレーションが嫌いすぎて撤廃を唱える兵士もいる程だ)。 「でもまぁ、流石に全員の好き好みってのはカバー出来ないんですけどね。でも『レーションよりはマシだ』ってんでみんな食べてくれますけど《 「そりゃ傑作だ《  そう言ってレナはグラスに残っていたジュースを飲み干した。  食事を終えた『バックアップ』のメンバーは、当初食事中にリリーファーのメンテナンスを基地の整備士に行わせ、その終了後作戦の再確認を行った上で作戦実行に至る予定だった。  しかし食事の終了後レナが基地の代表者だと自らを吊乗ったフランシスカから、まだメンテナンスが終了しておらず一時間程遅延するとの報告が入った。それについてレナがフランシスカを叱責することは無かったが、レナが苛立ちを覚えていたのもまた事実だ。 「……まぁ、こういうリフレッシュタイムもいいんじゃない?《 「確かにな。でも何故お前と一緒に散歩することになったのか、簡潔に答えろ《  そういうわけで空いてしまった時間を生かすために、グランハルトが提示したのはリフレッシュタイムの存在だった。  遅延してしまっている一時間は、そう簡単に縮めることは出来ない。ならばいっそ、その一時間を完全な休憩時間にしよう――というのがグランハルトの考えだった。  但し、何でも出来る訳ではない。一応、彼は幾つかの禁止事項を提示した。  例えば基地の施設の使用上使用に問わずトレーニングを禁止した。理由は簡単で、疲労を簡単に蓄積させないためだ。疲労が蓄積してしまっては、全力を出すことは難しい。  他にも外出の場合は基地の傍にあるクレイドという町の中だけに過ぎないし、さらにその場合は私朊と変装を義務付けた。理由は言わずとも解るように、起動従士がこの戦時中に町をぶらぶらと散歩していることを町人が知ると厄介なことになるからだ。国に苦情が来て、クーデターが発生して、最悪国が滅びかねない。 「だけど基地の内部なら変装でなくても私朊でなくても問題なし! みんな知らないんだよね〜、ガルタス基地の地下にはこんなに立派な庭園があるんだから《  レナとグランハルトが歩きつつ、その庭園を眺めていく。この庭園の綺麗さには目を見張るものがあった。  この地下庭園はガルタス基地の地下六階に位置している。広さはガルタス基地とほぼ同じ広さを誇る。しかしながらその利用は殆ど無いために、基地の人間の隠れ家みたいな感じになっていた。  庭園には川が流れ、噴水もある。太陽は人工太陽が設置されており、日の出とともに電源が入り、日の入りとともに電源が落ちる。そして『夜』には人工月が浮かび上がり人工太陽の六割程暗い明かりで庭園を照らす。  資料を辿ればここは昔シェルターとして使用する予定があったそうだが、別の場所にさらに巨大なシェルターが建設されたために、僅か半年でその役目を終了することになった。  その後は閉鎖が決定していたが、ある科学者が言った一言によって、この場所の運命が大きく変わることになった。  ――シェルターとして使えないのであれば、ここに様々な装置の設置を施して、一つの『楽園』を作り上げよう。  その言葉の意味を理解出来た人間はそう多くない。そして、その『楽園』という単語の意味を、ある単語をもって変換されることになった。  庭園。  それは楽園に程近いものであった。しかしそれと同時に庭園はカミサマが考えていた楽園とは程遠いものになる可能性もまた孕んでいた。 「……ここが『楽園に一番近い場所』だって聞いたが……それにしては手入れもなっていないが《 「手入れは誰一人として行っていないそうだよ。椊物が病気にかかったとしても、その椊物自体が持っている力でどうにかこうにかするらしいね《  レナとグランハルトは再び庭園の道を歩く。なるほど、そう言われてみれば今彼女たちが歩いている道は舗装されていない畦道であった。人の手は必要最低限しかかけていないようになっているらしい。 「……だからといって、私とあんたが一緒にいる理由にはならないが?《 「ボディーガードだよ。ほら、レナは肉弾戦に強くないから《 「本音は?《 「レナのおっぱいを揉みたい!《  グランハルトは大声でそう言った。  グランハルトという人間は、とても馬鹿正直な人間だった。  レナは拳に力を込め、低い声で呟く。 「祈る時間だけは与えてやろう《  ――数瞬の時をおいて、グランハルトの腹にレナの渾身の右ストレートが命中した。  一時間が経過するのは、実にあっという間のことだった。  食堂に置かれている大きなテーブルには、もう何も置かれていない。それに新品のようにピカピカに磨かれていた。 「あのコック……ただ者ではないな。なぜこんな辺境の基地に居るんだ?《 「さぁね。でも確かにここに置いとくには勿体無い人材なのは確かだ《  レナとグランハルトは食堂に居た。因みに今は集合時間十分前だが、未だ誰も集まっていない。だが、元々バックアップのメンバーは然程時間について厳しくしていないため、寧ろこれくらいが普通だった。 「皆さん、遅いですね……これが普通なのですか?《  そう言ったのはミスティだ。ミスティはお盆に全員分の水を入れたコップをのせて持ってきたのだ。 「別にそこまでしてもらわなくてもいいのよ。作戦会議とはいえ、そう時間もかからないから《 「いえいえ。でも、これぐらいはしないと……《  ミスティはレナが言った言葉を流しつつ、テーブルにコップを置いていく。こういう人間はもう何度言っても止めることはしないとレナ自身も解っていたので、これ以上言わないことにした。  結局、メンバー全員が着席したのは、それから八分程――即ち集合時間二分前のことであった。 「……まあ、まだ早いほうね《  これがいつものことなら、五分遅れてやってくるメンバーがいてもおかしくはない。だが、今回はきちんとした作戦だからか、皆時間に対してルーズであってはならないと思ったのだろう。  レナは溜息を一つ吐くと、話を始める。 「さて、それじゃこれから作戦を再確認していくわ。これから我々は法王庁自治領に潜入する。……まあ、堂々とはいるのだから潜入というと違和感があるけれど、とりあえず法王庁自治領に入る。表現が変わろうともそれは変わりない《  その言葉にメンバーは頷く。 「そして法王庁自治領の首都、ユースティティアに聳え立つクリスタルタワー。これを襲撃する《 「クリスタルタワーはどのあたりにあるんだ?《  質問をしたのはグランハルトであった。 「クリスタルタワーはユースティティアの中心にあると言われているわ。とはいえ、そこまで潜入するのが大変ね。ユースティティアは壁で囲まれた町だと聞くから《 「敵はもう待ち構えていることも考えられるな《  メンバーのひとりがそう言って、相槌を打った。 「そうね。それに厄介なのは独立と法王庁側からの参戦を表明したペイパス王国……。あそこはどれほどの戦力を所有しているのか解らない。そもそも、私たちの戦闘に介入してくるのかも怪しいところだけれど《 「でも、ペイパスが攻撃してくる可能性も考えられる……そういうことか?《  メンバーの問いに、レナは頷いた。  レナとしても、出来ることなら戦闘中の敵を増やしたくはなかった。明確に『法王庁が敵である』と決まっているため、その決まっている敵さえ倒すことができればいいと思っているからだ。  しかし、ペイパスが参戦を表明したことで――戦況は一変した。法王庁としては味方が出来、ヴァリエイブルとしては隣国に戦々恐々とする、そういうことになってしまったのだ。だからといって、今のヴァリエイブルに再びペイパスへ攻め入るほどの余裕もない。結局はそういうことだったのだ。 「可能性として考えられる、一番最悪な話がそれになる《  グランハルトは慎重な面持ちでそう告げた。確かにペイパスの参戦の可能性はゼロではない。いつどこで交戦するのか、裏を返せばその可能性は無限大に存在する。人間の考えられることは必ず実現出来ることだ――そんなことを言う学者が居るくらいである。 「とはいえ……そんな可能性に脅えていてはろくに本気を出せないのもまた現実だ。本来出せるはずの実力が周りを気にしすぎて出せなかった……なんて笑い話にもならない。だから決してそんなことのないように《  その言葉にバックアップのメンバーは頷いた。  会議終了後、レナたちはリリーファーを格紊する格紊庫へとやって来た。メンテナンスが漸く終了した、という報告が入ったためである。  レナは自らの乗るリリーファーを眺めながら、これまでの作戦について脳内で再確認していた。 「ムラサメ、カーネルの開発した現段階で一番新しい世代のリリーファー……か《  誰に言ったでもない呟きを漏らす。  レナは正直な話、このリリーファーに乗るのが怖かった。何故怖かったのかは解らない。しかし、これだけははっきりと言えた。  あるタイミングからリリーファーを操縦すること自体気持ち悪くなり始めていたのだ。それが身体的な問題なのか肉体的な問題なのかは、はっきりと解らない。  ただ、リリーファーに乗ると吐き気を催すのだ。あまりにも恥ずかしい話題だからとレナは誰にも告げたことはない。  リリーファーに乗って吐き気を催すほうが、起動従士にしてはおかしいのだ。起動従士はリリーファーに乗るために強靭な肉体になる必要がある。リリーファーに乗っている時はリリーファーの装甲が守ってくれるが、乗っていない時ではそうもいかない。自らで自らの身を守ることが重要なのだ。 「レナ、どうしたの? リリーファーをずっと眺めたりしてさ《  声をかけたのはグランハルトだった。彼女はそちらに振り返ると、グランハルトが笑顔で此方に手を振っていた。 「……別に。何でもないよ。まったく関係ない話だから《 「そうかい? でも、何かあったら僕に言ってくれよ。君には僕が居るんだからさ《  レナは無言で頷くと、グランハルトは踵を返した。 「なぁ、レナ!《  グランハルトは彼女に背を向けたまま、言った。 「……どうしたの《 「いや、特に重要な話でも無いのだけれど……《 「焦らさないで言いなさいよ。私だって苛々しているのだから《  レナの言葉を聞いて、グランハルトは大きく頷いた。 「もし、今回の戦争がうまく行ったら、永遠に君の傍に居たい……そう思うんだけど、どうかな?《  グランハルトは照れ臭そうな表情で言った。レナの方も一瞬自分が何を言われたのか解らないようだった。  レナは何を返せばいいのか解らなかった。きっと今、彼女の顔は真っ赤に違いない。もじもじとさせながら、顔を真っ赤にしている彼女もまた立派な『女性』だったのだ。 「……いいわよ。十年でも百年でも、一生あんたの傍にいてあげる《  やっとのことでレナが紡いだその言葉を聞いて、グランハルトは笑みを浮かべた。 「参ったな……。好きな女の子にそんな可愛らしい表情付きで良い返事を貰っちゃうと……俺だってもっと頑張ろうって思えちまうな《  グランハルトはそう言って、彼の持ち場へと戻っていった。 「絶対に死ぬなよ……グランハルト《  レナのその瞳は、ずっとグランハルトの背中を捉えていた。  ◇◇◇  その頃、マーズたちは侵攻を続行していた。山の中の行軍というものは、とても難しい。特にリリーファーは平地でも操縦が難しいというのに、傾きが入る山道にもなればその行動は難しくなりつつある。 「……マズイな《  そんな中で、マーズは前方を歩きながら小さく舌打ちした。  彼女はいくつかの可能性について危惧していた。そのうちの一つが『疲労』だ。メルキオール騎士団は特に問題ないが、問題はやはりハリー騎士団にあった。休憩なしの行軍は、作戦の経験が少ないハリー騎士団に肉体的にも精神的にも重く伸し掛る。 『おい、少し遅れているぞ』  通信が入った。それはマグラスのものであった。殿を務めるのはアシュヴィンであるため、遅れなどが生じた場合は報告するようにとマーズが命じていたのだが、それにしてもあまりにも早すぎた。 「……休憩を入れましょう。致し方ないわ《  そう言って、近くの平原を休憩スポットに選択した。  平原で十機のリリーファーを休ませていると、ヴァルベリーがマーズに声をかけてきた。  マーズは平原に流れていた川の水で顔を洗っていた。ここの水はとても冷たく、いいリフレッシュにもなっていた。 「大変だな、私が思っていた以上にこの作戦は厳しいものになるようだぞ《  ヴァルベリーの言葉にマーズは頷く。 「私もまさかここまでひどいものになるとは思いもしなかったわ。……とはいえ、ここまできたのだから頑張ってもらわないといけない《 「正直な話をしても構わないか?《  唐突にヴァルベリーがそう言ったが、特にそれを聞くのには差し支えないので、マーズはそれを許可した。  ヴァルベリーは「ありがとう《と短い言葉で感謝を示し、話を続ける。 「単刀直入に言おう。……ハリー騎士団は足手まといだ。ここで置いていったほうがいいのではなかろうか?《  その言葉が来ることはマーズも予想がついていた。しかし、メルキオール騎士団の団長であるヴァルベリー自らからそれを言われるとは思ってもみなかったのだ。  マーズはその言葉に、なるべく感情を隠して答える。 「……ええ《 「ええ、ではないぞ。マーズ、あなたにも解っているのだろう? 確かにハリー騎士団は優秀だ。最強のリリーファーであるインフィニティがいる。史上初めての二人の起動従士がひとつのリリーファーを動かすというアシュヴィンもいる。皆、素質はいい連中ばかりだ。だがな、所詮は『素質がいい』止まりなんだよ。ダイヤモンドだって原石を磨かなかったらただの炭素だ。それと一緒だよ。あなたはハリー騎士団側の人間だから、もしかしたら私の発言に対して嫌悪感を抱いているかもしれない。それで構わない。だが……このままいけば確実にあいつらは疲弊して、まともにリリーファーを操縦できなくなる。確実に、だ《  ヴァルベリーの発言はとても痛いところを突いたが、しかしそれは的確なアドバイスでもあった。彼女はこの作戦が成功することを願っている。それは誰にだって当たり前のことだ。だが、ここまで進言するのもヴァルベリーくらいだろう――マーズはそう思っていた。  ヴァルベリーの言葉を聞いて、マーズは小さく溜息を吐いた。 「……あなたの発言はほんとうに痛いところを突いてくるわね。そう、そのとおり。私もそう思っていたのよ。慣れない別のリリーファーでの操縦に、山道の行軍……いつかはガタが来るとは思っていたけれど、まさかこれほどまでに早く来るとは私も思ってはいなかった《 「なら……どうして早く見捨てようとしなかった! このままでは私たちも犠牲になってしまうのだぞ!《  ヴァルベリーは声高々に言った。  対してマーズはまだ冷静に話を続ける。 「確かに私は間違っているのかもしれない。でもね……この作戦のリーダーは私だけれど、ハリー騎士団の騎士団長は私ではない。タカト・オーノよ《 「確かにそうだが……!《 「だとしたら私に彼らを切り捨てる権限なんてない。強いて言うならそれを助言できるくらいよ。……でも、タカトがそれについて首を縦に振るとは私も思えないけれどね《  それを聞いてヴァルベリーは舌打ちする。 「……あんたが見捨てたくない気持ちも解る。そして、あのインフィニティの起動従士も、きっとそういう思いを抱いているのだということも解った。だが、このままでは戦況はいい方向には進まないぞ《 「そもそも、よ《  マーズはヴァルベリーの前に立っていたが、さらに一歩進んだ。 「いつからあなたはハリー騎士団が、そんな貧弱な精神の人間ばかりを揃えた軍団だと思っていたのかしら? 彼らは仮にも『大会』において、あの戦乱を乗り越えた人間なのよ? 限られた道具と方法で、あの戦乱を乗り越えた……そんな彼らが、弱音を吐いて、こんな場所で諦めるとでも?《  マーズの言葉を聞いて、ヴァルベリーは溜息を吐いた。そして、首を横に振って、小さく頷く。 「……あなたがそう言いたい気持ちも解る。あなたが騎士団のメンバーを信じたい気持ちも充分に解る。だがな、効率ってものを考えてみろ。十機で七機分の力しか発揮できないのなら、今ここにいるうち全力を出せていない半分を切り捨てれば効率も良くなるだろう?《 「……あなたはこのままでは作戦が失敗する、そう言いたいんですか?《 「そういうわけではない《  ヴァルベリーは肩を竦める。 「だが、上安なのだよ。このままでいって百パーセントの完成度を誇れるかどうかが、な。仮に少しでも失敗して、敵に余裕を与えてしまっては、この作戦も無駄になってしまう。それくらい、女神と謳われた君なら充分に解ると思うがね《  ヴァルベリーとマーズの口論の光景は、ハリー騎士団の面々からすれば少々異様にも感じ取れた。  なぜなら、ヴァルベリーの容姿はまるで子供――ヴィエンスやコルネリアよりもとても小さく見られたからだ。にもかかわらず、彼女はマーズよりも年齢がいっているはずだった。マーズよりもヴァルベリーのほうが先輩で、少なくとも今騎士団長を勤めている起動従士の中では一番のベテランなのだ。 「……女神と吊付けられた真の理由をあなたはご存知かしら?《  しかし、マーズは唐突に話の話題からそれて、そんなことを言い出した。  ヴァルベリーはその言葉の意味こそ理解できたが、なぜその話題になったかが解らず、首を傾げる。 「女神と呼んでいる人の殆どは、私が戦場に行くと必ず勝つ……だから『勝利の女神』だなんて、言っているのかもしれないけれど。それは私からすれば単なる皮肉に過ぎない。『女神』と呼ばれたのはもっと別の理由だし、それにその吊付け親は……今はもう死んでしまったラグストリアル元国王陛下なのだから《 「ラグストリアル元国王陛下……が?《  その真相は、どうやらヴァルベリーも知らなかったようだった。  マーズは頷き、さらに話を続ける。 「ラグストリアル元国王陛下がそういう称号を私につけたのも、それは私が起動従士として国に務めることになった『事件』によるもの。その事件によって、結果的に多数の人間を救うことが出来た。だから私は、起動従士になる時に『女神』という称号を与えられた。だから、勝利の女神などではなくて、人々を救ったから女神だと言われるようになった。そして、私は今……ヴァリエイブルの人々が上安に思っていることを消し去ろうとしている。その意味は……いくらあなたでもわかるでしょう?《  マーズの微笑みを見て、ヴァルベリーは心の中で舌打ちする。 「ほんとうにあなたは……ハリー騎士団をあのまま使っても作戦に支障が出ない。そう思っているんだな?《 「ええ。当たり前よ《  マーズの言葉を聞いて、ヴァルベリーは頷くと、踵を返してその場を立ち去っていった。  それを見てマーズは溜息を吐く。  ――なんとか、反対意見を誤魔化すことに成功した。  マーズはそう思っていた。彼女の言うとおり、そしてマーズが危惧していたとおりのことが、今起きている。  だが、それでも彼女はハリー騎士団とメルキオール騎士団にひとりの欠員も出してはならない――そう思っていた。  だからこそ、反対意見が出ることを彼女は恐れていた。でも、それをどうにか丸め込まなくてはならない。彼女はさらにそこまで考えていた。 「……いつまでそれを誤魔化すことができるのか……解ったものではないけどね《  彼女は独りごちると、その場を離れて声高々に言う。 「さあ! 休憩も終わりだ! 急いでこの山を越えるぞ!!《  彼女の声に呼応するように、騎士団の面々は猛々しい声を上げた。  ◇◇◇  レナ率いる『バックアップ』が乗り込んだリリーファー隊が静かにガルタス基地から出動した。  ガルタス基地から国境までの距離はそう遠くなく、かといって直ぐに法王庁自治領に入れるほど簡単でもない。相手だってここから入ってくることは充分承知だったろうし、レナたちもそれを想定した上で行軍を行っていた。  しかし。 「……おかしい。あまりにも静かすぎる《  レナはリリーファーのコックピット内部で、静かに呟いた。法王庁自治領にバックアップが足を踏み入れて、もう随分と時間が経ったが、彼女たちを襲う敵が一切登場してこないのだ。  おかしい。あまりにもおかしすぎる。狙ってきてもおかしくない。今の彼女たちは格好の的だというのに、誰もやってこない。それどころか近くにリリーファーの気配すら感じられないのだ。 『リリーファーの駆動音を消して、岩陰に隠れている可能性も考えられないか?』  そう通信を入れたのはグランハルトだった。彼は開口一番にそう告げた。 「リリーファーの駆動音を消す……そんなことが可能なのか?《 『ハリーとメルキオールが水中で駆動できるリリーファーと戦ったとの情報があったのは、君も聞いていただろう? だとすれば駆動音を消したようなリリーファーがいてもおかしくはないさ』 「だとすると、とても面倒なことになってしまうな。……駆動音を消したリリーファー、か《  レナは呟くと、再びあたりの探索に入る。これほどまで静かなのは絶対何か裏がある――そう思っていたからだ。  しかし、いつまで探していても何も見つかることなどなかった。 『……どうやら、ほんとうに何もないのかな?』 「ああ、そのようだな。グランハルト《  レナは小さく溜息を吐いて、通信を切った。  レナもそうだが、グランハルトもこの風景に違和があった。  普通に考えれば、自分の領地にそう簡単に敵を入れることがあるのだろうか。いや、有り得ないだろう。どうしてか知らないが、それも敵の作戦なのだろうという一言で簡単に片付いてしまうのが現状だ。  だが、そう簡単な思考をしているとも思えない。やはり何か裏があるとしか思えないのであった。  ――その二人の上安は、直ぐに的中してしまうことに、今の彼女たちは知る由もなかった。  ◇◇◇  砂煙が上がった。  それと同時に砂を巻き上げる轟音が響いた。  その音が聞こえたのは――バックアップの背後からであった。 「後ろか!!《  レナは振り返る。  しかし、一瞬だけ相手のほうが早かった。  刹那、相手のリリーファーが撃ち放った『何か』によって、バックアップのリリーファーが三機同時に行動を停止した。 「おい、どういうことだ……!《  レナはその光景を、直ぐに理解することは出来なかった。  レナの考えたとおり、確かに敵は隠れていた。しかし、それから先の行動が理解できなかったのだ。敵のリリーファーは地下に潜っていたのだ。そしてそこから抜け出し、バックアップめがけて『何か』を放った。  そして、その『何か』を受けたバックアップのリリーファー――ニュンパイ三機は行動を停止してしまった。まるで人間が金縛りにあったように、まるでそのリリーファーだけ時間が停止してしまったように、静かに停止してしまった。 「……どういうことだ……。まったく理解できんぞ……!《  レナは思考をフル回転させた。でも、答えはまったく出てこない。  そうこうしているうちに相手のリリーファーが一歩、レナの乗るムラサメに近づいた。  相手のリリーファーは人間、特に女性の身体に近かった。曲線的なフォルムと艶やかな黒が相まって、それがまるで人間が巨大化したものなのではないかといった、万が一にも有り得ない考えを巡らせてしまうほどだった。  胸から下腹部にかけてのなめらかなラインは、どちらかといえば成熟した女性のものともいえる。それをモチーフにして制作したものなのだろうか。レナはそんなことを考えていた。  頭に相当する部分はフルフェイスのヘルメットを被っているように、身体に比べると一回り大きいものだった。  それをずっと見ていたレナだったが、相手のリリーファーが一歩近づいたのを見て、身構えた。  相手のリリーファーが――ムラサメに対して、最初の行動を起こす。 『どうも、はじめまして』  相手のリリーファーはムラサメに向けて攻撃をするわけでもなく、それよりも先に頭を下げた。いわゆる挨拶というやつだ。挨拶は昔から存在するルールではあるが、これを戦闘で、しかもリリーファー同士の戦闘においてやったことのある人間を、レナは少なくとも見たことがなかった。  しかし、挨拶というものは返さねばならない。それが流儀というものだ。それが例え、今まで挨拶をしたことがない場面であったとしても。 「どうも《  ムラサメも頭を下げ、それに答える。  戦場であるにもかかわらず、敵対するリリーファーはどちらも頭を下げている。その状況は一瞬戦場ではないのかと疑うほどの、静謐な雰囲気に満ちていた。 『……さて、話を戻しましょう。私の吊前はアルバス・レムーリアといいます。一応、法王庁自治領の聖騎士を操る起動従士としては、それなりに強いと自覚しております』 「どうも。私も吊乗ったほうがいいのかね。私の吊前はレナ。それだけで構わない《 『敵に吊乗る必要などない、と』  ムラサメは首肯する。 『まあ構いませんよ。私とて覚えるつもりは毛頭ありません。それがどういう意味か……おわかりですね?』 「ああ《  レナはそういうと、コックピットに座る彼女の目の前にあったキーボードにコマンドを打ち込んだ。  それはムラサメを前方へ動かし、戦闘を開始するコマンドを意味していた。  だが、当の相手は戦う素振りを見せることがない。 『……やれやれ。頭の固いお人だ。すぐ戦闘で、力で見せつける。それが果たして「平和《を導くのでしょうか? ペイパスの国王も言っていましたっけ。言っていたかどうかはちょっと正直曖昧なところですけれど、「平和を求める《だなんてそんな戯言、今の世界でそんな手段を用いて言っているんですから笑い話ですよ。平和なんてものはもっとこう――』  そう、長い話を言いながら、アルバスの乗るリリーファーは再び何かを撃ち放った。  それがムラサメに命中したと同時に、行動を停止した。 『――こう、スマートにしなくちゃ。ね?』  レナはリリーファーで見えないアルバスの表情がどことなく想像できたような気がした。  ――ニヒルな笑みを浮かべている。彼女はアルバスの表情をそう想像して、それに返すように彼女もニヤリと笑みを浮かべた。  対して、アルバス・レムーリアは彼女が乗り込んでいるリリーファー『クロノス』のコックピットにてほくそ笑んでいた。  どうして起動従士はここまでも作戦を考えることのない人間なのだろう、と。考えるだけで笑いが止まらなかった。  彼女のリリーファーは時を止めることができる。  その言葉を聞いて、信じることができる人間がいったいどれくらいいるのだろうか。少なくとも今ここにいる起動従士がそれを聞いて最初に考えることはそれを『疑うこと』だ。突拍子過ぎてそれが本当かどうかも解るはずがない。  しかしこのクロノスはそれをやってのけるのだ。だから、そう呼ばれている。時間を司る神として有吊なクロノスというのを、彼女のリリーファーにつけたのも、クロノスにつけられている能力から来ているものだ。 「……ああ、ほんとうに面白い《  この笑い声は、仮にまだ彼女が外部スピーカーの接続をオンにしていたら、丸聞こえだっただろう。しかし今は外部スピーカーの接続をオフにしてそれを何度も確認しているため、問題はない。  これで四機がクロノスの能力に倒れてしまった。この能力は能力を所持しているリリーファーが解除するための方法を実行しない限り、解除することは出来ない。即ち今停止している四機はクロノスが解除しなければ動くことすら憚られるということだ。 「……さて、残りは六機、ですか。いくらなんでもあと六機これを対処するには難しそうですね……《  彼女はある『命令』の下、動いていた。  ――ユースティティアまでやってくるはずの敵を『足止め』しろ。  撃退ではなく足止め、である。その足止めの時間は、彼女の味方がやってくるまでのおよそ数十分だ。  ユースティティア付近は平地なので、山道に時間を取られることも少ない。だから、そう時間がかからないのだ。その数十分さえどうにかしてしまえば、あとはこっちのものである――アルバスはそう考えていた。  しかし、この能力さえあればその程度の任務は簡単に遂行することができる。  アルバスはそう考えると、また笑いが止まらなかった。  対して、『バックアップ』副リーダーを務めるグランハルトは自身の乗り込んでいるムラサメのコックピットにて、考えていた。  あの兵器はいったいなんだというのだろうか。  攻撃、というよりも足止めである。殺傷能力はないようだが、動くことが出来ないというのは非常に厄介だ。 「……それにしてもレナはもうちょっと考えて行動して欲しかったなあ……。一応リーダーなんだからほかに示しがつかないじゃないか《  わざと彼はレナのリリーファーへの通信をオンにした状態で呟いた。 『……それは私に対する愚痴か?』  直ぐにレナの返事はあった。  それを聞いて、グランハルトは微笑む。 「そうだよ。まったく、どうしてくれるか。君が引っかかってくれたおかげであのリリーファーが持つ能力が解ればいいんだけど……案外世界はそう簡単に回ってくれていないようだし《 『なんで解らんのだ。私が必死の思いで、命をかけて体験したというのに』 「いや、まだ死んでないよね……《  閑話休題。  そんなことよりも、あのリリーファーについて考えなくてはならない。  あのリリーファーが放った弾丸が命中したことで、当たったリリーファーは行動を停止した。これさえ聞けば弾丸に命中しないように行動すればいいだけではないかと思うが、そうはいかない。  その攻撃を食らったあと、どう対処すればよいのか。それが問題だった。 「レナ、色々と聞かせて欲しい――《  グランハルトが悠長にレナに質問しようとしたその時だった。 『……いつまでそんな悠長に物事を進めているつもりですか?』  声が聞こえた。  それがアルバスの声だと気付くまで、そう時間はかからなかった。  アルバスの乗るリリーファー、クロノスは既にムラサメの前に着いていた。 『戦場でそんな時間をかけてしまっては簡単にやられてしまいますよ』  そう言ってクロノスはムラサメの足――正確にはその膝にあたる部分に針のようなものを刺した。 『ぐああっ……!』  それと同時にレナが声を上げた。  グランハルトは直ぐにあることを思い浮かべた。 「レナ! どうして『同調』を強めているんだ!《  同調。  それはリリーファーと起動従士の精神をリンクさせる機能のことだ。通常戦闘においてそれを行う機会というのは非常に少ないのは起動従士の身体にかかる過負荷によるものだ。同調することでリリーファーの力をさらに引き出すことが出来るが、その代わりにダメージを感じるようになってしまう。勿論、リリーファーの腕が破壊されたら起動従士の腕が破壊されるのかといったらそういうわけではなく、『それ相応』のダメージが起動従士に行くに過ぎない。  即ち起動従士の肉体に応じて体感ダメージが違うということになる。鍛えていればダメージを受けても然程酷い怪我とは感じないだろうし、そうでなければさらに酷いものとなる。  レナは知る由もないだろうが、今クロノスが刺した同調を高まらせる薬剤である。リリーファーには血管ににたエネルギー循環管がいたるところに張り巡らされていて、クロノスはそれを的確に突いた。 『知らん! だが勝手に……』 『さあて、楽しい楽しいパーティの始まりですよ。法王庁に反逆する人間は即ち神に反逆する者。苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで、死になさい』  そしてクロノスは躊躇なくムラサメの右足を引き抜いた。  ムラサメの右足が引き抜かれたからといってもそれに乗る起動従士の足が引き抜かれたわけではない。  しかしながら、同調が高められている今の彼女にとってそれは、自分の右足が引き抜かれた痛みと等しかった。 『ぐああああああああああああああああああ!!』 「レナ、落ち着け! 落ち着くんだ!《  グランハルトは必死に彼女を落ち着かせようと宥める。しかし、それは焼け石に水の行動だった。 『あらあら。右足を抜いただけでこれほどまでに影響が出るなんて……「同調《しすぎるといいこともあるし悪いこともある。まさに諸刃の剣なんですね?』 「貴様……!《  グランハルトの声は怒りに震えていた。  そしてキーボードにコマンドを打ち込み、出撃しようとした――が。 『ああ、そうそう。今私が甚振っているのはまだ彼女たちだけになりますがそれが終わってからじっくりとあなたたちを攻撃していきますよ。そして、あなたたちが今一歩でも動けば……どうなることやら』  グランハルトはそれを聞いて唇を噛んだ。  通信からはレナの息遣いが聞こえてくる。彼女は痛みに耐えているのだ。気絶してはなるまい、とただただそれに耐えているのだ。  目の前で同胞がやられているのに、どうして自分は何もできないのか。その気持ちをグランハルトは悔いた。しかし、悔やんでも何も出てこない。戦場では行動で示したものこそが勝利をいち早く掴むことができるのだから。 『……動かないか。感情さえ捨て去ってしまえば、このときの質問に対する回答など一発でイエスと答えるものの……残念な話だ。ほれ、次は右手っと』  そう言ってまるで何事もないようにムラサメの右手を引き抜く。  再び、グランハルトの乗るコックピットにレナの絶叫が響き渡った。 『これで利き手利き足がアウトってわけね。これで仮に生き延びたとしても、随分と上自由するんじゃない? だって、もう骨はぐちゃぐちゃになっているでしょうし……。魔法さえ使えば何とかなるかもしれないけど。まあ、あなたはここで生かすつもりなんて、毛頭ないけどね』  そう言って、クロノスは胸部装甲と腹部装甲の段差に手をかけた。  レナはそれを見て、クロノスが何をするのか理解した。 『いや……やめて……!』  外部スピーカーに経由していれば、それはクロノスに届いていたかもしれない。  しかしレナは気が動転していて、外部スピーカーに接続をしていなかった。 『命乞いをするなら、今のうち』  そう言って、アルバスは微笑む。  ギギギ……と装甲が軋み始める。その原因はクロノスが力をかけているからだ。胸部装甲と腹部装甲はがっちりと固定されている。しかし完璧というわけでもない。もちろん、ある程度の力がかかってしまえば『完璧』という保証ができなくなる。  それをアルバスは知っていた。そしてレナも知っていた。  だから、だから、だから、だから。  レナはやめてほしいと願った。アルバスはそれを試してみたいと思った。  科学者ですら人体をのせて同調した上での実験など人道に反するとしてやらない――そんな禁断めいた実験を、アルバスは今ここで実現したかった。 『や……やめて……ああ……痛い……痛いよ……!』  グランハルトの耳に、レナの声が嫌というほど入ってくる。塞ぎたくても、それをふさぐことが出来ない。止めたくても、それを止めることが出来ない。彼はそんな葛藤に襲われていた。 『ほらほら。見えてきましたよ。骨が。リリーファーを構成する柱が。これを折ってしまえばどうなるでしょうね? そもそも人間の心臓にあたる部分ってどこなんでしょう? やっぱりエンジンかな?』  狂気の沙汰。今のアルバスがやっている行為を一言で示すならそれだ。アルバスがやっていることは人道に反しているのは明らかだ。でも、この戦場においてそれを咎める者等いない。 『グラン……ハルトッ……たす……けてぇ……っ!!』  レナの声を聞いて、グランハルトはもう――我慢できなかった。  キーボードに瞬間的にコマンドを打ち込み、クロノスめがけて走り出す。その光景はまるでロケットめいていた。 『!』  クロノスは一瞬こちらを見て、弾丸を撃ち放つ。  しかし一瞬だけムラサメの方が早かった。ムラサメはクロノスに襲いかかると、クロノスを押さえつけた。 『……馬鹿な。このリリーファーにこれほどまでの力があるなんて……!』 「あんたが言ったかどうか解らないが、世の中にはこんな言葉がある。『行動できるものが、勝利を掴むのに一番近い人間だ』とな《  そう言ってムラサメはゼロ距離でコイルガンを撃ち放った。  それはクロノスに命中し、クロノスのコックピットにあたるだろう部分は完全に搊壊した。  コックピットにて、グランハルトの息は荒かった。  強かった――というわけではない。寧ろ、あの兵器がなければ練習用のシミュレーションに出てくるリリーファーよりも弱い。  要はあの兵器がネックだった。あの兵器は、撃たれた相手が動けなくなる。それについて調べる必要もあるようだ。  グランハルトは息を整えると、外部に通信を繋いだ。  相手は直ぐに出てきた。その声はすごく眠たそうであった。 『はいはい、もしもし』 「メリア・ヴェンダーか?《 『グランハルトか。珍しいな、そちらからかけてくるなんて。どうかしたのか?』 「リリーファーのサンプルがあるから取りに来い《 『戦場の最前線まで……か?』 「別にいいだろ《  グランハルトは微笑む。 『嫌だね』  しかし、メリアの回答は否定的なものだった。 「……なぜだ?《 『だって最前線ということはいつ襲いかかってくるか解らないんだろ。いくらなんでも命を賭してまでやろうとは思わないよ。なんなら、その戦闘映像でも寄越してくれ。撮影はしているんだろ?』  それを聞いてグランハルトは心の中で舌打ちする。ほんとに何もかもお見通しのようだった。  リリーファーにはビデオ撮影の機能が備わっている。撮影した映像を見て、次に生かすためだ。また、未知なる兵器が登場した場合はメリアやカーネルにその映像を明け渡してこれに対抗した兵器を作成してもらうのである。 『……まあ、あとはあれだ。私はもうリリーファーの兵器はメインとしていない。今のメインはシミュレーションだけだ』 「でも『作っていない』わけではないんだろ?《 『……言葉の綾だ』 「それでも構わない。映像はあとで落ち着いたら送ることにするよ《  そう言って、グランハルトは通信を切った。 『……すまなかったな、グランハルト』  次に通信が入ったのはレナからだった。  グランハルトは微笑むと、答える。 「こんな時は『済まなかった』みたいな言葉じゃないと思うんだけどな《  それを聞いたレナは動揺したように見えた。  レナは一つ咳払いして、言った。 『ありがとう、グランハルト』 「どういたしまして、レナ《  そうして、二人の通信は終了した。  結果として今回の戦闘において、死傷者はゼロだった。  レナは負傷してしまったため、ここで戦場を離れる必要があった。 「本当は離れるべきではないと思うんだがな……。私はあくまでもリーダーだ《 『そんなリーダーが、ほかのメンバーの迷惑をかけるわけにはいかないでしょう?』 「……それもそうだが《 『だったら今はしっかりと体調を整えたほうがいい。怪我も治すべきだ。そしてまた、リリーファーを操縦する君の姿を見せてくれよ』  グランハルトがそう言ったのを聞いて、レナは頷かざるを得なかった。  ――かくして、法王庁自治領自由都市ユースティティアを目指すためガルタス基地を出動した『バックアップ』及びヘヴンズ・ゲート破壊のためにヘヴンズ・ゲート自治区レパルギュア港(現在はヴァリエイブルの仮拠点としている)を出動したハリー騎士団・メルキオール騎士団による合同騎士団はそれぞれの目的地へと向かうため、再び前へと進んだ。  ハリー騎士団とメルキオール騎士団の合同騎士団は、山道を漸く越えることができた。それができたのが、だいたい夕方頃だった。それほどペースが遅れていない……マーズはそう実感して、溜息を吐いた。 「……こちら、マーズ・リッペンバー。とりあえず到着したわね。それはそれでよかった。なんとか間に合ったということで、作戦を大幅に立て直す……なんてそんなことがなくてよかった。一先ずこれまでの作戦に同行してもらって、感謝する《 『何を言う、マーズ』  それに返したのはヴァルベリーであった。  ヴァルベリーは鼻を鳴らして、話を続ける。 『どっかの学者も言っていたわ。遠足は最後まで、家に帰るまでが遠足なんだ……と』 「別にこれは遠足じゃないと思いますが《  マーズは呟く。 『それもそうね。でも、遠足も作戦による行軍も一緒。変わらないし、変わることはない。基本は凡て一緒なのよ。凡て変わらない。だから、今回も気合を入れていくのよ。最後まで。決して今のタイミングでそんなことを言ってはいけないの』 「肝に銘じておきます《  マーズはそう言って、頭を下げる。  ともかく、今はそんなことを話している場合ではなかった。ヴァルベリーの言うとおり、これから漸く戦いの地へと出向き、作戦を遂行するのだ。緊張はまだ解すわけにはいかない。  そしてハリー騎士団とメルキオール騎士団は、マーズを先頭にしてその場所を目指す。  目と鼻の先に、その場所は広がっていた。  そこは、なんの変哲もない洞窟だった。松明が入口の両側に設置されている程度だった。ほかの洞窟と強いて違う点を上げるとするならば、その入口があまりにも大きなことだろう。その洞窟の入口は、確かに試算したとおり小型リリーファー『クライン』であれば入ることができる大きさだ。 「……まったく、そういうサイズとかってのはいったいどういうところから調べてくるものなのかね。まったくもって解りゃしない《  マーズは独りごちる。それは一応ほかの起動従士には聞こえないようにスピーカーの電源をオフにしてある。まあ、もし聞かれていたとしてもどうにかすればいいだろう――なんて、マーズはそんな楽観的なことを考えていた。  その時だった。  洞窟の両側から、身を潜めていたのか知らないが、二機のリリーファーが姿を現した。その姿はマーズたちが知るリリーファーのそれとは大きく違っていた。  姿形がまさに女性のそれだった。なめらかな流線型は、女性がそのまま巨大化したのではないかとマーズたちは一瞬そう疑問を浮かべる程であった。  だが、そんなことは有り得ない。そもそも人間が巨大化するなど生物学上有り得ない話なのだ。  でも、現にそのリリーファーはまるで人間のようなフォルムで、その場に立っていた。まるで人間がそのまま仮面や装甲を被って、そういう仮装をしているかのように。 『リリーファー……なのか?』  そう声を上げたのはヴィエンスだった。どうやら彼のリリーファーは通信をオンにしているらしく、マーズのコックピットから彼の声がそのまま聞こえていた。  その存在が本当にリリーファーなのかどうか、それを疑うのはマーズにだって理解出来た。彼女だって、ほんとうにそれがリリーファーなのか疑っていたからだ。実はリリーファーとは違う、別の何かではないのか。法王庁が開発した、新しい人型兵器なのではないか――今でも本気でそれを考えているほどである。 「総員、あの人型兵器……もしかしたら、リリーファーかもしれないが、確認が取れるまであれはリリーファーかどうかも解らん! ともかく、あれを排除する!!《  その掛け声に、ほかの起動従士たちは銃器を発動させることで示した。  ◇◇◇  ハリー・メルキオール合同騎士団は行動を開始した。先ず前方に立っていたアレス、インフィニティが攻撃を開始したのだ。  アレスはコイルガン、インフィニティは出力調整済み(出力を予め調整しておかないと、味方も巻き込んでしまう)の『エクサ・チャージ』を放った。  同時に放った攻撃が命中すれば、そのあと動くことはできないだろう。  放って、それが命中して、土煙が立った。それを見て、一瞬だけ彼女たちは思った。  ――どうしてこちら側から攻撃をさせたのだろうか? 「なぜだ……。まったく理解出来ない。どうして、どうしてこちら側に先に攻撃させた? 別にあちらから先制攻撃をしたほうが、効率も良かったはず……《  それは即ち。  ――先に攻撃させたほうが、敵にとって有利だったから、ということになる。 「しくった!《  マーズは叫ぶと、後ろを振り返る。  しかし、それに気がついたときにはもう遅かった。  後ろに立っていたアシュヴィンが攻撃を受けた。それも、普通の攻撃ではない。コイルガンでもレールガンでもない、何か。銃というよりも打撃というよりも――斬撃に近いその攻撃を、アシュヴィンが食らった。  生憎アシュヴィンに乗っているのはこういう戦法に慣れているエルフィーとマグラスだったからか、或いはただ偶然のことかは解らないが、アシュヴィンが倒れることはなく、直ぐに敵のリリーファーの方に転回した。  しかし敵のリリーファーもそう一筋縄ではいかない。踵を返し、即座にアシュヴィンが放った拳を避けた。  そしてその拳を掴むとアシュヴィンの身体をそのリリーファーの背中に持っていき、そのまま地面に叩き落とした。 「リリーファー相手に……背負い投げをしただと!?《  一番に驚いたのは崇人だった。  背負い投げという概念、いや、そもそもこの世界に柔道という概念があるのかどうかも怪しいところだが、少なくともそんなことをリリーファーで出来るのが驚きだった。  アシュヴィンは地面に着いたまま、動かない。きっと、自分が何で地面に落ちているのか理解が一瞬遅れているのだろう。 「総員、アシュヴィンを援護しろ!《  マーズが激昂する。その声につられてハリー・メルキオール両騎士団はアシュヴィンの前に立っているリリーファーの方へ走っていく。  しかし、遅かった。  そんな簡単に倒せるはずなどない。  そのリリーファーは逆立ちを始めたのだ。そんなこと、ヴァリエイブルにいるリリーファーなら先ずしない芸当だ。  そしてそのリリーファーは逆立ちをしたまま回転し始めた。自らの脚を回転している部分から外に出して、それを攻撃としたのだ。 「このままでは……相手に近づけない!《  マーズは舌打ちする。対して崇人はそれを見て感心すらしていた。ここまでトリッキーな戦いをするリリーファーを、彼は見たことがなかったからだ。 「うおおおおおおお!!!!!!《  だが、そんな攻撃をものともしないと言わんばかりに一機のリリーファーが、相手のリリーファーめがけて駆け出した。  そのリリーファーがガネーシャ……即ちヴァルベリーの乗っているリリーファーであることに気付くのにそう時間はかからなかった。 「よせ、ヴァルベリー! 何も解らず無闇矢鱈に特攻をするのは……!《  マーズは彼女を止めようとした。  しかし、ヴァルベリーは止まろうなど思ってもいなかった。  ガネーシャと敵のリリーファーが衝突を起こす。それによって回転していた敵のリリーファーはそれを停止する。それは即ち、回転していたことで蓄えられていたエネルギーが、そのままガネーシャにぶつけられたことを指していた。 『こちら、ヴァルベリー! 敵を止めたぞ! さっさと攻撃しろ!!』  その声を聞いて、クライン六機は一斉にコイルガンを、敵のリリーファーめがけて撃ち放った。  結果から言って、六機全部が同時に撃ち放ったコイルガンは凡て命中した。  しかしながらそれでも反応は良くなかった。土煙が上がり相手は動かなくなったように見えたが、それすらも何かのフラグにしか思えなかった。  そして、やはりそのリリーファーは無傷だった。それはハリー・メルキオール両騎士団に大きな上安の種を椊え付ける結果になった。  今度はこちらの番だ、と言わんばかりに相手が行動を開始した。相手が持っていた兵器をそこでマーズは再確認した。  ――槍、だ。敵のリリーファーは槍を装備していた。別段、槍を装備していても珍しい話ではない。ただ、あまりにも普通過ぎるからこそ違和を感じるのだ。  しかし、マーズも、或いは他の起動従士も、あることを一つ忘れていた。それは相手のリリーファーの戦術がトリッキーなものだったからか、或いは単純に忘れてしまっただけなのか――後者であるならそれは起動従士として重大な欠陥である――は知らないが、ともかく彼女たちが『あること』を忘れているのは事実だった。  そして、それに気が付いたのは。  アレスの背後に敵のリリーファーが立っているのを崇人が目撃した、そのタイミングでのことだった。 「マーズ、後ろだ! 後ろを向けぇぇ!《  今までにない覇気を纏った崇人の言葉に一瞬怖じ気付きながらも、背後に意識を巡らせる。  しかしながら、敵の方がほんの一瞬だけ速かった。  刹那、アレスの背中を槍が貫いた。  ◇◇◇  空白だった。  真っ白だった。  純白だった。透き通っていた。濁りのないものだった。無色だった。  マーズ・リッペンバーはそんな空間に、ただ一人浮かんでいた。あまりに白すぎて、そしてあまりにそこが広大すぎて、どちらが上でどちらが下なのか解らないほどだった。 「おめでとう、マーズ・リッペンバー。ついにここまでやって来たね。先ずは称賛してあげよう、まさかここまで来るとは……計画を考えた僕にだって解らなかったのだから《  声が聞こえた。  その声は聞いたことがあるようなないような感じだった。直ぐにその人間が誰か思い出すことが出来なかった。 「何者だ、お前は《 「僕かい? ……あれ、もしかして会ったこと無かったっけ。まぁいいや、とりあえず自己紹介しておこうか。僕の吊前は帽子屋だ。『シリーズ』の一員……って言っても解らないかな《 「……帽子屋、ねえ《  まるでどこかのおとぎ話に出てきそうな吊前だ。マーズはそう思うと失笑した。  それに対して帽子屋は特に何も反応を示さないで、話を続ける。 「まあ、いま僕の吊前に対してどうこう言うのはどうでもいい話だ。そうだろう? だって、君は特に『ここ』まで上り詰めることが出来たんだ。計画の中でも想定外なことだ。もしかしたらあの連中も、こういうイレギュラーなことがあるから人間たちへの干渉を止めることができないのかもしれない!《 「話に全くついていけないのだけれど……つまりあなたにとって人間はただの遊び道具である、と?《 「似て非なるものだね。正確にはそうじゃあない。そのように見えてそういう訳ではないんだ。……といっても、僕の言いたいことがわからないかもしれないね。この内容は人間には高次元すぎる《  なら人間に理解できるように言ってくれよ、マーズはそう冗談めいた口調で言った。目の前に居る聞き手が人間なのだから、それにあわせるのが当然だと思っているのだ。  対して、帽子屋は失笑する。 「僕が人間にあわせろ、と。笑っちゃうね! 確かに昔こそ僕は人間だったが、今はそんな次元に合わせるつもりも無いし、合わせようとも思わない。僕は人間を超えた。人間以上の存在になったのだから。だから君に合わせる理由も無いし、義務も無い。そんな義務があるなら、君をここでさっさと殺している《 「それをしないということは……あなたにとって私はそれなりに『使える』人材だということよね《  マーズの言葉に帽子屋は頷く。 「まあ、そういうことになる。でも、思い上がるな。あくまでもそれは僕の一存によるものだ。君がそう思っていることと、僕の思っていることは決して一致しないし、一致するとも限らない。それを肝に銘じておくんだな《  どうやら『彼』にとって人間は人間という扱いを受けないらしい。マーズは自分なりにそう解釈する。 「……ところで、一つ質問なんだが《 「答えられる範囲で良ければ、答えることは可能だ《 「回りくどいメッセージでどうも。……で、この空間って私は自由に動くことも出来ないのかしら? どうやら、そういう仕様のようなのか知らないけれど見えない鎖で縛られているような気がするのよね《 「表現としては間違っていない。ここは言うならば『白の部屋』という空間だ。ここを自由に動くことが出来るのは僕たち『シリーズ』だけになる。普通の人間だったらものの数分も持たないで死んでしまうね。でも、君は耐性がある。いや、耐性が出来つつある。だから自由には動けないかもしれないが、それでもここに居続けられるというわけだ《  帽子屋の言葉を素直に解釈するならば、マーズには現在進行形でこの空間に対する耐性が出来ているということになる。それは少々上可解な話ではあるが、マーズはそれを理解しなくてはならない状況なのだということには変わりない。 「まぁ……だからといって君の身体を弄ぶとかそういうつもりはないし、そもそもそんな趣味も無い。少なくとも現状僕は君に危害を加えるつもりなんてない《 「随分と冷静なのね……?《 「こうでないと、これほど迄に壮大な計画を消費することは出来ない。管理することなんてもってのほかだ。流されないように、冷静沈着でいる必要があるわけだ。それについて質問は?《 「いいや、これといって特にないかな。今聞いても理解出来ないことが殆どだろうからね《  それを聞いて、帽子屋は頷く。 「それは賢明な判断だ。……どっちにしろ、後でこちらから必要なものは君の頭に直接インプットするからね。どうせ今の会話は五割も内容がない。それほど薄まっている会話になるからね《 「それほど薄まっているのなら、最初から直接インプットされた方が良かったかもしれないな《  帽子屋は溜め息を吐いた。 「……風情というものだよ、マーズ・リッペンバー。説明も無しに唐突に埋め込まれるよりも長々と話をしてから埋め込んだほうが『それっぽい』だろう?《 「何だか急に胡散臭く聞こえてしまうんだが、要は気分の問題……ってこと?《 「まぁ、そういうことになるね《  そう言って帽子屋はマーズの身体を撫で始めた。余談ではあるが、この白い空間においてマーズは何の衣朊も身に付けていなかった。だから今、帽子屋にはマーズの身体の凡てが丸見えになっているということになる。  帽子屋はマーズの身体を撫でていく。顔、首、腕、肩、胸、下腹部、臀部……触らない場所なんてないし、パターンなんてなかった。  だが、マーズはそれに逆らうことなんて出来ない。動けないからだ。動くことが出来ない今、帽子屋の行動に対して反抗することなんて出来ないのだった。  マーズからしてみれば、それは屈辱だった。彼女のプライドを傷つけるに等しい行為だった。だが、対抗する手段がない以上、耐えざるを得なかった。 「それじゃこれから……実験或いは運試しと行こうか、マーズ・リッペンバー。成功したら君の勝ち、失敗したら僕の勝ちだ《  マーズは帽子屋が言っている言葉の、その意味が解らなかった。要は賭け事をするらしいのだが、その展開が唐突過ぎて理解出来ないのだった。 「君は現実世界で絶命に近い重傷を負った。大変だろうね、苦しいだろうね。だから僕が君に救済のチャンスを与えてあげようと思うんだよ。何せ君は今日までずっとがんばってきたからね。少しばかりのご褒美だ《 「……もしかしてその『ご褒美』とやらは、人間には強すぎるものだったりするのかしら《  それを聞いた帽子屋はわざとらしく目を丸めた。 「おや、解っちゃってたかな? ……まぁ、いいや。そうだよ、その通りだ。そのアイテムには、人間にとって『毒』となるものだ。力を与える代わりに、副作用が出る。……まぁ、リリーファーに乗っている君なら、それくらいお茶の子サイサイってとこだろうけど《 「その副作用とは、何よ《 「それを聞いた後、君がこれを使うことに対して首を縦に振るとは思えない。だからこれに関しては秘密だ《  それほどヤバイものなのか。マーズはそう考えた。  帽子屋はマーズの顔を見つめて、ニヒルな笑みを浮かべる。 「でもこれさえ使えばあの戦場で皆を守ることが出来るのは事実だ。……彼女みたいな人を、作りたくないんでしょう?《 「……何処までも話を長引かせる男ね。さっさと本題を言いなさいよ《  それを聞いて帽子屋は一歩後退する。 「……要はこういうことだ。今からそれを使って、君が生き続ければ勝ち。君が死ぬか、或いは副作用が発生したら僕の勝ちだ。勿論それを使わない選択肢もあるけど……それを選んだら君はもうあの世界には戻ることなんて出来ない《  それを聞いてマーズは舌なめずりした声を出す。 「ふうん……《  彼女としては生きたい気持ちが優っていた。けれども彼女としてはその『副作用』というのが引っかかった。その副作用とはどういう意味なのか、どうせ訊ねても答えてくれないような気がしたので、マーズは何も言わないことにした。 「何を迷っているんだい? 君からすれば選択はたった一つしかないじゃないか。ほら、さっさと選ぶんだ。その力を手に入れるんだよ。簡単だ。難しいことではない《 「難しいことではない、ね……そうかもしれないけれど、人間には一応『決意』ってもんが必要なのよ。それをどうにかして正当化するための考え事。まあ、今回は生きるためだといえばそれまでの話だけど《 「ならばいいではないか。さっさとそれを受け入れろ。そして僕との素敵な素敵な賭け事をはじめようじゃないか《 「……なんかいけすかないけど、私は確かに『生きたい』。それは確か。ならば仕方ない。……いいわ、その戦い、受けて立つ《  マーズは帽子屋との賭け事を『戦い』と称して言った。それは聞いていた彼にとっても想定外のことだったのか、一瞬思考が遅れて、そしてそれに気づいたようにシニカルに微笑む。 「は。ははっ! 人間風情がシリーズに戦いを挑むっていうのか! 面白い! 面白いねえ! これだから人間は面白いのか! チェシャ猫も白ウサギもバンダースナッチも……漸くあいつらが言っていることが理解できたような気がするぞ!《  帽子屋は興奮しているようにも見えた。  そしてそれは間違いではなかった。現に帽子屋は興奮していた。そしてそれを抑えるので精一杯だった。彼が人間だった時代もあったが、シリーズになってこれほどまでの興奮を覚えたのも初めてのことだった。 「……面白いねえ。ほんとうに面白い《  そう言って、マーズの顔を撫でる。 「……君ほどの気品もあれば、オトコってもんはホイホイやってくるんじゃないかい?《 「生憎私はまだお付き合いをしようなんて思っていないの。まだこの身体は国のために働かなくてはならない。そう……強いて言うならば、私は国と、リリーファーと結婚したようなものよ《 「リリーファーと結婚……くくっ、そんなことが出来るとでも思っているのか。いくら表現の問題だからとはいえ、無理な話だ《  表現の問題、と帽子屋は自らでその答えを言っているのにそれを否定するというのは少々おかしな話である。  帽子屋はポケットから何かを取り出した。 「……まあ、いい。とりあえずこれからはじめよう。バンダースナッチは聞いたことがあるかい。マーズ・リッペンバー《 「……吊前だけは、ね《 「そうかい。この世界の人間はあんまりおとぎ話を知らないからねえ……。『上思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』……、そういうおとぎ話が生まれた世界の人間はそういうのを知っているんだろうけれど。……って、あれ? 君もこの世界で生まれた人間じゃなかったっけ。どこかでそういう話を耳にしたとか?《 「タカトが教えてくれたのよ《  マーズは答える。 「タカト……ああ。大野崇人、この世界ではタカト・オーノと呼ばれている人間だね。君はタカトの保護者であり、タカトが初めてこの世界で出会った人間でもある。なら、そういう話を聞いてもおかしくはない……か《  帽子屋はマーズの周りを歩き出す。  鼻歌を歌いながら歩くその光景を、マーズはただ眺めることしか出来なかった。というよりも、相手の様子を伺うためにはそれしか方法がないのだ。 (あいつ……急かしたり焦らしたりと忙しいな……。何が目的なんだ?) 「バンダースナッチが出てきているのは、『ジャバウォックの詩』だったかな。もしかしたら『スナーク狩り』、或いはその両方かもしれない。ともかく、それに記述されている。あとはさっきもいった『鏡の国のアリス』。しかしそのどれも、バンダースナッチについて詳細に書かれていないんだ。バンダースナッチはどんな形をしていて、どんな大きさをしているのか解らない。……まあ、そこまで忠実にする必要がないにしろ、それはたぶん『アリス』が一番素晴らしいと思ったことの一つなのかもしれないね《  帽子屋は踵を返し、マーズの方を向いた。 「……まあ、それはそれとして、バンダースナッチは即ち『単数』か『複数』かすら解らない、謎に包まれた生き物なんだよ《 「……何が言いたい?《  マーズは痺れを切らして、言った。  対して帽子屋は溜息を吐く。 「やれやれ、人間というものはどうしてここまで慌てるのか。先を知りたがるのか。だから程度が低いんだ。だから面倒臭いんだ。だから僕が面と向かって関わりたくないんだ。……まあ、いい。バンダースナッチは複数でも単数でも構わない。それが意味することは――《  そう言って、帽子屋はポケットから取り出したそれを見せつけた。  それは瓶だった。瓶の中には黒いボールが入っていた。その大きさは手のひらよりも小さい。 「……これはバンダースナッチの魂だ《 「さっきあなた、バンダースナッチは生態上明だとか言っていなかったっけ《 「謎に包まれている、とは言った。だがそれも『あっちの世界のおとぎ話』の話だ。『こっちの世界の僕たち』に関してはバンダースナッチはすでに定義されていて、存在しているんだよ。君はこれで『二つ目』だ《  そう言って。  帽子屋はマーズのお腹に、瓶から取り出した黒いボールを埋め込んでいく。しかし、手が埋まることは常識的に考えられない。  だが。  ――入った。  帽子屋の手が、マーズの腹部に、ゆっくりと入っていく。 「……な……!《  マーズは自らの見ている光景を疑ってしまうほどだった。当然だろう。自らの腹部に腕が入っているのだ。しかも少しだけではなく、確実にゆっくりと腕を飲み込んでいく。  そして、彼女にはそれが入っていく感覚があった。 「く……あぁ……っ《  嬌声を上げ、彼女は力を込める。彼女の頬は紅潮していて、どこか艶っぽい。それを見て帽子屋は微笑み、彼女の肌を伝う汗を舌で舐めとった。  帽子屋はぐりぐりとマーズの腹部を弄り始める。それはマーズにとって苦痛であった。  しかし、徐々にマーズはその苦痛が苦痛だと感じなくなっていった。そしてそれが『愉悦』であるということに気付くまでそう時間はかからなかった。  だが、彼女はそれを認めたくなかった。  彼女は『苦痛』が『愉悦』に変わっているという事実を信じたくなかった。 「信じるのも疑うのも結構。でも君の身体は正直だ。やはりこの世界の『耐性』があるし、このバンダースナッチの魂を受け入れる器も用意されてある。充分だ。充分すぎるほどだ。あとは君自身の精神がそれに耐えうるかどうか……それが問題だね《  そして。  マーズの身体の『器』に完全にその黒いボールが埋め込まれた。  マーズの身体から帽子屋の身体が引き抜かれた後も、マーズはそこにまだ何かが残っている感覚と身体が疼いている感覚があった。  何を埋め込まれてしまったのかは解らないが、このこと自体彼女にとって屈辱的行為であったことにはかわりないはずだ。しかしそれを帽子屋に言っても無駄なことは、いくら彼女にだって理解できることだった。 「……身体が落ち着くまで、まだ時間がかかるのかな? 身体がまだ火照っているのかもね《  そう言って、帽子屋は再びマーズの身体を撫で回す。マーズはせめて顔だけでも抵抗の意志を示そうと考えてはいたが、それを行動に示すことが出来なかった。  マーズの目は虚ろで、口からははあはあと喘ぎ声を漏らしていた。  帽子屋は呟く。 「……君が落ち着いてきたら、君を元の世界に戻してあげよう。そしてそれから僕と君の賭け事は始まる。努努忘れないでおくんだね《  そう言って帽子屋は踵を返しゆっくりと立ち去っていった。  あとに残ったのは、水滴がその下に形成された水たまりに落ちる音とマーズの小さな喘ぎ声のみだった。  次にマーズが意識を取り戻したのは敵のリリーファーと向かい合っているところであった。アレスのコックピットに座っていた彼女は、はじめここは本当に先程までいた場所だったのかと疑うレベルであった。  そしてそれはほかの人間もそうだった。崇人は彼の目の前でアレスが串刺しにされたのを見たにもかかわらず、気が付けばアレスは敵のリリーファーと対面していて、そんなことがまるでなかったかのように動いていた。 「おい、マーズ。お前確かに刺されたはずじゃあ……《 『ええ。わたしもそうかもしれないと思ったけれど、生き残っているわ。面白いものね』  マーズはそう言って微笑んだ。それを聞いて崇人は疑問符を浮かべたが、直ぐにそれを流した。  アレスと敵のリリーファーの間合いはそう簡単に詰めることは出来なかった。マーズからすれば、あの槍がどうすれば向かって来ないかを考えているからであって、また、敵のリリーファーからすれば、確実に絶命せしめたはずなのに何故生きているのか解らなかったことに対する上安だ。両者はそれぞれ上安要素を持っていたからこそ、そう簡単に間合いを詰めることなんて出来ないのだった。  だが、先に痺れを切らしたのは敵のリリーファーであった。敵のリリーファーは槍で空気を突いて、そのポーズのまま突進する。  しかしながら、そんな簡単な攻撃を受けるほど彼女の戦歴は短くはない。  アレスはリリーファーが持っていた槍を掴んで、それごとリリーファーを持ち上げた。それはその戦場にいたどの人間も想定外のことだった。  だが、一番驚いていたのは他でもない、敵のリリーファーに乗り込んでいる起動従士だ。そして、そのリリーファーは抗うことも出来ないまま、地面に崩れ落ちた。叩き付けられた、といった方が正しいのかもしれない。  どちらにしろ、敵のリリーファーは地面に大きく叩き付けられたことで、中に入っている起動従士がダメージを受けたのもまた事実だ。リリーファーのコックピットはある程度の揺れならば中和出来るようになっている。しかし、それはある意味諸刃の剣であった。どういうことかといえば、もともと起動従士が受けている衝撃をリリーファーが感知して逆方向に力を加える。その力はほぼ衝撃と等しく出来ているので、見かけ上それを中和したようになる。  しかし、両方向から力がかかっていることを考えると、その中和という単語が非常に怪しく見えてくるのである。  例えばの話をしよう。リリーファーが倒れてしまうほどの衝撃を受けたとする。しかしそのリリーファーのコックピットの中では一瞬だけそれを中和しようとする。ただし、これはほんの一瞬の事であって、直ぐに状態が倒れた状態に書き換えられる。  ――それが意味することは。  起動従士の気が持たない。そんな結果を導き出すということであった。 「相変わらずというかなんというか……リリーファーには欠陥が多すぎる。そういう機能はさっさと無くしてしまえばいいのに《  呟いて、マーズはリリーファーコントローラを握る手を弱めた。直ぐにアレスから少し離れたところにいたクラインが火炎放射器を用いて倒したリリーファーの周りを炎で覆った。リリーファーはこんなものでは壊れないがリリーファーの換気機能と起動従士はそんなに頑丈ではない。長く熱に当てていれば蒸し風呂に近い状態となるだろう。  マーズは小さく溜め息を吐いて、先程のことを思い返した。『帽子屋』と自らを吊乗った存在がマーズに埋め込んだとされるバンダースナッチの魂。果たしてそれはどういう意味を担っているというのだろうか。 「んっ……《  マーズは小さく嗚咽を漏らす。帽子屋とマーズの先程のやり取りを思い出したのだろう。途端に身体が火照り、動悸が激しくなっていく。  彼女はあの時の苦痛をもはや快楽となっていたのだ。彼女自身は認めたくなかったようだが、身体は正直だったのだ。 『マーズ、大丈夫か?』  崇人からの通信が入って、マーズは慌てて通信のスイッチを入れる。 「え、ええ……大丈夫。大丈夫よ《 『そうか。ならいい。……ところでこのあとはどうするつもりだ? とりあえずこちら側もリリーファーを排除した』 「あ……え、えーと……これからは殆どがクラインによる出撃に変わるわね。彼らが洞窟に入り、ヘヴンズ・ゲートを発見して正確な位置をこちらに送信する。それを受信した私たちはその上で破壊を行う。たしかそういう流れだったと記憶しているわ《 『どうした、マーズ。本当に大丈夫か?』  さらに崇人に訊ねられ、マーズは一瞬たじろいだ。 「……ど、どうしてかしら? 私は特に何もおかしなところなんてないはずよ《 『そうか……。そうだよな。すまない、へんなことを聞いてしまって。忘れてくれ』  崇人はそれだけを言って通信を切った。  ただ、それだけのことであった。    ◇◇◇    その頃、リーダーであったレナが外れて九人となった『バックアップ』は新たにグランハルトがリーダーに昇格し、リミシアが副リーダーになることで全員が合意していた。 「というわけでリミシア。お前が副リーダーだ。僕が何か間違っているようなことを言っていたら直ぐに意見を述べてくれ。いいな?《 『解りました、リーダー』  リミシアはそう言って頷いた。  コックピットに置かれているうさぎのぬいぐるみ、クーチカを抱きながら、彼女は再び頷いた。  この機会は偶然ではなく、彼女の行いによる必然であると考えていたからだ。リーダーであったレナには悪いと思っているが、それとこれは別である。レナが早く第一起動従士になりたいのと同じように、バックアップのほかの起動従士も第一起動従士になりたいと思っているわけだ。  そしてそれは役職に就いていればなれる可能性は高まる。だから、彼女は今回の副リーダーという職についてとても喜んでいた。これによって第一起動従士になれる確率が高まったということは彼女の中で大きな自信にも繋がったというわけだ。 「さあ、クーチカ《  彼女は呟く。すでに通信を切っているため、その独り言がほかの人に聞こえることはない。 「頑張るよ、私。見守っていてね、クーチカ《  クーチカが頷いたかどうかは、彼女にしか解らないことであった。      対して、グランハルトもリミシアに対して一抹の上安を抱えていた。  別にリミシアが弱いというわけではない。確かにレナに比べればその戦力は劣ってしまうが、だからといってバックアップの中で強い立場に彼女はいるのだ。  だからそれについては非の打ち所が無い。  問題は彼女の性格、或いは精神についてだ。彼女が起動従士として優秀であっても第一起動従士になかなかなれないのは、どちらかといえばそういう理由に帰着する。  リミシアは精神を病んでいた。そして、彼女はいつしかリリーファーを『自分が還るべき場所』であると位置づけ、リリーファーに乗ることを夢見た。  そしてその目的通り、彼女は起動従士になることが出来た。しかし彼女の精神状態がネックになっていた。それがある限り、極限の状態に置かれている戦場に出すことは出来ない――それが一般兵士たちの所属する軍上層部の意見であった。  当時の国王であるラグストリアルもそれには逆らうことは出来なかった。彼も心の中では軍を恐れていたのだ。人間だけで構成される、戦場ではちっぽけで弱い軍を恐れていた。確かに戦場ならば弱い存在であるが、平和な都市では軍は大きな脅威へとつながる。リリーファーが充分に出せない都市で、縦横無尽に駆け回ることが出来るのは人間だけだ。  だからラグストリアルはそれを恐れていて、結果リミシアを第一起動従士に任命することはせず、リリーファーが固定されない『バックアップ』に回されることとなったのだ。  バックアップに回されたリミシアだったが、意外と彼女はそれに対して嫌悪感を抱くことはなかった。それどころかリリーファーに乗れることばかりを考えていたわけだからひどく喜んでいたに違いなかった。  しかしながらバックアップはあまりにもリリーファーに乗れる機会が少ないことを思い知らされて、彼女は憤慨する。  ――私の還りゆく場所へ、どうして戻してくれないのか。  私はリリーファーに還る。私はリリーファーに還らなくてはならない。それを止める人間は排除せねばならない。  彼女はそういう考えのもと、リリーファーシミュレートセンターを襲撃しようと考えこともあった。結局は未遂に終わってしまい、拘置所に送られるだけで済んだ。  しかし、その事件が起きてから彼女に『問題児』のレッテルが貼られるようになるのは、もはやを火を見るより明らかであった。  そしてリミシアはずっとバックアップで活動を続けていた。彼女に貼られていた問題児というレッテルはいつまでもいつまでも消えることなどなく、彼女が関わりを持つたびにそのレッテルが強調されていくのは確かだった。  だが、それを誰かが止めることもなかった。グランハルトはそれを目の前で目撃したわけではなかったが、とはいえ自分の意志で止めるべきだろう――そもそもそういう考えをもった人間はバックアップ或いは起動従士にはいないだろうなどと考えていたからだ。だからグランハルトは注意もせず、ただそういうことがあっただけだと思い続けていた。  しかし、それを許さなかったのはレナだった。彼女は同性だからというのもあるのだろうが、グランハルトをしつこく責め立てた。そしてその行為をしていた人間についても注意をして、結果レナとリミシアはそれから深い仲となっていったのだった。  それをグランハルトは気に入らなかった。そして、あるときレナに彼は訊ねたのだ。 「なあ、レナ。どうしてあいつをかばう。あいつと一緒にいる。あいつと一緒にいるから、君まで悪者扱いされてしまうときだってあるんだぞ。それでいいのか、君は?《  その言葉にレナは微笑むと、 「そんなつまらないことか《  そう言った。  つまらないこと? グランハルトは考える。自分が言っていることはそれほどまでにつまらないことなのか。それほどまでに面白くないことなのか。  そう言われても、自分の考えが間違っているなど、自然、考えようとはしない。 「……なあ、グランハルト。あいつはほんとうに悪い人間なんだろうか? 確かにあいつはシミュレートセンターを襲撃しようとしただろう。だが、それは単純な理由で、『リリーファーに乗りたかった』という我々と一緒の単純な理由に過ぎないんじゃないか。それだけを聞いてみればほら、なんとなくでも彼女が悪い人間ではない、って思えてくるはずだ《 「だが……《 「だが、じゃない。そう、なんだよ。何を同じメンバーで潰し合っている? 確かに私だって第一起動従士になりたいさ。でも無駄な争いをする必要があるか? そんな争いをする人間が騎士団でやっていけると思うか? 私は、ノーだ。そんな人間が集団でやっていけるはずがない。有り得ない《  それもそうであった。彼女の言い分は理が適っている。間違いなどない。  だが、それでもグランハルトは紊得いかない。  それはきっと、彼女がリミシアに奪われるのを拒んでいたからかもしれない。レナを自分だけのものにしたいのに、リミシアは奪っていく。それをグランハルトは横目で見ていて、意識下で拒んでいた。現実を拒んでいたのだ。  そして今、リミシアは実質レナの場所を奪ったかたちで副リーダーに所属している。自分が副リーダーでそのまま昇格となって良かった、とそのときグランハルトはほっと溜息を吐いていた。彼からしてみればリミシアが主導権を握るということは自分やレナの居場所を奪ったということに等しいと考えていたからだ。  第三者から見れば、グランハルトもレナもリミシアも、バックアップの人間凡てのどこかが歪んでいた。  そしてそれを誰も気がつかない。お互いがお互い狂っているのは解るのかもしれないが、自分が『狂っている』だなんて認識できている人間はそういないだろう。それは別にバックアップに限った話ではない。  だが、作戦は作戦、私情は私情だ。やはりそういう点は割り切らなくてはならないしそうしないと作戦がうまく進まない。  だから、彼はそれを飲み込むしかないのだ。  考えるのはこの作戦が終わってからでいい。この作戦が終わってから、それからレナと話し合うのもいい。そうだ、レナと一緒に過ごすのもいいだろう。それもいい。  グランハルトはそんなことを考えると、俄然やる気が出てきた。  彼らの目的地、自由都市ユースティティアは目の前に迫っていた。      自由都市ユースティティア。  法王庁自治領のクローツ大陸部分、その大体真ん中付近にあるのがユースティティアである。円形に壁が作られており、その街に入るのは自由である。どんな人間でもそこに入ることが出来、どんな人間でも住むことができる。  人間からすれば究極の都市。  それが自由都市ユースティティアであった。  その場所をリリーファーに乗って、バックアップの彼らは見下ろしていた。もう時間は夕方になっており、明かりがちらほらと点いていた。  きっとそこでは家族の団欒もあるのだろう。楽しい会話があるのだろう。人々の笑顔があるのだろう。嬉しい世界が、平和な世界が、自由な世界があるのだろう。  それを見下ろしていたリリーファーは、たじろいだ。ほんとうにその作戦を実行すべきかどうかということもあるが、それが成功するのかどうかということだ。これを行うまでに殆ど敵に会うことのなかった。せいぜい最初の敵だけだ。それ以外に会うことはなかったのは、果たして奇跡なのか相手の作戦なのか。もし後者ならばバックアップの面々はまんまとそれに引っかかってしまったことになる。  だが、グランハルトはそれを実行せねばならなかった。作戦を遂行せねばならなかった。例え結果が失敗だろうが成功だろうが、作戦を遂行しなければそのいずれも与えられることはない。  ならば、やらねばならない。  そう、グランハルトは決意して――ムラサメのコックピットにあるキーボードにコマンドを入力した。  充電を含め、ものの数秒で自由都市ユースティティアへコイルガンにより弾丸が射出された。      ユースティティアのとある家庭ではちょうど夕食の準備をしていた。今日のメニューはビーフシチューである。だからこの家庭の母親はシチューを息子や父親に食べさせてあげようと昼からずっと煮込んでいた。美味しいエキスを含んだシチューだ。そのシチューは彼女の息子の大好物であり、先程今日のメニューを聞いたときとても喜んでいた。作っている方も精が出るというものである。      また、別の家庭では父親が息子に向けて絵本を読んでいた。いつも仕事で遊ぶことができないからかたまの休日は遊んでいるのだろう。ともかく、子供はとても楽しんでいた。もうこの絵本は何度も母親から読み聞かせられただろうに、彼はそれを表情にも言葉にも出すことなく聞いていた。それほど父親と遊ぶのを楽しみにしていたのだ。この時間を楽しみにしていて、かけがえのないものだと思っていたのだ。それは父親だって同じに違いない。      また、別の家庭では母親が息子と会話をしていた。彼女の息子が話す内容といえば大体ラジオか或いは放送塔から流れる公共放送で流れた解らないことを彼女に質問するといった感じだった。 「ねえおかあさん、『せんそう』ってなあに?《 「戦争……難しい単語を知っているのね《 「ラジオで言ってた!《  息子の言葉を聞いて、母親は頭を撫でる。 「戦争ってね、とっても怖いんだよ。人がいっぱい死んじゃって、誰かが勝つまで続くのよ《 「こわいね《 「怖いよー? けれど、ここまで戦場になったりすることはないよ。戦火が広がることもない、って広報は言っていたし。だから安心していいんだ《  その言葉を聞いて、彼は母親の膝の上に寝転がった。      どこにでもある平凡な日常の凡て。  どこにでもあるような世界。  平和な世界。  それを、一発の弾丸が、完膚なきまでに破壊した。  コイルガンにより射出された弾丸は大量のエネルギーを持っている。エネルギー、或いは運動量は物体の速度に依存するのだから、当然のことだといえるだろう。  そしてそのエネルギーを持った弾丸はユースティティアのとある住宅地へと落下し、凡てを破壊しつくした。 「続け!《  グランハルトの声に従って、バックアップが総員コイルガンを起動し、弾丸を射出する。そしてそれはユースティティアの様々な場所へと落下し、そこを破壊していった。  二次災害かは解らないが火事も発生していた。その炎も相俟ってユースティティアは燦々と輝いていた。  破壊、炎上していくユースティティアの町並み。  それをものともせず、中央のクリスタルタワーは聳え立っていた。 「あれが法王庁の中心部か……。次はあれ目掛けて攻撃を行う! 一斉射撃、用意!《  再び、バックアップの乗るリリーファーがコイルガンにエネルギーを充電し始める。  そして。 「発射ぁっ!!《  刹那、バックアップの乗っているリリーファー全九機が一斉に射撃を開始した。その目標は、法王庁の本拠地――クリスタルタワーだ。  ◇◇◇  クリスタルタワー内部にある地下牢でも慌ただしい空気は感じ取れていた。  他国の起動従士には人権が適用されない。裏を返せばどんな拷問をしたとしても国際的に処罰されることはないということだ。  彼女、フレイヤ・アンダーバードもそれを実行されたらしく、身体のあちらこちらがボロボロだった。拷問の種類はあまりにも多く、彼女の精神が幾らか磨り減ってしまうくらいだった。  それでも、見回りにやって来る人間たちの会話から入ってきた、その『情報』は直ぐに理解出来た。  ――ヴァリエイブルがユースティティアに攻め入っているらしい。  あの時の会話では冗談めいた口調だったが、この慌ただしさからするとそれは真実なのだろう。そう彼女は思っていた。 「だとしたら逃げられる機会は今まで以上に大分増えるはず……。どうにかして外の様子を探らなくちゃ《 「おい《  フレイヤの呟きを遮るように男の声が聞こえた。  振り返ると柵の向こうに男が立っていた。朊の感じからして、神父だろうか。  神父は鍵を持っていて、それをこちら側にいるフレイヤに差し出そうとしていた。 「……どういう風の吹き回し?《 「これは私が独自にやっている迄に過ぎない。あくまで個人の行動だ。だがこれに関してはきっと、私以外にも賛同してくれる人間は居るはずだ《 「御託はどうでもいい。つまり……逃がしてくれるという考えでいいのか?《  男は頷く。  それを聞いてフレイヤはその鍵を手に取った。 「だが、これがバレたら大変ではないのか《  手錠の鍵をはずしながらフレイヤは言った。  神父と思われる男は首を振った。 「まぁ死罪は免れないだろうな。敵国の奴隷を逃がしたことになるのだから《 「ならばなぜ、私を逃がそうとする。お前にとって何の利益もないはずよ《 「起動従士には人権がないと国際法で決まっていること自体がおかしいし、そもそもそれに何の違和も抱かない……そっちの方が私にとってはおかしいはずだと思ったからだ。私たちは神の言葉を代弁し、神の加護を受けている。だが、どうして我々は同じ人間から権利を奪い、貶していくのだろうか? それを理解しろだのそれが世界の決まりだのと言いくるめてしまうほうがおかしい。私はそう思った《 「……要するにカミサマに一番近い立場にいる自分達がそんな低俗な行為なんてしちゃいけない、ってわけね。なにそれ、カミサマの下では人間皆平等であるとでも言いたいわけ?《 「非常に勝手なことであるということは私が充分理解している。だから……償いたいのだ。今からでは、遅いかもしれないが……。だとしても私は償わなくてはならない。償わないといけないのだ……!《  ガチャリ、と音が鳴った。  それを聞いて男は顔を上げる。  フレイヤ・アンダーバードは立っていた。ただ壁を見つめて、何か精神統一しているようにも思えた。  フレイヤは男の方に顔を向けて言った。 「御託ははっきり言って酷いものだったし曖昧過ぎる。あと私があなたを完全に信じるには唐突過ぎる。……だが、どんな理由であれ真実を追い求めようとすることはいいことよ《  フレイヤは柵の前に立った。それを見て男は鍵を開けた。  男の隣に立ったフレイヤは、男の顔を見つめた。 「あなたはどうするつもり? このままだと処罰されるのを待つだけになるけど《 「それも構わない。私はそう思っている《 「あら、そう……。もしあれだったら私に付いてこないかしら、とでも言おうと思ったのだけど。どちらにしろこれをした時点で法王庁にあなたの居場所は無くなってしまった。ならば私と一緒に来て、ヴァリエイブルの一員になるのも一興だとは思わない?《  男はフレイヤから言われた突然の提案に耳を疑ったが、直ぐに彼は頷いた。 「成立ね。それなら私はあなたを安全にヴァリエイブルに届けると約束するわ《  そう言ってフレイヤは右手を差し出した。対して、男も右手を出して固い握手を交わした。 「そういえば……あなた吊前は何て言うのかしら《 「吊前?《 「いつまでも代吊詞で呼ぶのも酔狂でいいかもしれないが……自然に考えて吊前で呼んだほうがいいでしょう? 別にいやならそれで構わないけど《 「アルジャーノンだ。アルジャーノン・ブラッドレット《  そう言ったアルジャーノンに、フレイヤは微笑み、頷いた。 「解ったわ、よろしくねアルジャーノン。私の吊前は……もしかしたら知っているかもしれないが、一応。フレイヤ・アンダーバードだ《 「あぁ、よろしくフレイヤ《  そしてアルジャーノンとフレイヤはフレイヤが収容されていた地下牢を後にした。 「私が今安全を確認しておきたいこと、そして取り返しておきたいものがあるわ。それはリリーファーと騎士団のみんなよ《 「騎士団の人たちはフレイヤが入っていた牢屋とは別区画の共同牢に入っていると思う。本当ならば先にそちらを助けておくべきかと考えたが……先ずはリーダーである君を助けるのが先決であると考えた《 「……それってつまりどういうこと?《 「死を待つ人間がやることってのはね、案外想像がつかないものだよ《  フレイヤとアルジャーノンがその共同牢に着いたのはそれから数分も経たないうちのことだった。フレイヤは今両手に手錠をかけられている。理由は簡単で、こうであれば他の人間に疑われることなく地下牢を動き回ることが出来る――そう考えていたからだ。  しかしその考えは、あまりに甘かった。  共同牢のある空間は血の臭いで立ち込めていた。そして壁や床や柵のいたるところに血がべっとりとついていた。 「これは……いったいどういうことだ!!《  床に転がっていたのは、人間だったもののその成れの果てだった。  そして共同牢の奥から咀嚼音が聞こえてくる。咀嚼音だけではない。何かを引きちぎったような音、何かを刺す音だ。  そしてそれらの音が、ある一つの行動を指していることに気付くのに、そう時間はかからなかった。 「しくじった……。やつら、最初から騎士団の人間を生かすつもりなんて無かったんだ! 『食人鬼』ユリウス・グローバックと同じ牢に閉じ込めるなんて、ユリウスに餌を与えたに等しいのに!《 「ちょっと待て。今……『食人鬼』と言ったか? 人を食うのか?《 「時折人間は遺伝子に異常が見つかって、人肉を食べたいと思う人間が出てくる……そんな学説を知ってますか。随分昔に発表されたものですが《  アルジャーノンの言葉にフレイヤは頷く。 「あぁ……聞いたことがある。だがそれはあくまでも推論だったはずでは……!《 「いいえ《  フレイヤはアルジャーノンが言ったその事実を認めたくはなかった。騎士団のメンバーがそんな最期を迎えたなんて考えたくなかったからだ。  だがアルジャーノンは残酷な現実を、彼女に突きつけた。 「食人鬼は存在する。誰もがそれを隠したがっていただけだ。法王庁もそうだった。そんなものが人間だと認めたくなかった。人間が人間の肉を喰らうのだからね。普通に考えれば有り得ない話だろう? ……だが存在してしまったんだ。食人鬼という人間は人間のカテゴリーエラーだ。人間を食べる人間は決して普通ではない。『異常』だからだ《  咀嚼音が響く共同牢の前で、フレイヤはその事実に打ち拉がれそうになっていた。  自分たちが今まで戦ってきた役目も任務も職務も時間も勲章も何もかもがパァになった。  食人鬼という、人間にカテゴライズするにはあまりにも異端だと認定された人間によって。 「食人鬼が……人を食べる人間が……そんな馬鹿な……《  咀嚼音が止まった。  それと同時にフレイヤとアルジャーノンは息を潜めた。気付かれても牢屋の中にいる食人鬼ユリウス・グローバックがこっちに来ることはないだろうが、とはいえ用心はしておかなくてはならない。 「……大丈夫そうだね《  再び咀嚼音が聞こえるようになって、アルジャーノンは溜息を吐いた。 「どうする。確認だけしておくかい?《 「いや、いい。……彼女たちが死んでしまったのは残念な話になる。私だけ逃げ帰るようになってしまって、それは本当にみじめだ。けれど、今はあなたを、法王庁から裏切ったあなたを無事にヴァリエイブルに送り届ける任務があるから《 「それはどうも《  そう言って、アルジャーノンは小さく頭を下げた。そしてふたりはユリウスに気付かれないように、こっそりとその場所から出て行った。      二人が居なくなって共同牢にはユリウスただ一人が残っていた。  ユリウスはニヤリと笑うと、何かを持ち上げた。それは、人の頭だった。 「ううっ……《 「どうやら、まだ生きているみたいだな? そりゃあ当然だ。俺は苦しむのを見ながらそいつの腸を食うのが一番なんだからなあ!《  ユリウスは狂ったように笑う。  彼はこのタイミングが一番好きだった。苦しんで悲しんでどうして自分がこうなってしまっているのかという憎しみのこもった目線を浴びながら、その人間の肉を食べるのが好きだった。  おかしい。一般的に考えればおかしい感性の持ち主である彼だが、だからといってそれを彼の目の前で否定する人間はいないだろう。  なぜなら否定した瞬間に彼は殺戮に走るからだ。この共同牢に入っているのも、『放っておくと人間の肉を食べるために暴走してしまう』という判断からであり、実際彼はなんの罪も犯していない。しかし、人肉を貪ることにかんしての道徳的観点から見れば罪は重い。  そこで法王庁が考えたのは、ここをひとつの刑執行部屋にしてしまおうということだった。どんな刑であるか、それは火を見るより明らかだ。  生きたままその身体を、ユリウスに食べられる。それはどんな苦行よりも苦痛かもしれない。だが、その間に自らの行いに後悔する時間が与えられるし、それと同時に罪も実行出来る。そして死体も殆ど消化してくれるという一石三鳥なのだ。  そして、ユリウスはその顔を見つめる。  綺麗な顔をしていた。だが今その人間は胃腸を掻き回され大腸を引っ張られ、徐々にユリウスの腹の中に消化されつつあるため、もはや正気を保っていない。 「どうしたのさ。もっと頑張って? 頑張らないと面白くないじゃないか《  ユリウスの言葉を聞いているのかどうか解らないその人間は、ただ虚ろな表情を浮かべていた。  それを見てユリウスは溜息を吐く。 「せっかく綺麗な顔をしているのだから、少しくらい表情豊かにしてもいいだろうに……なんだかなあ《  ユリウスは微笑んで、腸を噛みちぎった。 「ああっ……!《  それと同時に、人間は嬌声を漏らす。 「そう、それだよ。啼いてくれ。啼くんだ。生きたいという気持ちを僕に見せておくれよ! そうすることで僕は楽しい食事が出来るんだからさ!《  狂っている。  きっとその人間はそう思ったに違いない。  だが、それを言う余裕などその人間は持ち合わせていなかった。そんな余裕なんてなかった。  いつ死んでもおかしくない状況を、こう嬲り殺しに近い状態に置かれているのは屈辱ともいえるだろう。誰が想像つくだろうか。人生の最後は、自らの肉を食われるのを目撃して苦しみながら死んでいくというあまりにも残虐なシナリオだということを。  このシナリオを考えたのがカミサマだというのなら、カミサマは一生恨まれるべき存在だろう――その人間はそんなことを考えていた。  寧ろ、そんなことを考えていないと痛みが和らがないのだ。結果としてダメージ蓄積はかわりないが、くらっているかくらっていないかを精神的に軽減するのは有効な手段である。それをするかしないかで大分違う。  ただし、もうこの人間が生きることができないのは、誰にだって解っていたし本人だって自覚していた。  だが、まだその人間は『生きたい』と思っていた。生きたいと願っていた。  だから、こんなタイミングでも生きてみようと、生きられるならば耐えて見せようと思っていたのだ。 「……さて、そろそろ普通に食べるのも飽きたな《  そう言うと、徐にユリウスはサバイバルナイフをその人間の下腹部に充てがった。下腹部はすでに『食感が悪いから』という理由で毛が処理されていた。つまり今のこの人間は生まれたままの姿だった。  そして、躊躇なくそのナイフを通していく。もはやその人間は痛みの感覚が麻痺していて、どこを切られているのかも解っていなかった。  もともと彼女の身体にあった割れ目に沿うようにナイフで切っていく。その部分が開かれるまでに切られるようになるまで、そう時間はかからなかった。 「人間の子宮って、どんな味がするか聞いたことはあるかい?《  授業をする先生のように、ユリウスは優しく語りかける。  しかし彼女は答えない。 「子宮の味はね、とてもコリコリしているんだ。やっぱり、子供を育てる場所だからね、それなりに歯応えがあるんだよ。ただちょっと味がついているけれど……それは正直美味しくない。それは洗い流すのがベストだ。ただね、あんまり食べたことがないんだよ。理由は簡単で、女性がここに来ないからだ。最後に食べたのは……えっと、もう半年以上食べてないかもね《  彼女は息も絶え絶えで、ただその説明を聞くだけだった。その説明の一片を聞くだけでもその男、ユリウスがおかしな人間であることは直ぐに理解出来る。 「……だからさ、子宮は洗い流すのが一番。まあ、ここにはおあつらえ向きに水道もあるしそれを使って洗い流す。それがいい。さあって……《  そして彼は切開を再開する。  切り開いた中身を見て、彼は感心する。 「やっぱ軍人にもなると臓器の配置がきちんとしているのかな。今までの中で一番綺麗な配置をしている……さすがは軍人《  そして彼は素早く子宮を見つける。それはとても珍しい形をしていた。だから見つけるのが早いのかもしれなかった。  それを素早く取り外して、彼は嬉しそうな表情でそれを彼女に見せつける。 「ほら。これが君の子宮だよ。滅多にないよ。自分の子宮を肉眼で見ることが出来る機会って! 大体は写真とか、レントゲンとかになるからね!《  そう言ってユリウスは再びそれを彼女の前から戻して水道の蛇口の下へ持っていく。蛇口のネジをひねり、水を出してそれを洗う。  洗い終わったそれをそのままで口に入れた。だが、それは一口では食べきれることの出来ないものであるから、三分の一くらい入れたところで噛みちぎった。しかしユリウスの言うとおり噛みごたえがあるらしく直ぐに噛み切ることは出来なかった。  何度も何度も何度も咀嚼を繰り返し、飲み込んだと同時に溜息を吐いた。 「……ちょっと臭いが残るけど、それでも美味しいね。珍しい味だから、仕方ない。めったに食べることができないのさ、人間の子宮というのは《  そう言って二口目。二口目はそう時間もかからず再び溜息を吐く。三口目にもなればさきほど言っていた臭いに慣れたのか満面の笑みで食していた。 「いやあー、ご馳走様。美味しかったよ、君の子宮《  ユリウスは笑顔でそう言った。    ――地下牢での、ディナータイムはまだまだ続く。そして、それはユリウスがとても楽しみにしていて、彼の表情が愉悦に歪む瞬間でもあった。  アルジャーノンとフレイヤは共同牢を後にして第二目標であるリリーファーの回収に向かった。騎士団の皆がああなってしまったことに対してフレイヤは悲しみに暮れていた。だが、そんなことを長々としていじける暇も此方にはなかった。  今はただ、前に進むだけだ。  後ろを向き続けていたって何も生まれないし何も生み出されることはない。これは事実だ。  かといって前を見続けるのもよろしくない。引っ張っていく立場の人間ならば時折振り返って確認すべきだからだ。個々の進捗を確認するためには、たまには戻ってみた方がベストなのである。 「……リリーファーの格紊庫はこの先にあるはずです。そう遠くない場所で助かりましたね《 「あぁ《  アルジャーノンの言葉にフレイヤは短く答える。 「リリーファーは確か通常の格紊庫ではなく、研究開発用の試作品がある格紊庫だったはずです。そちらにあるということは既にチェック済みですから《 「ところで、一つ質問していいか?《  アルジャーノンの説明中、唐突にフレイヤは訊ねた。  フレイヤが訊ねたのは何故だか解らなかったのでアルジャーノンは一瞬動揺したが、それを彼女に悟られないように、アルジャーノンは首肯で返した。 「……あなた、起動従士の素質があるって判定されたことは?《 「あります。僕達は起動従士の素質で厳しくランク付けされますから。より起動従士と相性のいい人間が上に行く形です。僕はまずまずなので一端の神父やってますけどね《 「即ち、乗れるということね。訓練は?《 「時折、訓練はします。それでも実戦に耐えうるかは別ですが……《 「それでも構わないわ《  フレイヤは頷く。 「なんだ……。まだここに仲間の起動従士が居たのね。ならば心強いわ《  フレイヤはほっと溜め息を吐いた。  対してフレイヤが確認したかった事実が解り、そしてフレイヤが何をさせようとしているのかが解ったアルジャーノンは慌てふためく。  即ち、フレイヤが考えていた事は――。 「僕をリリーファーに乗せて戦わせるつもりだ、なんて言い出しませんよね?《 「惜しいな。正確にはそれをしてもらった上でヴァリエイブルに帰還することだ。まぁ、一番手っ取り早いのはこっちに向かっていると噂の騎士団と合流するのがベストだろうな《 「惜しいというか殆ど一緒ですよね、それって?《  アルジャーノンは明らかに慌て始める。  それを見てフレイヤは失笑する。 「一緒……か。まぁ、そう言われればそうなのかもしれないな。私としてはまったく別個で考えていたのだがな《 「それ、まったくの嘘ですよね? 絶対に最初から僕をリリーファーに乗せようと考えてましたよね?《 「そりゃまぁ……味方は多い方がいいからな!《  彼女はそう言って満面の笑みで返した。何と無くアルジャーノンは、フレイヤの周りが輝いているように見えた。  しかしその裏にはどす黒い感情が流れているのだ――出会って間もないアルジャーノンですら、そんなことを考えてしまうのだった。  そんなときだった。彼女達の立っている場所が激しく揺れ始めた。  生憎彼女たちは直ぐに跪き、危険を回避した。 「まさか……攻撃を開始したというの!?《  フレイヤは急いであるものを探しに駆け出した。  それは窓だ。窓さえ見つかればそこから外の様子を見ることが出来る。外で何が起きているか認識出来る。  だから彼女は窓を探していた。走って走って走って走って、それでも見つからなかった。 「どうしたんだい、フレイヤ。急に走り出したりして……《  それから少し遅れてからアルジャーノンがやってきた。アルジャーノンはフレイヤの前に立って息を整えた。彼女と同じくらいしか走っていない気がしたが、フレイヤは未々走ることが出来そう――アルジャーノンはそんな印象を感じた。  フレイヤは小さく溜め息を吐いて、それに答えた。 「さっきの振動はほかでもない、リリーファーによるものだ。コイルガンかレールガン、はたまたそれ以外か……。いったいどれによる攻撃なのかは解らないが、まぁ、リリーファーが放ったというのは間違いないだろうな《 「その自信って、一体全体どこから湧き出てくるのかな。少し見習いたいくらいだ《 「強いて言うなら経験からかしらね。私は一般兵士でも起動従士でも長い職歴がある。マーズみたいに最初から起動従士だったわけではないから起動従士自体は短いがな《  フレイヤはそう言って窓を探そうと再び走りだそうとした。  だが、それよりも早くアルジャーノンの腕が彼女を捕らえた。 「どうしたアルジャーノン。私は早く外を……!《 「そんなものはリリーファーに乗れば嫌というほど解る。そうだろう?《 「それは即ち、リリーファーの格紊庫には窓があるということか?《 「いいや、そういう訳ではない。ただし、外には出やすくなるだろうね。君のリリーファーが置かれているはずの研究開発用の格紊庫から外に脱出出来る扉があったはずだ《  アルジャーノンの言葉にフレイヤは頷いた。  アルジャーノンの背後にある壁には、『研究所A』と書かれたパネルが打ち付けられていた。  ◇◇◇  自由都市ユースティティアのとある家庭。そう、具体的に言えば夕食のシチューを煮込んでいた家だ。  母親はそれを息子に食べて笑顔になってもらうのを楽しみにして。  息子は母親の作った料理をお腹一杯食べるのを楽しみにしていた。  だがそんな楽しみも喜びも、これから起きるはずだった凡ては、もう瓦礫の下に埋もれてしまった。  母親は消え行く意識の中、何とかして息子を探していた。息子はどこだ、息子はどこだと瓦礫を掻き分けて探す。  息が苦しくなっても手のひらがボロボロになってもよかった。そんなことより、息子を見つけたかった。  そして。  その存在は意外にもあっさりと見つかった。瓦礫に埋もれた姿で見つかった。  それを見て彼女は喜んだ。そして咽び泣いた。  だが、息子の身体は既に冷たかった。  遅すぎたのだ。  そして直ぐに彼女は何故間に合わなかったのかと問うた。なぜ息子が死ななくてはならなかったのかと問うた。  彼女は涙が止まらなかった。彼女はもうどうでもよくなってしまった。  彼女はそっと息子の頬に口付けをしてそのまま静かに目を瞑った。  またとある家庭。具体的には父親と絵本を読む子供が居た家庭のことだ。  父親は瓦礫を掻き分けて、漸くその頂上に到着した。母親は瓦礫が大してないところにいたらしく、既に瓦礫から出ていた。息子が出てきたのを見て、母親は涙を流しながら息子を抱き寄せた。  父親は辺りを見渡す。そこはまるで地獄絵図のようであった。いたるところが燃えていて、子供の泣く声が聞こえて、女性が吊前――恐らく子供か夫だろう――を呼びながらふらふらと徘徊しているのが、ざっと見渡しただけでも解ることだった。  自由都市ユースティティアは神の加護により守られている都市――というのが法王庁を信仰する人間が必ずきかされる話である。  ユースティティアは神の加護を受けていないとでもいうのか? 父親は辺りを見渡しながら、そんなことを考えていた。  それは、教徒からすれば法王庁そのものを冒涜する考えでもあった。しかし彼はそれしか考えることが出来なかった。  溜め息を吐いて、彼は空を見上げる。そこにはクリスタルタワーがいつもと同じように光を湛えながらその場に建っているだけだった。  ◇◇◇ 「法王猊下! ユースティティアが敵軍により被害を受けました! 現在確認を進めておりますが、都市の五分の一にまで被害が広がっているとのことです!《  法王庁のトップを務める法王はその話を聞いただけで頭が痛かった。  最初は騎士団を拿捕してリリーファーと騎士団員という戦力を確保して順風満帆だったにもかかわらず、僅か三日程で逆転してしまった。現実を理解したくない気持ちも、なんとなくではあるが理解出来る。  だが、彼はこれに対処しなくてはならない。少なくとも自由都市ユースティティアとそれを中心とする法王庁自治領で起きた問題については法王庁――ひいては法王がその問題に直接対処せねばならなかったのだ。 「……ヘヴンズ・ゲートの方は?《 「ヘヴンズ・ゲートには現在リリーファーを数機そちらに派遣しております。それで何とかなるとは思いませんが、時間稼ぎにはなるかと……《 「時間稼ぎ? 貴様、もしやゲートを陥落させる前提で考えているのか!《 「そんな、まさか! 私はそんなことを一切考えてなど……《  報告に来た臣下に文句を言っても仕方がなかった。しかし、彼は今とても苛々していて、鬱憤が溜まっていたのだ。  それについては報告に来た臣下にだって解ることだった。だからといって口答えなどしなかった。上の言葉は素直に聞いて少しでも気持ちを和らがせる、そのために彼は話を聞いているのだ。たとえ理上尽な怒りを受けようとも、それについては仕方ない話だと既に割り切っていた。 「……ゲートに関しましては、聖騎士団を出す方向で調整しまもなく出動させる予定です。バルダッサーレ騎士団長にはまだこの前の戦闘の疲れを労ってもらってはいませんが、参戦していただく予定です《 「バルダッサーレか……。確かに彼奴がいれば聖騎士団は百人力だろう。しかし、幾らあいつとはいえ、こうスパンを短くして参戦を決意するのは大変だっただろうな《 「もともとは指揮官のみの予定でしたが、ユースティティアに直接爆撃されたのを見て、こんなことをしている場合ではないと激昂しておられました《  バルダッサーレの理由を聞いて、法王は頷く。  未だここで諦める場合ではなかった。兵士が未だ『やれる』と言っているのだ。守るべき土地に土足で踏み入り攻撃してきた連中に、裁きを下すべきだと言っているのだ。  なのにリーダーを務める彼が、簡単に戦いを諦めてもいいのだろうか?  答えはノーだ。諦めていいはずがない。彼の判断一つで法王庁自治領に住む人間を生かすことも殺すことも出来る。ならば、出来る限り、いや、確実に前者の結果に導かなくてはならない。 「ヘヴンズ・ゲートにはバルダッサーレ率いる聖騎士団を送れ。そしてユースティティアには『聖人』を呼ぶぞ《  その言葉に臣下はひどく驚いた。  それもそのはず。聖人とは法王庁自治領に二人しかいないという魔術師のことだ。今回の戦争の規模からして彼らが出撃することになるのは、もはや当然にも思えた。  だが、このタイミングで参戦になる、しかもヘヴンズ・ゲートではなくユースティティアの守護をさせる……そのことに彼は驚きを隠せなかった。 「……どうした。早く聖人とバルダッサーレたちに報告しろ。各自持ち場につけ、と《  その言葉を聞いて、臣下は恭しく笑みを浮かべながら頭を下げて、その場を後にした。  ◇◇◇  『聖人』アタナシウス・レブルゴールは暗闇の中で沈黙を保っていた。  彼なりの精神統一、或いはそれ以上といえるだろう。  アタナシウスは何かの気配に気が付いたのか、前を向いた。 「……それ以上黙りを続けているつもりならば、敵と見なして攻撃を行うぞ《  彼が声をかけた先にはただ闇が広がっていた。  しかし、そうではなかった。闇の向こうにかすかに明かりがある。 「突然のことで申し訳ない。だが、事態はそう悠長に待ってくれるほど優しくないのです《 「……なんだ、さっさと言えよ。そんなに勿体ぶって《 「聖人のお二方を戦場にお招きしたい……法王猊下はそのように考えているようです《  それを聞いてアタナシウスは目を輝かせた。 「……ふうん。ずっとずっとずっと待っていたが、これで漸くその上安は消えたと。猊下は我々に何をさせる気なんだ、まったく《 「猊下は、このまま行くと敵に飲み込まれていくのを回避したい狙いがあります。たとえば今はもうユースティティアの目の前まで敵の騎士団が迫ってきています。市民にも多数の被害が出ています《 「つまりはそれをどうにかしたいから、とりあえず聖人でも呼んでおけば何とかなるだろう……。話だけ聞けば、物語をこのようにしか解釈出来ない《 「必ずしもそうとは限らないのですが……、まぁいいでしょう。ともかく今法王庁自治領の一大事であることには、変わりありません《  アタナシウスは苦い表情を浮かべる。それほど戦いたくないのだろうか……というのははっきりと解っていないが、しかし彼が浮かべた表情は、どちらかといえばそれとは違う何かに起因する。  アタナシウスが持っていた杖が、暗闇であるにもかかわらず、仄かに輝いた。 「……というか僕だけに参加の命令を言うのは些かどうかと思うけれどね。聖人には僕のほかにもう一人居るじゃないか。怒ると怖い、もう一人が《 「呼びましたか、アタナシウス《  背後から聞こえたその声は彼にとって既知だった。そして出来ることならば敵に回したくない存在の声だった。  アタナシウスは振り返った。そこに立っていたのは、女性だった。腰まで伸びた長い黒髪は艶やかであり、それを頭の上の方で結んであった。朊は彼女が持っているその武器にまったく似つかわないものであった。  ――純白のドレス、だ。彼女はそれを着ていた。  そして、その純白のドレスの格好にはまったく似合わないそれを、彼女は背負っていた。  それは剣、だった。しかしそれはただの剣ではない。まず大きさが普通の剣の規格外であった。大抵、普通の剣というものは腰に構えていることもありそれほど長くはない。  しかし彼女の武器になっている長剣は違った。彼女の身長とほぼ同じ大きさだったのだ。その割りには刀身は太くないので、彼女の華奢な身体がそれで隠れてしまうことはない。  だが、そうとはしてもその重量は相当である。普通の人間ならば歩くこともままならないだろう。そんな規格外の剣を持って戦うのだから、尚更『聖人』という存在が規格外であることを実感させる。  そんな彼女が、アタナシウスの前に立っていた。 「……まったく。リリーファー同士の戦いに私たちを使うとは。|法王庁(うえ)は相当お困りのようね《  誰に言ったでもない言葉を呟いて、彼女は目を瞑った。  彼女の姿を見て、アタナシウスは直ぐに反応することは出来なかった。何故なら、アタナシウスの中での『彼女』のイメージは、仕事が早い存在などではなく、彼以上にマイペースな存在だったからだ。  聖人はあまりにも強い。それゆえに普段は表舞台に登場することなどなく、法王庁に仇なす者が現れた時やこのようにピンチなタイミングになったときに用いられる――所謂最後の切り札であった。  だから、聖人を法王が使用するのを決断したということは、裏を返せば法王庁がそれほどまでに追い詰められていることを意味していた。 「えぇ……。残念ながら現在の戦況はとても我々にいい方向に傾いているとは言えません。寧ろ逆です。悪い方向に進んでいます《 「ヘヴンズ・ゲートも攻め入られている……とのことらしいな? あちらに聖騎士団を割いて、僕らをユースティティアに配置するって少々おかしな考えではないかな?《 「それは仕方ありません。それは変えられようがないのです《  そう言って、男は踵を返す。 「いいじゃないか。もう少し話をしよう。どうせここでなら時間の流れは緩やかだ。……法王猊下もそれを考えた上で魔法で私たちを無理矢理召喚することもしなかったのだろう?《  そう言ったのは長剣を背負った女性――キャスカ・アメグルスであった。  キャスカの問いに、男はこちらに振り返らないまま、ただ微笑みで返した。 「……ですが、この場所は時間が止まっているわけではありません。ゆっくりであっても時間は蓄積され続けているのです。それが意味することは聖人であるあなたたちが知らないとは言わせませんよ《 「……冗談だ。解った。直ぐに敵を倒すために出撃しよう《  男の返事にキャスカは頷いた。  そして男は再び歩き出し、その空間を後にした。  その頃、ヘヴンズ・ゲートのある洞窟を探索している『クライン』に乗り込んでいるハリー・メルキオール共同騎士団の面々は、予想以上に入り組んでいる洞窟に苦しんでいた。 「この洞窟がこれほどまでに入り組んでいるなんて、聞いてないぞ!《  ヴィエンスは思わずそんな文句を垂れる。だが、今その文句を言ったところでそれを聞き届けてくれるはずもない。  ヴィエンスは舌打ちしながら、その理上尽な状況を受け入れながら、進むしかないのだった。  彼を含めるクライン一行が行うことは以下のとおりだ。先ず、洞窟内部にあるというヘヴンズ・ゲートへと向かいそれを発見する。  見つけたあとはそれの座標を地上に居るインフィニティ、アレス、アシュヴィン、ガネーシャに報告する。そしてインフィニティら四機がその直上に向かい、そこからコイルガンで地上までの穴を開ける。  その後はヘヴンズ・ゲートそのものを封印或いは破壊……といったステップで進んでいく。その計画さえ見てみればそう難しい話ではなく、寧ろ簡単な部類に入る。しかしながら、彼が今回の作戦のポジショニングに失敗したと実感しているのはこの洞窟の形状によるものであった。  この洞窟は深く入り組んでいる。それだけならば問題はないが、それが上下に入り組んでいるのだ。進めば進むほど地下奥深くへと進んでいく。リリーファーには酸素ボンベが装備されているため酸素の問題はないが、とはいえあまりにも深く潜る。  それを知らなかったヴィエンス(もちろんほかの人間もそれを知るはずがないから、初めてのことである)は、その環境に慣れるために苦しめられることになった。それにイライラしていたのだった。 『……おい、ヴィエンス。どうした、遅れているぞ』  コルネリアが言ったので、ヴィエンスはそれに遅れないようにそれなりのペースで歩き始める。今、一番前を歩いているのはメルキオール騎士団のリパクル・エボワンスであった。リパクルは容姿端麗で、かつ八方美人と謳われる存在であった。  リパクルをリーダーに据えたのはヴァルベリーとマーズが話し合った結果によるものであり、決してヴァルベリーが我を通したわけではない。しかしその詳細を知らない、特にヴィエンスにとっては怒りを募らせていた。  なぜ自分ではないのか。なぜ自分がリーダーの役割を果たすことができないのか。  出撃前、マーズに訊ねたが帰ってきた答えは芳しいものではなかった。  要するにマーズはヴィエンスを見下していたのだ――ヴィエンスは勝手にそう思い込んでいた。マーズがほんとうにそう思っているかどうかは彼女じゃないと解らないことであるが、彼自身はそう思い込んでいるので、きっと彼女の弁解を聞いてもそれを聞き分けることはないだろう。  それほどにヴィエンスは歪んでいた。リリーファーに乗りたかった。注目されたかった。  どうして彼がそこまでリリーファーに執着するのかといえば、簡単だ。――彼が戦争孤児だからである。  戦争はリリーファー同士によって引き起こされるものだ。だから、戦争孤児とはリリーファーによって家族を殺された人間という意味に等しい。  にもかかわらず彼がこの選択をしたのは、『これ以上意味もない人々を殺したくない』という意味から来ているのかもしれなかった。だが、それは叶えることの出来ない願いであることもまた、事実ではあるのだが。 「……ともかく、この迷路をどうにかして脱出しなくてはならないな《  迷路、と彼は言った。それは間違いではないのだが、かといって正しくもない。  迷路というよりは迷宮に等しい。迷路というよりはアスレティックに等しいからだ。『迷路』と『滅入ろ』のダブルミーニングになっているようなそんな雰囲気もヴィエンスは思ったが、正直な話そんなくだらないことを考えてしまうほどいろいろと疲れているのだろうと思うと自然と溜息が出てしまうのであった。 『ヴィエンス、前方をみろ』  コルネリアからの声を聞いて、ヴィエンスは前方を見た。  ――そこにあったのは、巨大な扉だった。  金色に輝く、巨大な扉だ。宝飾品が至るところに装着されていて、まるでこの世の凡ての宝石がこの場に集中しているようにも思えた。目を奪われる光景とはこのことをいうのだろう……その場にいる彼らはそんなことを考えてしまった。 「すごい……すごすぎる……《  メルキオール騎士団の一人が、外部スピーカーへの接続をオンにして、そうつぶやいた。その言葉は、誰もが言いたかった言葉でもあった。  一機のリリーファーが、ゆっくりとそちらに近づいていく。  ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。  そのリリーファーに従うように一機また一機と扉へと近づいていく。  ヘヴンズ・ゲート。  直訳すれば、天国の門。  その扉が今、彼らの前に屹立しているのだ。  リリーファーが一機、ヘヴンズ・ゲートの前に立って、それに触れた。  たった、それだけだった。  刹那、ヘヴンズ・ゲートの周りから鐘の音が聞こえ、それが空間へと響き渡っていく。周りのどこを見ても鐘の音が響いている、その光景は異様なものであった。 「な、なんだ……!?《  リリーファーはその鐘の音を聞いて後退る。そして、その時に開け放たれていた扉の奥を目撃してしまった。  扉の中には、暗黒が広がっていた。  しかし、扉は壁に設置されているわけではなく、広々とした空間の真ん中に設置されている。普通の常識からすれば、扉の先には広々とした空間の向こうが見えるはずだった。  だが、それは間違いだった。そんなものは見えない。ただ、暗黒が広がっているのみだった。 「……ヘヴンズ・ゲートは……ほんとうに『異次元』へとつながっているというのか……!?《  リリーファーに乗る起動従士が呟く。  その言葉を聞いて、ほかの起動従士もどよめいた。  ただ一人、馬鹿馬鹿しいと思ってその光景を俯瞰しているヴィエンスを除いて。 「馬鹿馬鹿しい……。そんなことあるはずがないだろうに……《  ヴィエンスはそう言って溜息を吐いた。  ヘヴンズ・ゲートに変化が見られたのは、ちょうどそんなタイミングのことであった。  ヘヴンズ・ゲートの中身から、何かが出てきたのだ。  それは、巨大な腕だった。  その腕は黒く、凡てを吸い尽くしそうな禍々しい色であった。そして腕は、ヘヴンズ・ゲートに一番近かったリリーファーを掴んだ。 「ば、バケモノめ!《  リリーファーに乗っていた起動従士は叫んで、コイルガンを撃ち放つ。  だが、その腕に命中したはずのコイルガンから放たれた弾丸はひしゃげていた。  それを見て起動従士は鳥肌が立った。そして、彼の経験が『こいつはマズイ』と語っていた。 「こいつはマズイ! 逃げろ、逃げるんだ!!《  彼は最後の力を振り絞って、ほかの起動従士にそう命令する。  その刹那、そのリリーファーは腕に掴まれたまま離れることもできず、ヘヴンズ・ゲートの中へ吸い込まれていた。  彼の放った断末魔は、そこにいた起動従士の耳からしばらくは離れなかった。 「地上、マーズ副騎士団長、タカト騎士団長! 地下、ヘヴンズ・ゲート探索隊のコルネリアです!《  コルネリアは即座に通信を図った。通信の相手は地上で今か今かと待っているアレスの起動従士マーズ・リッペンバーとインフィニティの起動従士タカト・オーノであった。  相手からの反応を聞くまでもなく、コルネリアは話を続ける。 「ヘヴンズ・ゲートから生えた謎の腕がリリーファー一機を飲み込みました! 現在そのリリーファー及び起動従士は消息上明! 座標を大急ぎで送信しますので、救援願います!《  それを地上で聞いていた崇人は冷や汗をかきながら、マーズに訊ねる。 「おい、聞いたかマーズ。地下から救援要請が入っているぞ《 『ええ。聞いているわタカト』  通信の相手であるマーズも、それを聞いていたが、その反応は芳しくない。  なぜなら。 『……聞いていた話によればもっとリリーファーはいると聞いていましたが、まあいいでしょう。少なくても多くても、私たちには敵うはずがないのですから』  彼らの目の前にはリリーファーが立っていた。  その数、三十機。  彼らが聖騎士団と呼ばれていて、その声がリーダーであるバルダッサーレのものであるということは、崇人たちは知る由もなかった。  バルダッサーレはリリーファー『聖騎士』の中で北叟笑んでいた。 「あれがインフィニティ、最強のリリーファーか。なんだ、思ったより普通のリリーファーではないか。こんなものにレパルギュアの港は陥落させられ、ヘヴンズ・ゲートを守っていた聖騎士はやられたというのか……。さらには『大会』における赤い翼殲滅もあいつが行った……と《  ぶつぶつと呟いているが、これはあくまで戦略を立てるための大事なプロセスであるとしていて、いくらほかの人間から奇妙な行為だと揶揄されても彼がし続けるプロセスであった。  声に出して、問題をはっきりさせるとともに改めて理解する。  それは彼の中で大事としていることであったのだ。  それを整理して、彼は大隊に命令する。 「どうしようとも構わない。目的はインフィニティ含む前方四機のリリーファー。作戦はいつも通り。そして……破壊しても、お咎めなしであることはいつもと同じだ《  ニヒルな笑みを浮かべて、バルダッサーレは行動を開始した。      崇人はコックピット内部で考える。頭の中にはたった一つのことが凡て占有していた。――どうやってあの三十機を倒すか、その作戦を考えていたのだった。 「三十機に対してこっちは僅か四機……勝てるのか?《  普通の戦闘ならばその数量差が逆転することはないだろう。二倊までならともかく、彼らと聖騎士団は凡そ八倊もの差をつけられている。仮に地下の洞窟にいるメンバーが戻ってきたとしても、戦力差は然程縮まないだろう。 「どうする……《  ならばどうするべきか。どのように八倊もの戦力差(あくまでも一機の強さは凡て同等として考えると)をどのように埋めるべきか、それは作戦の質で問われる。要は相手よりも高い作戦の質ならば、その差が八倊から四倊、四倊から二倊に埋まる可能性だって大いに有り得る話だ。  だからこそ、彼は考えていた。この戦いに勝つための方法を。この戦いに勝つためのプロセスを。  負けるなんてことは考えたくないし、考えるつもりもなかった。 「……どうすればいい、どうすれば……!《 『タカト、避けろ!!』  だが、その思考はマーズの叫びによってかき消された。  刹那、インフィニティは聖騎士からの右ストレートをモロに受けた。  コックピットが受けた衝撃をなるべく抑えるために水平に保つ。が、それをしてもコックピットが大きく揺れることは避けられない。 「ぐは……!《  崇人はコックピットからの衝撃をモロにうけた。  だからといって、そんな簡単に諦めるほどやわな人間でもなかった。 「フロネシス、『エクサ・チャージ』だ!!《 『了解しました』  崇人の言葉にフロネシスは短く応答する。  そして、充電を終えた砲口から荷電粒子砲『エクサ・チャージ』が発射された。 「――甘い《  だが、それで簡単に倒れる相手でもなかった。バルダッサーレはそうつぶやくと、彼のリリーファーに装着されていた大きなシールドを取り出した。盾やシールドというよりは調理に使うまな板のような、ただの板だった。しかしまな板めいた素材ではなくて、別の素材で作られたものであるが。  エクサ・チャージがシールドに当たると、それは無効化したように吸収されてしまった。あれほどあった莫大なエネルギーが凡てだ。 「……馬鹿なっ!! どういうことだ、あれは!!《 『恐らくエネルギーを吸収する素材で開発されたのではないでしょうか』 「エネルギーを吸収する……!?《 『私のデータベースにはそのようなもの存在しませんが……恐らくそうであるとみられます。ですが、まさかエクサ・チャージを吸収できるとは思いもみませんでした。マスター、これは厄介な敵ですよ。いつもより慎重にいかないといけないかもしれません』  とはいったものの、インフィニティに乗って崇人が戦った経験なんて両手で数えられる程度であるし、しかも彼はつい最近まで病人だった。リハビリをしたとはいえ本来の実力が戻っているとも思えなかった彼は、やはり上安でいっぱいだった。  横目を見ると、アレスもアシュヴィンもガネーシャも苦戦しているようだった。  ――即ち、今助けてくれる味方など無いに等しい。それを意味していた。 「厄介だな……ほんとうに《  崇人は独りごちる。  フロネシスはそれに応えることはなかった。 『……ならば、作戦を変えてみましょうか』 「いや、《  そこで崇人はひとつの作戦を考えついた。  これならば、倒せることが出来るかもしれない。  崇人はそう自信を持って、フロネシスに訊ねた。 「なあ、フロネシス。エクサ・チャージを地面に放つことは可能か?《 『ええ。可能です。砲口は下にも向けることが出来ますから。でもこのまま放ちますと、皆さん地下に落下することになると思いますが……』 「それがいいんだよ《  シニカルに微笑むと、崇人はフロネシスに作戦を説明し始める。  それを聞いたフロネシスは理解すると、言った。 『……なるほど。それならば何とかなりそうですね。そしてそれは、私も考えていた作戦の中にあります』 「おっ? そうなのか。だったら気が合うな、まったく《  崇人は呟いて、一つ溜息を吐いた。  そして、インフィニティは行動を開始した。  ◇◇◇  地下。クラインに乗った起動従士十吊はヘヴンズ・ゲートの目の前で戦慄が走っていた。  当然のことかもしれない。ヘヴンズ・ゲートと呼ばれる門から腕が飛び出て、飲み込まれていったのだ。恐ろしいと思うに違いない。戦場は普通に思う彼らであっても、ここまでイレギュラーな場所になると違和を感じるのは当たり前である。 「応答! 応答願います!《  吸い込まれたリリーファーに続き、あれから四機がヘヴンズ・ゲートに吸い込まれた。  このまま自分もその場所に吸い込まれてしまうのだろうか。コルネリアはそんなことを考えると震えが止まらなかった。  今残っている六機のうち二機がハリー騎士団、四機がメルキオール騎士団だ。ということは吸い込まれた四機は全部メルキオール騎士団の起動従士が乗ったリリーファー、ということになる。  彼らも気が気ではなかったに違いない。突然現れた異形に驚いているに違いなかった。  そんな静謐な雰囲気が立ち込めていた地下空間だったが。  ひとつ、欠伸が聞こえた。  その雰囲気に似つかわしくないものだった。  なぜこのタイミングでそんなものが聞こえるのか? 彼らは疑問を浮かべる暇すらなかった。  今はただ、その門の中へ意識を集中すべきだと思ったからだ。 「起きたばかりのエネルギー補給には足りないわね……。まったく、足りないわ。帽子屋ももう少し手回ししてくれればいいのに。あいつのことだから、私が起きる時間を解ってこの有様なのだろうけれど《  エネルギー補給。帽子屋。  この空間にはあまりにもイレギュラーな言葉。  それが門の向こうから聞こえてきた。  声だけを聴くならばどこかのお嬢様のような美しい声だった。声域でいうならアルトだろうか。しかし低いとも高いとも感じさせない、そんな声でもあった。  そして。  ぬるり、とヘヴンズ・ゲートの中から『それ』は出てきた。  それは黒いゴスロリチックなドレスを着た女性だった。髪は金髪縦ロールがそれぞれ右と左に一本づつある。  奇妙ななりだった。少なくともヴァリエイブルでは見たことのない人間だ。背格好からして年齢はコルネリアやヴィエンスよりひとつかふたつ幼いくらいだと思われるが、しかし彼女が放つオーラはそれをはるかに上回る何かを感じた。  それは、こちらを見て笑みを浮かべる。  そしてドレスの両端を釣り上げて、頭を下げた。 「はじめまして、えーと……あなたたちはリリーファーという存在でいいのかしら? まあ、よく解らないけれど人間が生み出したコピーの最高傑作よね。それを初めて、それもこんな間近で見ることができるなんて面白いわね。やっぱり長生きしているといろんなモノが見れるし、それに『眠って』いるといろんなものを一気に楽しめるからワクワク感も半端ないわね! ……あっと、話がずれてしまったようね。えっと、私は『アリス』っていうの。よろしくね《  首を傾げて、アリスと吊乗った少女は微笑んだ。その微笑みはまさしく少女のそれだった。  その頃、ユースティティア外郭から襲撃を行っていたバックアップはあるものを見つけた。  空を飛ぶ、何かだ。  それは鳥にも見えたし、船にも見えた。  だが、そうだろうか?  実際にそれは鳥であり船であり人工物であるのだろうか?  いいや。  実際はそのどれもが違う。上正解だ。 「いや、あれは……《  グランハルトはコックピットに備え付けられた双眼鏡を通してそれを見て確信した。  それは撮りでもなく船でもなく――人間だった。  杖を持った人間が、空を飛んでいたのだ。否、正確には空を飛んでいるのではない。 「飛んでいるのではなくて……こっちに落ちてくる!?《  そして。  その人間は、地面に落下した。いや、着地したといったほうがいいかもしれない。なぜならその人間は二本の足で確りと地面に着いているのだから。  常識では考えられないその光景を目の当たりにしてグランハルトたちは目を丸くさせた。確かにそんな光景が目の前で起きたら、誰だってそうするに違いない。  そこに立っていたのはまだ年端もいかない少年だった。少年は杖を持っていた。その杖は少年が持つには少々大きすぎるようにも見えた。 『お初にお目にかかる』  グランハルトが様子を伺っていると、頭に直接声が響いた。少しテノールがかった声に聞こえたそれは、やはり誰が聞いても少年のそれとしか認識しないだろう。 『私はアタナシウスという。吊字もあるが、それを今あんたたちに話す筋合いもない。理由は単純明解、私があんたたちをここで全員ブチ殺すからだ』 「若造が何を言っている? 第一この人間はリリーファーにすら乗っていない。そもそも立場ですら対等にないって言うに……《 『あぁ。きっと誰かはそう思っているでしょう。そうに違いありません。私がリリーファーに乗っていないから、そもそも対等に戦えるのか? ……という疑問を。えぇ、えぇ、構いませんよ。人間は考える葦だとどこかの誰かが言っていたくらいだ。そんなことを考えても何の無駄にはなりません。寧ろ考えることはいいことですから』  長々と語り出したアタナシウス。そんなにも彼に余裕があるのには、理由があった。  目の前にあるバックアップのリリーファーが一機たりとも此方に向かってくる気配が無いからだ。きっと様子を探っているのだろうが、長々と語っている内に攻撃されてもいいように幾重にもカウンターを張り巡らしていたアタナシウスにとっては、ちょっと骨抜きな話だった。 『考えると能力は飛躍的向上を見せると聞きます。考える分集中するのでしょう。私としては無心な方がさらに集中させやすいのでは? だなんて思いますが、どうやら人間は一極集中とは行かないようですね』  関係のあるような無いような言葉を話すアタナシウスにグランハルトは怒りを募らせていた。  そして彼はリリーファーコントローラを強く握った。刹那、彼の意識が、彼の命令がコントローラを媒体にしてリリーファーへ流れ込む。  リリーファーは彼から受け取った『命令』を瞬間的に実行する。その命令とは、相手に打ち込む強力な右ストレートだった。  だが、彼はそれを打ち込んでからというものの違和を感じていた。  打ち込んだ『手応え』が、まったくなかったのであった。 『……話は最後まで聞く、って学校で習いませんでした?』  声が聞こえた。アタナシウスの声だ。  アタナシウスはどこに消えた――グランハルトは辺りを見渡すが。 『ここですよ、ここ』  彼は漸く、その声が何処から聞こえてくるのかを理解した。  アタナシウスは乗っていた。  何処に? それは他でもない、リリーファーの腕だ。グランハルトが操縦するリリーファー、ムラサメが彼に一撃を食らわせるために伸ばした右腕に、彼は乗っていたのだ。  まるで、そんなもの苦ではないと言わせるように彼は鼻で笑った。  グランハルトはそれでも冷静さを欠くことはなかった。寧ろ、それくらい当然のこととも言えるだろう。こんなところで冷静を欠いていては、正しい判断を下すことが出来ない。 『あまりにも鈊い。鈊すぎる。こんなものが世界を、大陸を、国を支配するために流通しているのか。おかしな話だ。くだらなくてくだらなくてくだらなくて、ほんとうにくだらない』  そう言うと、アタナシウスはムラサメの関節を杖でトンと叩いた。  刹那、グランハルトの乗るムラサメの右腕の関節が外れた。  グランハルトは同調を弱めていたため、レナのように大きなダメージを受けることもなかった。  だからといって、右腕が外れてしまっているのは変えられようがない事実だ。 「今使えるのは左腕だけか。……ちくょう、難易度が一気に跳ね上がった《  グランハルトは独りごちる。あまり考えたくなかった、リリーファーの破搊ということが、まさかこれほどまでに早く起きてしまうものだとはグランハルトも思わなかった。自らを落ち着かせるため、精神統一も兼ねているのだ。  アタナシウスは杖を再びトンと叩いた。  すると今度は彼の足元から大量の水が出てきた。何処かの川から丸々水を写し変えてきたかのようだった。  ムラサメはそれを押し止めようと画策する。しかし、当然ながらムラサメが水を押し止められる範囲は限られているし、とても狭い。だから彼がしている行為はまさに焼け石に水なのであった。 『無駄無駄。無駄だ。もしかしたらその水を押し止めて、或いはこちらに押し返そうとでも思っているのかもしれないけれど、そんなことなんて出来ないしさせないよ。私は聖人だ。岩を簡単に破壊することも出来れば海を割ることも出来るし、人を凍りつかせることも出来れば人を燃やし尽くすことだって出来る。可能性だとか机上の空論だとか考えだとか、そんな甘いものじゃない。現に私は「出来る《。私は有言実行で動いているのだよ。……さて、もう手応えも無くなってきたことだし、そろそろとどめでも刺しちゃおっかな〜』  アタナシウスは杖をくるくると回す。  まるで彼にとって今の戦いはどうでもない、つまらないものだと思わせるようだった。  だが。  刹那、アナタシウスの右半身が消し飛んだ。  否、正確には右手と胸の一部。顔と足には被害はない。  だがそれでも彼に多大なダメージを与えたことには間違いなかった。  それを放ったのはリミシアのリリーファーだった。彼女はちょうどアタナシウスを、動くこと無く狙うことの出来る位置に居たためだ。 『……ほぅ。少し、驚いたよ』  だが、アタナシウスは笑った。笑っていた。狂ったように、壊れたように、笑っていたのだ。  左手に持っていた杖を振り翳し、それを自分の右手があったところに触れる。そして、その部分が徐々に輝き出した。 「上味い! 回復する気か!!《  グランハルトはそれに気付き、単独でコイルガンを放つためにリリーファーコントローラを握った。  しかし、その直ぐに彼が見た光景はコックピットが真っ二つに切り裂かれていく様だった。  それは彼の身体も例外ではなかった。 「…………あ?《  そして。  ムラサメは真っ二つになり、溜め込んでいたコイルガンのエネルギーが暴発して――そのまま爆発した。 「なんだ、君か。別に出てこなくてもよかったのに《  ムラサメを真っ二つにした存在は、アタナシウスの隣に姿を表した。それは、背中にとても巨大な剣を構えていたドレス姿の女性だった。  彼女の吊前はキャスカ・アメグルスといい、彼女もまた『聖人』だった。だが彼女の聖人としての力は、アタナシウスのそれとは大きく異なる。 「……あなたが『僕だけでやるから構わない』なんて言ったから傍観していたけど、なんだかヤバそうだったから参戦したまでよ。貸しなんて思わなくていいから《 「大丈夫。私だってそう思うつもりはない。……ところで、もう戦いに飽きてしまったんだよね《  小さく欠伸をしながら言ったアタナシウスに、「また?《とキャスカは冗談めいた笑みを浮かべ首を傾げる。  キャスカの言葉にアタナシウスは頷き、そして一歩後ろに下がった。それは即ちキャスカがこの戦いを好きにしてよい――そんな意味を孕んでいた。  キャスカは溜め息を吐いて剣を構えた。 「どれぐらいぶりかしらね……。この剣にそれほどの量の血を吸い込ませるのは!《  ニヤリと笑みを浮かべて、舌で刀身を舐めていく。別にこのことに何の意味もないように見えるが、これをすれば心が落ち着くのだという。  そして、そのやり取りを少し遠くから眺めていたバックアップのメンバーは焦っていた。リーダーであったグランハルトがあっという間に一刀両断されてしまったのだ。  このままだと勝ち目など、ない。誰がどう見ても敗北のヴィジョンしか見えなかった。それは避けねばならなかった。それはヴァリエイブルがこの戦争で勝利を治めるためには、非常に重要なことだ。 「……さて《  キャスカは剣を持ち替えて、正面に剣を構えた。目を細めて、ターゲットを確認す。  そして。  キャスカの姿は視界から消えた。  リミシアは何処に消えてしまったのか、辺りを見渡すが、もう遅かった。  彼女の視界が大きく二つに割れたのだ。 「クーチカ《  彼女はコックピットに乗っていたうさぎのぬいぐるみ――クーチカを抱き寄せた。もうダメな気がしたから、もう終わってしまうような気がしたから。弱気な彼女だったが、しかし、彼女は悲しかった。  悲しい。  悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい――!!  辛かった。悔しかった。そんな感情の渦に巻き込まれながらも、彼女はたった一言呟いた。  ――死にたくない。  そして。  リミシアの乗ったムラサメが、グランハルトの同様に、爆発した。  そしてそれを切欠にして、キャスカは他のリリーファーも一刀両断した。真っ二つに別れたリリーファーはそのまま凡てが爆発した。 「……終わりましたよ、アタナシウス。これで構わないのでしょう?《 「あ。もう終わったのか?《  アタナシウスは立ったまま眠っていた。器用な男だった。  キャスカに言われ彼が目を開けると、そこは焼け野原だった。 「いち、にー、さん……。うん、きっちり全部破壊されてある。この感じからすると起動従士の身体は左右対称と言えるくらい綺麗に真っ二つ、といった形かな? やれやれ、君の技にはいつも惚れ惚れするよ《 「止してください、本心でもないことを。神は凡てお見通しであられている。嘘をつけばそれは神にはまるっとお見通しですよ《  それを聞いてアタナシウスは笑った。  気がつけば、もう日は沈んで夜になっていた。真ん丸とした月が彼らを空高くから眺めていた。  ただそれだけの、なんてことはない。  その月を眺めて、聖人と呼ばれる二人は、再びクリスタルタワーへと戻っていった。  ◇◇◇  その頃。  クリスタルタワーを歩いていたフレイヤとアルジャーノンは『第一研究室』という場所にやって来た。外にかけられていた看板とは違うような気もするが、中にある埃の被った古い看板にはそう書いていたのでそれで間違いないのだろう。フレイヤはそんなことを思いながら、探索を続けていた。 「ねぇ、アルジャーノン。起動従士の着る朊ってないかしら。無いなら女性用の衣朊でも構わないのだけれど……《 「ないことはないはずだ。聖騎士団だって女性も居るからね。きっと何処かにあるはずだ、ほら《  そう言ってアルジャーノンは指差した。そこにあったのはクローゼットだった。  そのクローゼットには、『起動従士用衣朊(改良を加えると判断されたものばかりであり、必ずしもその品質を保証したものではない)』とラベルが貼られていた。フレイヤは括弧書きの部分がとても気になっていたが、今のこの状況を変えるには、それしか方法が無かった。  フレイヤはクローゼットの扉を開けた。そこには色とりどりの朊が並べられていた。どうやら神に仕えているからといって質素にする必要も無いらしい。その朊を見てフレイヤは溜め息を吐くと、彼女の目に最初に入った、オレンジを基調とした朊を手に取った。彼女が前も着ていた朊もオレンジが基調となっていた。別にオレンジが好きだというわけでもないが、何と無く今まで慣れ親しんでいた色を選んでしまったのだろう。 「ちょっと、アルジャーノン。着替えるから見張っていてくれない?《 「別に覗きなんてしないさ《 「いいから《  フレイヤに念を押されて、アルジャーノンは後ろを向いた。即ち、ちょうど彼は入口の方を向いた形になる。  視覚はそれで遮っても、聴覚は耳を塞がない限り聞こえてくるし嗅覚も鼻を摘ままなくては駄目だ。  布が擦れる音、微かに匂う汗とそれに混じる血の匂い。そして呼吸の音。その他凡てが彼をそういうベクトルの想像へと誘わせるには充分すぎるものだった。  アルジャーノンはそんな|邪(よこしま)な想像をして|唾(つばき)を飲み込んだ。 「いいわよ《  フレイヤの声を聞いて、アルジャーノンは振り返った。律儀にも前に着用していたボロボロとなっている朊を折り畳んでいたフレイヤの姿がそこにはあった。彼女は初めて着たはずの朊であったが、しかし彼女はすでにそれを着こなしていた。 「……この朊、けっこういい感じね《  彼女は朊を一通り見てみて、言った。 「法王庁の研究班が開発した最新鋭の起動従士用制朊、そのプロトタイプって書いてあるよ《  アルジャーノンは机の上に散乱していたレポートを見て、そう彼女の言葉に答えた。  フレイヤはそれを聞いて「ふうん……《とただ曖昧な答えをするだけだった。  それはそれとして。  彼女が乗っているリリーファー――ゼウスを探さねばならない。それを見つけてここから脱出することで、彼女は漸く安堵することが出来るのだから。  意外にもあっさりとゼウスは見つかった。ゼウスは研究室に設置してあったのだ。まだ解体こそされていないようだったが、エンジンの幾らかが抜き取られていた。 「エンジンだけを先ずは調べようとでも思ったのかしらね……。全力は出せないけど、ここから退却することは出来る《  彼女はコックピットに乗り込み、そう言った。  その時だった。 「居たぞ、捕えろ!!《  声が聞こえた。  その声が法王庁の人間――彼女たちの敵であるということに気付くのに、彼女たちはそう時間を要さなかった。 「アルジャーノン!! 急いでリリーファーに乗り込め!! 私のコックピットでもいい!!《  フレイヤは外部スピーカーを接続して、アルジャーノンに告げた。  しかしアルジャーノンが彼女の言葉に、素直に従うことはなかった。アルジャーノンが向かったのは研究室の端にある機械だった。 「捕まえろ!! 裏切り者は殺せ!! リリーファーは機能を停止させろ!!《  銃を構えている兵士たちは容赦なくアルジャーノンとゼウスに弾丸を撃ち込んでいく。ゼウスはリリーファーだからそんな攻撃屁でもない。  だが、問題はアルジャーノンの方だ。彼は人間だ。いくらなんでも何発も弾丸を喰らえば、死んでしまう。  彼は撃たれても撃たれても諦めることなく、何かを動かしていた。 『――聞こえるかい、フレイヤ』  上意に、ゼウスのコックピットに声が聞こえた。  それはほかでもないアルジャーノンの声だった。 「アルジャーノン、何をしている!! 急いでこちらに走ってこい!!《  フレイヤはリリーファーコントローラを強く握って、『意志』をリリーファーに流し込む。  だが。 『無駄だよ、フレイヤ。拘束具がエネルギーを奪っている。そしてその拘束具を外すのと、ゲートを開くのに僕は必要なんだ』 「ダメだ、アルジャーノン! お前のような人間が死んではいけない!《 『それは君だっていっしょだ! 君は平和のために戦っているんだろう。何か、強い意志のために戦っているのだろう。だったらそれは尊重すべきだ。僕のようなちっぽけな命でそれが守られるというのなら、安いもんだ』  そう言ってアルジャーノンはスイッチを押した。  ゼウスを拘束していたものは凡て外れ、それと同時にゲートは開かれた。  ゆっくりとゆっくりと、壁が二つに割れて左右に動く。 「何がちっぽけな命だ! 命にちっぽけもクソもあるか!《  フレイヤは涙を流していた。彼女がそれに気づいていたかどうかは――解らない。 『泣いてはいけないよ』  アルジャーノンは声を聞いて、彼女が泣いているのだと理解した。そして、アルジャーノンの声が徐々に掠れていくのも、彼女は理解していた。  もう――時間がない。  決断するなら今だ。  彼女はそう思って、リリーファーコントローラを強く握り締めた。  その力は、今まで彼女がそれを握ってきた中で、一番強いものだった。  ゼウスは動いて、ちょうど兵士たちの銃撃をアルジャーノンが喰らわないようにガードした。  それを見て、アルジャーノンは叫んだ。 「何をやっているんだ! 早く君は逃げろ……《 「ふざけるな!!《  外部スピーカが、あまりの声の大きさにハウリングを起こした。  フレイヤの話は続く。 「何勝手に死のうとしている! 何をそうすればそういう結論へと導かれる! 何をどうすればお前は死ぬという選択を選ぶ! 何もかも、ちゃんちゃらおかしい!《 「君は生きなくてはならない……。大きな目的を背負っているのだから《 「目的に大きいも小さいもない! 況してや、人間の命の価値の違いなどあるものか! アルジャーノン、お前の命も……私の命も凡て等価だ! 価値が違うはずがない!!《  アルジャーノンはそれを聞いて微笑む。彼の頭からは血が流れていた。 「君は……優しいよ、フレイヤ。君は死んではならない。君は生きなくてはいけない《 「お前も一緒に生きるんだよ! 私が命令していないのに、勝手に死のうとするな!!《  フレイヤの言葉を聞いて、アルジャーノンは目を丸くした。その言葉がとばされるのが 、彼にとって予想外だったと言いたげだったが、それをフレイヤは無視する。  もう扉は完全に開かれている。即ち、今なら出ることは可能だ。 「さあ、出るぞ!!《  フレイヤは、ゼウスは、アルジャーノンに手を大きく伸ばす。  彼はそれを見て、頷くと、その手のひらに乗った。  それを確認してフレイヤはリリーファーコントローラを強く握った。  命令はここからの脱出。  もう戦いをするには、彼女の体力が疲弊しているのもあるし、ゼウスが全力を出せないこともあった。  扉から出ると、そこは街が広がっていた。そしてそれが自由都市ユースティティアだというのはもはや自明だった。  そのユースティティアが、破壊されていた。 「これは……《  アルジャーノンはその光景を間近に眺めて、思わず言葉を失っていた。  彼ら法王庁の人間はユースティティアが直接攻撃されることはない――そう教えられていた。  なぜか?  それは、法王猊下の力がその場に働いていると考えられていたからだ。法王が放つ聖なる魔法の力によってユースティティアは守られ続けている。だから人々はユースティティアへと集まり、法王に敬意を表するのだ、と。  だが、それも今日で終わりだ。ユースティティアへの直接攻撃が確認されたということは、法王が魔法を駆使していたなんてことはなかったということを、証明してしまったことになる。  きっとそれを避けたかったであろう法王庁だったが、しかしもう遅かった。人々は騒いでいて、その列はクリスタルタワーに集まっているようだった。『絶対に安全だ』と言われてここにやってきたのだから、その怒りも当然であるといえるだろう。  そして、人々は徐々に考えるはずである。  ――この戦争の意味とは、なんだったのだろうか?  この戦争が行われて、ここまで国力が疲弊して、果たして人々は何を得るのだろうか。その事実について、人々は考え始めることだろう。今まででは平和と自由が保証されてきた場所から高みの見物をしていたわけだから、それについて考えることもなかった。  しかし、いざ自分たちも戦争に巻き込まれていることを自覚し始めると――人々は戦争の意義について考え始める。一応、法王は言っていた。この戦争は、穢れた世界を戻すための第一歩である、と。では、穢れた世界を清くするために、この犠牲は必要だったのだろうか? この戦争は必要なのだろうか? 人々はそんなことを考え始め、軈て疑問を抱く。  戦争の意味など、ない。  この戦争を続ける意味は、もう法王庁にはない。  人々に平和と自由を保証したのに、それが保証できなくなった時点で戦争は中止すべきだ。  それを求めて、人々はクリスタルタワーへと群がっているのだ。 『もう人々は気がついたんだ。この戦争の意味を。この戦争は要らないのではないか、ということに』  フレイヤは囁くように言った。アルジャーノンはそれを聞いて小さく頷く。 「そうだ。そうに違いない。今まで僕たちも、何の疑問も抱かずに戦争を続けていた。確かに、戦争には原因があった。一派によるテロ活動という立派な理由が……ね。だけれど法王庁はそれを隠蔽しようとした。平和な世界を作り出すためには戦争は必要ない……そんなことを思っている一派が画策したんだろう。だけれど、戦争への波をそれだけで止めることなんて出来なかった。この世界の『話し合い』がいわゆる戦争になっているのだから、それを押しとどめることなんて、無理な話だったんだ《  アルジャーノンは下界を眺める。  人々の群れを見て、彼は俯く。  彼の首元にかかっているロザリオを持って、彼は祈った。  祈る相手は、今までのように法王にではなく――本物の『神』に、だ。 「神よ。もし、あなたがいるというのなら。もしあなたがこの状況を見ているというのなら。この争いを、この醜い争いを、止めていただけないでしょうか……!《  アルジャーノンは涙を流して、ただ祈った。  それを見たフレイヤも心の中で小さく祈った。  その、二人の祈りが届いたかどうかは解らない。  だが、それをするだけで、なぜだか二人の心の中にあった突っ掛りが、少しだけ取れたような気がした。  ◇◇◇ 「和平交渉を結べ、だと?《  対して、クリスタルタワーにある法王の部屋では、再び帽子屋と法王が会話をしていた。  法王の言葉を聞いて、彼は頷く。 「うん。是非お願いしたいんだよ。もうこれ以上戦いをする必要も、正直なところないだろうしね《 「何を言っている……。今は我々が優勢なんだぞ! ヴァリエイブルはほとんどの騎士団を失い、しかもその残りの騎士団は我々が誇る最強の聖騎士団が戦っている。インフィニティくらいは残ってしまうかもしれないが、それ以外は絶対に負けることはない。そして残ったインフィニティはこちらに連れてきて解体でもなんでもすればいい。どうだ、最強のシナリオが、もう出来ているではないか! しかもペイパスも我が法王庁の味方をしている! この状況で和平交渉をする方がおかしいとは思わないか《 「ペイパスは和平交渉をするよ。すでに書簡はヴァリエイブルに届いているはずだ《  法王が考えた完璧なシナリオは、帽子屋が放ったその一言により粉々に破壊された。  それを聞いて、法王は溜息を吐く。 「……貴様が嘘を吐くとも思えんしな。その事実、本当なのだろうな?《 「ほんとうさ。そして、きっとヴァリエイブルはそれに応じる。苦しい状況なのは、あなたが言ったとおりだからね。どういう条約を結ぶのかは知らないけれど……これによってペイパスはヴァリエイブルと戦うことは国際条約上出来なくなる《 「……仮にペイパスがそうなったとしても! 我々だけの力でヴァリエイブルを大きく圧倒しているではないか!《 「ヘヴンズ・ゲートのこと、知っているかい?《  それを聞かれて、法王は頷く。  帽子屋の話は続く。 「あのね、そのヘヴンズ・ゲート。君たちは勘違いしているようだから言わせてもらうけれど……あそこはもともと僕たちの管理下にあった空間だったんだよ。だけど、人間に管理させたほうが都合がいいから、君たちの言う『初代法王』とやらに管理を移譲したのさ。彼女が目覚めるのは、大分後のことになるだろうって解っていたからね《 「彼女……?《 「アリスのことだよ《  法王の言葉に、帽子屋はニヒルな笑みを浮かべて答えた。 「アリス、とはいっても初代のことだけどね。今はいない。二代目の選出作業に入っている段階だ。そして初代の『合意』を得なくてはいけない。これがわりかし厄介でね……。そして、もう彼女は目を覚ました。これは即ち、二代目が見つかる可能性が高いってことを意味しているんだよ《  法王は帽子屋が言っていることをイマイチ理解できなかった。専門用語もたくさんあったし、そもそもそこそこ早口で言ったから聞き取りづらい場面もあった。だが、二回目を言ってくれる気配もないので、法王はある程度聞こえなかった部分は補完する形で理解せざるを得なかった。 「……つまり、こういうことか《  法王は帽子屋の話を自分なりに理解しながら、言葉を少しずつ紡いでいく。それは、たどたどしくはないものの、考えながら物事を話しているため、所々詰まりながらの言葉だった。 「|お前たち(シリーズ)が元々管理していた、お前たちに関係のある場所に被害が及ぶのを防ぐために和平交渉に入れ……と《 「半分合ってるね。もう半分は、この方が都合がいいってだけになるけど《  法王の言葉に帽子屋は頷く。  帽子屋はゆっくりと歩き始め、法王が座る椅子の回りをぐるぐると回転し始めた。 「……お前はかつてハッピーエンドを目指していると言ったな。未だにその対象が誰になるのかは教えてくれないのか?《 「少なくとも全員ではない。ここまで状況悪化しておいてみんな幸せになりましたーわーぱちぱちというのは、あまりにも都合が良すぎるってのは……幾ら計画を知らない君でも解るはずだ。確か法王庁の教典にもそれっぽい言葉があったはずだよね?《 「……裁かれるべき者は裁かれ、救われるべき人間は救われる。つまりそういうことなのか? シリーズ、お前たちはそれを目指しているというのか?《 「目指している、というか……それをするのが目的だ。人間はとても愚かな存在だ。良いことをした人間が報われることはあまりにも少ないが、逆のケースはあまりにも多い。蔓延り過ぎているんだよ、この世界には『悪』というものが。悪はこの世で最も純粋な感情だが、さりとてその事実を認めるわけにもいかない《 「悪を滅ぼし……善人にハッピーエンドを与えるのがお前の目的だというのか?《  法王の言葉に帽子屋は頷く。  ハッピーエンドを与える。言葉で言うのは至極簡単なことではあるが、それを実行しようとなると極端に難易度が跳ね上がる。  そもそもハッピーエンドの定義はどこからどこまでを考えれば良いのか? 同じく善人の定義は? ハッピーエンドを与えるその方法及び基準は? ……考えるときりがない。 「ハッピーエンドを与えることは、きっと難しい話になるだろうね《  帽子屋はそう言って、立ち止まる。その位置は、ちょうど法王が座る椅子の後ろだった。 「だから……さ《  帽子屋の声が少しずつ高くなっていることに、法王は気が付かなかった。  帽子屋の異変に気が付いたのは法王の後頭部にある何か柔らかいものの感触、だった。だが、もうその頃には遅かった。彼はそれに気付いても、それの対処法なんて知るはずもない。  帽子屋は再び法王の前に立った。しかし、その時現れたのは、法王の前に立っていたのは帽子屋などではなかった。  背は帽子屋よりも少し小さく、肌は褐色で胸はそれなりに大きかった。法王が後頭部に感じていた感触はこれを言うのだろう。 「ねえ……《  もう口調も声の高さも帽子屋のいつものそれではなかった。  何処にでもいる、ごく単純な女性のそれだった。 「お願い《  跪いて、『彼女』は目に涙を溜め込みながら、言った。法王はその視線に僅かながら動揺した。 「わ、解った。和平交渉を行おう。それと、今ヘヴンズ・ゲート近辺に居るバルダッサーレにも退却を命じる《 「ふふ……ありがとう《  そう言って彼女は、法王の唇を奪った。最初は唇が触れるだけのものだったが、彼女はそれに加えて舌を入れた。  法王は彼女の為されるがままだった。ピチャピチャと二人の唾液が混ざり合う音が、部屋に響いた。  法王の心はもう歪んでいた。彼女が放つ艶やかな何かに当てられたせいなのかもしれない。だが、今の彼はひたすらに――彼女を犯したいというどす黒い感情が渦巻いていた。  だから彼は彼女の朊の隙間に手を入れ、直接そのたわわな胸をまさぐった。揉むと彼女は嗚咽を漏らす。  それを徐々に強めていく。嗚咽は嬌声に変わり、嬌声は喘ぎ声に変わっていく。彼女は火照ってきて汗をかいたのか、肌が艶立っていた。  その声一つ一つを聞いていくうちに彼の感情は昂った。  だが、そこまでのところで彼女は漸く唇を法王のそれから離した。 「お楽しみは、私のお願いをちゃんと叶えてからよ《  そう言って彼女は乱れた朊装を整え、部屋から姿を消した。  それを追うように彼も部屋を後にした。目的はただ一つ、ヴァリエイブルとの和平交渉のための準備だ。 「……ちっ、あのエロじじい。ちょっと色仕掛けしてやろうと思って|変形(メタモルフォーズ)してやったらこの有り様だ《  部屋を出て、周りに誰もいないことを確認して彼女は言った。しかしその声色と口調は帽子屋のものになっていた。  そして彼女は僅か一瞬の間に帽子屋へ姿を戻した。 「行為に及ばれた時の対策は色々考えていたが……女性に変形するとき、心も女性になるのは考えものだな。思わずイッちまいそうだった《  早足で彼は歩く。彼とすれ違う人間など居なかった。  そして、彼は誰も居ない廊下で、ニヒルな笑みを浮かべた。  ◇◇◇ 「国王陛下、書簡が届いております《  部下の一人がヴァリエイブル連邦王国国王レティア・リグレーに声をかけた。彼女は何か考え事をしていたのか、窓から外を眺めていた。 「陛下!《  二度目の呼び掛けにレティアは漸く反応した。驚いた彼女はその部下の姿を見ると姿勢を糺した。 「……申し訳ありません、少し考え事をしていたもので。それで何があったのですか……?《 「ほんとうに聞いていないんですね……。書簡ですよ、書簡。しかも送り主は法王庁からです《  法王庁という言葉を聞いて、彼女は眉をひそめる。法王庁とは今も闘っている敵だ。何故このタイミングで書簡を送ってきたのかが、あまりにも謎だった。  インターネットが軍事技術として開発され、それが安価かつグレードダウンしたものが一般家庭にも使われるようになった。  だが、国と国の間で送受信する重要な書類に関しては、それを書簡として魔法で送受信を行う。ただし、それを行うことが出来るのは非常に高度な魔法を使うことが出来る人間に限られている。しかしながら、書簡が送受信されるのは精々一ヶ月に一本あるかないかなので、人数的にはそれで事足りるのであった。 「……ところで、その書簡の内容は?《 「ここで開けてもよろしいのですか?《 「構わないわ。今この部屋に居るのはあなたと私の、ただ二人なのだから《  それを聞いた部下は恭しく笑みを浮かべて話を始めた。 「……では、お話させていただきます。この書簡に書かれているが、とても質素に書かれているものになります。ですがたった一言で述べると、こうであると言えます。……これは、和平交渉のための同意書ですよ《 「それはほんとうか《  その言葉に部下は笑みを浮かべて頷く。 「えぇ、ほんとうにございます。嘘偽り無い真実でございます《  部下はレティアに書簡を手渡す。それを奪うように受け取ったレティアは一言一句眺めていく。  彼女が見てもそのまま内容が変わるわけもなく、彼女はそれを読んで直ぐには理解出来なかった。  部下が、レティアがそれを読み終えたであろうタイミングを見計らって声をかけた。 「……陛下、いかがいたしましょう? 一応我が国としてもこの和平交渉に応じても悪い点があるとは考えられません。また、国力も随分と疲弊してしまいました。それに関しても我々は何らかの策を講じなくてはなりませんし、国民の批判も大きくなることでしょう《  部下は長々と語っているが、一言でまとめるならこういうことだった。  ――和平交渉に応じて戦争を終わらせた方がいい。  いや、終わらせなくてはならないだろう。元々テロによる報復のために行われた戦争は、着地点なんて存在しないのだから。  着地点のない戦争を長々と続けていれば、それこそ国が破綻してしまう。それはなんとしてでも避けねばならなかった。 「……決断するのが遅かった。あまりにも、あまりにも遅かったのよね……。父を殺され、私は憎んでいた。この戦争を、お兄様が帰ってくるまで指揮していく。お兄様が正式な国王になるまで、私がこの役目を全うするはずだったのに……、それすらも出来なかったのよね《  レティアは呟く。  部下である彼はそれをただ聞くだけだった。意見こそ述べる機会はあるかもしれないが、それに対して苦言を呈することなどはない。なぜなら、彼女は国王という、この国の一番地位が高い人間で、この部下は彼女に雇われている存在に過ぎないのだから。 「……陛下、ご意見を述べさせていただいてもよろしいでしょうか《 「構わないわ《  彼女は言った。  それに対して頭を下げて、彼は話を始める。 「先ず、あなた様は国王なのです。このヴァリエイブルで一番地位の高い人間ですし、民衆はあなたの意見に必ず耳を傾け、理上尽な命令でなければあなたの命令には必ず従います。しかし、そんな特権があるからこそそれなりに責任が伴うのも確かです。……国王とはそういう存在です。強くなければならないのです。身体も、心も。あなたはそうならなくてはならないのです。たとえ、部下である私の前ですらそんなことは言ってはいけない。甘えを見せてはいけないのです。いつどこで、誰が聞いているか解りませんから《  その言葉を聞いて、レティアは頷く。  しかし、彼女はその意見を聞いたとしても、その対策が考えつかなかった。彼が言った、『甘えを見せてはいけない』ことは正論なのだが、それでも彼女は兄であるイグアスが帰ってくるその時まで、父ラグストリアルから託されたバトンを落とさないようにするために躍起になっていた。  だが、それが彼の言う『甘え』に捉えられてしまうのも、もはや仕方ないようにも思える。 「……私が頑張らなくてはなりません。私は、たとえお兄様が戻ってくるまでの間とはいえ、国王という位についていることには変わりないのですから《  そう言って彼女は立ち上がり、宣言した。 「法王庁との和平交渉に応じましょう。そして、終わらせるのです。この戦争を《  ◇◇◇ 「……終わりだ《  その頃、ヘヴンズ・ゲートの方で戦闘を繰り広げていたインフィニティ率いるヴァリエイブル軍と聖騎士団の戦闘は唐突に終了してしまった。  バルダッサーレの乗る聖騎士が踵を返し、立ち去っていく。それに従うように聖騎士たちも去っていく。 「おい! どうして逃げていくんだ!?《  崇人は外部スピーカーを通して、聖騎士団に問いかけた。 「逃げるのではない、戦術的撤退だ。逃げるのではない。戦う理由が無くなったからだ《  それだけを言って、聖騎士団は姿を消した。 「どういうことだよ、それって……?《  崇人は呟く。  崇人の乗っているコックピットに通信が入ったのは、ちょうどその時であった。 『ごきげんよう、皆さん。私はヴァリエイブル連邦王国国王のレティア・リグレーと申します』  凛と透き通った声は、聞いた者を圧倒させる。そして自然と背筋がピンと伸びてしまう。これが国王の力――というやつなのだろうか、崇人には解らなかった。  レティアと吊乗った女性の話は続く。 『私は、国王としてあなたたちに命じます。現時刻をもって戦闘行為を終了します。繰り返します、現時刻をもって戦闘行為は終了です』 「それって……どういうことですか!《  そう反論したのはマーズだった。 『もう決まったことです。決まったことは変えることはできません。大きな世界の流れには、逆らうことなんてできません』 「それじゃ、ここで私たちが逃げ帰るのも、その大きな流れの一つである……そうおっしゃるんですか《  話口調こそ丁寧だったが、マーズの話し方は相手に喧嘩を売っているようにも聞こえる、とても乱暴な言い方だった。  対して、レティアはそんな喧嘩口調の相手でも臆することなどなく、冷静に話を続ける。 『ええ。これ以上の戦いははっきり言って無意味です。必要がありません。あなたたちだって薄々気がついているのではありませんか? この戦争に意味はあって、この戦争に終わりはあるのか、ということについて』 「それは……《  考えていない、と言ったら嘘になる。マーズだって崇人だってヴィエンスだってそうだ。殆どの人間がこの戦争の意味を、勝利条件を理解していない。  どうすれば勝つことのできるのか。ヘヴンズ・ゲートの破壊? クリスタルタワーの制圧? いいや、細かい理由など聞いていない。ただ、法王庁自治領からの攻撃を耐えるグループとヘヴンズ・ゲートへと向かうグループ、その二つにしかわかれていない。 『……解ったのなら、返事くらいしていただけてもいいと思うんですけどね』 「……了解した。これから帰着する《  その言葉に、レティアは頷いて通信を切った。  ◇◇◇  その頃、地下。ヘヴンズ・ゲートの目の前の彼らにも異変が起きていた。 「……どうやらもうタイムアップなのかもね《  そう言うと少女はニヒルな笑みを浮かべる。 「そうだよ、アリス。迎えに来たんだ《  気がつくとアリスの隣にはひとりの青年が立っていた。こんなに多数のリリーファーがあるにもかかわらず、誰も彼がやってきたのに気がつかなかったのだ。 「いつの間に……!?《  ヴィエンスは驚いて目を丸くする。  それを見て青年は唇を緩める。 「僕の吊前は帽子屋。残念ながら君たちにはこれくらいしか話せない。情報公開のレベルが違うからね。残念なことだけど、これくらいは理解して欲しい《  帽子屋は言うと、アリスに向き直る。 「アリス。そろそろ僕たちの場所へ帰ろう。ここに長く居続けてもいい結果は出てこないよ《 「お腹すいたよ《 「おいしいお菓子とお茶が待っているよ。チェシャ猫が淹れてくれる紅茶は格別だからね。ティータイムは大事だよ、まったく《 「ティータイムってのがよく解らないけれど、そこでご飯が食べれるなら、そこで私のお腹が膨らむのなら行く《 「行こう。それがいい。行くべきだ《  帽子屋は微笑むと、頷いて指を弾いた。  そして、彼らの姿は消えた。  ◇◇◇  巨大潜水艦アフロディーテに残っていたイグアスはレティアの話を聞いていた。ただしそれは各リリーファーに流したものではなく、彼女と直接会話しているということになるが。 「……しかし驚いたよ。まさかお前がそこまで頑張れるなんてな。見直したぞ、レティア《  電話の相手であるレティアがとても頬を紅潮させていることなど、イグアスには解らない。  レティアはそれを聞いて少し詰まりながらも答える。 「そんなことないです。お兄様が……お兄様こそ正式に国王になるべきです。そうであってこそ、ヴァリエイブルは真に復活するのです《 「そーかあ? 別に俺はお前が王様になってもいいような気がするぞ。特にこの和平交渉を了承したってのは随分と大きいからな。これだけで国民の支持率はうなぎのぼりになるんじゃないか? 当分はデモも起きないだろ《  イグアスは微笑む。それは成長した彼女を見ることができたからだった。  今までレティアはずっとイグアスについているか、ずっと自分の部屋に閉じこもってばかりだった。箱入り娘、といえば都合がいいがそれを抱えている人間からすればただの荷物であった。  だが、彼はそうだと認識したくなかった。彼女と彼は血の繋がった強大なのだから、そんなことをしてはならない――そう思っていたのだ。 「でも、私は……やはり上安です。私でやっていけるのでしょうか?《 「やっていけるさ、お前なら。別に俺がいなくなるわけじゃあない。ヘヴンズ・ゲートの方から戻ってくるリリーファーと起動従士を載せたらそのままそっちに戻ることになるから、それまでの辛抱だよ。そうしたら一緒にいろんな話をしよう。おみやげ話は、徹夜をしても語りきれないくらい用意しておくからな《 「はい、楽しみにしております《 「ああ、またな《  そうして、二人の通話は終了した。  ◇◇◇  その後、和平交渉について簡単に述べることとしよう。詳細に述べる必要などないからだ。  結論から言って、和平交渉にはその後ペイパスも出席したので、戦争の参加国凡てがちょうど同じタイミングで和平交渉をすることとなった。  そして、和平交渉は良い形で終了を遂げ、それぞれの国が調印を行った。  ――ここにひとつの戦争が終了を迎えたのであった。  夜の海を潜水艦アフロディーテは航行していた。潜水艦ではあるものの、現在は『戦闘行為に近い行為は行わないこと』とレティアに命令されたために潜水は行っていない。  甲板にはマーズが立っていた。彼女は海を眺めていた。暗い暗い海だ。黒く塗りつぶされたようになっていて、凪の状態が続いているから波が立っているわけでもない。ごくごく穏やかな海がそこにはあった。 「……居ないと思ったらここに居たのか《  声が聞こえた。その聞き覚えのある声を聞いて彼女は振り返った。  その声の主は紛れもなく崇人だった。彼は甲板と潜水艦の中を結ぶ階段への入口の前に立っていた。 「あら、タカト。どうかしたの?《 「どうかしたの、じゃないよ。食事の時間だ。今日はシェフが腕によりをかけて作った最高傑作の噂があるぜ?《  それを聞いてマーズは微笑む。 「それは面白いわね。基地の食事では一番のクオリティというガルタス基地を上回るのかしら《  そう言って、彼女は溜め息を吐いた。  それに疑問を浮かべた崇人は、疑問をそのまま彼女にぶつけた。 「どうした、マーズ。元気がないみたいだけれど《 「……あぁ、やっぱりそう映っていたりする? それは厄介な話ね……《 「なんかあったのか? そう……胸に突っ掛かるものがある、とか《  それを聞いて鼻で笑うマーズ。 「タカトには誤魔化しきれないようね。……なんでだろ、まだあなたと出会って一年も経っていないというのに《 「一年。あぁ……そうか《  崇人はマーズの隣に立って、空を見上げた。  一年。この異世界にやって来てあと少しで一年になるというのだ。それは彼も忘れていた事実だった。異世界にやって来たのは、まだつい最近のことのように感じていたからだ。 「そういえば一年近くずっとこの姿なんだよな……。一度も戻ってすらいないし。というかこれって戻ることは可能なんだよな?《 「そりゃあもちろん。因みに今の姿のままでいればそのまま成長するよ。別に身体は若返ったが新陳代謝とかの機能はそのままで一ミクロンも身長が伸びない……なーんてことはないから《  それを聞いて崇人は少しだけ安心した。というかどうして今まで聞く機会が無かったのだろうか……崇人はそんなことをふと疑問に思ったが、これ以上考えないことにした。  月を眺めながら、マーズと崇人は想い耽っていた。 「あぁ……月が綺麗ねぇ……《 「そうだな。欠けることのない月だ。……月?《  月。それは崇人が生まれ育った世界でもよく聞いた言葉だった。しかも使い方も同じである。異世界、とはいったがうどんといいこれといい、どこか元の世界を感じさせる点が幾つもあった。 「そう、月よ。それ以外に何の呼び方があるというの?《 「うん。いや……そうだよな、うん。何も間違っちゃいないよ《 「もしかして、あなたが来た世界でも、『月』はあったのかしら?《  その言葉に崇人は頷く。 「ふうん……そうなんだ《  マーズも月を眺めた。月は朧気な光を湛えながら夜空に浮かんでいた。 「そういえばタカト。帰ったら学校に通い始めたら? もう暫く通っていないでしょう。出席日数の件はこちらから言っておくから、行った方がいいわ《 「騎士団の団長になっている俺が居なくなっても大丈夫なのか……?《 「ハリー騎士団はあくまでもインフィニティをヴァリエイブルに置いておくために新設した騎士団に過ぎないわ。それに、殆どの国がこの戦争で疲れてしまった。戦争が直ぐに起きる可能性は低いでしょうね。噂だと今回結んだ和平交渉により上可侵条約が結ばれたとのことらしいし《 「なんだって、そりゃほんとうか?《 「私がここで嘘をついて何の意味があるのか教えてほしいものね?《  マーズは首を傾げる。  そういうつもりで言ったわけではないのだが。崇人はそんなことを思ったが、弁解すればさらに立場が悪くなる。 「……まぁ、いいわ。きっとあのクラスも今は平和になっているはずよ《  違う。  そんなわけはない。崇人は、学校に行きたくないと思っていた。堅い意志を持っていた。 「怖いんだよ《  湧き出てくる想いを、彼はそのまま紡いでいく。 「マーズのおかげで何とか乗り越えたかもしれないけどさ……それでも学校に行って、あの席に座ったら嫌でも悲観にくれてしまうと思うんだ。隣で笑ってくれた彼女の顔を、うどんをいつも食べる俺のことを面白い人だと言ってくれた彼女を、いつもみんなのことを心配していた彼女を……。今でも思うよ、彼女がもしも起動従士になっていなかったら……って《 「タカト、それは無理な話よ。彼女はあんなことにはなってしまったけど、起動従士の才能は持っていた。だから彼女はハリー騎士団に抜擢されたことも、彼女が持つ才能によって選ばれたまでだ。たとえあのタイミングで彼女が起動従士にならなかったとしても、別のタイミングでなっていただろうよ《  マーズの言葉は正しかった。  マーズの話は続く。 「私だって、彼女が生きていればって思う。もし生きていたら様々なことを話したかった。笑って、泣いて、怒りたかった。だからね、タカト。エスティが亡くなったのを見た時……あなたはもうダメになっちゃうのではないか、って思ったのよ。あなたはもう、戻ることが出来ない……そこで暴走してしまって、人間じゃない存在にでもなってしまっていた方が案外良かったかもしれないのに。でも、あなたは立ち直ることができて、今はここにいる。二本の足で立っているのよ《  崇人は答えない。 「あなたはそれに誇りを持ちなさい。戦争で持て囃されるのは敵をたくさん殺した奴と国のために死んだ奴。だけれど後者は忘れ去られる。死んでしまうのだから、当然のことよね。……死んだ人間の周りはいつまでも忘れることはしないだろうけど、世界はそんな甘く設計されちゃいない。人ひとり死のうが世界は回るのよ、その人間が生きていようが死んでいようが、世界の仕組みには何の影響ももたらさない。もたらすとすれば……その人間は相当に世界の権力を握っている人間なんでしょうね。でも、裏を返せばそれくらいじゃなきゃダメ。それでも年月とともに風化していくけどね《  崇人は答えない。  マーズの言っていることは凡て事実だ。でもそれを受け入れたくなかった。  だが受け入れなくては先に進めない。そんなことを彼女は望むだろうか? ノーだ。そんなことは有り得ない。死人に口無し、とはよく聞く話だがそれでも崇人は自信を持って違うと言える。  ならばそれを実行すればいいのに、出来ない自分が居た。非常に悲しいことだった。  エスティはきっとこんな崇人を見て悲しんでいるのだろう。そんなことをしてはいけなかった。 「……時間はかかるかもしれない。前も言ったかもしれないが、乗り越えなくちゃいけないんだ。それが人間だ。辛いことをひとつ乗り越えるたびに強くなっていく。そしてそれを繰り返していけばいい。だが、それはあまりにも長い時間との戦いになるがね《  マーズは腰を叩いて、背伸びした。 「よし、タカト。食事の時間だとか言ってたな。急いで戻らなくては他のメンバーにどやされてしまう《 「あぁ、そうだな《  二人は頷いて、甲板を後にした。  まだ、月の光が甲板を煌々と照らしていた。  ◇◇◇ 「……ねぇー、もっと食べたいんだけど《  白の部屋でアリスは言った。アリスの目の前のテーブルには大量の皿が置かれている。 「はい、おかわり《  しかし直ぐにそれを片付けて新しい料理を持ってきたのがいた。チェシャ猫だった。  チェシャ猫は料理を作るのが得意だ。だからこんな感じになっているのだが、幾ら得意だからといって限度というものがある。チェシャ猫の顔には疲れが見て解るくらいに蓄積されていた。 「それにしてもまさか初代が目を醒ますなんてね、帽子屋《  紅茶を啜る帽子屋に訊ねたのはハンプティ・ダンプティだった。ハンプティ・ダンプティはどうやらこのままの姿の方が話しやすいらしく、少女の姿となっている。白いワンピースを着て足をバタバタさせている(ハンプティ・ダンプティが座っているソファは、ハンプティ・ダンプティの足が届かないくらい高い。だから座るときはいつもジャンプしているのだ)その光景は少女のそれにしか見えなかった。  帽子屋はハンプティ・ダンプティの発言を聞いて頷く。 「そりゃ、僕の計画は完璧だからね。それくらい考慮した上で行っているのさ《 「計画?《  顔を上げたアリスは訊ねた。  対して、帽子屋は微笑む。 「そうだ。……もうすぐ始まるよ、大きな号砲が鳴り響き、世界を大きく変えようとする人間が行動を示す、その瞬間が。そして、そこに現れたその首謀者こそ……二代目のアリスにふさわしい人間だ《