1  七二一年二月五日。  タカト・オーノは実に四ヶ月以上ぶりにリリーファー起動従士訓練学校の門をくぐった。この学校の目的が起動従士を育てるためであるため、彼が通う必要もないように思えるが、しかし卒業はしなくてはならない。この学校では一般教養も学べる。起動従士の仕事ばかりに専念し過ぎて常識を知らない人間に育つのはよろしくない。 「……ふう」  門を見て、彼は一礼する。  普段はそんなことするはずもないが、なんとなくしたくなった。  そして彼は学校に入り、起動従士クラスの扉を開けた。  ――彼が入って最初に確認したのは、クラッカーの音だった。  その音の意味を、崇人は理解することが出来なかった。だから彼は瞬きをするくらいしか出来なかった。 「タカト、退院おめでとう!」  その言葉を聞いて、崇人は漸くクラッカーの真意に気が付いた。  クラスに入ると殆どのクラスメートがこちらを見て微笑んでいた。  それを見て、崇人は何と無く気分が和らいだ。もし誰もかも自分のことなんて居なかったと思ったら、どうしようかと思っていたのだ。  なぜなら崇人はインフィニティという最強のリリーファーを持っていながら、この学校に入ってるからだ。その時点で目的を達しているのだから。 「……タカト、どうしたの。入口でぼうっとしちゃって」  クラスメートからの指摘を聞いて、彼は我に返った。 「いや、何でもないよ」  崇人はそう言って微笑むと、自分の席へと向かった。 「今日は転校生が来たので紹介しますね」  担任代わりの授業補佐員であるファーシは情報端末を眺めながらそう言った。この学校、基本的にホームルームという制度は存在しない。ただし、今回みたくやむを得ない事情でホームルームをする必要がある場合は事前に学生に連絡を入れてスケジュールを変更するのである。  それはともかく、ファーシが言ったその言葉にクラスが少なからずどよめいたのは事実だった。  男子からは「女子なのかな!?」「可愛い娘がいいなぁ……やっぱり」「いや、待て。ボクっ娘もありだとは思わないかね」などと各々の欲望を思うがままに漏らしていた。  対して女子からは「男子欲望垂れ流しすぎ……きっとイケメンが来るに決まってる!」「ショタよ、ショタ! ショタがいいわ!」「この際男の娘もありよね!」などとどちらかといえば男子よりも違うベクトルで酷い妄想を漏らしていた。 「はいはい。お互いがお互い意見を述べるのはいいことだけど、期待過ぎては悪いわよ。……可愛い娘なのは間違いないから」  そしてファーシは「入っていいわよ!」と言って扉の鍵を開けた。  そして教室の扉を開けて入ってきたのは……女性だった。腰まで伸びているその銀髪はきらきらと輝いているようにも見える。顔はとても小さく、凡てのバランスが完璧だった。  彼女は見つめていた崇人の顔を見つめ返す。真正面から見た彼女の顔は眩しかった。輝かしかった。  彼女はファーシの横に立つと、深く頭を下げた。 「はじめまして、リモーナ・ギスタピィといいます。二月という中途半端な時期に転校となりましたが、どうかよろしくお願いします」  その声はとても透き通っていた。そしてそれは、男女問わず惹き付けたのは、その後の拍手喝采から解る話だった。  拍手が鳴り止むとファーシは辺りを見渡す。席を探すためだ。  しかし席は一ヶ所しか空いていなかった。崇人の右隣、かつてエスティが座っていた席だった。 「じゃあ、ギスタピィさん。あなたの席はそこね」  指差して、ファーシはそこに座るよう命じた。  リモーナはそれに頷き、何の感情も抱くこと無くその席に腰かけた。崇人はそれをただ見るだけしか出来なかった。  かつて自分が一番好きだった女性の居場所を、突然やって来た女性に奪われる。その気持ちが彼にはとても耐えられなかった。  エスティの居場所が書き換えられていく。エスティの居場所が、誰も知らない人間に置き換わっていく。それはとても辛かった。エスティは忘れ去られてしまうのではないか……それを思ってしまったくらいだ。 「……あ、あのっ。よろしくね、えーと……」  不意にリモーナが言ったので崇人は答えた。 「タカト・オーノだ。タカトで構わない」 「解った、タカト。よろしく」  彼女はそう言って微笑んだ。  それを見ていたファーシは転校生――リモーナを名簿に追加していた。  ――lemona gistlapy  珍しい名字だ。こんな名字をファーシは見たことが無かった。エスティの番号は既に消去しているため、あとはリモーナを追加するだけだった。  とはいえこの時期の転校生を、ファーシは何処と無く疑っていた。何故この時期なのだろうか、何故起動従士クラスにすんなりと編入出来たのか? 疑問は募っていく一方だった。 (まぁ、それを授業補佐員である私が考えても仕方がない話……か)  ファーシはそう考えるとリモーナの欄にチェックを入れてホームルームを再開する。 「そうだ、このタイミングだから言っておきますが……。あと二週間もすれば進級試験ですね。皆さん、きちんとやっていますか? 今年は『いつもと違う、新しい』試験になるとのことなので油断しない方がいいですよ。それでは、解散!」  そしてホームルームは終了し、クラスメートの大半はリモーナの座る席へと直行していった。転校生への試練その一、質問攻めの時間だ。  崇人はそれで自分の席の周りが騒がしくなると思ったのを嫌ったのか、席を離れ、窓際に寄りかかった。  その間、リモーナが崇人をずっと見つめていたことに、崇人が気づくことはなかった。  ◇◇◇ 「試験がこんな早くにやるなんて知らされてない、ですって? あらあら……。確かにタカトさんはインフィニティの起動従士として戦争に出続けていましたからね……。本来ならば出席日数が足りないので試験に参加できるはずもないのですが、なにせあなたは『英雄』として様々な武勲を立ててきた。その代償として、出席日数は多めに見ている……と言っても理解できないでしょうけど」 「そんなことよりスケジュールが知らされていなかったことを重要議題とすべきだと思うんですが!」  崇人は一人アリシエンスの教員室にまでやってきていた。この学校には職員室という教員が一緒くたにされている空間はない。ひとりひとりに『教員室』が設けられており、各教員はそこで過ごしているのだ。  アリシエンスの教員室はどこかクラシカルな感じだった。大きな時計が天井に設置されており、長針がゆっくりと回転していた。本棚は壁に接するように置かれていて、その本棚の量からもはや本棚が壁と化していた。その本棚にも入りきらないのか、テーブルにも大量に本が積んである、そんな部屋だった。  アリシエンスはソファに腰掛けながら、窓から外を眺める。 「……まあ、そうだというのなら、少しあなたにもチャンスというか、ヒントを差し上げましょう。まだ誰も知らない、試験の内容について」 「試験の……内容? それを僕が知っても問題ないんですか」 「スケジュールを詳しく理解していなかったのはあなたの責任ですが……、戦争などのやむを得ない事情で起動従士を続けていたのですから仕方ありません。それくらい与えても問題はないでしょう。口外してはいけませんよ、あくまでも広い範囲で知れ渡ってはいけませんから」  それって狭い範囲なら問題ないのだろうか、なんてことを考えたが言わないでおいた。  わざわざ言って自分から墓穴を掘るなんてザラだが、そんなことがあっては困るからだ。  アリシエンスは大量に置かれた本の下にあるキャビネットを取り出した。キャビネットを開くと大量のプリントが挟まっていて、その一番上にあったプリントを外して、崇人に手渡した。 「それが、今回の試験内容です」  そのプリントに書かれていた文言を、崇人は読み上げる。 「……今回の試験は従来とは異なる方法で行われる。それは日夜進歩しているシミュレートマシンを用いることだ。仮想現実及び拡張現実はもはや我々の範疇を越える予想も立つほど進歩が著しい。よって、今回は……『シミュレートマシンを用いたアスレティックコースの走破』、これを試験内容とする……!?」  崇人の驚いた表情を見て、アリシエンスは柔和な表情を見せた。 2 「シミュレートマシンによるアスレティックコースの走破、ねえ。ほんとうにアリシエンス先生はそう言っのか?」  食堂でのヴィエンスの問答に崇人は頷く。  今、ヴィエンスと崇人、それにケイスは食堂にやってきていた。崇人はいつもの通りたぬきうどんを注文しており、ほかのふたりはなんだかよくわからない何かを注文していた。 「……しっかし、ずーっと変わってなかったんでしょ? 起動従士クラスの進級試験、ってやつは」  ケイスがヴィエンスと崇人の会話に口を挟んできた。しかしながら、崇人はその質問に答えることが出来ない。なぜなら、過去の試験内容など知るはずもないからだ。 「クラスの状況を聞いた限りだと、ここ十年は似たような試験が続いていたらしい。決められた面積の木を伐採するとか、な」  代わりに答えたのはヴィエンスだった。  それは崇人もエスティから聞いたことのある言葉だった。エスティは「そんなこと出来るのかな」だなんて言っていたような記憶が、彼の中に眠っていた。 「それもそれで面倒臭いね」  ケイスはそれを聞いて笑みを浮かべる。  対して、ヴィエンスは失笑した。 「それもそうだ。初めにそれをきいたときは起動従士を舐めているのかなんて思ったが……しかし、タカトから聞いたその内容が本当だとすれば今回の進級試験は少し骨のあるものになりそうだ」 「……何もなければ、本当にただの試験にほかならないんだがな」  そう言って崇人はうどんを啜った。 「ねえ」  声がかかったのはそんな時だった。崇人が振り返るとそこにはリモーナが立っていた。 「ここ、いい?」  崇人の隣は空いていた。しかし、席を詰めるほど今食堂は混んでいないように見える。  だが、彼女の意見を否定するつもりも今の崇人には無かったので、了承する。  それを聞いてリモーナは微笑むと、崇人の隣に腰掛けた。 「見たことないね。もしかして……君が噂の転校生?」 「ええ。リモーナっていうの。よろしくね」 「そうか、リモーナっていうのか。僕はケイスだ。君たちとは違って魔術クラスに通っているけれど……いつも僕たちはここで食事をしていてね。仲もそれなりに良いんだ」  ケイスの言葉に、ふうんと答えるリモーナ。  そこでふと崇人はリモーナが注文した食事を見てみることにした。彼女が注文したのはカレーだった。異世界共通と彼が称したカレーである。そしてそれは、エスティが毎日のように食べていたものでもあった。 「カレー……」  崇人は思わず、それを口に出していた。 「あら。カレーが好きなの? 実は私も大好きなの。毎日食べたくなっちゃうくらいに」  それも、エスティに似ていた。  気が付けば彼は、リモーナをエスティと重ね合わせていたのかもしれない。彼から見れば、その笑顔もエスティによく似ていた。 「……おい、タカト。うどん伸びきっちまうぞ?」  ケイスから言われて、慌てて崇人はうどんを口に掻っ込んでいく。  それを見てリモーナは笑うのだった。  ◇◇◇ 「試験内容が変わった? ……ふむ、私が学校に通っていた時もたしか進級試験は木を伐採するやつだったぞ」  帰宅して、マーズに今日あったことを報告する。一先ず、マーズが学校にいた時から進級試験は変わっていなかったらしい、ということを確認した崇人であった。  対してマーズはそれを聞いて首を傾げる。 「しっかしなんで急に試験内容を変更したんだ? 前の方がきっちりとできるというのに……」 「やっぱり、急すぎるのか?」 「ああ。今まで試験をそういうふうにしていたのは、そんな簡単に落とさないようにする目的がある。落としすぎても行けないし受からせすぎてもいけない。じゃあ、どうすればいいか……ってときにちょうどいいのがあれだったんだ。あれならそれなりにスタミナを使うってんでいいというわけだよ。スタミナがない人間は一エクスの木を伐採することは不可能に近い。だから、いい塩梅で落とすことができる」 「それがその試験、ってわけか……。で、今回の試験、どう思う?」 「どう思うも何も、私もそれしか聞いていないわけだから対策を立てようがない。恐らくコースを作成ているのはメリアだから私なら聞けることは可能だろうが……」 「少しでいいから、聞いてきたほうがいいんじゃないか? いくらなんでもこれは不条理すぎるぞ」 「試験ってのは授業でやった内容しか出ないのが常ってもんだろ?」 「いやいやいやいや! 授業でアスレティックなんて高度なことやってないから!」  崇人のツッコミを聞いて、マーズは溜息を吐いた。 「まあ……お前がそんなツッコミができるほどまで回復したのはいいことだ。しょうがないから、明日聞いてきてやろう。どうせそろそろシミュレートマシンに乗ろうかと思っていた頃合だ」 「マーズっていつもシミュレートマシンに乗っているイメージがあるけどな」 「失敬な。私だって週二回は休む」 「週休二日制ってか」 「ちなみに休みの日はそれなりにうずうずしている」 「聞きたくなかったよ、そんな情報!」 「まあいい」  マーズはニヒルな笑みを浮かべる。 「そんなことより話の続きは食事をしながらにしようじゃないか。今日はカレーだぞ」 「カレーか。そいつは楽しみだ」  そう言ってふたりは食事をするためのテーブルへと向かった。  食事をしながら崇人は報告を再開した。 「そういえば今日は転校生が来てな、それがとても可愛い娘だったよ」 「ふうん? どれくらい?」 「なんだかな……エスティに似ている気がするんだよ」 「エスティに?」 「ああ。カレーが毎日好きだというし、エスティと話口調が似ている点があるし、横顔がそっくりだし」 「……だが、お前も知っているだろう。エスティは私たちの目の前でリリーファーに踏み潰されて……死んだんだぞ」  その言葉に、崇人はゆっくりと頷いた。  その通りだった。エスティは目の前で死んだのだ。だから、彼女であるはずがなかった。  けれど、仕草や好みのことを考えると――彼はエスティとリモーナを重ね合わせてしまっていたのだ。 「……とりあえず、辛気臭い話は食事の時間にするもんじゃない。明日私はメリアに会って試験のことについて聞いてみることにするよ」 「ありがとうな、わざわざこんなこと頼んじゃって」 「私の好奇心というものもあるから、特に問題ないわ。タカトはきちんと学業に専念してちょうだい。いつ戦争とかが起きて出撃命令が出るか解らないのだから」  そう言って、彼らの食事は続いていった。  ◇◇◇  次の日。  マーズはメリアに会いにシミュレートセンターへとやってきた。 「……どうやら、忙しそうだな。メリア」  メリアの部屋ではたくさんのワークステーションが作動していた。そしてそのどれもを操作して並行的に作業を行っていた。  メリアはマーズが近づいてくる気配を察してそちらに振り返る。メリアの目の下には大きなクマができていた。 「やあ、マーズ。随分と久しぶりだね。戦争終了後の慰安パーティ以来かな?」 「……そんなことより少し休んだらどう? すごい疲れが見えるわよ。もっと身体を大切にしたら」 「そんなこと言うけどねー、いそがしいんだよ」  カタカタ、とキーボードを打つ音が部屋に響いている。こう話している間にもメリアは正確に命令を打ち込んでいる。 「私だって休みを入れたいんだけどね? シミュレートマシンのシステム更新だとか、新しいリリーファーのシステム開発だとかが入ってきててんてこ舞いでね? そしたらそのタイミングで新世代のリリーファーに入れるオペレーティングシステムを開発してくれとか試験で使うアスレティックコースの開発だとかが同時に入ってきたもので、私にいろんな仕事が回ってきたわけだよ」 「あんた、昨日の睡眠時間は?」 「一週間合わせて二十時間寝たか寝ないかくらい」  つまり平均三時間弱。  慢性的な寝不足状態だ。  それを聞いてマーズは溜息を吐いた。 「忙しそうだったら、シミュレートマシンに乗るのは難しいかしらね」  そう言ってマーズは踵を返した。 「いや」  カタカタと鳴っていたキーボードの打鍵音が止まった。 「出来ないことはないよ」  くるり、と椅子を回転させてメリアは立ち上がる。若干ふらふらしていたが、マーズの目の前に立つと少しだけかっこつけているのかしゃきっと背伸びした。  メリアの微笑みに、マーズは意味が解らなかった。 「でもあなた、忙しいのでしょう? シミュレートを行うにはあなたの権限が必要だし、あなたが忙しいなら無理にする必要もないのだけれど」 「大丈夫よ。その代わり……新しいシミュレートマシンのテスターをしてもらえないかしら」  そう言ってメリアは愉悦な笑みを浮かべる。それを聞いてメリアの思考の真意を理解した。  ああ、そういうことだったのか。メリアは新しいシミュレートマシンのテスターを探していたのだ。確かにさっきそんなことを言っていたような気もする。 「でも、問題ないの? 正規の起動従士をそんなことさせて……危険性とか?」  そんなことを訊ねたマーズではあったが、心では乗りたい一心が強まっていた。それをどうにか抑えようとしていたが、メリアにはそれがお見通しだった様子で、 「そんなこと言っているけど、乗りたい感じがするのは気のせいかしら? うずうずしているように見えるわよ?」  あう。  マーズはそう言うと、メリアはくつくつと笑っていた。 「ほんとにマーズはワーカーホリックよね。リリーファーに関することだったらすぐ食いつく。あなたも私のことが言えないんじゃない?」 「それはお互い様、でしょう?」  マーズはそう言うと、メリアはそりゃそうだとだけ言った。  ◇◇◇  そのシミュレートマシンは赤色だった。血のように真っ赤だった。シミュレートマシンのコックピットは彼女が今まで使っていたそれと同じタイプだった。 「動かし方とかそういうのは変わりないみたいね」  マーズはコックピットに備え付けられている通信装置から、ワークステーションで何か作業を行っているメリアに言った。  メリアは視線を動かすことなく、 『ええ。ただレスポンスを若干早くしたり行動を簡易化したり……あとは敵の方かな。それは実際にシミュレートを開始してもらえれば解る話になるけれど。それじゃ、大丈夫かな?』 「ええ。問題ないわ」  それを聞いて、メリアはスイッチを入れた。  刹那、マーズの視界に広がっていた白い世界は作り替えられた。そして一瞬の間も与えることなく、世界は変わっていた。  そこに広がっていたのは草原だった。山も、森も、何もない――それは即ち隠れる場所がないことを意味している――場所だった。 「ふうん……草原エリアね。確かにこれはあんまりない経験かも……!」  マーズはその時、背後に気配を覚えた。  リリーファーコントローラを強く握って、踵を返す。  そこには、黒いリリーファーが立っていた。そしてそれが敵のリリーファーであることを認識するのに、そう時間はかからなかった。 「まさか開幕から不意打ちをかけてくるとはね……。メリア、AIのレベルを上げた?」 『ええ。様々なパターンに対処するためにね。結構苦労したんだから、このパターンを形成するのは』  だが、そんな悠長に話をしている場合ではない。その話をしている間でも、リリーファーは待ってくれることなんてせず、マーズの乗るリリーファーに攻撃を与え続けていた。  もちろんこれはただのシミュレーションだから死ぬことなんてない。だが、それでも負けるわけにはいかない。ここで手を抜いて、本番でも失敗してしまえばそれこそ終了だ。現実にはゲームめいた残機設定なんて存在しないのだから。  マーズは攻撃を与えるチャンスを待っていた。相手の攻撃が切れる一瞬のタイミング、それを待っていたのだ。  そして、それはやってきた。  ほんの僅か、相手の挙動が遅れたのだ。  そしてその一瞬の隙を、マーズが見逃すことはなかった。  その隙をついて、リリーファーは敵のリリーファーの右手を掠め取った。そして、マーズの乗るリリーファーはそのリリーファーの右手を掴んだまま振り回した。  マーズの乗るリリーファーを軸として、そのリリーファーは遠心力がかかっていく。  そして、あるタイミングでそれを離した。敵のリリーファーは吹き飛ばされて、少し離れた場所へ落下した。 「……まあ、ざっとこんなもんよね」  そう言ったのと同時に、空間が再び白の空間に戻された。 『さすがね、初めてなのにあっという間に終わらせちゃって』  メリアは未だにワークステーションに何かを打ち込んでいるようで、視線はこちらに向けることはなかった。 「そんな難易度も上がっていなかったしね。どちらかといえばこの前のやつよりも難易度は下がっているんじゃないの? ……そう、まるで学生に使わせるために開発しているみたいに」 『……勘が鋭いね。ほんと、きみは』 「それが私の取り柄なもんでね」  そう言うと、メリアは微笑む。 『まあ、なんだ。少し私も休憩したかったところだ。マーズ、あなたもなんだか積もる話があるみたいだし……。少し話でもしないか、私の部屋で。コーヒーを入れて待っているよ』  そりゃいい、とマーズは言ってシミュレートマシンを後にした。  メリアの部屋でマーズとメリアはコーヒーを飲みながらティーブレイクに興じた。 「飲んでいるのはコーヒーなのにティーブレイクなのよね……。なんでなんだか」 「そんなこと突っ込んじゃダメよ。えーと、ティーブレイクっての由来がお茶から来ているから実際にはブレイクタイム、かしら?」 「いや、疑問形で聞かれても……」  それはさておき。 「さっきのシミュレートマシン。ありゃ難易度が極端に落ちているけれど……いったいどういう意味?」 「さっきマーズが言ったとおりのことだよ」  メリアはコーヒーを一口飲んだあとに、テーブルに置かれているキャラメルが入ったクッキーを手にとって一口。  メリアは口を撫でながら言った。 「マーズが言ったのは、学生に対応したもの……そう、まさにそのとおり。実は、ヴァリエイブルにある四つの起動従士訓練学校に配置する予定になっている。その第一段階として、先ずは中央に試験的に配置を行う」  中央……崇人やヴィエンスが通っている学校のことだ。そこは最初に出来た起動従士訓練学校だから便宜上そう呼ばれるのだ。 「中央に配置するためにそれがある……か。しかし急だな。前からやっていたのか?」 「いや、これを作るよう命令が出されたのはあの戦争が終わったタイミングだ。だから、一月前になる」 「一ヶ月でここまで形にしたのか。すごいな」  マーズは改めてメリアの凄さに驚愕する。  対してメリアはコーヒーを一口。 「そんなにすごいことではないよ。すでに形ができている旧型をベースにグレードアップして、難しさを下げたんだから。まあ、このタイミングでマーズが来たのはラッキーだったかな。最悪呼びつけようかと思っていたくらいだからね」 「呼び出されるのは勘弁願いたかったね」  そう冗談を言うマーズ。 「……まあ、それはさておき私からも一つ話題を持ってきたわ。話題というよりは質問になるんだけど」 「うん、どうかしたの?」 「……中央の進級試験が変わった、って聞いたんだけど本当?」  それを聞いてメリアは目を丸くする。 「……マーズ、それをあんたどこで聞いたの?」 「タカトから」 「あいつか……。というかあいつもどこから聞いたんだよ」 「タカトはアリシエンス先生から聞いたって言ってたわね。戦争とかで頑張っているお詫びだってさ」 「先生、ねえ……。守秘義務をきちんとして欲しいと思うわ」 「ということは、本当なのね。アスレティックコースだというのは」  その言葉にメリアはゆっくりと頷いた。彼女としても隠しておきたかったのだろうが、こう面と向かって言われてしまうと仕方なかった。 「そもそも、どうしてアスレティックコースなんてものを考えようとしたのよ」 「そんなこと私に言われても解ると思うか?」  そう言われてマーズは頷く。確かに彼女はこう言った。命令が来た、と。ならば命令についての理由を聞くこともないし訊ねることもないだろう。  メリアはワークステーションを再開させ、画面をマーズに見せる。  そこに映っていたのはスケジュールだった。恐らくそれは彼女のスケジュールだろうが、カレンダーにはびっしりと予定が書かれていた。 「今日が六日だ。そして試験は二十日だから……ちょうど二週間になる。年度が変わる、このてんてこ舞いになりがちなタイミングでこういう案件が出てデスマーチ化している私を見て、まだその理由を聞こうと思う?」 「……そうね。確かにそれも酷な話ね」  今の彼女は窶れている。そんな彼女を質問攻めにするのも、マーズの良心が痛むというものである。  マーズはコーヒーを一口飲み、皿に乗っているクッキーを一枚手に取った。 「それじゃ、あなたにアスレティックコースの質問をするのはやめておいた方がいいのかもね……」 「タカトに質問してこい、なんて言われたの?」 「いいえ、私の個人的な理由よ」  それってタカトに質問してこいと言われたと同義じゃないの? なんてことをメリアは思ったが言わないでおいた。今の彼女がカリカリしているのは言わずとも解るからだ。  メリアは溜息を吐いた。 「……質問は出来ることなら答えたくないのよね。クライアントの守秘義務に反するから。けれど……これは特例よ? 私とあなたの仲だから、話してあげるんだから」 「ありがとう、メリア」  そう言って彼女は頭を下げる。  それを見ることなくメリアはワークステーションにキーボードを介してコマンドを撃ち込んでいく。その打鍵音の素早さといったら、彼女が今まで聞いたことのないくらい素早いものだった。  そして、しばらくしてワークステーションにある立体図が浮かび上がった。 「これは……?」 「これがさっきあなたの言った、アスレティックコースの立体図。まあ、これはあくまでも設計上の段階であって、完成品とは言えないけれど、大まかなポイントはこれで決定だしコース自体を変更することはないわ」  メリアの言葉を聴きながら、彼女はコースを眺めていく。  スタートは草原から始める。極一般的なスタートと言えるだろう。逆にこれが雪原だとか山脈の真ん中とかだったら開発者を恨むレベルだ。  スタートからしばらくは草原の中を走っていく。非常に平坦な道のりだからスタミナを削ることもない。楽なコースとも言えるだろう。  最初の関門――とマーズが心の中で考えたのはその先にある洞窟だ。別に洞窟にリリーファーが入ることが出来ないだとかそういうわけではない。ただし、リリーファーが複数機入るにはその場所は狭すぎる。せいぜい二機が限界だろう。即ち、最初の二機に入らなくては一位でゴールするのは不可能に近い。  洞窟は細くて長い。高低差こそないものの水脈があるのか洞窟の中に流れている川を越える必要がある。その川の幅はそこそこ広いのでここでもタイムロスしやすいといえる。  最初の関門である洞窟を抜けると山脈エリアに入る。――これを見て彼女は即座に第二の関門であることを理解した。  山脈とはいったものの山はひとつしかない。しかし標高はそれなりに高いのか山頂近辺には雪が積もっている。ということは雪崩の可能性もあるし、雪に足を取られて滑ってしまう可能性もあるということだ。  山脈を抜けると広がるのは市街地だった。 「……ちょっと待って。どうしてアスレティックに市街地が? 何か意味でもあるの?」 「さすがにここまでは言えないかな。けれど市街地を破壊するとかそういうことは……まあ、たぶんないと思うけど」  曖昧な返答をされてマーズは腑に落ちなかったが、コースのチェックを再開する。  市街地を抜けるとそこには海が広がっていた。 「……ねえ、メリア」 「ノーコメントで」  そう言われては仕方がない。  再び、コースチェックに戻るマーズ。  海を超えると小さな島があった。そしてその島には巨大な穴があった。深い深い穴だ。その穴を抜けると――そこには迷宮が広がっていた。 「ああ、ちょこっと補足ね。その迷宮の壁はめったにリリーファーの装備じゃ破壊できないようになっているから」 「余計なことしてくれるわね……」  そんなことを呟きながらも、マーズはコースチェックに勤しむ。  島の地下に広がる迷宮は島の大きさの数倍もの大きさを有しており、クリアするのはそう簡単ではないだろう――マーズはそう悟りながら、迷宮の出口を探した。  そして、その迷宮の出口には小さく『ゴール』の文字が書かれていた。  コースチェックを終了して、マーズは溜息を吐く。 「どうでした、コースチェックの感想は?」 「ひたすらに面倒臭いコースだということだけは理解できたわ。とりあえずこれをやっても精神とスタミナを摩耗することだけは、ね」 「それが目的、らしいわよ? 国王陛下が言うには、様々なことを経験させることで、起動従士の力を育てる、だって。戦争のときに自分の力を過信して出撃したときとは大違いね……っと、これはオフレコで」  そうね、とマーズは頷いて一口分残っていたコーヒーをきれいに飲み干した。 3  ところ変わって、中央。崇人たちがいる学校では昼休みを迎えていた。  今日は昼休みに入ってヴィエンスと一緒になんとなく食堂へ向かおうとした矢先のことであった。リモーナは女子陣に囲まれて食事の誘いを受けていたが、それを凡て断って崇人についていったのだ。別に女子たちはそれで何か言ったわけではないが、少し彼女たちの心が傷ついてしまったのは事実であった。 「いいのか? あんなに女の子たちが誘ってくれたのに」 「いいのよ。女の子たちの会話というのも堅苦しいものがあるのよ? 化粧がどうだの可愛い服がどうだの……。私はそんなことより自分の意志をはっきりして服とかを選びたいのよ。なのに、ブレイクしているからこれがいいんだーとか、この食べ物たべてないなんて時代遅れだよーだとか話すんだよ? 自分が時代に乗り遅れていないのを参照するためにそーいうことをする子って、なんか好きじゃないなって」 「そんなのは男子だってあるぜ。まあ、女子くらいではないがな」  ヴィエンスは言ったが、リモーナは微笑む。 「でも女子よっか男子と話していたほうが何かと面白いし」 「男子ばかりの環境で育ったとか?」 「それに近いかも」  そう言って照れ隠しに微笑んだリモーナ。 「……まあ、それもあるけど、とりあえず気兼ねなく話ができるのが一番、かなあ」 「なんだよ。それ」  そう言ってヴィエンスは微笑む。  それを見て、リモーナもまた笑った。  ◇◇◇ 「カレーにはじゃがいもを入れる派? 入れない派?」 「……何を言っているんだ、じゃがいもはカレーに必須だろ」 「いやいやいやいや、おかしいって。じゃがいもが溶けたらあつあつになるじゃん! 猫舌の私にとってそれはちょっち辛いかなーって」 「でもそれって少数意見だろ。少なくともカレーに入る具材は人参・じゃがいも・肉・玉ねぎ、以上だ」 「いや、俺は人参を抜くぞ?」  崇人とリモーナの会話にヴィエンスが入ってくる。しかもその意見は火に油を注ぐような発言だ。 「いやいやいや! おかしいって! 人参は入れるべきだろ!? しかもじゃがいもと同じくらいになるくらいの大きさにしておいてさ!」 「いや、その考えはおかしい……」  さて。  なぜこのようなことになってしまっているのだろうか。  それは少し前、ちょうどリモーナがカレーを食べていたそのタイミングまで遡ることになる――。  スプーンでカレールーの海に半ば沈めているじゃがいもを掬い上げて、リモーナはじっと眺めていた。  それを見て違和を感じた崇人は、 「どうした、リモーナ。もしかしてじゃがいもが嫌いなのか?」  訊ねた。  リモーナはそれを聞いて首を横に振る。 「じゃがいも自体は嫌いではないのだけれどね。なんというか、溶けてしまうと美味しくないじゃない? ドロドロしたカレーってあまり好きじゃないのよね……」  因みに今彼女が食べているカレーは若干ながらドロっとしている。手作りであるからか、日によってドロドロしているかサラサラしているかが違うのだ。それもこの食堂のカレーの人気の秘密ともいえるだろう。 「だけど、このドロドロって感じが好きじゃないのよ。ほら、昨日はどちらかといえばサラサラだったじゃない? だから尚更『どうして今日はこんなにも』って感じになるのよね」 「……そう言われても、やっぱり手作りだからムラは出るだろ」  リモーナの言葉に崇人は反論する。彼にとっては他愛もない言葉だったようだが、しかしリモーナにとっては彼女に火をつける発言となってしまったようで、 「なんだかその発言は聞き捨てならないわね……。それで本当に言い訳が立つと思って?」 「じゃあなんだよ」  リモーナの喧嘩腰めいた発言に崇人も怒りを顕にする。 「あんたの言う通り、毎日一々じゃがいもを別に調理しろ、って話かよ。それは幾らなんでも注文し過ぎなんじゃないのか」 「別にああしろこうしろなんて私は一言も言ってないわよ? こうした方がいいんじゃない、って言っただけなのにあなたが突っ掛かって来たんだから」 「いーやっ、さっきの口調は明らかにそれに照らし合わせることは出来ないね。やっぱりどちらかと言えば希望よりも要望、要望よりも命令だった」  崇人とリモーナの討論はヒートアップしていくが、一緒に食事を食べているヴィエンスはそんなことを気にせずにリモーナと同じカレーを頬張りながら、面倒臭そうにその会話を眺めていた。 「あれ、どうしたの二人とも」  そこに、少し遅れてケイスがやって来た。ケイスは何かの定食を注文したらしい。だから少し時間がかかったのかもしれない。  ヴィエンスはケイスの言葉を聞いて、スプーンを口に加えてふらふらとそれを揺らしていた。  そして、数瞬の間を置いて彼は答えた。 「んー……、痴話喧嘩?」 「「痴話喧嘩じゃないっ!!」」  ヴィエンスの言葉にリモーナと崇人は同時に、しかも同じセリフを言った。そしてお互いの言葉を聞いたあと、彼女たちは一瞬向かい合って、直ぐに顔を背けた。  ヴィエンスはそれをニヤニヤしながら眺めていた。ケイスはやっぱり状況が飲み込めていないらしく、首を傾げた後、食事を始めた。 4  崇人が家に帰った時は、もうとっぷりと日が暮れていた。今まで彼が受けられなかった分を補填するために補習が組まれており、そのためにここまで遅い時間となってしまうのだった。 「おかえりー。やっぱ補習ってのは時間かかるのね。ご飯は今から作るんだけどね」  家に入るとマーズはソファに足を伸ばして寛いでいた。 「……どうせレトルト食品のオンパレードだろ」  そう彼は言うと、 「なんだ、つれないな。万が一にも私が料理を作る可能性を考えないのか?」 「寧ろ万が一しかないのかよ……」  崇人はそう冷静に突っ込んで自分の部屋に荷物を置きにいった。  崇人の部屋はマーズの部屋の隣にある。元々マーズの家はとても広くて空き部屋も多いのだが、『近い方が安心』という理由から部屋が隣同士になっているのだ。  ……因みにどれくらい広いかというとハリー騎士団一人一人に部屋を割り当ててもまだ余るくらいだ。  適当に荷物を置いて再びリビングに戻る。テーブルには既に食事が並べられていた。 「……こいつは予想外だった」  崇人はシニカルに微笑む。なぜならそこに広げられていたのは弁当箱だったからだ。崇人の世界でいうところの、弁当屋さんに売っている弁当がそこに広げられていた。  それに対してマーズは崇人の考えている予想を裏切ることが出来たからか、ニコニコと笑みを浮かべて席に座っていた。 「いや、どちらにしろマーズは作ってないじゃん……。お前が作るんならちっとは見直すんだがなぁ……」 「何か言った?」  いいや何も、と崇人は言って箸で弁当箱に詰められたミートボールを口にした。  酸味が少し強かったがレトルト食品よりはマシだ――彼はそう思いながら、食べ始めた。  崇人は食事をしながら、マーズがメリアから聞いたアスレティックコースの概要についての説明を受けていた。マーズの説明は若干オーバーめいたものもあり、身振り手振りを使っていた。しかしながら、マーズの説明は非常に解りやすいものであり、崇人は僅か一回聞いただけで大まかな内容を理解するに至った。 「……しかし聞いた限りだと非常に難しそうな構造になっているな。市街地といい海といい迷宮といい……」  崇人はマーズから聞いたアスレティックコースの概要を理解した上でそう言った。そして、その言葉はマーズにも理解出来ることだった。  アスレティック……とは言っていたが、一概に障害物をクリアするだけでもないようである。それもそうだ、競技を行うのはリリーファーであって人間ではない。リリーファーだけが出来ることが組み込まれていたとしても自然である。 「でも……リリーファーは水中駆動は苦手なんだろ? さすがにインフィニティなら出来ないことはないだろうが」  かといってシミュレートマシンで使える仮想リリーファーのスペックがインフィニティ並みなのかと言われれば、その可能性は低いだろう。  ならば、どうすれば良いのだろうか? 仮想空間でのことだから、まさか仮想空間で死んだら現実空間で死ぬなんてことは有り得ないだろう。 「……リリーファーは水中駆動に不向き。それは昔から……ええ、大分昔から言われていることになるわね。だからシミュレートマシンでもそのようなパターンが組み込まれることは無かった……。だからこそ、気になるのよ。このタイミングで海を入れた訳を」 「この前の戦争の、水中戦が影響しているんじゃないのか? 水中戦を間近に見た訳ではないけど、あまり良い結果では無かった……そう聞いているぞ」  崇人が言ったその言葉はマーズからすれば耳が痛い発言だった。確かに彼の言う通り、水中戦は勝ったものの苦戦を強いられたのは事実だ。それも『敵が水中駆動に適した型だったから』という理由からだといえるだろうが、そんなことはただの言い訳にしか聞こえない人間が大半だった。  そんなことを言う人間は、大抵リリーファーに乗れやしない、ただの凡人だということもマーズは解っていた。  だからこそ、だからこそ、だからこそ……嫌だった。自分が守るべき存在に、自分が慕うべき存在に、見捨てられるのが嫌だったのだ。 「……どうした、マーズ?」  崇人の声を聞いて、マーズは我に返った。見ると崇人はじっとマーズを見ている。彼なりに心配しているのだ。  マーズはフォークでまとめかけだったスパゲッティを口の中に入れた。 「それはそれとして……どう、タカト。コースの概要を聞いた、ファーストインプレッションは?」 「面倒臭そう、というのが最初の感想かな。まさかここまで凝ったコースになるとは考えてもみなかったからな」  それを聞いたマーズは頷く。彼の言う通り、このコースは学生の進級試験用に作られた……なんて一言も言わなければ、殆どの人間が軍の演習のコースだとかそんなことを思い浮かべるに違いないだろう。  そのコースはそう言わしめるくらい難易度が高いコースになっていた。マーズはあわよくばコースを試しにやっとみようかと考えてもみたが、流石にそれはメリアに止められた。メリアがマーズに言ったことですら機密漏洩に近いというのに、そんなことを許可してしまっては今度こそ彼女の首が飛ぶ――メリアはそう思ったのだろう。そして、マーズはそれを聞かなくとも理解した。 「彼女からコースの立体図を見せてもらっただけでも随分とブラックなのに、コースに乗ったらそれこそ戻るところまで戻れなくなる……メリアはきっと、そう思ったでしょうね」 「……確かに、俺もまさかここまでの情報が手に入るなんて思いもしなかったな」  そう言って崇人は切り分けたハンバーグの一切れを口に放り込んだ。直ぐに彼の口の中には肉汁が溢れだし、ぎっしりと凝縮されたエキスが彼の味蕾を刺激した。さらにそれに混ざるのは誰がどう味わっても醤油ベースの和風ソースだった。マーズ曰く『マキヤソース』なるものを使っているらしく、それが醤油めいた味を表現しているのだという。  そんな理屈は抜きにして、彼の目の前にあるハンバーグ弁当は彼の胃袋を満足する出来であったことは、彼にとって自明だった。 「……美味い。本当に美味いな。レトルト食品の比じゃないぞ」 「そりゃそうよ。これは私が良く使う弁当屋さんの中でも一番なんだから」  そう言って彼女は慎ましい胸を張った。 「慎ましい胸を張られても割と困る……というか張る胸もなくね?」 「あんた、流石に怒るよ?」  そう言ってマーズは持っていたフォークを握って崇人の頭につきつけた。  崇人はそれを見て表情が強ばる。 「……解ればいいのよ。いいじゃない、別に。貧乳でも愛してくれる人がいるわよ。きっと」 「貧乳というよりまな板に近いというか」 「なんか言ったか!? 天国に送り届けてやろうか!!」 「すいませんマジすいませんでしたっ!!」  崇人はそう言って土下座する。土下座はしたモン勝ちだ。ちなみに古事記には書かれていない。 「……まあ、いいわ」  立ち上がったマーズだったが、崇人の土下座を見てやる気をなくしてしまったらしく座ってまた食べ始めた。 「……どうしたのよ、タカト? いつまで続けているつもりなの。冷めちゃうわよ?」 「ゆ、許してくれたので……?」 「そんな簡単に頭を下げられると攻撃する気も失せるってものよ。いいから、食べなさい」  そう言われて、崇人は席に座ると再び食事の時間に移った。  ハンバーグを食べたので次は副菜を食べてみることにする崇人。おかずとは変わりないが、それでも魅力的な副菜が並べられている。野菜炒めやフライドポテトなどを見るともはやここは異世界ではなくただのファストフード店なのではないかという疑いすらかかってくる。だがここは偽りない異世界なのだ。しかもどこか遠い国では崇人の世界でいうところの関西弁を使う国民もいるらしく、異世界ともともといた世界の違いがつかなくなってしまう。 「そういえば……ヴィーエックはきっと帰りたかっただろうな」  呟きはマーズに聞こえたらしく、マーズは顔を上げた。しかしマーズは直ぐに俯いて、 「……あいつは仕方なかった。あいつは『シリーズ』に侵食されてシリーズそのものになっちまったんだよ。そして挙句の果てが……あれだ。私もヴィーエックが『異世界』からやってきた人間など知らなかったものだから……済まなかった」 「いや、別にマーズが謝ることじゃないよ」  そう。  別にこのことについては誰も悪いわけではなかった。崇人がヘマをしたからヴィーエックがシリーズになったわけでもないし、マーズがそうしたわけでもない。  つまりは全くの偶然。或いはヴィーエックの意志で彼はシリーズになったのだ。  だが、崇人はそれをマーズの口から聞かされたのだが、それでも腑に落ちなかった。  彼はどうしてそこまでシリーズになりたかったのか? ということだ。誑かされたのか? 裏切られたのか? 騙されたのか? 様々な思いが渦巻いていく。  しかし彼は未だにそれについて結論を見出すことなどできていなかった。それは仕方ないようにも思える。 「……まあ、タカト。気を落とすな。いつか、いつかきっと……お前のいた世界に戻ることが出来るだろうよ。残念ながら、それがいつの話になるか言うことはできないが、な」  そう言ってマーズは付け合せのポテトサラダを一口。  それもそうだった。別に彼が悔やんだからといってヴィーエックが戻ってくるわけではない。大会前の、あの平穏な日常が戻ってくるわけではない。崇人が元の世界に戻れるわけでもないのだ。 「……そうなんだよなあ。そうなんだよ。別に俺が悔やんでも戻れるわけでもない。死んでしまった人が戻ってくるわけでもない。それは自然の摂理にほかならないんだよな……。だから俺は頑張らなくちゃいけないんだ」 「自分の身体を犠牲にしてでも?」 「それで俺の周りの人が助かるなら」  即答だった。マーズはそれを聞いて目を丸くしたが、直ぐにそれを戻して目を細める。 「そうか……。だったら、その思いをずっと忘れないほうがいい。いつかその場面がやってくるだろうが、それまでにその意志は同じかどうか解らない。それでも……自分の意志を持ち続けることは、きっと大事なことだ」  マーズはそう言って食事を再開した。  それを聞いて崇人は微笑むと、残っていたご飯を掻っ込んだ。  ◇◇◇  洗い物を済ませ、マーズと崇人はテレビを見ていた。テレビの内容はずっとこの前の戦争について語られていた。この前の戦争はマスメディアが言いやすいようにした『北方戦争』があまりにもメジャーになってしまったために正式名称を変更してしまうくらいになっていた。  そう。  戦争なんて終わってしまえばこんなものだった。  戦争は終わってしまえばどうでもいい――ただ人々の娯楽として消費されていくだけなのだ。ただ、『あの時は怖かったね』だとか『あの時のリリーファーはよくやってくれた』だとか言ってくれるだけで、それもしばらくすれば普通の世論に戻ってしまう。  世界とはそういうもので、残酷だ。  世界とは正しい人間には現実を、汚い生き方をする人間には幻想を見せるものだ。決して前者に幻想を与えることなく、かといって後者に現実を見せつけることも殆どない。  そんな世界だった。  そんな世界を理解しながら、マーズはテレビで連日流れているリリーファー批判を眺めていた。  戦争が終わって一週間くらいは戦争の被害だとかリリーファーの良かったところだとか、大体はいい方向に言っていく。  だが一週間も過ぎてしまえば徐々にその話題が無くなっていったのか、「どうして戦争を行ったのか」だとか「戦争をする意味は果たしてあったのか」だとか、最終的には「リリーファーは必要だったのか」という意見にまで飛躍する。  完全にマスメディアが自分たちの持っている権利を私利私欲のために使っている、その著しい場所であるともいえるが、それを批判する人間なんていない。  実際に戦争の場面に直面した人間ならともかく、今回の戦争は特にそんな場面に直面した人間がいない。即ち直接戦争を目の当たりにした人間がヴァリエイブルには非常に少なかった。戦争の現実を知っているのはせいぜい兵士かその家族くらいに留まっていたののだ。  一方マスメディアはテレビと瓦版という媒体を通して連日戦争について報道している。するとそれしか見ていない人間にとって、瓦版とテレビの情報イコール真実に繋がってしまうのだ。その情報に意見を誘導する情報が少しづつ混じっていることなど知るはずもない。  そして最終的にリリーファーなど要らない――そういう意見が台頭していくのだ。  何を言っているんだ、ふざけるな。マーズはそう思っていた。リリーファーがいなかったら戦争の時、国民を誰が守るというのか? 戦争が起きてしまった時、リリーファーが他国から攻め込んできたとき、誰が守るというのか?  その答えはリリーファーにほかならない。だが、リリーファーに助けてもらうのは当たり前……いや、寧ろ必要ない、そう思っている国民があまりにも多い。  そしてそれがマスメディアによる世論操作だということに、国民は気付くこともない。  ……とはいえ、そのリリーファー叩きも数日も経てば落ち着きいつもの情勢に戻る。だが、戦争やら紛争やらがいつも起きているこの世界にとって落ち着いた情勢は殆どないとも言えるだろう。流石に毎日リリーファー叩きがあるわけではないが、マスメディアが本気でリリーファーを正義の味方など思っているかどうかと訊ねられると、疑問しか浮かんでこないものだった。 「……気分が悪い」  そう言ってマーズはテレビのチャンネルを変えた。そこではロボットアニメが放映されていた。リリーファーめいたロボットに乗った少年少女が世界に突如出現した『ノワール』なる敵と戦うストーリーである。今は第六シーズン第四十一話が放送されており、主人公とヒロインのデートシーンから始まるものであった。 「忘れていたよ、いつもこの時間はこれを見ていたんだった……」  そう言いながらマーズは起き上がるとクッションを抱きかかえながらテレビに集中した。  マーズが面白いと思うアニメは、いったいどんな内容なのだろう? 崇人はそう思って、マーズと一緒にそのアニメを見てみることにした。  そのアニメは主人公とヒロインのデートシーンから始まる。そのデートシーンというのがベンチに腰掛けて話をしているというなんともベターな展開である。 「……ね、こんな二人っきりで話をするなんて珍しいよね」  どうやらヒロインはそれがデートであると認識していないらしく、そう主人公に語りかけた。  対して主人公は、 「そ、そうだね! 今日はいい天気だよね!」  ……ダメダメだった。人生の半分は恋愛というものに縁がなかった崇人ですら、今の主人公の発言はいかがなものかと思った。 「何してんのよ! なんでそこでいい天気とかいうのよ! シジマの馬鹿!」  どうやらその主人公はシジマというらしい――と割とどうでもいい情報を手に入れて、崇人は再びテレビ画面に意識を集中させる。  結局シジマがヒロインのアカネに恋愛めいた話を振ることなく、普段の会話で最初から最後まで占めてしまった。因みに二人の言う『普段』とは敵がよく出てくるだとか自分のロボットにはこんな兵器をつけたいかとかで、とても年頃の男女が話すネタとは思えない。 「何で二人っきりでいいムードなのに……!」  ハンカチを噛みながらマーズは言った。まったく話が進まないこの状況にもだもだしているらしい。  シジマとアカネが普段の会話に比重を置いたそれで放送時間換算にして五分もの時間を費やした。その間、絵は動くこと無く静止画が時折何枚か(しかしそれもパターン化されているのか重複している時がある)の背景画が挿入される以外は二人が話している場面の絵が映し出される。 「……なんだこりゃ? 今のアニメーションってこういうのなのか?」 「何言ってんの? アニメはこういうものよ。心情がうまく出てるじゃない! 今はシジマとアカネの会話だからそれ以外の情報は必要最低限でいいのよ……たぶん」  それって小説とかにすればいいんじゃないだろうか、崇人はそう思ったがそれをマーズに言ったって意味のないことである。  そしてアニメに関してはまったくの素人である崇人が口出ししようたって、相手はその道のプロなのだから、『これはこうだ』と明確に理由を言われればそれまでだ。  場面は変わり、シジマとアカネは公園に現れた敵の姿を見つけた。  敵を倒すにはロボットに乗らねばならない。しかし彼らはロボットに乗っていないし、ロボットのある基地までそう近いわけでもない。まさに絶体絶命、だった。 「やばい、やばいわよシジマ!」  黄色い声援をマーズが出しているのを聞いて、崇人は小さく溜め息を吐いた。幾ら『女神』と呼ばれていようとも、こういう光景を見るとただの人間と相違ない。  さぁこの後どうなるのか――というタイミングで、エンディングテーマが流れ始めた。時計を見ると十五分程しか経っていなかった。 「あれ、もう終わりか。……早くね?」 「早くないわよ、こういうものよ。……いやー、面白かった。来週も楽しみね」  そう言ってマーズは立ち上がると鼻唄を歌いながら上機嫌で何処かに向かった。  崇人はマーズが居なくなった部屋でテレビを見ていた。とはいえ決まったチャンネルを見ている訳ではなく、ザッピングしているだけだった。  鼻唄が聞こえてそれがマーズのものだと確信したのは、それから二十分くらいあとの話だった。崇人の鼻にほんのり石鹸の香りが届いたのもそれと同じタイミングのことだった。 「崇人、風呂入りなさいよ。気持ち良いわよ?」  マーズの格好は非常にラフなものになっていた。上に大きめのシャツを着て、あとは下着のみだ。下着はほのかに桃色というのが、彼女の着ているシャツから透けて見えてしまう。  崇人はそれを一瞬見て、直ぐに顔を覆った。マーズはずっと一人で暮らしてきたから、こんなことなんて気にしていないのだ。 「どうしたのよタカト。もう一年にもなってるのよ。少しくらいまともに見れるようになっても……いいんじゃない?」 「お前はもう少し恥じらいを持てよ……」  崇人がそう言うとマーズは崇人の後ろに立った。そして彼女はその慎ましい胸を崇人の背中に当てた。 「お、おいっ……! 流石に今日はどうしたんだよっ! いつもここまでやらねーじゃんか!」 「タカトは、私を女と見てくれているんだね……ふふふ、嬉しい。本当に嬉しいよ」  マーズは甘だるい声を出してそう言った。まるでそれは崇人を誘惑しているようにも見えた。  崇人はそこでマーズの口からある匂いを感じた。――アルコールだ。それを感じると直ぐに崇人はある結論に辿り着いた。  マーズはアルコールを飲んだのだ。きっと、いや確実に自分の意志で飲んだのだ。 「……アルコールは二十歳からとか決まってないのか」 「そんなものが法律で規制されているのは、きっと貴方の国だけ……よ」  そう言ってマーズは崇人の下腹部に手を伸ばす。そこには小さく盛られた山があった。 「身体は十一歳でも精神は三十五歳……そりゃ欲求が溜まっていてもおかしくはないよね?」  マーズはそう言って崇人のズボンとパンツを下ろした。 「マーズ、なんでこんなことをするんだ」 「……貴方が私の想いに気付かなかったからよ」  マーズは唐突にそう言った。それを聞いて崇人は何も言えなかった。  マーズの話は続く。 「貴方は……ずっと私と一緒にいた。彼女が死んだときも一緒に悲しんだ。貴方を元気にさせようと一生懸命慰めた! けど……貴方の心はずっとあの娘、エスティに向いたままだった」 「だから、こんなことをしたのか」 「貴方は私の想いに気付かなかったのは何故か? それは私の意志が弱かったからよ! 私がもっと強固な意志を持って行動さえしていれば……こんなことにはならなかった! ならなかったのよ……!」  マーズは崇人の背中で涙を流した。嗚咽を漏らしながら涙を流す彼女を見ながら、崇人は頷いた。 「ごめん、マーズ。本当に済まなかった」  崇人はマーズの方を向いて言った。マーズはもうシャツを脱いでいて、さらにブラジャーを取り外していた。慎ましいながらも立派に聳え立つ双丘の天辺には桃色の突起があった。双丘は汗をかいたらしく、光をうっすらと反射していた。 「……ずっと、お前の想いに気づけなかったこと。それを先ずは謝らせて欲しい。……本当に済まなかった。そして、マーズがその行動を選択したのなら俺は止めない。責任も一緒に取る」 「ほんとう?」 「あぁ、ほんとうだ。絶対だ」  マーズは崇人のその言葉を聞いて、何度も、何度も、頷く。  崇人はそれを見て、彼女の身体を抱き寄せた。  ――その日の夜は、彼らにとって激情的な夜になったということは、また別の話。 5  次の日、マーズは自分の部屋のベッドで目を覚ました。となりにはすうすうと寝息を立てて眠っている崇人の姿があった。  彼女は崇人の顔を撫でる。昨日あったことは彼女にとってとても嬉しかったことだった。  ――お前の思いに気付けなかった。  崇人の言葉は今も彼女の胸に残っている。そう言ってくれるだけでマーズは嬉しかった。  崇人が目を覚ますと、マーズは笑みを浮かべて言った。 「おはよう、タカト」  崇人はまだ寝惚けている様子で、うんうんと頷くだけでまた横になった。 「ダメよ、タカト。今日も学校でしょう? 用意しなくちゃ」  そう言ってマーズはベッドから抜け出る。何もつけていない彼女の姿が窓から差し込む太陽の光に照らされ、神々しい美しさを放っていた。  マーズは床に投げ捨ててあった衣類を身に付け、そして部屋から出て行った。  部屋から出て行ったのを確認して、崇人は漸く起き上がる。そして、彼は昨日したことを思い出して顔を隠した。  もともといた世界で三十五年間、こういうこととはまったく無縁だったというのに、この世界で僅か一年というタイミングで行為に及んでしまったこと。  目を瞑れば、昨日の様子が鮮明に思い浮かぶ。マーズの声、顔、胸……そして。 「……あー、もう!」  そんな邪な気持ちを払おうと無意味に叫ぶ崇人。起き上がって、脱ぎ散らかしたパジャマを着ると、彼はリビングへと向かった。  リビングではマーズが珍しくキッチンに立っていた。この『立っていた』というのは調理をするために立っているわけであってレトルト食品を使っているわけではない。  直ぐに崇人の鼻腔を焦げたような香りが擽る。そしてそれはウインナーを焼いている香りだと解った。 「ウインナー?」 「ぴんぽーん、大正解」  そう言ってマーズはフライパンで焼いていたウインナーに焦げ目がついたことを確認して、皿に盛り付ける。皿には既に野菜が盛り付けられており、メインディッシュのウインナーがそこに盛り付けられるのを今か今かと待ち構えていた。  そして、ウインナーが盛り付けられ完成、マーズは鼻歌を歌いながらそれをリビングへと持っていくのだった。  崇人は既に二人分のトーストを焼き終えていて、バターを塗っていた。 「お待たせ」  マーズはそう言って笑みを浮かべると崇人の前に皿を置いた。それを見た崇人は皿とマーズを何度も見返した。  マーズは疑問に思って彼に訊ねた。 「……どうしたのよ。そんなに人の顔と料理を見返して」 「い、いや……マーズっていつもレトルト食品だったじゃん? だから手作り感溢れるこれを見ているとちょっとな……」 「違和がある、とでも?」 「いや、そういうわけではないぞ。ただ……女の子に手作りの朝食を作ってもらった機会が『向こう』じゃなかったからな……。いつまで経っても慣れないのはそのせいなのかも」  それを聞いてマーズはほっと一息吐いた。 「なんだ。てっきり私は何か嫌なものでもあるのかと思っちゃったわよ」  それはないよ、という崇人の言葉を聞いてマーズは自席に腰掛ける。  そうして彼らは朝食に興じる事とした。  暫く食事は他愛もない会話とともに続けられた。二人とも昨夜のような経験は初めてだったからか、お互いに顔を見てしまうと直ぐにそのことを思い出してしまうくらいだった。 「……あ、そうだ。私、今日は城の方に向かう予定があるから」  思い出したようにマーズは言った。崇人はデザートのヨーグルトを食べようとするところだった。 「城? なんでまた急に」 「騎士団の再編計画……あれのまとめについて、最終的な案が出たとのことでね。まぁ、たぶんうちの方に来るんじゃないかなぁ……」 「またメンバーが……?」 「えぇ、一応二人って聞いてるけど……ただ、一人は精神の方に問題を抱えている可能性があるらしいわ。バックアップの唯一の生き残りらしいから」  バックアップの身に起きた残虐極まりないあの出来事は、戦争終了後にヴァリエイブルだけではなく世界に駆け巡ることとなった。  リリーファーを使うことなくリリーファーを倒すことが出来る存在――聖人。  その存在はリリーファーを戦争の主だった手段として使用する国にとっては、まさに脅威の一言にほかならなかった。  今まで知られることが無かった『聖人』の圧倒的な力と、それほどの存在を今までどの国にも隠し通した法王庁の力。他国はその二つに恐怖すら覚えた。それによってリリーファー一強だった戦争のシステムが変わってしまうのではないかだとか、まだ法王庁が何か大きな戦力を隠しているのではないか……そう考えるようになっていったのだ。  しかしこれは法王庁にとっては非常に有利なものだった。何故ならこの前のヴァリエイブルのように戦争を仕掛けられる確率が大幅に減るからだ。  とはいえ各国も聖人について対策を練らねばならないし、先ずは国力を増やす必要があった。その手段は国によって様々である。戦争を吹っ掛けて領地を奪い取ったり、国費中の軍事費率を上げたり、新しい兵器を開発したり、来るべき時に備えて国民用の保護施設を建設したりなどがある。 「そーいうわけで先ずは騎士団の抜本的改革を行っていくそうよ。その第一弾として、前回の戦争でほぼ壊滅状態になった騎士団の再編……ってわけ」 「ふうん」  崇人はマーズの言葉を聞いて、小さく頷いた。あの戦争は彼が思っていた以上に甚大な被害があったのだった。 「まぁ、それもあるから当分戦争は無いだろう……ってのが各国の意見だね。だってヴァリエイブルとペイパス、それに法王庁が和平を締結したから、基本的にそれが破られることはないでしょう? そして他の国はお世辞にもヴァリエイブルや法王庁より強い戦力を持っているとは言えないわ。秘匿しているのならば……話は別だけれど、これまでのスパイ行動からしてそれまで強力な兵器は開発されていないことは確認済みだからね」 「そういうとこは抜かりないよな……。そりゃ、無駄に戦争したくないから、ってのもあるんだろうけど」  崇人はそう言いながら残っていたヨーグルトをかっ込むと、立ち上がった。 「ごちそうさま。急いで行かなくちゃな」 「用意は?」 「もう済んでるよ、何の問題もない」  マーズはそれを聞いて立ち上がると、崇人の前に立った。  そして崇人の頬に軽く口づけをした。  崇人は何をされたのかまったく解らなくてマーズの方を見たが、マーズは愉悦な笑みを浮かべながら頷く。 「いってらっしゃい、タカト」  その言葉に崇人は気を取られてしまい、数瞬のラグが生まれてしまったが、そのラグの後、ゆっくりと頷いた。 6  学校に着いてからも、崇人は昨日のことを思い返していた。ただ色惚けていたわけではなく、未だに自分のした行為に整理がついていなかったのだ。  双方の合意とはいったものの、その行為に及んだ崇人の年齢が問題だった。  十一歳……崇人の世界でいえば小学校四年生くらいだろうか。ともかく、『子供』或いは『小人』というカテゴリに入るのは間違いない。そんな人間が行為に及んだのだ。  これは間違っているのだろうか? 崇人が居た世界なら、間違っているという世論の動きがあったかもしれない。  だが、ここは異世界だ。アルコールを飲むのは二十歳未満でも問題ないというのなら、そういうことについても何らかの齟齬があるのでは……、そう思ってしまう。  そして崇人は心にそんな疑問ばかりを浮かべていた。 「よう、タカト。どうしたんだ? そんなに考え込んでよ。実にお前らしくない」  ヴィエンスにそう言われて崇人は我に返った。  今は授業の合間にある休み時間となっていて、それぞれがそれぞれの休み時間を過ごしていた。 「うん……なんというかまぁ……大丈夫だ、何でもない」 「本当にお前、大丈夫なんだろうな? 進級試験での言い訳に使うつもりだとかじゃないよな」 「そんなことはあってたまるものか」  崇人は笑みを浮かべる。  そこで崇人はあることを思い出した。 「そうだヴィエンス……。今日の昼はいつものように時間があるか? 進級試験について、いい情報を持ってきたぜ」  その言葉を彼が放った瞬間、教室がシンと静まり返った。そして教室の彼方此方では「進級試験の情報?」「いやいや、あれは冗談だろ。そんなものがあるとは思えないぜ」「でも確かに聞こえたぞ。えーと、それを言ったのは……」とひそひそ話が聞こえてくる。崇人はそれが耳に入って、何処と無く嫌な予感がした。 「タカト」  その雰囲気を切り裂いたのはリモーナの言葉だった。瞬間、彼らはリモーナに視線を集中させる。 「……その情報を私たちに教えてくれることは出来ないかしら? 別に全部とは言わないわ。けど、何をするのか未だに発表が無い以上、クラスが不安になることはもはや当然なことなのはあなただって解ることでしょう?」  崇人は頷く。  リモーナの話は続いた。 「私が『全部』と言わないのは、あなたが手に入れた分かかった労力の対価を私たちが支払うことが出来ないからよ。労力を試算しづらいというのもあるんだけど、それでも少しくらい……教えてくれてもいいんじゃない?」 「別に……黙っていたつもりじゃないんだけどな……」  そう言って頭を掻くと、崇人は時計を見た。未だ五分ある。多少説明をするには充分過ぎる時間だろう。  崇人は立ち上がると教壇に立った。自然、視線が崇人に集中する。 「僕がみんなに情報を隠していたこと、本当に済まないと思っている。隠すつもりは毛頭無かった。だが……これが確実なのかどうか証拠がうまく見つけられなかった。でもまぁ、それも平たく言えば言い訳になってしまうのだけれど……」  崇人は俯いたが、直ぐに前を向いた。 「僕が知っている情報は幾つかある。その中で真っ先に言わなくてはならないこと……それはきっと、今回の進級試験は『シミュレートマシンによってアスレティックコースを走破すること』からだと思う」  淡々と告げられた事実に、クラスメートは沈黙した。 「それはほんとうなのか?」  クラスメートの一人が崇人に言った。  崇人はそれを聞いて、頷く。 「あぁ、アリシエンス先生から直接聞いたことだ」  崇人の言葉に出てきた人物の名前は、崇人の言った情報の信憑性を急激に高めるものだった。そしてそれはクラスメートである彼らでさえ理解していた。  崇人の言っていることは本当なんだ――多くのクラスメートがこの時そう思った。 7  その頃、ヴァリス城にある会議室にて会議が行われていた。会議の構成メンバーは以下の通りだ。ハリー騎士団副騎士団長マーズ・リッペンバー、メルキオール騎士団騎士団長ヴァルベリー・ロックンアリアー、カスパール騎士団騎士団長リザ・ベリーダとヴァリエイブル連邦王国国王レティア・リグレー、そして元バルタザール騎士団騎士団長フレイヤ・アンダーバード、法王庁から逃げ出してきた元神父アルジャーノン、バックアップ唯一の生き残りレナ・メリーヘルクである。今回ヴァリス王国の騎士団しか集められていないのはその問題がヴァリス王国のみのことだからだ。 「……さて」  レティアが重々しい口を開けた。  今彼女たちが話し合っているのは、マーズが崇人に言ったあることであった。  騎士団再編。  名前のとおり騎士団を再編する計画である。前回の戦争によって国力が大幅に疲弊してしまった。特にダメージが大きかったのはバルタザール騎士団だ。バルタザール騎士団はリーダーであるフレイヤ以外皆殺しにされてしまった。恐らくフレイヤは専用機を持っていたから、解析に時間がかかったのではないかという科学班の判断であったが、それをレティアは言いたくなかった。彼女は起動従士である以前にひとりの女性だ。聞かせたくない事実だってあることもまたあるだろう。それがその一つであることには、間違いない。 「騎士団再編について、先ずは私から概要について話す必要があるでしょう」  そう言って、レティアは手元にあるプリントを見た。 「手元にあるプリントを見てください。それを見ていただくと解るんですが、今回の計画では主にハリー騎士団について再編を行う予定です。ハリー騎士団はインフィニティを中心にして造られた新興の騎士団なのですが、この騎士団をバルタザール騎士団が無くなってしまった……補填という言い方は悪いかもしれませんが……そういう形にしたいと考えています」 「それじゃ、今フリーになっている起動従士は全員ハリー騎士団に入る。そういうことでいいのかな?」  訊ねたのはヴァルベリーだった。その言葉にレティアは頷く。  それを聞いてリザは呆れ顔で言った。 「それじゃ我々はハリー騎士団の再編プランについての是非を問うだけに集められた……そう考えられるのが自然だ」 「そう思われても仕方がないでしょうね……。私の力では生憎強制的に決めるのは不可能でしょう。それに騎士団長を集めて会議を開くのは法律的にも決められていることですよ」  その言葉にヴァルベリーは黙ってしまった。レティアはヴァルベリーを言葉で黙らせたなんて思っているかもしれないが、実際は違う。これ以上話をしても意味が無いと思ったから、到底解り合える存在ではないと思ったから、黙っただけに過ぎなかった。  レティアは視線をヴァルベリーからテーブルに置かれたプリントに戻す。 「……では、話を戻します。先ずはプリントをご覧ください。知っている方もいらっしゃるでしょうが……そこには今回再編対象となっている人間のプロフィールが載っています」  レティアの言葉を聞いて、マーズたちはそれを見ていった。詳しくそれについて彼女から語る必要も無いが、平々凡々という感じだったのは事実であった。  マーズはそれら凡てに目を通し、頷いた後に手を挙げた。 「どうかしましたか? 何か違和か疑問でも?」 「疑問……そうだな、まぁ疑問だ。フレイヤとレナは元々は国内に居る起動従士だ。同じ立場に居たからこそ、色んなことが解る。だからこそ彼女たち二人がどの騎士団に入ろうたって、誰も問題ないだろう」  ただし。彼女は人差し指をピンと立てて言った。 「問題となるのはもうひとり、アルジャーノンと呼ばれる男だ。なんでも、元は法王庁で神父をしていたらしいじゃない。敵国だった場所に居た人間を直ぐに信じろというのも無理な話よ。それに、ほんとうにリリーファーには乗れるんでしょうね?」  マーズの質問は、別にアルジャーノンを認めたくないからとかそういう理不尽な理由等ではなく、彼のプロフィールを見れば、まぁ大抵の人は浮かべるであろう『疑問』について訊ねているだけに過ぎないのだ。  アルジャーノンはマーズの話を聞いて頷く。 「発言しても宜しいでしょうか」  アルジャーノンは手を挙げて、レティアに発言の許可を求めた。レティアはそれを見て微笑んだ。 「許可します、どうぞ」 「ありがとうございます」  アルジャーノンはレティアに対して一礼。そして質問への解答を始めた。 「先ず第一に、私たち神父は全員聖騎士……リリーファーを乗れるように特訓を積んでいます。此方にもあるかどうか解りませんが、リリーファーの運転免許というものもありまして、それを所有している者は訓練をして基本的なリリーファーの操作が出来るようになった人間のことを指します。……あぁ、もちろん運転免許が手に入っても半年に一回近くのペースで追加訓練があるので、免許はあるけど操縦が出来ない、という人間は居ません」 「……つまり、『私は法王庁にしか適応されないが運転免許は持っている。だからリリーファーの操縦が出来る』……そんな猿でも言える理屈でこの場が通ると思っていたのか?」  マーズの言葉を聞いて、アルジャーノンは愉悦な笑みを浮かべる。 「それじゃ……操縦してみせましょうか。そうすればあなたは納得するんでしょうか」  マーズはそれを聞いて、後退りそうになった。アルジャーノンが放つ気迫が、マーズに感じられたからだ。  その気迫、一端の神父が持つものではない……マーズはそう思った。  レティアは緊迫になりそうな状況を見て小さく溜め息を吐くと、マーズは訊ねた。 「それで構いませんか、マーズ・リッペンバー。ほかの人も疑問に思っていたことでしょうが、元はあなたが訊ねたこと。あなたがそれで了承していただけるならば、直ぐに機会を設けますが」  それを聞いてマーズは頷く。 「構いません、別に私はいつだってどうぞ。そうですね……先ずはシミュレートマシンでやらせてみたほうがいいですかね」 「構いませんか、アルジャーノン」  今度はレティアがアルジャーノンに訊ねた。 「えぇ、構わないですよ」  アルジャーノンもその言葉に首肯する。これで両者の意見が合致した。 「それでは後日、アルジャーノンにはリリーファーのシミュレートマシンに乗っていただき、その技能をチェックすることとして……残りの二人に関して、そのままハリー騎士団に合流させても宜しいでしょうか」  レティアのその言葉を聞いて、彼女のそれに賛同するように、会議室に拍手が沸き上がった。  ◇◇◇ 「まさかあなたと同じ騎士団に、今度はあのときの逆の立ち位置になるなんてね」  会議室から伸びる廊下を、フレイヤとマーズは歩いていた。 「明確には少し違うわね。私は副騎士団長よ」 「でも騎士団の行動を決めているのはあなたなんでしょう? だったらあなたが騎士団長みたいなものなんじゃない?」 「フレイヤ……あんた相変わらず毒舌ね。タカトだってきちんと頑張っているのよ」 「未完成過ぎる」  フレイヤは唐突に、マーズに言った。  その言葉の意味を、直ぐに彼女が理解することは出来なかった。 「未完成なのよ、精神も、技術も。そりゃ学校に通っていない年端もいかない少年だから……ってのもあるのかもしれない。でも、彼は不安定よ。いつ『あの時』みたいに崩壊を起こしてもおかしくない。あの時はなんとかなったから良かったけど……二度目はきっとないでしょうね」 「タカトの精神は弱い。それは仕方がない、認めざるをえない事実よ。けど、それだけではいけない。誰かが支えてあげる必要があるの」 「それを私が支える、私がその役目を担う……あなたはそんなことを言いたいの?」 「えぇ、そうよ」  迷うこと無くマーズは確りと頷いた。  その反応を見てフレイヤは目を丸くした。マーズがそんな反応をするわけがない、強い意志を持って、ひとりの人間を守ることはあったが――僅か一年足らずしか会っていない人間のことをここまで信じることができるのか、そう思ったからだ。  フレイヤは笑みを浮かべると、呟いた。 「……マーズ、あなた変わったわね。あなたはそんな直ぐに人を信じるような人間じゃなかったのに」 「そうかしら?」  フレイヤの言葉に疑問を浮かべながら首を傾げるマーズ。  フレイヤはマーズの姿をずっと見ていた。だからマーズの気になっているところ、マーズの違っているところ、マーズの仕草を凡て理解していた。ストーカー、というと聞こえが悪いが、彼女は良き理解者のひとりだった。 「……もしかして、タカトと何かうまく行っているとか。そんな感じ?」 「え……、ええっ?」  マーズが顔を赤らめたのをフレイヤは見逃さなかった。  ガッ! と肩を掴んでマーズの身体を揺らす。 「ちょっと、マーズ! その反応はどういうことよ! もしかして、何か進展したの!? リアルが充実してきているの!!」 「ちょ……ちょっと、フレイヤ……。揺さないで……!」  フレイヤがその言葉を聞いて、行動を停止した。マーズは咳き込んで、フレイヤの方を見た。 「別に、私とタカトのあいだに何があってもいいでしょう? 男と女が一つ屋根の下で過ごしていて、一年間何もなかったほうが逆にすごいんだから」 「え……それってもう……?」 「やだ。そこまで私に言わせるつもり?」 「だって、タカトは十一歳……まだ訓練学校の一年生だろう?」  フレイヤの口調が徐々に早巻きになっている。彼女の中でもその話題についてヒートアップしているのだ。  マーズはもじもじさせながら、それに答える。 「……恋愛に年齢なんて関係ないじゃない?」  それはまさに名言とも言える言葉だった。フレイヤはマーズからその言葉を聞いて立ち止まると、脳をフル回転させた。マーズの言葉は至極単純なことであったが、しかし彼女にはそれが理解できなかった。  何度考えても、その答えはフレイヤには理解出来ないものであった。 「……なんというか、あんたってすごいよ」  その呟きは、マーズに聞こえることはなかった。 8  次の日は学校が休みだった。そのため別の学校に通っているコルネリアや、いつもは『新たなる夜明け』で活動を続けているエルフィーとマグラスとともに、ハリー騎士団の活動が出来る貴重な日でもあった。  ……とはいえ、戦争とか作戦とかそんな大それたものがあるわけではなく、今日はただの演習だった。シミュレートマシンを用いた模擬演習なので、リリーファーを使うこともない。  ハリー騎士団の面々はシミュレートセンターへと来ていた。先ずはメリアに挨拶をしようとマーズは言ったが、メリアはワークステーションの画面とひたすらにらめっこしていて、そんな余裕など無さそうだった。  しかし、彼女に話を通さねばシミュレートによる模擬演習が開始できないこともまた事実だった。代表としてマーズがメリアの部屋に入る。 「マーズ、そういえば聞いたんだけど」  マーズの演習申し込みを聞いたメリアは、それを適当に流しこう言った。マーズは一応彼女に話したからきちんとしてくれるだろう……そう思いながら訊ねる。 「何かあったの?」 「あんた……タカトとヤったんだって?」  それを聞いてマーズは顔を赤くする。 「ちょ、ちょっとそれ! どこ情報よ!」  どこ情報も何も、マーズがそれを言ったのはたったひとりだった。 「フレイヤがそれっぽいことを言ってたからね。気になっちゃって。それでどうだった初夜ってやつは? 痛いのかやっぱり? しっかしよくやるよなあ……相手は十一歳だろ?」  フレイヤはあとで個人的怨みにより練習量を八割増しにしよう、マーズは思うのだった。 「……あのね、別に年齢は関係ないでしょう?」 「いやいやいや、十一歳だぞ。私でも抵抗するなあ……どっちから誘ったんだ?」  こくり。マーズは頷く。  それを聞いてメリアはひゅーひゅーと口笛を吹いた。 「お熱いこって。それにしてもまさかあんたの方から誘うなんてねえ……。まあ、タカトもタカトで奥手そうだし誘うことはしないんだろうけど」 「……とりあえず、今日はフリートークをしに来たわけじゃないのよ」 「解っている、演習だろう? もう準備は進めてあるからシミュレートマシンのある部屋に向かってくれ。おっと、間違って第三シミュレートルームには行かないでくれよ。そこは『あれ』の置いてある部屋だからな。学生に見せてしまったら何があるか解ったものではない」  それを聞いてマーズは頷いて、部屋をあとにした。  第一シミュレートルームにはフレイヤの姿があった。彼女はマーズの姿を視認するとこちらに向かって手を振った。  それに対してマーズはフレイヤの腹に右ストレートを食らわせた。 「ひどいなあ、マーズ。初めて出会った相手にそれかい?」 「元はといえばあんたがあのことをメリアに言ったのが悪いんでしょうが! メリアがああいう面白いことを知ると百倍楽しむのを知っているくせに!!」 「でも、誰にも言うな……なんて聞いてないからねえ」  そう言ってクスクスと笑う。確かにマーズはフレイヤに『誰にも言うな』なんて釘を打ったことはなかった。 「だって面白いことはみんなに言って共有したほうがいいでしょう? だからあなたもいったんじゃないの?」 「そういうつもりで言ったんじゃ……」 「あ、あのー?」  それに割り入るように崇人は言った。それを聞いてマーズは顔を赤くして訊ねる。明らかにその挙動はおかしいと、第一シミュレートルームに居る人間凡てが感じていることだった。 「ど、どうしたのかしら……?」 「とりあえず、演習をやるならやったほうがいいんじゃないか? 時間的にも限られているし……。それに俺たち学生は宿題をやる時間だって勉学に励む時間だって必要だしな」 「……それもそうね」  マーズは頷くと、シミュレートマシンに電源を入れて、そこに入った。それに従うように全員がシミュレートマシンに入る。 『全員、シミュレートマシンに入ったかー?』  シミュレートマシン、そのコックピットの内部にメリアの声が響く。  直ぐに全員が『OK』のサインをメリアに送った。 『よし。全員が入ったのを確認したぞ。メンバーの総計は九人かな。それじゃ、終了するときはマーズ、解っているな?』 「そりゃあ、あなたが呆れるくらいやっているんだからそれくらいは、ね」  それを聞いてメリアは笑みを浮かべる。 『それじゃ、シミュレートマシンを起動するぞ』  そう言って、シミュレートマシンに備え付けられているファンが高速駆動を開始した。シミュレートマシンに接続されているケーブルの先にあるサーバ群の一つ――『ブルーグラスエリア』にハリー騎士団のメンバーの精神が電子化されて送信される。  精神の電子化技術は今でこそ一般化されているとはいえ、未だにきちんと活用できているのはこのシミュレートマシンのみだといえる。ほかにも様々な活用法が考えられたが、そのどれもが電子化を必要としないものばかりだったからだ。  精神、というより正確には脳の電気信号をシミュレートマシンが受け取って『擬似人間』として具現化する。それは難しいことではあるが、かといって一度技術が確定してしまえば難しい話ではない。  しかし、問題もある。サーバに供給される電源が切れてしまったらどうなるのか? サーバが熱暴走を起こして急遽電源を切ったらどうなるのか? などその問題は特にサーバについてだった。  そうしてシミュレートセンターが導いた結論はリリーファーに使われているエンジンの巨大版(ダウンサイジングに倣ってアップサイジングということもある)をシミュレートセンターに置いて、緊急時には即座にそれが発電できるようになっている。そして、その電気によってサーバを冷やす機械を動かしている。古風に見えるが、これが一般的で一番ひねりのないスタンダードなやり方だ。  シミュレートマシンが完全な電子空間に移動した。正確にはハリー騎士団の脳内信号が電子化されてシミュレートマシンに似た空間に送られていたのであるが、それを体感出来ない人間からすれば前者の方がすんなり飲み込める。  ブルーグラスエリアは広い草原のエリアである。高い山は無く、彼方此方に申し訳無さ程度に森林が配置されているくらいだ。  そして崇人たちがいる場所は、だいたいそのエリアの中心付近であった。 『無事、全九名転送完了しているな。……いや、しかし「ブルーグラスエリア」を選ぶなんてな……お前もなんというかスパルタだよな』 「そこまでしないと人は何も覚えないよ。但し、ずっとスパルタではなくて、時折アメをあげとかないとさ。別の方向に目覚める可能性も棄て切れないわけではないけど」  それもそうだ、とメリアは答えた。 「……というか、あなたさっき『九名』って言っていたわよね……。あれってどういうこと?」  そう。  マーズが最初に抱いていた疑問はそれだ。ハリー騎士団は、少なくとも今日来た人間だけなら七名、現地集合のフレイヤを追加しても八名なので、一名ほど足りないのだ。 『あぁ、それなら……』  メリアがそれについての説明をしようかと思った、ちょうどその時だった。  マーズの乗るリリーファーの目の前にいたある一機のリリーファーが敬礼をした。 『申し遅れました、私レナ・メリーヘルクといいます。あの時では普通に対面しているだけで、今回のようにシミュレートマシンの「世界」で出会うのは初めてになります』  それを聞いてマーズは驚いた。昨日の会議の時では彼女の様子がまるで心を抜かれたような感じだったからだ。  何処と無く痩せ細っていた身体を見てマーズは騎士団に在籍させたとしてもリリーファーを操縦させることが出来るのか? そう思っていたからだ。  だが、今の彼女を見てそんな不安など払拭されていた。  リリーファーが動いていたからだ。シミュレートマシンは何も乗っただけでリリーファーが操縦出来るわけではない。起動従士同様様々な条件が課せられるが、奇しくもその条件は起動従士の条件と等しいものだった。 「……大丈夫なのね。言っておくけど、泣き言なんて言っていられないのよ」  マーズの言葉を聞いて、レナは鼻で笑った。 『解っているわ、それくらい。それに私はバックアップだった人間。少しくらいのキツイ特訓でもへこたれることなんてあってはならないわ』 「それもそうね」  そう言うと、マーズはスピーカーを外部に接続した。 「今ここにいるリリーファーに乗っているのが、レナ・メリーヘルクだ。年齢的な意味では君たちよりも私の方に近いかも。だけれど、別に堅苦しくやる必要はないわ。だってあなたちの方が先輩なんだから」  マーズの言葉に、それをずっと聴いていたであろうレティアは吹き出した。 『私がそのレナです。聞いた通り、私に遠慮なんて不要です。ただでさえ実力主義である軍に残れるだけでも、私は国王に感謝しなくてはならないだろう。……だからこそ、私に油断や遠慮などしてはいけません。私は生き返った。そしてそれに感謝して生きていかねばならない』 「……さて、それじゃハリー騎士団が全員揃ったところで、作戦会議と参りましょう」  マーズがそう言って、改めて前を向いた。  そこには黒い何かが立っていた。それが生き物なのかリリーファーなのか解らない。四足歩行のようにも見えるが、生き物らしい温かみも見られない。かといって機械らしい雰囲気もない。 「……あれは……」  崇人は呟く。ほかの人間も似たような反応を示していた。  ――なんだというのだ、あれは。  崇人は、ヴィエンスは、エルフィーは、マグラスは、コルネリアは、それぞれそんな思いを抱いていた。  対してマーズはそれを予想していたのか、外部スピーカーへと接続して、伝える。 「……『ウイルス』だよ。少なくとも私はこれをそう呼んでいる」 「ウイルス?」  崇人は聞き返す。  マーズの話は続いた。 「ウイルスと言っても、そういう類のものではない。サーバに構成された電子的な世界に住み着いている『設定』の敵だよ。リリーファーみたいに電源を落とさない限り動き続けるとかそういうわけではなくて、心臓を潰せば死ぬ。人間と一緒だ。……そして、私たちの訓練はあれを倒すことだよ」  マーズはニヒルな笑みを浮かべたが、それがほかのメンバーに知られることなどない。  崇人はマーズからそれを聞いてある種の絶望に苛まれていた。彼らが今まで向き合ってきたのはリリーファーだ。リリーファーを倒していくことが出来たのは、たとえ人が入っていたとしてもリリーファー自体は生きていない存在だったからだ。  だが、ウイルスと呼ばれた存在は生きている。生きているのだ。生きている存在をそう簡単に殺すことが出来るというのか? それに、彼らが持っている武器は通用するとでもいうのか?  崇人はそう考えていた――が。 「タカト、避けろ!!」  予兆などなかった。  刹那、ウイルスは崇人の乗るリリーファーに噛み付いてきた。その場所は人間でいうところの頚動脈を正確に突いてきた。 「なんだっ……! こいつほんとうに思考能力が人間以下なのかよ……!!」  崇人は呟きながら、フロネシスに命じる。  ――しかし、反応などない。それは当たり前だ。なぜなら彼が乗っているリリーファーはインフィニティなどではなく、この空間のためにある擬似リリーファーだ。性能はニュンパイレベルと思って間違いないだろう。  彼はフロネシスからの返答がないことで、このリリーファーはインフィニティでないことを思い出す。突然の攻撃で何が起きたか、彼自身でも解ることなく、混乱してしまったのだ。 「……しゃーないっ!!」  リリーファーコントローラを強く握り、指示を送る。  何とかそれを引っペがそうとするが、しかし意外に固く、動くことがない。 「めんどくせえ……っ!!」  その時だった。  ウイルスが叫んだ。その叫びが泣いているような叫び声であったことは、なんとなくであるが理解できた。  なぜそんな叫び声を上げたのか――それは、ウイルスの背中に突き刺さっている巨大なナイフが原因だった。 「逃げろ、タカト!!」  それを刺したのはマーズだった。頷いて崇人はウイルスの身体を思い切り蹴り上げた。  ウイルスの身体は宙に浮いて、地面に倒れる。崇人はリリーファーコントローラを巧みに操って、マーズたちの場所へと戻る。 「……手間かけてすまなかったな」  崇人はマーズに向けて通信を送る。  対してマーズは微笑みながら、 「いいえ、別に問題ないわ。……というか狙って攻撃することができたし、寧ろ褒めてあげてもいいレベル」 「……ほんと、毒舌だな」  そう言って、崇人のリリーファーもコイルガンを構えた。 「さて……と」  崇人は頷く。 「発射っ!!」  そして。  ――ハリー騎士団のリリーファーから一斉にコイルガンの弾丸が射出された。 「意外にも簡単に終わってしまったね。演習とは聞いていたが、レベルも高い。メンバーとのコンビネーションもそれなり。うん、ばっちりなんじゃないかい? 来るべき時に備えておくことも一番ではあるし」  メリアはコントロールルームから見ていた映像を解析した、その結論を述べた。  メリアはそう言いながらも未だにワークステーションとにらめっこしている。崇人がこちらを向いて話すようにそれっぽく促してみたが流されてしまったのでそのままで話をすることにした。マーズ曰く、彼女も忙しいのだからそれを止めるわけにはいかない――ということだ。 「ともかく、ウイルスがちょっと弱かったのは私としては想定外だったかな」  マーズも、今回の演習の結論を述べていく。  けっして今回の演習は難しいものではなかった、ということは事実だ。そして彼女がそう思っていたこともまた事実であった。 「……ちょっと難易度の調整をしてみる必要があるかしらね」  そう言ったメリアの目が輝いていたことに、唯一気づいたのは彼女の一番近くにいたマーズだけだった。 9  二月十九日。進級試験が始まる、その前日のことである。リリーファーシミュレートセンターは開始前日になっているにもかかわらず、アスレティックコースの最終チェックに追われていた。  マーズ・リッペンバーとアルジャーノン、それにフレイヤがやってきたのはそのタイミングのことであった。今までならばワークステーションに視線を置いたまま話すのだが、ストレスがピークに達しているためか面と向かって話をしている。 「すごいクマね……少しは休んだら?」 「ほんとは休めるはずの時間だったのに、国王陛下がこの時間にシミュレートマシンを稼働させるよう来たからね。労働の法律でも作って基準を設けて欲しいくらいだ。これが終わったら私は休む。絶対にだ。誰の命令も聞かない」 「いやいや、私の演習はどーなんのよ?」 「あんたは演習しすぎなのよっ!! 少しは家で身体を休めておけよ、有事に備えて!!」 「有事と言われても……やはり身体を動かさないと鈍ってしまうのは事実だしね。あ、でも今日は私じゃないし、あなたと一緒に観測する側よ」  それを聞いてメリアは首を傾げる。そして、次第に笑みを浮かべていく。 「へえ……。あなたがそうなんて、珍しいじゃない。明日は雪でも降るかしら?」 「よしてよ。それにまだ雪が降ってもおかしくない季節だっていうのに。……そうじゃなくて、今日は彼が行うの。フレイヤと私はそれを見学してその真価を判断するってだけ」  それを聞いたメリアはアルジャーノンに視線を送る。嘗めるように見つめられているためか、アルジャーノンも若干ながら緊張してしまっていた。  アルジャーノンを見て、メリアはふうんとだけ言った。 「あ、あの……その意味って……?」 「いいや、特に意味はないわ。ところで、演習だっけ? いいわよ、とりあえずシミュレートマシンの部屋へと連れて行ってあげて」  その言葉にマーズは静かに頷いた。  ◇◇◇  シミュレートマシンにアルジャーノンは乗り込む。息を吐き、整える。彼は緊張こそ和らいだようだが、あまりに久しぶりのことなので実際に動かすことが出来るか――それが不安で仕方なかった。  シミュレートマシンに載せられて訓練をしているわけではない、ということもあるだろう。それ以上に彼は一度も実戦に参加することがなかった、という点が挙げられる。  出動したときに躊躇なく人を殺すことは出来るのだろうか。そしてそれは神に反することなのだろうか――そう思うのだ。  だが。  彼は自分でこの道を進むことを選んだ。もう後戻りすることなど出来ない。  アルジャーノンはリリーファーコントローラを強く握った。  それは自分の意志を確かめるために。  それは自分の意志を確固たるものへと変貌させるために。  アルジャーノンが向かった演習先はブルーグラスエリアとは違った趣のあるエリアであった。一言でいえば、彼の乗るリリーファーの目の前には、巨大な火山があった。 『ここはボルケイノエリアだ。名前のとおり、エリアの中心には巨大な火山がそびえ立っている。それをうまく使うというのも手だな』  コックピットにメリアの声が響く。  それを聞いてアルジャーノンは頷いた。  しかし。  まだ気になるところが幾つかあった。 「あの……僕は何と戦えば?」  その言葉に、メリアは失笑する。 『何を言っているんだ、君の目の前に立っているじゃないか』  それを聞いて、改めてアルジャーノンは前方を見た。  そこには、立っていた。紛れもなく、隠れることもなく、堂々と立っていた。  それは赤いリリーファーだった。背後にそびえる火山から漏れ出てくる溶岩のような、ドロドロと粘度の高い『赤』。溶岩にずっと浸かって染み込んだようにも思える、その赤い姿がアルジャーノンの目に焼きついていた。 「あれが……敵だというのか」  まるで、まるで、まるで、実在しているみたいではないか。本当にその場に存在しているようではないか。ここが現実世界であると言われても違和がないくらい、恐怖が彼の心の中にあった。 『んん。どうした、まさか怖いのか?』  恐らくコントロールルームには血圧や心拍を見る何かがあるのだろう。それを見てメリアは彼に言った。その口調は彼を慈しむ思いではなく、彼を煽っていくような、下に見ている感じの方が強かった。 「……まるで蔑んでいるようなそんな感じですね。僕にはこれが出来ない、とでも言いたいんですか? 残念ですがあなたたちの考えは手に取るように解りますよ。機械で血圧とか心拍とか計らなくても、声を聞いただけで……」 『……だったら、倒してみたらどうだ。御託を言わずに倒す。実力を示してからくどくどと話してみるのが一番だと思うが』  メリアの言葉は一理あった。そのとおりだった。御託ばかり連ねている人間は基本的に(若干の例外こそあるが)実力がそれに伴っていないケースが殆どである。実力がある人間はあまりその実力を開け広げることもなく謙虚に対応している。大抵そういうものである――とメリアは半ば勝手な考えで行動している。  アルジャーノンに対してもそういう対応で返した。彼がこれで御託ばかり言う人間なのか、実力がそれなりにあって発言しているのかが解るのだ。  アルジャーノンはメリアからの通信を半ば強引に切って、目の前を再び見た。敵のリリーファーは目の前に立っているが、とはいえあれは電子空間に具現化されたコンピュータプログラムである。だから、人が乗っているわけではない。あれが完全に壊滅したとしても中にいる起動従士が死ぬことはないしそもそも起動従士は入っていない。だから安心して殺せる。だから安心して壊せる。だから安心して攻撃できる。  ――でも、その一撃を出す、その行動へと踏み出す一歩が出来ないのだった。怖いわけではない、恐ろしいわけではない、彼はそう思っているかもしれない。だが、根底にはリリーファーが『怖い』という思いがあるのだろう。  震えて身体が動かない。  痺れを切らしたのか、敵のリリーファーが行動を開始する。AIは非常に高性能であり、漸く動けるようになったアルジャーノンがコイルガンで攻撃しても直ぐに避けられてしまう。  そして。  敵のリリーファーは装備していたナイフでアルジャーノンの乗るリリーファーを貫いた。 10  結果は最終的判断を下す国王が見ることもなく、明らかだった。 「……私は長年シミュレーションの映像を見てきていたが、これはひどい。最低最悪だ。こんな人間をよく騎士団に入れようなどと審議をしたものだよ、国王はいったい何を考えているというんだ……」  メリアはそのあとぶつぶつと呟き始めた。  マーズは一瞬でもアルジャーノンが、崇人みたいに力を発揮するのではないかと淡い期待を抱いていたがそれも杞憂だった。 「……とりあえず、今日は帰りなさい。私からあなたの結果については報告しておくから。メリア、今回の演習のデータ、もらえるかしら?」 「もらえるもなにも、もう送信しちまってるよ。だから、あっちには報告がいっているはず」 「さすがメリア。やるわね」 「……そんなことより私は今から急いで進級試験の最終チェックに入るから、もう帰ってもらってもいい?」 「えー私もやりたかったのに」  そう言ってマーズは頬を膨らませる。  対して、メリアは何も言うことなく椅子を回転させて再びワークステーションに何かを入力しているキーボードの打鍵音が響き始めた。 「……帰りましょう。こうなったらもう彼女は何も聞いてはくれない。ところでアルジャーノン……だったかしら、あなたどこに住んでいるの?」 「一応私の家だけど……」  そう言って恥ずかしそうにフレイヤは手を挙げる。 「……なに、アルジャーノンはフレイヤのヒモってわけ?」 「ちょっとそれは言い方がきつくないかな!? 少しは働いてもらうよ! えーとほら……神父さんとか」  そもそも法王庁から逃げてきたというアルジャーノンが神父をして問題はないのだろうか、なんてことを思うマーズだったがそんなことを今言うのはとても野暮なことだった。  だから彼女はそれを咎めることなどせず、ただ溜息を一つ吐いたのみだった。 11  舞台は変わって、崇人たちの通っている学校でも緊張感がひしひしと伝わってきていた。それも当然だろう。明日の進級試験をクリアしなければ進級要件を満たしていないということになるのだから、事実上の『留年』ということになる。留年は恥ずかしい制度であるから、誰もやりたがらない。しかしながら、例年数人の留年生は輩出(というと少々表現がおかしいのだが)している。 「……明日かあ」  崇人は食堂でうどんを啜りながら呟く。 「ほんと、それだよね。少し前まではまだ時間あるねーとか思っていたんだけど。というか、転校して二週間で進級試験とか受けて、私受かるかな……」  リモーナはそう言ってカレーを一口。 「でもリモーナはリリーファーの操縦も上手いし大丈夫でしょ? まあ、今回の試験はシミュレートマシンで行うから実際の機械と違いはあるかもしれないけれど……それでも、リリーファーがあれだけつかえるなら問題ないと思うよ」  崇人は言った。それに対して賛同するようにヴィエンスも頷く。  彼もリモーナの才能には疑う余地もなかった。彼女が最初に受けたリリーファーを駆動させる授業において先生のアリシエンスから「これほどまでの技能を発揮出来るとは、驚きです」という高い評価を得たのだ。  だから彼女は心配するまでもなく進級できるだろう、というのがヴィエンスと崇人の考えだった。とはいえ、『絶対』というのは有り得ない。どんな場合においてもイレギュラーな状態は有り得るのは事実であって、それを考慮せねばならないのだ。だからこそ、慎重にいく必要がある。 「まあ、気を抜いて。落ち着いていった方がいいだろうね……。アリシエンス先生も言ってただろ? そこまで難しい難易度ではない、普通にやっていれば普通にクリア出来るレベルだって」  崇人は授業中にアリシエンスが言っていた言葉を思い出す。  それでも、崇人はマーズから聞いたアスレティックコースの内容が不安で仕方なかった。市街地と海。未だ内容がはっきりしていない部分は対策のしようがない。アリシエンスも『アスレティックコースをシミュレートマシンを用いて走破する』とだけしか言っておらず、内容については言及していない。  それが彼にとって疑問だった。隠す必要はあるのか、ということだ。それについてアリシエンスに訊ねたところ、小さく溜息を吐いて、彼女はこう言った。  ――戦争も、事前にコンディションがどうなっているのか教えてもらうことはできません。それは神様か何か……ともかく人間とは別の次元を生きる何かの気まぐれによって変えられてしまうのです。ですが、今回の試験はそんなものが関係ないシミュレーション上でのお話。とはいってもあなたたちは将来、例外はもちろんありますが、起動従士になるべくここに来たのです。戦場を、体験しなくてはいけないでしょう。いずれ、やってくるその時のために。  それは道理だった。いつか彼らはリリーファーに乗って戦場に出向くのだ。そこでのコンディションの把握と戦況の判断は個人で行わなくてはならない。  そのための予行演習として、今回の試験がある――なるほど、そう言われてしまうと崇人も何も言い返せなかった。 「まあ、要するにアリシエンス先生のほうが一枚上手だったって話だよな……」  崇人は独りごちる。  ともかくこれからのことを考えねばならなかった。アリシエンス曰く今回の進級試験は別にチームを組んでも構わない、とのことだった。ただしメンバーは三人までと決定しているため、クラス全員が一つのチームになることは不可能だ。  そういうわけで崇人はヴィエンスとりモーナの三人でチームを組むこととなった。チームは大抵三の倍数くらいがちょうどいいとされている。三人ならばそのうち二人が一人づつ意見が分かれてしまったとしても、残りの一人がその仲介役に回ることが出来る。六人、九人……と増えていけば多数決の時に大変楽になる。ただし、奇数に限る。そうでないと多数決でハーフ・アンド・ハーフになってしまうからだ。 「アリシエンス先生の話はそれとして、シミュレーションってどこでやるの? 学校?」 「学校じゃないよ。シミュレートセンターっていう場所があるんだよ。そこにシミュレートマシンってのがあって、それから仮想空間にダイブするんじゃないかな」 「詳しいのね、タカトって」 「そりゃ騎士団だからね」  リモーナも、クラスメイトとおなじく崇人とヴィエンスが騎士団の一員であることは知っていた。  だから崇人とヴィエンスには尊敬の念を抱いていた。 「……ほんと、すごいよね。タカトとヴィエンスは。こんな、私たちと一緒の年齢から騎士団として活動しているんだから」 「まあ、すごいのは俺じゃなくてこいつ。しかもこいつが操縦するリリーファーのことだがな」 「知ってる。インフィニティ……だっけ? よく新聞でも載ってるよね」  インフィニティは、もうこの頃にもなれば新聞や各種マスメディアでよく報道されるようになっていた。  曰く、秘密裏に開発した最強のリリーファー。  曰く、古代の遺跡から発掘された古代人の遺した異物。  インフィニティには様々な尾鰭がついた噂が広がり、今やインフィニティをモデルにした映画や小説まで話が広がっているというのだから、その展開について末恐ろしく感じてしまう崇人であった。 「インフィニティは最強のリリーファーだ。なんでも、自分で動くことが出来るんだからな。えーと、なんていうんだっけかそういうの」 「自律型?」 「それな」  そう言ってヴィエンスはフライドポテトを一つ摘んで頬張る。 「ともかく、その自律型OSがインフィニティには備わっている。だから理論上誰でも操縦は可能なんだ。だが……生憎コックピットに入ることを許されたのはタカトだけ、ってことだ」  あの時のことを、崇人は今でも詳細に覚えている。インフィニティに声をかけたら、それが一致したとしてコックピットに誘われる。……あの時はまだ彼の外見は会社員のそれだったが、姿かたちが変わっても声紋そのものは変わらない。 「インフィニティには様々な起動従士が……俺たちの先輩にあたる人間だな、起動従士たちが入ろうと試みた。なにせ最強という名前を冠しているんだからな。乗りたいと思う人が多いのも道理だ。俺だってそれは乗りたかったからな」  ヴィエンスは崇人の方をチラッと見る。  崇人は照れくさかったので頭を掻いた。 「……俺としてはどうしてこいつがインフィニティに乗れたのかが疑問で仕方ないが、何か細工をしたとは思えないし、やっぱりそういう天啓でもあったんだろう。そのへんは俺だってあきらめがつく。だが、ほかの人間はどうだろう? 今までインフィニティに乗ってやろう、乗って国王からえらい称号を手に入れようなんて、最強のリリーファーを自身の昇格の手土産にしようと考えていた起動従士はどうなると思う? 突然現れたインフィニティの乗り手に困惑するだろう。そしてそれは次第に怒りに変わるに違いない。起動従士になった人間は様々な事情があるからな。優秀な人間でも親に認められることがなかったり、家が貧乏で何とか起動従士になって偉くなってお金をたくさん欲しいと思っていたり……様々な野心を持っている人間ばかりだ。さて、そんな人間たちが、インフィニティの乗り手……つまりタカトに何の攻撃もしてこないあろうか。答えは言わずもがな、ノーだ。そんなことはない。絶対に攻撃をしてくるに決まっている。タカトさえ死んでしまえばインフィニティの乗り手は再び空白、乗り手を探すために様々な選考が再開されるからな」 「……インフィニティって、そんなにすごいリリーファーなんだ」  ヴィエンスからの言葉を聞いてリモーナは頷く。ヴィエンスの話は長いものであったが、しかしポイントは掴んであるため、とても理解しやすい内容であったのは事実だった。  ヴィエンスは咳払いを一つ。 「……まあ、結論から言えば、タカトはこれからも狙われる可能性が高い。しかもインフィニティが暴走したというニュースがあってからは尚更だろう。あれは箝口令を敷いたなんて言われているが、人の口に戸は立てられない。いつかはどこかから漏れてくるものだ。だからタカト、お前には力をつけて欲しい。これはインフィニティの起動従士というお前の立場を守るためでもあるし、ハリー騎士団団長という立場を守るためでもある。そしてそれは、ハリー騎士団の興隆のためにも、必要なことだ」  ヴィエンスはそう言ってフライドポテト最後の一本を口に放りこんだ。 「仰々しい話をしているなあ……ヴィエンス。少し気を抜いたらどうだい?」  ケイスはその話を聞いて笑みを浮かべる。 「部外者には用はない」  対して、ヴィエンスの反応は冷たかった。  それを聞いて、ケイスは頬を膨らませる。 「そう言われると僕もなんだか腹立たしいものを感じるね。第一、今は僕だって会話に参加しているじゃないか。それ以上に何が必要だ? 会話の上では、僕は部外者じゃないぜ?」 「……相変わらず御託が好きだな、ケイス・アキュラ」 「おおっと、君にフルネームを呼ばれるのは随分と久しぶりだねえ」  ヴィエンスとケイスの話はさておき。 「ともかく、俺たちも俺たちで何か作戦を立てなくちゃいけないと思うんだ。……ヴィエンス、リモーナ、今日どこかで集まれないか? 一番手っ取り早いのは俺の家なんだが……」 「お前にはマーズ・リッペンバーという彼女がいるだろうが」  そう茶化したのはケイスだった。 「いやいや、そういうわけじゃないから……」 「タカト、マーズと付き合っていたのか」 「えっ? この前のアレで知らなかったの?」 「いや、まったく興味なかったから聞いてなかった。そうか、知らなかった」  ヴィエンスはニヤニヤと崇人を見ながら笑みを浮かべる。  まるで『いいオモチャを見つけた』などと思っているようだった。 「……ま、まぁいい。ともかくどうだ? 今日は俺の家でチーム内の作戦会議というのは」  その言葉にヴィエンスとリモーナは同時に頷いた。 12  崇人が家に入り、いつものようにただいまと言う。それから一歩遅れてヴィエンスたちがお邪魔しますと告げた。  しかしながらマーズの反応は無かった。最初は居ないのかと思ったが、リビングから明かりが漏れているのでただそれに気付かなかっただけ――というのが、どうやら正解のようだった。 「あいつ、本当に『女神』と謳われる起動従士なんだろうな……?」  一部の人間から聞けば怒号と非難が飛びかねない発言だったが、しかし彼はそんなこと気にも止めなかった。  リビングの扉を開け、彼は中に入る。そこには大方の予想通り、マーズの姿があった。彼女は今、完全なオフ状態になっていた。具体的にいえば、テレビを点けていて、それをそのままBGMにでもしてうつ伏せになって漫画を読んでいた。右手にはスナック菓子のようなものがあったが、テーブルに置かれている袋の残骸から見て本日二袋目らしい。  さらに彼女の格好も非常にラフなものだった。白のタンクトップに黒のスパッツ、あとは何も着ていないように見える。流石に下着くらいは着用しているだろうが、裏を返せばそれ以外は何も着ていない可能性がある、ということだ。  ……因みにそれくらいラフな格好でいるのは暑いからという理由でも無さそうである。何故ならリビングの中は適切な温度に保たれていて、暑くもないし寒くもないからだ。 「……ただいま」 「なんだ、早かったじゃない。電話とか無かったから今日も補習かなーとか思っていたよ」  マーズは二回目の崇人の言葉で漸く反応を見せた。とはいえそれは漫画から視線を動かさず、というわけだが。  崇人はヴィエンスに合図を送る。そしてヴィエンスもそれを見て頷いた。 「お邪魔します、マーズ副騎士団長」  わざとらしく敬称までつけて、ヴィエンスは言った。マーズはそれを聞いて光速の如き速さで振り返る。  そしてヴィエンスとリモーナを目視して、マーズは固まってしまった。自分のオフの姿を見られるのがよっぽど辛かったのかもしれない。 「えーと……タカト? 何これどっきり? 私まったく聞いてないんだけどさ」 「正確にはさっき急に決まってな。明日進級試験だろ? それがチームを組んでもいい、って話でさ。そんなわけでヴィエンスと……そこにいるリモーナと組んだわけだ。それでその作戦会議をしようとその場所を探したわけなんだが……」 「私の家が手っ取り早い、そういうことかしら?」  マーズはもう起き上がっていて、胡座をかいてクッションを抱いていた。何かしてないと落ち着かない性格なのか、時折クッションを弄くっている。  マーズの言葉に崇人は頷いた。 「あぁ、今日は泊まりで考えようと思ってな。明日はシミュレートセンターに直接集合……ってことになっているんだ。ここからなら若干近いだろ?」 「まぁそりゃそうだけど……って泊まり!? それなら尚更早く言ってよ!」  因みにヴィエンスとリモーナはそれぞれの保護者に了承を得ている。初めは保護者も難色を示していたが、『女神』の名前を出した途端に「それなら構わない」という意見でまとまってしまった。  それほどに女神という称号は絶大であり、信頼されている。そのやりとりを間近で聞いていた崇人はそれを改めて思い知らされるのだった。 「……二人とも、まあ聞くことはないだろうけど、保護者の了承はとっているのよね?」  マーズの言葉に二人は静かに頷く。  即ち二人とも泊まる気満々だということだ。  その反応を見て、マーズは溜め息を吐いた。 「まぁいいわ。部屋は好きに使って。ご飯を作るには……未だ早いわよね。会議は何処で?」 「マーズさえ大丈夫なら、ここでやりたいところなんだが……」 「ここで? まぁ別に構わないけど……。ちょっと待って、今片付けるから」  そう言ってマーズはいそいそとテーブルに置かれているスナック菓子の袋や漫画本を持って自分の部屋に運んでいく。  ソファが片付いて、崇人たちが座れるようになったのはそれから十分後のことだった。各々足元に荷物を置いて、飲み物を持ってきて、腰掛ける。  崇人が一口コップに入っているお茶を飲んで、言った。 「それじゃあ、会議を始めようか。なに、時間はたっぷりあるから焦らずにいこう」 「先ずはコースの概要がないと何にもならないんじゃないか?」  開始早々にヴィエンスはツッコミを入れた。 「そう言われてみれば……マーズ、持ってたりしない?」 「あることにはあるけど……」  崇人がマーズに有無を訊ねたのは『コースの概要を地図にまとめたもの』だ。それがあれば説明も容易に出来る。  マーズは確かにそれを所有している。しかし、彼女がそれを所有しているのは、あくまで当日の防犯対策のためにもらったものだ。因みにマーズが当日シミュレートセンターに行くことを知っているのは崇人だけだ。 「タカト……まさか私が明日行くことを知っててそれを聞いたんじゃないよね?」  マーズは思い切って訊ねた。崇人は「バレた?」とでも言いたげな悪戯っぽい笑みを浮かべていた。  それを見てマーズは深い溜め息を一つ。 「……流石にそれを見せることは出来ないわ。教えることは、もしかしたら私がもののはずみで言ってしまうかもしれないけど」 「そのもののはずみでいい」 「……冗談を理解した上で言ってるの?」 「ああ。勿論だ」  マーズはそれを聞いて、ソファの後ろにあるホワイトボードに触れた。元々は片付けの苦手なマーズがその片付けが出来ていない部分を隠すために置いたものだったが、今それを使うべきだと彼女は考えたのだ。  彼女は備え付けられていた黒いペンを使ってホワイトボードに文字を書き込んでいく。野原、岩山、市街地、海、地下の大迷宮……単語だけがホワイトボードに並べられていた。 「これが明日のアスレティックコースの概要。上から下に流れる形になるかしらね。これが一つどれくらいあるとかは流石に言えないけど」 「ありがとうマーズ。これで充分だよ」  そう言って崇人は立ち上がると、マーズから黒いペンを受け取った。 「……んじゃ改めて作戦会議といきますか……!」  ――彼らの会議は最終的に、徹夜とはいかなくとも深夜まで続けられた。本当はもっと作戦を煮詰めるべきだと考えていたが、しかし睡眠時間を削ってしまうと当日に響いてしまう。だから結局急拵えで意見をまとめあげて、それを最終的な作戦ということにした。若干の不安は残っていたが、作戦がノープランのまま本番を迎えるよりは充分だった。  そして、日付は変わり、二月二十日――進級試験、その当日がやってきた。 13  二月二十日。  ついにこの日がやってきた。  シミュレートセンターには起動従士クラス五十名が集まっている。 「それでは、今日は皆さんお待ちかねの進級試験の日です。今まであなたたちが積んできた鍛錬を、練習を、その成果をここで発揮するのです」  アリシエンスの声を聞いて、クラスは歓声に包まれる。当然だろう。今日のために彼らが頑張ってきた努力は計り知れない。それを今日凡て発揮できるというのだから。 「いやー、それにしてもすごいな」  挨拶終了後、崇人とヴィエンス、それにリモーナは準備体操をしていた。しかしながらその準備体操は崇人がやっているラジオ体操に準拠しているものだが。  崇人がやっているラジオ体操に「何それ?」と声をかけたリモーナが参加し、だったらヴィエンスもやればいいと言ったリモーナの一声で半ば強制的にヴィエンスもやっている――というわけである。 「……それにしても、この体操案外いいな。血が身体に廻っている感覚が確かにあるぞ」 「そりゃそうだ。ずっとこの体操をやっているんだからな」  崇人はそう言って胸を張った。 『それでは皆さん、シミュレートマシンに入ってください』  マイクを通してアリシエンスの声が聞こえたのはこの時だった。 「おっと、急いで行かなくちゃな」  そう言って彼らは頷く。  そして、五十名全員がシミュレートマシンに乗り込んだ。シミュレートマシンは崇人が時折乗っていたあのタイプとは異なるようで少々窮屈だった。しかし、今更言ってもそれが変わることは到底ありえないので、言わないでおいた。 『聞こえますか、皆さん。私は今回管理を担当するメリア・ヴェンダーというものです』  メリアの声はいつもより落ち着いているようにも聞こえた。いつもの彼女の声を知っている崇人は笑いそうになったが、それは流石にまずいので噛み殺した。 『今回のアスレティッコースはあまりにも長いです。たくさんの苦労も苦難もあるでしょう。ですが、一年間鍛錬を積んできた学生のみなさんならばこのコースは一発でクリア出来る……そう思って今回制作しました』 「ほんとにそんなこと思っているのか」  呟いて、崇人はリリーファーコントローラを握る。今は未だ仮想空間に飛ばされていないためそれを握ったって無意味な行動だ。 『今回、仮想空間での試験となりますが、何かあった場合強制的にログアウトとなります。ですから、安心して今回の試験に臨んでください』  まあ、それくらいのアフターケアくらいは大事にしないとな、と崇人は思 った。 『それでは、仮想空間へとダイブを行います。人には酔ってしまうことが考えられますが、その場合はコックピットにある呼び出しボタンを押してください。即座に中止します』  そして、コックピットから見える景色が暗闇に包まれた。  数瞬ののち、景色が野原になった。どこまでも広い草原だ。そこに五十機のリリーファー。壮大な光景だった。 「すげえな……これほどまでのコースを作っちまうんだから、やっぱりメリアってすごい人間なんだな……」  崇人は独りごちる。 『タカト、一応言っておく』  ヴィエンスからの通信が入った。  崇人は慌てて返信する。 「どうした?」 『……どうやら自動的にメンバーには声が聞こえるようになっているらしい。これはデフォルト設定だろうな。だから、聞かれたくない言葉があるんなら早めに切っておいたほうがいいぞ』  それを聞いて崇人は鳥肌が立った。それじゃさっきの言葉もすべて聞こえていたというのか。別に聞かれて恥ずかしい言葉があったわけではないが、とはいえ聞かれてしまうこと自体で恥ずかしいのは自然だ。  ともかく、そんなことより大事なのはこのコースを走破することだ。走破しなくては意味がない。 『そうだった。最後に忘れていました』  全員のコックピットにアリシエンスの声が響く。 『……制限時間はスタートから日付が変わるまで。ですので、あと十四時間二十七分……ということになります。それ以降は……失格として扱いますので、そのつもりで』  そして。  コースのスタートラインに五十機のリリーファーは並んだ。崇人、ヴィエンス、リモーナは一直線に並ぶ。  即ち、速さを競っているわけではないのだ(制限時間こそあるが)。無事にゴールできることが大事なのである。それを理解した崇人は呟いた。 「……命を大事に」  それは彼が元の世界で遊んだロールプレイングゲームに出てきたコマンドの一つだった。なぜ彼がそれを呟いたのかは彼自身ですら解らなかったが今の状況を示すには一番の言葉だった。  その言葉を聞いていたはずのヴィエンスとリモーナがどう思ったかは、崇人には解らなかった。  そして。  号砲が鳴り響く。 14  白の部屋ではテレビでその光景を眺めていた。 「……帽子屋ってこんなもの好きだったっけ?」 「うん?」  テレビに集中していた帽子屋に、一つ溜息を吐いてハンプティ・ダンプティは訊ねる。  帽子屋は笑みを浮かべながら振り返り、ハンプティ・ダンプティに言った。 「別に僕はこんな幼稚でくだらない行事なんか好きで見ているわけじゃないさ。作戦に関係なかったら早送りしたいレベルだよ。さっさと次の段階に進めたいくらいさ」 「……君のその口ぶりからすると『二代目』が目覚めるのか?」  その言葉に帽子屋は頷く。 「なんというかね、二代目が目覚めるんだけど、その行動がひどく人間臭くて面白い。彼女がずっと思っていた、不満が大きく弾けるんだよ。面白いとは思わないかい?」 「それじゃ、まだ行動に移していないのかい?」 「いいや、移すよ。絶対に今日ね。なぜならもう彼女はもうあのシミュレートセンターに侵入している。面白いね。あんなにセキュリティーをがちがちにしているのに簡単に入れるんだから。さすがは軍人といったところかなあ」  帽子屋はそう言ってテーブルに置かれていたミルクティーを飲んだ。  そして彼らは再びテレビの画面に集中した。 15  外部端末――というよりも使われていないシミュレートマシンがこのシミュレートセンターには幾つか存在している。その殆どは電源を抜いているから動くことはないが動くやつもある。  それは最新型のシミュレートマシン……実験型だった。実験のために置かれていたそれだったが、彼女にはそれが都合良かった。  彼女はケーブルを通してパソコンをつなぎ、そこにUSBスティックを挿す。そしてUSBに入っていたデータがパソコンを通してシミュレートマシンへ入っていく。  結果は直ぐに解った。パソコンの画面に、こう書かれていたからだ。  ――プログラム・スサノオ。インストール完了  それを見て彼女は笑みを浮かべる。これで彼女の作戦が実行出来る。これで彼女が彼女の野望を叶えることが出来る。それがとても嬉しかった。それが楽しみで仕方なかった。  そして。  彼女はシミュレートマシンに乗り込み、電源を入れて――仮想空間へと飛び込んだ。  異変に一番最初に気がついたのはクラスメートの一人だった。彼はもう岩山エリアに突入しており、ほかのクラスメートを速さで圧倒していた。  彼はチームを嫌っていた。一番早くいくのがいい……そう思っていたのだ。そして彼はそれを有言実行しようとしていた。 「俺の勝利はこれで揺らぐことはない……!」  そう呟きながら、山を登っていた。  その時だった。  岩山の向こうから一機のリリーファーが見えた。  それは彼ら学生が乗るような量産型リリーファーではない。黒いカラーリングで赤い目を持つリリーファーだった。  最初、彼はそれがリリーファーではなく何かの獣ではないかと錯覚した。  しかし、そんなちんけな考えは直ぐに払拭されることになる。  ――彼の目の前にいるリリーファーが、姿を消したのだ。  彼は驚いた。どこへいったのか、あたりを見渡した。  だが、彼がそう思ったときには遅かった。  彼の乗るリリーファーが上半身と下半身に分断させられていた。  上半身は地面に倒れ、下半身はそのままのポーズを固持していた。彼は何が起きたのか解らず、リリーファーコントローラをただ弄っていた。  しかし。敵はそんな甘くなかった。  そのリリーファーはゼロ距離でレーザーガンを彼の乗るリリーファーに撃ち放った。  そしてそのリリーファーの上半身は、地面を抉り取って霧散した。  その被害を初めに知ったのはコントロールルームにいたメリアだった。メリアはワークステーションを何度も見て、言った。 「こんな強力な武器を持ったリリーファーをプログラミングした覚えはないわよ……。というか、デバッグしたときにもこんなリリーファーは居なかった……」 「外部からデータが入れられた可能性は?」 「ここのネットワークはここだけで閉じたものになっているのよ。勿論、防衛上の都合からね」 「ならネットワークは無理か……。いい考えではあると思ったが、そもそもこんなところのネットワークをオープンにする利点が全く見当たらないもんなぁ……」  マーズは首を傾げる。メリアは会話を続けながらもずっとワークステーションに何かを入力していた。 「とにかく、何か方法は見つからないのか。先ずは全員を強制的にログアウトさせるとか……」 「させませんよ」  マーズの発言を何者かの声が遮った。  そしてカチャリとマーズの耳元で冷たい音が響いた。  そこに立っていたのは黒ずくめの人間だった。顔を覗こうにしても黒い仮面を被っているためか見ることが出来ない。  しかしながら、拳銃を突き付けられているのはマーズだけではない。メリアも、アリシエンスも、その場に居た全員に拳銃が突き付けられていたのだ。 「何者だお前ら……!」 「我々は『ネックス』だ」  マーズの言葉に仮面は答える。  ネックス。聞いたこともない単語だった。最近どこかの母集団から分かれた可能性も考えられる。 「ネックス、ね。また自分のやりたいことを無理矢理に押しつけるためのテロ集団が生まれたのか?」 「無駄口を叩いている余裕があるのか?」  そう言って仮面はマーズの腹を蹴り上げた。どうやってか、仮面が瞬間的にマーズの正面に姿を見せたのだ。 「何が……目的なんだ?」  マーズの言葉に、仮面は笑みを浮かべたように見えた。仮面は表情を変えるはずがないというのに。 「それはきっと……あのお方が言ってくださるはずだ」  そう言って、仮面はマーズたちの視線をモニターに向けさせた。  仮想空間では、崇人たち学生とあのリリーファーが対面していた。  学生数名はリリーファーを何かのミッションだと思ったらしく、立ち向かっていったのだが、見るも無惨な姿になってしまった。 「……あれは強い。ヴィエンス、リモーナ、今は手を出さない方がいいと思う、絶対に」  崇人は戦わずとも感じていた。そのリリーファーが強い、と。  そしてヴィエンスたちはそれを言われなくても理解していた。敵から発せられるオーラがとてつもないものだったのだ。見るものを怯えさせるようなそれだ。 『……私の名前はアリス。この国を統べるべく生まれたのよ』  その声は静かなものだった。凡てを包み込むような暖かいものだった。  アリスと名乗った人間が搭乗しているリリーファーは崇人たちの目の前に立っていた。 「……なんというか厄介な状況であることには変わらないな」  独りごちり、敵の様子を眺めていた。敵は挨拶以降何も行っていない。崇人はそれをミッションだと考え、どうやってこのミッションをクリアするべきか考えた。  別になんでもかんでもミッションにするのはいかがなものかとなるが、崇人としてはそうでもしないとやってられないなと思っていた。 『……君たちは自由を渇望してはいないだろうか』  アリスと自らを名乗った人間は言った。  しかし学生は、それについて言い返すことなど出来なかった。仕様が無かったのだ。 『君たちの未来は、残念ながら国によって拘束されている。呆れてしまうくらいに固められた未来だ。しかし、命令をする人間は国王であって、国王はリリーファーのことをろくに理解していない人間だ。当然、常識的には考えられない命令だってやって来ることだろう。いや、そういう命令ばかりなのだ。現に私はそういうもので傷つき倒れてしまった同胞の存在をよく知っている』  崇人はずっとそれを聞いていた。つまりそこに立っているリリーファーに乗っているアリスの言葉を理解したということになるのだが、しかしアリスの言葉には意味が通じない部分もちらほら見受けられた。  今まで崇人はそんな無理な命令は聞いたこともなかったし受けたこともなかった――ということだ。それについては経験がないから賛同も出来ない。  アリスの話は続いた。 『……さて、起動従士諸君。私はこの起動従士を取り巻く悲しき状況を調整せねばならないとずっと考えてきました。そして私は一つの結論を導いた。……だったら国を作ってしまえばいいんですよ……!』  その考えは飛んでいる考えであることは、まだこの世界にやって来て僅か一年程である崇人にも充分理解出来る。要は上司が使えないから自分たちだけで部署を立ち上げよう――そう考えているのだ。  それは突飛な考えだった。そんな考えが成り立つわけがない、という予測すら立ってしまう程だ。  いや、寧ろ確定といえるだろう。起動従士が国を作ってうまくやっていけるのか、と訊ねられて素直に縦に頷く人間は、まあ居ないだろう。  だから、その宣言をモニターを通して見ていたマーズは舌打ちを一つした。それを聞いた仮面が再びマーズの腹を蹴り上げた。 「……勝手な真似をしちゃいけない。そして今君たちが明らかに嫌悪感を示したいのも解る。だがね……我々は本気だ。どんな手段を用いようとも、我々は国を作り上げる。そして我々は、起動従士としての権利を、起動従士としての存在を、次の世代に打ち付ける……これぞ『ネックス』だ」 「狂ってやがる」 「そうだね。自分たちの意見は狂っているかもしれない。だが、自分たち自身からすれば、自分たちはまったくの正常だ。私たちは狂っていない。寧ろ正当だ。正当な意見を主張しているだけに過ぎないのだよ」  仮面は抑揚のない声で告げる。 『――あぁ、そうだ。最後に言わせてもらおう』  モニターからアリスの声が聞こえる。  アリスは続けて言った。 『今私の目の前にいる五十機……四人の「反逆者」を処分したから、実際には四十六機だろうか? その中に入っている学生は、我々がただいまをもって建国を宣言した「自由国ネックス」の国民になってもらう。はじめは抵抗こそあるかもしれないが、直ぐに我々の意見に賛同してくれると期待している。あぁ、因みに私たちの意見に賛同出来ないのであれば今のうちにどうぞ。私が全力をもって排除するから、そのつもりで』  そして、アリスは叫んだ。 『コマンド、アンシールド!』  刹那、学生たちが乗っている四十六機が行動を停止し、強制的に学生たちが外に投げ出された。  学生たちの怒号は先ず勝手に行動を停止したリリーファーへと投げかけられる。しかしリリーファーは動くことはない。  笑みを浮かべながら、アリスは言った。 『無駄ですよ。これはコマンド・アンシールドによって強制的にリリーファーから起動従士を射出し、停止させたものです。まあ、この仮想空間でしか実現出来ないことですが……』 「狂ってる……。おい! メリア、聞こえているんだろう!! 聞こえているのなら、さっさと俺たちをここからログアウトさせろ!!」  崇人は叫ぶも、それはメリアには届かない。メリアはそれを、仮面に押さえつけられながら聞いていた。目の前に解除するためのワークステーションが存在するというのに、それを使うことが出来ない。もどかしさ、というよりも屈辱が彼女を覆い尽くしていく。 「……アンシールド、か。ほんとうに厄介なものを使いやがって……」  メリアは呟く。それを聞いて仮面は銃を再びメリアの蟀谷につきつけてそのまま彼女の身体をテーブルに押し付けた。  しかしそれに構わず、メリアは話を続けた。 「アンシールドというコマンドを使ったことによってリリーファーは機能を停止した。これは即ち、彼らを押さえておく器から彼ら自体が仮想空間に射出された……そういうことだ。それによって、最低限の人命の確保がなされなくなる。場合によっては永遠と起きることが出来なくなる。貴様たちのボスは、それを考慮した上であのコマンドを実行したとでもいうのか?」 「メリア、今言ったことは本当なのか!?」  マーズはメリアが言ったその言葉を、出来ることなら信じたくなかった。嘘だと言って欲しかった。  メリアの言っていることが真実だとするならば、学生たちはコンピュータの中に無防備に魂をさらけ出している――ということになる。厄介事この上ない。 「無駄口を叩いている余裕なんて、未だあったんだな」  そう言われて彼女たちは身体を殴られる。一応マーズは未だ正気を保っていられているが、問題はメリアだ。彼女は科学者であり軍人ではない。よって拷問めいたこの状況を味わうケースが滅多に経験されることなどないに等しい。  だからマーズは崇人たちも勿論のこと、メリアについても心配していた。  このような状況の中、非力で何も出来ない自分が、ただただ腹立たしかった。  ――このやろう。  マーズが吐いた文句は誰にも聞こえることはなかった。 16  仮想空間で崇人を含めた学生たちはそのリリーファーに乗る起動従士の言うことを守らなくてはならなかった。リリーファーに乗ることの出来ない現状、学生は無力だ。  無力だからこそ、彼らは生きようとする。生きたいと思うからこそ、抗おうとは思わなくなる。それも自然の摂理といえるだろう。 『さて……これで全員かな?』  アリスは学生を整列させ、確認する。二十三名づつ二列になって並んでいる。 『確認が出来たので……あとはあなたたちを捕縛させるだけになりますね。あぁ、でも監禁ではなく軟禁になるから、対して変わらないかもしれない。だが……有効な手段であることに変わりない』  そう言って、アリスは息を整え一言。 『コマンド、ムーブ。対象、<student>クラス配列凡て。移動先、<kingdom-house>クラス凡て』  その言葉をアリスが言ったのと同時に、学生たちは姿を消した。  次の瞬間には学生たちは小さな部屋に居た。ただし、全員がその部屋に居る訳ではなく、個人個人が一つの部屋に入っている感じだ。  牢屋――崇人がその部屋を見て感じたファーストインプレッションがそれだ。 「畜生……どうしてこうなっちまったんだ?」  崇人は呟き、そして考える。返答がなかったことを考えると、おそらくメリアたちも捕まってしまって動けないのだろう。だとするならば、これは非常に厄介な話だった。  ともかく、先ずはここから脱出せねばならない。そう思いながら、崇人は辺りを見渡した。  ちょうど、そんなタイミングでのことだった。 「タカト・オーノ、出ろ」  牢屋の外から声が聞こえた。それと同じタイミングでカチャリと扉の鍵が開いたような音がした。  崇人はそれに従って外に出る。外に居たのは仮面を被った男だった。崇人の背後について、彼に銃を突きつける。 「アリス様がお前を呼んでいる。なんでも、話がしたいらしい。光栄に思うんだな」 「アリス……様、とはいったい何者なんだ?」 「お前の目で確かめるがいい」  乱暴な口を聞いたような気がしたが、仮面の男はそれを咎めることはしなかった。  そして崇人は、仮面の男にせっつかれるかたちでその場所へと向かった。  崇人と仮面の男がやってきたのは大広間だった。扉を開けて、その広大な空間に崇人は息を呑む。 「ご苦労だったな、トイフェル」  奥から聞こえたアリスの声は、さきほどリリーファーの外部スピーカーを通して聞いた声とは違って、透き通った声だった。  トイフェルは頭を下げて、部屋をあとにする。  即ち、今この部屋は崇人とアリスの二人きりだ。  部屋の奥から、足音が聞こえてくる。  そしてその音は確実に、崇人の方へと向かってきている。  ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。  闇になっている、奥の方から少しづつ。  崇人は身構えた。そして、アリスがやってくるのを今か今かと待ち構えた。  そして。  彼はその姿を、両の目で見た。  白いドレスに身を纏った少女だった。艶やかな黒髪は背中の方まで伸びていて、見るものを圧倒させる。  その少女を、崇人は知っていた。崇人は少女の顔を見たとき、目を丸くしていた。  少女はその表情をすることを崇人が解っていたからか、笑みを浮かべる。  少女は言った。 「……はじめまして、いや、久しぶりね。タカト・オーノ」  そこに立っていたのは――アーデルハイトだった。  アーデルハイトが、彼の目の前に立っていたのだ。 「本当に久しぶりだな、アーデルハイト……。いや、この場合はアリスと呼ぶべきか?」 「アーデルハイトで構わないわ」  アーデルハイトは呟くと、近くにあった椅子に腰掛ける。 「あなたも座ったら?」  それを聞いて、崇人は素直にそれに従った。 「……どうして俺たちをこの空間に閉じ込めた」 「まあ、そう慌てるなって。先ずは君の過去の話しでもしようじゃないか。大変だったんだってな、エスティ、君の目の前で死んじまったんだろ?」  唐突に。  本当に唐突にアーデルハイトはエスティの死について語った。  突然何を言い出すんだ――と崇人は思考が停止してしまった。 「あれは悲しいことだった。しかし、あれは国王が、指揮官がきちんと対処していればよかったのではないか?」 「……つまり、リリーファーに慣れていない人間が指揮官になったのが悪い、ってことか?」  崇人が言ったのは完全に自分に対する発言だ。自虐といってもいい。  それを聞いてアーデルハイトは高笑いする。 「別に君が悪いというわけじゃない。君が悪い……まあ、全部そうではない、ということだが。ともかく、私が言いたいのは指揮官……国王の話だよ」 「国王?」 「ああ、そうだ。考えたことはないか? リリーファーをもっと詳しく知っている人間に、それこそ起動従士を経験したことのある人間に指揮官を任せたほうが、起動従士のことを、リリーファーを理解してくれた作戦を立ててくれる、と」  アーデルハイトは首肯。  崇人はアーデルハイトの意見を聞いて、理解出来ないわけでもなかった。確かに上司が自分のやっている分野を何も理解できていないのであれば、それは苦痛であるし、やりにくい。 「解るだろう? 私はそれに苦労したよ。無能な国王のせいで作戦が失敗すると、私の責任になるんだ。たまったもんじゃない。そもそも命令を下したのはあんたのはずなのに、それでも私が悪いことになるんだ。非常に、非常に鬱憤が溜まっていった」 「それで今回の作戦を……?」  再び、アーデルハイトは首肯。  しかし、崇人はそれについて理解はできても納得したくなかった。いくら上司が無能だからといって、自分も無能に成り下がる必要はない。上司が無能ならばそれを飛び越えるつもりでやる――それが彼の信条みたいなものだった。 「理解できないのか、納得できないのか、腑抜けな表情を浮かべているな」  アーデルハイトは崇人の考えていることが表情から察せたらしく、告げる。  崇人は内面驚いていたが、それを外に出すことはしない。  アーデルハイトの話は続く。 「しかし、今回の作戦は私一人で実行するには難しい。私は崇高な理念を掲げているつもりだったが、生憎私のほかのメンバーはそれほどまで……強いて言うなら金さえあればいい、貧弱者ばかりだ。私はそんな人間を選定した覚えなどないんだが……。まあ、いい」  アーデルハイトは立ち上がり、崇人の目の前に立つ。崇人はどうすればいいのか解らずたじろいでいると、  アーデルハイトが顔を近づけてきた。 「おい、アーデルハイト……! 何をする気だ……!」  崇人は拒否の意志を示す。しかしアーデルハイトは顔を止めることはない。  そして、アーデルハイトは崇人にくちづけた。 「……!?!?」  崇人は何があったのか解らなかった。だが、彼女の口づけは長く、甘かった。  アーデルハイトが口づけをしたのは僅か十数秒のことだったが、崇人から見ればそれは永遠の時がすぎたようにも感じられた。  崇人とアーデルハイトの間に淫靡な糸が垂れる。  アーデルハイトは崇人の身体に寄りかかるようにして、告げた。 「……ねえ、タカト。私と一緒にならない?」  その言葉とともに悪戯めいた笑みを浮かべた。 「一緒になる……? どういうことだ」 「そのままの意味だよ」  アーデルハイトは指を崇人の身体に這わせていく。ぞくぞくと、悪寒が崇人を襲った。  アーデルハイトは続ける。 「私と一緒になって、世界を変えようとは思わないか? 聞いた話だとタカト、お前は『別の世界』から来たらしいじゃないか? なら、前の世界に愛着があったんじゃないか。どうだ? 元の世界に戻るために、私が手助けしたっていいんだぞ」  それは、その言葉は、一瞬で嘘だと解った。  欺瞞だと思った。そういうふうに見せつけるために、崇人をアーデルハイトと一緒にさせるための口実だと思った。  だから、崇人は首を横に振る。それを見てアーデルハイトは目を丸くする。 「……どうして?」  崇人が絶対に了承してくれるとでも思っていたのか――アーデルハイトにとってその行動は予想外のことだったらしい。  崇人はそれに答える。 「確かに俺は元の世界に戻りたいさ。……でも、今じゃねぇんだよな。少なくとも、戻るタイミングは今じゃない。それは自覚している。俺はまだこの世界で『やらなくちゃいけないこと』が残っているような、そんな気がするんだ」  やらなくちゃいけないこと。  崇人のその表現にアーデルハイトは困惑した。異世界の人間がこの世界で『生き甲斐』を見つけた……つまりはそういうことを言っているのだ。  アーデルハイトはその意味が解らなかった。向こうの世界で生まれ育ったのであれば、向こうの世界に愛着が湧いているのは寧ろ当然の事だろうし、それが異世界で帰ることが出来ないならば尚更、戻りたい気持ちが増しているのではないか――アーデルハイトはそんな考えを抱いていたのだ。  だが、崇人の考えは違った。アーデルハイトの考えを完璧に信じきっていないということを考慮したにしても、それは予想外の返答だったのだ。  やらなくちゃいけないことがある。だから|異世界(もとのせかい)には帰ろうとは思わない。  それはやっぱりアーデルハイトには、そこまで至らない考えでもあったのだ。 「……元の世界には戻りたくないの?」  アーデルハイトは気を取り直し質問を再開する。  崇人は考える間もなく、答える。 「そんなわけはない。元の世界だって愛着は湧いていたさ。そりゃあいろいろと大変なことがあったしこっちと比べると全然違う。あっちの世界にはあっちなりの、こっちの世界にはこっちなりの良さがある。俺はそれを一年かけて、まだ断片だけかもしれないが、理解しようとしているんだ」 「ふうん……なんだ、つまんないの」  アーデルハイトは崇人の身体から離れ、先程座っていた椅子に座り直す。  唐突に、アーデルハイトはポケットから飴を取り出した。その飴は至極透明だった。  アーデルハイトはそれを口に放り込む。一瞬目を細めたので、その飴は彼女にとってあまり好きではない味だったのかもしれない。 「……まぁ、ともかく。私があなたをどうこうする、って話はあなたが普通にしてくれれば大丈夫。別に学生を使って脅すことも考えていない。あくまでもこれは『話し合い』なのだから」 「話し合い、ねぇ。ただの話し合いにしては仰々しいところばっかりな気もするがな。話し合いがしたいだけならこんな仮想空間で強制的に攻撃の手段を奪って拘束までさせるか?」  崇人の言葉にアーデルハイトは一笑に付す。  まるで崇人の解答を聞いて崇人が悩む様を楽しんでいるようにも見える。  崇人は未だに信じることが出来なかった。アーデルハイトがここまでの意志を持って行動しているということに。  しかし、彼女の意志が本当であるならば、今まで彼女が表舞台に現れなかった理由も頷ける。カーネル独立騒動の後ヴァリエイブルがペイパスを取り込んだが、その時アーデルハイトの姿はなかった。国お抱えの起動従士の姿がなかった、というのだ。  普通に考えればその事は有り得ないことだった。だが彼女が乗るリリーファーはそのまま残されていたから、起動従士自体にそれほどの脅威を持つことは誰一人として居なかった。  そして、今。  アーデルハイトは新たなリリーファーと仲間を引っ提げて、ついに行動を起こしたのだ。 「……アーデルハイト」 「うん? どうかしたかな?」  アーデルハイトは首を傾げる。  崇人はそれを口にしていいか、悩んだ。かつては彼女と仲間だったから、そういう気持ちが芽生えているのだろう。  だが、そんなわけにはいかない。そんなことをして、いいとは思わなかった。  でも、それでも。  崇人はその言葉を口にした。 「お前は間違っているよ」 「…………何ですって?」  アーデルハイトは言った。  その声には若干ながら怒りが込められているようにも聞こえた。 「私が何か間違いを犯しているとでも言うのなら、私が何を間違っているのか、言って欲しいものだけれど」 「それを言って納得するかどうかが微妙なポイントだな。俺がこれを言えば突然お前にデータを消去させられるかもしれないし」 「……何よ。私がそんなことをする人間に見えるかしら?」 「テロ行為を起こす時点でまともな感性を持った人間とは思っていないがな」  崇人が言ったその言葉を聞いて、アーデルハイトは高笑いした。彼女にその話が琴線にふれたのかもしれない。 「それは私だけではないよ、タカト・オーノ。誰だってそうだ。人は仮面をつけて生きている。いつもの時と心のなかでは……まぁ、えらく違うものだよ。私はそれを、自信を持って言うことが出来る」 「仮面、ねえ」  崇人は呟く。  確かに仮面は誰にだって存在するものだし、誰にだって使うことが出来るアイテムである。それは人に表情を隠すことが出来るから、何を考えているのか解らなくさせることが出来る。便利といえば便利だ。  しかし代償として――仮面をつけていてもつけていなくても表面的に人間を信じることが出来なくなってしまう。それはもはや当然の事にも思える。 「仮面があるからこそ、人間は疑うことを覚えた。疑うことを覚えたからこそ、さらに狡猾な手段を考え出すようになった」  歌うようにアーデルハイトは言った。  だが、崇人の考えはそうではない。 「狡猾な手段が人を苦しめる。ひいては仮面が人を苦しめるんだ。人間は仮面を外して生活すべきではないか?」 「仮面を外す。それは即ち素性を、素顔をさらけ出せということか」  アーデルハイトの言葉を崇人は否定。 「素顔をさらけ出して、というよりもそれから先の『そのままの姿で話し合う』……それが大きいかな。人は仮面をつけすぎて、素直に話すことを忘れてしまったような気がするよ」 「ふうん……。なるほどね、やはり異世界人というのは私たちの世界とは違った常識を持っているから違った考えを言えるのかしらね。ほんとうに、ほんとうに面白い意見だったわ」  アーデルハイトはもう飴を舐めきったらしく、二つ目の飴を舐め始める。 「……なぁ、アーデルハイト。せめて学生だけは解放してはくれないか。俺一人だけでも充分な人質になるだろ?」 「それはつまり、自分の命と学生四十五名の命を交換しろ……そう言っているのかしら。それが等価である、といえるのかしら?」 「等価かどうかは解らないが、少なくとも他の学生よりかは使えるんじゃないか。あくまでも自覚だけど」 「とんだナルシストね」  アーデルハイトは再び立ち上がり、崇人の隣に座った。  そして彼の耳に口づけするように、そっと囁いた。 「いいわよ。その代わり……私を満足させることが出来たらね」  その言葉はとても艶やかだった。アーデルハイトの言葉を聞いているだけで思考が溶けていく――崇人はそんな錯覚に陥っていく。  そして崇人は、ゆっくりとそれに頷いた。 17  その頃、シミュレートルームのメリアたちはロープでぐるぐる巻きにされて中央に置かれたかたちとなっていた。扉の前には仮面の男が一人たっており、逐次彼女たちの様子を確認している。  しかしながら、ほかの人間は今ここにはいない。……即ち、チャンスだった。  メリアは監視を続けている仮面に気付かれないように隠し持っていたナイフをロープにあてがった。そしてゆっくりとそれを上下に動かしていく。そういうことでロープが少しずつ切れていくわけだ。  メリアを縛っているロープが切れてその意味を為さなくなるまでそう時間はかからなかった。ロープが切れたのを確認すると、メリアはポケットに入っているあるものを触れた。  それはボタンだった。そのボタンはこのような状況を逆転させる『切り札』でもあった。だから、そう簡単にホイホイと使えないのである。  そして空いている左手で隣にいるマーズにナイフを手渡す。 「手足が自由になってから十秒後、確実に相手側に混乱が生じる。それに乗じてあいつを確保するわよ」  メリアから聞いたその言葉にマーズは耳を疑った。だが、メリアの方に顔を向けることも、表情を変えることも――いわゆる相手にバレてしまうような開けっ広げな行動はしなかった。やはりそういうところは軍人なのだ。  マーズのロープが切れたのを彼女自身が確認したところで、メリアに合図を送る。準備完了だ。あとはメリアがボタンを押し、それにより発生する『何か』によって混乱する連中を襲う。  そしてメリアはポケットに入っていたボタンを押した。  刹那、コントロールルームのアラームが鳴り響いた。 「なんだっ!?」  その仮面の男は天井を見上げた。だからマーズたちへ送る監視の目が若干上向いた。  そのタイミングを、マーズは見逃さなかった。  マーズは男の懐に入り――股の間にある『急所』を思い切り蹴り上げた。直後、情けない声をあげて股を抑えながら男は崩れ落ちた。 「男を捕まえる、とは言ったけど何もここまでしなくていいのよ……?」  男をロープで縛り上げていくマーズを見て、メリアは言った。心なしかメリアの言葉が震えて聞こえたマーズはそれに笑みを浮かべて答える。 「奴は敵よ? これくらいやっておかないと意味がないわ。それに瞬間的に気絶させるほどの衝撃を与える場所……なんて考えたらああいう考えしか浮かんで来なくてね」 「……まぁ、そう考えればそうだけど……ね」  そう言ってメリアは扉を締めた。ただし、物理の施錠鍵ではなく、電子的な鍵である。 「これさえしておけば少なくとも数時間は持つわ。……それにしても馬鹿ね。どうしてここを占領しておいて、ここを手薄にしておくのか。馬鹿としか言い様がない」  メリアは椅子に腰掛けるとワークステーションとにらみ合う。  メリアは誰がどう見ても怒りに満ちていた。 「私の研究を、開発したものをこんなくだらないことに使いやがって……。なめるなよ、テロリストが。直ぐにその正体曝け出してやる。……いや、その前に先ずは」  タン、とキーボードの音が響いた。  刹那、巨大なディスプレイに一つの単語が浮かび上がる。  All log out.  それは学生たち全員がシミュレートマシンから接続される仮想空間への脱出を意味していた。  ――しかしそれは、あくまでも『生きている』人間だけに限った話だが。 「確認。五十人入ったうちの四名が死んだ。そして、さらに一人は帰ってこない。いや、帰れないように設定してやがる……だと!?」  メリアの口調が若干変わりつつあることに誰もツッコミを入れなかったし入れようとも思わなかった。このタイミングでそんなツッコミを入れるのは非常に野暮であったからだ。  メリアは目を血走らせながら、その『ログアウトが許可されていない』人間を特定していく。名簿を見ていけばそういうのは簡単に判明するからだ。  因みに学生たちがいる部屋には既に学生が持つ端末にメッセージを送信しているし、厳重な警備の下で実行しているため、現時点で現実世界の学生の身体に被害は見られていない。  そして、メリアはその人物が誰であるか特定した。 「見つけたわ、映像アップするわよ!」  その言葉を聞いて、マーズはディスプレイを注視した。  そこにいたのは、崇人だった。そして、崇人の前にいたもうひとりの人間。  その姿に、彼女は見覚えがあった。 「嘘……どうして……?」  マーズは呟く。  メリアはそれを聞いてマーズの方を振り向いた。 「知っているのか、マーズ」 「知っているもなにも、彼女はペイパスの起動従士だった人間よ。かつては同じ任務で戦った仲間でもある。名前は……アーデルハイト・ヴェンバック」  マーズはメリアの質問に、そう答えた。  ◇◇◇ 「ふむ。どうやら流れが変わってしまったな。……コントロールルームが奪還されたらしい。」  アーデルハイトは崇人とこれから事に臨もうとしたそのタイミングで、そう言った。崇人はそれをいったいどこから聞いているのか解らなかったが、質問しないことにした。 「それにしても……困ったなあ。まさかこれほどまでに早く勝負がついてしまうとは。私はシミュレートセンターを舐めていたかもしれん。近いうちにはこの空間から強制的に射出されて捕まるだろう。もしかしたら、現実世界の私の身体はもう監視下にあるかもしれない」 「だったら、もう諦めたらどうだ」  崇人の言葉にアーデルハイトはせせら笑う。 「ここまでやってきて、今更諦めろ、と? タカト、きみはいったい何を言っている。私は、類希なる力があると言われたんだよ、彼に。彼の命令は従わなくてはならない。彼の言う『類希なる力』が目覚めるその時までは……、私は頑張らなくてはいけないのだよ……!」 「それは戯言か。それとも妄言か」 「意味を理解できないのは、まあ、しょうがないだろうね。現に私も最初こそ理解できなかった。だが、『彼』の力は素晴らしいものであったのは事実だよ。人間ではない、もうひとつの可能性だ」  もうひとつの可能性。アーデルハイトはそう言った。だが、その意味を理解することは、今の崇人にはできなかった。  その表情を見つめながら、アーデルハイトは言った。 「だったら……ひひひ、もうオシマイだよ。私の計画もこれまでだ。曖昧な計画だったかもしれない。私の計画が、このテロ行為があとの世界に何を残すのか解らない。きっとこれは彼にとって、私の力を試していたんだよ。そして私は失敗した。そう、失敗したんだ。失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した……」  唐突に、アーデルハイトは壊れたカセットテープのように同じ単語を発し始めた。  失敗した。  その言葉は、徐々に鋭く、なっていく。 「失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した……」  頭をかかえながら、彼女は立ち上がる。舐めていた飴を噛み砕き、彼女はふらふらと歩いていく。  それを眺めていた崇人も、やがてゆっくりと彼女の後を追っていく。  部屋を抜け、廊下を歩く。ぶつぶつと、『失敗した』と言いながらひたすらに。 「アーデルハイト」  崇人が優しく語りかけても、アーデルハイトはその凶行を止めることはない。寧ろ、悪化しているようにも思える。  そして、アーデルハイトはある場所で立ち止まった。  そこは、暗闇だった。どこまでもどこまでも深い、暗闇。  それが望める、展望台のような場所だ。柵は低く、普通に乗り越えることができる。  それを簡単に乗り越え、アーデルハイトはこちらを向いた。 「なあ、タカト……。知っているか? 人間は夢を見ながらにして、死ぬことができるんだぜ。高い場所から落ちている夢や、燃えている夢、自分の身体が切られている夢……その凡てに、一瞬でも『死んだ』と思えば、或いは錯覚させられるほどのことがあれば、脳は活動を停止してしまう。死んだと錯覚しちまうんだよ」  ふらふらと踊るように歩くアーデルハイト。 「アーデルハイト、やめろ……。いったい、何をするつもりだ」 「私は失敗した。失敗したんだ。そしてそれを彼に見つけられたら、私はどうなるか解らない。だったら……だったら、もう私自身の手でこの事件に幕を下ろしちまったほうがいい。そう思っただけだ」  アーデルハイトは崇人を見て、微笑んだ。 「……じゃあな、タカト」  そして。  アーデルハイトは背後にある暗闇に、倒れこむように落ちていった。 18  アーデルハイト・ヴェンバックの死体はシミュレートマシンに横たわるようにあった。脈拍を計り、彼女の死亡を確認した。  シミュレートマシンから外に出た崇人は、彼女の死亡をマーズから聞いて、ひどく落ち込んだ様子だった。  彼女の最期は、マーズたちもディスプレイを通して確認している。しかし、崇人はそれを目の前で見たのだ。ダメージは彼の方が大きいのは、もはや当然のことだといえるだろう。 「……彼女の正体に気づくことができなかったのは、完全にこっちの不手際だった。タカト……ほんとうに済まなかった」  項垂れる崇人に、マーズは頭を下げる。 「……別にマーズは悪くないよ。俺が、僕が……彼女を止められなかった。ただ、それだけのことだ」  崇人の話は続く。 「彼女は泣いていた。悲しんでいた。辛かったんだろう。きっと、今回のことも背水の陣だった……後がなかったに違いない。それでも、彼女はこの作戦を実行した。どうしてだろう?」  リリーファーを批判する人間が多いことも事実で、それに隠れがちだがリリーファーを崇高な理念のもと崇拝する人間がいることもまた事実だった。  そして彼らはこう願っていた。  ――リリーファーに乗る起動従士は、崇拝すべき存在であり、彼らを不当に扱っていくことは神への冒涜と等しい。  しかしながら、現に起動従士たちはそんな崇高な理念をもって行動した覚えなどなかった。ただ、自分たちの国と民を守るために、行動しているだけなのだから。 「……アーデルハイトの墓を、作ることは出来ないのか?」  崇人の問を聞いて、彼女は我に返る。  その質問は、彼女にとって考えていたパターンの一つでもあった。  だから彼女は、考えていた答えの一つを導き出す。 「できないことではないと思う。だけど彼女は国家反逆罪の犯人。このまま容疑者死亡で裁判にかけられることはないとはいえ、まあ、そう簡単に彼女の墓を作ることは難しいでしょうね。なにせ、今回の事件は……四名の死者を確認しているから」  そう。  今回の事件に、死者が出ていないのならば仮に死んでいたとしても、彼女に対する採決は重くならなかったはずである。  しかし、死者が出ているのは変えられようのない事実だ。それについて裁きを受けなくてはならない。もちろん、今回彼女と共にしていた赤い翼残党とみられるテロ集団についても、だ。 「それにしてもいつまでも赤い翼が出てくるのね……。まるで蛆虫みたいに。いったいどこに居城を構えているのかしら」  その言葉を聞いて、崇人はただ頷くことしかできなかった。 19  白の部屋。  帽子屋とハンプティ・ダンプティがモニターを眺めていた。気が付けばその周りにはチェシャ猫にバンダースナッチ、白うさぎと今まであまり関わっていない『シリーズ』が集まっていた。 「……なんというか、呆気ない最期だったね」 「ああ、死んじまったな。本当に呆気ない最期だったよ。幕引き、とでも言えばいいのかな」  チェシャ猫の言葉に追随するように、帽子屋は言った。  ハンプティ・ダンプティはすっかり冷め切ってしまった紅茶を一口。  そしてティーカップをテーブルのソーサーの上に置いて、笑みを浮かべる。 「その感じからすると、流石に予想外だった……って感じかな? アリスとか言ってたし、きっと彼女が『二代目』にふさわしい存在なのだろう」  帽子屋は「まいったな」と言って頷いた。 「ああ。そうだよ。恥ずかしい話だがね。彼女が一番『二代目』に近い存在だった。彼女こそ、二代目にすべきだと思っていたし、そもそも『アリス』が目覚めたのはきっと彼女を二代目にすべきなのだ……と思っていたからね。しかし、残念なことに、それは僕が独り善がりに思っていただけらしい。まったく残念なことだよ」  そう言って、彼はアリスの方に目をやった。  アリスは何かを食べていた。パンケーキだ。はちみつがほどよく染み込んだパンケーキをナイフで切って、それを口に運んでいく。きっと咀嚼とともに染み込んだはちみつが口の中に広がって美味しいのだろう。食べるたびに頬を抑えて笑みを浮かべていたからだ。 「アリス。君はどう思う。二代目候補が死んでしまった事態について」 「私は別にどうとも思わない」  アリスはパンケーキを食べる手を止めることなく、話を続ける。 「というか二代目候補なんてそれこそ腐るほどいる。その中で最有力だと言われていた『彼女』が死んだだけ。優先順位が一つ繰り上がるだけだよ。それ以上でもそれ以下でもない」 「……それじゃ、君は次に『二代目』にとってかわる存在を知っているのか?」  そこで漸くアリスはパンケーキを食べる手を止めた。  悪戯めいた笑みを浮かべて、アリスはこちらを向いた。 「……知っているとしたら、どうする?」 20  崇人たち一年生は全員無条件で進級することになった。あれほどの事件が起きたのだから、進級試験は中止になってこのような結果になるのはもはや当然のことであるともいえる。  終業式には、クラス四十六名が出席し、それぞれ祝福した。そして、死んでしまった四名に、立派な起動従士になることを誓った。 「タカト」  マーズに呼びかけられて、彼は我に返る。  彼は終業式を終え、家に戻っていたのだ。  アーデルハイトについては、死亡のままで裁判をかけ、死体は墓所を作るのも好きにして良いということになった。  だから、今日はそこに行く日だった。 「……疲れているなら、あとから行ってもいいんだよ?」 「いいや。今日いくさ。今日でなければならない」  そう言って、彼は重い腰をあげた。  墓所は高台にあった。ヴァリス王国の首都を一望できる、絶景スポットだ。  墓石に名前は書かない。死んでしまった学生の親が何かしてしまうのを恐れたからだ。  崇人は考える。  確かに彼女は悪いことをしてしまった。でも、彼女はそれでも人間だ。然るべき場所に墓所を作り、弔うべきだと考えていた。  そして、今崇人は目を瞑って彼女の墓所を前にしていた。 「……なあ、アーデルハイト」  彼は墓石を前にして、言う。 「お前が望んだ世界って……ほんとうにそれでみんな幸せになるんだろうか?」  しかし墓石が答えることもアーデルハイトが答えることも、況してやマーズが答えることもない。  崇人の話は続く。 「なあ、仮にお前の言った世界、リリーファーを崇拝すべき世界が完成したとして、さ。お前はそれで満足したのかよ。お前はそれで良かったのかよ。……その世界が完成していたとしても、俺は納得できなかった。それをはっきりと言ってしまったのは……間違いだったんだろうか? なあ、解らないんだよ……」  崇人の目からは涙がこぼれ落ちていた。その涙が一滴一滴、アーデルハイトの墓所に落ちていく。  マーズも、崇人の方からは見えなかったが泣いているように見える。彼女もまた、アーデルハイトとともに戦ったことのある人間だ。身近な存在の死に涙を浮かべるのは、起動従士であっても当然のことだといえるだろう。 「……ここにいたか」  声を聞いて、崇人とマーズは振り返る。そこに立っていたのはヴィエンスだった。ヴィエンスは花束を持っていた。 「……どうしてここが」  マーズは泣き腫らした目で、ヴィエンスを見つめる。  対して、ヴィエンスは済ました顔で、 「俺を咎めようとしているようにも見えるが、泣いたあとの表情でそんなことしても効果はないぞ。……メリアさんから聞いたんだよ」  マーズはそれを聞いてなるほどと答える。メリアには今回の墓所の選定をしてもらった。 いくら友達のよしみとはいえほんとうはしたくないんだけどね、などと言いながらもやってくれたのだ。  ヴィエンスは花束を置いて、一歩下がる。 「ばかやろー」  ヴィエンスは墓石を殴った。しかし、力ない一撃は墓石に何のダメージを与えることもない。  ヴィエンスは涙を流しながら、言った。 「あんたのこと、いいやつだと思っていたんだ。なのに、今回のこと……ふざけんなよぉ!!」  こうして、一つの事件は終わった。  季節と年度は変わり、春――。  二年生へと進級する彼らに、これからも様々なことが降りかかるということは、誰ひとりとして予想しなかった。出来ることなら、平穏な日々を過ごしたい――崇人の考えもあったが、そんな考えなど、起動従士になった時点で捨てるべき考えであったということを、彼はその後後悔することになる。