1  春は始まりの季節ともいう。それ以外にも出会いの季節、ということもある。  七二一年四月七日。  中央、と呼ばれるヴァリエイブル起動従士訓練学校は入学式を迎えていた。この日をもって、全学年は一つ繰り上がる。それは即ち、崇人たち一年生が二年生になり、一年生が新たに入ることを意味していた。  崇人は自分の教室、その席で今までのことを思い返していた。崇人がここに来たのはもう一年前になるが、様々な出来事が起きた。  春には、『大会』。大会では崇人、ヴィエンス、アーデルハイト、エスティが参加し、大会で戦った。しかしながら裏で暗躍していた『赤い翼』によって大会はほぼ無かったことにされ、結局それを制した崇人たちとコルネリアが騎士団として取り立てられることとなった。余談だが、あの時ヴィエンスと戦った相手は実は学生ではなかったらしく、どこに消えてしまったのかも解らなくなってしまったという。  夏にはカーネルが独立するとして、カーネル独立を阻止するためにヴァリエイブルが立ち上がったために起きた戦争に、ハリー騎士団は初めて参加することになった。結果としてカーネルの戦力は削ぎ、戦争は終結したが、崇人の心の中には何かがぽっかりと空いてしまった。  秋には徽章が盗まれる事件があった。生憎崇人は参加していないのだが、赤い翼の残党を騙った『シリーズ』・ハートの女王が犯人であることは、彼もマーズから聞いていた。そこでシリーズ一体を改めて撃破した。  冬には法王庁の一派が行ったテロを出発点として大きな戦争が開幕した。結果として戦争は和平条約の締結で終了したが、両軍ともに大きな被害を被ったのもまた事実だ。  そしてもう一つ。記憶に新しい進級試験――アーデルハイトが企てたテロについてだ。彼の目の前で首謀者であるアーデルハイトが死んでしまったのでテロは未遂で済んだのだが、彼の心の中に大きな痼を残してしまうのであった。  そして、今。  彼は無事に――ほんとうに無事に進級して、二年生になっている。これはある意味奇跡でもある。だって、彼は三ヶ月近くものあいだ休んでいて、授業にはまったく参加していないのだから。 「ねえ、タカト」  リモーナは隣に座っている崇人に語りかけた。ちなみに教室を移動することはなく、卒業によって生まれた空き教室に一年生が入る仕組みになっている。  そして、彼はリモーナのその優しく語りかけた声で我に返った。 「……どうしたの、リモーナ?」  崇人は答える。 「どうしたの、って。今日から新年度だよ? 新しい人が入るから、私たちにも後輩が出来るってことだよ? それってすごいと思わないかしら」 「思うけど……いやあ、まあ、あまりすごいなあとは思わないというか……」  そういうことを元の世界で経験している崇人にとってはアタリマエのことである。  しかしリモーナと崇人の、このイベントにおける比重はまったく違っていた。 「とはいえ……授業で関わることもないわけだし、確実に絡む機会はないだろ。こっちから歩み寄ろうと思わなくちゃ、後輩側から先輩に来るのは珍しいことだしな」 「それもそうね……。先ずは食堂で声をかけてみましょうか?」 「本当にする気なのか、それ?」 「少なくとも、私は本気よ」  そう言われてもなあ、崇人は思ったがそれは心の中だけに閉じ込めておくことにした。  ◇◇◇  食堂。  食堂は一年生が入っているからかいつもより混んでいた。崇人はいつものようにうどん、リモーナはカレー、ヴィエンスは定食、ケイスは売店で買ってきたパンというそれぞれ違ったメニューを食していた。 「……やっぱ混んでんなあ……。いつもの人たちが入れなくて、並んでるっぽいし」 「しょうがないよな。先ずは食堂を試してみて、それから……ってのはよくある話だ」  ケイスはパンを頬張りながら、言った。 「まあ、そう簡単にやってくる一年生なんて」  ――いるわけないもんな、と崇人が言おうとしたちょうどその時だった。 「タカト・オーノさんですかっ?」  少し上擦った声だったが、基本的に凛々しい声であった。それを聞いて崇人は振り返る。  そこに立っていたのは少女だった。ジト目という感じだろうか、目は崇人をしっかりと見ていた。ショートカットの髪は元気で明るい人間であることをなんとなく想起させる。そして彼女の笑顔はとても輝いていた。 「……ああ、そうだが」  崇人は首肯する。それを見た少女はさらに目を輝かせた。 「わあ〜! まさか本物にこう簡単に出会えるなんて! 光栄です!」 「……君は、一年生かい?」 「ええ、そうです! 私はシルヴィア・ゴーファンといいます! 起動従士になるために、ここにやってきました!」  彼女の声は凛々しいものだったが、基本的に明るい声であったのもまた事実だった。トーンが高いからかその声は食堂に響く。即ち、今崇人は――群衆の視線を浴びていたのであった。 「……少し、声のトーンを下げてくれないか。君が喜ぶ気持ちも解らなくはないが、注目を集めると話しづらい」 「あっ……、すいません。以後、気をつけますっ」  崇人はそう言うが、対してヴィエンスの表情は曇っていた。彼は、シルヴィアの苗字であるゴーファンに気になっていたようだった。 「なあ、ゴーファンってまさか……あの?」  それを聞いてシルヴィアはヴィエンスの方を向いて頷いた。 「はい、そうです。私はスロバシュ・ゴーファンの娘になります。もっとも、私はその双子の姉……ということになりますが」  それを聞いてヴィエンスの胸が高鳴った。 「なあ、ケイス。スロバシュ・ゴーファンとはどういう人間だ?」  ケイスは崇人の質問を聞いて失笑し、肩を竦めた。 「崇人の『世間知らず』もここまで来ると病的だよ。いいかい? スロバシュ・ゴーファンって人は、稀代の起動従士だ。昔、起動従士としてその名前を轟かせた彼は、今のヴァリエイブルをここまで屈強なものにさせたひとりだと言われている。……そんな人さ」 「お父さんはそうでしたけど、私はお父さんに比べれば凡庸な人間ですよ」 「でも聞いた話によれば、今年の入学試験の順位はゴーファン家の二人がトップ2を独占したと聞いたぞ?」  ケイスの言葉にシルヴィアは首を振った。 「確かにそう言われていますけど、それはそれです。私は努力をしてここまできた……それだけのことですよ」 「それでも、ここまで来れたのはすごいことなんじゃないのか?」  崇人はうどんを啜りながら言った。  シルヴィアは「そうですね、そうかもしれません……」と謙虚に答える。 「おー、シルヴィア! こんなところにいたのかー!」  その甲高い声を聞いて、崇人たちはそちらを見た。  そこには、その甲高い声にふさわしい小柄の少女が立っていた。黒髪のツインテール。まさに元気の象徴とも言えるような少女だ。  シルヴィアは彼女の声を聞いて、答える。 「そうよ、メル。今、こちらにいる先輩方と話をしていたの」  それを聞いて、メルと呼ばれた少女は「ふーん」と言った。  まるで、そんなことはどうでもいいとでも言いたげに。 「メル……もしかして君がメル・ゴーファンか。シルヴィア・ゴーファンとともにトップを飾ったという」  ケイスの言葉にメルはえへへといって笑う。照れているらしく、頬は紅潮していた。 「まあ、そんな褒めてもらえるようなことでもないけどなー! 私とシルヴィアなら、そんなのは当然、できるってもんよー!」 「ちょ、ちょっとメル、先輩の前よ。敬語とかきちんとしないと……」 「いや、別に構わないよ。敬語みたいなものはあんまり好かないからね。ほんとは教育上先輩後輩間できちんと敬語なりなんなりを使わないといけないんだろうけど……少なくとも僕の前では構わない」  その言葉にメルは軽く目を見開いた。怒られてしまう――とでも思ったのだろうか。  それを見たケイスは、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、 「こいつ変わってるだろ。僕も最初に会ったときから変わってるなあ、って思ったよ」  そう言いながら崇人を指差した。  対して崇人はそれを見てバツの悪そうな表情を浮かべる。 「俺はそんなに変人めいていたか?」 「初日からずーっと今日までお昼はうどんだけなんだぜ、こいつ」  それは否定できなかった。崇人は一年の最初から今日という日までずっとうどんしか注文していない。もちろんうどんとはいえ一種類しかないわけではなくきつねうどんにたぬきうどん、カレーうどんにうどんパスタ、さらには牛煮込みうどんなど、うどんにカテゴライズされたメニューを数えるだけでも十種類近くはある。だから、それでローテーションしていけば飽きることはないのかもしれない。だが、一日くらいはそれ以外のメニューを食べてもいいのに、なぜか彼はうどん関連のメニューばかり食べていた。 「別にこれといった理由はないがな……。うどん、美味いじゃんか」  そう言ってうどんを啜る崇人。 「……すいません、一つお訊ねしたいんですが」  丁寧な口調で、しかし緊張が含まれているのか若干声に震えが見られたが、しかし噛むことなく発言したシルヴィアに、 「いいよ、僕たちが答えられることなら、なんでも」  崇人は気安い口調で応じた。 「起動従士と技術士って一緒にやることは出来るんでしょうか? 或いは、技術士になることはこの学校を卒業することで可能なのでしょうか?」  その質問は別段驚くべき内容ではない。しかし、彼女が有名な起動従士の娘でなかったならば、それは普通の内容として受け取ることができただろう。 「あ、別に私の話じゃないです。どちらかといえばこっちのメルの話です」 「ちょ、ちょっとシルヴィア!」  メルはシルヴィアにそれを言われることが想定外だったらしく、頬を紅潮させながらシルヴィアの身体をぽかぽか叩いていた。  シルヴィアはそれがいつものことなのか気にもとめずに崇人たちに返答を求める。 「……俺はあくまでも聞いた話だがな」  それに答えたのはヴィエンスだった。  但し書きをして、話を続ける。 「起動従士クラスに入って二年生にもなれば自分でリリーファーをある程度メンテナンスできるくらいにしなくてはいけないという決まりがあるからか、そういう授業がある。具体的にはメンテナンスを自分で行う、ってやつだな。しかし、そこで使われるリリーファーは起動従士用に用いられるリリーファーではなくて、きっとこれから一年生が使う、そして俺たち学生なら全員が使う『訓練用リリーファー』とやらだ。訓練用リリーファーはそういう風の授業があるのを想定しているから、非常にメンテナンスが楽なんだよ。言うならば、基本的なそれしかやらない……って感じかな。だから専門的な知識を学ぶことを期待しているなら、そっち系に鞍替えするのをお勧めするね」 「……出来ないんですよ」  ヴィエンスの長々とした説明を、メルは一刀両断した。  メルの話は続く。 「私の父親……が、起動従士になるべきだ、というんです。俺の子供なのだから起動従士にならないといけない! と憤っていて」 「……まあ、世間体ってもんもあるんだろうなあ」  崇人は元の世界での友人関係について思い出す。久方ぶりに行った中学の同窓会で友人が言っていたのだ。俺の反対を押し切って三流企業に就職しようと考えているだの専門学校へ行くだのそっちの職は斜陽なのに……そんな愚痴ばかり零している親が多かったからだ。崇人は生憎そんなことに無縁な独身貴族だったからか、親の立場になっている元同級生からは皮肉混じりに「結婚なんてこんなのばっかりだぜ?」なんてことを言われるのだ。  やはり世間体の概念は地球もこの世界も変わらないのだ――なんてことを悠長に考えながら、崇人は最後のうどんを啜り、完食する。 「世間体は親がそういう立場を守りたいんでしょう? 親が『子供もこうならなくちゃ、笑われる』だの、『親戚でこの学校に行けてないのはお前だけ』だのそういう自慢出来ないから、そういうふうに自棄になっているんですよ、きっと。自慢できる材料が見つかれば子供を顧みずああだこうだと言いふらしますがそれがない場合はグチグチと周りの家についていいます。『よそはよそうちはうち』なんて概念はこんな時だけ通用しない。……ほんと、大人って都合のいい生き物ですよ」  それを聞くと崇人は頭が痛かった。なにせ崇人は、その都合のいい生き物を十五年経験したのだから。 「大人は都合のいい生き物、ねえ。まあ確かにそのとおりではあるが……君たちをそこまで育てた、というのは感謝してもいいんじゃない?」  言ったのはリモーナだ。  それもそのとおりだ。彼女たちの言い分はともかく、メルとシルヴィアをここまで育てたのはほかでもない両親である。彼らへ、そういう感謝を通すというのも考えるべきである。 「それはそれです」  しかし、きっぱりとシルヴィアは返した。 「確かに育ててくれたことは感謝しています。しかし、しかしですよ。それとこれとは話が違うのではないでしょうか? いくら親が優れた起動従士だったからとはいえ、私たち双子の将来をそうと決めるのもおかしな話です。だから、私はメルの将来を尊重してあげたいんです」 「……シルヴィアは起動従士になりたい。それは君自身の考えでいいのかい?」 「ええ。私は父の戦う姿に憧れて、小さい時から起動従士になろうと思っていましたから」  となると。  やはり彼女たちの父親が怒っている原因は――メルにあるということだ。  しかし崇人は考える。  別に子供の将来は子供が決めれば良いではないか――ということについてだ。子供の将来は親が決める。そんな古風めいた考えがこの時代に通用するとでも思っているのだろうか。まったくもって同意できないのが崇人の考えだった。  そこで、ふと彼は考えた。 「……そうだ、メル。僕にひとつ考えがある。今日、ある人に、君にメカニック技術を教えてもらえないかどうか聞いてみよう。それでOKが出たら彼女にご指導願うってのはどうか?」  それを聞いてメルの表情が明るく華やいだ。それはほかの人にあまりかけられない言葉だったのかもしれない。それもそうだろう。彼女たちの父親はあまりにも有名な起動従士だ。そんな存在の意見を無視するような発言は、並みの起動従士ならば不可能だ。  でも、崇人は違う。一年前にこの世界に来たばかりで常識の殆どを理解しきれていない。だからこんな荒業が可能になるのだ。 「ありがとうございます!」  そして、喜んでいるのはメルだけではない。シルヴィアもそうだった。  彼女は崇人の手をとって、握手していた。そしてその腕をぶんぶんと振っていた。 「ほんとうに、ほんとうにありがとうございます……!!」 「……一応言っておくが、あくまでも聞いてくるだけだからな? OKかどうかは正直な話解らないぞ?」 「いいんです。それを言ってくれる人が現れた……。それだけで私たちはとても、とても嬉しいんですよ……!」 「そうか……。とりあえず聞いておく。明日、また食堂に来れるか?」 「はい」  シルヴィアは頷く。 「私たちはいつもここで食事を取る予定ですので」  そうか、と崇人は言った。  崇人も行動に移らねばならないな、と呟いて立ち上がろうとした。  ちょうどその時だった。  食堂の入口に黄色い声援が鳴り響いた。 「……ん?」  疑問に思った崇人たちがそちらを見る。どうやらひとりの男が食堂に入ってきたようだった。  ウェーブがかった髪はパーマをかけているのではなく天然なのだろう。細い目は深い海のように青かった。すらりと伸びた身体はスタイルもいい。モデルをしているようにも見える。  というより、彼女たちが取り巻く男の光景は周りから見れば有名人がやってきたようにしか見えなかった。 「あいつ、もしかして……」  それに反応したのは、やはりケイスであった。ケイスはその男の顔をじろじろと覗き込むように見ていた。  その男がやって来てから明らかに表情を変えたのは、何もケイスだけではない。シルヴィアとメルも――どちらかといえば敵意を持った目でその男を睨み付けていた。 「おいおい、どうしたんだ皆?」  違和に気付いた崇人は再び座り直す。 「あいつの名前はファルバート・ザイデルだよ。彼女たちゴーファン家の双子がトップツーだって話はさっきしただろ?」 「あぁ」 「あいつが三位だよ。しかも、一位から三位までの差は僅か二点。一位から二位の差は一点だ。これが何を意味するか、解るか?」 「……三人はほぼ同程度の実力だってことか」  正確には同程度の実力だということが『ペーパーテスト』というシステムで証明出来ただけに過ぎない。ペーパーテストというシステムは、ただ単に勉強さえすればそれなりに点数を獲得出来る。極端な話、前日に凡て詰め込みの勉強をする――いわゆる一夜漬けをすれば本来の実力以上の成績が出るなんてのは良くあることだ。  だから、ペーパーテストは実力をひとつの物差しで測れたように思えるが、そういうことを考慮すれば、そう簡単に測ることが出来ないというわけだ。 「……しかし、どうしてあいつそこまで人気なんだ? 確かに美形なのかもしれないが、今日はまだ初日だろ。殆ど相手のことを知らない状態でああいう感じに黄色い声援を送っているってこと……なら、何だか悲しくなんないか?」 「あいつがただの頭のいい美形ならな」  崇人の疑問にケイスは含みを持たせた返事をする。 「……それってどういうことだ? まさかここにいるシルヴィアとメルみたく親が有名な起動従士だったりするのか?」 「シルヴィアたちの父親よりは有名ではないかな。はっきりと比べるようで申し訳無いがね」 「ふうん……やっぱり世襲というか、親から子に引き継がれていくものなんだな……」  崇人は独りごちって今度こそ立ち上がる。それにつられてヴィエンスとリモーナも立った。  ちょうど、その時だった。 「あなたが、タカト・オーノさんですね」  ファルバート・ザイデルが崇人の横に立っていた。彼は崇人を見下ろすように、高圧的な態度を露にしていた。  取り巻きも一緒にファルバートとともについてきていたので、それも合わさって崇人たちの周りにはギャラリーが出来上がっていた。  溜め息をついて横に首を振るその光景は、正直先輩に取るべき態度には見えない。  ファルバートの話は続く。 「……もう一度だけ言います。あなたが、タカト・オーノさんで間違いありませんね」 「あぁ」  高圧的な態度を取っていたファルバートに、少々怒りを募らせていた崇人だったが、敢えてそれを顔に出すことはしない。  ファルバートはそれを見て、微笑む。 「あなたは最強のリリーファー、『インフィニティ』の起動従士ですよね」  ゆっくりと崇人の外堀を埋めていく。  崇人の表情が誰から見ても嫌悪感を露にしつつあった。 「……何が言いたいんだ、さっきから。回りくどい言い方をしないでさっさと本題を言ったらどうだ」 「あぁ、そうですね。苛々しているようですし、ならばさっさと言うべきでしょう。……タカト・オーノ、あなたはインフィニティに乗るべき人間じゃない。乗る資格を持っていないのに『最強』に乗る、紛い物の人間だよ」  唐突に、告げられた。  唐突に告げられたからこそ、崇人は何を言われたのか理解出来なかった。  それを見て、ファルバートは笑みを浮かべる。 「動揺してますね。……どうしてでしょうか? あなたがインフィニティの起動従士として絶対的自信を持っているならばそんなことないはずでしょうに?」 「……おい、おまえ。言っていいことと悪いことがあるぞ!」  崇人の代わりに答えたのはヴィエンスだった。ヴィエンスの声から、表情から怒りが滲み出てくる。  対してファルバートは、それを鼻で笑った。 「おやおや、確かあなたはヴィエンスさんではないですか? 同じハリー騎士団で精鋭の中に居ながらも、埋もれてしまって実際には何も出来ないハリー騎士団のお荷物が、僕に何の御用でしょう」 「てめぇ……」  ヴィエンスは拳を構え、ファルバートに殴りかかった。 「やめろ!」  しかし、その拳はファルバートの身体に当たることはなかった。すんでのところで崇人がその場を制したからであった。  崇人は二人を言葉で制したが、続けて何かを言うことはなかった。言えなかったのだ。  それを見てファルバートは言った。 「今回はこれだけとしましょう。ですがいつか……私はインフィニティを自分のものとする。私こそが、あの『最強』に乗るに相応しい人間なのだから」  そしてファルバートは踵を返すと、その場から立ち去った。 2  その後のことは正直崇人は何も覚えていなかった。ただ帰って直ぐベッドに倒れ込むように沈み、そして眠っていた――というのは扉からそうっと崇人の部屋を覗いていたマーズの証言である。  目を覚ますと、辺りはすっかりと暗くなっていた。  急いで起き上がりリビングに向かうと、マーズがちょうどフライパンに油を敷いているところだった。テーブルを見ると幾つかのおかずは既に完成していた。  マーズはエプロン姿で立っている。肌着の下にエプロンという、男の夢を一部具現化したような、そんな格好だった。 「やぁ、タカト。すっかり眠っていたみたいだな。私も疲れていてな、今さっき帰ったところなんだ。とりあえずそこにあるおかずは全部レトルト、今から冷凍食品のナポリタンを暖めるところだから……済まないがもう少し待ってくれないか?」  それを聞いて崇人は心の中でほっと一つ溜め息を吐いた。何故ならマーズは極端な料理音痴だからだ。そんなマーズがあれほど豪華な料理を作れるはずがない……崇人はこの一年でそれを学んだからだ。  この世界のレトルト食品の発展はあまりに著しく、人間が食事を作らなくなるのではないかと危惧されるほどだ。実際のところ『完全に食事を作ることが出来ない』層の増加は見込まれなかったため、その発言はただのネガティブキャンペーンという形で幕を下ろしてしまった。  まぁ、マーズが食事を修行しているのではないか、という淡い期待が確りと打ち砕かれたところで彼はリビングのテーブルに面する椅子に腰掛ける。テーブルの上には三皿のメインディッシュが並べられていた。ごってりとした赤茶色のソースが肉団子にかかった料理に、各々に分けられたハンバーグだ。ハンバーグにはデミグラスソースがかかっている。付け合わせはフライドポテトにコーンだ。そしてそれに付随するようにパンとバターが置かれている。 「いつもこんなに豪華だったっけ……」  崇人は呟きながら、汲んできた水を一口。 「今日から二年生、だからね。その記念にだよ」  返事はナポリタンが盛り付けられた皿を持ってきたマーズからたった。 「二年生でこれなら三年はどうなるんだよ?」 「来年のことを今考えちゃ仕方ない。鬼が笑うよ!」 「そんな言い回し、今日日聞かないよ」  崇人は笑みを溢す。マーズはナポリタンの皿を置いて、崇人の向かいの席に腰掛けて、手を合わせた。 「いただきます」 「いただきます」  この言葉を合図として、彼らの食事は始まるのだった。  崇人はナイフとフォークを操り、ハンバーグを切り分けていく。こぶし大のそれはあっという間に八分割され、食べやすい形に姿を変える。ナイフで切れ目を入れるたびに断面から肉汁が溢れ出る。  切り分けた一つにデミグラスソースをたっぷりとつけて、それを口に放り込む。直ぐにデミグラスソースの芳醇な香りが口の中を支配した。 「このハンバーグ旨いな……ほんと、レトルトも馬鹿に出来ないな」  独り言めいて彼は感想を告げる。  ナポリタンも肉団子の甘酢ソースがけ(という名前らしい。食べる前にマーズが得意気に言っていた)もとても美味しかった。やっぱり何度食べてもレトルト食品のクオリティには驚かされる。 「……そういえば、さ」  食事が七割ほど進んだ、ちょうどそのタイミングで崇人はマーズに訊ねた。  マーズは首を傾げ、どうしたと言った。 「今日始業式……それでいて入学式だったわけなんだけどさ、有名な起動従士の子供が入っているらしいんだよな」 「ゴーファンとザイデル……でしょう?」  それを聞いて、崇人は軽く目を丸くさせる。 「知っていたのか」 「知っていた……まぁ、そうなるけど、実際には毎年無作為に選ばれた起動従士が入学生の状態をチェックするのよ。やっぱり擬似的とはいえ他人との集団生活……それも起動従士の資格を手に入れることが出来る人間って、大抵変わり者ばかりだから、やはりそれなりに噛み合うような人間をうまくマッチングしていかなきゃならない。だからこそ大変なんだ。精神をすり減らしちまうよ。まぁ、そんなことでまいっちまうくらいなら……そいつは起動従士ではないと思うけどね」  マーズはそういいながら溜め息を一つ。  どうやら起動従士は作戦や鍛錬以外にも様々なことがあるらしい――彼はそんなことを思うのだった。 「そういえば、そのゴーファンとザイデルの子供がどうした? まさか入学式初日から何か騒ぎを起こしたんじゃないだろうな」  半分正解だった。  だから崇人はぎこちなく頷いた。  それを見てマーズは目を覆った。 「おい……マジかよ。冗談と言ってくれ。だが、いつかあの家系はぶつかると思っていたが……」 「どういうことだ……?」  崇人にはマーズの言っている言葉の意味がまったく理解出来なかった。 「スロバシュ・ゴーファンとリグート・ザイデルは、はっきり言って犬猿の仲でな。スロバシュ・ゴーファンが常に上を行っていたんだ。……きっとリグート・ザイデルはそれに不満を抱いていたに違いない。だからこそ、息子には『一位』を望んだんだろう。しかし結果は三位、それも一位と二位は彼からすれば天敵のゴーファン家の人間だ。怒り狂っただろうな。ずっと目の上の瘤として居たゴーファンが未だに居るのだから。いつ激突するか解ったものじゃない」 「そうか……。だが、幸いなことに激突はまだ起きていない。そして問題はお互いの家で起きている」  それを聞いて首を傾げるマーズ。どうやら彼女が考えていたのとまた違う方向のことだったらしく、思考が追いついていないのだろう。 「実はな……」  そして、崇人は今日あった出来事を話し始めた。 「……ふむ、つまりゴーファン家の双子の片割れが技師になりたくて、ザイデル家の息子はインフィニティの起動従士であるお前を否定した……と。何だか問題が山積みだな」  崇人の話を聞き終わり、マーズは溜め息を吐く。  マーズもマーズで、崇人が言った言葉についてはまったくの想定外だった。やはり『天才』の子供は『天才』なのか……そう思ってしまう程だった。 「……とりあえず前者はどうすればいいのかしら? 後者は最悪名誉毀損で訴えることは可能よ?」 「それはどうかな。ぽっと出の俺と、二位とはいえ優れた力を持った起動従士の家系。家系だけ見れば後者の方が明らかに発言力は強いだろ、そんなことなんてうやむやにされて、逆にこちら側が攻撃される可能性だって考えられるだろ」 「それはまぁ……。でも現役という点からすれば発言力が強いのはあなたの方よ」 「……そうかもしれない。だが、それだとしても俺は不安でしょうがない。……解るだろ?」 「解らなくはないが……しかしなぁ。私からガツンと一発言ってやってもいいかもしれないが、流石にそれは職権濫用過ぎるだろう?」  マーズの言葉は正しいロジックのもと組み立てられた、正しい考えだった。 「……とりあえず後者の話は置いとこう。前者については考えてある。ルミナスに協力してもらおうと考えている」 「ルミナス、彼女に? でも彼女だって忙しいんじゃ……」 「それをマーズに聞いてきて欲しいんだ。頼むよ」  崇人は手を合わせて頭を下げる。マーズとしても彼のそういう姿は見たくなかった。  だが、マーズはそれでこそ職権濫用のように思えてならなかった。  しかし頭を下げている崇人を見ていて――何故か断れなくなってしまうのだった。 「解った、解ったわ。とりあえず頭を上げてちょうだい。ルミナスに話だけは通してみるから」 「……本当に、済まない」 「いいのよ。私とあなたの仲、でしょう? 別に悲しむことなんてしなくていいのよ」  マーズはそう言って立ち上がる。もう食べ終わったから、そのお皿を片付けるためだ。  それを合図に彼女たちは片付けを開始した。 3 「……で、それを私に聞きに来たわけ?」  こくこく、とマーズは頷く。誰が考えるまでもなくルミナスは怒りに満ちているように見える。  マーズは爆弾処理班のように慎重に、かつ丁寧にルミナスに訊ねた。 「……やっぱりダメかしら?」 「ダメ、ではないんだけどね。ちょっと最近イライラしているもんで」  あれ、この展開どこかで見たことあるぞ……?  マーズはそう思いながら、ルミナスの話に相槌を打った。 「納期がたまりまくっているのよ。カーネルが『第六・九世代』なるものを開発してね。今度は第六世代以前の互換を完全に切ったシステムなもんだから私たちのような人間はそれに移行させるための準備に追われている……ってわけよ」 「まぁ、なんというか大変ね。第六世代が出たのって、まだそう昔のことでもないような気がするけど」 「そこが問題なのよ。第六世代が出たのは約一年前。僅か一年で次の第七世代のプロトタイプとも言えるべき、第六・九世代が登場した……これはほかの国にとっても由々しき事態であることには間違いない」  ルミナスの言葉は重く冷たいものであった。  第六世代まで一部互換は残されていたというのに、この第六・九世代になって互換がカットされた。これの意味することは、新たに第六・九世代用に機械を購入し、第六・九世代のリリーファーを購入し、かつ第六・九世代用の技術を学ぶ必要があるというわけだ。 「カーネルはヴァリエイブルに編入されてからヴァリエイブルに卸しているリリーファーについてお金は出していない。強いて言うなら、莫大な研究費がその代わりになっているのよね。なんというか、優遇されているというより優遇せざるを得ないんでしょうねえ。また、独立するなんて言わなければいいけど」 「流石に戦力は削いだから、今度はないと思うけど……。まあ、用心に越したことはないかもね」 「いや、それよりももっとカーネルへの処遇を良くすべきだと思うけどね……。いくらなんでも厳しくなりすぎよ。だって、今の取りまとめってシミュレートセンターが行っているんでしょう?」  カーネルは独立騒動以後、規制が強化された。その一つが、管理権限の譲渡だ。管理権限をカーネル独自で持つのではなく、別の機関が持つシステムとしたのだ。  そしてそのシステムに新たに組み込まれることとなったのが――シミュレートセンターだったわけだ。 「しかしまあ、メリアも大変だ。シミュレートセンターの本来の業務にそれだからな。この前の進級試験の前に行ったんだったら解るだろ。あのてんてこ舞い。あれはそういうことだ。シミュレートセンター本来の業務として存在するシミュレートマシンのメンテナンスに、第六・九世代対応にシステムを組み替えて、かつその第六・九世代の最終チェックを執り行っている。まったく、あいつはほんとうにワーカーホリックだよ。いつか働いたまま死ぬんじゃないかって思うね」 「あれはあれで彼女らしいけどね……。なんか仕事してないと死んじゃうみたいな、そんな身体をしてそうよね。魚かっつのー」 「アハハ、魚ねぇ。それは案外当たっていると思うなぁ」  ルミナスはそう言いながら笑みを溢す。その言葉はイマイチだったのか、少しひきつったような笑顔であった。 「……まぁ、それはそれとして、さっきの話だけど……別に私は構わないわよ。ただし、まとまった時間が今のところ取れないから飛び飛びになっちゃうけどね」 「いいの?」 「技術者の卵を孵すんだからそれくらいはやらなくちゃ。びしばし鍛えるわよ」  それを聞いてマーズは安堵した。もしダメだったらどうしようか……なんてことを考えていたからだ。ダメだった場合は彼女に涙を飲んでもらうほかなかった。そもそも、勉強させてもらえることが親の許可を得られるのか微妙なところではあるが……それはマーズが考えることではない。  マーズの方の役目は、これで一旦終了した。  あとは彼女が親ときちんと話し合う番だ。 4  メル・ゴーファンとシルヴィア・ゴーファンは緊張で胸が張り裂けそうになっていた。  今から話す相手は初めて会う人間だからだろうか?  ――違う。そういう訳ではない。これから彼女たちが話をするのは彼女たちが一番良く知っている人間だ。  スロバシュ・ゴーファン。彼女たちの父親である。かつては『世界最強の起動従士』としてその名を馳せた。今は隠居してサウザンドストリートのとある屋敷に暮らしている。 「……お父様」  シルヴィアがそう言って扉をノックした。高く、重厚な扉だ。  返事は直ぐにあった。  それを見て、シルヴィアの隣に立っていたメルは細かく震えていた。それも当然なのかもしれない、今からメルが話すことは、スロバシュ・ゴーファンにとって予想外のことであり、かつ考えられないことでもあったからだ。  彼は常々娘たちに『自分のような起動従士になれ』と何度も言ってきた。それは彼に男児が恵まれなかったという意味で言った訳ではなく、彼自身のプライドを堅持するためと彼女たちのことを考えた上の結果だった。……もっとも、後者には彼自身の欲と世間体という時代遅れのパラメータが大きなパーセンテージを占めつつあるが。  部屋に入り、シルヴィアとメルはゆっくりとレッドカーペットを歩いていた。メルは一歩右後ろに退いて歩いていた。それは父親に対する恐怖の現れた証拠でもあった。  レッドカーペットの端には椅子があった。そして、その椅子に深く誰かが腰掛けていた。  白いアゴヒゲを蓄えた男だった。はっきりとした眼は何を捉えているのか解らない。  スロバシュ・ゴーファンは引退して後、自分の家で優雅な暮らしをするに至った。彼ほどの武勲を持つ人間ならば、起動従士訓練学校の講師について後進を指導し育てることが出来ただろうが、彼はそれを断った。何故かは誰にも解らなかった。  だが、シルヴィアとメルならば彼がなぜそうしたか――というのが理解出来るだろう。  彼は彼の子供以外に強い起動従士を育てたくなかったからだ。彼はとてもプライドが高かった。だから、彼はこう思うようになった。  ――自分という存在と同等或いは同等以上な存在に、自分の子供もなれるはずだ。  それは優等遺伝があったとしても、可能性は限りなく低い。  それどころかそんなことを望むこと自体高望みとも言えるだろう。たとえスロバシュがどんな神を信じていて熱心に祈ったとしてもそれは無駄な努力だ。確かに稀に親以上の能力に目覚めるパターンはあるが、それも幾つかの手段によって潰されている。 「……お父様」  椅子の前に立ったシルヴィアは、再びスロバシュに声をかけた。 スロバシュは溜め息をついて、答えた。 「なんだシルヴィアにメル。私は今忙しいんだよ、第六・九世代の兵器デザインの最終チェックに追われているからな」  スロバシュは引退後、数々の兵器に惚れ込んでしまったためか、兵器のデザイナーになった。彼の作るデザインにはどれも流線形が潜んでおり、先進的なデザインとなっている。しかしながら、デザイナーの名前は『ラビック・アデフィート』としており、彼の本名を用いていない。そのためか彼が世界的に有名なデザイナーであるということを知っている人間は殆ど居なかったのである。 「私たちから、お父様に話したいことがあるんです」 「何だ」  彼は図面が書かれているであろう紙から目を離し、二人を見た。  メルが息を整え、話を続けた。 「私、実は起動従士ではなく技術者になりたいと考えているの」 「…………そうか」  スロバシュはメルの言っていた言葉の意味が理解出来なかったのか、一瞬言葉が詰まった。  メルの話は続く。 「私、今日タカトさんって人に会った。お父様なら知っているでしょう。あの最強のリリーファー、インフィニティの起動従士の方です」 「彼に……会ったのか」  スロバシュは軽く目を見開いた。  それを見てメルは頷く。 「そこで色んな話をしたんです。その最後に……話をしました。あの学校から技術者を目指すにはどうすればいいのか、ということを」  ここで話者はシルヴィアにバトンタッチする。二人は目配せをしながら、リハーサルをしたわけでもないのに息を揃えて話を続けた。 「そうしたらタカトさんが……知り合いの人に話を聞いてくれる。そう言っていました。でも……先ずはお父様に話をしなくてはならない。だから私たちはお父様に今日、話をしたのです」 「技術者になりたいのはメルだけか? それともシルヴィアも、か?」 「いいえ、お父様。技術者になりたいのはメルだけです。私はそのまま、お父様の望む起動従士へと精進してまいります」  そう言ってシルヴィアは頭を下げる。しかし、スロバシュの表情は渋い。どうやらまだ納得していないような――そんな感じにも思える。  スロバシュは持っていたペンで肘掛けを何度もつつきながら、何か考え事をしていた。  ――やっぱり、ダメだったのだろうか。  彼女たちの心に、そんな不安の波が押し寄せる。  しかしながら、スロバシュの返事は、彼女たちの予想外のことだった。 「……メルは未だ起動従士訓練学校で学んでいくつもりか? 学びながら技術者の仕事も学んでいく、そういう解釈で構わないのか?」  メルはそういう言葉が直ぐに彼の口から出るとは予想だにしなかったのか、少し耳を疑ったが、意味を反芻させ、漸く彼女は頷いた。  それを聞いてスロバシュは小さく溜め息を吐いた。 「……私はずっとお前たちに迷惑をかけたのかもしれないな……。起動従士になれば、女でも見下されない。私はそう思ってお前たちには口を酸っぱくして言ったのだが、それも負担として重くのしかかったのだろう」 「お父様。私は違います」  答えたのはシルヴィアだ。 「私はお父様がリリーファーを動かす姿に憧れて、お父様みたいな起動従士になりたくて今の学校に入りました。ですから、お父様が言うまでもなく私は起動従士訓練学校に入る予定でした」  彼も子供の言葉を面と向かって聞くのは久しぶりなのかもしれない。  久方ぶりに聞いた娘の思いに、気がつけばスロバシュは涙を流していた。 「……メル、お前の夢を私も応援しよう。技術者は起動従士のような花形ではなく、どちらかといえば裏方の仕事だ。だから目立たない。しかし気を抜けば起動従士も国も大変なことになってしまう、非常にプレッシャーのかかる仕事だ。まぁ、私の目の前でそこまで啖呵を切れるんなら、それくらい知っているかもしれないが……それでもお前は、その仕事をやりたいと思うのか?」  そんな質問は無意味だった。  それを聞いてメルは直ぐに頷いたからだ。  それを見て、スロバシュは小さく頷いた。 「なら、私はそれを妨げる理由など何もない。構わない。いいよ、おまえが思うままに進むがいい」  その言葉を聞いて、メルは笑みを浮かべた。 5  次の日、崇人たちが食堂でご飯を食べながら話しているとシルヴィアたちも席をくっつけるようにやって来た。 「おっ、シルヴィアにメル。どうだった、結果は?」  崇人はシルヴィアとメルの表情がどこか嬉しそうなのを理解していたが、敢えて素知らぬふりをして訊ねてみた。 「オッケーでした。……なんというか、思ったよりあっさりと理解を得られたような感じです」 「そうか、それなら良かったんだ。こちらもいい方向の返事をもらえたよ。ただし忙しいらしいから、教える時間をまとまって手に入れるかは……正直言って曖昧なところらしい。だから飛び飛びになっちゃうのは仕方がないことだとして理解してくれ、って言うくらいらしいから」  崇人はマーズから聞いた結果をそのまま伝えた。そのまま伝えてあげたほうが彼女たちも直ぐに理解出来る――そう思ったからである。  それを聞いて直ぐに反応したのはメルだった。メルは頬を紅潮させ微笑する程度だったが、シルヴィアはメルの背中を擦りながら満面の笑みを浮かべていた。あまりにも嬉しいのか、その目からは涙が溢れ出ていた。メルは感情の起伏がおとなしく、シルヴィアのほうがとても感情豊かだった。 「いつからやるとか何をするとか、そういう具体的な内容は決めていないのか?」  訊ねたのはヴィエンスだった。 「具体的なそれについては、未だ相手から聞いてない。だから追々そういうのが来ると思う」  そう言って崇人はポケットから何かを取り出した。携帯端末――スマートフォンだった。  崇人はスマートフォンに指を当て、なぞっていったりそれを押し付けたりした。暫くして、崇人は自分のスマートフォンの画面をシルヴィアに見せた。 「これは……?」 「僕の電話番号とメールアドレス。詳しい日付は僕のほうから聞いておくからとりあえずアドレスでも交換しとこう」  その言葉に頷いたシルヴィアはスマートフォンを取り出し、画面を合わせる。  同時にスマートフォンを振ることで情報が交換され、お互いの連絡先を手に入れるに至った。 6  帰宅して崇人はマーズに告げた。何を告げたかといえば、それは至極簡単なことだった。  シルヴィアにルミナスが指導を許可したことを話した、ということだ。それを聞いてマーズは一つ溜め息を吐いた。 「一件落着……と言ったところかしらね。私はもう少し時間がかかるものかと思っていたけれど」 「それってどういうことだ?」  崇人は訊ねた。  マーズは一つ溜め息を吐いて話を続けていく。 「スロバシュ・ゴーファンは噂でしか聞いたことがないけど、とても厳格らしいのよ。だからもしかしたら厳しいことになるんじゃないか……なんて思ったけど、時間の無駄だったようね。そんなことを考えなくても、別に良かった」 「別に厳格だとかどうとか語られていたのは想像の範疇にあった、ってことか? なんというか、ひどくめんどくさい話だな。そんな噂をたてられた本人からすりゃたまったもんじゃないんだろうけど」  崇人とマーズはそんな話をしながら、今日も今日とて夕飯時。食事を楽しんでいた。まぁ、勿論マーズには料理が出来ないからレトルト食品のオンパレードになってしまうのはもはや自明のことだった。 「なんというか……さぁ、高望みはしないからせめて少しくらい手作りものの何かを食べたいと思うんだよなぁ……」  ぼやきながら彼はレトルトのミートボールを一口。  対してマーズはほぼ同時に口に放り込んでいた鶏肉の煮込みを飲み込んでから、 「何を言うのかしら。私だって『調理』しているわよ? それに料理だって出来る」 「前者はレトルト食品を温めるだけ。後者は玉子焼きしか作れない。そんな状況なのによくその単語を使えたな?」  崇人はそう言いながら、鶏肉の煮込みを一つ箸で掴んだ。  鶏肉の煮込みはトマト風味だった。トマトとマキヤソースで味付けされているらしい。マキヤソース――マキヤ工業が開発した世界一有名な調味料となっている。マキヤソースは何にでもよく合う調味料だ。だから、こんな感じでよく使われている。因みにマキヤ工業はレトルト食品業界にも進出しており、そのシェアはレプトー食品工業についで二位だ。  だからこそよく使っている人だらけなのだ。特にマーズはマキヤ工業製のレトルト食品をよく食している。だからかもしれないが、気が付けばマキヤ工業製の食品を購入しているのだ。 「……とりあえずルミナスに関しては引き続きマーズによろしく頼むよ。日付さえ解ってくれれば、あとはそれを俺がシルヴィアに教えていく感じにしていくからさ」 「……それ、どう言う意味?」  それを聞いたマーズが明らかに不機嫌な態度を取る。  マーズの表情を見た崇人が、これはいけないと感じ取る。 「い、いや。あくまでも情報交換のためだからね? 決して疚しい意味は……」 「そういうことじゃ、ないの」  マーズは再び食事を始める。  崇人はその意味がよく解らなかった。はっきり言って彼は――あまりにも鈍感だった。 7 「部活動を作る?」  次の日、崇人は一時間目の授業が終了したところで二時間目の準備をはじめようとしたときに、一時間目の担当だったアリシエンスがそう声をかけたのだ。 「そう。残念なことに騎士団の業務を学校に持ち込むことは出来ないからね……。だから、きっと君たちも暇なんじゃないかな、と思ってね? 部活動として公式に認められれば、さすがに騎士団の活動を部活動にするわけにもいかないけれど……と思うんだよ」  部活動。  それはこの学校だけではなく、ほかの学校にも普通に備え付けられている、学生に対するシステムのことをいう。アリシエンスがいうには、この学校は学生の自主性を尊重しており、自由に部活動を作ることが出来る。もちろん、設立時には顧問の先生をつけなくてはならないが、裏を返せばそれだけで充分だということだ。  そして、その会話でアリシエンスが顧問になってくれるといったのだ。  だから、崇人が部活動を作るとなったとき、その顧問はアリシエンスということになる。  そんなことを食堂で話していた崇人は、どうすればいいかいつものメンバーに話をしていた。もちろん、そのメンバーにはシルヴィアとメルも含まれている。 「部活動……確かにそれならいいアイデアだな。この校内でも合法的に技術者の勉強をすることだって出来る。最悪マーズをこの学校の卒業生だと言って招いて『部活動練習』の名目で騎士団の活動も出来るわけだ」  ヴィエンスは長々とそう言ってカレーを一口。崇人は相変わらずきつねうどんのうどんを一口啜った。  シルヴィアが恐る恐る訊ねる。 「でもそれってそう簡単に通るものなんですか……?」 「だから言っただろ。この学校は学生に対して自由が通っている。言い方は悪いけど自由すぎるくらいだ。だからこそ、その『自由』ってもんを有効活用しないとな」  ケイスはそう言ってフライドポテトを一本口の中に放り込む。どうやら塩の塊がくっついていたらしく、口をすぼめた。  この学校は学生にとって大きく自由である。そして、その自由に対する義務というのはあまり存在しない。『学生には自由に動いて知識を学び、それを発揮して欲しい』という校長が考えたかららしいが、とはいえこの学風は普通の学校に比べれば珍しいことなのは変わりない。  しかしこの学校でその『自由』をフル活用できている人間は――あまりにも少ないだろう。たしかにこの学校の自由な校風を見て来る人間はいない。この学校はあくまで起動従士になるために入る場所だ。通過儀礼、というと違う意味になってしまうが、この学校が起動従士になるための通過儀礼となっているのだ。  寧ろ、起動従士を専門に扱っている学校だからこそ、それ以外に関する制約をゆるく持っているのかもしれない。 「……まあ、部活動ったって何をしようか、正直なところまだ考えていなくてさ。このあいだにどうやってか決めようかなあ……なんて考えているんだ。どうだ、何かいいアイデアはないかな?」  崇人はあまりにも他力本願すぎた。部活動のアイデアを他人に決めてもらおうというのだから。それを聞いて、崇人以外のほかの人間が一瞬、目を丸くしたのは、そんな崇人の他力本願ぶりに呆れたからかもしれない。 「うーむ。部活動と言われても……そう簡単に出てこないもんだな、アイデアってもんは。これを考えているとカーネルの人間はよくもまあ毎日とあれほどまでに魅力的なアイデアを出していると思うよ」  ヴィエンスはそう愚痴を零しながら、口をへの字に曲げる。彼が考え事をするときの癖だ。そしてそれをしているということは、真面目に部活動について考えてくれているということなのである。  崇人はそれとなく周りのメンバーを見てみる。シルヴィアにメル、ヴィエンスにケイス、それにリモーナまで考えてくれている。リモーナに至ってはそんなことを考えるほどの時間を過ごしていないというのに、非常に嬉しいことだ。 「……そうだ。騎士団自体は作れないんだろ? だったら騎士団めいた部活動は作れないか?」  それを言ったのはケイスだった。  意味が理解できずに首を傾げる崇人。  それを見てケイスは補足説明を開始する。 「騎士団という活動内容ではなくて、大会でいい成績を目指すために……或いは学業でよりよい成績を目指すために、仲間と鍛錬に励む……それを目的とするのはどうだろうか? それ以外にも、まだ目的は考えられる。例えば起動従士クラスと魔術クラスの交流を図るため……でもいい。この学校は明確に分かれすぎていて交流の機会が少ないからな」 「整備クラスのことも忘れないでやってくれよ」  そう言いながらヴィエンスは笑みを浮かべる。  この学校では整備クラスは影が薄くなりがちである。なぜかは知らない人が殆どかもしれないが、やはり学校によって特色があり、この学校はどちらかといえば起動従士に重点を置いているのである。  それにクラスの基準は大抵が本人の意思が尊重されるが、尊重されないケースもある。その代表例といえるのが、成績順によるものである。この学校の入学試験をくぐり抜けると、誰しも『成績』というパラメータ化されたデータが存在する。それを一定の基準と照らし合わせて、どのクラスに入れるのかを決定するのである。  そんなくだらないルール……などと思うかもしれないが、学校側からしてみてもそれは苦渋の決断なのだ。もともとここに入りたいと言っている学生の意見を半ば無視する形で別のクラスに入れるのだから。そんな簡単にできるはずがない。はっきりと言ってこういうのをするためには、まず感情を排除したほうがいい。そうしなければそんな人間じゃないような行動を取れるわけがないだろう。 「確かに話を聞いているとそういう部活動を作ったほうがいいかもしれないな……。シルヴィアやメルだけではなく、いろんな人が入ってくるかもしれない。特に既存の部活動にあきれ果てている、そんな変わり者サンにはね」 「とりあえずタカト、それで部活動を作ってみるってのはどうだ? 何か変えるときになったら、それは改めて報告すればいいし、急いで報告する必要もない。事後報告ではないがな。だから、その案で部活動を作る。そうすることで、まあ、ある程度は来るだろうな。ただし、それが俺たちにとってどう転ぶかは……まだはっきりとはしていないが」 8  崇人はあのあと、ヴィエンスに副部長の座を任命し、リモーナに会計の座を就いてもらうことを了承してもらい、部活動設立書なるものをアリシエンスに提出した。  アリシエンスはそれを見ながら何度も頷く。確認事項が多いから、時間もかかるのだろう。 「……それじゃ、これで私の方から提出しておきます。なるほどね、いいアイデアですね。騎士団めいた組織なのだけれど、魔術クラスや整備クラスなどの交流を図り、なおかつ様々な先生を外部から受け入れて授業めいたことをしてもらうことで、知識を得てその向上を図る、ですか」 「そうですね。調べてみたらこのような部活動はこの学校にはないことが解ったので。そういうふうにしてみました。いかがでしょうか?」 「いいと思いますよ。確かに今までこういう部活動はありませんでしたし、確りと企画書が書かれていますからすんなり通るんじゃないでしょうか」  崇人はそれを聞いて心の中でガッツポーズした。まさか元の世界でのサラリーマン知識、その一つである企画書作成がここで役立つことになるとは……彼はそう思いながら何度も頷いていた。 「ほかになにかありますか?」  アリシエンスから訊ねられ、崇人は改めて自分の頭の中に検索をかける。しかし、直ぐに『ノー』という返事が帰ってきた。つまり、これ以上質問などを重ねることもないということを示していた。  それを見て、アリシエンスは頷く。 「それでは、これで提出しておきます。部活動が承認されるのは早くて二日。ですからその次の日から部活動開始となれば……三日ほど待つ計算になりますね」 「三日、ですか。随分と早くないですか?」 「こんなものですよ。ただし、三日というのはやっぱり早い方です。場合によっては一週間ずっとこのままだとか、すぐ結果がわかるとかあります。一番ひどかったケースは、半年も審査にかけておいて、実際に部活動が成立しなかった……なんて悲しいケースもあるくらいです」  そう言ってアリシエンスは立ち上がる。彼女も授業を抱える教員だ。だからこれから授業に向かわねばならないのだろう。そう即座にピンと来た崇人は一歩後ろに下がる。 「時間をかけてしまいましたが……大丈夫でしょうか?」 「ええ、大丈夫ですよ。次の授業は一年生ですから。一年生の授業は二年生にだって教えられるレベルなんですよ。ですから、タカトくん……あなたにだって、一年生に勉強を教える素質は既に備わっている、ということなのですよ」 「ご冗談を」  そう言ってアリシエンスの部屋を後にした崇人。もちろん最後に頭を下げるのも忘れてはいけない。こういう基本的なルールは崇人がもともといた世界と変わらないから、守らないでいくなんてことは彼にはできなかった。社会人生活で身についてしまった細かいマナーによって、彼は無意識にそういう行動に至ってしまうのだ。  対して、アリシエンスが荷物をかかえながら、 「ほんとうにタカトくんは普通の学生とは違う立ち振る舞いをしてくれますね。毎日見ていて飽きません。どうでしょう? いっそ、カーネルで研究題材にしてもらうというのは?」 「それを逃げて逃げてここまできたんですよ、アリシエンス先生。別に好きで逃げているわけではないですが……ただ、気持ち悪いじゃないですか。自分の身体を調べられる、って。メスによる切開とかで中が丸見えのときに何をされるか分からないんですよ。もちろん研究することで何かの世界が変わっていくのかもしれません。でも、僕はそれが嫌です」 「……そうですか。それはすいません。私は、あなたのことを殆ど知らないのにどんどん土足で上がってしまって……」 「いえ、問題ないです」  崇人は踵を返しながら、 「もう――慣れたことですから」  そう言って彼は部屋の前から伸びる廊下を歩き出した。アリシエンスは一瞬彼の背中を眺めながら、立ち去っていった。  一人になって、崇人は考える。部活動を作って、本当にいいんだろうか……ということである。彼はこの世界の人間ではない。きっと誰かが呼んだからこそ、この世界にやってきたのだ。  そして崇人は着実にこの世界での存在感を高めつつある。  それで果たしていいのだろうか。それで何の問題もないのだろうか――崇人は解らなかった。崇人がこの世界に呼ばれた意味も、マーズが初めて会ったとき日本語を話していたような気がすることも、凡て、凡て解らない。特に後者の方なんてなおさらだ。崇人はこの世界の言語を学んでいくうちに漸く理解した。だが、マーズと初めて会ったとき、彼女は『日本語』でいったのだ。  あの時は切羽詰っていてよく理解できなかったが……今思うと確かに疑問だ。いや、疑問しか残らない。  されどそんなことを考えている暇など、今の彼には存在しなかった。先ずは部活動を作ろう。そうしてメンバーとの交流を図ろう……とまで考えたところで、彼はふと気になった。 「そういえば……どうしてあいつはここまでやる気になってくれたんだ? いつもならダメだとか普通に言いそうな感じがするんだが」  その『あいつ』とはほかでもない、マーズのことである。マーズは普段学校にはノータッチだと考えているらしく、何があっても「それくらい自分で解決してみせろ」というのが彼女であるからだ。  マーズは何か企んでいるのではないか――彼はそう思った。マーズは常に崇人とともにいるから、何を考えているのか常に解っている。だが、それが『確信』ではなくて『つもり』であったとしたなら? 確かにそう言えるのではなくて、証拠もなく崇人がただ言っているだけに過ぎなかったら?  確かに今彼が考えていることは証拠などない。強いて言うなら、いつもは学校に対してノータッチな彼女が積極的だということだ。よもやゴーファン家のように、有名な家柄に媚を売るために彼女がするとも思えなかった。  だからこそ、彼は気になった。どうしてなのか……と。 「どうせ、訊ねてもはぐらかされるだけだろうしなあ」  崇人は独りごちりながら廊下を歩く。先ずはリモーナとヴィエンスに、正式にその許可が通ったことを伝えなくてはならない。そう思ったからである。  ◇◇◇   崇人が自分の家に帰宅したのはそれから数時間後のことであった。実際アリシエンスに書類を提出したあとは授業も無かったので直ぐに帰ることは可能だったが、結局話が長引いてしまったためにここまでずれ込んでしまったのだ。  マーズは食事をしながら、崇人を見て、 「まあ、なんというか……。遅くなるなら遅くなるって早めに言って欲しいものだったね。」  明らかにマーズの表情が怒っているように見えたので、崇人は頭を下げる。 「別に遅くなろうと思って遅くなったわけじゃないよ。この前も言ったかどうか解らないけど、実は……」  彼が言った『部活動結成』のことを聞いて、マーズはふーんと言って、頷いた。 「そういえばそんな話を聞いた気がするね。この前の夕食で」 「えっ、言ったっけ? だって部活動を結成したのって今日のことだし。それに先生に許可を得たのも今日のことだぞ……?」 「いや、だいぶ前の話だよ。もし部活動があるんだったら入りたいなあ……的な話を言っていた気がするよ。しかしまあ、まさか自分で部活を作っちまうとは、あの時と比べると思いもしなかったけどね」 「それはこっちだって一緒だよ」  そう言って崇人は自分の部屋に荷物をおいて、腰掛ける。 「手を洗った? あと嗽は?」 「全部済ませたわ、子供じゃねーんだぞ」  今の風貌は明らかに誰がどう見ても子供なんだけどね……というツッコミを入れることを、マーズはしなかった。 9 「そういえば、部活動ってどういうことをやっていくつもり?」  マーズに言われて、崇人は思わず凍りついた。別になにも考えていないわけではなかったし、そう言われるのを予想していなかったわけでも無い。  ただ、マーズがここまでこだわってくるその理由を知りたかった。  だから、崇人は訊ねる。 「……どうしてだ? 別に、学生が決めていくんだし問題ないだろ。マーズが今から学生になります、ってんなら話は別だけど」 「いやいや、何の冗談? 学生になるわけないじゃない……強いて言うなら特別教師?」 「……ん?」  今俺はあまり聞き逃してはいけないような、重要な情報をさらっと流したような気がするぞ?  崇人はそう思って、再び訊ねる。 「……おい、それってどう言う意味だ」 「どう言う意味もなにも、しばらくろくに戦争が起きる様子もないし、だったら後進によりよい指導をしてくれ、という王様の命令でね。ここしばらく中央で教職に就くことになったんだよ。あ、でも臨時だからね。特別だからね。そんなに長いあいだはいないよ。どれくらいかってえと……まあ、『大会』が始まるくらい?」 「それって一ヶ月以上あるじゃねえか! なんだよそれ、聞いてないぞ!」 「秘密はぎりぎりまで取っておくといいって聞くでしょー?」 「きかねえよそんなの! で、いつなんだ?」 「明日から」 「唐突ぅ!」  崇人は思わず柄にでもないツッコミを入れた。 「……まあ、そんなことはさておき、どちらにしろ明日からあなたのクラスに授業などで参加することになるわ。もちろん学生としてではなくて、教師として……だけどね」 「何か裏があったりしないだろうな……。たとえばテロ集団が入っているとか」 「うーん、詳しいことは言えないけど……まあそれはおいおいということで! じゃ、片付けよろしくー」  そう言ってマーズは一足先に食事を終え、リビングへと戻っていった。崇人は残されていた食事とマーズの食べた残骸を見て、ひとつ大きな溜息を吐くのであった。 10 「これから一ヶ月近くとなりますが、あなたたちの授業の担当となります、マーズ・リッペンバーです。みなさん、よろしくお願いしますね」  ……どうやら、マーズのいったことは嘘ではないようだった。崇人は朝、ファーシに連れられ入ってきたスーツ姿のマーズを見て確信した。  因みにクラスは大盛況である。当たり前だろう。この国のエース起動従士であるマーズが特別教師として来ているのだ。驚かない方がおかしいのかもしれない。 「それではみなさん、よろしくお願いしますね。マーズさんはこれから担任の補佐としても活動していただきます。一応、『大会』がある一ヶ月後あたりまでこのクラスにいることになっておりますので……」  ファーシはそう言うが、実際のところその声が聞こえることはない。クラス全体に響き渡る雑音がそれを制しているからだ。その雑音源となっているのはほかでもない、学生の話し声だ。学生がマーズについて様々なことを話しているからこそ、それほどまでに声が大きくなってしまっているのだ。  ファーシはそれでも気にすることなく話し続け、そしてそれが終わるとそそくさと出て行った。  それを見送ってすぐ、マーズは教壇を叩いた。  しん、と教室が静まり返る。 「私が授業を行うのは主に実技関連。だが、実技には知識を伴わなくてはならない。そうでなくては正しいリリーファーの操縦などできるはずがない」  そう言ってマーズはどこからか伸びる金属製の棒を取り出して、一番前に座っているリモーナを指した。 「あなた、リモーナさんでしたね。リリーファーを操縦するうえで必要なことは」 「せ、精神力……それに体力、リリーファーの装備している武器を知っておくことでしょうか」  こころなしかリモーナの声は震えていた。  それを聞いたマーズは頷く。 「ええ。その通りです。よく学んでいますね。ですが精神力というのは非常に崩れやすいんですよ。知っていますか? 人はどんなに精神を鍛えたってあっという間に崩れ去ってしまいます。人間の精神なんて砂上の楼閣といえるでしょう。ああ、つまり砂の上に建っている建物に等しいってことです。砂の上になんの土台もおかずに建物を建ててもあっという間に崩れてしまうでしょう? それと同じで、私たちの精神もあっという間に崩れてしまうんですよ。……おかしいでしょう?」  マーズは言って踵を返す。  カバンから取り出したのは、一冊の本だった。それは、崇人たちがいつも使っている教科書だ。 「だから知識を学ばねばならない。起動従士だからといって力学や数学を学ぶ必要がないわけではない。それは、生きていく上で必要なのだから」 「先生……?」  学生のひとりがマーズをそう呼んで、言った。 「これはれっきとした授業です。そうですね……私の経験談とでも言えばいいでしょうか。正直な話、紙に書いたものを読んで理解したって実際の場面ではなにも役に立たないのが殆ど。結局は経験がモノをいうのです。経験があればあるほどパターンに応じての行動がより豊かなバリエーションと化す。つまりはそういうことですよ」  マーズの言い分には筋が通っていた。確かに知識だけでそういう場面を乗り込もうなんて笑止千万である。だからこそこの学校では模擬戦として訓練用リリーファーに乗った学生同士がバトルすることもあるが――それも所詮『知識』に過ぎない。実戦で模擬戦めいた行動をとればあっという間に負けてしまうのは確定事項ともいえるだろう。  とはいえ、凡てを経験に頼るわけにもいかない。もちろん知識が必要だし、長年積み上げられた経験は知識と化すことだってある。そういうわけで知識と経験のうまい使い方が大事なのだ――マーズはそう言っているのであった。ただし、それをきちんと理解できているのはこのクラスにどれくらいいるのか、それとこれとは話が全くの別になるが。  マーズの話はまだまだ続く。学生の一部には眠気を催しているのか欠伸をしていたり、既に机に突っ伏しているのもいる。しかしマーズはそれを気にすることなく、まだ話を続けていく。 「私がまだ起動従士になったばかりの頃、二人の人間に別々の言葉を言われました。どちらも反対な意見を口にしたのです。片方は、先輩の起動従士……今はもう引退してしまいましたが、彼はこう言いました。『精神論なんてくそくらえだ』と。私はその意味を理解できず訊ねました。……ところで、精神論と聞くと何が思い浮かびます? はい、そこの居眠りしている学生。ちょっと申し訳ないけど後ろの人起こしてねー」  突然呼びかけられた学生は仕方なく前にいる学生の肩を小突く。学生は何があったんだという気持ちでゆっくりと起き上がる。まだ状況を理解できていない様子だったが、マーズはにっこりと微笑んで、 「はい、それじゃあなたに改めて質問です。『精神論』とはいったいどういう状況を指すと思います?」 「精神論……精神さえ良ければなんでも出来る、とかそういう感じですか」 「まあ、正しいっちゃ正しいですね。つまりはそういうことです。いくら肉体を鍛えていても、いくら技術を覚えていても、精神がダメになってしまえばなにも出来なくなる……よく聞いたことあるでしょう。『もう少し精神的に押していれば勝っていた』だの気合負けだの、根性論と真逆のことを言うわね。つまり、人間の精神力が物質的な劣勢を跳ね除けることが出来るという考えよ」  マーズは言った。  精神論。崇人は聞いて、確かにそうだと思った。精神論は間違っている。が、精神がやられてしまえばそもそも物質的に勝つことなんて不可能だ――崇人はそれを身をもって知っていた。  マーズの話はさらに続く。 「だから、兵士にこう言われたときは驚いたわ。『起動従士なんて精神論で突っ走ればなんとかなるだろ。俺たちみたいなのとは違うんだから』って。何を言っているのかまったく解らなかった。つまり、一般兵士から見た起動従士なんてそんなものなの。起動従士はほかの兵士と違う。だから、起動従士には一般兵士以上の強い精神を持っているはずだ。強い肉体を持っているはずだと勝手に位置づけてしまう。一部はそれで正しい人間がいるかもしれない。でも、大半はそうじゃない。精神が弱い起動従士もいれば、肉体が弱い起動従士だっている。そういう人間はフルで出動しないから、知らないだけ。そして私みたいに元気な起動従士であればあるほど、メディアでの露出があった時に注目されやすくなる。だから、国としても元気で活発な精神と肉体を持った起動従士をよく登用する。だからこそ、そういう起動従士が減ってしまう。例え、私よりも強くても精神が弱かったら負けてしまうんじゃないか、と思っている弱腰の『上』はね」  ちょうどチャイムが鳴ったのは、そんなタイミングのことだった。外から轟音が聞こえる。よく見れば外は豪雨になっていた。 「おっと、もうこんな時間ね……。それじゃ、今回はこのへんで。もし私に何か聞きたいことがある学生は非常勤教師詰め室……ってわかるかなあ。この学舎の二階にある小部屋で、図書館の隣にあるんだけど、そこにいるから。あと昼食はハリー騎士団のみんなで食べようと思っているからそのタイミングでもいいわ」  そう言って、つかつかとマーズは去っていった。  それをただ崇人たちは、見送ることしかできなかった。  ◇◇◇ 「おい、タカト。なんだよあれ」  ヴィエンスから言われた崇人は、口をへの字に曲げて答える。 「僕だって知らねえよ。言われたのは昨日の話だぞ? それにどういう役職に就くのかも、だ。そんなタイミングでお前たちに報告するのが最速で今日の朝。だったら言わないでおいたほうがいいだろ」 「……なんというかなあ。あの『女神』サマが考えていることはまったく解らん」  ヴィエンスは皮肉混じりに、あえて彼女の愛称で言った。 「ねえねえ、私マーズさんの話聞いてすごいかっこいいなあって改めて思っちゃった! 前会った時もすごかったけど……今の方も断然良かったよ!」  気分が高揚しているのか、少し声のトーンが高くなっているリモーナが会話に割り入ってきた。 「そうかなあ……。いつも一緒にいるから良さがイマイチ理解出来ないだけなのかもしれないだけかな」 「そうかもしれないよ? ほら、よく言うでしょ。あまりにもすごい人と一緒に過ごしていると自分の感性というか基準がおかしくなって、その人のすごさがイマイチピンと来なくなっちゃうって」 「うーん……まあ、そうなのかもしれないな」  崇人はぎこちなく答えた。  崇人はここで忘れていた。マーズが最後に言った、あの言葉を。  ――昼食はハリー騎士団と取る  それを必然と理解するのは、それから数時間後のことであった。 11  昼食。いつもの通り食堂でカレーうどんを注文する崇人、カレーを注文するヴィエンス、なんだかよくわからない定食を注文するリモーナとケイス、そして――。  ――カレーうどんを注文し、崇人の隣でうどんをすすっているマーズ・リッペンバー。 「いやいや、おかしいだろ!?」  崇人がうどんを啜るのをやめ、この状況につっこみを入れた。それを聞いたマーズは驚いてうどんを啜るのをやめる。 「ど、どうした……? 何か悪いことでもあったか……?」 「そういうことじゃなくて! どうして俺たちと一緒に食べているんだ、って話!」 「別にいいじゃんかタカト。僕だって光栄だよ? 『女神』マーズ・リッペンバーと食事が出来るなんて」  そう言ったのはケイスだった。  さらに、ほかの反応。 「別に一緒に食べるもなにも変わらないだろ。そもそも俺たちは同じ騎士団なのだから」とヴィエンス。 「そうですよ。私は別に同じ騎士団とかそういう高尚なアレではないですけど……それでもマーズさんを仲間はずれにするのはよくありません!」とリモーナ。  とどのつまり。  崇人の意見に味方する存在など、今この時点において居なかったのである。  仕方なく崇人は再びうどんをすすり始める。もうこれ以上抵抗しても仕方ないことだ――そう思ったからだ。 「そういえば、ほんとうにどうしてマーズはここに来ることになったんだよ。何か理由でもあるんじゃないのか?」  崇人は昨晩言った内容を再び彼女に訊ねる。  対してマーズはうどんを啜ったあと、 「まだ言えないんだよねえ……。部活動ってもう完全に決定したらしいし、部室でさわりだけなら話してもいいけどさ」 「部室で? というかなんでお前が完全に部活動の許可が下りたことを知っているんだよ」  崇人の言葉と同時にマーズは崇人にある紙をつきつけた。  それにはこう書かれていた。  ――マーズ・リッペンバー特別教師を『騎士道部』の顧問に任命する。  短く、そう書かれていた。 「……は?」  崇人はそれを見て言葉を失う。  マーズはその表情を見て鼻で笑った。 「つまりそういうこと。私がしばらくのあいだあの『騎士道部』の顧問になるってわけ。たぶん大会が終わっても私はこっちの顧問でいると思う。あの国王、前と変わって結構積極的に後進を育てているのよねー。まあ、それはけっこうなことなんだけど。それで私たち『先輩』がだいぶ逼迫した状況になるってのはちょっと勘弁願いたいけどね」  そう言ってマーズは残りのうどんを啜った。 「遅れました」 「メルがいろいろ手間取りまして」  シルヴィアとメルがやってきたのはちょうどその時だった。お昼休みも三分の一が経過しているためか、彼女たちは手っ取り早く食べることの出来るうどんを注文していた。  はじめ彼女たちはマーズの存在に気づかなかったらしいが、シルヴィアが何かに気がついたらしく、メルの肩を叩く。 「どうしたのシルヴィア。そんなに驚いて……え」  メルはうんざりしながらシルヴィアの方を見て、さらにシルヴィアが差した方向を見て、彼女は目を丸くした。  シルヴィアとメルの視線を受けているマーズは彼女たちの方を見て、小さく笑みを浮かべた。 「びっくりしました。まさかマーズ・リッペンバーさんがこの学校に来ているなんて」  シルヴィアの言葉にメルは頷く。それを見てマーズは、 「やっぱり双子って聞いたからすごいそっくりなのかってことを期待していたんだけど……期待通りねえ。すごいそっくり。なんというか、鏡写しみたいに」  ……ものすごく見当はずれな発言をするのだった。  崇人は溜息を吐いて、まだ情報を完全に把握していないシルヴィアとメルとに情報を共有するため、簡潔に述べた。 「はっきり、簡単に言ってしまえば今日から一ヶ月程度マーズはここの教員となる。僕たちの授業も担当してくれるだろうし、もしかしたら一年生の授業も担当するだろう。ここは学年に応じて先生を分けられるくらい先生が過多にいるわけでもないからな。そして、もう一つ。僕たちが結成した部活……騎士道部の部活顧問としても、マーズが入ることになった。こっちはいつまでやるかは不明だということだから、まあ、かなり長いあいだずっといることになると思う」  それを聞いてさらにシルヴィアとメルの目が丸くなる。当然だろう。これほどのビッグニュースを聞いて驚かない方がおかしいというものだ。  シルヴィアは心を落ち着かせるために水を一口。喉が潤い、気持ちを整えたのを自らで確認して、マーズに言った。 「そ、それじゃ……マーズさん自らが指導してくださる……ということですか!?」 「まあ、そういうことになるわね。少なくとも、今年の『大会』は大分波乱になるらしいし」  それを聞いて崇人は首を傾げる。 「どういうことだ?」 「あら、聞いてないの? 『大会』にはもちろん起動従士となった学生は出ることができない。ということはあなたたち全員今度の大会には出れないのよ。ということは今出る確率が高いのはここにいるシルヴィアただ一人。まあ、メルちゃんが出るっていうのならまあまあ話は別だけど、あなた確か技術士志望なのでしょう?」 「いいえ、起動従士も技術士も学んでいきたいと思っています。だから、私も出ます」  話がまったく読めなかった。 「……つまり、あなた技術士にもなりたいし起動従士にもなりたい……『|多重技術(デュアルスキル)』を手に入れようとしているの?」 「なんだ、そのデュアルスキルって」  マーズの驚きが理解できず、崇人は訊ねる。 「多重技術ってのは名前のとおり複数の技術を持つ人間のことよ。今の時代では、起動従士として極めるまでの才能を持った人間は、技術士や魔術師になるまでの才能を持たないと言われているの。それもそうよね。起動従士と技術士と魔術師は頭の仕組みが全部違うって言われている。まあ、昔は魔術師で魔術を極めている人間が起動従士として強い力をその|恣(ほしいまま)にした人間だっているわけなんだけどね。実際にはもう百年以上出ない計算らしいよ」 「その計算って、どこが計算したんだよ」 「リリーファーシミュレートセンター。ひいてはメリアね」  またあいつか……とかそんなことを思いながら、崇人は再びメルを見る。  メルはぎこちない態度をとっていた。当然だろう。今彼女たちの前にいるのは最強のリリーファーを操縦する起動従士で、さらにその隣に立っているのは『女神』と謳われるこちらも最強の起動従士なのだから。 「どうした、メル? なんだか落ち着かない様子だが……」 「ええっ?」  メルは答える。その素振りはどう見ても普通ではなかった――その正体をシルヴィアだけ気づいていたためか、シルヴィアはくすくすと笑っていた。  だが、崇人はそういうものにイマイチ鈍感だったためか、まったく分からないのであった。 12  『騎士道部』の部室は空き教室の一つを利用することとなった。教室が余っているから致し方ないことにも思えるが、やはり部活動ともなれば特有の空間を得たいものである。  教室は閑散としていた。当然のことだが、どうやらこの教室は数年は使われていないらしい。何故なら教室の扉を開けた瞬間に溜まっていた埃が外に飛び出て来たからだ。 「……どうやら先に、この部屋の掃除を済ませなきゃいけないようね」  マーズの言葉に拒否反応を示す人間など、居るはずもなかった。  片付けのみで二時間ほど時間を費やし――結果としてその日の部活動はそれだけで終了してしまった。  しかし漸く綺麗になった教室を見ると、やはり綺麗にして正解だったのは自明だ。  マーズは、恐らく自分の家から持ってきたであろうティーカップを傾け、中に入っている紅茶を啜った。 「あ、ずるい! 俺たちは自前の水筒に入っている飲み物か、或いは売店で済ましているってのに……こいつお湯を沸かして紅茶を飲んでいやがる!」 「別にイケナイことではないでしょ? だってこの学校の教員は皆お湯を沸かしてコーヒーなり紅茶なり飲んでいるわよ? カップラーメンを作って一人寂しいお昼を過ごしている教員だって、私の時代にはいたし」 「そういうわけじゃないんだよなぁ……。つまりだな、俺が言いたいのはどうしてお前だけ飲んでいるんだって話だよ」 「私が持ってきたんだから私が飲むのは当然でしょう? それに私は『私専用の』とは一度も言っていないんだけど?」  つまり、それは『誰だってその紅茶を飲んでもいい』ということだ。もちろん、マイカップは持参する必要はあるが。  崇人は適当なところから椅子を持ってきて、腰掛ける。 「で、マーズ。おまえ、どこまで今回の大会の内情を知っているんだ?」 「あっ、早速それ聞いちゃう?」  マーズは悪戯めいた笑みを浮かべて、ソーサーを机の上に置いた。 「僕は出ないから何にも対策を取りようがないが……要はこの学校の教師陣の狙いは、クラスから一々輩出するのではなくて、『この|部活(チーム)』で大会に出場する……ということを言いたいんだろ」  その言葉に学生たちは驚いた。  中でも一番驚いたのはヴィエンスだ。立ち上がり、目を見開いて崇人に訊ねる。 「タカト、そりゃ本当か?」 「あぁ。とはいえ、確証が掴めない以上僕の妄想であり戯言に過ぎないがな」 「いいや、それは本当だよ」  しかしマーズは、あっさりとそれを認めた。 「もとはといえば先輩……アリシエンス先生がいち早く大会制度の改革に乗り出していてね。本当は来年あたりからこの制度を開始しましょう、って話だったんだけど、結局この学校は制度開始前のモデルケースとなった。モデルケースだからといって、それなりの成績を出さなくては学校の名が立たない……とアリシエンス先生が考えたかどうかは甚だ疑問に感じるけど、要はそういうこと」  クラスから出すのではなく、大会専門の部活動をつくりチームとして参加する。  大会のシステムとしてはそれが一番合理的とも言えよう。だって大会に出たい人間は自ずとその部活動に入ることになるのだから。 「なるほどなぁ……、アリシエンス先生も考えたね」  そう言ったのはリモーナだった。 「そういえば崇人と俺は参加出来ないが、別に『起動従士ではない』ということだけが条件ならリモーナも参加出来ないか?」  ふと、思い出したように言ったのはヴィエンスだ。そして、それは紛れもない事実だった。リモーナは起動従士ではない。はっきり言ってしまえばただの学生だ。ただの学生ならば参加要件は満たしており、普通に大会に参加出来るはず――ヴィエンスはそう考えたのだ。 「そういえば……。全然考えていなかったわ、ごめんなさいリモーナさん。あなたにも大会参加資格が、確かに存在するわ」 「ほんとうですか……!」  リモーナは頬を紅潮させ笑みを浮かべる。学生にとって大会への参加とはそれほどまでに栄誉のあることなのだ。  マーズは再び紅茶を啜り、 「となると問題になるのは……そのメンバーね。今は三人だからあと二人。出来ることなら補欠を一人くらい用意しておきたいわね……」  去年みたいなことになるなんて殆ど有り得ないけどね、とマーズは付け足す。  騎士道部の部室、その扉がノックされたのはちょうどその時だった。 「失礼します」  次いで、凛とした声が扉の向こうから聞こえてきた。  扉が開けられ、そこに立っていたのは一人の少年だった。ウェーブがかった髪に、青い瞳をもつ少年。 「ファルバート・ザイデルといいます。騎士道部はこちらだと聞いてやって来たのですが」  それを聞いてマーズは立ち上がり、ファルバートの前に立った。 「あなたがファルバートくんね。噂は聞いているわ。まさかあなたも騎士道部に来てくれるなんて……」 「噂は所詮噂に過ぎません」  マーズの言葉をファルバートは華麗に受け流しながら、話を続ける。 「ところでここに入部すれば『大会』への優先的な出場権が手に入る……そう聞いたのですが」 「ええ、その通りよ。ただ、あなたの言葉を敢えて一つ訂正するなら、『優先的』ではなくて『確実に』ということかしらね」  確実に? マーズの言葉を聞いてファルバートは首を傾げる。  ええ、とマーズは頷いて、 「この部活動は『大会』などの起動従士関連の大会に参加するために結成されたチームのようなもの。部活動……というよりもチームと言ったほうが断然正しい言い回しでしょうね」 「チーム……つまりこれに入ればチームの一員として、大会に代表で参加出来ると」 「そう。ただしリーダーはもう決まっているけどね。ここにいるシルヴィアさんよ」  ファルバートはそれを聞いてシルヴィアとメルを睨み付ける。  しかしその姿勢を直ぐに改めて、マーズに訊ねた。 「……お言葉ですが、それを変えるつもりは?」 「学力試験及び入学式の日に行ったリリーファーを用いた訓練の結果、それらを総合的に評価した結果よ。それを変えることは、残念だけど出来ない」  それを聞いて、さらに表情を悪くさせるファルバート。気持ちが悪いだとかそういう感情ではなく、気に入らないのだろう。  それを見てマーズは笑みを浮かべる。 「……もしかして、気に入らないのか。自分ではなく、ゴーファンの者が評価されているという事実を受け入れたくないのか?」  それを聞いてファルバートはマーズを睨み付ける。どうやら図星だったらしい。 「はっきり言って君たち三人は甲乙つけ難い存在であるということは百も承知だ。だがな、リーダーという存在は一人でなくてはならない。それでいて中立でなくてはならない。君のようにそうやって……一つの思考を押し付けるような人間には、はっきり言ってリーダーには向いていないだろうな」  マーズの言葉は簡潔かつ的確にまとめられていて、さらに芯が通ったものだった。だからこそファルバートはマーズの言葉に何も言い返すことが出来なかったのだ。  自分がそこで言い返していれば、自分が弱く見えてしまう。彼はそう思ったからだ。だから彼は、ただマーズを睨み付けるだけにした。 「……ですから、あなたたちははっきり言ってほぼ同等の実力といえるでしょう。それは確実です。しかしながら、三人が同じ実力を持つゆえに誰がリーダーと化しても問題が起きるのはもはや予定調和だ……。ならば、どすれば良いのか。そんなの、簡単だよ」  マーズはソーサーを置いていた机を小さく叩く。 「――模擬戦をすればいい」  マーズの言葉に口を入れるものはいない。皆彼女の話を真剣に聞いているのだ。  彼女の話は続く。 「新しいメンバーを入れるときも何らかのいざこざがあっても……私は常にそうしてきた。至極単純で一番白黒はっきり付きやすいだろう?」  それを聞いていくうちにファルバートの唇が緩んでいく。それはマーズが自分を違うシステムで改めて評価しようとしているのを面白く思っているのか、それとも自分が正当に評価されつつあるのを実感しているからか、はたまたその両方からかもしれなかった。  ファルバートは言った。 「……解りました。それではいつ、どこで行いましょうか? 流石に今日というのは無理ですが、出来る限りマーズさんのスケジュールに合うようにこちらも調整出来れば……と」 「そうね、三日後というのはどうかしら。三日後なら確か『あそこ』が空くはずだし」  それを聞いていち早くピンと来たのは崇人だった。だから、マーズの言葉に小さく溜め息を吐いた。 「いくらなんでも、流石にそろそろあいつを休ませてやれよ……。絶対に早死にするぞ?」 「どちらにしろ『大会』メンバーになった彼らには遅かれ早かれ連れていく場所だ。ならそれでいいじゃないか。それにバーチャルの世界なら横入りも少ない」 「あ、あの……さっきから何の話をしているんですか?」  おいてきぼりをくらっていたシルヴィアがマーズと崇人に訊ねる。  それを聞いてマーズと崇人は二人同時にこう答えた。 「「リリーファーシミュレートセンターだよ」」  次いで、マーズはその詳細を告げていく。 「要はシミュレートセンターのシミュレートマシンを用いて、仮想空間にダイブ。それによって仮想的に戦闘を行う……そういうことよ」 「でも、シミュレートセンターって少し前に乗っ取られたりしていませんでしたか?」  訊ねたのはシルヴィアだった。  確かにその通りだ。二月に、進級試験を初めてそのシミュレートセンターで行った時に、テロリストが占拠して一時学生たちが仮想空間に閉じ込められた。  それによって大きく批判を受けたのはほかならないシミュレートセンターの人間だ。ひいてはその責任者であるメリアが責任を取って、センターの所長を退く予定だった。  しかしマーズがメリアのことをなんとかしようと画策した。そして現にメリアはまだこの場所にいる。 「……まあ、いろいろあったけど、今でも彼女はシミュレートセンターにいるし、シミュレートマシンの開発と研究を行っているわ」 「まぁ、そういう事情はどうでもいいですね、模擬戦をする上では必要としない情報です。……模擬戦については三日後、シミュレートセンターで行う。それだけが解ればあとはどうだっていい」 「どうだっていい……か。あなたは少しくらい他人に興味を持ってみたら? 開ける世界だって――」 「そんなもので開ける世界なら、自分自身を信じて生きていったほうがましです」  マーズの言葉を遮るようにファルバートは言った。  そして踵を返した彼は、そのまま外へ出ていった。廊下を歩くファルバートの足音がどんどんと小さくなっていくのを聞いて、マーズは小さく溜め息を吐いた。  扉が再び小さくノックされたのはその時だった。しかし扉はファルバートが無造作に開け放ったままであるので訪問者の姿は丸わかりだった。  栗色のショートボブをした少女だった。眼鏡をかけて、目がくりっとしている。どこかおっとりとした雰囲気を見せる少女だった。 「えっと……あなたも騎士道部に入りたいのかしら?」  マーズが訊ねると彼女は俯いた。どうやらファルバートたちよりかはあまり意志が固くないようだった。  身体をもじもじさせながら少女はただその場に立っていた。 「あ、ジェシーじゃない!」  しかしその姿をみたいなシルヴィアはそう言って立ち上がった。対してジェシーと呼ばれた少女はびくりと身体を震わせると顔を上げる。  ジェシーは直ぐにシルヴィアの姿を発見し、そこで彼女は漸く安堵するのだった。  しかしずっとジェシーの視線がシルヴィアに向いていた訳でもない。時折目線を露骨に反らしていたりする。まるでなにか後ろめたい気持ちがあるのではないか――マーズにそう思わせる程に。 「あ、あのっ……ごめんなさいっ!」  しかし、ジェシーはマーズたちに向かって頭を下げた。  突然の行動にマーズたちは驚愕した。彼女がマーズたちに謝罪するような要素がまったく見当たらなかったからだ。  頭を下げたまま、ジェシーの話は続く。 「わたし……いつも食堂でタカト先輩とシルヴィアたちが話しているのを、とても楽しそうに話しているのを見ていて気になっていたんです。だけどなかなか切り出せなくて……。そしたら今日、あのマーズさんがその会話に参加して、さらに放課後にどこかに向かったので……」 「気になって後をつけた、ってこと?」  シルヴィアの言葉にジェシーはこくりと頷く。 「そしたら部活動を始めているみたいで、掃除をしている間に聞こえた話とかで、ここが『大会』などのために起動従士を育てる場所だってことが解って……。それで勇気を出して入ろうとしたらファルバートくんが」 「あいつが入ってきて、まぁ高圧的に色々といちゃもんつけているから、その会話に入れる訳もなくずっと待っていた……要するにそういうことだな?」  ジェシーの言葉を代弁するようにヴィエンスは言った。ただしその言い回しは少しぶっきらぼうなものであった。  そのぶっきらぼうな言い回しを女子に言うのもいかがなものかと思ったマーズは、それについて咎めようとした。  それよりも早くジェシーは頷き、そのことについて認めた。 「……じゃああなたは騎士道部に入ろうとは今のところ考えていないのかしら?」 「さっきの話を盗み聞きしてしまいましたが、学力試験と入学式にあった訓練で総合的に評価しているなら、私は『優等生』なんてそんな箔つきではありません。ただの凡庸な学生です」  自身を凡庸だと言って、ジェシーは首を横に振った。  しかし、凡庸と卑下するものの、この学校は基本的に頭の良い人間があらゆる所からやって来るので、たとえこの学校で凡庸でも普通の学校で上位に入るくらいだ。要するにこの学校と普通の学校では基準がまったく違う。  しかしながら、学力の可視化からの順位付けは、少なくともほかの学校よりは厳しいものになるのは事実だ。起動従士として較べられていくのは彼らが生きていく中での回数を考えれば学校でのそれなどちんけなものに過ぎない。  そもそも他人と較べられるということは社会では必要不可欠だ。必ず一回以上は他人と較べられる。それによって『自分』という存在が社会的に認められるといえるだろう。  ジェシーに関しては今日来たばかりであるしシルヴィアたちに較べれば『大会』への関心が低いようにも思える。だから彼女を一先ず『保留』としたのだ。 「まぁ、凡庸と言ったってこの学校の『平凡』ってのは世間でも高レベルな人間であることは事実よ」  マーズは言うと、立ち上がってジェシーの肩をぽんぽんと叩いた。 「……まだ色々と整理がつかないことだってあるだろう。そう簡単に整理がつくことではない。なにせ人生を左右する大事な選択になりかねないからね」 「…………そう、ですね。わかりました。改めて考えてみたいと思います」  そう言って彼女は頭を下げ、踵を返しその場を後にした。 13  その日の夜。  ザイデル家の夕食は優雅なものであった。ビーフステーキにコーンスープ、マッシュポテトにガーリックトーストなど、贅を尽くしたものが並んでいる。  ザイデル家の夕食には会話という調味料が存在しない。存在してはいけないのだ。親子どうしで会話をすることがない。ファルバートが進言しても、彼の父親であるバルト・ザイデルに否定されてしまえば彼はなにも言えない。  ファルバートはバルトの良きパペットになっているのは、ザイデル家に仕える人間なら周知の事実だった。でも、それを言わない。言えるはずがない。 「……時にファルバート」  ワイングラスを傾けながら、バルトは言った。 「なんでございましょうか」  ファルバートは言った。  バルトは傾けたグラスの中に入っているワインを啜り、 「……なんでも、騎士道部という部活動に入っているようだな。リュートから聞いているぞ」  それを聞いてファルバートは心の中で舌打ちする。リュートとは彼の幼馴染であり、バルトの部下であった。リュートと同い年であるというのに、バルトに対する忠誠心は厚い。しかしながら、ファルバートにとっては一番近しい存在にいるので、彼を無視するわけにもいかないのであった。  しかし、バルトの言葉に答えないわけにはいかない。そう思ったファルバートは一口水を啜ってそれに答える。 「はい、確かに私は騎士道部に入部表明してまいりました。なんでも『大会』メンバーへと部員を優先的に昇格させる。だから、それが一番であると考えたためです」  その通りだった。筋の通った考えだった。  だが、それが父バルトに通ずるかと言われると……また微妙な話だった。  ファルバートの話にバルトは頷く。どうやらそれで理解したようだ。 「……ふむ。ならばいい。しかし、私が疑問に思ったのはもうひとつのことだ。……どうやら、騎士道部とやらには、かのゴーファンの双子がいるらしいな?」  それを聞いてファルバートの顔が引きつった。どうやらリュートはそれに関しても伝えていたらしい。  それを聞いてファルバートはひどく後悔する。早く自分の口からそれを伝えたかったのに、リュートの口からそれが伝えられたということが至極こそばゆいものを感じた。  ファルバートは一瞬遅れてそれに頷く。  バルトの話は続いた。 「……しかもゴーファンの双子の片割れが、その騎士道部で部長の地位……ひいては今回の『大会』でリーダーに就くらしいではないか? 私の苦労を知らないわけではあるまい? いつまでも彼奴らに見下される立場でありたくないのだよ」 「それは重々承知しております。ですから、僕は決断しております。近々、シミュレートセンターにてシミュレートマシンどうしの戦闘ではありますが、リーダーを決める模擬戦を行うよう取り付けました。これで僕が勝てば、ゴーファンの双子を見返すことが出来るでしょう」  それを聞いてバルトは頷く。その表情は心なしか先ほどよりも柔和である。 「解った。期待しているぞ、ファルバート」  そう言って、バルトは立ち上がるとその場から姿を消した。そのあいだ、ファルバートはずっと頭を下げ続けていた。  親子の会話というよりは上司と部下のそれに近い。それを聞いていたメイドも、恐らくはそう思っただろう。  だが、それについてファルバートは普通だと思っていた。こうすることが自分にとって理想形であると確信していた。  しかし、ひとつだけ腑に落ちない。 「……インフィニティ」  彼は、最強のリリーファーの名前を呟いた。  バルトの言うとおりならば、彼がその主になっていてもおかしくない逸品。どうして名前も知らない人間がそこまでインフィニティに乗ることが出来るのか……彼には解らなかった。  そもそも、インフィニティに乗れるほどの人間だというのなら、何らかの有名な家系にいるはずである。しかしタカト・オーノというのは彼やバルトが知る有名な家系には入っていない。当然だろう、なぜなら彼は『異世界』からやってきた人間なのだから。 「どうしてあいつが乗っているんだ……。僕があれに乗るべきなのに……!」  彼が騎士道部に入った理由は『二つ』ある。ひとつは大会に参加するため。そしてもう一つは――。  ――インフィニティの起動従士を、自らのものにするため。  それは理由というよりも野望といったほうが正しい。そもそも彼はインフィニティについて知っていることは少ない。強いて言うなら、そのリリーファーは最強であり、敵う存在がいない――ということだ。  バルトは常日頃から『インフィニティに乗れるような人間になれ』とファルバートに言ってきていた。しかし一年前、崇人がその資格を所有することになると、バルトはひどく激昂した。どうして自分の息子ではなくて、名前も知られていない人間が、いとも簡単にその資格を得ることができたのか。彼は王家に抗議するほどだった。その姿を見てバルトをこう思った人間は多いだろう。かつては一二を争う起動従士だったのに今はただ耄碌しただけの爺だ――と。それを聞いてファルバートは悲しんだ。現に彼もバルトのせいで様々な根も葉もないことを言われてきたが、それでも彼は父親を信じていたし、インフィニティは自分が乗るべきであると信じて疑わなかった。 「僕がインフィニティに乗るためには……」  気が付けば彼は食堂を出て、自分の部屋へと続く廊下を歩いていた。ぶつぶつと話していたり考え事をしていたためか、彼はそれに気づかないようだったが。 「インフィニティに乗りたいかい?」  ――声が聞こえたのは、その時だった。  普通の彼ならば不審者だと思い直ぐに戦闘態勢に入るが、その存在が言った言葉を聞いて一瞬躊躇った。  インフィニティに乗りたいか。  その言葉の意味を理解出来ない彼ではなかった。  そこに立っていたのは少女だった。少女というよりもさらに幼い女の子がそこに立っていた。赤い髪をした少女、その体躯に見合わないきつい眼は、見るものを圧倒させる。  少女の話は続く。 「ねえ……私の話、聴いてる?」  訊ねられて、ファルバートは素直に頷く。 「君はインフィニティというリリーファーについて、どれくらいの知識を得ている? 正確じゃなくて曖昧な知識でも構わない」 「インフィニティは最強のリリーファーだ。誰もが知っている最強のリリーファーだよ」 「そう、そうだね」  少女は歩き始める。それを見て、ファルバートも後を追った。  少女は歌うように話を続ける。 「そう。インフィニティは最強のリリーファー。それゆえに可能性は無限大にある」 「そうだ。だから僕はそれを乗ろうと思っていた」 「だが、そこにいたのはもう起動従士が決定されていたインフィニティの姿だった」  ファルバートは頷く。 「インフィニティになんであんな無名な存在が居たのか? もちろん、何らかの力を認められたからそこにいたのかもしれない。でも僕は認められなかった。認めたくなかった、と言ってもいいかもしれない」 「うんうん。君が辛いのは解るよゥ」  気が付けば彼女はファルバートの部屋の扉を開けて、その中へ入っていた。  しかしファルバートはそれに違和を抱くことなく、その中に入っていく。  少女はベッドに腰掛けて言った。 「君がとても辛いのは仕方ないことだ。私もそれを聞いていて胸が痛むよ」  そう言って少女は胸を撫で下ろす。  少女は足を揺らせて、ふんふんと鼻歌を歌う。その光景はまさにいたいけな少女のそれだった。 「……君はインフィニティに乗れるようにしてくれるのか、この僕を」 「うん。もちろんだよ。君をこの私が変えてあげようじゃないか」  高圧的な態度を取る彼女だったが、しかしファルバートは気にしなかった。普通ならばその時点で違和を抱いてもおかしくなかったのに。それでも彼は疑問を、違和を、抱くことはなかった。  なぜだろうか? ――それはきっと誰に聞いても解ることではないだろう。  ファルバートは少女の隣に腰掛ける。 「……ほんとうに、ほんとうにか?」 「私の言動が欺瞞に満ちていると思うのも仕方ないことだろうが、これは真実。私のことを信じて、私の言うとおりにしてくれればあなたは最強のリリーファー、インフィニティに乗ることが出来るの」  多少少女の言動にブレが出てきたようにも思えるが、しかしファルバートがそれを気づいたかどうかは解らない。 「どうすればいい。どうすれば、最強のリリーファーに乗ることが……」 「契約、しましょ」  少女はそう言って袖を捲ると、そのままの腕をファルバートに見せた。  その意味をファルバートは理解できなかったが、 「私、言っていなかったけど精霊なの。知ってる?」  精霊。  この世界に原始から存在する、四大元素に属する人間ではない存在。それが精霊である。動物でも幽霊でも神様でももちろん人間でもない存在だ。  その精霊が、彼の前にいて契約を提案している。  その意味を彼は知らないわけでもなかった。 「契約……精霊である君と?」  こくり、と少女は頷き話を続ける。 「そうよ。精霊と契約すれば多大な力を手に入れる。それはあなただって知っている事項のはず。もしかしたらインフィニティの起動従士を力で奪えるかもしれない」 「力で……奪える……」  ファルバートは彼女の言った言葉を反芻する。力で奪うことが出来る。これは普通ならばルールに反することだから、ダメなのかもしれないが、少なくとも今の彼にそれを判断することは出来なかった。  ファルバートは訊ねる。 「そういえばそれに関しての副作用みたいなものはあったりしないよな?」 「副作用? あなたはそんな後ろめたいことを考えるわけ?」  少女は言って、目を細める。 「だってインフィニティに乗ることが出来るのよ? 少しの副作用なんて気にしないのが常ってもんじゃない?」  ファルバートは答えない。  少女は笑みを浮かべて、さらに話を続ける。 「……考えてみなさい。インフィニティに乗ることが出来る、それほどの力を与えると言っているの。副作用がどれほどあっても、この有り余る力を手に入れるチャンスを逃すということ。これを考えると……」 「解っている。解っているんだ、でも……」  じれったいね、と言って少女はファルバートの目を見た。ファルバートも自然と少女の目を見つめ始める。  ファルバートは少女の目を見ていくうちに、徐々に微睡みの中へ落ちていくのを感じた。どうしてなのかは誰にも理解できなかった。しかし、彼はどうしてか、その睡眠欲に耐え切れなかった。  彼がすやすやと寝息を立てるのを見て、少女は自分の指を見つめる。  すると彼女の人差し指の爪が鋭く尖っていく。その鋭利な爪で、躊躇なくファルバートの首筋を引き裂いた。  直ぐにファルバートの首筋からは赤い血が漏れ始める。彼女はそれを指で掬って舐めた。 「『契約』は済ませたかい、ハンプティ・ダンプティ」  声が聞こえた。  振り返ると、そこに立っていたのは――。 「なんだい、帽子屋か。おどろかせやがって。まったく、油断も隙もありゃしない」 「油断も隙もないのはそっちだろ。抜けがけしてザイデル家と接触したんだからさ」 「別に接触は悪くないだろう? これはあくまで僕が独自にやっていることだ。君の計画には干渉しないはずだよ」 「彼に『インフィニティに乗れる』と言って契約を薦めたことが、計画に干渉しないと? 笑っちゃうね、そんなことが有り得るのかい?」 「……あれは契約ではない。契約に見せかけた、ただの儀式だ」 「知っているよ。それくらい。『みなまで言うな』ってやつだ」  帽子屋はせせら笑いながら、ハンプティ・ダンプティの隣に腰掛けた。 「……彼がどういう働きをするのか楽しみだよ、ハンプティ・ダンプティ。せいぜい木乃伊取りが木乃伊にならないようにしないとね?」 「それを君に言われるとは思いもしなかったよ、帽子屋」  そして。  ハンプティ・ダンプティと帽子屋は姿を消した。 14  ジェシー・アンソワーズはごく一般的な家庭に生まれた少女だ。しかしながら彼女の類希なる才能は、彼女を起動従士訓練学校の入学へと導いた。 「……大会のメンバーに選ばれるかもしれないの」  だから、その発言を彼女の口から聞いたときは彼女の両親は驚いたに違いない。だって大会に出ることが出来るのは名誉なのだから。栄誉なことなのだから。大会に参加出来る人間は数少ない。だから自ずと優秀な人間に限られる。  大会に出ることができるということは、その学校で優秀な人間であることが認められた――ということに等しい。だから彼女の両親は喜んでいるのだ。彼女が『選ばれた』という事実に。 「でもね……、私悩んでいるの。ほんとうに出ていいのかどうか」 「何を言うんだ。出たほうがいい。ジェシー、お前は頭がいいんだから」 「でも、周りにいる人間はみんな……私よりももっと頭がいいのよ」 「ジェシー」  ジェシーの父親は彼女に語りかけた。 「ジェシーは頭がいい。そして、人と比べて劣っているところがあるかもしれないし、それは仕方ないことかもしれない。でも、ジェシー、君は君だ。それ以外の何者でもない。だから、君が嫌だというのならそれでも構わない。大会に参加しなくても構わないだろう。……でも、いつか後悔する。あの時出ていればよかったなんて思っても、もう遅い。人生は一度きりだ。リセットもできなければセーブもできないし、もちろんそのセーブデータを使ってやり直しめいたことも出来ない。その意味が……僕の言いたい意味が解るかい? 人生は一度きりだ。だから精一杯楽しんで精一杯苦しんで精一杯喜んで精一杯笑って……悔いのないように生きて欲しいんだ。悔いのないように生きて、悔いなく死んでいく。それが一番の理想だと思うし一番の生き方だと思うんだよ。僕はそういう生き方をしてきたかと言われれば、残念ながらはっきりと『そうだ』と言えない。だからジェシー、君にはそういう生き方をして欲しくないんだ」  ジェシーの父親は、ジェシーの肩を撫でながら、非常に丁寧な語り口でそう言った。 「……私、ずっと言わなかったけど夢があるの。リリーファーに関われる仕事。あのかっこいい……ロボットに携わる仕事に就きたかった。そしてそれは今、叶おうとしている。だからこそ、不安なの」 「不安と思うその気持ちは誰にだってある。仕方無いことだろう。それでも、今ここで逃げ出してしまえば凡てが勿体無いよ。……そうとは思わないかい?」 「でも私にはそれを出来る意志がない。想いがない。力がない」 「意志は君が思っている以上に強いものを持っているさ。想いだって熱い想いが君の心の中にたぎっていることを、僕は知っているよ。そうでなかったら君はあの学校に入学出来てはいないだろう。それに力がないから……といって大会メンバーにはなれないのかい? それは違うだろうよ、力がないのなら、別の業を鍛えればいい。テクニックというやつだ。トリッキーに攻めていく……そういう起動従士はごまんといるはずだ。ジェシーはそういう起動従士になってみたいとは思わないのかい?」  ジェシーは父親からの的確なその言葉を理解して、何度も心の中で反芻した。  彼女は起動従士になりたかった。起動従士になってリリーファーを操って、困っている人を助けたい。彼女はそんな想いを抱いていた。  感情論だけで乗りきれる世界ではないことを、彼女は重々承知していた。だからこそ、拒んだのだ。だからこそ、困ったのだ。 「わたし……」  ここで迷っていていいのか? ここで諦めていいのか? 想いは募っていく。  想いは募っていくほどに、彼女の心の中にある決意が浮かび上がった。  リリーファーに乗りたい。自分もリリーファーに乗ってみんなを救えるような、立派な起動従士になりたい。  決意に満ちた目を、彼女の父親は見ていた。そして頷くと、笑みを浮かべる。 「……決まったようだね。別に僕たちはそれについて拒むことはしないし、強制することはしないよ。君の道を、君の生きる道を歩めばいい。ただし、これだけはしてはいけない。道を歩んで歩み続けて、最終的に後悔しないで欲しい。後悔するのならば、その道を諦めて、自分が行きたい道に進む。最終的に自分が満足できれば……それでいいんだ」  ジェシーの父親はそれだけを言って席を立ち、その場をあとにする。  残されたジェシーとその母親は何も言うことなく、ただその場に座っているだけだった。 「……父さんがああ言ったけど、私も概ねあのとおりだから」  ぽつり、と。  ジェシーの母親はそう呟いた。  ジェシーの母親は俯きながら、ぽつりぽつりと、しかしはっきりと言葉を紡いでいく。 「あなたが後悔しない生き方をしてくれれば、私は別に大丈夫だから。きっとそれは……さっきの話を聞いた限りだと父さんも一緒だと思う。私も父さんの意見に賛成だし、ジェシーのことを応援したいという気持ちは二人揃って持っていることだと思う。だからこそ、あなたには頑張って欲しい。自分の夢を追い求めて欲しいの」 「私は……私が大会のメンバーになって、大会に出てもいいのかな」 「いいに決まっているじゃない。ダメなわけないでしょう? もし、それでダメだったのならまた来年よ。あなたはまだ一年生じゃない。可能性は無限大に広がっていくというのに、ここで諦めちゃつまらないわ。まだまだこれからよ!」  そう言って、ジェシーの母親は顔を上げると、小さくウインクする。それを見て彼女はなんだか楽しくなって小さく笑みをこぼすのであった。  自分は幸せ者だ――ジェシーは思う。こんなふうに自分の立ち位置に立って考えてくれる両親、自分の夢をこうやって全力で応援してくれる両親がこの世界にどれくらいいるのだろうか。ジェシーの両親は少なくとも今ここにいるジェシーの両親だけ、オンリーワンなのだ。彼女の両親という存在は彼女の両親にほかならないのであって、代替は見当たらないし存在しない。  世の中には両親が要らないだの両親を必要としないだのそういう意見もあるかもしれないが、たとえそうであったとしてもその人の両親はその二人しか存在しない、かけがえのないものなのだ。だから、そう無闇矢鱈に言うのは宜しくない。  ジェシーもそう思いながら、心の中で小さく決意を固めた。  起動従士になる、その足がかりとして『大会』に参加することを――。 15  次の日、その放課後。  騎士道部部室、と古い木の看板が立てかけられた、その教室の前に彼女は立っていた。 「というかこの古い木の看板、いつのものだろう……? もしかして、昔ここに騎士道部が存在していたとか……?」  そんなことを考えながら、彼女はドアをノックする。  返事はすぐにあった。昨日聞いた、おっとりとした声。恐らくマーズのものである。それを聞いてジェシーは中へ入った。 「あら、ジェシー。また来てくれたのね?」  いち早くそれに反応したのはやはりシルヴィアだった。シルヴィアはそういう観察力に優れているのか、直ぐに誰が入ってきたのか見分けてしまう。それはすごい能力だ。  ジェシーはシルヴィアを見て、言った。 「私も騎士道部に入りたいんだけど、……大丈夫?」  それを聞いてシルヴィアの表情がまるで太陽のように輝いた。 「大丈夫よ! まだ部員は全然足りないからこれから呼び込みでもしたほうがいいのか……なーんてことを先生……えーと、騎士道部の顧問はマーズさんだから、別にマーズさんでもいいんだけど、マーズさんが言っていたの。だから、じゃあ行かなくちゃいけないかなあ……って思っていたところだったのよ!」  シルヴィアはジェシーの前に立って彼女の腕を掴むとぶんぶんと振っていた。よっぽど彼女が入ったことが嬉しかったのだろう。それを見てジェシーもなんだか嬉しくなっていった。 「となると……これで大会メンバーは五人ね。出来ることならあと一人二人くらい補欠で欲しいところだけど……。それはおいおい考えていきましょうか」  ガラガラ、とドアが開けられたのはその時だった。入ってきたのはファルバート、そしてもうひとりの青年だった。黒い髪の落ち着いた様子を見せている青年だった。少年の面影が残っている、生真面目な感じが体中から滲み出ている、そんな青年だ。その割にはファルバートの隣に立っている彼はとても無造作な感じだったが、奇妙なことに隙が見られなかった。だから、彼の立ち姿を見てマーズはすぐに違和を抱いたのだった。 「なんだかファルバートの隣に立っているあなた……まるで軍人みたいね」  それを聞いて青年の眉がぴくりと動く。  そして青年は笑みを浮かべて柔和な表情をマーズたちに示した。 「軍人だなんてそんな……。ただ僕はファルバートの友人なだけですよ。名前はリュート、リュート・ポカマカスです」  そう言ってリュートは一礼する。  それを見てマーズは笑みを浮かべる。  なぜか?  それは彼女の目から見て、リュート・ポカマカスがとても強い存在に見えたからだろう。起動従士としての才能がある、彼女はそう見たからだ。だから彼女は頷きながら、リュートの肩を叩くと、 「……なるほどね。ザイデルの家の人間が見染めたのだから、その才能は光り輝くものになっているのはもはや当然のことでしょう。ならば、疑うこともありません。即決です。リュート・ポカマカス、あなたを騎士道部に入部することを、正式に許可します」  その言葉を聞いて再びリュートは深々と頭を下げた。  これで六名。正規メンバー五名に補欠が一名という計算だ。即ちマーズの言っていた人数が揃ったということになる。  これが意味するのは。 「……ということはこれで、大会のメンバーが決定したということになるな」  崇人の言葉に、マーズはそっちを向いて頷いた。 16  というわけで。  メンバーが六人になったことをアリシエンスに報告するため、マーズは教員室へとやってきていた。 「なるほど……。思ったよりも早く集まりましたね。最初はどうなることかと思っていましたが、なんとかモデルケースの威信は保てそうです。あなたのおかげですよ、マーズ・リッペンバー」 「いやはや、そんなことはありませんよアリシエンス先生」  マーズは謙遜する。 「……いえ、あなたが頑張ってくれたおかげですよ。私は通常の業務と並行して騎士道部の顧問を行うことが出来ません。あなたの時間が空いていて、ほんとうによかった」 「まあ、私がここにいるってことは即ち平和ってことですからね」  そう言ってマーズは自嘲する。  マーズとしては彼女の力でここまで行ったとは考えていない。もともと舞台が整っていれば学生が勝手にやると考えていたからだ。だからマーズはあくまでも責任を取る立場だけに居ればいい――そう思っていただけなので、だから、彼女としては実際に何かをしたと実感していないのだ。 「まぁ……あとはリーダー決めくらいでしょうか」  マーズはアリシエンスから貰ったコーヒーを冷ましながら言った。  アリシエンスはマーズの言葉を聞き、溜め息を吐く。 「それもそうね……。去年の場合はトントン拍子で決まってしまったというのがあるけれど……今年は?」 「先生の予想通り、ザイデルとゴーファンでその座を争いました」 「やはりそうなったのね……。仕方無いこととはいえ、禍根が息子世代まである事実を目の当たりにすると何とも悲しくなるというか」 「正確にはザイデル側の一方的な恨みにも思えますがね」  漸く飲める程度に温度が下がったのか、マーズはコーヒーを一口啜った。  マーズの言ったことは事実にほかならなかった。ザイデルとゴーファンが争うことに結果的にはなってしまったが実際にはザイデルが自らの地位が低いのを逆恨みしたことによるものだ。はっきり言って、まったくゴーファンたちには関係のないことであるし、彼自身がそれなりの順位――それこそ誰も文句を言わないような、高い順位を叩き出せば良かっただけなのだ。 「……まぁ、そのリーダーを決める戦いで凡てが決着付けばいい話ですが……」 「流石にそれくらいはけじめをつけるつもりでいるでしょう。この戦いで負けてから、さらにそれを所望するようなら男じゃありません。ザイデルの名が廃りますから」 「確かに、それもそうですね」  マーズの言葉にアリシエンスは首肯。このやり取りがもうしばらく続いていた。それを鑑みるに、どうやら完全に騎士道部はマーズに一任するように思えた。いくらなんでもそれはどうなのだろうか――なんてことを思ったが頼まれたからにはやらざるを得ない。それが彼女の理念であったからだ。 「そういえば、アリシエンス先生。ひとつ、騎士道部でやりたいと思っていることがあるんですけど、もしよろしかったら先生もいらっしゃいませんか」 「やりたいこと? ……なんでしょう」 「歓迎会です」  間髪いれずに彼女は言った。  歓迎会。それは部活動などのグループで新入りが入った時に行われるパーティめいた集まりのことだ。そういうのをやることでギクシャクしていたメンバーは結束力を高める。別に今回のメンバーが全員一年生ならば問題もなかったが、二年生が何名かいるために歓迎会をして交流を図るべきではないかとマーズは常常考えていたのだ。 「歓迎会、ねえ……。まあ、どちらかといえば一年生と二年生の交流会……そういうことかしら?」 「ええ。そういうことになります。大会では個人の能力のほかに団体の、チームワークも問われることは毎年おなじみです。そして今年は……ルールも変わるらしいですからね」 「今までのトーナメント・システムを撤廃し、競技で執り行う。あなたもさすがに知っているようね」 「ちょっといろんなことに首を突っ込んでいるワーカーホリックが私の知り合いにいるものでね。こういう情報はけっこう知れ渡ってしまうんですよ」  そう。  彼女たちが心配しているのはそれだ。  今年から大会は大きく変わってしまう。それについて、対処できるのかどうか――それが心配だったのだ。  今まで、少なくとも去年までは団体戦と個人戦でトーナメント・システムを導入していた。だが、それでは面白みに欠けると考えたのか、大会運営側はルールを大きく変更した。そのひとつとなるのが、『競技制』だ。いわゆる学校の運動会のようなシステムだ。それを導入したのだ。今まで仕事を休んでまで見に行っていた観客が、休み過ぎないようにした……というわけではないが少なくともこれによって様々な場面が変更されるのは確かだ。  現に今年はティパモール近郊にあったスタジアムは使わず、ヴァリス城近郊にある巨大スタジアムへと移転となった。理由は簡単。競技を執り行うために、巨大なスタジアムを自ずと必要になってしまうからだ。 「それで問題になるのはやはり競技ですが……あなたはそれを知っているんですか?」  アリシエンスは訊ねる。しかし、マーズは首を横に振った。 「さすがにそこまでは聞き出せませんでした。やっぱり箝口令が敷かれているみたいです。アリシエンス先生の方では何か掴んでいたりしていません?」 「それがねえ……今年から大会の運営委員会のシステムががらっと変わってしまって。私が今いるのはどちらかというと選手のサポートの方なのよ。そして競技とかルールとかを制定している部門は別にあって、そこの情報は重要だから秘匿性が高くなっている。だから、そう簡単に教えてもらうことも出来ない。……でも、さすがにこのまま何も知らないままで行くと対策もできないままになるからグダグダになってしまうのは確実。それは運営も望んでいないから、何かルールが提示された……いわゆるルールブックのようなものが届くんだと思います」 「ルールブック……ですか」  マーズはアリシエンスの話を聴きながらいろいろと展開の遅い運営に怒りを募らせていた。とはいえ、目の前にいるアリシエンスも運営の一人に入っているが、彼女に怒りをぶつけてもまったくの無駄であることは知っている。  今年は去年と違って五チーム、計二十五名が参加する。もっとも、それは正規メンバーの数だけであり補欠やサポートメンバーなどを加えるとその二倍から三倍くらいに増えてしまうのだが。 「まあ、私は運営の一端を担っているとはいえ、そのために集められた有識者『オプティマス』の一員でしかないことに変わりはありませんし、それも最大で来年までです。来年以降は新たにこの学校の先生が選ばれるかどうかも解らないですし……私がまだ運営として活動できるのもある意味運がいいといえるでしょう」 「運も実力のうち、って言いますよ。アリシエンス先生」  そう言ってマーズは笑みを浮かべる。  対してアリシエンスは「それもそうね」とだけ言って、コーヒーを口に運んだ。  ◇◇◇ 「交流、会か。確かにそれもいいかもしれないな」  崇人はマーズからそれを聞いて小さく頷いた。  今、彼らがいるのは彼らの住む家のリビングである。部活動は早々に終わったため、現在食事を取りながら話をしているのだった。ちょうどいいタイミングだった――ということもあるのだろう。だから、マーズは今彼にまず意見を聞いているのだ。 「どうかな。そうすればまあ、団結力は高まると思う。はっきり言ってあのメンバーでリモーナは浮いている。だって、彼女だけ二年生だからね。だから、その浮いているものをできるだけ減らしておきたい。それが今回の交流会の目的だ。団体戦でどういう競技が出るか知れたものじゃないからね」 「まだはっきりとしていない、っていうことか」  そう言って崇人はフォークで綺麗にスパゲッティを絡め取って、それを口に運んだ。 「そうね。まだはっきりしていない……それが現状よ。アリシエンス先生はそう遠くないうちにルールブックめいたものが来るだろう、なんて言っているけどね……。正直先生は楽観的過ぎるわ」 「それがあの先生のいいところなんだよ」  そう言って崇人は笑みを浮かべる。  その通りだった。マーズもアリシエンスと何度も会話を交わしているし、そもそもマーズにとって彼女は有名な先輩であるのだ。だが、そうであってもおっとりな性格の持ち主で、決して先輩と後輩の関係だからといって高圧的な態度をとることもない。  アリシエンスとはそういう存在なのだ。かといってそれに漬け込む人間などいない。いるはずがない。そういう人間が怒ったときは、実は案外一番怖いものなのだ。 「……交流会の話についてだけど、僕は問題ないと思う。というか、寧ろ去年もやって良かったんじゃないかって思うくらいだ」 「去年はみんなメンバーが一年生だったというのもあるからね。案外そういう時ってこちらからそんなことをしなくても仲良くなっちゃうものなのよ」 「そんなもんかねぇ……」  崇人は小さく溜め息を吐く。しかしながら彼女が言ったことはとんだ的外れな発言だった――というわけでもない。確かに去年のメンバーはそんなことをしなくても徐々に友好を深めていったからだ。  だから今回もわざわざそんなことをしなくても――なんてことを思ったが、しかし交流会をやるのならばやってみるのも面白い。彼はそう思っていたのだ。 「だとしたら、問題は場所になるが……考えてたりするのか?」 「『サクラ』を見に行くわ」  それを聞いて崇人は耳を疑った。今、マーズは何と言ったか。  サクラ。それは音だけなら紛れもない、崇人が前居た世界にあった『桜』にほかならない。 「さ……サクラ? サクラって、あの……?」 「そうよ、それ以外に何かある? ……それとももしかして、タカトが居た世界にもサクラがあったというの?」  その言葉に崇人は頷く。 「……ふうん。そうだったんだ。やっぱりこの世界と、タカトが元々居た世界って何らかの形で繋がっているのかもしれないわね……」  神妙な面持ちでいつになく考え込むマーズ。元々崇人は元の世界に帰りたいなどと言っているのだから、探そうと思うのも若干思うことになるだろう。  しかしながら崇人としてはそのことを考慮していなかったためか、直ぐにそれを言おうとも思わなかった。 「それにしてもサクラかぁ。まさかこの世界でそれが見れるとは思わなかった。やっぱり花はピンクだったりするのか?」 「そうよ。サクラを見てご飯を戴く……。なんて素晴らしい文化なのかしら! ほんと素晴らしいと思うわよ!」 「いや、まあ、そうだな……。で、そのサクラってどこにいけば見ることができるんだ? まさかバーチャル空間じゃないと見ることが出来ないとか……」 「そんなわけはないわ。ちょっと遠くなるんだけどね。ターム湖のほとりにある運動公園、そこにサクラが咲いているのよ」  ターム湖。  崇人は覚えているかどうかは不明瞭だが、かつてアーデルハイトとエスティの三人で海水浴に行った場所である。ここから鉄道でそう時間はかからないところにある観光スポット、それがターム湖である。 「へー……そんなところにサクラが咲いているのか? まさか一本だけとか言わないよな」 「そんなわけないわよ。たくさん咲いているわ。満開になると、運動公園が一面ピンクに染まるくらいにはたくさん」 「それは絶景だろうなあ」  崇人は呟きながら、その光景を想像する。崇人が昔住んでいたアパートの近辺にも桜がいっぱい咲いている公園があったため、彼はその公園の光景を想像した。 「そういえば桜を見ながら酒を飲んだりしたっけ。昔住んでいたアパートから見えたんだよ、桜が。もちろん完璧に見えるわけじゃなくて、ちょろっとだけどな」 「へえ、すごいじゃない。……一応言っておくけど酒は出ないからね」 「そりゃまあ」  そう言って崇人は肩をすくめる。内心酒が飲みたかったので溜息を吐いたが、外見からしてそれは仕方ないことであるともいえる。 「……問題はいつやるか、って話。タカトは覚えているかどうか微妙なところだけど、明後日にシミュレートセンターでリーダーを決める戦いを行う。やるのはその前にするかその後にするか、そこが問題なのよね」 「メリアの許可は結局取れたのかよ?」 「花見に一緒に行きましょう、って言ったらOKって」 「軽いなオイ!」  崇人はマーズに軽いツッコミを入れる。なんだか最近この立ち位置ばかり目立っているような気がするが、崇人が覚えているかどうかははっきり言って彼に聞いてみなくては解らないだろう。  マーズの話は続く。 「だから、一応それを考えるとメリアの予定も鑑みなくちゃいけないわけ。んで……実はメリアが空いてるのって明後日以外に一番近いの明日なのよね」 「ちけーよ! 驚きだわ!」 「いやいや、だってしょうがないじゃない。私だってなんとかしようと思ったのよ? けど、聞いた話によればメリアは『大会』のコース作成も行っているらしいし」 「メリアが? あいつの専門はあくまでリリーファーのシミュレートとプログラミングだろ? あのアスレティックコースを使うってわけでもなさそうだし……」 「ワークステーションに目が釘付けになってたから新しいコースでも作っているんじゃないかしら、大会用に。可能性はある」 「まあ、無きにしも非ずだ。ただ、そうだとしてもなーんか腑に落ちないよな。隠し事はしゃーないとして、あいつ仕事受け持ちすぎじゃないか? 割と冗談抜きでぶっ倒れるぞ」 「私もいろいろと言ってはいるけどねえ……少し身体を大事にしたら、って。やっぱり身体が資本なのはかわりないし」 「こき使っているおまえがいうのも、正直どうかと思うがな?」  崇人は言うと、マーズはせせら笑う。それほど彼がおかしなことを言ったのか。いいや、今のは確実に誰が何を見ても常識人めいた発言だったことは明らかだ。  そんなことより、と言って崇人は話を続ける。 「ともかく明日だとしても、今日中にメールなりなんなりしたほうがいいだろ。そうじゃないと、急にしても予定とか入っていてダメかもしれないし」 「でも私、メールアドレス知らないのよね」 「う……そだろ? おまえそれでも顧問やってるの?」 「あくまで嘱託だからね」 「ちったあやる気出せよ!」  心の中で小さく舌打ちしながら崇人はスマートフォンを取り出し、メーリングリストを起動する。そこには既に騎士道部全員のアドレスが追加されていた。  それを眺めたマーズは感嘆の溜息を吐いて、 「ほう。そんなやり方があったとはなあ……。どうも私はこういうのに疎くて困る」 「そうだよ、これくらいきちんとやってほしいものだね。いつまで顧問が続くか知らないが、ずっとこうやっていちゃ笑われちまうぜ」 「そこは私の地位で何とかするさ」 「せめてスマートフォン扱えない方を何とかして欲しいんだけどなあ……」  崇人は呟くが、それをマーズがきちんと理解することはなかった。 17  メールを送信したところ、返信が全員から来たのはそれから十分後のことであった。  マーズはそれを確認する崇人を見ていた。  崇人はその気配に少しだけうんざりしながら眺めていく。どうやら全員が参加するらしい。まあ、参加しない人はいないだろうと考えていたのでそれは崇人の想定通りであるといえる。 「……とりあえず全員が明日でOKらしい。僕もそのように回答しておいた」 「そう。ありがとう……助かったわ」 「それくらい覚えて欲しいもんだよ、まったく」  マーズは崇人の苦言に両耳を塞いで聞こえないふりをして、そのまま自分の部屋へと入っていった。  ◇◇◇  次の日。  騎士道部の部室にはそれに似つかわしくないものが置かれていた。例えば冷蔵庫、例えばブルーシートなどだ。  冷蔵庫は百歩譲としてもブルーシートを使う理由が到底理解できないだろう。少なくとも今現時点で騎士道部に所属している人間しかそれは到底理解できないことであるのは事実だった。 「……時間は今日の午後。授業が終わってからね。授業は確か早く終わるはず……よね?」 「一年生はそうだろ。二年生は午後アリシエンス先生の講義があるからサボタージュは無理」  崇人の言葉を聞いてマーズはがっくりと肩を落とす。  崇人はそれを見て小さく溜め息を吐くと、 「無理なもんは無理だよ。訓練とか演習ならともかく、単なる顔合わせとそれに付随する話し合いだけだぞ。嘘でも言えば何とかなるかもしれないが、万が一後でバレれば何されるか解ったもんじゃないし、下手したらそれを教唆したってんでマーズまで何か言い種をつけられる可能性だってあるわけだな」 「まぁ、そりゃ解りきった話よ。ただ午後の自由が確定しているなら午後イチでやっちゃおっかなーって思っただけ」 「なるほどな」  崇人は頷く。それも道理だ。 「でも、そうだとしても、二年生が午後イチから参加は無理だ。まぁ、一時間しか無いし、それに『大会』云々はアリシエンス先生も知っているはずだからな。延長とかは無いだろ……きっと」  そう言って崇人は目線を横に逸らす。余談だがアリシエンスは話の大好きな人間である。リリーファーのことを話していたのに気付けば料理のレシピとか味の好みの話をしていたり……そういうのがざらにある。そのためかアリシエンスの持つ講義は基本的に二時間或いはその後が何もないところに置かれている。今までの最大は一時間の講義で授業が七週連続進まなかったことだろう。言わずもがな、その七週分は雑談で消滅している。  それを見てマーズは歩き出す。 「まぁ、いいわ。もう一時間目も始まっちゃうわよ? 遅刻して怒られるのもつまらないんじゃないかしら」 「そう言われたらマーズのことを手伝っていたから遅れました、とでも言うさ」 「いくらなんでもそれってひどくない? 責任の押し付けだよね?」 「さぁどうかな」  そう言って崇人は笑みを浮かべ、教室の外に出た。マーズもそれを見て後を追う。 「それじゃ、また授業が終わってからということで。授業が終わり次第追いかけてちょうだい。私たちは午前の授業が終わってからすぐに向かうから」 「ああ、解った」  鍵を締めたのを確認して、マーズと崇人はそこを後にした。  ◇◇◇  午前の授業が終わったシルヴィアたちはマーズに言われたとおり、騎士道部の部室へとやってきていた。既に部屋は空いていて、中に入るとマーズが出迎えてくれた。 「やっぱり一年生は午後の授業はないってことでいいのかしら?」  マーズが訊ねると、シルヴィアは頷く。  それを見てマーズは心の中で溜息を吐いた。もしこれで一年生もダメだった……ということになればこの時間に行くことが出来ない。メリアにはこの時間からだと言っているので、今更時間変更を申し付けても何かぐちぐちと言われるに違いなかった。 「……まあ、いいわ。とりあえず荷物を持ってもらえる? これから鉄道でターム湖の方まで向かうから」 「こんなにたくさんの荷物を……どうやって?」 「それは新入生の腕の見せどころでしょう?」  それを聞いてファルバートは、一歩前に出る。 「それはどうなんでしょうか。もともとマーズさんがやろうと言い出したものです。マーズさんが何らかのことを実行しておく或いは準備しておくのが常なのではないでしょうか」 「ふむ……」  ファルバートの言葉を聞いて、マーズはなにも言えなくなってしまった。だって彼の言っていることは間違いないのだから。 「まあ、いいわ。これは私が何とかしておくからあなたたちは先に駅に行ってなさい。私も後で追うから」  そう言って新入生たちを強引に外へ引きずり出したマーズ。最初は疑問を浮かべている新入生だったが次第にことを理解し、散り散りに駅へと向かっていった。  それを見てマーズは溜息を吐く。  先ずはこの大量の荷物をどうすべきか。  さて、どうすべきだろうか? 「うーん……」 「どうなさいましたか、何かお困りのようですが」  その声を聞いてマーズは振り返る。気づくと扉の前にはアリシエンスが立っていた。 「あ、あれ……アリシエンス先生、午後は二年生の講義があったはずじゃあ……」 「それがね。なんでも課題に支障をきたしそうだったから、それじゃ来週もあるから、ということで自習に」 「そうだったんですか。課題というのは……」 「ああ、いや。私の教科ではありませんよ? 課題は出さない主義ですから」  そう言ってアリシエンスは鼻を鳴らす。いや、実際問題そこで偉ぶる気分にはなれないしなれるわけがないのだが。別に課題を出さずとも一定の評価基準のもと、評価を行っている先生だっている。いないわけではない。  ただ、実際には評価するのが非常に面倒であり――学生を無事進級させるための口実とはいえ、課題を出すのを渋る先生がいるのも事実である。アリシエンスもその一人で、彼女の出す小テストにより成績が決定される。 「先生の問題は難しいと評判ですよ」  そう言ってマーズは笑う。  それを聞いてアリシエンスは目を丸くして、 「あら、それは予想外でしたね。私としては随分と簡単に作ったつもりなのに」 「そりゃ、エリートで最前線を突っ走ってきたあなたと、今の世代しか解らない学生の言葉を同義と思っちゃいけませんよ。昔と今は大きく変わってしまったんですから、それを理解しなくては」 「なんだかあなたに言われるとは思わなかったわ」  アリシエンスは一歩踏み出し、部屋の中へと足を踏み入れる。 「ところで、何かお困りのようでしたが?」  そこでマーズは思い出した。そうだ、そうだった。サクラを見に行くための器材を入れる袋のようなものを探していたのだった。  それを簡略化してアリシエンスに伝える。はっきり言って今の彼女の行動は部活動中ほかならないのでほかの先生に協力を得るのはあまり好ましくない。けれど、アリシエンスはその笑顔を崩さずに、 「ははあ、なるほど。解りました。それじゃその素材はなんでも構いませんので? 魔法を使った素材でもじゅうぶんに結構である……そういうことでいいんですよね?」  その言葉はマーズが伝えたかったこと、そして今さっきマーズが伝えたことを簡単にかつ解りやすくまとめたものだった。さすが長年先生としてこの学校にいるだけあるというものだ。  アリシエンスは首を傾げる。 「えーと……ないことにはないですが」 「それは?」 「――魔導空間を利用した収納ですよ」  魔導空間。  名前のとおり魔法によって導かれた空間のことをいい、この空間では上も下も理解出来ない。それどころか重力が働いていないため、そこにいる存在は常に浮いているのだ。  その魔導空間に収納? どういうことだろうか……マーズは問おうとしたとき、アリシエンスがあるものを取り出した。 「ほんとは私のものでしたが、少しの間お貸ししましょう。別に減るものでもありませんし」  そう言ってアリシエンスが手渡したのは、がま口の財布だった。小さい財布で小銭が幾らか入ればもうその財布は満杯になってしまうだろう。そう考えるほどの小ささだった。 「……これが魔導空間と繋がっている、というんですか?」  こくり、とアリシエンスは頷いた。  アリシエンスがそう言ったとはいえ、そう言われた当の本人が未だに訝しんでいた。魔導空間による収納……そんなことが本当に可能なのだろうか? ということについてだ。  アリシエンスの言葉を嘘だとは思いたくなかったが、しかし俄には信じ難いものだということは事実だ。 「……魔導空間に不安を抱いているのですか? 別に問題ありませんよ、魔導空間は『絶対に』不具合を起こすことなどあり得ません」 「絶対、ってそれ何か起きるフラグだと思うんですよねぇ……」  マーズは呟いたが、敢えてなのか偶然なのかアリシエンスはそれを無視して、話を続ける。 「まあ、話をするより実際にやってみるのが一番ですよね」  そう言ってアリシエンスは財布の口を開けて、ブルーシートを中に入れた。ブルーシートの大きさと財布の口の大きさはもちろん一致しない。ブルーシートのそれが大きく上回っているのだ。自然、入ることはないだろう。 「……入るわけないですよ、アリシエンス先生。やっぱり別の方法を――」  ――考えましょう、とマーズが言ったその時だった。  ブルーシートの端がゆっくりとそのがま口の中に入っていくのをマーズとアリシエンスは目撃した。マーズは目を丸くさせ、それに対してアリシエンスは笑みを浮かべる。 「どうでしょう? きちんと入りました。お貸ししますが……それでもどこかおかしい点でもありますか?」 「い、いえ……。あの、さっきは……その……!」 「いいんですよ」  アリシエンスは優しくマーズに語りかける。 「無知は悪いことではありません。それを理解しないまま振りかざすのが悪いことです。あなたはいま、ひとつの知識を学んだではありませんか。それでいいのです。いいんですよ」  マーズは、頭を下げ続けていた。 「だから、顔をあげてください。こんな場面見られちゃうと私の方が困ってしまいますから」  アリシエンスの言葉を聞いて、マーズははっと気づく。そして急いで顔をあげると、 「ほんとうにすいませんでした」 「いえ、大丈夫ですよ。それじゃ……これをお貸ししますね。あとどう使うかはご自由に。返すときは私の教員室にでもお願いしますね」  そう言ってアリシエンスは部室を後にした。  ◇◇◇  マーズは梱包を済ませ、部室を後にした。それはシルヴィアたちが出て僅か十分後のことだった。梱包、とはいったものの実際にはブルーシートや食べ物などをすべてアリシエンスが貸してくれた魔導空間へと繋がっている財布に入れただけに過ぎない。もちろん若干整理はしたが、いかんせん中が見えないためにきちんと整理はできていない。もしかしたら中では乱雑になっている可能性も充分にありえるのだ。  それはそれとして。  マーズは遅れたことを謝罪するためにスマートフォンを手に取った。スマートフォンでメールを送るためだ。そのアドレスは既に崇人経由で聞いているために問題はない。ただ、彼女たちが知らないために受け取りを拒否される可能性も充分に考えられるが、その場合は改めて電話でもすればいいだろう。そう思って、件名に、マーズである旨を打ち込み、本文に、これからターム湖へと向かう旨を打ち込んで送信した。  崇人がいうようにマーズはこういうところが疎いらしく、よく理解できていないところが多い。だが、マーズはスマートフォンの画面に映し出される送信完了の画面を見てほっと一息吐くのだった。これが出れば確実に送信できている――ということを崇人から聞いているためだ。裏を返せば、マーズはそれほど通信機器に疎いということになる。じゃあ、今までどうやってほかの人と連絡をとっていたのか? という感じになるが、崇人曰く、電話で凡て行っていたのではないかということだ。メールとかそういうものを使わずとも電話するなり直接会いにいくなりしていたからこそ、メールという電子的な書式を知らないということである。 「……まあいい。とりあえず向かうとしよう。えーとターム湖へと向かうには……」  マーズはスマートフォンを操ってウェブブラウザーを起動する。素早く検索ウインドウに駅名を打ち込んで、検索をかける。  ネットというのは非常に素早い世界である。零コンマ何マイクロ秒遅れるだけでほかの通信会社に遅れをとってしまう。人間の活動している時間軸よりもはるかに小さい時間軸で戦われる世界、それがインターネットというものである。  検索画面に出てきたのは鉄道会社のホームページだ。それを見てマーズは直ぐにスマートフォンを仕舞った。どうやら解決したらしい。 「……それじゃ、改めて向かいますか……!」  そしてマーズもターム湖ほとりの運動公園へと向かうべく、先を急いだ。 18  その頃、シルヴィアたちは電車に揺られていた。生憎空いていたので、シルヴィアとメルは隣同士に腰掛けて、それから少し離れてファルバートとリュートが座っているという現状である。決して喧嘩をしているわけではない(寧ろファルバートの方から勝手にふっかけてきた喧嘩と言っても間違いないだろう)のだが、事情を知らない周りから見れば喧嘩でもしたのだろうかというふうに思われてしまうのだ。彼女たちの外見と年齢がその論を後押しするだろう。彼女たちは十歳、まだ一年生なのだから。 「なんというか、あのファルバートってのやな感じよね。学力もリリーファーを操る能力も低いのにさ。『実力は関係ない!』みたいな言い回しして」  言ったのはシルヴィアだった。メルは小さく溜息を吐いて、それに答える。 「違いますよ、シルヴィア。あくまでも彼が言ったのは入学試験は関係ないだろということです。入学試験ごときで実力を発揮できないようじゃあ戦場でどうなるかしれたものだと……本で読んだことがありますが」  それを聞いていたファルバート――実質そんな遠くない距離に四人が座っているため、けっこう声が聞こえてしまうのだ――は歯噛みした。今にも彼女たちの場所に向かってやろう――そう思わせる気迫を放っていた。  しかし、 「よせ」  それを制したのはほかならないリュートだった。  リュートの話は続く。 「ここで小物感を見せても相手にとってはいいことだらけであることは、いくらなんでもファルバート、君にだって理解できているはずだ」 「だが……!」 「だがも何もない。言わせておけばいい。そしえ実力で示せばいいじゃないか。聞いた話だと、明日にはどちらが本物のリーダーかを決めるための模擬戦が組み込まれているのだろう? だったらそこで決めればいいじゃないか。そこでほんとうのリーダーを決めるんだよ。どちらが優れているかを、その場で」  リュートの言葉は全然欺瞞だとかそういうものは含まれていない、純粋なものであった。だからこそ、恐ろしい片鱗を感じる。きっと、ファルバートは常常思っていることだろう。彼が恐れているのは父親よりも――このリュートなのではないかということに。リュートは彼の父親に操られているパペットに過ぎないのかもしれない。だが、それが嘘だったら? 本当は父親が操っているように見せかけられているだけに過ぎず、父親をリュートが操っているのだとすれば?  解釈は大きく異なってしまうだろうし、出来ることならあまり考えたくないことである。だが、起動従士になるにんげんとしてはそういう『最悪』のケースをも想定せねばならない。そしてその『最悪』への対処法も同時に考える必要があるのだ。 「……おっ、ターム湖だね。きれいだねえ……この時期の湖なんてあまりお目にかかれないよね。なにしろ、ここまで来ないし」  そう言いながらリュートは振り返る。どうやらターム湖の近郊まで列車は到着しているらしく、車窓からそれが眺められるというのだ。それを聞いてファルバートもそちらを見る。そこに広がっているのは青々とした海――否、湖だった。時折太陽が反射して、輝いている。時期も時期ならばここに海水浴めいて泳いでいる客も多くいるのだが、今は時期があまりにも早すぎた。もう二ヶ月ほど遅く来ていればたくさんの人間でごった返していたことだろう。余談だが、泳ぐことは一年中可能である。なぜならターム湖の水温は常に十数度を推移しており、非常に温暖だからだ。  ファルバートはふと気づいてシルヴィアたちの方を見る。どうやらシルヴィアたちもそれに気づいてターム湖を眺めていた。ずっと、ではないが少しその様子を眺めていると視線に気づいたのか、メルと目があった。  メルはファルバートがその視線の主であるとわかると、一瞬だけ睨みつけてすぐにターム湖へと視線を移した。  どうしてこんなばかなことをしたのだ――とファルバートは思いながら再びターム湖へとその視線を移すのだった。  ターム湖の畔にある小さな駅。それがマーズとシルヴィアたちの待ち合わせ場所であった。その駅にはショップもなく、待合室とトイレしかない。しかもその待合室にはエアコンが備わっていないから、暑さをしのぐことは出来ない。精々日光が遮られるくらいだろうから、感覚的には何度か涼しいのだろうが、しかし彼女たちにそれが変わった実感など無かった。 「熱い……この待合室ってエアコンとか扇風機とか、そういう送風機がないのかしら」 「駅事務室に行けばエアコンくらいありそうな気がするけど? だってあそこは精密機械盛りだくさんだし」  メルの返答を聞いてシルヴィアはうんざりしたような感じである一点を指差した。そこは駅事務室――たった今メルが言った場所だ。だが、そこは今シャッターで閉められている。 「何でかは知らないけど、駅事務室は閉まっている。簡易的な機械はあるから駅の業務はそれで何とかなるんだろうけど、それでも何か納得行かないよね。それじゃあ、駅事務室に居る人間の意義はどうなるのかって」 「別に、切符販売が駅事務室の仕事では無いと思うけど?」  メルの言葉にシルヴィアは肩を竦めて、 「きみきみぃ、そんなことを言いたいんじゃないんだよ。業務内容はともかくこんな時間に休んでること。こーれーが、議論の論点、略して議論点だよ」 「なんだかよく解らないけど、キャラクターをつけるのに必死ということでいい?」  メルはシルヴィアの言葉をばっさりと切り捨てて、話を続ける。 「……何だかなあ。最近私に厳しくない? なんというか、適当にあしらっておけば何とかなるとか思ってない?」 「チッ。ばれたか」 「今明らかに舌打ちめいた、いや、確実に舌打ちしたよね!? 絶対にしたよね!!  今のは見過ごせないぞいくら私たちが双子だからといって!! 許せるものと許せない、境界ってものがあるんじゃないかな!?」 「暑苦しいよ、こんな熱い場所でがやがや言ったって意味もなにもない。寧ろ暑さが増すだけ。そんなことして楽しいの?」 「あーもう!」  シルヴィアは頭を掻いた。時折メルはこのように毒を吐く。その相手がシルヴィアのように親族だけにならいいのだが場合によって赤の他人だって吐く。メルの外見は同世代の女子から見ればべっぴんの部類に入るだろうし、現に女友達からもメルが可愛い旨はよく聞いたことがあった。だからこそ、彼女のその毒舌がよく映えて……正確には目立ってしまうのだ。目立たざるを得ないのだ。彼女は才色兼備であるが、その才色兼備が彼女のその悪い癖をさらに増長させるといっても過言ではない。  ともかく、簡単に言えばメルの毒舌はメルの長所をまったくもって生かしきれていない。もっといえば引っ張っているということである。 「……なんというか、あんたほんとそういう性格直さないとお嫁さんにもらってくれる人いないよ?」 「私はシルヴィアといれれば何の問題もないもーん」  そう言ってメルはシルヴィアに抱きついた。 「もう、メル熱いわよ!」 「シルヴィアの身体がつめたいんだもーん」  実際はそんな冷たくなく、寧ろ彼女の方が体温的には暖かいのだが……そんなことはメルにとってどうでも良かったらしい。メルはシルヴィアと居れるだけでただよかったようだった。 「いやあ、待たせたわね!」  そう言って待合室に入ってきたのはマーズだった。マーズは膨大な荷物を持っている設定だったが、しかしながら今彼女にそういう荷物と思われるものはない。どうしたのだろうか、とファルバートは気になって、訊ねる。 「あの、荷物は」 「荷物? ああ、ここにあるわよ」  そう言って出したのはあのがま口だった。マーズは笑みを浮かべてそれを見せたが、しかしそこにいるマーズ以外の人間にはその意味が理解できていなかった。  だから、ファルバートは素直に訊ねた。 「……あの、冗談を言っています? それともふざけています? それともそのどっちもですか?」 「ふざけているつもりは私にはまったくないんだけどなあ……。寧ろこれが何だか気づいてもらわないと困っちゃうよ。これはね」  チッチッチと。マーズは人差し指を揺らす。 「違うんだなあ。これはまったくの別物だよ。ただの財布ではないんだ」 「ただの財布では……ない?」  何を言っているのか解らないのか、ファルバートはマーズの言った言葉を反芻する。 「そうよ。これはただの財布ではないの。これは魔導空間に繋がっている財布。媒介といってもいいでしょうね。それを使うことでたくさんの物品をこの財布という軽いものだけで持っていくことができる。非常に便利なものよ。あ、一応言っておくけど質量保存の法則は考えないでね」 「最後は誰に向けて言ったことなんですか……?」  シルヴィアはマーズの言葉に疑問を抱いて訊ねるが、マーズは「ん? なんでもないよー、ただの独り言だから」と受け流されてしまった。  マーズは財布をポケットに仕舞うと、 「とりあえずあとから追っかけてくる二年生を除くと全員集まった……ということでいいかな?」 「ここからその運動公園に向かうんですか?」 「いい質問だね、シルヴィア。そのとおりだよ。これから運動公園へと向かう。ここは運動公園の名前を冠していないけど……、実はここが最寄駅な訳。ここから歩けばあっという間にパッという間にたどり着くわよ」  マーズの言葉を聞いて、とりあえずシルヴィアたちはそれに従うことにした。目指すは運動公園。その運動公園まで、残りあと少しである。 19  崇人とヴィエンスが学校を出たのは、アリシエンスが担当している授業が終了したそのタイミングであった。本当は自習だったためか直ぐに出て行っても良かったのだろうが、結局は課題が終わらなかったためにこの時間まで残ってしまったということだ。 「急いでいかないと。待たせちまってるな」  崇人の言葉にヴィエンスは頷く。  崇人は急いで駅へと向かうため走り出した。  ――ちょうどその時だった。  彼の目にある少女の姿が写りこんだのだ。その少女は可憐な少女だった。銀髪で、白いワンピースを着ている。その姿を彼は忘れたわけではなかった。  少女も崇人の方を見ていて、微笑んでいる。 「覚えている?」  その声はとても透き通っていた。そしてその声を聞いて直ぐに記憶が蘇っていく。  ティパモールの、『赤い翼』アジトで出会った少女だ。しかしながら言動がこの前と比べると少しだけ大人びたようにも聞こえる。 「……あの時、姿を消してしまって驚いたんだぞ。いったいどうやってか知らないが、無事だったんだな」 「ええ。だって私は――いや、それは言わないでおいたほうが面白いかも。私はとりあえず『この世界の記憶』を私自身に植え付けなくちゃいけないの。この世界の記憶が植え付けられれば植えつけられるほど、私の身体は精神は成長していく」  とどのつまり。  そこに立っている少女が前会った時より成長しているのはそういう事由から来ているのだという。  だがそれを直ぐに理解できるのは少ないだろう。彼もその例に漏れなかった。 「……世界の記憶を植え付ける。それに何の意味があるんだ? まるで――」  崇人が言おうとしたそれを理解した少女は首を横に振る。言わなくてもいい、ということだろうか。  少女はそれに応えるように口を開ける。 「あなたが考えていること、私に言いたいことはだいたい解っている。だから、それを言わなくていい。記憶を植え付けている、記憶を私の中にコピーして蓄積しているのは……あくまでも私の意志だということを忘れないでいてくれるなら、それでいい。それだけでいい」 「それってつまりどういうことだ――」 「おい。何をぶつぶつ『ひとりで』喋ってるんだ?」  それを聞いて彼は現実に引き戻される。その声の主はヴィエンスだった。それを聞いて彼は振り返る。  ヴィエンスは怪訝な表情を浮かべながら、そこに立っていた。 「いや、ちょっと考え事を……」  直ぐに崇人は戻る。  しかし、もうそこには少女の姿はなかった。  あの少女は、いったい――。崇人は頭脳を回転させるが、しかしその結論がすぐに出ることはなく、結局ヴィエンスとともに駅へ向かうほかなかった。 20  結局、ヴィエンスと崇人が運動公園のマーズたちがいる場所に到着するまでに二十分ほどの時間を有した。二十分だけ、ではあるがそれでもその時間は大きい。マーズが持ち込んだであろう食べ物は三分の一程度が消費されており、新規にコンビニエンスストアで買ってきたものも幾らかあった。 「……いくらなんでも消費のスピードが早すぎやしねえか?」  崇人は言いながらブルーシートの空いている……ちなみにそのスペースはちょうどマーズの隣しか空いていなかったのだが、そのスペースに腰掛ける。  マーズは笑みを浮かべて、 「だって二十分よ? たかが二十分と思うかもしれないけど、されど二十分ともいえるでしょう? その時間は限られていて、決して許容される範囲ではない。そして早く来ている人間が大半を占める。なのに少数を待つんですか? もし飴でも降ったらどうなさるつもりで?」 「飴でも降られたらとんでもないよ。というか、イントネーションおかしいぜ。雨なら、『あ』めになって、『あ』の方が上がるはず。でもそのイントネーション、あが下がっているタイプだとキャンディのほうの飴がヒットしてしまう」 「いや、わりとどうでもいいわよ!」  崇人が突然飴と雨の違いについて語り始めたのでなんだか面倒くさくなってしまったが、それでも一応ツッコミはいれる。  崇人はタッパーの中に入っているミートボールをつまみ食いして、 「おっ、美味い」 「それはあんたがずっと美味しい言ってるお店のミートボールだもん。そりゃ、当たり前でしょ」  それを聞いて一番驚いたのはシルヴィアだった。 「え……それじゃこれってマーズさんが作ったわけじゃ……」 「こいつ料理は全然からっきしだぞ。ひどいレベルだ。というかまったく出来ない」 「そこまで言わなくてもいいんじゃない!?」  マーズは行き過ぎた(しかし真実だ)発言について即座にツッコミを入れる。でもやっぱり真実だから否定することなど出来ないのだ。  もし真実ではないのならすぐに否定すればいいのだから、否定しないということはそれは真実であるのだ――そんな逆説的な考えに至ったシルヴィアはマーズの一面を垣間見たようで嬉しい反面彼女に対するイメージが若干崩れたような気がした。 「ま、まあ……今回の主役はご飯でも運動公園に広がる緑でもない! これよ!」  じゃじゃーん! とわざとらしく言って両手をそちらに差し出す。  そこにあったのは木だった。花が咲いていたらしく、その花は桃色――どちらかといえばピンク色のほうが近いかもしれない。  そしてそれは崇人が昔いた世界で見た『桜』の木と一緒だった。 「桜だ……」 「そう、サクラ!」  マーズはそう言って笑みを浮かべる。マーズが言った時は冗談か聞き間違いかのいずれかではないかと思っていたがいざ本物を見てみると違う。やっぱりこれは桜だ。桜に違いなかった。  だとしたら疑問を抱くのは、もちろんこの世界の時系列についてだ。この世界は崇人の元いた世界から見てどういう時系列の上に成り立っているのか? 未来なのか、未来だとしたらどれくらい未来なのか、それともパラレルワールドめいた空間なのか。それはまったく解らない。もしかしたら偶然こういう歴史が作り出された異世界の可能性だって捨てきれない。 「……タカトさん、どうしたんですか? 急に考え事をしちゃって」 「ん……ああ、いや。サクラがきれいだなあと思ってな」 「そうですよ」  シルヴィアはおにぎりを頬張って話を続ける。 「はっへほほほはふははほへほひへひへふーへひへふははへ(だってここのサクラはとても綺麗で有名ですからね)!」 「シルヴィア。話すときは口の中をカラにしてからにしましょう。は行だけじゃ話がまったく伝わりません」 「はは……ほふへひは(はは……そうでした)」  シルヴィアはそう言って照れ隠しなのか笑みを零す。  ふと崇人はファルバートとリュートの方をみた。彼らも食事に興じているようだがどことなく進んでいないように見える。それどころかあまり会話にも参加してこない。 「おい、どうした。少しくらい会話に参加したらどうだい?」  言ったのはヴィエンスだった。その言葉には皮肉が篭っているようにも思えた。ヴィエンスは初対面だったファルバートにあんな呼ばれようをされたのである。怒らない方がおかしい問題だ。  ファルバートはヴィエンスの方を向いていたが、顔を背ける。 「別にあなたに言う問題もないでしょう。私は話したくないから話していないだけ。ただそれだけに過ぎないのですから」 「あのなあ……そんなこと言ってチームでやっていけると思っているのかよ? チームでやっていくにはそんな自分勝手な行動は……」 「あーら、かつての大会で自分勝手な行動をとっていたふうに見えたのはどこの誰かしら。というかあれは実際全員そうだったか。でも最初はあなたも私利私欲のために動いていたわよね」 「マーズ、今はそんなちゃちを入れないでくれ。話の腰を折ることになる」 「折りたいから話に割り入ったのだけど?」 「最低だな、アンタ」  ヴィエンスは薄ら笑いを浮かべると、おにぎりをひとつ手に取る。おにぎりは凡て海苔は巻かれておらず米が|露(あらわ)になっている。 「おっ、梅干か。あたりかな?」 「別にあたりはずれを入れたつもりはないわよ、たぶん。それはあっち側の配慮だし」 「まさかこれも?」  崇人はおにぎりが入った箱を指差す。  対して、マーズは小さく溜息を吐く。 「おにぎりを握る時間なんてないんだもん」 「それくらい頑張れよ!」  崇人はそう言って残った最後の一個のおにぎりを掴んだ。このままだと自分はおにぎりを食べられないままおかずだけの食事になってしまう――それを恐れたためだ。でも実際にはまだおにぎりの入っている箱はひとつふたつ用意されていて、それはまだ魔導空間の中に入っていることを崇人は知らない。知っているのはマーズのみだ。余ったら家に持ち帰ればいいと考えているためか言っていないだけであるのだが。  崇人は梅干味のおにぎりを頬張りながら、紙パックのストレートティーを啜る。ストレートティーしか紙パックがないと聞いたときはどうしようかと思ったものだが、砂糖が入っていないのだからそれほど違和を抱くものでもなかった。普通におにぎりとストレートティーは合うものだし、よくコンビニエンスストアでも組み合わせとして販売される。 「ストレートティーはおにぎりに合わない! なんてことを頑なに言っている人もいるけど、私はそういう人って大抵試さない人だと思うのよ。こういうのが効率がいいんだとか言ってるけどそれを試しているかも怪しい。だから私はそういう人の意見を頷いて理解して従う前に、本当にそれを実践したの? って聞くの。ちゃんと実践しているならいいんだけど、しどろもどろな返事をした場合は従わないね。なんだか自分が実行していないのにそういうのを言うって、まるで実験台をしてほしいと促しているような感じがして恐ろしいのよ」 「そういうものかなあ……」  そう言って崇人は順調に食べ進めたおにぎりを口の中に放り込み、卵焼きをひとつ取った。卵焼きの中は半熟めいていて少し甘い。卵焼きの味といえば甘いか塩気があるかのどちらかに制限されてしまい、さらにそれで派閥が分かれてしまっているから味を決めるのは結構難しいことだ。 「甘すぎず、塩っぱすぎず……それでいてこのおにぎりの梅干にマッチする……。なんだこの卵焼き……、もしかしておにぎりを作った店と一緒だったりしないか?」 「え、なんで解るの?」 「マッチングしてるからだよ。味がうまく構成されている。これは同じ店でつくってないと帳尻合わせするのが難しい。だから言ったんだ。たぶん、同じ店かな、って」 21  桜を見終わり、もう夕方になり日が暮れかけていた。 「もう帰りましょうか。明日のためにゆっくりと休む必要もあるでしょうし、みんなそれぞれ門限もあるでしょうし」  マーズは言って、電車に乗り込んだ。  夕日が沈みゆくターム湖は、行きに見たそれとは違った風景であった。穏やかな、まるでその風景が一枚の絵画のように思えるほどの美しさであった。  電車では気が付けばみんな眠ってしまっていて、起きているのはマーズだけになってしまっていた。そのマーズもうつらうつらという感じだったが、彼女が寝てしまい駅を通過してしまうと何かと面倒臭いことになるので、何とかねてはいけないと必死に耐えていた。  ターム湖畔では疎らにしかなかったネオンが降りる駅についたころには全体的に拡散されている。 「それじゃみなさん、また明日」  学校の最寄駅についた頃にはとっぷりと日が暮れていた。一応マーズの方から家族には報告済みであるとはいえ、学生たちにとってこれくらい遅い時間で帰れていないのはあまりにも経験したことないらしく、少しだけ怯えているようにも見える。ファルバートもシルヴィアとメルも名家の人間だからそういう風に反応してしまうのは仕方ないことなのかもしれない。  シルヴィア、メルは駅の西側へ、ファルバートとリュートは駅南側へ、崇人とヴィエンス、それにマーズは駅東側にそれぞれ歩き始めて、彼らは別れた。  ◇◇◇ 「やっぱりサクラは綺麗だったなあ」  ヴィエンスと別れ、崇人とマーズは道を歩いていた。もちろん荷物はアリシエンスに借りたがま口財布に凡て入っているので心配することはない。  マーズは空を見上げて、笑みを浮かべる。 「そうね。サクラがだいたい咲くのはこの時期で……しかも生えている場所は限られているのよ。どうしてか知らないけどね。桜の苗を植えてもめっきり出来ない場所だってあるし。まあ、それはほかの植物でも考えられる話か」 「ウメ切らぬ馬鹿サクラ切る馬鹿……って言葉があってな」 「それってタカトのいた世界にあったってこと?」  マーズの言葉に崇人は笑みを浮かべて、頷く。 「ふうん……。面白いね、タカトの世界にもあったものがこの世界にもあるなんて。ほんと、共通点ばかりあるっていいよね」  そういうものだろうか。と崇人は思った。  彼は未だにこの世界がどういう仕組みで成り立っているのかとか常識的なことを理解できていないことが多く、だからたまに常識がない風に思われてしまうこともある。そのときは適宜調べるかマーズに訊ねるかのいずれかの方法を選択している、というわけだ。 「まあ、この世界にいたほうがはっきり言って楽しいけどな」 「前の世界はそんなに楽しくなかったの?」 「いや、楽しくなかったとかそういうわけじゃないんだが……。今自分が生きているのは紛れもなくこの世界だろ? だからこの世界に生きているのがとても楽しいんだよ」 「なるほどねえ……毎回思うけどあんたの人生観はほんとよく解らない。この世界の人間がもたない人生観だからかもしれないけれど」 「この世界の殆どの人間がこんな人生観抱いていたら、それはそれでどうかと思うけどな。人の考えはそれぞれだし、だからこそ『違い』や、それを『修正』しようとする何かがあると思うんだがな……。どれが正しいかなんて、結局誰にも解らないんだ」  崇人はそう言って空を見上げる。空には月がぼんやりと光っていた。  ◇◇◇  次の日。  放課後の時間に騎士道部の面々は外部に『練習』しに出掛けていた。そこまではバスでそう時間もかからない。だから、騎士道部の面々は今バスに乗っているのだった。  幾つかバス停名がアナウンスされたところで、マーズがボタンを押す。止まります、という人工音声とともに甲高いブザー音がバスの中に鳴り響いた。 「それじゃあ次で降りるからねー。あ、運賃はこっちで持つから財布開いて運賃表と整理券の番号照らし合わさなくてもいいからね。あと整理券も一緒に回収するから」  マーズは後ろに座っている騎士道部のメンバーに向かってそう言った。  そして、その言葉の通りバス停に着くと全員がマーズについてきていることを確認して、八人分の運賃を支払った。 22  リリーファーシミュレートセンターの玄関に入るとメリアが珍しくそこまで出迎えてくれていた。彼女の目の下には相変わらずくまがあった。 「……ちゃんと睡眠取ってるのか?」 「これでも昨日は二時間も寝たわ」  ……二時間『も』ということはそれより寝れない日もあるんだろうか、と突っ込むのはやめておいた。 「それにしてもあなたがここまで出てくるなんて、珍しいわよね。いつもは受付経由で行くのに」 「なんか気分が良かったからね。たまには出るのもいいかなぁ、って」 「気分かー」  マーズとメリアのやり取りはなんと無くほのぼのとしたものだった。  メリアは白衣を翻し、踵を返した。  マーズたちはそれに倣い、ついていくこととした。  シルヴィアとファルバートはシミュレートマシンのある部屋に、それ以外の人間はコントロールルームにやって来た。 「シルヴィアとファルバート、それぞれシミュレートマシンに入ったか?」  ワークステーションに備え付けられていたマイクを使って二人に指示を送る。 『大丈夫だ』 『こちらは問題ないわ』  少し遅れて、二人からの返事が返ってくる。二人ともシミュレートマシンに乗るのは初めてだというのに、ひどく落ち着いていた。余裕すら見えていたのだ。  マイク入力がオフになっていることを確認して、メリアは椅子を回転させる。後ろの方に立っているマーズたちは何があったのかと思った。  メリアは小さく溜め息を吐いて、そのことについて答えた。 「二人とも初めてこれに乗る……だったよな? それにしては二人とももう同調が上手くいっている。完璧とは言わないけど、普通の起動従士と同じくらいにシミュレートマシンを動かすことが出来るわ」 「やっぱり才能ってもんかな」  ヴィエンスはメリアに言った。メリアはその言葉に頷く。 「才能が遺伝するなんて話は聞いたことがないないけれどね。今まで研究したことがないからかもしれないが……しかし興味深い。ああいうのを研究して発表すれば、その結果が若干微妙であっても学会デビューが出来るだろうな」  とどのつまり。  ヴィエンスが拍子に言ったその言葉は、きちんとした学者が本腰を入れて研究してもおかしくないことだったのだ。 「……そういうのを研究しててもおかしくないと思うがな」 「思うだろう? だがな、君たちも充分知っているように起動従士には『マッチング』がある。起動従士になるための適性がある。その適性はたとえ起動従士の親から産まれた子供でも遺伝しないことがある。完全にランダムなんだ。その不安定な状態にある適性をどうにか安定出来ないか? 適性の条件とは何か? 昔から研究されているのはこんなのばかりだ」  今の研究者が研究しているのは『才能』ではなく『|適性(マッチング)』だということだ。才能以前に適性が無ければ起動従士としては使い物にならない。確かにこれは比べようのない真実だが、かといってそのままでは初期レベルの勇者に伝説の剣を与えたようなもの。即ち全然弱いわけだ。弱い存在をリリーファー同士の戦闘が出来るまで鍛え上げるには、いったいどれほどの時間を費やせばいいのだろうか。そしてその方法はあまりにも時間がかかりすぎるのだ。 「……今君が言った才能くんだりについては、後で私のほうから話を通して、こちらのほうで研究開発を進めておこう。なぁに、あれほどのデスマーチを乗り越えたんだ。きっと今年中には完成するでしょうよ」 「すぐに完成する、ってねえ……。あれほどのデスマーチ経験したら普通はもう逃げ出したいって思うもんよ? あんたどんだけワーカーホリックなのよ。過労死でもしたら、大変よ?」 「大変って、それはあなたにとって大変なんじゃないの? あなたが連日シミュレートマシンに乗ることが出来るのはシミュレートセンターのトップにいる私が許可するからであって、私がその地位から外れたらそう簡単に許可は下りないからね」  ばれたか、と言いながらマーズは舌を出す。  いや、ばれたかってどういうことだよ……崇人はそうツッコミを入れながら、メリアに訊ねる。 「そういえば、メリア。どうやらもう準備が出来ているみたいなんだが……あんまりあっちを待たせるわけにもいかないんじゃないか?」 「そんなこと言うけどね、彼女たちは初めてこれに乗るだろ? だから登録しておく必要があるんだ」  そう言って、メリアはワークステーションの画面を確認する。 「おっ、終わったな。よし、それじゃ今から……ちょっと遅くなってしまったが模擬戦を開始する。準備はいいな?」 『はい。大丈夫です』 『……』  元気に答えるシルヴィアと対照的に、ただ頷くだけのファルバート。それは昨日まで見た彼とは違う、さらに落ち着いたものだったが、それだけではない。それ以外にも何か、強いオーラを感じる。これが――『本気』か。崇人はそんなことを感じるのだった。 「それでは――はじめ!」  刹那。  ファルバートの乗るリリーファーと、シルヴィアの乗るリリーファーがそれぞれ仮想空間に放たれ、模擬戦が開始された。 23  二人の戦いは、崇人たちが思った以上に平行線をたどっていた。最初はファルバートが猛攻を繰り広げていたのだが、思った以上にシルヴィアが抵抗を続けていたのだ。  だが、抵抗をするだけで倒せるわけではない。もちろん、それなりに頑張る必要だって存在するわけだ。 「……しかしまあ、ここまで拮抗していると面白みもないねえ」  メリアはそう言ってペンをくるくるとまわす。 「あ、そうだ。ねえ、マーズ知ってる? 北の大陸ペステリカ王国が何かまた新しいロストテクノロジーを探すために遺跡とかそういうの発掘するんだって」 「ロストテクノロジーを発掘? くだらない、いつまで昔のことを引っ張っているんだか……」  メリアの言葉をマーズは一蹴する。 「昔……ってどういうことだ? 昔はそれほど科学が発展した世界があった、とでも言いたいのか?」 「タカトはあんまり世界の歴史を知らないかもしれないけど……この世界はかつて、超科学がある科学文明だった。それこそこの世界にある科学技術の大半はその科学文明のロストテクノロジーから成るものだよ。もちろんオリジナルだって存在するが……それでも大半がそうだ」 「ロストテクノロジー……その世界はすごい発展していたってことか」 「そうだよ、一番の例がこれ」  そう言って彼女はスマートフォンを取り出す。  それを見て崇人は首を傾げる。 「……スマートフォン?」 「それもそうだけど、これ」  マーズは待受画面に写っているあるものを指差す。それは、ほかでもないリリーファーだった。 「リリーファーも……なのか?」 「世界最初のリリーファー、アメツチは遺跡から発掘されたものらしいよ。つまり過去の人たちが、どういう理由なのかは知らないけれどアメツチを埋めたってこと。それからもこの世界の昔の姿が、どれほどの世界だったのかが想像つくでしょう?」  リリーファーのような巨大ロボットを作ることのできる世界。  それはどういう世界だったのか。崇人にも想像ができなかった。だって彼がもともといた世界だって巨大ロボットは夢のまた夢と言われる世界だったからだ。寧ろ災害用にコンパクトなそれが求められていた世界。巨大ロボットなんてそれこそアニメーションや漫画、小説の中の話だった。  だが、今崇人はこの巨大ロボットを動かすことができる世界、巨大ロボットが目の前にある世界へとやってきている。別に彼はロボットが極端に好きというわけではないが、男の子ならば一度はそう思い描く夢でもあるだろう。 「ロストテクノロジー……どれくらいの時間が経っているか知らないが、それくらい昔にあった文明がこれほどまでの巨大ロボットを作ることができて、なぜ滅んでしまったんだろうか?」 「世界の科学者の疑問はそこ。今歴史学者がずーっと考えている議題のひとつ。これほどまでのロストテクノロジーを遺した人類はいったいどこへ行ってしまったのか、ということ。滅んだといっても、それはないと思うのよ。だって、そうだとしたら私たちは何者? って話になる。どこからやってきた人間になるのか、解らないでしょう? だから定説として私たちがロストテクノロジーを作り上げた人間の子孫であることを前提条件としているのよ」 「前提条件……ねえ。なんというかその条件がネックだよね。どうしてそういう条件が成り立つのか、って話」 「だってそうじゃないと――」 「俺の読んだSF小説の話なんだが」  ヴィエンスが人差し指を突き出し、言う。 「過去の人類は冷凍保存されてしまって、冷凍保存に漏れた人類は細々と生き残った……なんてことがある。あくまでもその場合だとやっぱり人類としては血筋が続いているのかもしれないが、冷凍保存された側とそれをしていない人間を考えるとあまりにも親等が離れて……親族というよりもはや親戚、いいやもしかしたらそれよりももっと違う扱いになるかもしれない」 「そんなことが可能だと?」 「巨大ロボットを作っちまうほどの科学力だ。それくらいあっても何ら不思議じゃない」  その頃、模擬戦を行っているシルヴィアとファルバートは未だ拮抗状態が続いていた。どちらかが攻撃をしてそれが受け流す、またどちらかが攻撃してそれを受け流す……そんなことを繰り返し続けている。それはただ両方の体力を無碍に失っていくだけであるということを二人共理解していた。  それでも、決定打を導くことが出来ない。倒すことが出来ないのだ。それは二人が同等の実力を持っているからだろうか? 「違う……違う……こんなのじゃないはずだ……」  ファルバートはコックピットで独りごちっていた。しかしそれは誰かに呼びかけている声でもあった。  ファルバートの話は続く。 「おい……なんでここまで拮抗状態にあるんだよ……。僕は、力を手に入れたはずだろう……?」  その声を聞いて、どこからか白いワンピースの少女が姿を現した。  彼女は欠伸をひとつして、 「そりゃ相手が強いかあなたの補正値限界まで引き上げても弱かった。ただそれだけのことじゃないの?」 「もっと、引き上げてくれよ」 「ダメ」  白いワンピースの少女はあっさりとそれを否定した。  踵を返し、彼の操縦席の後ろに座る。 「そんなことしたらあなたが『人間』に戻れなくなってしまう。まあ、今も半分そういうもんなんだけど……。そしたらこれから非常につまらなくなるよ? リーダーの権利は手に入れても人語が喋れないんじゃ、意味ないでしょう?」  即ち、これ以上行うと精神が破綻する可能性がある――少女はそう言っているのだ。  さすがにファルバートもそれを聞いて躊躇った。それはさすがにまずい。そんなことをしてしまえばドーピングが疑われ、彼だけでなくザイデル家全体に泥を塗ることにもなるからだ。 「でも……方法がないわけじゃない」  少女は悪戯っぽく笑みを浮かべる。 「何だ?」  すぐにファルバートは訊ねた。 「簡単よ。同調を強めるの。リリーファー……今あなたが操縦しているそれは電子的に表現された『0』と『1』の羅列に過ぎない。けれど、同調は強められる。それを利用してリンクするのよ。あなた自身の精神と、リリーファーを。それを行えばより体感的にリリーファーを操縦できるから、少なくともラグは無くなると思うけど」  それを聞いて、彼は考える。  同調。それはまったく考えていなかったことだ。同調して、リリーファーと心を一つにする。彼は考えた。これからどうせ起動従士となって戦場に駆り出されることになるのだ。そういう機能はフル活用していったほうがいい、と。  だから、彼は訊ねた。 「その方法を教えてくれ」  それを聞いた少女は、ファルバートの隣に移動する。ほのかに花の香りがする、それくらいの距離にまで彼女は近づく。 「『同調』については幾つか方法がある」  少女の話はそこから始められた。 「だが基本的には起動従士がリリーファーに合わせるのが一般的だし簡単。それ以外の方法は無いわけではないけど、それでもこの方法に比べれば難易度はグンと跳ね上がる」 「御託はどうだっていい。いいからその方法を教えろ」  ファルバートは焦っていた。それはきっとシルヴィアが健闘しているからだろう。ファルバートは契約して多大な力を手にいれた(あくまでもそれは契約の一種に過ぎないのだが)。にもかかわらず、ファルバートが力を発揮出来ないか、或いは――それは彼が出来ることなら考えたくなかったが――シルヴィアが強すぎるか。  この差を埋めるには、さらに何か策を講じる必要がある、というわけだ。 「簡単ですよ、念じればいい。そして、我を忘れる程に……狂えばいい」 「それで同調が完了すると?」 「ええ。ですが『やりすぎ』には注意してくださいね?」  そう言って少女は再び姿を消した。この判断は自分で決めろ――彼女はそう言っているようにも思えた。  同調のメリット、デメリットについて少女から凡て聞いた。あとは彼がどう判断を下すか、だ。 24  その頃、シルヴィアは違和を抱いていた。今まで攻撃を繰り返していたファルバートが、ここ暫く守りだけなのだ。何か作戦があるのかもしれないが、だとしても不気味だった。 (何を企んでいる、ファルバート……)  彼女は考える。だが、少なくとも今このタイミングが攻撃を行う絶好のチャンスだということは、彼女にだって解っていた。  とはいえ、やはり気になるのはファルバートが攻めから守りに転じたことだ。今の状況でそんなことをする必要などない。特に今は模擬戦だ。彼女たちの魂は『0』と『1』に量子化されたものだ。はっきり言ってただのデータに過ぎない。それはもちろん今彼女たちが戦っているフィールドもリリーファーもだ。 (このまま……攻撃を続けてしまって問題ないだろうか?)  シルヴィアは何か嫌な予感がしていた。それは彼女の経験というよりもただの勘に近い。  このまま攻撃を続けていけばいつかはファルバートの乗るリリーファーは行動不能に至るに違いない。  だがしかし、そうだとしても。  やはりどこか腑に落ちないところなのは事実だ。何が起きるか解らないから……というのもあるし、こうしている間にも相手のペースに乗せられてしまう。 (だったら乗せられる前に、こちらからのせてやってやれば……!)  彼女はそう思って、リリーファーコントローラを強く握る。そしてそのリリーファーはファルバートのリリーファーの方へと駆け出していった。  ◇◇◇  ファルバートのリリーファーがゆっくりと姿を現す。  気がつけば彼女たちのリリーファーが戦っている場所には霧が立ち込めてきていた。 「いつの間にこんなに霧が……!」  シルヴィアは独りごちると、改めて発見したリリーファーを見る。  そこにあったのはリリーファーだった。それは間違いなかった。  だが、問題だったのはそのフォルム。頭から角を生やし、丸くなっていた身体は何処と無く角張っているようにも見える。 「おかしいわね……。ファルバートが乗っていたのはわたしと同じ、何の変哲もないそれだったはずなのに……」  そう。  ファルバートとシルヴィアが乗っているリリーファーは何れも標準的に存在しているものだ。  だが、今目の前にあるファルバートのリリーファーは彼女の乗るリリーファーとは違う、別のものだった。そのリリーファーというよりも、そのリリーファーの別のフォルム……という言い方のほうがもしかしたら正しいのかもしれない。  その別フォルムになった、ファルバートのリリーファーは動くことなくただその場に立ち尽くしていた。 「……あれは……ほかのフォルムとして見ていいのかしら? というかあれって若干反則めいた気もするけど」  シルヴィアはそう言いながらも、「ま。別にいいよね」とだけ言って、リリーファーに装備されてある銃を撃ち放った。 25  ファルバートは『少女』の言ったとおりに同調を行った。  しかし、同調ははっきり言って失敗に終わった。同調しようとしたが、断られたのだ。 「あらあら。リリーファーからそれを断られるケースなんてあまりにも珍しいことですよ。珍しいケースです。はっきり言って、この学校に通うことが出来ながらもそれが起きるなんておかしな話です。それくらいのこと。なのにあなたはそれが達成できてしまった……。あなたはもしかしたら『悪運』がいいのかもしれないですね」  少女は笑いながら、ファルバートに問いかける。 「何が言いたい……!」  笑みを浮かべてこの状況を喜んでいるように思える少女とは対極的に、ファルバートは憤りを感じていた。  どういうことだ? 同調は誰でもできるんじゃないのか? どうして自分には同調ができないのか? このままでは力及ばずして負けてしまう……ザイデル家の面目が丸潰れになる。また、ゴーファン家に?  彼の頭の中ではずっとそんなことが巡り巡っていた。だが、それからひとつの結論を導くことは非常に困難と化していた。 「……簡単なことです。あなたは同調ができなかった。同調が出来ないということはリリーファーと安定した……そうですね、人間と人間どうしで言えばこの場合は『絆』とでも言うんでしょうかね。それがないってわけです。リリーファーと絆があって、『心』が通じ合っていればこそ、起動従士は起動従士としての真価を発揮するんですよ」 「心……絆……。ふざけるのも大概にしろ! これはロボットだぞ!? そんなものに心だの絆だのあるわけが……」 「それが、あなたの失敗した原因」  そう言って、少女はファルバートの頭を指差した。 「有名な起動従士を父に持つ割にはリリーファーに対する考えがおかしいと思いますがね。少々改めてみる必要があるんじゃないですか?」 「考えがおかしい……? 馬鹿いえ! 僕はザイデル家の長男! リリーファーを操る才能に秀でているのはもはや当然のことだ!」 「慢心、ってやつですかね。そこまできたらなんかもう恥ずかしいとも思わないんですか。慢心は自分を滅しますよ。それくらい理解したほうがいいと思いますがね?」 「あんた……僕の心情を理解している『つもり』なのか知らないが、さっきから言葉が出過ぎなんじゃないのか!」 「言葉が出過ぎ? ああ、もしかしたらそうかもしれませんね。ただ少なくとも私はそんなことを思った覚えなど一度たりともありませんが」  そして。  ファルバートの乗るリリーファーは動かないまま、そのままシルヴィアのリリーファーから放たれた銃弾をモロに受けて、崩れ落ちた。 26 「なんというか……あまりにもあっさりとした決着だったな。特にファルバート、後半のあれはなんだ? まったく動かないまま、何か独り言のようなことをぶつぶつと。それでリーダーになろうと思ったんだから片腹痛い」  対戦が終わり、シミュレートマシンから出たファルバートとシルヴィアを出迎えたのはマーズだった。先ず彼女は戦闘を終えた二人に慰労の意味を込めて拍手を送ったあと、それぞれに評価を下した。  ファルバートに対する評価は、誰がどう見てもひどいものだった。当然だろう、後半のあれは彼自身以外が見たらただの呟きにしか見えない。恐れをなして動くのをやめた、だけにしか見えないのだから。  マーズはファルバートからシルヴィアの方に視線を移して、 「対して、シルヴィアはよくやったと言える。さすが父親が有名な起動従士だけある。父の名前を語っても申し分ない実力だった。これならシルヴィアを改めてリーダーとして選出しても誰も文句を言う人間もいないだろうな」 「ありがとうございます」  シルヴィアはマーズの評価に顔を赤らめながら、感謝の思いを伝えた。  ファルバートはもう、何も考えたくなかったのか、誰にも挨拶を交わさず、そのままゆっくりと部屋を後にした。  それを見てマーズはただ小さく溜息を吐くだけだった。  シルヴィア・ゴーファンとファルバート・ザイデルの戦いはシルヴィア・ゴーファンの圧倒的戦力差による勝利によって終了した。  ファルバートは帰り道、サイダーを飲みながら歩いていた。その様子はあまりにも憔悴しきっていて、とても声をかけられる様子ではなかった。 「……おい、出てこいよ。すぐそばにいるんだろ?」  それを聞いて少女は小さく舌打ちして、外に飛び出してきた。 「バレてしまったか。……で、どうかした?」 「どうかした、じゃない。同調ができないなんて聞いたことないぞ!」 「聞いたことない、なんて言われてもなあ」  少女は肩を竦める。 「あれは君自身とリリーファーの問題だよ? リリーファーが君に『合わなかったら』同調しようなんて思わない。よく、馬が合うなんて言うでしょ? それと一緒のこと」 「それと一緒、ねえ……。即ち、僕はリリーファーに合わないということか」 「それどころか、起動従士に向いてないかも。今からメカニックに転向する手もあるよ?」  ファルバートにとってそれは死んでも嫌だった。起動従士になることを望んだ彼だからこそ、今この立場に居るのだ。それを無碍にしたくはなかった。  だから、彼は首を振った。それは少女の提案を明確に拒否するものであった。 「ふうん……強情だねぇ。そこまで拘る必要もなかろうに」 「あんたに何が解る……」  ファルバートは怒りのあまり、持っていたサイダーの缶を握り潰した。  それを見て少女は口を隠し、クスクスと笑うと、 「そこまで怒らなくてもいいだろうに。私はあくまでも君に力をあげているんだよ? それによって君はあの戦闘を実現出来たと言っても過言ではない。だがね、君はそれでも敵わなかった。相手の実力のほうが、さらに上回っていたんだよ。君がそれを理解しているかどうかは別の話になるけど」  それは遠回しに、ファルバート本来の力じゃシルヴィアには敵わなかった――ということを意味していた。彼もそれは実感していた。でも、受け入れたくなかった。受け入れようとは思いたくなかったのだ。  ファルバートは舌打ちしてさらに歩くスピードを早めていく。 「そもそも少年少女はかなりの確率で起動従士になろうなんて考えているけど、はっきり言ってそれってどうなんだろうね? 起動従士という地位が、人間にとってそれほど羨ましいものだということなのかもしれないけど」 「起動従士という地位を君は理解していないようだから、ここではっきりと言っておこう。この世界においてリリーファーに乗ることが出来る……もっと言うならその資格を持っている人間はまさに『英雄』になれる。人々のためにその力を発揮することが出来る。それこそが英雄に定められた使命だ」 「……使命、ねぇ。なんというか人間らしいが、くだらないものだよね。そんなものに囚われるからこそ、人間は成長しようとしないのだから」 「君はさっきから人間に対して猜疑心を抱いているようだが……」  ファルバートはふとここで気になったことを少女にぶつけてみた。それは、少女が人間を憎んでいるのではないか、ということだ。  それを聞いて少女は薄らと笑みを浮かべる。 「……どうしてそう思ったのですか?」 「疑問を疑問で返すとは、知的ではないな」 「だから、何がどうしたというのですか、ファルバート? 私は別に人間に対して猜疑心など抱いては……」 「いない、と? それは神に向かってでも言えるか?」 「神」  少女は反芻する。 「神、ね。わたし、神って存在がどうも好きじゃないの。自分が『精霊』だからかしら?」  くるくると回りながら、少女は答える。  精霊だから――か。ファルバートは呟くとさらに歩を進めていく。  もう疲れてしまった彼は、そのまま帰宅して――そのまま眠りたかった。 27 「……なによあいつ。ぶつぶつと独り言をぶーたれて。なんというか不気味なやつね」  リリーファーシミュレートセンターの屋上。双眼鏡を覗いているマーズ・リッペンバーの姿があった。  なぜ彼女がファルバートを監視しているかといえば、それは簡単だ。彼女がファルバートの行動に疑問を抱いていたからである。ファルバートは途中まったく動かなくなってしまっていた。あれは未だに彼が手を抜いたから――マーズはそう考えていたが、しかし彼女はファルバートが退出するとき、あるものを見逃さなかった。  それは微小な口の動きだ。ほんとうにわずかなものであったが、しかしそれは確実にマーズに違和を抱かせるには充分な証拠にもなった。 「……幻聴に答えている。いや、そういうわけでも無さそうね……。うーん、姿が見えないから今のところは『幻聴』で処理するしかないのだろうけれど」  マーズにはファルバートの話し相手が誰であるか見えなかった。少女は可視化していないから当然のことでも言えるのだろうが、それがマーズの疑問をさらに深めていった。 「結局……何と話しているんだ、あいつは? 理解が出来ない。見えないものを理解しようなんて無茶な話だが……ひゃんっ!」  言葉の最後にマーズがそんな呆気ない反応を示したのは、頬に冷たい何かが当たったからである。  そちらの方を見るとそこには冷たい缶コーヒーを二つ持ったメリアの姿があった。 「……メリア。驚いたわよ、急にそんなことして」 「べっつにー。何かマーズが面白そうなことをしているから、ちょっとちょっかい出してみようかなーと思っただけです」 「タチが悪いわね、ほんと」  そう言ってマーズは再び双眼鏡を覗く。もうそこにはファルバートの姿は写っていなかった。見失ったということだ。そう思い、彼女は小さく溜息を吐いて、メリアと向き合った。  缶コーヒーのタブを起こすと、プシュと空気が抜ける音がした。そしてタブを元に戻し、マーズはそれを一口啜った。 「……苦い」 「あれ? あんたまだコーヒー飲めなかったっけ?」  悪戯っぽくメリアが微笑む。わざとだ――マーズはすぐにそう思うと、もう一口飲んでやった。 「苦い、苦いぃ……!」  マーズはそう言って咳き込んだ。どこかにコーヒーが入ったわけではなく、あまりの苦さに……ということだろう。余談だが、このコーヒーはカカオ豆がたくさん入っているとかそういうのではなく、ごくごく一般的に販売されているコーヒーである。  メリアは笑うと、マーズに別のものを差し出す。  それはココアだった。ココアとホット・チョコレートはそれぞれ似たような飲料であるが、だからといってそれが等しいものではない。ココアはカカオ豆から|油脂(ココアバター)を減らしたものをパウター化したものから作られ、それ以外を溶かして作るのをホット・チョコレートだという。よってココアとホット・チョコレートは同義ではなく、まったく別物の飲料であるのだが、時折それを誤用して、同義であるとする場所もある。ちなみにマーズに手渡したのは、列記としたココアである。  マーズはココアが大好きだ。だからそれを手に取ると、鼻歌を歌いながらタブを開け一口啜る。すぐに口の中に濃厚な甘味が広がった。 「……ほんと、あんたって子供っぽいものが好きよね……。『女神』を信仰している人たちから見ればどう映るのかしら」 「あら? きっとこういうのも新鮮だとか言ってこれも含めて信仰してくれるわよ。というか、別に信仰してくれと言って信仰してもらっているわけじゃないのだから、好き勝手しても自由だとは思わない?」  メリアはマーズから半ば強引に渡されたコーヒーを啜る。 「……まあ、そういう苦労もあるのよね。起動従士って。大変ちゃあ大変か」 「そうよ。それに今は騎士道部という部活の顧問もやっているし、しかも大会の顧問もやらなくちゃならないわけ。アリシエンス先生が一応大会に来てくれるから、私は補佐という役割で収まりそうな感じはするけれど……それでも大会時に何かあった時にすぐに駆けつけられなくなるんじゃないか、って心配はあるわね」 「そんな縁起でもないことを言わないでよ。去年のアレですら、大会の運営を辞めるべきだって声が出てきたんだから。今年もあったらそれこそ運営形式を変える必要がある……なんてことを言われているくらいなのに」 「あら、そうなの? それは初耳」  マーズは目を丸くして、ココアを啜った。 「だって、去年のあれですら結構被害があって、国としても運営としても頭を下げる羽目になったそうよ。特に去年はペイパスのお偉いさんが来てて、ペイパスと共同でやったから尚更」 「尚更、ねえ……。まあ、流石に今年は問題も起きないでしょう。去年よりも警備は厳しくしているとのことだし」  そう言ってマーズはスマートフォンを弄る。 「だったらいいんだけどね。私としてもシミュレーションコースを作るための最終調整が佳境を迎えていてね。それが終わらない限りは手があかないという現状」 「大会でシミュレートマシンを使うってこと?」  メリアはその言葉を聞いてスマートフォンを取り出し、マーズにその画面を見せる。  メリアが少し操作すると、そこにはあるものが映し出されていた。  アスレティックコースの、その断片だった。 「これは……?」 「オフレコでお願いね」  そう言ってメリアは口の前に指を当てる。それを見てマーズも頷く。 「これは大会の競技、アンリアル・アスレティックのコース案。あくまでも案というだけだけどね」 「案、ねえ……」  それよりも彼女が気になったのは、これが大会の競技になるということだ。この競技は去年一年生だった人ならば進級試験という形でやるはずだったもの。それを大会で行おうというのだ。 「本当はあの進級試験でやるはずだったもの。それが結局ボツになってしまったからそれを元に再構成したものを使う。アスレティックとは言うけど、コースがこういうところだけでルールとかはただの障害物走になるとか聞いたよ」 「それってアスレティックというよりも」 「でもコース的にはアスレティックなんだからそれで良いだろう、ってオプティマスから手紙による通達があったからね」  マーズは唾を飲み込む。嘘だとは思いたいが、今までの付き合いからしてメリアがこんな真剣に話しているのに嘘を言うことは無いだろう。  だとしたら、メリアが言っていることはでたらめなんかじゃなくて正真正銘の真実だっていうことだった。 「……それにしても、ほんとうに今年の大会って何もかも変わるのね」  メリアが見せてくれたそれを再度見て、マーズは小さく溜め息を吐く。  メリアは肩を竦めて、 「大会のエンターテイメント性を高めるのが狙いって聞いたわね。去年のあれで観覧者が減ってしまってチケット売上が減ることを恐れたのかも」  『大会』は何もボランティアで行われているわけではない。運営するためには資金が必要だし、スポンサーとなっている各企業及びヴァリエイブル連邦王国から出される資金では足りないのが現状だ。  資金が足りない主な原因としてリリーファーの整備やスタッフの賃金などが挙げられる。リリーファーは年々世代が変わるために、幅広いリリーファーを備えておく必要があり、かつ古くなったリリーファーを変える必要があるから、毎年数台は買い換えているのだ。国から譲り受けることが出来ない理由は、国も『バックアップ』育成のために世代が古いリリーファーを使用するからである。  さらに技術スタッフは学生が最大限活躍出来るようにするため、また、リリーファーの量から必然と多くなってしまう。彼らは手に職を持った……謂わば専門職である。チケット販売を行ったり、会場でビールを売ったり、売店の管理を行うスタッフ――『大会』ではそれを一般スタッフと規定している――とは違うのである。  仕事の種類がより専門的かつ技術的な技術スタッフの賃金は自ずと高くなる。技術スタッフの賃金は今や一般スタッフの二倍近くにまで跳ね上がっているのだ。 「大会もボランティアでやってたらあんな規模で出来ないもんねぇ……。まぁ、だからその分をスポンサーとチケット売上で賄っているのだろうけど」 「それに今年はスポンサーが一つ減ったって。ほら、ユーモルド・コーポレーションってあったでしょ?」  メリアの言葉にマーズは頷く。  ユーモルド・コーポレーションは三大軍事企業の内の一つに指定されている巨大企業である。主な製品は銃であり、リリーファー用と人間用を販売している。 「確かユーモルド・コーポレーションが販売した銃を『赤い翼』が使っていたんだっけ? それで企業イメージががた落ちしたからそれから避けるために今回は……ってことよね」 「たぶんそうだと思う。まぁ、しょうがない話よね。企業イメージが落ちたら企業自体傾いてしまうからね」  そう言ってマーズはココアを啜る。空になったのか、缶を振ってそれを床に置いた。 「……そういう訳で、実際問題、今年はかなり苦しいことになるでしょうね。このモデルがうまくいけば問題ないだろうけど、うまくいかなかったらさらに刷新されて……最終的に大会もろとも無くなることだって……。まぁ、考えたくないけど」 「流石に大会そのものは無くならないでしょ。だってこの大会は学生にとって試験とか卒業とか面倒臭いカリキュラムを凡てすっ飛ばして起動従士になれる登竜門に近い場所だし。無くなったら学校から批判が来るのは、もはや当然のことともいえるでしょう?」  メリアはそう言ってマーズが床に置いた缶を拾うと、屋上から出ていった。  彼女たちの対話は、そうして半ば強引に打ち切られた。 28  その日の夜。  マーズと崇人、その食事でのこと。 「……大会がそこまで大変なことになっているなんて、まったくもって知らなかったな……」  崇人はフォークでスパゲッティを絡めとりながら、言った。  マーズはそれに頷きながら、アップルティーを一口。 「大会のルール及び競技内容が判明するのは明後日になる予定だって、メリアは言っていたわ。少なくとも三つの競技があり、それぞれ難易度は計り知れない……とのこと。まぁ、今回私たちはサポートに回るだけになるけど」 「なるほどな。それにしてもこんなタイミングで発表しても対応出来ないよなぁ……。大会の運営側は何を考えているんだ?」 「そんなこと、私が知りたいわよ」  マーズはガーリックトーストをかじり、それを掴んだ手を紙ナプキンで拭いた。 「一先ず今のところ言えるのは去年みたいなトーナメントとかそういうのではないということ、さらに会場も変わったから対策が非常に取りにくいということかしら」 「去年と会場が違うというのは痛いな……。何とかならなかったのかなぁ?」 「それを私に言われても困るわよ。現に私にはそれほど発言力が無いんだもの」  マーズの呟きに崇人は頷く。  マーズは女神と呼ばれ、起動従士の間では有名な存在だ。だが、だからといってマーズがリリーファーに対して有名だからといって、それが凡てに通用するわけでもない。  マーズの顔が利くのは起動従士で、さらにその狭い範囲でのこと……だからまったく意味の為さないことなのだった。 「ともかく、これに対して詳しい、正式な通知が来るのは明日ってこと。それだけは理解してもらえると助かる」 「理解もなにも今年は出ないからな……。理解してもらうのはどちらかといえばこっちよりも参加する選手の方じゃないのか?」 「選手については、とりあえず私の方から報告しておくからあなたが心配しておく必要はないかな」 「それは真実として受け取っておくよ」  そう言って、崇人はグラスに注がれた水を飲み干した。  ◇◇◇ 「ファルバート・ザイデルの様子はどうだ?」 「大丈夫だ。きちんと命令をこなしているよ。今は、とにかく僕が入っていることを気付かれないように大会に参加しろ、とだけ言っている。それを忠実に守っているよ……。まったく人間というのは常常面白い生き物だよ」 「そういう生き物を僕たちは使っているわけだ」 「それもそうだ。……さて、次はどうする? このまま大会に向かわせるということは……何かビッグなイベントでも待ち構えているということかな」 「察しがいいね。そうだ、そういうことだよ。大会では、それこそドデカイ花火が打ち上がる。ひとつの時代の夜明けにもなりかねない、大事なことだよ」 「ふうん……。それにどう彼らをぶつけていくつもりだい?」 「そりゃあまあ、大会のルール変更だ。うまくそれに噛み合わせていくに決まっている」 「なるほど、悪いねえ君も」 「君ほどじゃないよ、ハンプティ・ダンプティ」  そして。  白の部屋での二人の会話は、静かに終了した。  ゆっくりと、ゆっくりと、時間が動き出す。  夜明けが、すぐそこまで迫ってきていた。