1  機械都市カーネルという場所がある。ヴァリエイブル連合王国に位置している、リリーファー研究開発の拠点である。  一年近く前、カーネルは独自に育て上げた騎士団とともに反乱を起こした。その目的は未だ不明とされているが、それによって世界には衝撃が走った。結果、ヴァリエイブルがそのテロを鎮め、統制を強化するに至った。  カーネルにある旧起動従士訓練学校、現在の第六研究所の廊下を一人の科学者が歩いていた。  ベルーナ・トルスティソン。  魔法剣士団を作り上げた科学者である。彼女はずっとある思いを抱いていた。  リリーファーはあまりにも危険すぎる、ということだ。リリーファーに乗ることができる、現時点での制約は未成年であると言われている。理由は、若い力がリリーファーの動かし方を簡単にさせるという理論からだと言われているが実際には違う。  そもそも。  リリーファーの『敵』とは何だというのだろうか?  シリーズ、またそれめいた敵が昔もいた――とでもいうのだろうか。  ベルーナはずっとリリーファーを使用していることで、違和が発生することを論文としてまとめ、発表した。それはリリーファーの研究開発を行っているカーネルが提起すべきものではないということは重々承知していたが、それでも彼女はその論文を発表せねばならないと思っていた。  その論文は発表後秘匿され、箝口令が敷かれた。  要はそれほど、国としても晒されたくないことなのだ。カーネルとしての総意はこれを世間に発表することで一致しており、決してカーネル側がそれを自粛したわけでもない。  この世界にはあまりにも深い闇がある――それが垣間見えた。  だが、その闇が見えたからといって簡単に諦めるカーネルでは無かった。カーネルはその事実を世界に公表するため、そしてある目的のため、世界を相手取って戦争を行ったのだ。  その目的は、今やこの世界には切っても切り離せない存在――リリーファーによる戦争行為の撤廃、だった。この世界の戦争は味方も敵もリリーファーに乗り込んで行う。リリーファーでなければそもそも同じ土俵に居ないのだから、勝敗すら決められないのである。  だが、だからこそ、カーネルはリリーファーを廃止せねばならない、リリーファーを使ってはならないと結論付けた。リリーファーを研究・開発し、世界にリリーファーを売っている、この世界の戦争システムの根幹を担う機関が、だ。  魔法剣士団を結成し、彼ら独自のリリーファーを開発した時は、ただひたすら申し訳ないと思っていた。  それは、彼らを危険な目に合わせるからだろうか?  それは部分的に正しいといえるだろう。だが、逆を言えば部分的に間違っているともいえる。  リリーファーに秘められたある『効果』が、起動従士をきつく縛り付け、苦しめるのだ。それと魔法剣士団設立によるメリットを天秤にかけた時、カーネルの科学者は泣く泣く後者を取った。起動従士が、人間がリリーファーを操縦することのデメリットよりも魔法剣士団にリリーファーを操縦させることで得られるメリットを取ったのだ。  ベルーナは歩く。彼女は何を考えているのか、それははっきりと解らなかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 『リリーファーは有害だ! リリーファーに乗ることで、リリーファーに含まれている有害な物質が起動従士に流れ込み、起動従士が短命になってしまう! それを国は覆い隠している。その重要な真実を、だ! これは立派な犯罪ではなかろうか!』 「嘘くさい話よね。それくらいソースを見せなさいよソースを」  そう言ってマーズは教室の窓を閉めた。  今彼女と、騎士道部のメンバーは騎士道部の部室へときていた。リーダー決定戦から二日、てっきりファルバートは反発するものだと思ったが、戦いが終わってすんなりと受け入れた。友人であるというリュートがいたのもあるのかもしれないが、その行動にマーズはどこか違和を抱いていた。  あれほど劣等感を抱いていたファルバートがそう簡単に納得するのだろうか、ということである。確かに納得してもらったほうが、マーズたちにとって嬉しいことであるのはかわりないのだが、しかしながらそこまであっさりと納得されると逆に不安になるものである。 「……とりあえず、今日集まってもらったのはほかでもありません。今年行われる大会のルールについてお知らせするためです」  マーズはそう言って小さく溜息を吐く。彼女にとってそれはとても荷が重かったからだ。  彼女はスマートフォンに送られていたメール、それに添付されていたテキストファイルを見ながら、話を続ける。 「今回、競技内容、ルールその他もろもろが凡て変更になる。会場は知っているとおり、ターム湖ほとりにあるレヴェックス・スタジアムとなる。前はもしかしたら違うスタジアム名を聞いている人もいたかもしれないが、これで決定だ。……次に、競技種目の制約について。各校からひとつの競技にエントリー出来るのは三名まで。ただし、ひとりの選手が同時に参加することは二種目までしか許容されない。……まあ、これは恐らく大会運営側が、一年生が八割以上占めることが限定することで、大会は『一年生の優れた学生をお披露目する場』……なんて風に仕立て上げたいんだろうなあ。まあ、去年のあれがあったから仕方ないかもしれないが。それでも、二年生以上も参加してはいけないというルールは存在しないし、実質存在している規約として選手が守らなくてはならないのは、既に起動従士として活動している人間は出てはいけない、ということくらいか。だからタカトとヴィエンスは出場出来ない」  それを聞いて、改めて崇人とヴィエンスは小さく頷く。  マーズはテキストファイルを読み進めていく。 「次にポイントについてだな……」 「ポイント?」  訊ねたのはシルヴィアだった。 「今回ルールが変わったから、即ち勝敗の付け方も大きく変えざるを得なくなったというわけよ」  一息。 「ここにもそれについてそう書いてあるわ。えーと……大会ルールの変更に基づき、勝敗は各校が取得したポイントの合計で決定される。一位に四十ポイント、二位に二十ポイント、三位に十ポイントが配分される。四位以下はポイントを取得出来ない。ただし、今回の目玉種目としてある『アンリアル・アスレティックス』は配点が倍加される……ってね」 「アンリアル・アスレティックス?」 「アンリアル・アスレティックスは簡単に言えば、去年の進級試験で用いたようなディジタル空間でのアスレティックコースを走破することを目的とした競技ね。もちろんリリーファーにのって……ってことが前提条件なのは、もはや当然のこととも言えるけれど。ほかにも、キュービック・ガンナーにドウル・アタッカーズがあるね」 「キュービック・ガンナーにドウル・アタッカーズ……」  ファルバートはマーズの言った言葉を反芻する。 「キュービック・ガンナーは、立方体のエリアにそれぞれ相手のリリーファー二体を閉じ込めた状態でスタートとなる……って書いてあるわね。武器はツインマシンガン及びアサルトライフルのみ使用でき、リリーファーに設置されている的に先にすべて命中させたほうの勝ちとなる。この勝負は三人ひと組となって戦うこととなり、即ち二勝することでチームの勝利が決定することとなる。ここにはそう書いてあるわ」 「チーム戦、かあ……」  そう言ってリモーナは上を向く。彼女はそういうものに自信が無い。個人戦ではそれなりの実力を誇る彼女だが、いざ団体戦となると緊張してしまいうまくコミュニケーションを取ることができなくなってしまい、最終的に敗北を喫してしまうのだ。  それはマーズも心配していた。しかし、だからこそ彼女をチームに加えた。そんなことでチームから外すわけにはいかなかったからだ。苦手なところを矯正して、強く仕立て上げる。それが彼女の役目であるということを、マーズ自身理解していたからだ。 「次にドウル・アタッカーズ……これもなかなか難しそうな競技ね。これは、スタジアム内に放り込まれた複数体のドウルから一体のドウルを見つけ出す競技で、この競技はいちはやく見つけたものが勝利とするため、一位のみ配点を付与する。何回も実施されるので、場合によっては一チームが多くの得点を有することが可能になる……ってある」 「ドウルって何ですか?」  質問したのはメルだ。  メルの言葉にマーズは頷き、答える。 「ここにも書いてあるんだけど、どうやらドウルというのは無人のリリーファーを指すようね。そして、その無人リリーファーがプログラムによって勝手気ままに動き回っているから……その中から何かの目印を持った一体のみを見つけ出す。なんというか、考えた割には地味な競技ね……」  そう言ってマーズは小さく溜息を吐く。疲れている気持ちは、マーズ以外のどれもが一緒だった。そして疲れている以外の感情を抱いているのもまた、確かだった。  今回の大会の難易度は計り知れない。  騎士道部の面々は、それがすぐに思い浮かぶのであった。  マーズは騎士道部の面々にルールを伝えた後、もう一度ルールを確認した。ルールは未々簡略化されたものであって、穴がある。それを見つけて考慮する必要がある――とマーズは考えていた。  メールに添付されたテキストファイルを印刷して、紙の状態で眺める。その方がメモも書けるし、修正も容易に出来る。  テキストファイルの量は紙換算で十七枚。文字数は一万二千字程度に達する。枚数のわりに文字数が少ないのは図表を多く使用しているからだ。  それを一枚一枚長々と見つめ、気になった点にチェックを加えていく。その作業は大変なものであったが、しかしそれも顧問としての役目であり、それを充分に果たす必要があった。 「なんというか……曖昧模糊とはこのことね」  彼女はチェックしながら、そう呟いた。  曖昧模糊――彼女がそう表現するほどに、大会のルールは穴だらけだった。即ち、その穴を掻い潜って様々な策を講じることが可能だということも示していた。 「ルールは穴だらけ。これじゃあ、この穴を潜ってくださいとでも言っているようなもの」  そう言ってさらにチェックをつけていく。もちろんそれは素案である可能性が高く、今後公式発表されるもので変更される可能性だって、考えられるわけだ。  しかしながらマーズはその可能性を捨てていた。そんなことを考慮する必要などないと考えたのだ。  なぜならそれは流石に『選手』のことを顧みないやり方だからだ。選手あってこその大会だ。選手を敬う――まではいかないが、せめて選手には最高のパフォーマンスをしてほしいものだ。にもかかわらず、運営側がそのようなことをしてしまっては元も子もない。 「選手あってこその大会……」  アリシエンスがよく口にする言葉を、彼女は反芻する。大会の主役は選手――それはあまりにも解りきったことだ。解りきったことであるとともに、運営が忘れつつあることであった。運営は選手を軽視してはならない。アリシエンスは常常そう思っていた。  だから、今回の大会で仮にルールが急に変更なんてことが起きた場合、アリシエンスが恐れていた事態が発生するということだ。 「それは起きてはならないわ……。大会が選手を軽視する。そんなことがあっては大会の根本から崩れることになってしまう。それはあってはいけない。起きてはいけない。だからこそ、『オプティマス』が存在しているわけだけれど、それでもその干渉には限界がある」  歌うようにマーズは言う。 「オプティマスの干渉をすり抜けていくことだって考えられるし充分に有り得る。とはいえ……オプティマスがそれを看過するような事態に発展していけばそれこそオプティマスは凋落していくに違いない」  寧ろ。  それが狙いという可能性は考えられないだろうか?  出来ることなら考えたくない。監視機関を排除するためにわざとそのような手段に打って出たというのだから。しかもその仮説が合っているとするならば、買収されている可能性だってあるわけだ。  オプティマスを不必要とするのはあまりにも多い。それはその数が具体的に把握出来ないぐらいだ。  だがオプティマスの存在は大会の公平を維持するためには非常に重要なものだ。オプティマスが居なければ大会の公平が維持出来なくなってしまう。それは大会の運営にも関わってしまうのであった。  大会の運営がストップしたとして、喜ぶのは誰だ――そう考えたときに直ぐに浮かぶのは誰一人として居なかった。恨まれることのないわけではない。あまりにも多すぎて特定がしづらいということだ。  マーズは考える。果たして今回の大会はいったい誰のためのものなのか、誰に向けてのものなのか。  それが解るのは――それから幾らか経った日のことになるのであった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  実際に練習することになったシルヴィアたちであったが、いざ練習しようと思っても何をすればいいのか解らなかった。 「練習、ねえ……。実際に何をすれば練習と呼べるのか、解ったものではないし……」 「だからってここに来るのもどうかと思うけど? 練習の不均一が疑われかねないよ?」 「それはそっちがやってないだけでしょ。やっていないことを不均一がどうのこうの言うのはただの言い訳に過ぎないし、見苦しいよ」  マーズとメリアの会話の横で、シミュレートマシンを通してシルヴィアたちはシミュレートコースを通っていた。コースは進級試験に用いられたそれと同じであったが、一部メリアの手によって改良が加えられていた。 「……なんというか、難しいわね」 「コースのことについて?」 「ええ、そうね。コースは改良しているつもりなんだけど、それでもダメっぽいし。やっぱりなんというかなあ……なんと言えばいいのかなあ……」 「勿体ぶらずに教えてよ。すぐに対応させるから」  それを聞いてメリアの表情は一瞬綻んだ。そして、理解を得られたのを見て、彼女は肩の力を抜いて非常にルーズな雰囲気で言った。 「リリーファーに乗り慣れてない」  しかし、メリアが言ったことは非常に的確なものだった。それはシミュレートコースでの彼らの様子――正確には彼らが乗るリリーファーの様子だが、特にこれに関してあまり長々と表現する必要もないだろう――を見るだけで明らかだったのだ。  一つ簡単にその点を述べるならば先ず最初に挙げられるのは、動きがぎこちないということだろうか。確かにシミュレートマシンで再現される世界は『|現実(actual)』ではなく『|仮想(virtual)』である。そして現実と仮想には僅かながらズレが生じてしまう。  その理由は至ってシンプルで、シミュレートマシン及びそのサーバ群から構成されるVRワールドの『管理者』である人工知能【アリス】の存在だ。人工知能は人間が組み込んだプログラムを前提に動く。だから、人間めいた『感情』や『仮定』が組み込まれた推論を実施することが出来ず、さらにそれから発展して、それが組み込まれた時にはエラーを吐き出してしまう。これを科学者は『人工知能自己認識問題』として定義し、現在もなお科学者の疑問の一つになっている。 「【アリス】のズレについては適宜調整しているから問題ないけど……うん、やっぱり何が悪いんだろうねえ?」 「私に言われても困るわよメリア」  そう。  マーズはこんな状況でありながらも、別のことを考えていたのだ。それを騎士道部の面々に感づかれてしまってはならなかった。  アリス――人工知能の名前が帽子屋などの『シリーズ』が時折言っていたそれと同じだったのだ。  果たしてアリスとは何なのか? 何と定義すべき存在なのか? そもそも可視化された空間に存在しているのだろうか? マーズの考えはぐるぐると頭の中を回っていた。  マーズはそこまで考えたところで一旦思考を切り替えた。ここは彼女の家彼女の部屋ではなくリリーファーシミュレートセンター……即ち外だ。だから長々と考え事をしてしまっては他人に心配されてしまうのがオチだった。  ――アリス、その存在についてマーズはさらに調べる必要がある。彼女はこの時、そう思ったのであった。  白の部屋ではアリスが蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキを頬張っていた。まだ完成して時間が浅いのだろう、パンケーキの上に乗せられているアイスクリームが溶けかけていた。  帽子屋はモニターを通してマーズが考えている様子を見ながら、笑みを浮かべる。 「どうやら『真実』に一番近付くことが出来るのは彼女……マーズ・リッペンバーのようだね」  ハンプティ・ダンプティの話を聞いて、帽子屋は薄ら笑いを浮かべながら紅茶を一口啜った。  アリスは七枚目のパンケーキを完食したようだが、それでもまだ食べたりない様子でチェシャ猫の方を見て涎を垂らしながら目を輝かせている。  それを見てチェシャ猫は小さく溜め息を吐くと、ソファーから立ち上がりアリスの目の前にあるお皿を一旦回収した。それを見てアリスは一瞬悲しげな表情を見せたが、「直ぐに新しいのを焼いてきますから」とぶっきらぼうにチェシャ猫が言うと、直ぐに目を耀かせた先程の表情へと復元された。 「アリスも順調に『封印』前へと調子を取り戻しつつあるね」  ハンプティ・ダンプティの言葉を聞いて帽子屋は頷く。  彼らは彼女を元の状態に戻す必要があった。特に帽子屋の計画にアリスは必要不可欠であったのだ。 「まさかアリスも計画に組み込ませるとか……君も末恐ろしいねえ」  ハンプティ・ダンプティの言葉には失望というよりも期待が含まれていた。シリーズにとって上位となる存在『アリス』を計画に組み込ませることで何が起きるというのか、ハンプティ・ダンプティ自身も気になっていたからだ。  もちろん、アリスを組み込ませることでシリーズという存在自体に何らかの悪影響をもたらすのではないかと考えられていたが、しかしながら、最終的には組み込まれていくことによって何が得られるのか――まったくわからなかった。  アリスと計画の融合……それによるビッグバン的反応が示されるのか否か、それは誰にも解ることなどないのであった。 「……アリスはこのまま封印前の様子に戻す。そして近いうちに『覚醒』させる。それによる効果は計り知れないものになるだろうね。覚醒には融合も含まれているが、融合さえ済ましてしまえばあとは簡単だ。さっさと終わらせてしまえばいい。さっさと世界をやり直してしまえばいい」 「人間の文明はあまりにも進みすぎたからね。ここで一旦リセットするのもアリかもしれない」 「リセットするの?」  ハンプティ・ダンプティと帽子屋の会話に割り入ってきたのはバンダースナッチだった。バンダースナッチは悲しげな目線をそちらに向けて、言った。  バンダースナッチの頭を撫でて、帽子屋は笑みを浮かべる。 「君はもともと人間だったからね。人間には思い入れがあるのかもしれない。でも、でもね。もうダメだ。人間はカミという存在を拾って自分たちのために使った。この試練に失敗したんだよ。所詮人間は目の前に力があればそれを使うに越したことはないと思って使う。人間はそれだけの存在だ。それしか価値がないが、それは邪悪と言っても過言ではない」 「人間が存在してはいけない、ということ?」 「違う。人間はこの世界を好き勝手に使いすぎた。使ってもいい、管理は確かに人間に任せた。だが、不測の事態に備えて、最終的な権限は僕たちシリーズ……特にアリスに持たされていたんだ。でもアリスはまだ封印前まで力を回復していない」 「だから、そのために力を回復させる、と?」  バンダースナッチの言葉を聞いて帽子屋は頷く。 「そうだ、その通りだ。察しがいいな、バンダースナッチ。つまりはそういうことなんだ。……人間の消費により疲弊した世界を修復するプログラム、それが僕たちシリーズの役目でもあり任務でもある」  帽子屋の言葉にバンダースナッチは首を傾げる。今のバンダースナッチはシリーズに入って日が浅い。さらに前のバンダースナッチの記憶は完全に消している。そのためか、残っているのは曖昧な記憶だけだった。  帽子屋にとってそれは都合が良かったし、ほかのシリーズにとってみても同様だった。前のバンダースナッチはシリーズの中で一番人間に興味を持っていた。もしかしたらある種の愛情を持っていたのかもしれないが、結果的にはそれが作戦に無意味だと判断され、『初期化』された。  そして『丁度良く』死んでしまった一人の人間の魂をよりしろにして、初期化したバンダースナッチを封入させた。それによりバンダースナッチは、謂わば再起動の形を取った。 「エスティ・パロングという少女は死してなお生きたいと思った。僕たちみたいな『異形』を目の前にしても、恐れることはなかった。……素晴らしい人材だと思ったよ、僕の狙いはあたった。僕の計画は正しかったんだよ」 「……慢心は失敗の素、だったか。かつて君が言った言葉を覚えているか?」  唐突に。  ハンプティ・ダンプティは言った。  帽子屋は笑みを浮かべ、頷く。 「何を言っているんだ。僕が言った言葉だ。僕が忘れてしまうわけがないだろう?」 「だったらいい。だったら構わないよ。……ただ、慢心して油断を怠り、死んでいった連中を私は何度も見てきている。私はシリーズの中でも最初に生まれた存在……言うならば兄、だ」 「僕たちに性別なんて存在しないじゃないか」  帽子屋の言葉にハンプティ・ダンプティは鼻で笑った。  それを見た帽子屋は小さく溜め息を吐く。 「あぁ、別に君が悪いわけではないよ? ただそういえばそうだなぁ、と我々の事実を再確認したまでだ。我々には性別という概念がない。かつてのカミですら、それはあったというのに」  シリーズから性別という概念を取り払ったのは誰なのか、はっきりしていない。まったく解っていないのが現状である。  だが、彼らにとってそれは小さな問題だ。もしかしたら問題とすら規定されていないのかもしれない。 「……まぁ、そんな無駄話は程々にしておこう。とりあえず今は計画について。一体全体、これからどうするつもりだい?」 「未だ人間が動くターンだよ。僕たちがどうこうする場面ではない」 「そうか……」  ハンプティ・ダンプティはそう言って小さく溜め息を吐いた。 「やぁ、帽子屋にハンプティ・ダンプティ、それにバンダースナッチ。紅茶でも一杯どうだい?」  チェシャ猫が帽子屋とハンプティ・ダンプティ、そしてバンダースナッチの会話に割り入ったのはちょうどその時だった。お盆に三人分のソーサーに乗ったティーカップを乗せ、持っていた。ティーカップから湯気が出ており、中に入っている紅茶がとても温かいことを思わせる。 「おっ、済まないね。……でも、アリスの『食事』は未だ終わっていないのではないのかい?」 「アリスなら食事が終わって眠ってしまったよ。ろくなことじゃ起きないけど、一応大きい音は出さない方がいいだろうね。彼女の寝起きでみんな消えたくないだろ?」  それを聞いて帽子屋は頷くと、ソファーに静かに腰掛けた。ゆっくりと帽子屋たちの腰がソファーに沈み込んでいく。  チェシャ猫が渡したそれを受け取り、帽子屋は紅茶を啜ろうとして――そこで気がついた。 「そういえばチェシャ猫、君の分は?」 「僕は飲んだから大丈夫だよ。……さて、アリスが食べた大量のパンケーキを載せたお皿を洗わなくちゃね」  そう言って腰を叩くと踵を返した。 「待てよチェシャ猫。そんなので僕を騙せるとでも思っているのか?」  刹那。  帽子屋の指が針のように形状を変え、チェシャ猫の『心臓』を貫いた。  チェシャ猫は何があったのか解らなかった。自分が何でこうなったのかは、どうやら理解しているようだったが。 「君はシリーズの自制役だ。だからシリーズを殺せる知識も持っている。……だからってこれはないよなぁ」 「まさか……毒か!」  ハンプティ・ダンプティの言葉に帽子屋は頷く。バンダースナッチは何も反応を示さなかったが、紅茶に手をつけていないところをみると、どうやら状況は理解しているようだ。 「き……君はアリスを! アリスを君自身の作戦へと、計画へと組み込んだ! これがダメなことだって、やってはいけないことだって、どうして誰も言わないんだよ!! アリスを敬う気持ちを、みんな忘れてしまったのか……!?」  チェシャ猫は口から血を吐きながら言った。恐らくは最後の力を振り絞った言葉なのかもしれない。  だが、帽子屋はそれを一笑に付して、 「だからどうした」  とだけ言った。それを見てチェシャ猫の顔が青ざめていく。それが出血多量によるものなのか帽子屋の発言によるものなのかは解らなかった。 「お、お前は世界を修復しようなんて思っちゃいない! 過去の神罰に酔いしれた……カミ擬もどきだ! カミ擬きはどうあがいてもカミになんてなれるはずがない! この世界ですら、カミが作り出した空間なんだぞ!」 「カミカミカミカミ……煩いな。シリーズでも知能を司った君だったが、とうとう呆けてしまったか? だとしたら残念だよ、チェシャ猫」  そして。  帽子屋はチェシャ猫の身体にさらにもう一本指を突き刺し、チェシャ猫の身体からあるものを取り出した。  それはチェシャ猫の心臓だった。 「チェシャ猫、喜べよ。これから君は僕の中で生きる。あぁ、安心してくれ。君が持っていた知識も、凡て僕の中に生きる。最高だろう? じゃあ、さっさと死ねよ」  そして。  帽子屋はチェシャ猫の心臓を口に放り込み、飴めいたそれを噛み砕いた。  それと同時にチェシャ猫の姿は消えた。  ハンプティ・ダンプティは呟く。 「紅茶を作るやつが、居なくなってしまったな」  うん? と帽子屋は首を傾げ、ハンプティ・ダンプティに答えた。 「大丈夫だ。紅茶の知識も入っているよ。知識の多さに頭がガンガンするが……まぁじきに慣れるだろう。先ずはウォーミングアップとして紅茶を振る舞おうじゃないか」  そう言って帽子屋は立ち上がり、キッチンのある方へと向かった。  アリスはそんなことがあっても、未だ眠っていた。 2  そして、大会――その当日がやってきた。今年は去年と比べて場所が学校から近く、バスで直ぐに行くことが出来るという。  バスに乗っているマーズはその日程を確認しながら考え事をしていた。  結局、ルールが変わることは無かった。普通に考えれば当然にも思えるが、それでも彼女はルールが土壇場で変更される可能性も加味していたのだ。 「結局ルールは変更も追加もされることはなかった……。なんというか理不尽めいたことになりそうね」 「ルールを完全に理解しきれたか、それが微妙なところだな」  マーズの独り言に崇人が反応した。  それを聞いて、マーズは溜め息を吐く。 「流石にそれは問題ないと思うけど……、まぁ可能性としては考慮してあるし、きちんと皆にルールブックを手渡している。それに関してはルールブックを適宜見てもらうことで納得してもらっているわ」 「それが一番だな」 「あの……一体全体何の話をしているんですか?」  マーズと崇人の会話に割り入ったのはシルヴィアだった。シルヴィアはちょうど二人が座っているシートの真ん中に顔だけを出す形で話しかけていた。  崇人は先程ファーストフード店で購入したミルクティーを飲みながら、言った。 「別に難しい話題をしている訳じゃあない。ただの確認だ。確認しておかないと、何かあったとき困るからな……」  そうですかぁ、とどこか抜けた感じにシルヴィアは言って元の位置に戻った。  今回崇人はコーチという役割で大会に参加する。サポートに関しては別に規約などないため、このようなことが出来るのだ。 「それにしても……今年の会場は思ったより遠いな。誰だよ、近いからすぐ着くよーとか言ったのは」  崇人の溜め息を聞いて、マーズは肩を震わせる。  そう。  そのことを自信満々に言ったのはほかでもないマーズだったのだ。  マーズははっきりとした土地勘を持たない。過去には土地勘があっただろうと思われるが、しかし彼女は長年の任務であまり国に居ないこともあり、土地勘というものをすっかり失ってしまったのだ。  だが、厄介なことにマーズはそれをあまり理解していないし、理解出来ていない。それをそのままにして――言うならば曖昧な土地勘のままで崇人の質問に答えていたというわけだ。 「そういえばそうだったかもしれないわねぇ……」  マーズは自分のミスだと思われたくないからか、そんなことを言って鼻歌を吹く。  崇人はそんなマーズの適当な調子にうんざりしながら、窓から景色を眺め始めた。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  会場に到着したのはそれから三十分程経った時のことだった。  バスから降りて、風景を眺める。ターム湖の畔にあるコロシアムは涼しい風が吹いていた。 「いい景色だなぁ……。なんというか、今日あった嫌なことが凡て吹き消されたみたいな感じだ」 「なんかそれ、私が悪かったみたいな言い種よね? 完全に私が悪いだとかそーいうわけではないよね?」  崇人の言葉にいち早く反応したのはマーズだ。マーズは自分が崇人を疲れさせてしまったのではないか――そう考えていたらしい。  崇人は呟く。 「というかマーズ、最近どうしたんだ? なんかカリカリしている気がするし、気分が悪いなら直ぐに伝えろよな」 「うん……。わたし、そんなに気分悪そうに見える?」 「気分悪そうに見える、というか若干不安定に見えるのはきっとみんなそうだと思う。まぁ、あまり自分だけで考えすぎないほうがいいと思うぞ。大会のことなら尚更だ。ここにいる人間は全員チームなんだぜ?」 「それもそうね……。まぁ、少なくとも今は隠し事なんてまったくしていないからそこまで心配しなくてもいい」  マーズは崇人に笑顔を見せて、そう答えた。それを見た崇人はマーズの肩を叩いて、小さく頷いた。 「……なんというか、あれ絶対できてるよね?」  マーズと崇人の会話を隠れて遠いところから見ていたヴィエンスとリモーナだが、その片割れであるリモーナはそう言った。  対してヴィエンスはクールに、驚くことなどせず、 「まぁ、前々からそういう兆候は見られていたぞ? なんというか、お似合いと言えばお似合いだし、そもそもあいつは入学してからずっとマーズの家に住んでいるんだから、そういう関係に発展してもおかしくないし寧ろ自然だよな」 「それもそうかしらねぇ……」  そう言ってリモーナは溜め息を吐く。  リモーナが彼に対してどういう印象を抱いているのかそんなことは容易に想像出来たが、しかしてそれを口にする彼でも無かった。案外彼は空気が読める人間なのである。 「……中央チームの方々ですね?」  背後からそれを聞いたリモーナとヴィエンスは即座に振り返る。そこに立っていたのは腰を丸めた男性だった。男性はそういう身体だったが、身なりは至って普通であった。執事めいたタキシードを着ていたのだ。  深みのある声は、その声を耳にした者をそちらに意識を集中させる。だからこそ、その声を聞いた二人は即座にその男性の姿を目視することが出来たのであった。 「……中央チームの皆様でございますね? わたくし、今大会での案内役を務めさせていただくグランドと申します。以後お見知り置きを」  そう言ってグランドは深く腰を折った。 「グランドさん、私が中央チームの監督を務めるマーズ・リッペンバーです」  気が付けばリモーナとヴィエンスの間にマーズが立っていた。二人はそれに驚いたのだが、対してマーズはそれに臆することなく、話を続ける。 「今回は会場が変わったということで思ったより時間がかかってしまって……」 「いえいえ。何ら問題ありません。寧ろ早すぎるくらいです。開会式が始まるのはこれから二時間くらい先のこと。そして大体半分くらいのチームが、既に到着済みとなっています。即ちあと半分のチームが到着していない……ということですね」 「それほど到着していないチームがいて……その……成り立つんですか?」 「えぇ、成立しますよ。問題ありません。……それではご案内させていただきます。会場に荷物を運ぶこととなりますが、自分で持ち運びください」  そう言って。  グランドは振り返り、ゆっくりと歩き出した。崇人たちはそれを見て、慌ててバスから荷物を取り出した。  コロシアム内部、その通路にて彼らは歩いていた。コツ、コツ、コツ……と足音だけが空間に響いていた。  ただ崇人たちは歩くだけだった。グランドの指示に、ただ従うだけに過ぎなかったのだ。 「今回の開会式は非常にユニークなものとなっております」  唐突に、グランドは言った。それを聞いて理解出来なかったのは崇人たち全員だ。当然といえば当然かもしれない。突然そんなことを言われて直ぐに反応出来るのは難しい。 「あの……ユニークというのはどのようにユニークなのかしら? 奇抜な感じ……そういう解釈で構わないのかしら?」  マーズの言葉にグランドは何度も頷く。どうやらそれで正しいらしい。  グランドはそのまま歩いている形で話を続ける。 「話をすれば非常に長くなるんですが、かといってこれから始まる大会……その開会式について何も知らないのもどうか。ならば非常に簡単に、かいつまんで話させていただきます。そのユニークな開会式について……」 「グランド、長話している暇があるならさっさと選手を控室に送り届けろ」  声が聞こえた。  振り返るとそこには長身の若い男性が立っていた。がっしりとした体格で、たった一言にまとめるならば筋骨隆々ということだ。  その男性が立てば普通の人間ならば一瞬で脅えてしまうことだろう。だがその老人はそんなのはいつも通りの所作だと言わんばかりに答えた。 「なんだねレイヴン。ただ私は話していただけだ。それも開会式の説明だよ。選手ならば得ておかなくてはならない知識の一つである……そう判断したから、私が話した迄のことだ」  レイヴンと言われた男はそれを聞いて小さく溜息を吐く。長身の男であるレイヴンは、頭を下げた。グランドのやっていることに呆れているのかもしれなかった。 「……なんというか、上司はあなたですから簡単に非難できないのが嫌なところですよね」 「別に私はその地位を自分のために使った覚えなどない。今話していることはただの世間話だ。それくらいしたって何の問題もないし、怒られることもなかろう?」 「まあ、それもそうですが……。それでも、選手はここまで長旅を続けてきたのですよ。少しくらい休ませてあげてもいいのではないでしょうか?」  丁寧に、丁寧にレイヴンは言った。目の前に客人である選手――マーズたちがいるからだろうか。それとも地位の高いグランドにここで漸く敬意を表したからだろうか。どちらかなのは確かだが、それがどちらであるかは解らなかった。 「……解りました。失礼しました、中央チームの皆さん」  そう言ってグランドは深々と頭を下げる。突然の行為にマーズたちは慌ててグランドに頭を上げるよう言った。  だが、グランドは案内人としてこの職業を長年務めている人間だ。そう言われたとしても簡単に頭を上げることなどしない。彼らはそういう仕事を務めているのだから。 「それでは改めてお部屋の方に案内させていただきます。こちらです、どうぞ」 「部屋……ってホテルめいた部屋があるわけじゃなし……」  独り言のようにリモーナは呟いた。  少なくともこの時まで彼女たちは完全に嘗めきっていた。このコロシアムにある施設がいかがなものかということを、見もせずに過小評価していたのだ。  だから、彼女たちの目の前に観光地にあるようなホテルめいた空間が広がった時には、あまりの驚きに何も言えなかった。 「こちらが当コロシアム自慢の宿泊施設となります。経営不振により営業停止となったホテルをホテルごと買い取りまして、こちらに移設した……それがこちらの『ホテル・バルサドーレ』になります」  果たしてグランドの説明を彼女たちはきちんと聞いていたのかどうか、それは正直なところ定かではない。  何故なら彼女たちは目を輝かせていたからだ。予想を遥かに上回る施設に驚いていたのだろう。  ひとつ、グランドが咳払いしたことで漸く彼女たちはグランドに意識を向けた。 「……それではこちらが鍵になります」  グランドはポケットから鍵束を取り出した。そして鍵束からフラジェス――紫色の小さな花だ――のキーホルダーがついていた鍵を見つけ、それを外した。  そしてその鍵を、マーズに手渡した。 「こちらが鍵になります。仮に無くされたとしてもマスターキーが残っているので何ら問題はありません」 「無くされたことについて、即座に言われてもなぁ……」  マーズはそう言いながら鍵を受け取った。鍵は小さく、金色に輝いていた。 「無くしたことについて、最初に言っていますが。それでも出来ることなら無くさない方が得策です。それならば我々も手を煩わせることもありません。ですが、毎年必ず現れるのですよ。そういう人間が」 「なんというかそれは……。何も言えないな……」  普通に笑い飛ばしてもいいような場面だったが、マーズはそのようなことはしなかった。マーズ自身もどこか抜けていて、そういう失敗をやりかねないから――などと思ったのかもしれない。  だからこそ、そのように万が一そのような事態があったとしてもいいように――要するに逃げやすい口実を作ったということであった。 「それでは、どうぞごゆっくり。まだ開会式の開始時刻は明確に決まっていませんが、決まり次第連絡いたします」  そしてマーズたちはグランドと別れた。 「うわー、タカト見てみて! ここのベッドとてもクッション性が高いわよ! まるで高級ホテルね!」 「さっきも言っていたけど、きっと前のホテルからインテリアごと買い取ったんじゃないか? そこそこ手入れのあるものはそれごと……だとか」  マーズたちはそれぞれ用意されていた個室にて、休憩をとっていた。とはいえどちらにしろ先ずは開会式があるため、一先ずマーズの部屋に全員が集合している状態である。  冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターをコップに注いだ崇人は、それを飲み一息吐いた。とはいえ彼もまた違った形で緊張していた。去年は選手として――だったが、今年はコーチだ。選手を補佐する役目についている。それは選手以上に難しい立ち位置だ。  では、コーチはいったい何をするのだろうか? 崇人はそう訊ねられても、一つの答えを導き出せる気がしなかった。  何故ならコーチとはいったものの何をすれば良いのか明確に決まっていないからだ。  コーチという役割がこの世界で定義されていないだとかそういうわけではない。チームの中でコーチという地位の役割が定義されていないということだ。いってもなかなか難しいことだろうが、しかして崇人はそれをどうすればいいか悩んでいた。  かといって他の人に相談するのは、なんとなく恥ずかしいと思っていた彼はコーチの役割を彼なりに解釈した。その結果が監督を補佐し、チーム全体のサポートにあたる――ということだ。 「とりあえずいつ頃開会式が始まるのか。それはきっと電話とかで伝えられるだろうから、寧ろ何の問題もない。問題になっているのはそれではなく、相手の戦力だ。誰も彼も『大会』に出場しているのだから、その実力は折り紙つきだからな」 「折り紙……つき?」  崇人の発言に首を傾げるマーズたち。その反応を見て崇人はしまったと顔を顰めた。  『折り紙つき』の折り紙――とは紙を横半分に折ったものであり、決して崇人の世界にあった折り紙と同義ではない。  それでもマーズたちはその折り紙という言葉を理解していない――或いは知り得ていないらしく、首を傾げているようだった。 「ま、まあはっきり言うと折り紙つきっていうのは品質が保証されているとかそう言う意味で……」 「ああ、成る程!」  マーズが崇人の言葉に助け舟を出す。ここで崇人が異世界人であるということを知っているのはマーズだけだ。だから、自ずと助け舟を出すのは彼女だけとなるのだ。 「……とりあえず、その保証されているってわけですか。そういう人たちがいると」 「そういうことになるね。というかそういう人しかいないだろう。大会は、王の目に止まればその場で起動従士になることができる。だから王に自分の活躍を見てもらいたいがために、必死になるんだ。それがこの大会のもっとも醜く、ドロドロとしているところかもしれないな」  醜いところ、と崇人は言った。それは間違っているようで的を得ているのかもしれない。  大会はシンプルに言えば、若い人間の能力を見るお祭り騒ぎだ。しかし国からすれば突き抜けた能力を持つ若者は直接国が捕まえておく――そのための行事だと言われている。  だが、実際にそれは周知されている。理由は簡単、そのように意識を高めてもらうためだ。意識が高い人間を雇う。例え起動従士のことでないにしても当たり前のことといえるだろう。 「そのように周知されている、イコールそのように選手がしても構わないということを表しているんだ。それの意味することは……誰にだって理解できるはずだ。この大会はオーディションだよ。確かにオーディションという名前はとっていないにしろ、中身は完全にオーディションのそれだ。合格したもん勝ちなんだよ、こういうのは。だから今から君たちに教えるのは合格するための極意……みたいなものかな。そういうのを教える」  開会式に出るためにグランドから再び声をかけられたのは、それから三十分後のことであった。 「それではこれから開会式が始まりますので、メンバーの皆さん私についてきてください」  グランドの言葉にマーズたちは頷く。そしてマーズを先頭にして、彼女たちはその部屋を後にした。  会場の中心には広いホールがあった。屋根は観客席にのみあり、実際に競技が繰り広げられるグラウンド部分は屋根が存在しないものとなっている。  だから、会場に立っている選手たちは炎天下の中長い話を聞くことになるのだ。 「あー、去年はひどかったよなあ……。大会委員長がおなじセリフを六回言ったんだっけか……」 「そんなことがあったわねえ……、って……えっ? そうだっけ。すぐ終わったんじゃなかった?」 「そうだったか? まあ、人間の考えてることなんてすぐ忘れちまうもんだよ」 「うーん……そうかもしれないわね。あっ、開会式が始まるわよ」  マーズの言葉を聞いて、崇人とマーズの会話は少々強引な形をとって終了した。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  さて、一方その頃選手たちは炎天下の中、開会式に参加していた。  今年の大会委員長の挨拶は去年があまりにも短かったことをネタにして、それから二十分以上話し始めた。何でも、去年ほど熱中症になりやすいわけではないから、ということらしい。 「えーっと、そういうわけでスポーツマンシップに則って……」 「スポーツマンシップってもう十回くらい言ってない? なんというか、覚えたての言葉をただひたすら話している子供めいた感じがするけれど」 「それは言わない約束だよシルヴィア……」  シルヴィアとリモーナは隣同士になっているので、彼女たちは声のトーンを少しだけ落とし気味で話をしていた。バレたら大会の委員から怒られそうなものだが、今の彼女たちにはそんなことどうでもよかった。  シルヴィアとリモーナはその委員長の話を聞いているのか、少なくともほかの人間には解らなかった。あくまでも話をしているのがバレないようにしているためであり、周りの人間にもそれが聞こえないようにしているのである。 「しっかしまあ……長い話しだよね。このまま聞いてたら熱中症になっちゃいそう。水分補給とかもないし」 「ほんとそれよね。ただ、去年はあまりの暑さに委員長の挨拶は短くすべきだという意見が多かったらしいよ?」 「そんなの、毎年それでやってほしいよ……」  シルヴィアとリモーナはそう言って笑みを浮かべる。  因みにこんな間でも委員長の話は続いていた。長々と続く話に選手の殆どはもううんざりしていた。 「……であるからして、今年は去年ほど暑くはありませんが湿度が高いとのことですので、熱中症には気をつけてください」 「お前が言うなよ……。この話で十分以上潰れているってのに……」 「まぁまぁ……そう言わずに」  シルヴィアの言葉を聞いて、それを宥めるリモーナ。シルヴィアが放った言葉は他の選手が思っているとはいえ誰も発しなかった言葉だ。何故ならみんなこの暑さにやられてしまっているから、と言っても過言ではない。  リモーナは溜息を吐いて、正面を見た。正面ではまだ委員長が話をしている。もう彼女が覚えている限りでは二十五分近く話している。あまりにも長い。これでは熱中症になるのも頷けてしまう。 「まあ……なんというかシルヴィアがそういうのも頷けるけどね……。あまりにも長すぎるよね。うーん……もうすぐ終わらないかなあ」 「であるからして……! スポーツマンシップに則って行動して欲しい! 特に去年めいたことのないように!」 「あ、やっと終わった」  委員長が頭を下げたのを見て、彼女たちは漸くそれが終わったのを確認した。  時間にして二十七分四十六秒。選手もそうだが、見ている人もとても暑いと思った、そんな挨拶であった。  だが、開会式はこれで終わったわけではない。まだまだ開会式は序盤の序盤である。  委員長の挨拶のあと、大会副委員長からのルール説明、選手代表による選手宣誓、準備体操……それさえ見れば普通の運動会のそれとも言える開会式は、特に何事もなく進行し、全行程を四十五分かけて終了した。 「まさか委員長の話しが三十分近くもあるとはな……」  崇人の言葉に、歩いていたリモーナとシルヴィアは頷く。シルヴィアとリモーナはあの炎天下の中四十五分も立ちっぱなしだったのだ。疲れていて当然だろう。もうぐったりしていた。 「今日はもう休め。確か今日は休養日で、開会式のあとは何の予定もなかったはずだ。選手たちで晩餐会が開かれるのもあるが、それがあっても今はまだ十四時。晩餐会が開かれるまで四時間もある。少しくらい休むことだって出来るだろ」 「マーズさんは?」 「マーズか? あいつなら……たぶん仕事でもやってるんじゃないかな。確か何か仕事があるとか言ってて、それを持ち込まなきゃいけないから大変だとか言っていたし」 「タカトさんはそれをする必要は……?」 「無いってわけじゃないけど、あくまでもあの仕事はマーズに任された仕事だからな。だから、マーズが手を離せないこのタイミングでは僕が指示するしかないってわけだ」 「結構大変ですね。副リーダーってのも」 「雑用めいた仕事だからな。ある意味リーダーより忙しいかもしれんぞ?」  崇人はそう言って笑みを浮かべる。シルヴィアとリモーナはぐったりしていた様子だったが、受け答えがはっきりしているところを見るとそれほどまでに疲れは蓄積していないようだった。それを見て、崇人はほっと一息吐く。  とはいえ、彼女たちは『選手』だ。大事な人材であることには変わりない。彼女たちが大会で戦い、いい成績を収めていくことで学校のためになり、結果として選手個人のためにもなる。素晴らしい成績を収めた選手は起動従士としてヴァリエイブルに仕えることが出来るからだ。  起動従士としての才能がない、俗に言う『一般人』は起動従士を軍の狗だと批判することもあるが、しかし実際にそんな扱いで活動しているわけではない。起動従士は国王の命令に従う必要があるが、それはあくまでも国民を守るためである。 「……すいません、副リーダー。ちょっと用事が出来てしまったので少し離れてもいいですか」  唐突に。  ファルバートは崇人にそう言った。  崇人は踵を返し、ファルバートの方を向く。 「別に構わないが……いったいどこへ?」 「知人がこのあたりに住んでいるんですよ。だからそこへ行こうと思いまして」  はっきり言ってこれは嘘だ。嘘を塗り固めた戯言に過ぎない。  だが、今崇人にそれを判断する手段などない。だからすぐに解ることなどない。  だから。 「ああ、構わないよ」  崇人はそれにゴーサインを出した。選手の体調などを管理するのがリーダーや副リーダーに課せられた仕事として設けられているが、しかしプライベートにまで関与する必要などない。それは誰にだって理解出来ることだった。  だから崇人はそれに素直に頷くことしか出来なかった。これに関して、彼を苛めることなど、到底誰にもできることではない。 「ありがとうございます。それで、十八時までに戻ればいいんですね?」 「ああ。それまでに戻らないとバスが出ちまう。会場まで歩きでいいっていうなら別に十八時じゃなくとも会場の場所を教えるが」 「いいえ、大丈夫です。それじゃ」  そう言ってファルバートは踵を返すと、崇人たちと違う方向へと歩き出した。  ファルバートを見送るようにして、メルが一言。 「なーんか怪しいね」 「怪しい?」 「うん。何か隠し事をしているみたい。それも大きな大きな、隠し事」  メルからそれを聞いた崇人は首を傾げる。  確かにファルバートはつい先日までシルヴィア・メルとリーダーの座を奪っていた、敵に近い存在だった。  そんな彼が僅か数日で和解する。普通ならば考えられないことだとメルは考えていたのだ。  確かにそれは崇人も引っかかっていた。しかし彼としてはそれよりもメンバーが仲良くしている、その現状を見ているだけで何の問題はないと思っていた。だから彼もそこまで疑問に抱くこともなかったのだ。 「だーかーら! あいつはぜったい怪しいんですよ! 特にリーダー決定戦であっさりと負けてから! 何か裏があるようにしか思えませんっ!」  メルが感嘆符つけまくりの文句を崇人にいうのを、崇人は必死で落ち着かせようとする。  崇人としてもそれは疑問と思うことはなかった。  今、メルにそれを言われるまで。  そう考えると崇人は無能な人間のように思えてしまうが、崇人は人を信じて信じて信じ抜く人間だ――と思えば若干彼に対する情状酌量もあるだろう。  溜息を吐いて、崇人は言った。 「先ずは人を信じるのが大事だろ。信じて信じて信じ抜く。それが僕の取り柄みたいなもんだ。まあ、それを逆手に取られて使われるパターンだってあるかもしれないし、前にあったかもしれないが、今そんなことはどうだっていい。ともかく、僕は信じると決めた。君たちが疑っていようともね」  その言葉にメルやシルヴィアは頷くことしかしなかった。別に彼は彼なりの意見を述べただけだったが、彼女たちからすればただの無能としか思えないのであった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃。  ほかのメンバーと別れたファルバートは一人コロシアムの近くにある街をぶらついていた。町はまだ昼間だというのに酔っ払いがちらほら見受けられた。  そもそもこの町は酒場が発展している町として国内外で有名である。ビールが名産なため、安く大量にビールが手に入るからかもしれない。ともかく、ビールが美味く、かつ安いということから、この町には酒を飲みにたくさんの人間が朝っぱらから酒場に屯しているのが現状だ。  ファルバートは誘われるようにその場所へと足を踏み入れていた。バー・ローグウェル。場末のバーである。中に入ると寂れた雰囲気が店の中を包み込んでいた。そしてそのカウンターにはその寂れた店に似合う草臥れた格好をした店主がいた。顎鬚を生やし、どちらかといえばファルバートがあまり会うことのないような人種だ。 「ここは子供が来るところじゃねえぜ」  喉を酒に焼かれました、と自分で告白するような嗄れた声で店主は言う。ファルバートに退出を求めたのだ。客がもし居たら、彼の意見に賛同することだろう。  しかし、 「まあ、そう悪いことを言うもんじゃないぜ」  気が付けばそこには一人の男がカウンターにいた。店主はそれに知っていたようだが、まさか彼がそこで助け舟を出すとは思っていなかったのか、目を丸くしていた。 「ちょ、ちょっとあんた……。まさか子供を連れ込むなんて」 「子供を連れ込んだことは悪ぃと思っているよ。だが、ちょっと見逃しちゃあくれないか。俺はこのバーが好きだ。それはこのバーの雰囲気から店主であるあんたさんのことも好きだ。だからここをそういう場所に選んだ。……いろんな『闇』を見てきたあんたなら、その言葉の意味は充分と理解できるだろう?」  それを聞いて店主は頷く。 「あ、ああ。……そいつは有難いね。嬉しいことだよ。そんなにもここを愛してくれているなんて。人が来ないバーだから、そんなことは嬉しいよ」 「人が来ないからこそ、だろ。だからこういう話だってできる。格好のポイントだよ」 「そ、そうかい。そう言ってもらえると嬉しいよ、ザンギさん」  ザンギという男は店主の言葉を聞いて、笑みを浮かべる。  そして店主はもうそれ以上何も言わなくなった。 「ありがとうございます。えーと……」 「ザンギだ。そのまま、ザンギとでも呼べばいい」 「それは駄目だ。年上にはそれなりの礼儀をする必要がある」  ファルバートが言うと、ザンギは舌打ちする。 「最近のガキはきちんと教育がなっているもんで助かるな。……さて、用件を言おう。俺は先ず『シリーズ』とやらの手下だ。だが俺はシリーズが何だか知らないし知る必要もない。知った瞬間に殺されるような悍ましい気配を感じているからな。俺だって命は惜しい。だから、俺にシリーズのことを聞かれても知らねえ。それだけは承知しておいてくれ」  その言葉を聞いてファルバートは頷く。  ザンギは並々に注がれた酒を一口啜る。 「おい、何か飲むものは欲しくないか。話が長いからな、飲み物でも飲みながら話をしたほうがいいだろうよ」 「それじゃ……というか未成年が飲める飲み物って何があるんです?」 「いろいろありますよ。だいたい言ってくれれば作ります」 「……というか、ザンギさんが飲んでる乗ってコーヒー牛乳じゃないんですか?」  ファルバートの言葉を聞いてザンギは豪快に笑った。 「これを見てそんなこというやつは初めてだぁよ! こいつはなカルーアミルクってんだ。カルーアっちゅうコーヒー・リキュールを牛乳で割ったもんだ。確かに味はコーヒー牛乳めいているが、アルコールが入っているしその度数は決して低くないぜ」 「まあ、コーヒー牛乳なら普通に作れますよ……」  店主の言葉を聞いてファルバートは、それじゃコーヒー牛乳で、とだけ言った。店主は頷くと、無言で踵を返しコーヒー牛乳を作り始める。  コーヒー牛乳が出来るまでそう時間はかからなかった。ブラウンの液体がコップに並々まで満たされている。氷がブラウンの液体の隙間から覗き込んでいたり、ミルクがまだ充分に混ざりきっていないのか白線を描いていたりしている。 「はい、コーヒー牛乳お待ちどうさま」  店主から受け渡されたそれを、ファルバートは眺める。ブラウンのキャンバスに描かれた白線と、アクセントと化している氷がとても芸術的だった。飲む前に楽しめるコーヒー牛乳があるのか、彼は知らなかったし、ここで初めて見ることになった。 「それじゃ、俺はもう飲んで半分くらい減っているが」  そう前置きして、ザンギはグラスを持ち上げる。  その行動を見て凡てを察したファルバートはグラスを持ち上げ、そしてお互いのグラスを軽くぶつけた。  そして二人は一気に一口飲んだ。  ファルバートはコーヒー牛乳を喉に流し込んで、一息吐いた。 「外は暑かったからな。とても冷たくて、身に沁みる感じが解るだろう?」  それを聞いてファルバートは頷く。  ザンギも一口飲んで、カルーアミルクの入ったグラスをカウンターに置いた。 「さて……それじゃ本題と行こうか。とはいっても、それほど重要なことでもないんだがな」  そう言ってザンギはポケットから紙を取り出した。 「それは?」 「さあな。俺も解らねえ。見るな、と帽子屋、だっけ? あいつに言われているもんだからな。そいつがいうにはお前が見れば凡て解るとか言ってた。じゃ、そういうことで」  そう言ってザンギは立って、お金をカウンターに置いていった。 「これは俺の分、そしてこの坊主の分だ」  それを受け取って店主はザンギに頭を下げる。  ザンギを見送り、店には店主とファルバートの二人だけになった。  店主はグラスをずっと拭いているだけだ。  ファルバートは大きく深呼吸する。これを開けると、何か自分が戻れなくなるようなそんな気がした。 「どうしたの。さっさと開ければいいじゃない」  気が付けばファルバートのとなりにはあの精霊が座っていた。ちょこんと座って、気が付けばファルバートの飲んでいたコーヒー牛乳に口をつけていた。 「お、おい」 「いいでしょ別に一口くらい。どうせおごりなのはかわりないんだし」 「そ、そうだけど……」 「そんなことより。開けてみれば? きっと重要なことが書いてあるに違いないわよ」 「何で解るんだ」 「精霊だから?」  精霊の適当な言葉を聞いて、ファルバートは決意した。  そして、折りたたまれた紙をゆっくりと広げていく。  広げきると、そこには文章が書かれていた。  ――明日午後六時、コロシアム地下倉庫にて待つ。 「ほらほら。なんて書いてあったの? ……うーん、果たし状? デートの約束にしては仰々しいものね」  精霊の少女はぺらぺらと話すが、ファルバートの思考は追いつかなかった。  ところ変わって、コロシアム近くのホール。  午後六時を過ぎて、人々が続々と集まってきていた。人々は皆ドレスやスーツを身につけている。慣れない格好だからかその足取りや動きなどははっきりいって覚束無いものばかりであるが。 「……すっごい人だかりだなあ……。これが大会の晩餐会か……」  ホールにやってきた崇人は、大勢の人間を見ながら、そう言った。 「タカトさんが選手の頃は無かったんですか?」  疑問に思ったメルが、崇人に訊ねる。  崇人は踵を返し、メルの方を向いた。 「僕が選手の頃はそもそも場所が違ったからね。そういう仰々しいものはなかったよ。ただゲストにちょっちえらい人は居た気がするけれど……」 「ペイパス王国の王族、ハリーニャ・エンクロイダーだろう。平和主義者として狙われることも多かった彼女が起動従士を育成する学校同士で争う大会にやってきたのは甚だ疑問だったが」  メルと崇人の会話に割り込んできたのはファルバートだった。  崇人はそうそうそれだと言って、さらに付け足す。 「……ということは、ファルバート。君も去年のを見ていたのか?」 「当たり前だ。毎年大会は会場までやってきて見学している。どのような選手がいるかどのような身のこなしかどのような戦闘能力か、毎年毎年違う選手だからな。確認しておかないと気がすまない」 「なるほどね……。まあ、そういうもんだろうな。それもいいだろうし、それが一番だろう」  崇人はそう言ってあたりを見渡す。あたりには選手ばかりでリーダー格の人間はあまり居ないようだった。  崇人は知る由もないが、ここに居る人間の大半は選手が占めており、リーダーなどといった役割の人間はここに来ていなかった。 「なんかあれだな……」  崇人は頭を掻いた。 「僕はあまり出番が無さそうだ」  そう言って踵を返すと、一路出口へと向かおうとした――その時だった。 「タカトさん、タカト・オーノさんではありませんか……?!」  声をかけられて、崇人はそちらを振り向いた。  そこに立っていたのは、青い髪の少年だった。群青色の目は真っ直ぐに崇人の姿を捉えていた。 「……君は?」 「ボクはレオン・グラジュエイトといいます! 東ヴァリエイブル所属の一年です!」  ぴしっと右手を額の前にもっていき、敬礼をした。しかしながら、彼は自分で東ヴァリエイブルの所属であるといった。対して崇人は中央の所属だから、まったくといっていいほど接点がない。だから敬礼をされても全然意味が理解出来ていなかったのだ。 「えーと……どこかで会った事があるかな?」 「去年の大会を拝見していました。素晴らしいリリーファーさばきに、惚れ惚れしたのを未だに忘れられません」 「去年の……観覧していた、ということか」  その言葉にレオンは頷く。  レオンはまっすぐな目で彼を見つめていた。まだ起動従士の『闇』を知らない人間だ。純粋な、無垢な考えで起動従士になりたいと思っている人間だ。  やろうと思えばそんな人間に引導を渡すことくらい容易にできるだろう。  だが、崇人は悩んでいた。簡単に、一人の人間の将来を握ってしまっても問題ないのだろうか、ということに。  レオンはにっこりとした笑顔で、崇人に訊ねる。 「タカトさん、どうしましたか?」  崇人はそれを聞いて我に返った。 「い、いいや……。なんでもない……。そうか、去年のあの大会を見ていたのか……。テレビでか? それとも会場で?」 「会場でです」 「ということは、赤い翼の……」 「ええ」  レオンの表情が次第に暗くなる。 「赤い翼が占拠したとき。タカトさんがインフィニティを呼んだとき。凡て目の前でみました」 「……そうか」 「でも、とてもかっこよかったです!」  レオンは顔をあげて、キラキラとした目で崇人を見つめる。 「とても、とても、とってもよかったです! だから僕はタカトさんみたいな凄腕の起動従士になりたくて、この学校に……!」 「そうか」  崇人はそう言うと、レオンの頭を撫でた。レオンは今まで会いたかった『憧れ』の存在が触ってくれている、今この状態に恍惚とした表情を浮かべていた。  崇人は優しげな表情を浮かべて、 「頑張れよ。この大会で実力を示せば、誰だって起動従士になれる。言葉なんていらない。拳、実力だけで決めるんだ。頑張ってここまで這い上がって来い」  それを聞いてレオンは何度も何度も頷く。 「はい、頑張ります!!」  そしてレオンは一礼すると、自分の陣営がいる場所へと駆け出していった。  それを見送って、崇人はぽつり呟いた。 「……平和だなあ……」 「平和というかなんというか。明日からは皆敵……いいや、今からもう敵になっていると言っても過言ではないですよ。だからこの晩餐会は表向きは他校との交流会かもしれませんが、実際は敵の素性を知るための大事なことです」  言ったのはシルヴィアだった。  彼女が言葉を告げた、その時だった。 『皆さん、長らくお待たせしました』  会場が暗転し、ホールの奥にある舞台から声が聞こえた。  そこに立っていたのはフォーマルスーツに身を包んだ男だった。白い顎髭を生やした男だったが、所作には丁寧なところがみられることから、名家の執事といったほうがいいかもしれない。ともかく、そんな感じの人間が司会よろしく舞台に立って会場に来ている人間の注目を集めていた。  執事めいた男の話は続く。 「それではこれから、全国起動従士選抜選考大会の晩餐会を行います。先ずは今大会実行委員長からご挨拶があります」  また長い話を聞かされるのか……選手たちはそう思って途端に表情を歪ませる。  そんな時だった。執事めいた男の隣に、同じくスーツを着た男がやってきたのは。その男は執事めいた男に耳打ちしていった。 「……えっ、大会委員長が体調不良により欠席?」  執事めいた男は恐らく隣にいた男から言われた言葉を反芻したのだろう。しかし近くにマイクを置いていたためか、その声はまるまる会場全体に届いてしまった。  それを聞いてほっと溜息を心の中で吐いた選手はどれくらいいただろうか。きっと過半数は居たに違いない。  溜息を吐いて、執事めいた男は司会業を続ける。 「……えーと、なんというか、大会委員長が居ないということで、なんとも残念な始まりですが……是非皆さん最後までお楽しみください! 以上です!」  そして、強引に晩餐会の幕は開かれた。  晩餐会には豪華な食事がテーブルに並べられた。立食スタイルの晩餐会は会話も程々に盛り上がっていった。 「シルヴィアさんですよね?」  シルヴィアは食事をしていた。話すのが面倒臭いからだ。いろんな人と交流するのが嫌だったからだ。父親はそれを拒んだが彼女は彼女なりの考えで生きている。  そんな彼女が、誰かに声をかけられた。  ここで無視しても良かったのだがそうすると学校全体が悪いイメージを被ってしまうため、彼女は仕方なくそれに従った。 「なんでしょう?」  そこに立っていたのはシルヴィアよりも背の高い男だった。ぴしっといい立ち方をしていて、学生というよりも軍人といったほうが合っているかもしれない――それくらいに、真っ直ぐな男がそこには立っていた。 「……あなたは?」 「私はアズドラ・レイブンクローという者です。北ヴァリエイブルに所属する、一端の学生でございます」  そう言ってアズドラは頭を下げた。  不気味な奴だ、とシルヴィアは思った。食えない奴といった方が雰囲気的には近いのかもしれないが、しかし人を第一印象だけで評価しきってしまうのもあまり良いことではない。  とにかく今は『普通』で居るべきだ、そう思った彼女はアズドラに従うように愛想笑いを振り撒いて頭を下げる。 「まさかここであなたにお会いできるとは思いませんでした」 「はて……? 何処かでお会いしたことがありましたっけ?」  あくまでも精神を逆撫でしないように、丁寧に丁寧に訊ねる。こういう相手を知らない人間との会話も厄介だが、精神を逆撫でして変なところで軋轢を生んでも困る。だから彼女は普通に会話することにした。相手の気持ちを必要以上に考えて話すのはあまりにも疲れてしまうが、この際はっきり言って致し方無かった。 「やだなぁ。覚えていませんか? ……あ、でも覚えていないかもしれないですね……。だってあなたと私が出会ったのはちょうど三年前の大会でしたから」  三年前。アズドラは今そう言った。となると彼女もアズドラも起動従士訓練学校には入っていない、まだ普通の子供の頃の話だ。  そんな頃の話を持ち出されたって、彼女にとっても困る話だった。その頃の彼女はただの凡庸な人間だったからだ。凡庸で平凡で無味乾燥な人生を送る、ただの少女だった。|例外(イレギュラー)として彼女の父親が『伝説の起動従士』だったということくらいだ。  だからリリーファーを見る機会は、恐らくは一般の人間よりかは多かった。彼は彼女にも起動従士にさせてあげようと思っていたのか、或いは職業選択の一つとしてそれの知識を与えるためだったのかは知らないが、彼女は小さい頃から毎年のように大会を見学していた。  その時のとある一回で、アズドラと彼女は出会った。……のかもしれないが、とうの本人はそんなことを覚えてなどいなかった。アズドラの妄言としか受け取っていなかったのだ。  アズドラの話は続く。 「私が三年前に初めてあなたにお会いし、話をしたときとまったく変わらず……いや! それよりもさらに遥かに進化を、磨きがかかっておられる! それは素晴らしいことです!」  そう迫ってくるが、やはりシルヴィアはアズドラのことを思い出せない。  だからといって、すいませんあなたのことがまったく解りませんなどと言おうものなら、何が起きるか解らない。このまま学校同士で大きな争い事に発展してしまうかもしれない。 出来ることならそれは避けるべきであるし、避けなくてはならない。 「……ふーん、そっか……。でも、私はあんまり覚えていないのよね。ごめんなさい」  そう言ってシルヴィアは頭を下げる。  アズドラはそれを聞いて雷に打たれたような衝撃を受けた。だが、それでも彼はへこたれなかった。 「そうだとしても! 私は諦めません! あなたへの愛を再び語るのみ!!」 「あーはいはい。煩いねえ」  その時だった。  アズドラの蟀谷にグーがめりめりと入ってくる。とても痛い。見ているだけで痛い。  後ろに立っていたのは薄黄色の髪を生やした女性だった。透き通った目、整った目鼻立ちはもはや『美形』のカテゴリから外れている雰囲気を醸し出している。  そして――一番彼女をそのカテゴリから外れていると確信したのは、尖った耳だ。彼女の両耳は鋭く尖っていたのだ。 「……私はリレイス・ベーポンレイグといいます。あなたの思っているとおり、私は半妖……ハーフエルフです。驚きましたか? ですが、北ヴァリエイブルはこういう私みたいな存在も入ることが出来るのですよ」 「そうですか……」  別にシルヴィアはハーフエルフが起動従士になることは関係なかった。彼女自身、力でねじ伏せれば別に人だろうが人じゃなかろうがどうでもよかった。実力主義の彼女にとって、そんなことは考える価値も無かったのだ。 「……まあ、何事もないようでよかった。こいつ、昔からこーいう感じでして」 「ああ……わかります。うるさいですよね」  はっきり言ってしまった。言葉のノリで言ってしまったが、もう言葉を取り消そうとしたって無駄だ。  しかしリレイスはそれを気にしない素振りを見せ、 「ほんとうにすいません。うちの者が迷惑をかけてしまって……」  と頭を下げた。ちなみにアズドラも半ば強引に頭を下げさせられた。彼自身の意志ではなく、リレイスによる強制であったが。  それを見て、シルヴィアは逃げるようにその場を去った。騒がれたくないから。注目されたくないから。  逃げて逃げて逃げる。出来ることならこの会場からも逃げたかったが、そうはいかなかった。そうしてしまえばやはり注目される。  そもそも起動従士訓練学校の代表としてこういうところに出てくる時点で注目は避けられない。だが、ここは彼女の目標の一つであった場所だ。そこを目指すための最低限の注目だけ受けて、あとは避ける。そういう生活を彼女はずっと行ってきていた。  ベランダにて彼女は一人飲み物を飲んでいた。もちろん未成年だから酒の類は飲むことなんて出来ない。オレンジジュースだ。  オレンジジュースを飲みながら月を見る――普通に考えれば大人の真似事に見えるかもしれないが、彼女はそんなことをしてでも今の雰囲気をどうにか変えたかったのだ。 「シルヴィア」  声を聞いて、彼女は振り返る。  そこに立っていたのはメル――シルヴィアの妹だった。  メルはシルヴィアが飲んでいるのと同じオレンジジュースを持って、彼女の隣に立った。 「メル、あなた……晩餐会は?」 「面倒臭いから抜けてきちゃった。だって話をするたびにああだこうだ煩いんだもの。人によっては突然求婚する人だっていたのよ。ま、もちろん断ったけど」 「やっぱりあーいうのはどこでもいるのね……」  メルは小さく溜息を吐いて、オレンジジュースを啜った。普通こういう場所ならマナーの一つや二つが問われるところだが、今は彼女たち二人しかいないのだからそんなことどうでもよかった。 「あ、シルヴィア。星が綺麗よ」 「星?」  メルの言葉を聞いて、シルヴィアは空を見上げた。  そこには、先程まで暗くて何も見えなかった空に星々が輝いている姿が広がっていた。 「うわあ…………綺麗……」  満天の星空。  そう形容するにふさわしい星空だった。  中にいる数多の選手たちは談話に夢中になっていてそんなこと知らないし眼中にない。即ち、この星空を見ているのは彼女たちだけなのだ。  まるでこの星空を支配したような――そんな優越感を得た気分だった。 「……すごい……!」  シルヴィアは言った。 「ねえ、メル」  メルはシルヴィアに言った。  それを聞いてシルヴィアはメルの方に顔を向けた。 「絶対に、大会勝ちましょうね」  その言葉は、『勝利』という意味も含んでいるし、『優勝』という意味も含んでいた。  去年の大会は赤い翼の乱入という結果から優勝が暫定的に決まってしまった。そのため、今年の優勝は必ずしてやろうというのは各校同じだった。  メルはそんな強豪たちに勝利宣言をしたに等しい。しかし、その『強豪』はその宣言を聞いていないのだが。 「……そうね。絶対に勝ちましょう。そして、私は起動従士に、あなたはメカニック。絶対に二人で夢、叶えてやりましょう!」  シルヴィアは言って、メルにグラスを近づける。  それが何の意味かを理解したメルもグラスを近づけて――そして二人のグラスを小さくぶつけた。  かちん、という小さな音がした小さな乾杯だったが、彼女たちにとってもっとも有意義のある乾杯だったといえるだろう。  そして、晩餐会の楽しかった夜は暮れ――大会の一回戦が始まる。 3  次の日。  全国起動従士選抜選考大会は、第一回戦を迎えた。  一回戦……とはいうものの、実際には大会システムが変更されたことにより、トーナメント形式ではない。 「一回戦の競技は……キュービック・ガンナーだな。この前言ったとおりのルールだ。解っているな?」  崇人の言葉に、メンバーは頷く。  彼らに聞かずとも、もうルールは頭に入っているのだ。だから、何を言わずともよかった。 「よし……それじゃ、頑張ってこい。これから始まるのはお前たちが主役の戦いだ。何が起こるかは解らない。だが、対処するのはお前たち自身だ。しかしそれはあくまでも大会の範疇におけることに関して、だがな。それ以外に関しては俺やマーズがいる。いいか? 全力で勝ってこい!!」  その言葉にメンバー全員、大きく頷いた。 「何というか、変わったね。彼女たち」 「おっ、マーズ。体調は大丈夫なのか? お前があれほど体調が悪いって言うから代わりに担当しているんだぞ。だったら、マーズが復活したということを報告しておこうか?」 「いいや、まだちょっと本調子じゃないね……。申し訳ないけど、もう少しだけリーダーの仕事やってもらえる?」  マーズに言われて、崇人は小さく溜息を吐く。 「……まあ、別に大丈夫だが……。ほんとうに大丈夫か? 病院とか行かなくても問題ないか?」 「大丈夫よ。少し休めば多分治るわ」  崇人はそれを聞いて、壁にかけられた時計を見た。 「……昼休憩の時には戻ってくるよ。それまでゆっくり休んでいてくれ」 「ありがと……」  そして崇人は部屋を後にした。  マーズは誰も居なくなった部屋でひとり、考えていた。  自分に突然起きた異変。これはいったいなんだというのか。つい少し前までは健康体だったというのに。 「ほんと……困っちゃうね……。なんでこんなことになっちゃうんだろう」  マーズはそう言って、身体を丸める。今まで自分は特になにも問題がなかったというのに、どうしてこうなったというのか――マーズの頭の中では疑問でいっぱいだったのだ。  でも、それを問える人間など誰ひとりとしていなかった。メリアですら最近は忙しいからという理由でまともに取り合ってくれない。まあ、それに関しては今まで彼女がいろんな差し出がましいことをしたからというおまけつきではあるが。  しかしながら彼女も、何の考えも至っていないというわけではなく、いくつかの仮定を導いていたのだ。  それを確かめるためには――。 「やっぱり検査が必要……なのかもね」  でも今の彼女は動きたくなかった。出来ることならここから動くことをせずに、ただぼうっとしていたかった。  とりあえず、先ずは一眠りしよう。  そう思った彼女は――微睡みの中へと落ちていった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  ところ変わって、会場。  第一回戦であるキュービックガンナーが開始されようとしていた。  昨日まで広がっていたコロシアムのだだっ広い土地の真ん中には、白い立方体が置かれていた。それこそリリーファーがすっぽりと入ってしまうくらい大きなものだ。 「ここに入って競技をするってわけか……。なんというか、今年は初めてだから大変だよなあ……」  崇人は立方体を眺めながら呟く。 「立方体のステージ……ってことは、中身はなにもないがらんどうの状態、ってことですよね。ということは隠れ蓑が全くない状態とも言えますよね」  シルヴィアの言葉に崇人は頷く。  シルヴィアの状態分析は完璧だった。立方体に一度入れば出ることは許されない。出口は封印され、どちらかが勝つまで出ることが出来ないからだ。 「……そう。だからこそ難しい。それでいて高いテクニックを要求される……。それがキュービック・ガンナーの肝だな」  まるで一度やったような物言いだが、崇人は一度もやっていない。要は適当なアドバイスだった。  とはいえそれを言ってもらうのは彼女たちにとってすごいラッキーなことでもある。実際にやったことがないとはいえ、そのようにシミュレーションすることができる。せめて実際に練習することが出来れば……と思うがそれは今思ってもどうしようもない事実である。 「……さて、それじゃほかのチームを見ることにするか。なあ、シルヴィア?」 「そうですね……。そうしましょう」  そして彼女たちはモニターに目を向けた。キュービック・ガンナーはまったく透明でない立方体をバトルフィールドとする。そのため、試合を観戦するためにはカメラを通した映像をモニタで見る必要がある。モニタはコロシアムの中央及び東西南北に設置されており、それぞれのタイムラグは無視できるように配信されている。 「ほー、それにしてもよく考えてるなあ。去年のアナログチックな大会とは大違い!」 「きっと苦情が来たからこうなったんだろうな……」 「おっ、ヴィエンス。おまえいつの間にここに?」 「いつの間に……ってな」  ヴィエンスは一つ大きな欠伸をする。 「……っと、ついさっき起きた。もちろん朝飯は食ってない」 「おまえ意外とずぼらな性格してるのな。いくら『役職』が無いからって暇しすぎだろ」 「そうか? ま、そのおかげで俺は今年も大会を見ることができるわけだ。騎士道部サマサマだよ」  ヴィエンスはさておいて、試合を見る崇人。  試合はちょうど北ヴァリエイブルと西ヴァリエイブルの試合が始まっていた。  ヴァリエイブルには五つの起動従士訓練学校がある。しかしそれだけではトーナメントにならないので、毎年『バックアップ』からもチームを出している。今年は六名。ちょうどいい人数を用意しているのは裏を返せばそれ以上用意することが出来ないことを意味していた。 「しかしまあ……おもしろそうな構成だこと」  両者が揃えたリリーファーを見ていくと、それだけで見ていて両者の作戦が見て取れる。北ヴァリエイブルの方はパワータイプのリリーファー、バランスタイプのリリーファー、スピードタイプのリリーファーと揃っているが、対して西ヴァリエイブルは三体ともバランスタイプになる。  パワータイプのリリーファー『ドゥブルヴェ』は黒いカラーリングのリリーファーである。不格好なほど腕が肥大化しているが、そのためにエンジンも強化されている。ただ持てるアイテムが限られているのは事実である。  バランスタイプのリリーファー『アッシュ』はまさしくバランスの取れたリリーファーである。黄と赤の縞模様めいたカラーリングはどちらかといえば軍事用ではない風に見える。理由は単純明快、この大会のために造られたリリーファーだからである。とはいえ、昔からあるリリーファーでオペレーティングシステムだけを更新しただけの代物なので、それほど新しい装備は用意されていない。ただ、パワータイプとスピードタイプに比べれば操縦がしやすいことは確かである。  残るスピードタイプのリリーファー『イクス』は水色のカラーリングをしている。またスピードを最大限出すためになるべく空気抵抗の少ないフォルムとなっている。そのためかバランスタイプに比べてパワーが出ないことが特徴となっているため、瞬発力のみで戦うということが可能な人間――それは即ちトリッキーな人間だともいえるのかもしれない――が操縦することができる。 「これだけを見れば北ヴァリエイブルはスピード・パワー・バランスとリリーファーの種類をうまく取り入れた戦法が出来る……ということだな。そして西ヴァリエイブルはそれしか乗ることが出来ないのか作戦があるのかそれしか乗らないように『教育』されているのか……見事にバランスタイプだけを集めている。これはどうなるか……面白くなりそうなのは確かだな」 『さあ、両者出揃いました!』  実況が聞こえるのは、ちょうどモニターから――ではなく、頭上に聳える専用席からだ。そこは実況専用として設けられた場所となっており、今もラジオ局やテレビ局が実況を全国に流している。  崇人もそれを聞いて、そろそろ大会が始まるのだということを理解した。  ――そして。 『それでは、試合開始ですっ!!』  第一回戦最初の試合、その開始を告げるゴングが鳴り響いた。  キュービック・ガンナー。  立方体のステージで戦う、言うならばガンマン同士の撃ち合いだ。簡単にいえばたったその一言で片付けられてしまうが、しかし、実戦は難しいものである。そう簡単にうまくいくものではない。百聞は一見に如かず……なんて言葉があるくらいだが、それはまさにそのとおりだと思い知らされる。 「さぁ、やってまいりました。キュービック・ガンナー第一試合! 北ヴァリエイブル対西ヴァリエイブルの対決となります!」  それを聞いて、崇人たちから見て一番右端に居た、向かい合っている二機が一歩前に出る。  北ヴァリエイブルはパワータイプのドゥブルヴェ、西ヴァリエイブルはバランスタイプのアッシュだ。それぞれが前に出た途端、一層凄みが増した。まるでお互いが睨みあっているようにも見えた。  リリーファーに表情を変えることなど、出来ないというのに。 「それではルールを再確認しておきます。……とは言っても非常に単純でベーシックなルールです。持てる武器はライフル類のみ、それだけで戦っていただきます。それ以外はほぼ互角の戦いと言ってもいいでしょう! しかしながら、そんなシンプルなルールだからこそ、多彩な戦闘が行うことが出来ます。ルールが少ないということは、転じて縛られるものが少ないということになりますからね。そして、その後は一対一タイマンです!! 肩と頭に付けられた風船が凡て割られたら負けとなり、勝者は最終的に残った風船の数に応じてポイントが配分されることとなります。一見難しそうですが……まぁ百聞は一見に如かずとも言いますから、実際にやってみましょう!」  後半の解説があまりにも適当めいていた解説の女性の話は程々に聞いておくとして、崇人は改めてルールの精査に入った。  崇人が事前に聞いていたルールと今発表されたそれは若干ながら差異があった。その一番の例と言えば、『勝者へのポイント配分』だろう。  崇人が事前に聞いていたルールではそれについて詳細には記されていなかった。だから、勝者については一律にポイントが付与される――そう思っていたのだ。  だが、違った。  即ち、同じ『勝ち』でも風船一個での勝者と風船三個での勝者では後者の方がポイントは高く付与される。  そのルールによって、自動的に選手には『何があっても自分の風船を減らしてはならない』という制約が課せられることとなるのだ。 「これはあまりにも厄介だな……」  崇人はそう呟いて、小さく舌打ちした。これが急遽なのか予定調和なのかは彼が解ることではないが、だとしても酷かった。  どのチームも殆どはそう思っているに違いない。そして――一番辛いのは紛れもなく今から戦わされる二人、だ。二人は今、正式なルールを理解した。だから作戦もそのように組み立て直さねばならない(だけなら未だ何とかなるかもしれないが可能性によってはゼロから作り直すことだって考えられる。その場合は……最低最悪の状況とも言えるだろう)。 「……おっと、前置きが長くなってしまいました。失敬失敬。それでは第一試合、開始です!!」  声と同時に右手を上げる。  そして会場は再び喚声に包まれた。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃。  ある暗闇にて。 「……大会の試合が、どうやら正式に始まったようだな」  暗闇、とはいったがそこに光源が無いわけではなかった。唯一そこにあった光源はテレビだった。テレビの音量は耳を澄ませば漸く聞こえるであろうくらいのボリュームに調整されており、そして画面には大会の様子が映し出されていた。 「一年前……我らの『同志』が行動を失敗した。諸君、それはいったい何が原因だろうか?」 「それは勿論、インフィニティでしょう。彼は……あれを利用しようと考えた。あれは普通の人間に使えるわけがないことは、我らの中でも通説になっていた。だから、彼の意見に反対する声も、勿論多かった。だから私はあそこを……『赤い翼』を離れた」 「それは確かに解ります。インフィニティは伝説級の代物だ。そしてそれを操ることが出来るのも……ただ一人しかいない、最強のリリーファー。故に皆その存在を欲する。解る、解るぞその気持ちは……」 「でも実際にそれをやろうとして失敗したのが赤い翼だった……。そうでしょう?」  ニヤリと笑みを浮かべた男の顔が、テレビから発せられる光に照らされる。  その顔は――。 「ケイス、その通りだ。お前も知っている通り、赤い翼はそれによって瓦解した。一部の残った人間は残党として新たな赤い翼となり再興を誓ったが……、まぁ、そう簡単に行くなら今までの苦労など考えられないわけだがな」  ケイスと呼ばれた人間はこの組織の中でも一目置かれた存在になっているようだった。  ケイスと呼ばれた男は頷く。 「さて……それじゃこれからどうします? インフィニティを手に入れる訳にはいかない。かといってパイロットを手に入れても呼び出される可能性がある……」 「だったら、簡単だ」  ボスと思われる男は笑みを浮かべる。 「そいつを殺してしまえばいい。起動従士とはいえ、そいつはただの人間だ。殺すのは簡単だよ。噂によれば武術の経験もない、素人だって話じゃないか。だったら簡単だ。簡単に殺すことが出来る。現に一年前のティパモール内乱では銃撃で殺すことに『一度は』成功したのだからな」  そう。  崇人――インフィニティの起動従士は一度こそ死亡した。しかしながら、なぜか復活している。どういうメカニズムでそうなったのかは今や誰にも解らない。  だからこそ、メンバーの多くは疑問に思っていた。  一度死んでしまった男を、もう一度殺すことは出来るのだろうか? ということに。 「……確かにメンバーの中にも、あの起動従士をほんとうに殺すことが出来るのか? ということについて疑問を抱いている人間が多いかもしれない。私もはっきり言って半信半疑だ。ほんとうに出来るのだろうか? 倒すことが出来るのだろうか? そう思っているよ」  一息。 「だがやらねばならないんだよ。我らの野望……ティパモールの真の再興を果たすためには」  それはそのとおりだった。彼らの目的はずっと虐げられ続けているティパモールを復興させること。そして、ヴァリエイブルから独立すること――であった。  しかしながら、そんなことが簡単に行くわけもない。下手すれば一年前の二の舞になってしまう。だからこそ、今回は入念に作戦を練り上げた。 「さあ……諸君、とうとうこの時はやってきた。出撃の時だ。作戦は前回話し上げたとおり。諸君……健闘を祈る」  そしてその人間たちは、闇から完全に姿を消した。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃。  大会では第一試合の決着が早くもつこうとしていた。最終戦の相手はスピードタイプのイクスとバランスタイプのアッシュ。イクスに乗るのは北ヴァリエイブルのレックス・ハフリギー、アッシュに乗り込むは西ヴァリエイブルのリザ・カノーセルであった。両者の戦闘技術はほぼ互角と言っていい。それでいて風船は両者ひとつも欠けていない状況であった。  二戦終えた現状、北ヴァリエイブルが二つ勝利を手に入れているため、リザはどうしてもこの試合で勝っておきたかった。でないと、ますます今後西ヴァリエイブルが不利になってしまうからだ。  対してレックスは冷静だ。既に二本勝利を手に入れているからかもしれないが、焦りなど見られない。それが一番戦闘中ではいいテンションなのかもしれないが、かといって油断は禁物だ。  目指すのは完全勝利。レックスはそう考えていた。前の二人がいずれも勝利しているのだから、ならばここでレックスも続いて存在感を見せつけるべきだ、と考えていた。  この大会で優勝するのも確かに重要なことであるが、それ以上に王様に才能を見出してもらい、起動従士になる――。それも彼らにとって重要なことであったのだ。 「だからね……負けてもらうよ。これは僕のためでもあり、北ヴァリエイブルの威光のためでもあるんだ」  イクスはライフルを構える。  対してアッシュはまだ逃げるのみだ。どうするか考えるための時間稼ぎとも言えるだろうが、観客からの反応は冷たい。 「おらー、もっとドンパチやれえい!」 「そうだそうだー! リリーファーってもんはドンパチしてナンボだろー!」  観客からの声が立方体ステージ内部にいるアッシュとイクスに聞こえるかどうかは解らない。だが、アッシュのコックピットで考え事をしているリザには何となくその反応が聞こえてくるようだった。実際に聞こえてくるわけでは、まったくもって無いのだが。 「お互いに疲弊しているのは確か……」  リザはコックピットに常備されている時計を見て、言った。もうこの試合が始まって五分以上経過している。通常、学生がリリーファーを動かす時間は二分、多くて十分であると言われており(主に肉体面での理由による)、それを考えるとあと五分程しか時間がない。  ならば、引き分けに持ち込むか? 彼女は考えたがすぐに首を振った。十分しか長くても駆動を許されない学生のため、十分経過すると自動的に引き分けとなる。だから戦闘技術に自身のない学生はそうするのもひとつの作戦とも言えるのだ。  だが、それをしても結果は一緒だ。即ち、このまま引き分けに持ち込めば両者四十ポイントが課せられる。それでも差は縮まらないに等しい。だったら風船を凡て割ってしまって、せめて差を少しでも縮めた方がましである。  考えていくあいだにも、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。決断するにはあまりにも短すぎる時間だが、戦場ではそうも言っていられないし、こんな考える猶予ですら与えられないだろう。  リザは決断した。 「……こうなったら、やるしかない!!」  イクスから放たれた弾丸が、アッシュを掠めたのは、ちょうどその時だった。 「くそっ、外した!!」  アッシュのコックピット内部にいるレックスはそれを見て舌打ちした。  彼は焦っていた。なぜか? それは『時間』が関係している。五分が経過してもまだ戦闘に進展が見られないこと、これを彼は焦っていたのだ。どうにかせねばならないと思っていたのだ。 「だが……どうする?」  かといって効果的な作戦が考えついたわけでもない。引き分けに持ち込むなど言語道断。出来ることなら、勝利に持ち込みたかった。たとえ、自分の風船が一個しか残っていなかったとしても。 「となると……さらに別の方法で考える必要があるな」  レックスはそう言って考える。最初の五分間で何も進展が無かったというのに、残り五分で相手の風船を凡て割らなくてはならない。武器はライフルただ|一挺(いっちょう)のみだ。  作戦は完全に限られている。ライフルと、リリーファー自身が使うことの出来るという、その極限的な状況だ。 「さて……どうするべきか」  レックスはコックピットで考える。とはいえ考えているあいだも立ち止まるわけにはいかない。相手から繰り広げられる戦術をどうにか避けながら、作戦を練っていくのだ。  しかしながら、そうとはいっても簡単にその作戦が考えつくかといえばそうではない。  作戦を考えることがすぐに出来るほど、学生は有能ばかりではない。やはりここは起動従士との差が出てしまう。 「考えた」  それでも、レックスはある作戦を考えついた。それをどうやってやるか、楽しみで仕方なかったのか、レックスはニヤリと笑みを浮かべた。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「……きっとあちらさんも作戦を考えついている頃でしょうね」  リザはそう言って溜息を吐く。彼女もまた、対戦相手であるレックスがどういう作戦を立てているのかは解らないが、それでもどういうふうになっているかは手に取るように理解できた。別に彼女にそういうのを見ることができる能力があるわけではない。単なる偶然だと言えるが、しかしそれを偶然としないのが戦闘だ。運すらも実力のうち……と言える。  リザはリリーファーコントローラを握って、行動を開始する。  目的はただ一つ。レックスの乗るリリーファーを殲滅すること。もちろん、殲滅というのは文字通りのことではない。ここでいうところの、風船を凡て割ることだ。しかしながら、もう五分は経過しているというのにまだ全くといっていいほど進展していないのに、簡単に割ることが出来るのだろうか? 三つを凡て割るとしても一分半かからずに一つ割る計算になる。はっきり言って、難しい。  外側で見ていた崇人たちを含む観客にとって、膠着状態は如何せんつまらないものであった。 「何だかなあ……。向こうにとっては大変なのだろうが、見ている側からすれば苦痛ではあるな」  崇人はそう言うが、実際去年のことを思い出すと彼にとっても頭が痛かった。あの時は必死だった。あの頃は彼も未だリリーファーの操縦になれていなかった。だから、リリーファーを精一杯動かすだけで、何も考えることができなかった。 「それを考えると、選手と観客の思考はまったく違う、ってことだな……。そして俺も一年経って、それに染まっている……と」 「タカト、何か言ったか?」  ヴィエンスが訊ねる。 「ああ、いや……。ちょっと考え事をしていただけだよ。何でもないさ」 「そうか。なら問題ないが……、なんか思い詰めたような感じだったからな。マーズが居ないから、その分が凡てお前に降りかかっている、ということだろう? だったらきっと大変だろうと思った次第だ。まぁ、何の役職にも就いちゃいないヒラ部員があまり口出しする事でもないかもしれないが」  それを聞いて崇人は自分の顔を見ようとした。しかし手鏡なんてものを常備しているわけもなく、それを見ることは叶わない。  だが、他人にそう言われるのだからきっとそうなのだろう。崇人はそう思った。 「すまない、ヴィエンス。ちょっとだけ席を外してもいいか?」 「あ、ああ。別に構わないが……。指揮とかは問題ないのか?」 「去年だって特に作戦は考えなかっただろ。……じゃなくて、まあ、そんな時間はかからないつもりだよ。直ぐ戻ってくる」 「そうか」  そう言って、崇人はその場を離れた。  その様子をどこか遠くで見ていた男は小さく舌打ちして、トランシーバーを手にとった。 「こちらアンクル。ターゲットがコロシアムの観客席から出て行った。あいつ、まさか監視に気がついたか!?」 『慌てるでない、アンクル。偶然だろう。あくまでもターゲットはリリーファーの操縦技術に秀でてはいるが、非戦闘員並みの戦闘能力であることは把握している。だから、そんなことは有り得ない。安心して監視を続けろ』 「と言ったって……ターゲットはコロシアムの内部に入っちまったぞ?」 『ばかやろう。何のために二人用意していると思っている。オリバーを中に入れさせろ。あいつなら隠密にコトを済ませてくれるだろうよ』  その頃。  崇人はコロシアムの中をひとり歩いていた。理由は先程から感じていた違和感――これの正体を突き止めるためだった。しかし、そう簡単に違和感を突き止めることなど、果たして出来るのだろうか?  歩きながら崇人は考える。試合中にもなれば通路を歩く人間は疎らだ。だから、人にぶつかることなんてない――。 「おっと、お兄さん。ちょっと立ち止まってもらえるかなあ?」  それを聞いて崇人は瞬時に立ち止まった。なぜなら彼の背中には冷たい感触があったからだ。  崇人はこれを一度感じたことがある。これは……拳銃だ。 「何の用だ。それに俺は『お兄さん』と呼ばれるような年齢でもないぜ?」 「いやいや……。何言ってるんだい、あんたそんな身体しておいてもう三十歳超えているんだろう?」  それを聞いて崇人の表情が強ばった。何故それを知っているのか――と崇人の頭の中はそれでいっぱいになった。  そして、まるでそれを読み取っているかのように、背後にいる男と思われる声は言う。 「不安だねえ? なんで自分の本当の年齢が解るのか、って疑問に思っているんだろう? だろうねえ、そうだろうねえ。確かに、僕も同じ立場だったらそう思うに決まっているよ。それに君はほんとうにインフィニティに乗りたがって、いるのかなあ?」 (こいつ……完全に俺の素性を調べ尽くしている……! となると、テロ組織が妥当か? ならば、こっからどう逃げれば) 「おっとぉ。こっから逃げてもらっちゃこまるんですよ。逃げたらここが|木端微塵(こっぱみじん)ですよ?」  そう言って男は崇人にあるものを見せつける。それはボタンだった。ボタンは赤いもので、しかし蓋がしてある。恐らく誤射防止のためだろう。 「これを押すとですねえ、このコロシアムに仕掛けられた爆弾がどかーん! と爆発しちまいますよお。どうですか、それでも抵抗しようと思いますう?」  嫌に間延びした声で、訊ねる。その間延びした声が崇人はいやだったが、それを言っても意味はない。寧ろ今の状況が悪化する可能性すら浮上する。  しかし今の彼には、その言葉に屈服するほかなかった。  さて、大会のキュービック・ガンナー第一試合は未だ続いている。  残り時間三分を切ったところで動いたのはレックスだ。スピードタイプのリリーファー、イクスの名は流石と言ってもいい。その素早さは見るものを迷わせるほどだ。一旦、どこへ行ってしまったのか探してしまうほどの早業でアッシュの背後をとった。  アッシュに乗り込むリザはそれに気がついたが、しかしあまりにも遅かった。  刹那、ライフルから放たれた弾丸が見事三つの風船に命中――破裂し、試合が終了した。  第一試合、北ヴァリエイブルの勝利。 「……というわけだが」  ヴィエンスは大会の試合をまとめたメモを見ながら、横になっているマーズにそう言った。  マーズは笑みを浮かべながら頷く。最初はヴィエンスが来たとき起き上がろうとしたのだが、体調が悪いのならそのままにしておくべきだというヴィエンスの助言から横になったまま話をしているということだ。 「それにしても……ごめんなさいね、ヴィエンス。急にそんなことやってもらっちゃって」 「いいんだよ、俺は暇だからな」 「それにしても……タカトはまだ戻ってきていない?」 「ああ。試合が終わって|中央(おれたち)が呼ばれてもタカトが来る様子は無かった。だから仕方なしではあるが……俺が代理だと嘘を吐いて参加した」 「ほんとにごめんなさい」 「あんたが謝ることじゃない。寧ろ誤って欲しいのはタカトの方だ。ったく、あいつはいったいどこで油売ってやがるんだ?」  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  マーズとヴィエンスがそんな会話をしていた頃。  コロシアム地下にある機械室。  ゴウン、ゴウンと機械が動く音とパイプで埋め尽くされている空間に、ひとつのパイプ椅子が置かれていた。いや、ただのパイプ椅子ではない。後ろで手を縛られている人間、崇人が座っている。  扉が開く音がして、崇人は振り返る。と言っても足も縛られておりパイプ椅子も固定されているため、扉の方まで向くことは出来ないのだが。 「久しぶり……といえばいいかな。タカト・オーノくん」  やってきた男はそう言った。その声色にどこか聞き覚えがある。だが、まだ確証は掴めていなかった。顔が見えないからである。機械室は必要最低限の蛍光灯しか置かれておらず、しかもその蛍光灯も切れかかっているのばかりだ。だから、満足に空間を照らしきれていないのだ。  ゆっくりと男は近づいてくる。そして、次第に顔が明らかになってくる。  そして、その顔が崇人を見下ろす、ちょうどその位置までやってきていた。 「……あんた、確か」  崇人の声には明らかに怒りが篭っていた。当然だろう、崇人の目の前に立っているのは、崇人の姿を見下しているのは、今まで崇人が会ったことのある人間で、崇人たちとともに戦った人間なのだから。  男は笑みを浮かべて、頷く。 「久しぶりだね。私は『新たなる夜明け』のリーダー、ヴァルト・ヘーナブルだ」 「あんた……仕事をするパートナーとか言っていたじゃないか……!!」  崇人は何とかここから抜け出そうとする。しかし虚しくもパイプ椅子を揺らすだけだ。  ヴァルトは煙管を取り出して火を点ける。室内だからすぐに煙が充満する。とはいえ換気設備が設置されているためか、完全に煙が充満することなく外へ排出されていく。 「ああ、そうだ。だから、これから『仕事』をするんだよ。大人の付き合いという名の仕事を……な?」 「騙したのか」 「騙した? 何を言うんだ。騙してなんて一度もしてないぞ。そもそもあの時共闘したのはカーネルに共通の目的があったから。そうだろう? あんたは国の起動従士で俺たちは世間的に見ればテロ集団だ。世間は今のところ、どっちを支持するだろうな? どっちを『正義』とするだろうな? 恐らく百人中百人があんたを正義とみなすだろうし、あんたを支持するだろうよ。だが、共闘も終わり。これからは単なる仕事の付き合いとして、これからよろしく頼むよ。タカト・オーノくん?」 「仕事……ねえ。それじゃあ、これから俺はあんたたちにこき使われるってことかい?」 「こき使う。そうさね、そういう可能性も出てきては来るだろうが、少なくともそういうつもりはない。あくまでも、君がきちんとそれをこなしてくれれば、こちらだってこき使うつもりもない。裏を返せば君がきちんと仕事をこなさないのならば……こちらにも手段というものがある。まあ、楽しみにしていたまえ。これから行われる、楽しい『仕事』をね」  そう言ってヴァルトは。  パチン、と。  指を鳴らした。  その音に呼応するように天井から何かが降りてきた。どうやらこの部屋は相当な改造を施しているらしい。 「これはモニターだ。果たしてどこを映しているのかといえば……」  真っ暗になっているモニターが色を映し出す。  そこに映されていたのは、たくさんの子供だった。  その子供に共通しているのは皆縛られている、ということだろうか。手足を縛られている彼らが自由に動くことは出来ない。それどころか監視されているから、尚更だ。 「おい、そこに映っている子供……どうするつもりだ」 「どうするもなにも。先ずは『見せなくては』いけないからね。君がきちんと仕事をこなさないと、こういうことになるんですよ……ということを」  モニターに映し出されたのは、男だった。男は何かを持っていた。  それが斧だと解ったのは、男が映り始めて直ぐのことだった。男が身動きの取れない子供に向かっている。そしてその男は斧を持っている。さて、そこまで考えれば誰だってこの男の行動が想像出来てくる。 「オイ……何をするつもりだ……!」 「だから言ったでしょう。見せしめだって」  そして、男は身動きの取れない子供の――男の子の足を手にとった。男のもう片方の腕には斧が装備されている。それを見て男の子は震えている。当然だ、きっと彼らは誘拐されてきたのだろう。突然誘拐されて身動きが取れない状態で、目の前に斧を構えた男が居る――それで正常にいられる子供が居るはずがない。  子供は震えていた。打ち拉がれていた。どうすればいいのか解らなかった。自分が何をすればその場から脱することが出来るのか、ただそれだけを考えていた。  だが、テロリストはそんな甘い考えが通用する人間ではない。  直後、男が構えていた斧が男の子の足に振り下ろされた。崇人はその光景を見たくなくて、目を瞑った。  しかし、それはヴァルトによって遮られた。ヴァルトが崇人の直ぐ横に行き、囁く。 「きちんと見てくれよ、タカト・オーノくん。でないと君の『見せしめ』にならないだろう? 君が見てくれないとこれからの仕事に差し支えが出るってわけよ」  モニターからは嫌というほど子供の絶叫が聞こえてくる。声にならない絶叫。それよりも声にできない痛みが彼に襲いかかってきた。それを見ていた子供は次にやられるのは自分なのではないかと怯える。肩を震わせる。当然だろう、自分と同じように誘拐させられた子が目の前で足を切断させられた。それを見て、自分には起きないことだと思わないのは――希望的観測であるともいえる。  自分がそういうことにならないという絶対的証拠など、とうに存在しないというのに。 「しかしまあ……タカト・オーノくんはそれを見ることができなかった。見せしめということですらない。彼は無駄に足を失うことになった、君のせいでね! おい、オリバー! 見せしめを見せられることが出来なかった! だから、別の子供を使って見せしめを行え!」  いったいどこに通信設備があるのか崇人には解らなかったが、ヴァルトの言った命令はモニター越しにいるオリバーという斧を持った男に聞こえたらしい。  オリバーは無言で頷くと、足を切断されて悶えている少年から離れ、ゆっくりと別の場所へと向かう。  そこに居たのは少女だった。崇人より二歳くらい若いだろうか。それくらいの少女だった。恐怖のあまり失禁してしまったようで、その周りは濡れてシミになっていた。 「おやおや……シミになっちゃってますねえ。そんなに怖かったですか、あの光景は。まあ、仕方ないですねえ。これも凡て君たちが『英雄』のように謳っている起動従士が見せしめを拒んだからです。私たちの命令……いいや、私たちとのより良い関係を築くためには必要なことなのですよ。あなたたちはその|礎(いしずえ)となる。光栄でしょう! さあ、さあ、さあ!!」  オリバーは笑いながら、少女の足を取る。膝を曲げて何とか拒もうとしているが、しかし足は縛られているからそう動くこともできない。さらに少女は壁に背を向けている。だから逃げられることもできない。  目に涙を浮かべながら、少女は言葉を紡ぐ。しかしそれは口が震えるだけで、誰にも聞こえることではなかった。 「オリバー。少女がかわいそうだ。ひと思いにやってあげなさい」  ヴァルトの言葉に、再び無言で答えるオリバー。  オリバーは笑ったような気がした。しかしそれは崇人には見えない。それを目の当たりにしているのはオリバーが足を持っている子供だ。オリバーの笑顔はとても素直な青年めいた表情だった。それだけを見ていれば愛する女性に見せる笑顔にも見えた。それさえ見れば新しい玩具を分け与えられた子供めいた笑顔にも見えた。  だが、オリバーが見ているのは少女の足だけ。そしてオリバーが持っているのはそれを切断することが出来る斧だ。  少女はオリバーの笑顔とは対比して恐怖に包まれていた。怯えていた。怖かった。この状況から脱したかった。  だが、容赦なく。  オリバーは少女の足を切り落とした。 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」  少女は絶叫する。オリバーはそれを見ながら、恐らくカメラがあるだろう位置を見た。  それをモニター越しに見ていた崇人は、ヴァルトを睨みつける。  ヴァルトは笑みを浮かべながら、歌うように答えた。 「どうしてそんなに睨みつけるんです? あくまでも見せしめをしたかったのにあなたはそれを見ようともしなかったじゃないですか」 「これをする意味は何だ。あの子達は無関係だろう!?」 「無関係……。果たしてどうかな、国を救う役目を担っている起動従士は国民皆関係者とも言えるのではないか? 救う者、救われる者の関係。救う者が起動従士、ひいてはリリーファーだとすれば救われる者は国民だよ。そして国民は奪われる者であるとも言える……」 「奪われる? なら奪う者は……」 「我々、赤い翼だよ」  ヴァルトが口にした言葉は、かつて崇人がインフィニティを使役して完全に破壊したテロ集団の名前だった。  赤い翼。それはかつてヴァリエイブル連合王国にあったティパモール地域を独立させようという動きから始まったテロ集団のことだ。一年前、『大会』の行われた会場を占拠したことで正式にそれが世界中に発表されたが、直後に崇人がインフィニティを用いてリーダーを殺害、結果として赤い翼は解体へと踏み切らざるを得ず、残党も別のグループを組んだりしていた。赤い翼が復活するのを、彼らはずっと待っていたというのだ。時が満ちるのを待っていたというのだ。  そして、今。  『新たなる夜明け』が赤い翼としての復活を果たす。  崇人はそこまで理解した。  となれば、疑問が一つ浮かぶ。 「……『仕事』とは、いったい何をすればいい?」  崇人はヴァルトに訊ねた。ヴァルトはそれを聞いて、崇人の顔を舐めるように見る。 「物分りがよくて助かるよ、タカト・オーノくん。つまりは、君が我々に入ってくれればいいのだよ。入ってさえくれれば、あの子供を殺すことなどしない。みんな安全に解放してあげるさ。……だが、君がここで断るというのなら、君をここで殺し、子供も皆殺しだ。君は作戦に必要な人間だから、出来ることなら生かしてあげたいところだが……、作戦に使えないのならばそれも致し方ないね」 「人の命を……お前は何だと思っているんだ!!」 「人の命? そんなもの、軽視しているのはヴァリエイブル連合王国……即ち国家だろう。国家が我々を……ティパモールを軽視したからこそ、今我々はこうして活動しているのだ。即ち今の活動はヴァリエイブルがなにもしなかったからと言えるだろう」 「だったら謝罪すればいいのか? 謝罪すればお前たちの怒りが安らぐとでも言うのか?」  その言葉を崇人が言った瞬間、ヴァルトは崇人の頬を叩いた。  崇人は一瞬の行動で何が起きたのか解らなかった。 「お前はいったい何を言っている? 謝罪すれば気分が安らぐ? そんなわけがないだろう。それどころかお前はロクにティパモールのあれを知らないくせによく言えたものだな。我々の苦しみを……」 「なら、なぜ僕にそれをやらせようとする。お前の言う通りならば、ティパモールのことについてなにも知らない」 「知らない人間も居る。だが、その人間が知った風に言うのが腹立つのだよ。そして、ティパモールの歴史が、忌むべき歴史が風化されていくのがとても悲しい訳だ。どうして人は喜ぶべき事象ばかり覚えておいて、悲しいことは凡て忘れようとするのだ? 風化するのが早いのだ? ……悲しい記憶はいつまでも忘れてはならない。その記憶の価値は、嬉しい記憶も悲しい記憶も変わることはない。どれも等しい価値なのだよ。なのに国は、ヴァリエイブルはそれをしておいて、それだけのことをしておいて、記憶を消し去ろうとしている! ティパモールにあったあの出来事を無かったことにしようとしている!!」 「無かったことにしようとするのは当然だろ。全員が悲しく生きるよりも、悲しく生きる少数を切り捨てて楽しく生きるのは当然のこととも言える。確かに切り捨てられた悲しい記憶を覚えている人間には忍びないことかもしれないが、世界とはそういうこととは言えないか?」 「見知ったような口を聞きやがって……。まるでティパモールのことを見てきたかのように!!」 「見てきてはいない。でも言えるよ。地球という名の異世界で三十五年の人生を歩んできたからな。いったいどうしてこんなことになったのかは解らないが……この世界に呼び出されたということは、きっと俺には何か役目があるんだと、そう思っているよ」 4  その頃、場所は変わってヴァリエイブル連合王国、ヴァリス城。  第六十四代国王レティア・リグレーは王の椅子に座り小さく溜息を吐いていた。 「どうしたレティア……陛下。疲れているのか?」  宰相を務めるイグアス・リグレーはそう言ってレティアを労った。対してレティアは立ち上がり、頬を膨らませる。 「元はといえばお兄様がリリーファーに乗るなんてことをして、さらに王位継承権を破棄したのが悪いんです。だから、大きな戦争が起きていない今は宰相として私の手伝いをしてもらうことが、せめてもの罪滅ぼしになるの!」 「罪滅ぼし、ねえ……」  頭を掻いて、イグアスは言う。  そして、何かを思い出したらしくイグアスは指を鳴らした。 「そうだ、レティア。昔の話をしてあげよう。……と言っても僕がするのではないけれど。面白い話ではないが、為になる話とも言える」 「お兄様が利益のあるというのであれば、私はどんな話でも聞きます」 「そうか」  イグアスは頷く。  そして彼は語り始めた。  かつて、亡くなった前王であり父、ラグストリアル・リグレーから語られた昔話。  それは彼が『最悪』と表現したある紛争。内乱と言ってもいいかもしれない。  内乱の発端となったのは、軍が一般市民を殺害してしまった、そんな『些細』な出来事だった。しかしそれはスケールを増していき、結果としてティパモールという一帯を破壊し、今の状態を創りだすまでとなってしまった。 「父さんがティパモール内乱に参加したのは、十八年前。もちろんその頃にはもう王になっていたし指揮を取っていた。宰相に国を任せ、ティパモールだけを破壊するように命じていた。今からすればとてもおかしな話なのかもしれない。そしてティパモールは、君も知っているとおり砂漠に出来た街。セレナ・コロシアムの周りを覚えているだろう? あの周りは砂だらけだった。もともと砂漠のオアシスに出来たのがティパモールだったからな。そして、ティパモール内乱を止めたとされる大きな一手が……『女神』マーズ・リッペンバーだった」  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  八年前。  ティパモール地区、サラエナ。  ティパモールは今のような寂れた土地ではなく、人々の活気が溢れ、モノが溢れていた。それも凡てティパモール一帯に|滾滾(こんこん)と湧き出る水のおかげとも言えるだろう。ティパモールはオアシスが発展した形で村となり、街となった。大きな街は十五の地区に分かれており、サラエナはその一番南に位置していた。  ヴァルト・ヘーナブルは頭にスカーフを巻いて走っている。手に持っているのは、少なくとも彼のものではない財布だ。  ティパモールは当時、水という資源を欠くことはなかったが、犯罪が減ったわけではなかった。ブラーシモ商会がオアシスを無断で買収し、水を売買するようになったのだ。  それに憤慨するのは、当然のこととも言えるだろう。しかしブラーシモ商会は水の売買を止めるどころか値段を釣り上げていくのだ。  このままでは水も飲めずに死んでしまう人間が続出する。現に水を子供に分け与えて親が死亡するケースが多くあった。  ブラーシモ商会は設立当初はヴァリエイブルの様々な地域から商品を仕入れ、適当な値段で販売する業者だった。その商品にはブラーシモ商会を介さないと手に入らない商品も多くあり、人々が|挙(こぞ)って利用していたのだ。  しかし、内乱が凡てを変えてしまった。  内乱の発端となったのは単なるいざこざだった。軍と一般市民が対話をもって課題を解決しようとしていた。  そんななか、兵士が一般市民を射殺してしまった。兵士は間違いであると断言したが、その兵士は目の前にいたほかの一般市民によって撲殺されてしまった。  明らかに手を出したのは国、ヴァリエイブルであった。しかしそれだけで済めばよかったが人々の不平不満が爆発した。  そして僅か数日で、|諍(いさか)いは内乱へと発展していった。  思えばその時からブラーシモ商会はオアシスを買い占め、水を売るようになった。だから、いつしか人はこう思うようになった。  ブラーシモ商会は、ヴァリエイブルと繋がっているのではないかと。  そう思うのももはや当然のこととも言えるだろう。内乱が始まり、タイミングよくブラーシモ商会は行動に出たのだ。ブラーシモ商会を叩く人間もいた。攻撃する人間もいた。だが、それよりも前にやってくるヴァリエイブル国軍に打つ手はなかった。  だが、ティパモールの人間はそれで諦めるつもりなど毛頭無かった。ティパモールはオアシスを中心に構成されているとはいえ、その大半は砂漠で構成されている。そこで育つ人間もまた、砂漠に鍛えられ強靭な民族が生まれ、戒律の厳しい『ティパ教』のもと、人々は生活していた。  もとより、ティパモールに住む人間は僧が大半を占めている。男は僧になり、女性は僧である男を支える。ティパ教の教えに基づき、そういう風に生活をしているのだ。  しかしながら、少年と少女は違う。  ティパ教の教えには子供は自由に動くことと決められている。理由は広い世界を見るためだとも言われており、戒律にそう定められているのだ。  そして、この少年――ヴァルト・ヘーナブルは人から奪った財布を持って走っていた。誰から逃げているのか? それは言わずとも知れている。その財布の持ち主からだ。  息も絶え絶えに、彼は走る。走る。走る。  しかし、それは――あるものに制された。 「こらっ!」  走っている(この場合は動いている、と言ってもいいかもしれない)ヴァルトの頭を正確に捉え、その女性は拳をぶつけた。  当然拳はクリーンヒット。ヴァルトはそのまま地面に転がり込んだ。 「まったく。あんたって子は……」  まるで母親が子供に言うようなセリフを口にして、女性は――顔を見るからにヴァルトと同じくらいに見えるから少女と言い直した方がいいのかもしれない――ヴァルトの頭をもう一度殴った。 「おー、グレイシアちゃんじゃないか。こいつのお守りは大変だろう?」  遠くから駆けてきた、財布を盗まれたであろう人物がグレイシアと呼んだ少女の顔を見て笑顔で言った。  対してグレイシアは仏頂面を保持したまま、 「もー、アリティクおじさんもきちんとして? じゃないとこんな唐変木に財布をまた盗まれちゃうよ?」 「アハハ、でも君が居るから問題ないだろう? まあ、少しは注意することにしよう」  そう言ってアリティクは奪われた財布をグレイシアから受け取り、立ち去っていった。  さて、残ったのはグレイシアとヴァルトだけだ。グレイシアは笑顔で手を振ってアリティクを見送ると、踵を返してヴァルトの背後に立った。 「あんた、いつまでこういうのをやっていくつもり? スリ稼業がいつまでも続くと、いつまでもやっていけると思っているの?」 「だって……こうまでしないと食っていけないし」 「それはあんたが職を探さないだけ! 別にあんたが目を向ければ至る所に仕事はある! 今から僧を目指すために寺院に入ったっていい。アリティクおじさんみたいにキャラバンに入ったっていい! 仕事は幾らでもあるのよ! なのにあんた、そんなこと続けていたらもう……死んだお母さんとお父さんに顔を合わせることも出来ないわよ!!」  そう言って彼女――グレイシア・ヘーナブルは涙を零した。  そう。ヴァルトとグレイシアは血を分けた姉弟だった。 「よう、姉貴、それにヴァルト。どうやらお前たちはまた諍いを起こしているみたいだな?」  そんな時だった。  頭上から声が聞こえた。  それを聞いてヴァルトとグレイシアは頭上を見る。そこに居たのはひとりの青年だった。ヴァルトとグレイシアに比べれば幾分年が上のようにも見える、そんな青年が建物の上に足をぶら下げて座っていた。  その人物を彼女たちは知っていた。 「「兄さん!」」  だから二人はほぼ同時に言った。  彼こそがこのヴァルトとグレイシアの兄、ブレイブ・ヘーナブルだった。  ブレイブはひとり働いている。まだ働くことの出来ないヴァルトとグレイシアを養っていくために必要なことだ。ヴァルトたちの親は一年前――ティパモール内乱の直接的原因となったと言われているあの諍いで死亡した。二人共、だ。その死を悼む人はいた。しかし殆どが、この内乱の直接的原因になったとして祭り上げられている。  なぜかといえば、もともとティパモールの住民はヴァリエイブルの不当な地位の押し付けに耐えかねていたのだ。税を増やし、兵を増やし、ヴァリエイブルの『養分』へと化してしまった。  それを止めなくてはならないと立ち上がったのは若い僧とその妻たちで構成された部隊だった。名前はない。だが、彼らの死以後、こう名付けられるようになった。  『|砂漠の燧石(デザート・フリント)』と――。  そんな両親をブレイブは蔑もうなど思わなかった。彼自身もまた、不当な差別に苦しんでいたからだ。差別と言っておきながらも、ヴァリエイブルはティパモール人を兵として徴収し、税を増やし私腹を肥やしていく。それが耐えられなかった。だから、両親の活躍は寧ろ褒め称えるべきであった。  でも、殺されたこととそれは同義ではなかった。殺したのはヴァリエイブルに悪意があったからだ。今までやってきた行動を『悪い』と思う意志があったからだ――ティパモールの僧はそう思うようになった。ブレイブだってそうだった。両親が亡くなって直ぐ僧となった彼は、同じ仲間である僧の考えに感化され、そう思うようになったのだ。そして、その兄を尊敬するヴァルトもそう思うようになっていた。  ただひとり、グレイシアだけはそれに反対だった。 「ねえ、兄さん。まだティパモールが内乱を続けていくことに賛成なの?」  ブレイブは建物から降り、グレイシアの前に立つ。  そして笑みを浮かべ、答えた。 「当然だろ。父さんと母さんはティパモールの地位が良くなる為に戦った。だけれど、ヴァリエイブルはそれを隠すために殺した。……そして内乱は始まった。結果として父さんと母さんは死んでしまったけれど、この内乱によって世界にヴァリエイブルがティパモールにしてきたことを大々的に発表することができる。そう思うと、」 「父さんと母さんが死んでもよかった、とでもいうの!?」  グレイシアは肩を震わせ、激昂する。  対してブレイブは肩を竦める。 「そうは言っていないだろ。母さんと父さんは犠牲になってしまった。でもそれが結果的にいい方向に……」 「違う! 兄さんは父さんと母さんが死んだのを、合理的に見たいだけ! 『内乱が始まった』ことの原因に結びつけたいだけなのよ! 私は違う! きっとそんなものじゃ、解決出来ないと思っている! 内乱は、いいえ、もう戦争と言ってもいい! 戦争はこんなものじゃ簡単に終わるはずもない。けど、きっかけはどんな些細なものだっていいのよ!」 「……そうか」  グレイシアの声に、ブレイブは怒りもせず、かといって笑いもせず、ただ頷いて小さく溜息を吐いた。  そして、ブレイブは踵を返しゆっくりと立ち去っていった。  ドーン、ドーンと銃火器の音が聞こえる。それを聞くとグレイシアは自分が紛れもなく戦場の一歩手前に住んでいるのだということを嫌でも実感させられる。実感したくないのに。今すぐここから逃げたいのに。  彼女はそう思いながら、ヴァルトとともに家路についた。  ティパモール地区、クロウザ。  ティパモールの一番北方に位置している地区は既に陥落、そこにはヴァリエイブル軍の基地が建っていた。簡易的なものではあるが、そこにはもう立派な設備が整っており、普通の基地と遜色無かった。  汚れが落ちきっておらず若干茶色めいているコーヒーカップに入っているコーヒーを啜りながら、二人の兵士が会話をしていた。 「お前さん、今日は終わり?」 「ティズと呼んでくれよ。俺は昼だけだからな。夜はゆっくり……眠ることすらできないけれどな。ま、火薬の匂いを嗅がないだけでも平和な夜を過ごせるのかもしれないけれどね。そちらは?」 「ロスでいい。俺はこれからだ。夜戦ってやつだな。ティパモールのこのクロウザ、だっけ? ここにもまだ残党が残っているからな。そいつらを殲滅するのが俺にくだされている命令、ってわけよ」 「命令、か……」  ティズはコーヒーを啜る。そのコーヒーは旨くないのか、一瞬表情が強ばった。 「……にしても、国はどうしてここまでティパモールに躍起なのかねえ。ロス、って言ったか? あんた、国は?」 「俺はヴァリスだよ。ティズは?」 「俺もヴァリスだ。というか今回はヴァリス軍が大半を占めているらしいぜ。ここまでティパモールを潰す理由があるのかね。ただでさえここはヴァリスじゃなくてエイブルのものだっていうのによ」 「そこだよな。どうしてエイブル王国領のティパモールを、わざわざヴァリス軍中心に構成してまでヴァリエイブル全体で取り締まるのか……。ま、そんなこと考えても俺たちが変えることなんぞ出来るわけがねえんだけどな」 「違いねえ」  そう言ってティズは残っていたコーヒーを一気に口の中に放りこんだ。 「嫌だ! 嫌だ……もうやめてくれ……」  その静謐な空間に似つかわしくない怯えた声が聞こえたのは、ちょうどその時であった。お互いにコーヒーを飲んでいたティズとロスもそれを聞いてそちらを向いた。  そこに居たのは兵士だった。一般兵士とも言えるだろうが、しかし腕章をつけているのを見てティズはロスに囁く。 「あの腕章、ありゃあきっと起動従士だな。リリーファーを乗って戦っていたんだろうが、やられちまったんだろうよ」 「……そのようだな」  ロスもそれを聞いて頷いた。  シェル・ショック。爆音や爆撃を絶えず近いところで感じていることにより発生する心理的障害のことだ。それ以外にも戦場独特の空気によって汚染されることもあると言われており、それに警鐘を鳴らす医師も居る。  シェル・ショックに対する治療法は数多あるが、それを戦場で行っている余裕などない。即ち、その時点で兵士は『用無し』なのだ。 「どうして……どうして、リリーファーが人を殺さねばならないのですか!! それも、同じ国の住民を、皆平等ではありませんか!!」  起動従士は叫ぶ。  起動従士の名前も知らないロスとティズはそれを知らぬ様子で聞いていた。 「確かにあの起動従士の嬢ちゃんの道理も理に適っている。それは間違いないだろうな。ただし、それが『戦場ではなく、平和な場所で言ったなら』の話だ」 「そりゃそうだ。平和な場所で物言いなど幾らでも出来る。今頃本国じゃ大慌てなんだろうなあ。ティパモールの内乱が収まらないことについて阿鼻叫喚している上層部、内乱が収まらない、イコール税金が無駄に使われていることだと思い込んでデモ行動をする国民、それによってさらに上層部のストレスは溜まっていき……。考えるだけで胃に穴が開きそうだ」 「何言っているんだ? 俺なんかもう、とっくに穴開いているぜ。医者に『普通ならこれ程まで穴は開かないのだけれどなあ』と笑いながら言うくらいにはな」  そう言ってティズは茶化した。 「貴様、この状況が解っているのか!! ティパモール全域を凡て我らの手に落とす。そのために一致団結しているのではないか!」 「しかし……しかし、このやり方はおかしすぎます! おかしいと思わないのですか! ティパモールはそれほどまでに悪いことをしたのですか! リリーファーまで投入して、その理由が反乱を押さえつける為? そんなの、おかしいとは思わな――」  言葉が唐突に途切れた。  理由は単純明快。彼女が激昂しているあいだに背後から迫り寄った兵士が首筋に何かを打ち込んだからだ。恐らく鎮静剤か何かだろう。  そして眠るように崩れ落ちた。 「そいつを牢屋に閉じ込めておけ」  それだけを言って上官と思しき男は立ち去っていった。 「……善と偽善、果たしてどちらが正しいのかね」 「そんなこと言ったら俺らも仲良く牢屋行きだ。そんなことは言わねー方が身のためだぜ。まだ生きたいと思うのならな」  そう言ってコーヒーカップを持ったまま、ロスは去っていった。  それをティズはただ彼の背中を見送るだけしか出来なかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「陛下。連絡が有ります」  部下のひとりがラグストリアルにこう言った。  対してラグストリアルはリラックスした様子で――まるで戦場に居る指揮官とは思えないほどだ――頷く。 「何だ、言ってみろ」 「はっ。実はティパモール地区クロウザの『処理』中にこのようなものを見つけました」  そう言って部下はあるものをラグストリアルに献上する。それを受け取ったラグストリアルは目を丸くした。  彼が持っていたのは剣であった。そしてその柄には鍔が付けられており、独特な形状となっていった。  強いて言うならば、ヴァリエイブルではない他国で生産された剣であるという絶対的な証拠であるともいえるのだが。 「……柄に紋章が見えるのをご覧いただけますでしょうか」 「紋章? ……ほう、紋章というよりかは国章をあしらったものとも言える。それにこれは……」  そこに描かれていたのは雲の上に居る二人の人間、雲から生える樹、そしてその樹に生っている林檎。  アースガルズ王国の国章であることは、ラグストリアルは見て直ぐに理解した。 「……ティパモールが長年内乱を続けていく体力が無いはずだと思っていたが、アースガルズというパトロンが居たとはな」 「いかがなさいますか、アースガルズにも出撃を?」 「いや、我が国にそれ程までの軍事力は無い。少し時を待とう。確か噂によればクルガードが独立を画策しているという情報もある。クルガードの動きを見ろ。そして、独立を宣言したときは直ぐにそれを支持するのだ」 「かしこまりました」  そう言って頭を下げ、部下は部屋を後にした。  その頃、ヴァルトは街をふらついていた。居なくなってしまったグレイシアを探すためだ。兄のブレイブは僧の修行があるからと言って早々に寺院に戻ってしまったため、彼一人で捜索しているということになる。  雑踏の中聞こえてくるのは、内乱に関する話題のみだ。  昼間から酒を飲んでいる浮浪者が隣にいる似たような人間に語っている。 「俺さ、昔クロウザの西……確かブロクスってところだったかな。そこにいたんだよな。そんときは俺の友人もいてよ、一緒に軍潰そうぜって躍起になったわけよ」  酒を一口|呷(あお)る。 「それで、どうしたんだ?」 「それでよ、その友人が途中で逃げちまったんだよ! 俺の目の前に五人の武装兵士、そして俺。よぼよぼの年寄りが倒せるわけがねえ、って思ったわけよ」 「それじゃ、お前さん幽霊なのかよ?」 「そんなわけねえだろ? 五人全員吹っ飛ばしてやったよ。|肚(はら)くくった意味があったってもんよ」 「マジかよそれすげえな!」  浮浪者の会話がとても耳障りに聞こえて、ヴァルトは足早に立ち去った。  次にヴァルトが立ち寄ったのは墓場だ。墓場はティパモールの内乱が始まってからさらに増えていった。今では墓場ではないただの土地にも埋められている死体も多く、場合によっては雑踏に放置されているものもある。それくらい人が死んでいっているのだ。  それを見ながら、ヴァルトは呟く。 「人々は皆、内乱が起きてから『内乱を止める』ことなんて一切考えちゃいない。姉貴、それでも姉貴はこの街の人々を信じるっていうのかよ」  その頃。  ティパモール地区、レステア。  クロウザが北、サラエナを南とするならレステアは東に位置していた。  そのレステアにある廃墟にて、ひとりの医者が活動していた。しかしながらその医者は白衣を着ていたわけではない。医師の資格は持っていたからこそ、そして、昔からここで活動しているからこそ、彼はずっとここに居るのだ。 「ベクター先生、こんにちはー」  ドアを叩いて扉を開ける。入ってきたのはひとりの少女だった。白いワンピースを着て、赤い髪の少女は身寄りが居なかった。だが、寂しくなど無かった。 「その声は、ルナかな。たっぷり遊んできたかい?」  優しい声だった。その声を聞いてルナは不思議と笑顔になる。 「はいっ! たっぷりと遊んできました! もうとっぷりと日が暮れます!」  ルナはそう言って敬礼する。大方、何処かで見た本の受け売りなのだろう。  ベクター・レジュベイトは医師として長年この地に住んでいるレジュベイト家の当主である。当主とはいえその地位が高いわけではなく、本家の診療所を継ぐという意味であった。  この診療所はティパモールでも有数の名の知れた診療所である。とはいえ正確な名前は無い。皆、『レジュベイトさんの病院』だの『ベクター先生の家』だの自由に呼んでいるからだ。その慣習めいたものは先代も、それからその先代も、さらにその先代も続けてきたことだった。だから、ベクターがここを継いだ時にはもうここの正式な名前なぞ誰も憶えてなどいなかったのだ。  また、この診療所はもう一つ別の側面も持っている。 「ルナ、今日はもう疲れただろう。私もこれが終わったらそちらに向かう。多分アニーがいるはずだから、彼女にご飯を作ってもらおう」 「はあいっ!」  そう言ってルナは駆け出し、診療所の奥へと消えていった。  ルナとベクターは血の繋がった親子でも親戚でもない。単刀直入に言えば、ルナは孤児だった。  ブラーシモ商会が水を売買するようになってから、正確にはこの内乱が始まってから孤児の数は増えていた。理由は様々で、内乱で親を失ったとか、水の売買によって家計が苦しくなり子供を捨てざるを得なかった……などある。理由は違えど、結論から言って理由の殆どは『内乱』に集結する。  内乱によって多くの人間が傷を負った。それは|刃傷(にんしょう)や|銃創(じゅうそう)のような身体的負傷だけではない。精神的ショックだってあるわけだ。それをどうにか治療して社会復帰までさせるのがベクターの仕事だった。 「とはいえ……最近は増え過ぎだ」  ベクターは独りごちる。内乱が始まって以後、患者が増えているのだ。このままでは一人の患者にかけられる時間も減っていき、助けられるはずだった人間を助けることが出来ない――そんなことに発展しかねない。  生憎この地区にはベクター以外にも診療所は存在する。しかしながら、それでも飽和状態に代わりなかった。 「早く戦争が終わってくれればいいんだがな……」  ベクターのその願いを聞き届ける者など、誰も居なかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃、グレイシアは独りで町を歩いていた。町並みが変わっていくことに彼女は気づいていたが、それでも足を止めようとは思わなかった。  彼女は逃げたかった。雑踏の中でも内乱のことを得意気に話す人間から逃れたかった。  しかしそれは同時に現実から逃避する意味を持っている。それに逃げようとしても子供には限界というものがあった。  彼女はある場所へと向かっていた。それは昔グレイシアたちが住んでいた場所。両親が生きていた頃に暮らしていた、場所だった。 「あら、グレイシアちゃんじゃないの!」  その時だった。  彼女にとって聞き覚えのある、とても安らぎのある声が聞こえた。  そしてその声を聞いて、彼女は上を向いた。  そこに立っていたのはひとりの女性だった。大柄だが髪は短く、深みがかった青い服を着ている女性だった。  エプロンをつけた女性は笑みを浮かべている。  グレイシアは感極まって、その女性を抱き寄せた。泣いているグレイシアを見て女性はそれを受け入れる。そっとグレイシアを抱き寄せた。 「どうしたんだい、グレイシア。何か辛いことでもあったのかい?」  グレイシアは答えない。  グレイシアはただ泣くばかりだった。  女性は小さく溜息を吐くと、グレイシアを彼女の身体から離した。 「解った。とりあえずもう夕方だから食事にしましょう? 話はそれからゆっくりと聞いてあげる。それでいいかな?」  グレイシアは泣きながら、頷く。  そして女性はグレイシアを自らの家へと招いた。  アンリ・ユースベルクはグレイシアを自らの家に招いて、ソファに座らせた。隣にはグレイシアと同じくらいの背格好をした少年が座っていた。黒髪だったが、分け目の部分がワンポイント赤く染まっているという非常に変わった髪だった。遺伝によるものではなく、突然的に誕生したものと言える。 「私はご飯を作るから……レオンと一緒に遊んでいてもらえる?」  グレイシアは頷く。  アンリはレオンの方を向いた。 「レオン。彼女は私の友達の子供だから、一緒に遊んであげてね? 積み木遊びでもしていてくれれば、直ぐにご飯が出来るはずだから。今日はシチューよ」 「ほんと?」  レオンは首を傾げる。  アンリは笑みを浮かべ頷く。  それを見たレオンはグレイシアの手を取り、 「それじゃ遊ぼ、えーと……」 「グレイシア。グレイシア・ヘーナブル」 「そっか、宜しくね。グレイシア」  レオンの言葉にグレイシアは頷く。するとレオンはグレイシアの手を取ったまま、誘導するように、彼女を自分の部屋へと連れて行った。  それをアンリは楽しそうに見送った。しかしながら、彼らの姿が見えなくなったら、大きく溜息を吐いた。その落胆ぶりは先程とは別人に見えるくらいだった。  アンリとグレイシアの母はとても仲良しだった。グレイシアの両親がまだこの辺に住んでいた頃、彼女とは家ぐるみで付き合いを続けており、良く遊んでいたのだ。  レオンとグレイシアがそれを知っていたのかは解らない。なぜなら、アンリがグレイシアの家に来たことはあるが、その逆は無かったのだから。  だからレオンとグレイシアは今日初めて出会ったのだ。しかし、その割にはとても仲睦まじく見える。まるで今までずっと遊んできた、友達のように。 「さて、一人分増えたし、シチューの仕上げに入りましょうか!」  アンリはそう言って被っていたバンダナにある結び目を、きつく縛った。  グレイシアとレオンは二人で遊んでいた。と言っても子供が室内で遊ぶ手段などたかが知れている。絵本を読んだり積み木で遊んだりくらいだ。  その片方、彼女たちは積み木で遊んでいた。立方体の積み木を組み合わせて家を作ったりしている。 「ねえ、ここにどうして来たの?」  レオンは訊ねる。  グレイシアはそれを聞いて積み木の一ピースを握ったまま、答える。 「……現実から逃げてきたの」  グレイシアの答えは冷たかった。  グレイシアの話は続く。 「兄弟はずっと……この内乱を続けるべきだ、って言うのよ。けれど私はそんなことつまらないと思っているの。そんなことしてはいけないと思っている。だってそうでしょう? 人が自分の身体を傷つけてまで……それはすることなの?」 「意味無く傷つけることは、無駄な行為だよ。きっと、その人たちも理解しているんだと思う。自分の身体を傷つけてまで戦うのだから、それなりの結果を得なくてはならない……って」 「ほんとうにそうなのかしら。私には全然理解出来ないのよ。それでほんとうにティパモールが救われるのか。ティパモールが変わるのか。ティパモールはそのままでいられるのか」 「別に僕達は子供だ。子供がそこまで考えなくてもいいんじゃない? どうせ国でも都市でも地区でもそう。それを統治するのは大人の役目であり責任であり権利だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、その権利だけを主張しておいて責任だけ放棄する。それは最低な大人だと思うし、そんな大人にはなりたくないかなあって思うよ」  子供の会話にしてはやけに高度な会話を続けていた二人だったが、アンリの魔法の言葉によってそれは中止された。 「もうご飯よー、二人共そろそろ止めなさい」  その言葉を聞いて、二人は頷くと大急ぎでテーブルにあるリビングへと向かった。  ホワイトシチューを食べながら、アンリはグレイシアを見た。グレイシアはとても美味しそうにシチューを頬張っている。シチューには人参、じゃがいも、肉が入っており、とても温かそうだ。  アンリの家はアンリとレオンしか住んでいない。アンリの夫でありレオンの父親であるディーノはティパモール内乱のために戦地へと赴いている。  だから今、いつも居るのはアンリとレオンのみである。だから、レオンが楽しいのも解る。同年代の子供が遊びに来ることなどそうないのだから。  昔はたくさんあったが、内乱が始まってしまってから危険性からそういうことが無くなってしまったのだ。だから子供同士の遊びの範囲が狭くなってしまい、子供が満足に遊べなくなってしまった。もちろんこれは母親が子供のことを思っているからこそなのだが、しかし、子供からすればそんなことはどうでも良かった。子供からすれば子供同士で遊べることが至高であり、それ以上でもそれ以下でも無かった。 「グレイシアちゃん」  アンリはグレイシアに問いかける。 「グレイシアちゃん、ご飯を食べたら私と一緒に戻りましょう? きっとブレイブくんとヴァルトくん、二人とも心配していると思うわ」  しかし、アンリの言葉にへそを曲げるグレイシア。 「あの二人と私は離れたほうがいいんです。意見も違うし思想も違う。一番の問題に性別が違います。男と女の意見なんて所詮理解し合えないものなんです」 「そうかなあ? 離れている意見を持っているからこそ、自分をコントロール出来なくなった時にコントロールしてくれる誰かがいる、っていう安心感があるんだと私は思うけれどね。まあ、凡て戯言に過ぎないのだけれど」 「戯言、ですか」 「そうよ。私はまだそんな長く生きていないから、ほんとうの長生きからすれば深くもなにもない言葉に過ぎないのよ。ただの戯言。ただの嘘。そうしか考えてくれない。でも、それを嘘だの戯言だの『疑う』ことをしない子供はそれを素直に理解してしまう。そうして子供は歪んだ常識を正しい常識だと理解してしまうの。その歪んだ常識はほかから見れば正しくないものだけれど、正しくないことを証明することは誰にも出来ないでしょう? まさに悪魔の証明、ってやつね。悪魔の証明だからこそ正しいかどうか理解出来なくなる。それで違和を感じ、気がつけば誰が正しいことを言っていて、誰が間違っていることを言っているのかが解らなくなってしまう……そういうこと」  アンリの言葉を理解するには時間が足りなかった。  ただ、その言葉の節々は理解することが出来た。 「要するに抑止力があればいい、ってことですか」  アンリは頷く。 「そう。そのとおり。抑止力があればひとがどんな失敗をしたって、しようとしたって、それを止めることが出来るでしょう?」 「でも……私にあの二人を止められるかどうか……」 「止められるか止められないか、じゃないの。止める覚悟さえあればいい。もしかしたらあなたの存在があの子達に悪い影響を及ぼすかもしれない。でも、その逆に良い影響を|齎(もたら)すかもしれない。それは私にも、あなたにも、誰にも解らない」  アンリは水を一口飲み、話を続ける。 「でも、あなたがいて、ブレイブくんがいて、ヴァルトくんがいて、はじめてあなたたちは兄弟として、家族としているのよ。それを忘れないでね」  グレイシアは食事を終えて片付けをしたときのことだった。アンリの家の玄関をノックする音が聞こえた。それから一瞬遅れて中に誰かが入ってくる。 「こんばんは、アンリさん。姉貴、居る?」  入ってきたのはブレイブだった。ブレイブは恐らく寺院からここまで歩いてきたのだろう。とても疲れている。  ブレイブを見つけたグレイシアはブレイブの前へ駆け寄った。 「やっぱりここにいたか。ヴァルトが多分ここに居るんじゃないかって言ってたんだよ。俺は多分違うと思っていたんだけれど、やっぱりここにいたのか。まあ、見つかってよかった」  そう言うと、ブレイブはグレイシアを抱きしめた。グレイシアは年上だからこういうのをされるのは慣れていなくて、とても恥ずかしかった。 「……帰ります、私。ご飯ご馳走になっちゃって……」 「いいのよ。いつもレオンと遊ぶ子供が居ないから、レオンも楽しかったみたいだし。ねえ?」  こくり、とレオンは頷く。  それを見てグレイシアは笑みを浮かべた。レオンと遊んだ時間はごく僅かだったが、彼にとってはとても有意義な時間だったというわけだ。 「それじゃ、アンリさんまた今度」 「あ、そうだわ。シチュー持って行く? どうせ未だ夕飯も食べていないんでしょう? たっぷり作っちゃったし、まだまだ余っているから持っていっても構わないけれど」 「……それじゃ、お言葉に甘えて……」 「子供は大人に精一杯甘えなさい。それが一番よ」  そう言ってアンリは笑みを浮かべると、キッチンへと戻っていった。  夜空には星々が輝いていた。  ブレイブとグレイシアはアンリから分けてもらったシチューの入った鍋を持ちながら、帰路へと就いていた。 「こんなにたくさんシチューもらっちゃったな……。食べきれるか解らないぞ」 「兄さん、寺院の食事は?」 「寺院に駆け込んできたヴァルトの話を聞いた師匠がさっさと探しに行けって言ってくれたもんだから、全然食べちゃいないよ。……まぁ、それにしても無事で良かった」 「ごめんなさい……。勝手に何処か行ってしまったりして」 「いいんだよ。過ぎたことだ、もう忘れよう。さ、急いで帰ろう。そして先ずはヴァルトと合流しなくてはならないね」  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  国王、ラグストリアル・リグレーは決断を迫られていた。 「陛下、これ以上の長考は最早どちらにも利益を産み出しません。我が国もティパモールも……そのパトロンであるアースガルドも、戦力を疲弊していくだけに過ぎません」 「うむ……。だがティパモールはリリーファーを投入してもなおびくともせず、寧ろ起動従士の精神が崩壊してしまう程だ。そんな中でさらに戦力を投下することは……」 「陛下、失礼します」  その時だった。臨時の執務室に入る人間が来たのは。  ピンクのカラーリングをしたスーツに身を包んだ『少女』は明らかに異様だった。周りに居る軍人は皆成人男性ばかりだったし、そのような派手な服装は身に付けない。そもそも、こんな戦地に少女が居ること自体おかしな話だった。  少女はラグストリアルの前に立つと、小さく跪いた。 「陛下。起動従士のマーズ・リッペンバーで御座います」  少女の言葉を聞いて、そこに居た人間――ラグストリアル以外、という条件が付くが――は言葉を失った。  先の『大会』によって起動従士が決められたことは知っていた。しかしそれはほんの数か月前に過ぎない。にもかかわらずここまで来ているというのはどういうことなのだろうか? そう思ったに違いない。 「よくぞ参られた、マーズ・リッペンバー起動従士。して、どうなされたか?」 「これから作戦に参加するため、挨拶をすべきだと思いましたもので」 「ほう。……誰がそう言ったのかね?」 「宰相が、そう仰られました」 「ふむ。宰相が、か。解った、しかし今日はもう遅い。明日から作戦に参加すると良いだろう」  それを聞いてマーズは深々と頭を下げる。 「了解しました」  それだけを言って立ち上がり、踵を返す。そしてマーズは執務室を後にした。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  ここで時間は八年後――即ち現代へと引き戻される。  マーズの部屋にてヴィエンスが報告を行った、その直後の事だ。 「……何故私が呼び出されたのかがまったく理解出来ないのだが」 「ごめんね、コルネリア。申し訳ないけれど、少しだけ昔話に付き合ってくれないかしら。まだ時間はあるでしょう?」 「確かに時間ならありますが……昔話?」 「そう。それもあなたたちも良く知っている、現在まで連なっている昔話、ティパモール内乱について――」  そして時間は再び八年前へと戻される――。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  執務室を後にしたマーズだったが、その足取りは重かった。  ラグストリアルが背後から追いかけてくる。 「やあ、先程は挨拶が遅れてしまって済まなかった。しかし君もここに来ているとは……。宰相のやつめ、報告を怠ったな。いや、そうでなければ話が繋がらん。まったく、こういう戦力の拡充はきちんと報告してもらわねば……」 「陛下。あなたが大会で仰られた言葉を覚えていますか」 「大会……君が優勝し、起動従士になった時の話かね?」  マーズは頷く。  それを見てラグストリアルは答えた。 「……ああ、確かに覚えているよ。『この国の平和のため、そしてこの国の民を守るため、全力を挙げて頑張っていただきたい』……そう言ったはずだ」 「リリーファーは国民を守るべきものなんですよね。どこかの言葉で『救う者』と言われているくらいに」 「……そうだ」  少し言葉を澱ませて、ラグストリアルは答える。 「ならば、なぜ国民を守るためのリリーファーで、国民を殺さなくてはいけないのですか」  ぴくり、とラグストリアルの眉が動いた。  マーズの話は続く。 「どうして殺さなくてはならないのですか。どうして国民を……ティパモールの民に何か落ち度があったのかもしれませんが、そうだとしても、同じ国民だということには変わりありません! どうして、どうして……」  その言葉に、ラグストリアルは彼女が満足できるような答えを出すことは出来なかった。  ラグストリアルはマーズの部屋まで見送り、その後彼女と別れた。誰かがすれ違うたびに、たとえその人間がどんなに忙しそうであっても、敬礼して通過していく。彼はそれを見て毎回頷きで答えていく。  彼がここに居るのは、何もマーズを見送りに来たわけではない。あくまでも目的地が途中まで一緒だったために向かっていた次第だった。  ならば、彼は何処へ向かっているというのだろうか?  答えは単純明快。自身の寝室であった。幾ら自分が最高権力を持つ指揮官であったとしても、睡眠を取らないと冷静な判断が出来なくなってしまう。  そして、今。  ラグストリアルは二十時間ぶりに数時間の仮眠をとることが出来た。とはいえ、奇襲などがあった時は有無を言わずに起こされてしまう。それが起きたのが約二十時間前――ということだ。  こういう緊急事態だからこそ、たとえ僅かでもゆっくり眠ることが出来るというのはいいことなのだろうが――それでも最近は激しさを増していた。  これで他国から何も無いというのが、未だ奇跡的だった。いや、実際にはあるのかもしれないが、『瀬戸際』でどうにか抑え込んでいるのだ。  ティパモール内乱に対するヴァリエイブルの対応については国民にとっても賛否両論であった。かたや平和(或いは秩序)を守るためには致し方ないことだという意見もあり、そうかと思えばやはりティパモールの民も国民なのだから権利を尊重すべきだという意見もある。未だこういう真逆の意見が現実に対立していないが、それも時間の問題といえよう。 「……何とかして早く抑え込まねば……」  そうすることで、同時に国民の関心をそちらにずらすことが出来る。少なくとも国に対する不満を僅かでも逸らすことが出来る。 「ほんとうはそんなことのために人を殺すべきではないのだがな……。『進言された』からには致し方ない」  そう彼は言い訳を呟く。言い訳だ。それ以上でもそれ以下でもない、最低の理由である。  だが、彼には断れない理由があった。それが『進言された』という一言に集約されている。何者かに進言された、しかもその何者かはとても地位が高く逆らうことが出来ないか実力行使で強制的にそれを行った、ということ――それが彼の心を縛り付けていた。 「いったい『あれ』は……あいつは、何のためにティパモールを……」  呪詛めいた呟きをしたが、それが聞こえる人間など誰も居なかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  深夜。  ヴァルトは唐突に目を覚ました。ヴァルトたちの寝床は三人で一緒になって寝るようになっている。そのため、誰が居ないのかということが簡単に解ってしまうのだ。いつもブレイブは寺院で僧といつも寝食を共にしているが、今日は久しぶりに三人で眠っている。  彼がちょうど目を覚ましたとき――その隣に眠っていたグレイシアの姿が無かった。 「姉貴……?」  いったい何処へ行ったのか。そう思ったヴァルトは起き上がる。あくまでも、隣に寝ているブレイブを起こさないように、慎重に、慎重に。  ゆっくりと起き上がっていったが、その僅かな時間があまりにも長く感じる。一秒が一分に、一分が一時間に感じてしまう。どれも皆、同じ一秒であるこのはかわりない。  寝床を何とかして出たヴァルトは、外を見て深夜の空気が普段のものとはまったく違うのを感じた。  肌に貼り付くように寒さがヒリヒリと感じる。しかしながら、それほど強い風も吹いていなかった。  ヴァルトたちが住む家は高台にある。ここが一番安い家だったからだ。両親亡き後、ブレイブが僧になり、師匠が提案してくれた家がここだった。だから今でも彼は師匠には頭が上がらないのである。  高台の端に、グレイシアは立っていた。彼女は月を見ていたのだ。月に照らされた彼女の横顔はとても綺麗で、神秘的であった。まるで天から降りてきたような美しさ、と言ってもいい。血の繋がった弟の彼でさえ、彼女の美しさに見惚れてしまったのだから。 「姉貴」  その空間を壊しては不味いと彼も思ったが、しかしなぜ彼女がそこに居るのかという興味がそれを上回った。だから、彼は声をかけた。 「あら、ヴァルト。起こしちゃったのかな?」  グレイシアは振り返り、ヴァルトに訊ねる。  ヴァルトはそれに首を横に振ったことで返答とする。 「……眠れなかったのかな。私もそうだよ、全然寝付けないんだ。なんというか、目が冴えちゃって」 「でも寝ないと明日に堪えるぞ? やっぱり幾らか寝ておかないと……」 「……怖い夢を見たの」  唐突に。  グレイシアはそう言った。  その言葉の意味が解らなかったわけでは無かった。  あまりにも突拍子も無いことだったから理解出来なかった――そういうわけでも無かった。 「……姉貴、それっていったいどういうこと?」 「怖い夢よ。朝日と共に何もかもが破壊される夢……とてもとても、恐ろしい夢だった……!」 「だから、それを紛らすためにここに?」  こくり、と彼女は頷いた。 「大丈夫だよ、姉貴。そんなことは起きない。まだヴァリエイブル軍は此方まで来ちゃいないって言っていたし、そんなことは無いよ」 「でも……」 「大丈夫」  ヴァルトはグレイシアの手を取り、握った。彼女を落ち着かせるためにとった行動だった。 「大丈夫だよ。何の問題も無い。明日も普通にやって来るさ。……だから、ゆっくり眠ろう?」  グレイシアはその言葉に頷いた。  そして二人は、そのまま戻っていった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  朝方。  ラグストリアルは起床し、予定通り『軍令特務零号』を公布した。これは読んで字の如く、軍令の中でもさらに|特別な命令(スペシャルケース)である『特務』の零号命令である。特務は普段使われるような命令ではなく、今回のような緊急時に用いられるものばかりだ。  そして、その中の『零号』とは――。  ――地区殲滅も辞さない、最新世代のリリーファーを投入して完全に事態を収束させること。  要するに『殲滅』を下した命令であった。  それを聞いて軍の中でも緊張が走る。特務零号は滅多に公布されることのない、貴重な命令だ。それが自国内で公布されるというのだから、緊張しないほうがおかしい話だ。 「国王陛下は四時三十七分、軍令特務零号を公布なされた。それの意味は君たちでも良く知っていることだろう。そこで我々は、その命令に従うこととなる。リリーファーは『マーク・ゼロ』と『マーク・ワン』。さらにサラエナの東から『マーク・ツー』、『マーク・スリー』が攻め入ることが予定されている。時刻は五時。五時より『ティパモール殲滅戦』を開始する!!」 5  街中を走る兵士の姿があった。それも一人ではない。十人、最低でも二十人以上……一個中隊ほどの戦力がある。ティパモールの街中を走り、住民を見つけ次第射殺していく。  普通ならばこんな残虐行為は許されない。  しかし、軍令特務零号――殺戮をも許可したこの命令はそれすらも可能とする。  助けを求める女性、最後まで抗う若い男、なぜこんな目にあったのかも解らない子供……みんなみんな、銃殺していく。射殺していく。刺殺していく。  殺して殺して殺して殺して殺していく。  それが彼らに課せられた命令だから。それが彼らに課せられた使命だから。  人々を守るために、国民を守るために鍛えてきたこの肉体を、この装備を、この力を、同じ国の民を殺すために振るっている。それは国民に危険が脅かされるからかもしれないからだ。  それはあくまでもそれを正当化しているだけにすぎない。それはその行為を自分が正しい、自分が正義だと思い込んでいるだけにすぎない。  そして、それはサラエナまでやってきていた。 「姉貴! もうサラエナの街はお終いだ! もうすぐここにもやってくるはず……!」  ヴァルトはグレイシアのいる部屋へやってきた。もうすぐそこまで兵士が迫ってきている。だから逃げなくてはならなかった。 「逃げると言っても……」  グレイシアは布団の上に居た。疲れていたのだ。  だが、その手を取って、 「急いで!」  ヴァルトは駆け出した。  あいにくブレイブは寺院へと出かけていったために、家にいるのはヴァルトとグレイシアだけだった。それが幸いとも言えるだろう。 「とりあえず寺院へ逃げよう……! 寺院まで行けばどうにかなる!」 「どうにか、って!?」 「兄さんが居る!」  ヴァルトがそう言うと、グレイシアは黙ってしまった。それを是と受け取って、ヴァルトは駆け出していった。  寺院。  ティパ神を祀るティパ教の寺院は騒然としていた。突然、ヴァリエイブルが戦闘態勢に入ったためである。 「ヴァリエイブルめ……。罪なき人間や無抵抗の女性までも殺しているという! これではまるで悪魔の所業ではないか!」  僧の一人がそう言ってテーブルを叩く。 「……、」  ブレイブもそう言いたかった。ヴァリエイブルとティパモールは長年内乱が続いていた。だから、ヴァリエイブルは強行突破に出たのだろう。そして、圧倒的戦力をもってティパモールを制圧する……ブレイブは考えていた。  もしブレイブの考えが正しいもので、そうなるのであるとすれば、一刻も早くここから逃げるべきなのか、それとも僧の皆と最後まで戦い抗うべきなのか。 「ブレイブ」  その時だった。  彼の元にある男がやってきた。その姿はブレイブが忘れるはずもない。 「師匠……!」 「ブレイブ、お前にも家族がいるだろう。急いでここを離れ、そこへ向かいなさい」  師匠から言われた言葉は、彼にとって少なからず衝撃を与えた。そんなことを言われるとは思いもしなかったからだ。 「師匠、しかし……」 「|寺院(ここ)を心配しているのだろう? だったらそんなものは心配ない。真に重要なのは家族だ。家族は居なくなってしまったら取り戻すことなど容易ではない。況してや命を失ってしまってはな……。だから、ブレイブ。お前は家族を救いに行くがいい。ほかの僧もそうだ。家族がいる人間、大切な人がいる人間……そして、それらを『助けたい』と思う僧がいるのであれば、私は止めない。その人間たちを救いに行くがいい」 「しかし……」 「そんなこと言われても、寺院は?」 「師匠。レイブン様はどうなさるのですか!」  ブレイブ以外にも集まっていた僧が、師匠――レイブンに質問を投げかける。  レイブンは首を振った。 「ここは心配いらない。ティパ神様の加護がある。それはお前たちにもある。ここで厳しい修行を積んだお前たちには、ティパ神様の加護がかかってるのだよ」 「しかし……!」 「さあ、行くがよい。家族との大切な時間が、刻一刻と失われつつあるのだぞ」  それを聞いて、僧は一人、また一人と部屋を出て行く。  最終的に残ったのはブレイブとレイブンだけとなった。 「……どうした、ブレイブ。早く行かないと……」 「師匠は」 「だから言っただろう。私はここに残ると。心配などいらぬ、ティパ神様の加護が……」 「もしかして、軍に一番狙われるのがここだと思ったのではないでしょうか?」  ぴくり、とレイブンの眉が動いた。  ブレイブの話は続く。 「異民族を統治するために取る手段として一番に挙げられるのは宗教を認めることです。特に我々ティパモールに住む人間の大半はティパ神を信じ、ティパ教を信じています。ですから、ヴァリエイブルは一度ティパ教を受け入れたのでしょう」 「……すると、ブレイブ。君はティパ教を受け入れたのはこのような時のために仕組んだことである。そう言いたいのかね?」  ブレイブは頷く。  それを見てレイブンは溜息を吐く。 「そうだ。君も私と同じ考えに辿り着くとはな……。別に悪いことではないが、やはり君はここで死ぬべき人間ではない。急いで家族と逃げたまえ。未だ今ならティパモールから脱出することも可能だろう。私の知り合いがアースガルズ国境で君たちを待っている。あとは彼に従えばいい」 「師匠! まさかあなたはそれを知っていて、受け入れを許可したのですか!」 「そうするほかなかったのだよ。ティパ教をこのままティパモールで続けていくためにも、ティパモールという場所が、文化が、残り続けていくためにも……だ」 「しかし……結果としてティパモールはこのような目にあっています! ティパモールはもう、崩壊しようとしています……!」 「ああ、そうだ。私の判断は間違っていたのかもしれない。だが、この屈辱は忘れてはいけないのだ。忘れてはいけないが、耐えねばならない。復讐は復讐しか生み出さないのだよ」 「ですが……!」 「もう時間がない。銃撃の音が聞こえておろう? 行くがよい。中庭に地下通路がある。そこを通ればどうにか見つからずにサラエナから脱出出来るはずだ」  その声はとてもか細かった。しかし、はっきりとブレイブの耳に届いた。  そして、彼は涙を堪えながら踵を返し、その場を後にした。  『マーク・ゼロ』に乗り込んだ起動従士マーズ・リッペンバーは、コックピットでひとり小さく溜息を吐いた。  第一期第六世代リリーファー『マーク』。リリーファーが確認されてから百年以上の間、人類は研究に研究を重ね、漸くこの境地まで辿り着くことが出来た。  それは、同性能リリーファーの量産である。リリーファーを量産することは難しかった。だが、このマークは容易に量産が可能であった。最終的にこのマークは第二期第一世代のモデルになり、これを基に第二期リリーファーの製造が開始されたとも言える。  マークには初めて体温や汗、及び血圧によって起動従士の状態を把握し、その場合に応じて自動的に対応する『リリーファーコントローラ』を導入している。  マーズはそれに触るのは初めてであったが、不思議とそれには慣れていた。 「これがリリーファーコントローラ……へぇ、こういうのがあるのね」  士気を高めるためにリリーファーコントローラに触れてみるも、効果は今ひとつ。  仕方ないだろう。大量虐殺の命令が下って、それを進んで実行するのは先ず精神がまともでない。特に彼女は未だ起動従士になったばかりだし、『少女』と言うべき年齢だ。  だが、やらねばならない。実行せねばならない。それが彼女の生きる道だからだ。この場合において命令に逆らったら、軍法裁判にかけられるか、或いはその場で殺されるか――どちらにしろ、良い結果を招くことはない。 『マーク・ゼロ、これより作戦を開始する。準備万端か?』  通信が入った。ノイズ混じりの通信だったのは、ここいらが街中だからなのかもしれない。街中には至るところには電波が発信・受信されている。電波を傍受されないためにもその周波数を避ける必要があるわけだ。  だが、ノイズが混じっていることを考えると、この周波数も少なからず誰かが傍受している可能性がある――そういうことが考えられる。そういう可能性も考慮して、軍の通信はパッケージングされている。パスワードが無いと通信の送受信がまったく出来ないシステムだ。 「こちらマーク・ゼロ。異常無し、何の問題も無い……何時でも発進出来る」  マーズは緊張を押さえ込み、丁寧に、かつゆっくりとそれに答える。 『了解。それでは行動を開始してくれ。健闘を祈る』  その言葉を聞いて、マーズは頷いた。別にその頷きが誰かに見えているわけでもない。確認の意味を込めた行動ともいえよう。  そして、彼女はゆっくりと深呼吸する。はっきり言ってそんな時間などまったく存在しないのだが、せめて直前くらい落ち着きたいものである。彼女はそう考えていた。  そして。  マーズはリリーファーコントローラを強く握った。  それと同時にマーク・ゼロのメインエンジンが大きく唸りを上げる。『マーク』はリリーファーコントローラに操縦の重点を置いたシステムとなっており、リリーファーコントローラに登録された人間がそれに触れることによってリリーファーが起動する。因みに、リリーファーコントローラに登録するのは指紋と虹彩だ。コックピットに入ると前面に設置されているカメラが虹彩を確認し、さらにリリーファーコントローラに触れることで指紋を確認する。これが両方同じ登録された人間のものであることが確認されれば、初めてメインエンジンが起動するのであった。  メインエンジンの音を聞きながら、マーズは自然と鼻歌を歌い出す。これから始まるのは通常の思考さえ持っていれば『楽しい』ことなど有り得ない。  しかしこれが初めての任務であることを付け足すとどうなるだろうか? 訓練学校の学生が初めて起動従士になってからのミッション、即ち本物の、自分だけのリリーファーを操縦出来る機会に恵まれたのである。そう考えれば幾分気持ちが楽しいものになるのも頷けるかもしれない。  彼女はそんな楽しさを胸に抱えながら、これから行う作戦に背徳すら持っていた。当然だろう、これから行うのは歴史的にも稀な大量虐殺である。それに対していつか批判が起こるかもしれない。いつか彼女に恨みを持つ人間が彼女に牙を剥くことだって――もちろん考えられることだった。  だが、彼女はそれを理解していた。彼女はそれを了承していた。了承した上で、この作戦に参加しリリーファーに乗っている。  起動従士は軍の狗――そういう言葉があるくらいだが、そもそもリリーファー自体製造こそ様々な(別に国だけに限らず)場所で生産されているのだから、起動従士は軍人であることにほかならない。  メインエンジンが、いい感じに暖まってきた――彼女はどことなくそんなことを思った。リリーファーコントローラを握ったまま、それを前に押し出した。  寺院に到着したヴァルトとグレイシアは、予想外の光景をここで目撃することになった。 「どういうことだよ、これって……!」  寺院から僧が、一目散に逃げているのだった。  ヴァルトにとって、その光景は僧に対する高尚さを瓦解させるものであった。  逃げている僧に、果たしてかっこいいのだろうか? 逃げている僧にかっこよさなど感じるのだろうか?  それは誰にも理解出来ないことなどではない。誰だって見ていれば、そういう考えに至るはずだ。  ならば、どうすれば良いのだろうか? 「ヴァルト! 何しているの!」  しかしその思考はグレイシアの呼び掛けによって強制的に遮断された。 「急いで行かないと……未だ兄さんの姿は見ていないから、中に居るはずよ!」 「確かに……」  彼は何か話を続けようとしたが、それを止めてグレイシアとともに寺院の中へと入っていった。  寺院の中はとても暗かった。いつも多くいる僧がまったく居ないからなのかもしれないが、静かだった。その静かな雰囲気がとても恐ろしく感じられた。 「……ここがほんとうにあの寺院なの? まるで別世界みたい……」 「確かにここは寺院だよ。今は僧の人がみんな居なくなってしまったから、これほどまでに静かになっているんだと思う」  そう言いながらヴァルトはゆっくりと進んでいく。  背後から何かが聞こえてくる。それは足音だった。足音はひとつではない。二つ、三つ、四つ……いや、それ以上だ。少なくとも十以上のそれが聞こえてくる。 「……何よ?」 「もしかして、もう兵隊がやってきたのか!?」  ヴァルトは言うと、グレイシアの手を強く握る。 「走るよ!」  そして二人は駆け出す。後ろから迫ってくる兵隊に見つかったが最後、殺されてしまうだろう。それだけは絶対に嫌だった。何が何でも逃げて、何が何でもこれをヴァリエイブルに報復してやる――それが彼の考えだった。当然だろう。突然にして住むところを破壊され、今まで仲の良かった人間を凡て殺されてしまったのだから。 「俺たちが何をしたって言うんだよ……!」 「ほんとうね。私たちがどんな罪を犯したというの。母さんと父さんはあくまで主権を主張しただけなのに。権利を主張しただけなのに。それだけで殺されて、内乱へと発展していった。そしてその内乱を止めるために、ヴァリエイブルは全力をかけてこのティパモールを潰そうとしている……。いったいどうして? 私たちがそれほどまでに罪を犯したというの? ティパ神様はなにも答えてくれない……。何も言ってくれない……」  二人はそんな会話を交わしながら、中庭へとやってきた。  中庭はとても静かだった。どうやら兵隊をどうにか振り払ったようだった。 「……ここまで来れば、大丈夫……?」 「ヴァルト、グレイシア!」  声が聞こえた。  その声を聞いて二人は肩を震わせたが、直ぐにその声が誰のものかを理解した。 「……兄さん!」  二人はそちらを見た。そこに立っていたのはブレイブだった。  ブレイブの方に駆け寄ると、グレイシアとヴァルトを抱き寄せた。 「二人共無事だったか……! それだけで良かった……」 「兄さんは大丈夫?」 「ああ」  ブレイブは頷く。 「とりあえず、ここから逃げよう。脱出経路は既に確保してある。あとはここから――」 「隠し通路?」 「そうだ。ここから出るとサラエナの南……アースガルズの国境付近に出る。そこで師匠の知り合いがいるらしいから、そこで待ち合わせている。師匠にはほんとうに頭が上がらない」 「その師匠は?」 「師匠はティパ神様とともに……この寺院を最後まで見守るそうだ。ほんとうは俺もどうにかしようと思ったが……、師匠にこっぴどく叱られてしまった。家族がいるのだから、家族を大事にしろ……とね」 「……それじゃ、この通路を通ればいいんだな。先ずは姉貴、通りなよ」  ヴァルトの言葉にグレイシアは首を振る。 「先ずは一番下のあなたでしょ、ヴァルト。あなたが入って、次に兄さん。最後に私が入ればいいわ」 「でも俺が一番上……」 「さっさと入らないと、もう寺院に兵隊が入ってきているのよ。何が起きるか解らないのに、ここでもたもたしていたら全員が死んでしまう。さあ、早く入って」  それを聞いてヴァルトは仕方なく、穴の中へ入っていった。  その穴はとても狭かったが、まったく進めることが出来ないわけでもなかった。狭いのは最初だけであとは普通に排水路とつながっているようだった。 「いいよー」  穴の奥から声が聞こえて、次にブレイブが入る。 「私はここを見ているから」  グレイシアはそう言って、笑みを浮かべる。  ブレイブはそれに何の違和も抱くことなく、穴の中へ入っていった。  ブレイブが穴に入り、グレイシアに入ってくるよう言おうとした――その時だった。  無慈悲にも、一発の銃声が聞こえた。  それから一瞬遅れてドサリ、と何か重たいものが倒れる音がした。 「……姉貴?」  ヴァルトは訊ねる。しかしグレイシアの返事はない。  そこでブレイブは察した。少し遅れてヴァルトも察し、急いで穴へと向かっていく。  しかしそれはブレイブによって制された。 「兄さん、どうして!?」 「お前も穴に戻ったら殺されるだろう!! グレイシアはきっとそれを思ったんだ……。だから俺を最後じゃなくて、グレイシアを最後にしたんだ……!」 「でも……でも……!」 「俺だって辛いよ……。だが……、このまま出て行ってどうする? みすみす殺されに行くか?」 「じゃあ!」 「生きるしか、ないんだよ」  ブレイブはヴァルトの肩を持って、言った。  ブレイブの話は続く。 「生きるしかない。生きて、生き抜くんだ。そして何れ……俺やヴァルトが成長して、大人になったら世界に見せつけてやればいい。今はこうなってしまった。世界の凡てが敵になってしまうかもしれない。だが、俺たちだけは味方だ。だろ?」  その言葉にヴァルトは頷く。彼は涙を堪えながら、何度も何度も頷く。  それを見てブレイブは笑いながら彼の頭を撫でた。 「おいおい、泣くなよ。男だろ? きっとグレイシアもそう言うぞ?」 「……兄さん、行こう」  ヴァルトは涙を拭って、言った。  ブレイブは無言で頷いた。  ヴァルトは気付かなかった。ブレイブはヴァルトに泣くなと言っておきながら、彼が一番最初に涙を流していたということに。  そして彼らは排水路を進む。  彼らの目には、一筋の光が見えていた。 『……ねぇ、あなた。この通信が聞こえている?』  任務中、マーク・ゼロを操縦するマーズの耳に声が届いた。  マーズは直ぐにそれが他のリリーファーからの通信であることを把握すると、 「こちらマーズ、聞こえているわ。どうかしたかしら、何か作戦に支障でも?」 『あなた……どうしてここまで冷静にしていられるの……?』  抑揚は無く、はっきりとした口調。  しかしそれには明らかな意思があった。  怒りだ。極端までに膨らんだ怒りである。もはやそれを隠しきれておらず、言葉の節々からそれを感じ取ることが出来る。  もしかしたら、その『怒り』はマーズに気付かせるためにわざと感じ取らせているのかもしれない。彼女はそう考えた。それは本人に聞いてみないと、確認することは出来ない。 「……えーと、マーク・ワンで間違いないよね? その起動従士ナターシャ・クロムウェルで」 『えぇ、間違いないわ』  数瞬の沈黙を置いて、ナターシャは答える。  ナターシャはマーズと同じくらいの年齢であるということは彼女も知っていた。ただ、学校は違うことから今まで会うことは無かった。  ナターシャとマーズ、二人が初めて出会ったのは作戦会議前に行われた顔合わせの時だった。薄黄色の髪がとても艶やかで、美しかったのを覚えている。それがたとえ同性であったとしても、見惚れてしまうくらいに。  ナターシャは財閥クロムウェル家の長女であった。しかし両親との折り合いが付かなくなり、半ば強制的に起動従士訓練学校に入学させられた。  実質的な『絶縁』であったが、それについて彼女は後悔などしていない。寧ろ、リリーファーを動かせる一番近い可能性を手に入れることが出来るからか、彼女は喜んでいたのだ。まぁ、絶縁めいた状態になったとはいえ、二十歳まではクロムウェルの姓を名乗ることが出来るし、援助も多少ながら受けることが可能だ。  しかしペナルティとして二十歳までに結婚し、名字をクロムウェルから変更しなくてはならないのだ。それは確かに大変なことだ。そして、それを彼女自身の口から聞いた時、マーズは同情した。しかし、ナターシャの心情を良く知らない彼女が|上辺(うわべ)だけ同情しても無駄だった。実際ほんとうにマーズは上辺だけだったのか、それとも心から同情していたのかは解らない。しかしナターシャの意志を知らないのもまた事実だ。 『あなた、ほんとうに今回の作戦を最後まで全うするつもりなのかしら? このままではわたしとしても流石にどうかと思うのだけれど』 「それに対しての解答を示すならノー、ね。私達起動従士はたとえどんな命令でも逆らうことが出来ない」 『ならば、問う。あなたは死を命令されれば死ぬのかしら? 今の言葉はそれと近い意味になるけれど?』  そこまで来れば、それはまるで子供の理屈だった。確かに二人は子供だ。だが、次に彼女たちは起動従士である。起動従士は軍属であり、軍の命令に逆らうことは先ず出来ない。 「……それとこれとは話が別でしょう。そんな命令を受け取ることなどできません」 『だったら、この大量虐殺を命じた命令も、私は受け取ることができません。そもそも、同じ国民を殺すためにリリーファーに乗っているわけではありませんから』 「まあ、それはあなた自身の考えだから気にしないけれど」 『それじゃ、あなたは大量虐殺を認めている、ということなのね』 「認めなくてはならないことだって、世の中にはあるのではないかしら?」 『……それは言い訳よ。言い訳に過ぎないわ。あなた、それでもほんとうにリーダーを務めるつもり?』  マーズは溜息を吐く。 「リーダーはわたし。命じられたのもわたし。そして出撃するよう私たちは命じられた……。それ以上でもそれ以下でもない。私たちは軍からしてみれば代用の効く何かだよ。捨てることもできるし、そのまま飼い殺しにすることだって出来ると思う」 『ならば……!』 「だが、それとこれとは話が別。私たちは言われた命令をこなすまで。その命令がひどいものだったら、まあ、仕方ないかもしれないけれど。それでも我儘で命令を遮ることはいけない」  メインエンジンの音が耳にこびり付く。それくらい長い時間、メインエンジンが駆動しているのである。今か今かと待ち構えている。いつ動くのかと待ち構えているのだ。  だから、マーズは話を締める。 「……ともかく、もうこれ以上迷惑はかけられない。命令をただこなすだけ。感情も何もかも押し殺して、私は私のすべきことをやるだけ。私から報告しておくから、あなたはもうここから姿を消しなさい。そのほうが、あなたの身のためよ」  そして、通信を切り、マーズはクロウザの基地から発進した。  レステア、ベクター医院。 「どうやらヴァリエイブルが本気を出したらしい。サラエナとクロウザから攻撃を開始した。だから、ここにもたくさんの患者がやってくるだろうし、ここが戦地になることも間違いないだろう」 「それで、私たちを外に出す……ということですか」  たくさんの荷物を抱えたアニーの頭を撫でて、ベクターは笑みを浮かべる。 「仕方ないんだ。君たちを傷つけるわけにはいかない。もうほかの子供たちはどうにかしてティパモールから逃がしたからね。あとはきみとレナだけだよ。二人だけならどうにか家族にも偽装出来るだろうし何とかなるだろう」 「そういう話ではありません。先生は……」  アニーはベクターのことが好きだった。  だから彼女はベクターと一緒に居たかった。ベクターとともに最後まで仕事をしたかった。  だから彼女は一生懸命、涙を流しながら、言っている。 「……君の気持ちはよくわかる。君がこの街の人間を、傷ついた人間を助けたいと思う気持ちも解る。だが、時間がもうない。時間がないんだ。これ以上していたら、君も、レナも危ない。君たちのことを僕は大事なんだよ。大事にしているんだよ。解ってくれ」 「解ってくれ、って……。私の気持ちも解らないで……」  アニーは荷物を放り捨てて、唐突にベクターを抱きしめた。  それは突然の行為だったから、彼にも予想外のことであった。アニーはそれが精一杯だった。ほんとうはキスしたかった。それ以上の行為へと発展したかった。しかし時間がなかったのと、これ以上は恥ずかしかったのとがせめぎ合って、結局これ以上は出来なかった。 「先生……、絶対生きてくださいよ。そして、私たちが帰ってくることが出来るように、ここは残しておいてくださいね」 「ああ、解った」  ベクターは笑みを浮かべ、頷く。  アニーは荷物を再び抱え、レナとともに向かっていった。  もちろん、彼が元々用意しておいた場所である。彼は職業柄いろんな友人関係がある。それを有効に活用した次第だ。  彼はアニーたちを見送り、中へ入り椅子に腰掛け一息吐く。 「……嘘、吐いてしまったなあ」  彼の言葉は誰もいない医院に溶け込んでいった。  サラエナの地下道を抜けて、ヴァルトとブレイブは漸く到着した。  そこは高台にある廃屋だった。抜け道がないようにカモフラージュしたためだろう。 「……何だよ、あれ」  高台からサラエナを見る。  そこに広がっていたのは、火の海だった。  今まで彼らが暮らしていた、サラエナが火の海に沈んでいっている。 「何だよ……何なんだよ……」  ヴァルトは涙を流し、膝から崩れ落ちる。  対してブレイブはただじっとそれを見つめていた。それを目に焼き付けているようにも思えた。 「……兄さん、俺たちが何をしたって言うんだよ。そんなに権利を主張しちゃいけないのかよ」 「だから、それを忘れてはいけない。それを耐えるんだ。耐えねばならないんだよ。ずっと耐え続けなくてはいけない。復讐は復讐しか生み出さない」 「じゃあ泣き寝入りしろ、って話かよ! 泣き寝入りして、ずっとヴァリエイブルに踏み潰された感じで生き続けろ。兄さんはそう言いたいのかよ!!」 「俺だって辛いよ!! 辛いが、頑張るしかねえんだよ。生きるしかないんだよ。そうじゃないと、グレイシアに笑われるぞ。あいつは、グレイシアは、命をかけて俺たちをここまで逃がしてくれたんだよ。だから……」 「そうなのかも……しれないけどよ……」  クラクションが背後から鳴った。  その唐突とも言える音に気になった彼らは振り返る。  そこにあったのはこの光景には似つかわしくないスポーツカーだった。黄色のスポーツカーに乗っているのは、若い女性だった。  女性はサングラスを外して、ウインクをする。 「もしかして……師匠の言っていた……?」 「あなたたちがヴァルトくんとブレイブくん……かな? 何だか一人足りないっぽいけど、それは触れないほうがいいよね」  そう言ってスポーツカーから女性が降りてきた。  女性は笑みを浮かべながら、スポーツカーの後部座席から何かを取り出した。  それは衣服だった。 「一先ずここから逃げるわよ。その砂まみれの服はここで捨てて、この服を着なさい」  それぞれに服を投げつける。サイズは凡て合っていた。 「あなたは……」  その言葉に、女性はサングラスを再びかけた。 「私はアルシア・ヴェンダー。エージェントと言ってくれればいいかな。とりあえずそれ以上の肩書きは私、持つ気なんてないからさ」 6  サラエナを火の海にしたリリーファー、マーク・ツーとマーク・スリー。それに乗っていたのは何れも似たような容姿の男女であった。  正確には彼らは双子であった。それも双子ではスタンダードの一卵性双生児というやつだ。一応髪を伸ばすとかどうにか違いを見出だそうとしているが、裏を返せばそれ以外は完全に一致なのだ。 「どうだい、リア。調子は?」  マーク・ツーに乗る起動従士が訊ねる。とはいえ、中に乗っているのは少年だ。起動従士の中でも珍しい。カーキ色の髪はとても鮮やかだ。まるで絵の具を塗ったようだし、もっというならば、彼の身体的特徴をも含めて、それ自体が一枚の絵画になる美しさだと言ってもいい。藍色の瞳、すらりと通った鼻、まるで女性めいた桜色の唇。痩せ型と言われがちだが、決してそうには見えず、世間一般に見れば普通の体型なのかもしれない。まあ、どちらかといえば少しだけ骨張った身体だろう(本人による総合評価であり、これが第三者による評価ではない)。  そんな少年イグネル・エクシルは双子の妹であるリフィリア・エクシルと通信をしていた。 『調子は……特に問題ないよ。順調に作戦も進んでいるし』 「そうだね。ならば、それでいいんだ」 『リアは大丈夫。だってお兄様が一緒に居るんですもの!』  その言葉に少しドキリとしてしまうイグネル。リフィリアは妹だが、けっこう外のことを気にしないでこういうことを話す。だからそれを聞いているイグネルからすれば少々恥ずかしいことではあるのだろうが、しかしそれが何年と続けばもう『日常』と化してしまった。周りもそういう考えを理解しているのが、彼にとって少々有り難かった。 「……まぁ、いいや。それよりもリフィリア。作戦の首尾はどうだい?」 『そちらも順調です。サラエナの三分の二が陥落しました。残り三分の一も時間の問題でしょう』  そうさらりと言えるのは、彼女がそれを悪と認識していないからかもしれない。  そもそも悪とは何か――と考える人間も居る。悪も正義も、その定義ははっきり言ってまちまちだ。  だから国で『正義』を定義した。これが国法だ。国法で定義されているから正義、定義されていないから悪である。  何も自分が悪だと思って活動する人間は非常に少ない。それが逆なら話が別であるし、誰もが皆『正義』を持っている。それが歪んでいないかどうか、その判断は本人か或いは他人かに委ねられてしまう。 「そうか。ならば、それほどまでに心配する必要性はないかな」 『当たり前です、お兄様。私はお兄様を守るために、戦っているのですから!』 「普通逆だよなあ……」  頭を掻いて、笑みを浮かべるイグネル。  リフィリアはさらに話を続ける。 『何をおっしゃいましょうか! 私はお兄様を大切にお慕い申し上げているというのに。私はただお兄様のことが……』 「解ったよ、済まなかった。別に君のことを責めているわけじゃない」  そう言ってリフィリアを宥めるが、しかし彼としては少しだけ後悔しているところがあった。  リフィリアとイグネル、兄はイグネルなのだが、リリーファーの類希なる才能を持っているというのは、どちらかといえばリフィリアだった。しかしこの二人、別に親が起動従士だったわけでもなく、ただ一般の市民だった。ほんの数年前、リリーファーを実物大に見た彼らはそれに一目惚れしてしまい、訓練学校への入学を決意したのだ。  入学してから、その才能が発揮されたのはリフィリアの方だった。だからといって別にイグネルには才能がない――というわけではない。イグネルだって普通の起動従士と比べればある程度秀でている方だ。  だが、妹であるリフィリアはそれ以上だった。彼女が持っているパイロット・オプション――『|真紅の薔薇(ブラッド・ローズ)』が彼女の凡てを変えてしまったといってもいいだろう。  『真紅の薔薇』はその現象から名付けられた、稀有な例であると言われている。唯一と言ってもいい、『別対象型』のパイロット・オプションである。真紅の薔薇――そのパイロット・オプションははっきり言って明らかになっていない。それゆえに、彼女はこう言われている。  ――真紅の薔薇と戦った者は、必ず勝つことが出来ない。  それはおとぎ話めいたものにも思われるが、しかしそれは紛れもない事実であった。紛れもない事実であるのならば、それを誰も疑わなければいいのだが、しかし悲しいことに疑うことを忘れられないのが人間の|性(さが)というものだろう。  ところで。  人間とはどうして疑うことを忘れられないのだろうか。  人間は信じ続ければ困ることもないというのに、どうして疑ってしまうのだろうか。実際、この内乱ですら、疑うことが結果としてこのような戦乱を招いてしまっている。だから、完全に疑ったことによって引き起こされたものだと言っても、誰もそれに異を唱えることができないのであった。 「……ほんと、どうしてだろうね。どうして人は信じ続けないのだろうか。でないと、今回のようなことが起き続けてしまうのに、さ」  イグネルは言った。  対して、リフィリアの返答は冷たい。 『人間を滅ぼすのは人間ですよ。たとえ強大な力を持った生物が現れたとしても、最終的には人間と人間の戦いに帰結する。それは悲しいことですけれど、しかし仕方ないことでもあります。仕方ないことではありますが、しかしながらそれをそのままにしてはいけません。蔑ろにしてはいけないのです。だから、私は起動従士としてこの世界を是正する。間違っていることを、正しくないことを、凡て正しくするために。「黒」を「白」とするために。それはお兄様にも何度も言っていることですし、いくらお兄様であってもそれを止めようと言うのであれば、私は全力でお兄様を潰す……そう言った気もしますが』 「君の言葉を僕が否定するわけないだろ、リア。君は君の世界を構築すればいい。僕はその中に少しでも居られるのであれば……それはとても幸せなことなのだから」 『お兄様はとても静かです。それでいて自分の意見を一切申しません。まるで私のボディーガードめいた……何かのような。いいえ! お兄様はそんなわけありません! そうでしょう、お兄様?』 「ああ、そうだ」  イグネルは頷く。 『僕は君の唯一の兄であり肉親であり信頼できる人間であり……友でもある。そんな君を僕が見捨てるわけがない。だが、僕は君のことを見捨てることができない。君が僕を見捨てることができても、その逆は出来ない。僕は君を助けなくてはいけないんだよ』 「どうして……ですか」 『何度も言ったじゃないか。それが君にとっても僕にとっても最善の選択だ、と』  エクシル家はかつては貴族として土地と財産を大量に所有し、その栄華を極めた。だが、極めるところまで極めればあとは落ちるだけ――それはどこでも道理で一緒のことだった。貴族もそういう社会の上に成り立っている。そして、エクシル家もその例に漏れず、一気に降下した。|名前(ブランド)も、資産も、凡て奪われた。  残されたのは身体のみ――ではなく、慈悲により残された伽藍洞の家。その家に唐突に彼女たちは住むこととなった。  そしてその出来事と同時に、彼女たちは誰も信じられなくなった。そして同時に信じられなくなったもの――それはお金だ。お金は人を恐るべき方向に変えてしまう。かつては純粋な青年がお金によって悪徳な性格へと変貌を遂げてしまったり、貧乏だった老人が大量のお金を手に入れることで贅沢に走るなど、それによっていい結果を生み出したのはほんのひとにぎりで、それも頭がいい人間ばかりだ。  即ち凡人にはお金によって良い結果を生み出すことは皆無であり、それが起きたことは『奇跡』といってもいい……そういうことである。まあ、それが実際に実現出来るかどうかはまた別の話である。  しかしながら、彼女たちは今までお金を信じてこなかった。お金が嫌いだからというわけではない。流石にお金をまったく使わない生活というのは無人島までいかないとほぼ不可能であるから、必要最低限のお金しか使用しなかった。そしてお金が欲しいと言ってくる人間は何が何でも突っ放した。だから彼女たちは友達を作らなかった。人間強度が下がるからではない。ただ、怖かったのだ。人間と関わるのが怖かった。またお金によって家が崩壊してしまうのが嫌だった。実際彼女たちがここまで上り詰めたのはほぼ奇跡に近いし、もしこれが奇跡でないというのなら、彼女たちは凡人ではなく天才の範疇に入るのだろう。実際、リフィリアはパイロット・オプションとしては稀有なものを手に入れている。  対して兄のイグネルは平平凡凡と言ってもいい。リフィリアが天才だから、その代償なのかは解らない。しかしイグネルが平凡の才能を持っているということは事実である。ほかならない事実だ。それ以上でもなくそれ以下でもないしそれを変えることも出来ないだろう。努力に応じては変えることができるかもしれないが、まあ、それも無駄だと思っているのがイグネルなのかもしれない。二人共『天才』だということが証明されてしまえば彼女たちを組ませようとはしないだろう。それは国が認めない。なぜならそれによって彼女たちがクーデターでも起こされたら対応のしようがない。彼女たちの言い分をそのまま認めなくてはならない。  だから、イグネルは凡人を『演じ』なくてはならなかった。あくまでも奇跡に操られている凡人を演じる。それが彼の役目だ。リフィリアの類希なる才能を隠すためではない。寧ろそれに隠れているのだ。その時のために、彼は力を隠しているといってもいい。 「命は金で買えない。だが、命は金で『変える』ことが出来る。貧乏だった人間が一日で貴族の仲間入り、逆に貴族で順風満帆だった人間が一日で街で情けを恵んでもらう立場に成り下がるかもしれない。そしてその権利は誰にでも与えられている。その結果までは保証されていないけれどね」 『結果まで保証されていたら、「ギャンブル」の意味がないですわ、お兄様』  ギャンブル。  リフィリアはそう言った。  彼女たちはそれをギャンブルと呼んでいる。いつでも人間は金によって『変わる』ことが出来る。命を買うことは出来ないが金によって生活を変えることが出来る。生活を買う……そういえば言い回しも通用するかもしれないが、要するにそういうことなのだ。彼女たちはそのギャンブルに勝ち続けてきた。ひとつの目的のために。ひとつの義務のために。ひとつの任務のために。 「……それじゃ、聞くけどリア……そこにいる難民は死ぬべき人間だと思うかい?」  イグネルは指差す。そこにいたのは怯えて立ち上がれなくなった難民だ。恐らくティパモールの人間だろう。  リアは笑みを浮かべて、イグネルの言葉に答えた。 『……当然ですわ、お兄様。ですが、実際に死ぬかどうかはあの難民次第です……わねっ!』  最後力を込めたのはパンチを地面に放ったからだ。パンチ一発で地面が砕け、その難民は地面の切れ目へと飲み込まれていった。  それを見てリフィリアは一言。 『……あそこで死んだということはあの人間は死ぬべき人間でしたよ。そして私たちは二人人間を殺したから一万ルクス来月の給料に加算されるわけだ。……はっきり言って人間一人殺すごとに五千ルクスって安いですわよね、お兄様。どう思います?』 「うん。僕も安いと思うけれどねえ……。でも何度言っても改定してくれないんだよ。起動従士の給料が高いってのもあるんだろうけれどね。今度起動従士の給料を下げるって噂もあるくらいだし」 『それじゃ、ますます起動従士が減るのではありません? 流石に起動従士になった理由が金儲けなんて人間はいないと思いますけれど……』 「起動従士になった理由が普通の人間なんて居やしないよ。起動従士という世界の汚れ役を進んで受けている時点でそいつはかわりものだ。もちろん、僕とリアもそれに該当するけれどね」  そう言って二人はリリーファーを動かしていく。  彼女たちはこれまでも、そしてこれからも虫けらのように命を潰していく。その大きさ小ささには関係ないはずだ。  彼らは人間一人殺すたびに五千ルクス支給される。それが高いか低いかで言えば、はっきり言って低いだろう。実際それによって人命の価値が決められていると言ってもいいのだから。  五千ルクス。  その価値が低いのか高いのか――それは誰も知ることが出来ない。知る手段が無いからでもあるし、それを定義出来るのはカミサマくらいだろう。せいぜい人間が勝手に位置づけしているだけに過ぎないのだから。  そしてそれを起動従士たちは解って人を殺している。兵士だってそうだ。殺さなければやっていけない。戦果を上げねば食べていけない。平和な世界に彼らは不要だ。だから戦争を起こさねばならない。だからそういう種を蒔かねばならない。それが実際に『戦争』という火種へと発展するかは別だが、蒔かねば種は成長しないのだ。 「……蒔かない種は何も出てこないよ。それは可能性を捨てているからだ。それは可能性を生み出す機会を自ら捨て去っているだけだ。だが、たとえ一粒でも種を蒔けば、それは機会チャンスを生み出し、それは可能性を生み出す。一粒が確実に芽を出すかは微妙だ。何十粒ばら蒔いたとしても芽を出すのはよくても数粒だ。それだけでも案外いい方だと思うけれどね」 『……お兄様の話はたまぁに難しい話が出てきて、よく解りません。というか、解らないものだらけです。未確認です。天才とか謳われる私ですが、それでも理解出来ません』  そう言ってリフィリアは小さく溜息を吐く。即ち彼女が呆れ返ってしまったわけだが、別にそれは今回が初めてなわけではない。月に一回、週に一回、一日一回、一時間一回……いつどのタイミングかは彼自身コントロール出来ていないところがあるが、そのような回りくどい言い回しをする。  それが好きか嫌いかと簡単に決められることは、彼には出来なかった。何故ならそれは半ば発作的に、それでいて日常的に起きることだからだ。もっと言うならそれにリフィリアの鋭い突っ込みめいた何かが入って漸く完成と言える。毎回毎回飽きずに突っ込みをするリフィリアもリフィリアであった。 「まぁ……そんなことはさておき、とりあえず命令を確認しておこうか。僕たちの殲滅対象はサラエナのみだ……ただしそれはあくまでも今のところであるし、それが変更される可能性は充分にあるだろうけれど」 『お兄様、それはいったい?』  リフィリアの声には疑問よりも濃いある感情があった。――それは『歓喜』だ。興味よりも恐怖よりも畏怖よりも強い感情、それが歓喜だ。  とどのつまり、彼女はこう思っているのだ。  ――もっとたくさんの人間を『殺す』機会に恵まれる  無論、それが正しいかどうかと言われると微妙なところだし、彼女が短絡的にその考えに辿り着くだろうことはイグネルにも解っていた。  だが彼女にとってそれが正しいか正しくないかは、もはや判別が付かなくなっていた。判別をつける必要が無かった――そう言ってもいいだろう。実際、彼女たちはそんな考えがまともに働かないくらい狂ってしまっている。狂っているからこそ、正しいことが間違っていると思う。間違っているからこそ、間違っていることを間違っているとは思わなくなる。前提が違えば、こうも違ってしまうのだ。 「それは簡単だ。サラエナ以外にも出てしまったんだよ、やはりティパモールの内乱はそう簡単に抑え込むことが出来ないらしい」 『……だから、それ以外も「潰す」ということですか? ティパモール内乱は確かに国にとっては悪なのでしょうが、はっきり言ってここまで無惨に殺す必要が無いようにも思えます』 「確かにな。それはその通りだ。そして、僕もそう思った。だが、やはり国はこのままティパモールを破壊する方向でまとまっているらしい。それ以上の許容も認められない、国にとってはさっさとティパモールを潰しておきたい気持ちが強いのだろうな……」 『それほどまでに攻撃する必要が?』  イグネルは首を横に振って話を続ける。 「これ以上ティパモールを潰しておきたいんだろう。だが、近い将来アースガルズとの新たな交易拠点にでもすればここの旨味も幾分出てくる。少なくとも今の土地よりかはより良い場所と化すだろうな。……まぁ、それがどこまで続くかどうかははっきり言って解らないが」 『確かにそれは正しい知己によるものだと思われますし、正しいことでしょう。ですが、それをヴァリエイブルが考えているのでしょうか?』 「考えているだろう。そこまで考えているはずだ。……にもかかわらず、こんなことになっているのは甚だ疑問だけれどね。そこまでする必要はあるのか? と疑問を投げ掛けたくなるくらいだよ」  ティパモールを交易の拠点として活用する――この考えは何もイグネルが初めて考え付いたものではない。昔から学者がそう国に進言しているのだ。しかしながら、国はその進言を一切無視しており、学者たちとの間で軋轢が生じている。なぜそれほどまでに軋轢が生じる必要があるのか――それは彼らにも理解できなかったし、だから何度も反論した。  国はそれに対して強硬姿勢を取った。国の言葉を批判した学者を次々と投獄したのである。流石に処刑まではしなかったが、それに大きな批判が上がった。解放運動も繰り広げられた。しかし、最終的にティパモールの制圧が完全に終了するまで学者たちが解放されることはなかったのである。 『それでも……納得行きません。どうしてこんなことを……』 「それを僕たちが考えたとしても、何も変わることはないよ。今の状態では、ね」 『やはりそうでしょうか……』 「そうだよ。実際にはこれを行うことが出来るのはやはり難しい。理想論だ。そして、現実的にその可能性を排除しているのが国だ。僕達は国に忠誠している以上、やらなくてはいけないんだ」 『でもそれはあくまでも形だけ、でしょう?』 「ああ、まあ、そうだ。形だけだ。何も完全に虜になれ、なんてことは言っていないよ」  イグネルは言って、頷いた。  彼らがそう考えたとしても、それが実際に適用されるわけではない。それでいて実行されるわけでもない。そして、それに対して不満を抱いているわけでもない。  ただ、気になるだけ。疑問を抱いているだけなのだ。どうしてこれをするのか、なぜこうする必要性があるのか、それについて気になっているだけに過ぎないのだ。  彼らのリリーファーに同時に連絡が入ったのは、その時だった。  その命令は大層シンプルなものであった。  それを聞いたイグネルは了承すると連絡を切る。それを確認して大笑いした。 「どうやら軍は余程リリーファーに惚れ込んでいるらしいな、リア。仕事だよ、さらにお金が増えるぞ」 『お金が増えることについては割とどうでもいいのだけれど……、それで? 何をすればいいの?』 「レステアに進撃する。そしてまた大量の人を殺すんだ」  それを聞いて、リフィリアは笑みを浮かべた。しかしながら映像は見ることが出来ないから、それをイグネルが目撃したわけではない。  だが彼は彼女がきっと笑っているだろうということは薄々気付いていた。彼女はそういう性格だから、そういうことは手を取るように分かるのだ。やはり兄妹と言ったところだろうか。 「さあ、向かおうか」  そしてイグネルは長い通信を切って、リリーファーコントローラを強く握った。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃、レステアにあるベクター医院。  日に日に増え続ける患者にベクターは疲れていた。しかしそれでも患者が回復するわけではない。彼は疲れている身体にムチを打つかたちで頑張っていた。 「ベクター先生や、最近思いませんかね?」  患者の一人、老人がベクターに問いかけた。もちろん突然というわけではなく、老人の怪我を治療していたというおまけつきだが。 「最近思わないか……ってなんのことでしょうか?」 「内乱ですよ。収まる気配がない。それどころかお互い戦力を疲弊している。噂だとこっちにはどこかの国がパトロンとして存在しているんじゃないかなんて言われているくらい」 「『反乱の騎士団』はそれを一切私たち市民に報告しませんからねえ……。まあ、あまり私たちに恐怖心を植え付けたくないだけなのかもしれませんが」  反乱の騎士団はティパモール内乱を推し進める派閥のことであり、ティパモール内乱の総監督を務めている。しかしながら、市民の殆どはその存在を名前だけしか知らず、構成とかメンバーとか何をしているのかとかそう言ったことを知らないのである。それは反乱の騎士団が徹底的に秘密主義を貫いたからだと言われている。  老人の話は続く。 「でも、少しくらい市民を信用してもらったっていいと思うんですよ。バチも当たりませんよ、ティパ神様だって、きっとお許しになられることでしょうよ。でも、騎士団はそれをひた隠しにする。それって何だかおかしくはないですかね?」 「……というと?」  ベクターは包帯を巻く腕を止め、老人に訊ねる。 「この内乱……人為的に起こされたものではないんですかね?」  人為的。  要するに偶然ではなく必然。奇跡ではなく確実。不可能ではなく可能だったということだ。この内乱が起きたのは偶然ではなく必然であり、それは人為的である。  しかし、ベクターはそれをこう捉えた。 「なにをおっしゃっているんですか。そもそもこの内乱の始まりは不平不満を訴えた市民が国軍に殺されてしまって、それのために戦ったと言われています。それが正しいだろうし、それを疑う人間もいません」 「そうです、そこですよ。疑う人間がどうしていないんでしょう?」  包帯を巻くのを再開し、ベクターは頷く。  老人はさらに饒舌になっていく。 「しかしていったいどうして人間は戦うこととなってしまうのか……。確かにわしが若かった頃は今みたいに戦っていたが、今はそれだけではない。言葉もあるし紙もある。言葉を伝える手段が充分に備わっている。だというのにどうして戦ってしまうのか。はっきり言って戦いは何も生み出しません。お互い血を流しあって、当たり前のことを決めるだけのためのこと。負けた者は勝った者に従う。それが自然の摂理であるし戦いの法則でもある。そうでしょう? この内乱だっていざこざがあったからだ。私たちが全面的に悪いのかもしれない。しかしその意見を言おうとすると……どうなるかお分かりですかね」 「まあ、罰せられるでしょうねえ」 「ええ、そうです。罰せられます。どうしてでしょうね? どうして、わしはただ意見を言っただけだというのに、どうして罰せられにゃいけないのでしょうかね?」 「うーん……どうしてでしょうね。そういう意見に誘導して欲しくない、とか」 「そう、わしは考えておるのですよ」  包帯を巻き終わり、笑顔でベクターは老人を見つめる。 「はい、これでおしまいです。あとは安静にしていてくださいね。後ろ未だ来ている人が居るのでおしゃべりはほどほどにお願いします」  事務的な対応をしてベクターは机に向かう。老人は頭を下げて立ち上がり、診察室を後にした。  一人になったベクターは老人の言葉を考える。所詮老人の戯言だ――彼はそう考えていたが、しかし気になることは浮かび上がってくる。  そもそも、今回の内乱を起こした理由はなぜだったのか。  不平不満。それは協会によるものだ。水を売り出してそれを高値につり上げたから……そう言う人間もいるし、しかし協会が水を買い占めたのは内乱が始まってからだから関係ないのではないかと言う人間もいる。  とどのつまり、内乱が起きた要因を知らないか、或いは曖昧な理由を知っている人間が殆どであるということだ。  となると、ひとつの仮説が浮かび上がる。それは――。 「おや、先生。どうなさいましたかな?」  ――現実に引き戻されたベクターは、机から患者の前へと向き直った。そこに居たのは青年だった。よく見ると頭から血を流している。しかしかすり傷程度のようだった。  ベクターはそれを見て、青年の治療を開始した。  ベクターがその一瞬の想像で考えたそれは、頭の奥底へとあっという間に追いやられていった。 7  その日レステアはとても晴れ晴れとした天気だった。ヴァリエイブルも強い戦力を投入することもなく、内乱による衝突も無かったから、人々は平和を味わっていた。  ティパモール内乱で各地から戦火が上がっていたが、レステアでは皆無だった。レステアの病院に運ばれてくる患者の大半は戦火とは関係ない怪我によるものである。 「……それにしてもほんとうに怪我が多い。内乱だって終わる気配が皆無、ならばいつまでも医者は必要とされる、イコール、いつまでも医者は食いっぱぐれが無いこととも言えるだろう。しかし早くこの内乱が終わってほしいものだ……」  ベクターの言葉はどちらかといえば平和な場所から物言いしているようにも思える。しかしながら、実際、このレステアから彼が出たことは一度も無い。だから彼はティパモール内乱の影響を、どちらかといえば間接的に受けているし把握しているだけに過ぎない。実際に見聞きした訳ではなく、内乱が活発となっている場所からやって来た患者から会話を通して情報を得ることしか出来ない。  ベクターは立ち上がると、窓から外を眺めた。  そこにはただゆったりとした景色が流れているだけに過ぎなかった。ひっきりなしに患者がやって来るためか休むことが出来ないところが唯一の不満と言えるだろうか。  いや、それは実際に。  ほかの人間からすれば、戦場を体験している人間からすれば、あまりにも幸福な悩みであることだろう。あまりにも贅沢な悩みであることだろう。それくらいなのだ。 「先生、ちょっといいかい?」  ふと声がかかって、彼は扉の方を見た。そこには袋を持った女性が立っていた。この前彼が彼女の子供を治療したのを、思い出した。 「これはこれはエイミーさん。どうしました?」 「先生、あんまり体にいいもの食べていないような気がするからさ! アニーちゃんが居なくなってから、きっと不健康な生活を続けているんだろう? アニーちゃんが戻ってきたとき、先生の体調が芳しくなかったら彼女も悲しんじゃうと思うのよ!」  よくあるお節介を聞きながら、ベクターは笑みを浮かべる。 「そうですかねえ。それにエイミーさん、わたしとアニーにはなんの関係もありませんよ? 何か知ったふうな口で言っていますが、そんな関係なんてまったくないんですよ」 「そうなのかい? わたしゃ、絶対付き合っていると思っていたけれどね! あ、もしかして事実婚ってやつかい!?」 「事実婚、って……。別にわたしは彼女にそういう感情を抱いたつもりも無いので……。あくまで彼女は仕事上のパートナーですよ」 「ふうん、そうなんだ。ちょっと残念ですね、先生」  それを聞いて彼は振り返る。  そこにあったのは窓だった。  いや、それだけではなかった。  そこに居たのはひとりの少女だった。  そして彼はその女性に、見覚えがあった。 「アニー……?」 「先生、言いつけを破ってしまってすいません。でも先生のこと、どうしても見捨てられなくって」  アニーはそう言って後ろから彼を抱きしめた。エイミーはそれを見て小さく「青春だねえ……」と呟いて、袋に入った何かをそのままテーブルに置き、立ち去っていった。 「何ですか、これ?」  アニーはエイミーからもらった袋を手に取り、ベクターに訊ねる。 「そんなことよりアニー、どうして戻ってきたんだい? ここは危険だから一先ず退散してくれ……そう言ったじゃないか。というか、ルナはどうしたんだ?」 「彼女は私の親族の家に預けました。あそこならば信頼できるはずだと思ったので」 「……そうか」  ベクターが気がかりだったのはそれだ。ルナは――幼い子供が無事であるかということ。別にルナとベクターは血の繋がった親子などではない。しかし、ここで育てたのだ。育ての親としてそれくらい気になってしまう。  対して、アニーは頬を膨らませ、 「先生、心配していたんですよ? きちんと食事はとっているかとか休んでいるとか。何だかたくさんの人を治療して今にも倒れそうですけれど。確かに病院があることは大事ですが、クオリティーがこのままだと落ちるのは確実です! 一人しかいないのに休みを無しにして頑張るとか無茶過ぎます!」 「仕方ない……。それは僕が下した判断なのだからね。それくらい自分でけじめをつけるよ」 「だーかーらー! どうして一人で背負い込んじゃうんですかー! もうちょっと頼ってくれてもいいじゃないですか……」  アニーはぽかぽか彼の背中を叩いていく。しかし本気で叩く気などないようで、彼にとってそれが痛手を負うわけでもない。  ベクターは彼女と向き合って、彼女の肩を掴んだ。途端に彼女がその行動をやめて、ベクターの顔を見つめる。彼女の顔が紅潮しているのを見て、彼は目を背けようとした。  だが、それじゃ彼女に悪い――彼はそう思って、そのまま見つめる。 「アニー。まさか君が戻ってきてくれるとは思わなかった。はっきり言って、これからの仕事は忙しい。何が起きるか解らない。噂だとレステア以外は陥落したという情報が流れているくらいだ。まあ、それは噂だからあまり真にうけないほうがいいかもしれないが、それでもここが危険ということにはかわりない。それでも、僕と一緒に治療してくれるかい?」 「当たり前ですよ、先生。じゃないとここまで戻ってきた意味がありません」  そう言ってアニーは頷く。  それを見て彼もまた頷いた。  高台からレステアの街を見つめる二機のリリーファー。『マーク・ツー』と『マーク・スリー』だ。  二機の中にいるイグネルとリフィリアは笑みを浮かべていた。  イグネルが彼女に訊ねる。 「リア、どうしたんだい。何だかとても楽しそうじゃないか」 『ええ、お兄様。だってこれから始まるのは残虐で残忍で非道でどうしようもない、真っ赤に染まった殺戮ですよ。そこには希望もない。絶望しかない。そこには歓喜はない。叫び声が空間を支配する。何とも楽しいではないですか! ああ、早く戦いたい。殺したい。消し去りたい! 全てを灰燼に帰し、絶望を与えたい!』  それを聞いて彼は溜息を吐いた。リフィリアの病気めいた言動は今に始まったことではない。考えてもみればそうだ。彼らの家族は小さい頃に崩壊し、いわば底を味わった。腐った水の底を味わったのだ。水の底は暗い。ずっと居れば精神が崩壊してしまうのは自明だ。  だから、彼女はいつしか精神が崩壊してしまっていた。イグネルへの依存もそれが原因であると言われている。しかし彼はそれをどうとも思わない。寧ろそうすべきだと思っていた。彼女の好きにやらせればいい。彼女が飽きるまでやらせればいい。自分はただそれに付随していけばいい――そう思っていたのだ。  だから彼は今も昔もリフィリアについていく。それは彼が決めたルールであり罰にも思えた。別に彼自身罪を背負っているわけでもないし犯したわけでもない。ただ、慰めだ。彼女を慰めるためにその罰を受けているだけにすぎない。 「……そうだね。それじゃ、行こうか。さっさと真っ赤に染めてしまおう。この戦いを終わらせるんだよ」 『そうだね、終わりますね。終わるといいんですけれどね』 「終わるよ、きっと。いいや、必ず」  訂正して、彼は言った。  そして、リリーファーは起動する。目指すはレステア。ティパモール最後の『楽園』と呼ばれている、彼の地へ。 「『マーク・ツー』及び『マーク・スリー』、レステア殲滅作戦を開始したもようです」  ラグストリアルは兵士からの言葉を聞いて小さく頷いた。レステア殲滅作戦が開始されたということはティパモールがそれほど潰されたということだ。作戦は順調であると言える。  別にレステアが最後の牙城というわけではない。最終的に残ってしまったのがそこだけなのである。騎士団が本部を持っているのもそこだから、結果的にそこへと集結してしまう。 「さしずめ、最終決戦というわけだ」  そう言ってラグストリアルは持っていた盃を傾ける。まだ勝利が確定したわけではないが、もう確定と言ってもおかしくないほどヴァリエイブルが優勢だった。 「これで一先ず、私も休むことが出来る」  だが、油断は出来ない。作戦の最後が始まっただけで、まだそれが終了したわけではない。最後に何か大仕掛けをしくんでいる可能性だって考えられるのだ。しかしそれは無いだろうというのがラグストリアルの考えであり兵士の大半が考えていることであるが。 「……とにかく、あとは彼らの報告を待つのみ、だな」  そしてラグストリアルは立ち上がると、ふらふらと歩いていく。  兵士の一人が彼に手を貸そうとしたが、ラグストリアルはそれを断った。 「私はすこし眠る。何かあったら起こしたまえ。首尾よく進んでいるならば起こす必要はない。その場合の判断は君たちに任せる」  兵士はそれを聞いて敬礼をひとつする。それを見てラグストリアルはゆっくりと部屋を後にした。  ラグストリアルはゆっくりと自室に向かう。早く眠りたかったからだ。作戦の終了が現実味を帯びてくると、様々な思考よりも睡眠欲が湧き出てくる。早く眠りたい、眠りたい……そういう思いが彼の中を徐々に支配しつつあった。  自室に着いて彼は布団に潜り込む。そしてそう時間もかからずに微睡みの中へと落ちていく――。 「やぁ、王様。眠ろうとしているところに申し訳ないけれど、ちょいと失礼するよ」  ――あと数秒で眠りにつくところだったが、何者かの声で、彼は強制的に目覚めさせられた。  そして彼は、その声の主を知っていた。ニヤリと笑みを浮かべ、ゆっくりと起き上がる。 「帽子屋……だったな」  そこに居たのは黒い影だった。そういう比喩的表現ではなく、直接的表現だ。ラグストリアルの目の前に、紛うことなき黒い影が立っていたのだ。  影の高さはラグストリアルより頭一つ分大きいくらいだろうか。その影は笑みを浮かべると、ゆっくりと彼の方に近付いてくる。 「いかにも。僕が帽子屋だ。ヴァリエイブル国王、ラグストリアル・リグレーで間違いなかったか?」 「あぁ、そうだ。……なぁ帽子屋よ、いい加減このやり取りは止めにしないか? お互いがもう双方を理解しているじゃないか」 「と言ってもねぇ……。実際、このやり取りはとても大事なんだよ。本人確認、という面ではね」  自分の名前を名乗っただけで何故本人確認となり得るのかが、彼には解らなかった。名前だけで評価しているならば、全くの別人(但し声色は似ているものとする)が自分の名前を名乗っても同じではないか? 「いいや、そんなことは無いよ。名前を言ってもらうときには声紋、それが認証されれば虹彩だ。声紋はうまくやれば誤魔化せるかもしれないが虹彩は厳しいだろうね。実際、虹彩は誰一人として同じものが無いと言われているくらいバラエティに富んでいるのだから」 「その虹彩とか声紋とかは解らないが、即ちそれによって個人を特定することが出来る……ということか?」  帽子屋は頷く。  ラグストリアルはそれを鼻で笑った。 「まぁいい。そんなものが我々の技術で実現出来ればと思ったが……流石に難しいだろうな。そう簡単に出来るのならお前たちが使っている訳がない」 「解ってくれると助かるよ、ラグストリアル。僕らにとっては容易に実現できるが、人間には少なくとも今の技術では実現不可能と言ってもいいだろう。それが実現出来るのは遥か未来でもあるし数年後という決まった未来であるかもしれない。少なくとも、今の人間には到底実現出来ない技術を使っているから、それをどうにかしようと言うのは半ば不可能という訳だ」 「ほんとうか? ほんとうにそうだと言えるのか?」 「あぁ、ほんとうだ。……違う、違うよ。そもそも僕はそんな水掛け論をしにここまでやって来たわけではない。もっとれっきとした理由があるんだよ」 「ティパモール内乱の事ならば、もう最後の地区を殲滅し始めている。何事も無ければあと数時間で終わるだろう。何もかもが順調だ。……まるで、お前が予言したようにな」  そう。  ティパモール内乱を指示したのはラグストリアルだが、その指示を彼に指示したのは帽子屋だった。帽子屋が計画し、ラグストリアルに指示。それを彼が国軍の総力を挙げて開始した。 「……ティパモール内乱についてはまさかここまでうまく行くとは思わなかった。上々だよ、ラグストリアル。最高だ、褒美をあげよう。何が良い?」 「褒美、か」  ラグストリアルはそう言って小さく溜息を吐く。  はっきり言ってラグストリアルは何も考えちゃいなかった。考える必要が無かったというのと、考えるまでもなかったということである。そもそも、この内乱は帽子屋がやれと命じられたものをただそのまま行っただけにすぎない。とはいえ国民は『帽子屋』の存在を知らないわけだから、結果として彼がその反論を受ける羽目になるわけだが。 「……そうだな、褒美か。とりあえず平穏が欲しいね。今後五年くらいは平和で暮らしたい。少なくともこんなことは懲り懲りだよ」 「それくらいでいいのかい?」  帽子屋は目を丸くする。どうやらラグストリアルの願いが相当予想外だったらしい。  平穏を望む。それはどんな価値の宝にも代え難いものなのかもしれない。 「ああ、それで構わない。それでいいんだよ。もうこれほどの内乱を起こしてはならない。繰り返してはならないんだよ」  帽子屋はそれを聞いてつまらなそうな表情を見せたが、 「まあ、約束は約束だ。反故にするつもりはないから安心してくれ。五年程かな、それくらいでいいんだね?」  言って、確認を求める。 「ああ、それで構わない」  それを聞いたと同時に帽子屋は姿を消した。  ラグストリアルはそれを見送り――意識を失った。 8  『マーク・ツー』及び『マーク・スリー』はレステアに到着していた。しかしながら突然何も考えずにただ出撃するのは馬鹿な話である。先ずは外から街の様子を眺め、それから判断する。  街は見た感じ活気に溢れていた。まるでそこだけが戦争なぞ起きていないように錯覚してしまう。だが、他の地区では紛れもなく戦争の痕跡が残っている。焼き払われた大地や建物、さらには幾重にも積み重なった人間の山、それに火を点け燃やしていく。脂が焼ける匂いがする。それがどの地区でも行われていた。まさに『地獄絵図』であった。  作戦開始及びその具体的な手段については本人に一任されている。なので、彼女たちがいつ始めても問題ないのであった。  リフィリアは笑みを浮かべ、兄であるイグネルに告げた。 「時は満ちましたわ……。さぁ、はじめましょう。お兄様」  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  唐突だった。  日が暮れて、夜。人々は内乱の恐怖に怯えながらも食事を楽しんでいた。食事を囲めば、人々は笑顔になる。これがどういうメカニズムによるものなのかあまり解明されない。解明せずとも、現に食卓を囲み、話をすれば、笑顔になるというものである。  ベクターもアニーと一緒に食事を取っていた。彼女と食事を取るのは二日ぶりのことだったが、ベクターにとっては一週間、或いはそれ以上の時間が経っていたような気がした。  アニーの作る料理は他人が見ればバランスよく作られてはいるが、バリエーションに富んだものではない。大量に作って保存しているわけではなく、毎日作っている。だから毎日、僅かであるが味付けが違っているのである。  肉じゃがのじゃがいもを箸で掴み、それを口に入れる。じゃがいもはホクホクしており、それでいて味が染み込んでいる。そしてその味を忘れないうちにご飯を掻っ込んだ。 「……毎回思うが、君の作る料理はこの世界のものとは思えないものばかりだ。味付けも珍しいし……」  そう言ってベクターは水を一口。  それを聞いたアニーは頬を紅潮させつつ笑った。  その刹那、窓が内側から吹き飛ばされた。何が起きたのかまったく解らなかったが、即座に彼はアニーを守るべく自らの身体を盾とした。  彼の背中にガラスの破片が落ちていく。それを背中で受け止めていく。痛みはあったが、我慢した。我慢するべきだと思った。我慢しなくてはならないと思った。 「先生……!」  アニーの声がかかって、ベクターは顔を上げた。 「大丈夫だ。とにかく、君は急いで逃げるんだ……!」  その時、ベクターは初めて選択を間違えた。ここで彼は外を見て様子を確認するべきだった。それさえすれば、もっと冷静な判断をできたのだ。できたはずだったのだ。  ドドドド、と地面を揺るがす音。  その音はあまりにも巨大でその音を生み出している源は何かと考えた。 「先生、そんなこと考えている場合ですか! 逃げましょう!」  アニーは手を取る。  しかしベクターは動かない。否、動けない。動くことができないのだ。  何故なら彼は、このタイミングで『あるもの』を見てしまったからだ。  建物よりも遥かに高い背丈を誇る人形が、二台そこにはあった。一見すると巨大な人間がフルフェイスの鎧を着ているようにも錯覚してしまう。 「何だよあれ……。あれってまさか!」 「先生!」  アニーはもう我慢出来なくなって、彼のシャツの裾をぐい、と引っ張った。  それにより、彼の思考はこちらに引き戻される。  ベクターがアニーの方を見ると、彼女は頬を膨らませていた。 「とにかく! 急いでここを出ましょう! 診療所が破壊されてしまうのははっきり言って痛手ですが、でも、先生が居ます。先生が生きています! 先生さえ生きていれば……たとえどんな場所だろうと、作られた診療所は|ベクター診療所(せんせいのもの)になります。そこは先生がいるからそうなるんです。先生が居ない診療所はベクター診療所ではないんです!」 「だが……」 「だがとかでもとか! そんな言葉の類いはあちらには敵いません! 行動で示すほか無いんですよ……!」  彼女の声はとても力強かった。か細い声であったのは確かだったが、その中に一本の芯が通っているようにも思えた。  アニーは孤児だ。彼女を初めて見たときの様子を彼は未だに覚えている。父親とともにメインストリートを通っていた時のことでだ。地面に腰掛けていたぼろ布だけを身に纏っていた少女だった。小麦色に焼けた――あるいは汚れていると見ることが出来る。  その一瞬だけを見て、ベクターの父親は彼女がどういう存在かを見極めたらしかった。だから彼女はベクターの父親には頭が上がらない。自分の人生を激変させた人間だ。だからその子供であるベクターにも、その感情は残されている。直接的に彼女の人生と関わっている彼の父親よりその感情は薄れてしまうが、それでも彼女はただ忠誠心だけでベクターと共に居るのだ。  だから、アニーにとってベクターは大切な人なのだ。愛情にも友情にも似たその感情を、彼女はずっと持っていたのだ。 「逃げましょう、先生」  すっかり話さなくなったベクターにアニーは問い掛ける。  アニーの話は続く。 「敵に背中を見せてもいいんです。生きていれば……生きてさえいれば、いつか必ずいいことが起きます。いつか必ず報われます……! ティパ神様も……きっと私たちに『試練』を与えているだけなんです!」  ティパ教の信者は苦行について『神が与えた試練』であると認識している。死後、また人間に生まれ変わり幸せになりたいのならば、試練を乗り越えなくてはならない。そういうルールめいた何かがあった。  そして、アニーはこの状況を試練と認識した。試練と解釈した。そうすることを、認識することを、彼女は昔から刷り込まれていた――そう言ってもいいだろう。  しかしティパ教を理解出来ない他者からすれば、それは立派な現実逃避ではないのだろうか――そう思うに違いない。  思考が誰しも必ず一致するわけではない。寧ろ、全員が全員一致する方がおかしな話だと言ってもいいだろう。思考が完全に一致するならばそれは洗脳を疑ったほうがいい。 「ティパ神……か」  落胆しながら、ベクターは言った。  ベクターは未だ動こうとはしない。このままでは二人共死んでしまう可能性すらある。何故彼は逃げないのか。何故彼は逃げようとするアニーを無視しているのだろうか。疑問が膨らんでいく。  だが、それでも彼はぶつぶつと話を続ける。 「神とは何だ? 宗教とは何だ? 信じることで救われるのか? そんなことがほんとうに有り得るのか? まったく解らない……解らないんだよ」 「そんなことを考えなくたって、ティパ神様はみんなを救ってくれます……救ってくださいます……! だって、これは神様がお与えになった試練なのですから……!」  ベクターにはアニーの言っている言葉の意味が理解できなかった。試練、救う、ティパ神……。ほんとうに神は試練を与えているだけなのだろうか? ほんとうに神は存在し得るのだろうか? ということに、疑問を抱き始めたのだ。  確かに、神はいるのかもしれない。だが、それを見たことのある人間はいない。しかしそう言うと決まって彼らはこう言う。神は人間が見ることのできない世界に住んでいる、と。ならば人間は視認できない存在をわざわざ崇拝しているというのだろうか?  彼には解らなかった。そして、その問は人間に答えられるものでもないだろう。人間が答えて、それが正しいと誰もが言える答えを導けるはずがない。なぜなら人間の考えはどれも同一ではなく、違っていくからだ。違いがあるからこそ、人間は人間と長く共存出来るのかもしれない。  ベクターはアニーとともに行くことを選択した。それが神の啓示だとかそういう理由ではない。自分でそれを選んだからだ。それしか道がないからだ。  そして、ベクターはゆっくりと歩き始める。  並んで二人で。  マーク・ツー及びマーク・スリーのレステア殲滅作戦も半分以上が終了していた。 「意外にもあっさり終わってしまいそうだね」  イグネルは言った。  リフィリアは答える。 『当然ですわ、だって私がずっと戦ってきたんですもの。あのミジンコ程度にしか見えない人間など動くだけで勝手に潰れて消えていってしまいますし、武器などたかが知れていますから攻撃してきても蚊が刺してくるよりも反応が悪い。だから攻撃された認識が無いんですよね。厄介なところです』 「……概ね、順調ということだね」  リフィリアの言葉を一言でまとめあげるイグネル。それについてリフィリアは頬を膨らませる。納得いっていないようだが、彼にとって長い言葉を聞く予定はなく、一言でまとめあげて欲しかったので彼にとってはこうする方が都合良かったのである。 「……それにしても粗方人は死んでしまったかな? 建物を潰すのも何かあれな気がするし……」 『いいじゃない、建物を潰しても。病気を潰す時も建物ごと燃やしてしまうのが一番の方法だって言うでしょう? だったら潰してしまったほうが楽なんじゃない?』 「生憎病気のヤツじゃないからなあ……。一応残しておいてもいいんじゃないか。殲滅とは言われたけれど、大半の人間は生きていないことはこのセンサーで確認済み……おや、」 『どうしたんですの、お兄様?』 「……まだ二人残っているようだね」  イグネルはニヤリと笑みを浮かべる。  センサーが指していた場所は――ベクターとアニーがいる病院だった。 「先生、走ってください! 急いで……」 「そうはいうがね……。私だってあまり走っていないのだよ! 病院で待機して患者が来るのを待っていたからね……!」  ベクターとアニーは走っていた。急いで隠れられる場所まで向かうためだ。 「急いで、急がなくちゃ……!」  隠れられる場所。それは各地区にひとつずつある寺院だ。ティパ教の寺院は各地区に一箇所づつ存在しており、どんなときにも人がやってくる。さしずめ災害時の避難場所と言ってもいいだろう。 「しかし寺院に隠れられるという保証はあるのか? 僧も流石に逃げてしまっているだろうに」 「僧は逃げませんよ。ティパ教の教えに背くことになります。僧は最後まで神と一緒にその運命を共にする……そう教典に書いてありますから」 「そうか」  ベクターは俯いて、アニーの後を追った。  その時だった。  ベクターの背後に、リリーファーが立っていた。リリーファーは外部スピーカーをオンにしているのか、声が聞こえてくる。 『みーつけた♪』  女性の声にも聞こえるそれだったが、聞いただけでベクターは恐怖を覚えた。あれは人間の声ではない。死神だ。人々に恐怖を叩き込む悪魔の声だ。いや、そのどちらでもないからもしれない。  ベクターは怖くて動けなかった。しかし、それでもリリーファーは歩を止めない。 「先生っ!! 早く逃げて!!」  逃げる。考えている。解っている。  だが、肝心の足が動かないのだ。そこから逃げたくても、まるで根を張ったかのように動けなくなってしまっているのだ。それがどういうメカニズムによるものなのか、彼にも解らなかった。  リリーファーに乗っている女性は呟く。歌うように、言った。まるで今からやることを遊戯だと思っているように。これから行われるのは紛れもない殺戮だということを、ベクターは解っていた。だから、逃げたかった。でもそうしようと思うたびに身体の硬直が解除できない。 『もしここにいるのが私ではなくお兄様だったら……助かったかもしれないわね。少しくらい慈悲は与えられたかもしれない。でも、私は無駄。はっきり言ってそんな甘えが通用するわけがないし通用しない。私のパイロット・オプション「真紅の薔薇」に敵う人間は居ないのだから』 「この硬直させているのが……お前の言う、パイロット・オプションだというのか……!」 『おまえぇ?』  女性は言うと、リリーファーの腕でベクターを掴み、そのまま持ち上げた。コックピットと同じ高さまで瞬時に持ち上げられたが、ベクターは動転することもなくただそのままにしていた。 『あなた。今「おまえ」といったわね? 立場わかってて言っているつもりかしら? だとしても、そうでなかったとしても、私はあなたを殺すつもりでいるけれど。どちらにしろ殺せと命令されているわけだし』 「無慈悲にも人を殺すことが……それほどまで簡単に出来るというのか……。心が痛まないのか!!」 『心? そんなものあったらとっくにこんな仕事出来ないわよ。起動従士はそういう常識めいたものが崩れていて、なおかつ狂っている人間である。だからこそ階級も違っていて、特殊な存在ばかり集まる。それが起動従士であり起動従士たる所以。それ以上でもそれ以下でもない』  とどのつまり起動従士は狂っている。女性はそう言っている。起動従士は人間として、一般人としての常識を既に持ち合わせておらず、その常識が欠如しているのだ、と言う。それを自覚しているのであれば何故治すことが出来ないのか。治そうとしないのか。ベクターは考えた。  女性の話は続く。 『まあ、それをあなたのような人間に言ったところで何も変わりませんし変わることも無いのですが。……しかし残念なことねえ、見つからなければ死ぬこともなかったのに。どうしてわざわざ外に出たのかしら? 死にたかったの? 自殺志願者?』 「そうかもしれないな……。私はリリーファーを見て怖かった。心が恐怖に染まってしまったんだ。だから、逃げるのを躊躇ってしまった。あんなものに敵うわけがない……そう思っていたよ」 『思っていた? ならば今は思っていないというのか。人間は新しい思考を続けないと、頭が腐ってしまう。別に実際に腐ってしまうわけではないけれど、少なくとも脳細胞の動きは如実に変わっていくでしょうね』 「そもそも年をとっていけばそれは経年劣化として変化を及ぼすものだよ。それ以上でもそれ以下でもない。さりとて、人間というのは進化を続ける必要がある。それを拒んだ人間は大きく考えるならば人間という存在を自ら捨てた立場になっているのかもしれない」  ベクターと女性の会話は至極哲学的なものだった。それを地上から見ていたアニーはどうにかしてベクターを救おうと策を考えていたが、しかしリリーファーに人間が適う訳もなく、結局はその場で立ち往生するほかなかった。  どうすれば彼を救うことが出来るのか。どうすればあのリリーファーを倒すことが出来るのか。倒さずともベクターを助けて、そのままリリーファーには気付かないで逃げるなんてほぼ不可能に近い。  ほんとうに不可能なのだろうか――? ふと彼女はそんなことを思いリリーファーを見つめた。まだリリーファーとベクターは話を続けている。余程話が長いのかベクターが興味を持っているからかもしれない。何れにしろ、少なくとも未だ多少は起動従士から目を離させることが出来た。 「やるなら今しか無い……!」  そう言って彼女は駆け出した。  だが、はっきり言ってそれが失敗だった。  ズシン、と何かが着地したような音が、あろうことか彼女の背後から聞こえてきたのだ。  それを聞いて、彼女は立ち止まる。ふと思い出したのはコックピット内部に居るであろう女性が言っていた、ある一言だ。  ――お兄様でなくて私に出会ったということ  これが意味することに早く気づいていればよかった。少なくとも言葉を聞いていただけでそんなことは容易に想像ついたはずだというのに。  背後から音の正体が姿を現す。そこに居たのは目の前にいる、ベクターを掴んでいるリリーファーと瓜二つのリリーファーだった。  それを見て、彼女の心はある一言で覆い尽くされた。それは『絶望』だ。希望よりも暗く希望よりも脆く希望よりも冷たい。そんな感情で埋め尽くされたのだ。 『まだ「終わってない」じゃないか、リア。君らしくも無い』  リリーファーはベクターを掴むリリーファーに告げる。 『あら、お兄様……。申し訳ありません、私がもう少し頑張れば良かったのですが……、いや、それ以上に面白い存在に会いましたもので。少しだけ話をしていた……というのもありますが』 『君が持っているその人間のことかい?』  ベクターを指差して言った。  リリーファーは頷く。 『その通りです。起動従士には心が無いのか……そう言われました。珍しいですわよね? このような状況だというのにそのような質問をしたのです。まったく、面白いとは思いませんか?』  確かにそうだとリリーファーに乗っている男は思った。彼はそれを口に出すつもりは無かったが、かといって否定するつもりも無かった。結局、誰が異端かということは誰かが基準を設けなくてはならない。そこでその基準がどちらかといえば異端寄りだったならばそれを異端と定義することは無理だろう。異端とはそういうものだ。違うとはそういうことだった。 「何が面白いんだ……! 人が死んでいるんだ。リリーファーに乗って、それを操縦することで結果としてたくさんの人間が死んでしまった……。その意味を理解しているのか!!」 『理解しないといけないのかしら?』  女性の解答は淡白だった。あまりにも純粋で、真っ直ぐで、濁りの無い言葉。だがそれにはそんなことなど関係無いと言いたげに、考える必要性など無いと思っているかのようだった。  ベクターは舌打ちして、それに答える。 「子供を殺しても、君たちは何の感情も抱かないというのか……! いや、それだけじゃない! 大人もそうだし妊婦もそうだ! 君たちは人間を殺しても何の感情も」 『あぁ、抱かないね。抱く必要性がまったく感じられないから。皆無と言った方がいいかもしれないけれど』  言葉を言い切るまでもなく、男がそれに答えた。  その返事はベクターが予想していた中のひとつに入るものだった。しかしいざその発言を聞いてみると内から怒りが込み上げてくる。 『……さて、リア。そろそろ時間だよ、もう「あちら」は待ってくれない。急がないと今晩はレーションすら食べることを許されないかもしれないね』  それを聞いて女性は小さく舌打ちをした。 『そうですか。なかなか楽しいものだったのですが』 『僕にとっては暇でしか無かったよ。会話の途中で参加したからかもしれないがね』 「終わりって……どういうことだ」  ベクターが訊ねる。それを聞いた女性は高らかに笑った。 『あぁ、簡単なことですよ。この地区はもう完全に崩壊しました。人間はもうあなたくらいしか生きていません。さしずめティパモール最後の人間……とも言えるでしょう。まぁ、実際ティパモールにはたくさんの抜け道があると言われていますから、逃げている人間ももしかしたら居るかもしれません。そうなったら、その人たちは我々に「勝った」ということになりますがね』 「勝った、だと……!? やはり君たちは人命を軽視し過ぎているじゃないか! そんなこと、人間がしていいわけ……」  ぐちゅり、と音がした。その音はベクターの身体を思いきり握り潰した音だということに気付いたのは、それから少ししてのことだった。  パイロット・オプション『真紅の薔薇』によって未だ身体が硬直されている彼女だったが、どうにかしてそれから脱け出したかった。早く、早く、早く、早く。逃げたかった。本当ならばベクターとともに安全な所へ逃げたかった。  それが。どうして。 『あーあ、さっさと終わらしたかったからこの手段を取りましたが、はっきり言って最悪ですわね。血がこびりついてしまいます』 『どうせ作戦が終われば高周波洗浄機で直ぐ綺麗になるさ。さぁ、あと一人だ』  この状況で拘束の状態が解かれていないアニーを逃がすほど、彼らも甘くはなかった。  男はつまらなそうに言葉を呟いて、アニーの頭上にリリーファーを動かした。  そして、そして、そして。  アニーの身体がゆっくりと踏み潰され――彼女は痛みと苦しみを味わいながら、死んだ。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「先ずは作戦完了といったところかな。ティパモールも無事に紋を刻むことが出来た。あとは未だ時間がかかるから仕方ないが……それに」  ニヤリ、と笑みを浮かべて帽子屋はそちらを向いた。  そこにいたのはアニーだった。しかし彼女はソファに横たわっており、すうすうと寝息を立てている。 「副産物も手に入った。まさか……まさかねえ、『彼女』の子孫がティパモールに居るなんて思いもしなかった。ちょうど欠員もあるし、そこに入れてしまおう」  そう言って彼はあるものを取り出した。  それは液体だった。重力に逆らうことなく、粘り気はあったが落ちていく液体だった。赤い液体は、鈍い光を放っていた。どちらかといえば悪いものに見える。くすんで見える。  帽子屋はその液体を躊躇することなく彼女の口に流し入れた。彼女の身体が一瞬大きく震えたが、それは彼にとって至極どうでもいいことだった。別に何も関係ないことだったからだ。この液体を体内に入れることで発生する当然の対価と言ってもいい。  今帽子屋が入れたものは、『シリーズ』の証となるモノだ。人間に使うと人間の中にある白血球が病気だと思い込み抵抗する。その抵抗と証が戦うため、身体はダメージを受ける。しかしシリーズは生命体を超越した存在であり、それゆえに人間では考えられないほどの回復力を持っていることから瞬時に身体は回復される。それが繰り返され、証が身体に定着するのを待つのだ。  時折身体が震え、それを艶美な表情で見つめる帽子屋。その光景は滑稽というよりも不気味に思えた。  震えが収まり、彼女は再びすうすうと寝息を立て始める。それを見て彼は笑みを浮かべた。 「成功だ。……おめでとう、『白ウサギ』、君が今日からその名前を引き継ぐんだよ」  その声は安らぎというか優しさが含まれているように思えた。  そして帽子屋はアニー――白ウサギの顔を撫でた。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  こうして、ティパモール内乱は静かに終結した。そのとき、彼らには余韻も何も与えられなかった。ただ、上司から紙切れで通知があっただけに過ぎなかった。 「終わったのか……やっと」  ティズは溜息を吐きながら、ソファに腰掛けて終戦宣言を聞いていた。  やっと帰れる。やっと帰ることが出来る。それだけを考えるととても嬉しかった。帰れるということ。家があるということ。その幸福を噛み締めることができるのだから。  近くにいる兵士は様々な言葉を交わしている。 「ほんとうに終わっちまったのか……なあ、すぐ帰れるのか?」 「知らねえよ、あくまでも上司からそういう通知がきたまでに過ぎねえ。正式な通知を待ったほうがいいだろうが、まあ、確実だろうな」 「マジかよ。お土産とかどうすっかな」 「お土産、って……。そんなもんティパモールに売ってるわけねえだろ。もう人もいねえし建物も破壊された。残っているのは小動物くらいだろうよ。小動物でも狩ってくるか?」 「よせやい。適当な場所で買うとするさ。お前んとこはそういうの買わないわけ? 手土産とか買っとかないと怒っちまうからよ、俺のフィアンセが」 「あーあー。結婚出来る人間がいるやつはいいねえ。噂だと今回は彼女がいるやつはあまり死なないようにしたと聞いたがどうなのかね」 「それはねえな。だって結婚したばかりのジョンが散弾銃をくらって全身穴ボコだらけになっていたからな。きっとそれは妄想に過ぎねえぜ。ま、お前もはやくいい相手を見つけろって話だ」 「式には呼べよ。最高にかっこいい祝辞を読んでやろうじゃねえか」  ……と、まあ、もう祝賀会のような雰囲気が漂っている基地であった。  基地の外にある瓦礫の山、その脇にある小さながれきにロスは腰掛けていた。 「どうぞ」  差し出されたマグカップを受け取るロス。 「済まないな、持ってきてもらって」 「その様子だと覚えていないようですね」 「覚えていない?」  ええ、と男は頷きながらロスが持つマグカップにウイスキーを注いだ。  会釈してから、ロスはそれを一口飲む。 「俺はあなたと同じ隊の人間ですよ、ロス隊長」  ロスはそれを聞いて思い出す。最後のクロウザ陥落時、ロスは前線の隊長を務めたということを。 「……そうか、君はそうだったな」 「俺だけじゃありません」  そう言ったと同時に褐色の肌をした男がやってきた。髪をピンで止めるかわりにタオルをまいている。 「ルノスっていいます。ヘイズさん、俺も一杯飲みますよ」  ヘイズと呼ばれた男はルノスの言葉を聞いて、彼が持つマグカップにも酒を注ぐ。  リリーファーが戦争の中心となった世界になって久しいが、それでも人間の兵士の存在は欠かせない。人数が少なくなってしまったのもあり、今では一つの隊に五名程度しか置くことができない。しかしながら、その五人というのはよく言う『少数精鋭』となっており、チームメイト皆が個々に高い能力であることが求められるのである。 「俺は……君たちのことを覚えていなかった」 「仕方ありませんよ。あなたが俺たちの隊を任せられたのはつい数日前のことだ。あなたがそれを嘆く必要はないです」  ロスはヘイズの言葉を聞いてそのままウイスキーを飲み干した。喉が焼けるように熱い。アルコールが高いことを意味しているようだ。 「どちらにしろ、助けられなかった兵士がいたかもしれない。けれどそれはあなたのせいではないです。結果として、あなたのおかげで作戦終了までに生き残ることができたんです、それについては誇りを持ってください」 「誇り、か……」  ヘイズの言葉にロスは俯き、空のマグカップを見つめた。  烏が一羽、虚しく鳴いていた。  ――戦争は終わった。国はこれを内乱と位置づけていたが兵力は戦争そのものであることを疑う人間など誰ひとりとしていない。  ――救われた、生き残ったと言った。でも考えてみろ、お前はもっと多くの人間を救えたんじゃないのか! 自分の命を守ることに精一杯だったじゃないか! 「でもよ、ロス。お前はそんな落ち込むことなんてねえよ。お前は言ったじゃないか。善と偽善はどちらが正しいのか。今なら言えるよ、偽善のほうが間違っているかもしれないが、しかし善はやらない限り何も起きない。やることによってどちらも良いと思えてくるんじゃねえかな、って」 「そうかもしれないな」  ラグストリアルが乗り込む馬車を見送りながらティズとロスは話をしていた。主にロスが言った言葉に対してティズが意見を述べているだけに過ぎないのだが、それでも彼にとっては良かった。話を聞いてくれるだけではなく、客観的に意見を述べてくれるティズが、とても彼にとって支えとなっていたのだろう。 「……俺はそんな自分に腹が立っている。もっと多くの命を救えたはずだ。ティパモールの人間だってうまく逃がす方法があればどうにかなったはずだ。いや、それ以前にティパモールの人間との戦いを避けることだって……或いは出来たはずだ」 「そうだろうかね。結果としてティパモール内乱は終わり、ティパモールには人間が『居ない』はずだ。これから残党狩りが待っている部隊も無いことはないが、これで内乱が終わったのは間違いないな」 「だが、人は救えなかった」 「それは人間の技量の問題ではないよ。権力の問題だ。ひとりの人間の力なんてたかが知れている。はっきり言ってゴミだよ」 「ああ、ゴミだ。それくらいは理解しているよ」  ロスは頷く。 「ただ、ゴミにはゴミなりの矜持があるとは思わないか? 下の者を守ること……それをしていけばいい。そのためには上に立てばいいんだよ」 「ねずみ算かよ、それって」  ティズはそれを鼻で笑った。  対してロスはそれに怒ることなどせず、平坦な調子で答える。 「そうかもしれない。もっと言うならば不可能かもしれない。だが、理想を言わないと、理想を考えないと人間の脳は死んでしまうし人間の進化は死んでしまう。終わってしまうんだ」 「お前と戦場でしか話していないけどよ……、ずっとお前は青臭いことしか話さねえな。でもよ、どうするんだ? 最終的に上に上に進むとなると、この国では王制をどうにかするしかないぜ?」 「そうかもしれないな。もしかしたらそれを打破するかもしれないし新しい国をつくるかもしれない。だが……やってやるさ」 「いいじゃねえか、その勢い」  ティズはロスの肩を叩く。若干強く叩いたためか少々痛みを感じるものだった。ティズはそれを見て、済まんなと一言だけ告げる。 「解った。それに一口乗ってやろうじゃねえか。お前が国を作るのかこの国を変えるのか、それはどっちなのか今の時点じゃ解らねえが、ついて行くぜ。お前がこの世界をどう変えるのか、楽しみになってきたよ」 『主戦は終了した。ご苦労だった、リフィリア・エクシル』  リフィリアは自らのリリーファー、そのコックピットで言葉を聞いていた。その言葉の主はほかでもない、彼女の上司にあたる人間だった。  リフィリアは考えていた。俯いていた。だが、何を考えているのか唯一の肉親であるイグネルにも解らなかった。 「違う……」 『ん? どうかしたかね』  リフィリアは呟く。  今まで考えていたことを。  今まで考えていたが、抑えていた、あることを。 「これじゃない……これじゃないんだ……。私はまだ終わっちゃいない……! 終わっていないのよ……。この素晴らしい力を、もう使えない? 戦場以外に使えない? どういうことよ、戦場以外に使えないなんて悲しいことじゃない?」 『リフィリア・エクシル。何を考えている。はやくコックピットから降りろ』  予想通りの解答。  だが、リフィリアはそれに従わない。 「嫌よ」  その言葉を聞いたと同時に司令部にいた人間は何人冷や汗をかいただろうか。何人最悪の事態を想定しただろうか。  刹那、リフィリアはリリーファーコントローラを握って命令した。  目の前にある司令部がリリーファーの足で完膚無きまでに破壊されたのは、その直後だった。 『リア、何をするんだ!』  コックピットから降りていたイグネルが自分の携帯端末から彼女の携帯端末へと電話をかける。  対してリフィリアは笑っていた。 「だってこの力がもう使えないんですよ……。おかしくないですか、おかしいと思いませんか! 戦場でしかこの力を発揮できないなんておかしいんですよ! ああ、もっと人を殺したい……殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい……!! お兄様なら解ってくれるでしょう? 理解してくれるでしょう? ねえ……私の一番の理解者であり、私の王子様であるお兄様なら……私の思いを理解してくれるでしょう? ねえ……私の唯一の王子様……、王子様はお姫様の願いを何でも聞いてくれる。白馬に乗って助けに来てくれる。お兄様は唯一の私の王子様なの! 絶対の絶対……私は……王子様は……お兄様は……!」 『違う、リア』  一言、イグネルは言った。  リフィリアの言葉がそれにより停止する。 『違うんだ、君は僕のことを王子様だとか思っているかもしれないけれど、そんな高尚なものじゃないよ。僕はただの君の兄だ。それだけははっきりと言える。僕は君の唯一の兄。だからこそ、言っているんだ。こんなこと、やめてくれ。僕にとっても、とても辛いことだ』 「お兄……様……」  イグネルはリリーファーを見て、小さく溜息を吐く。  リフィリアとの通信を行いながら、どこかに連絡を取っていた。  そしてその連絡は――今の言葉をもって終了していた。  リフィリアはコックピットで急激な眠気に襲われていた。どうしてここで眠くなるのか彼女には解らなかった。 『眠いのかい?』  イグネルは呟く。  彼は歌うようにそう言った。  話は続く。 『もう君の行動は僕にとって限界だ。もう無理だと言ってもいい。今まではむちゃくちゃだったけれどきちんと成果を出していたからよかったけれど……もう無理だ。必要以上の死人を出してしまえば、もうおしまいだ』 「お兄様……いったい、それは……」 『「天災保護法」だ。天災保護法とは「天才」ではあるが、その頭脳に精神が追いついておらず、放っておけば世界を破滅にすら導く「天災」を管理・保護する法案のことを言うんだけれどね……実際はアースガルズのみに出されている法案だが、僕にとってそんなことはどうでもいい。いや……正確には「組織」にとってはどうでもいい』 「組織……」  リフィリアは眠気をどうにかごまかしながら話を聞いていた。考えていた。  イグネルの言っていることを整理すると、簡単に一つの結論が導き出される。  即ち、その結論は。 『もう解ったのかもしれないけれど……僕はもうアースガルズの人間だ。ヴァリエイブルにも在籍しているが、実際にはアースガルズの人間だよ。正確に言えば「ヴンダー」の一員だ。君も知っているだろう、ヴンダーの名前くらい』 「ヴンダー……聞いたことがある……確か『世界を変える』力を求めている、と。新興宗教的な何かだと思っていたけれど……」  微睡みに落ちそうな意識をどうにか抑えながら、彼女は答える。  イグネルはそれを鼻で笑った。今まで彼女に優しくしてくれた『お兄様』はもうそこには居なかった。 『流石に知っていたか。ま、それくらい知っていてこそ我が妹だよ。それはさておき、ヴンダーとは「天才」を集めているんだ。世界を変えるためにはそれなりの頭脳がいる、というわけだ。それで君を捕まえようとした。手っ取り早いからね。その時には僕もヴンダーの一員だったし。それにリリーファーを使うことが出来る人間が欲しかった、というのもあるんだろうけれど』 「……」 『というわけで、まあ、ヴンダーが何をするのか解らないけれど、これから君をヴンダーへ移送するよ。あ、ぼくたちの扱いについては心配しなくていいよ。二人共、「残党の兇弾に倒れて死亡」ってことになっているから。代わりももう用意してある。完璧だろう?』 「……」  イグネルはリフィリアの寝息を電話ごしに聞いて、頷く。  そしてイグネル・エクシルとリフィリア・エクシルは戦場において『死亡』した――。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  それから、三年の月日が流れた。 「ロス・エイフィル、これから第一軍令部に所属することとなりました。よろしくお願いします」  敬礼しながら彼は言った。  そこは軍令部のトップ、大佐クラスの人間がいる場所だった。『司令官室』と書かれた真新しい看板が目に入ったのをロスは覚えていた。  司令官は窓から外を眺めていた。外にある景色を見つめていた。だからロスには背中しか見えなかった。 「ロス・エイフィルか……。久しぶりだね」  司令官は踵を返す。  そして彼の顔が顕になった。 「私は司令官、ティズ・ルボントだ。以後、よろしく頼むよ、ロス」  ティズは右手を差し出す。  ロスはそれを見て、彼の右手を握った。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  そして、現在。  マーズの部屋にて彼女からティパモール内乱のことについて聞かされていたヴィエンスとコルネリアは、話を聞き終わり黙りこくっていた。 「……これが私の知る、ティパモール内乱の凡て」 「罪、は……ティパモールの民を無残に殺してしまったということですか」  ヴィエンスは自然と敬語になって、マーズに訊ねる。彼女はそれを聞いて頷く。  ティパモール内乱についてはヴィエンスたちも学校で習うほど重要なことである。結果としてティパモールの行動を批判されたヴァリエイブルはクルガードの独立を補助する名目からアースガルズと戦争を繰り広げることになった。それによって長きに渡る戦争時代が始まったとも言われているために、ティパモール内乱は歴史上重要なターニングポイントであるとも言われている。 「結果として、どうしてこのことを言いたかったのか……それが解らない。罪を償いたかったということか?」 「ええ。私の罪を後世に引き継いでいきたいこと。そして……これから戦う『敵』のことをあなたたちにも知って欲しかったから」 「敵?」  マーズはポケットから携帯端末を取り出し、あるページを開いてヴィエンスたちに見せた。 「実はあなたたちには早く見せるべきだと思っていたのだけれど……タイミングが悪かったわね」  そこには写真が写っていた。  ティパ教の寺院に入るひとりの男の姿が写し出されていた。  そこに映し出されていたのは、ヴィエンスにもコルネリアにも、もちろんマーズも知っている人間だった。 「こいつは……!」  ヴィエンスの言葉に、マーズは頷く。  そしてマーズは告げた。 「そう。彼は『新たなる夜明け』のリーダー、ヴァルト・ヘーナブルよ」 9  崇人はヴァルトからティパモール内乱の話を聞き終わった。彼の口から淡々と語られるそれは、それがおとぎ話等ではなくれっきとした昔話であることを思い起こさせる。 「……ひとつ、この狂った昔話に|後日談(エピローグ)を付け足すならば、それから数年後……赤い翼が結成されたということだろうな。メンバーの殆どがあの内乱で肉親、或いは家族を失っている。みな、あの内乱の被害者だよ」 「そして……赤い翼のリーダーはお前の兄か」  ヴァルトは頷き、笑みを浮かべる。 「そうさ、そうだよ、その通りさ。兄さんがリーダー、僕が副リーダーを務めた。兄さんはカリスマ的地位に立っていた。僧は体力だけでもなく様々な分野の勉強を怠らない。だから兄さんは頭が良かった。それゆえに多くの人間が兄さんと協調した」 「赤い翼は……あの強大なテロ組織は、一人でまとめ上げたって言うのかよ」 「そうだよ。尤も、管理は僕ら兄弟二人で管理していたのを、兄さんの強大な地位を確固たるものにするために兄さんだけが管理している……としたがね。だが兄さんにも欠点があった。あまりにも悲しい欠点があった」  ヴァルトは俯きつつも、ゆっくりと歩き出す。その進路は崇人の座っている椅子を取り囲むようだった。  ヴァルトの話は続く。 「それは……神、だよ。兄さんはティパ教の僧だったがゆえに、ティパモールから逃げても神を信じていた。一方僕の方と言えば『あんなこと』を人間に与えた神は神ではないと思っていたからねぇ……。それについてはよく兄さんと喧嘩していたよ。兄さんは試練を与えてくださったのだと言い、僕は一国規模の面積に住んでいた人間が殆ど死ぬことの何が試練なのかと抗議した。しかし結果として、神を信じる人間が過半数を占めていた……。あれほどのことが起きたというのに!」 「宗教とはそういうものだ。自分が失敗しない限り、いや、もしかしたら信仰が強すぎる場合は失敗をしてもそれを改めようとはしない。世の中の常識が間違っていて、自分たちが正しいと思い込むんだよ」  はっきり言って崇人が返した言葉は、彼が元居た世界で得た知識の受け売りに過ぎない。だが、それは正しい部分も含んでいるし、それと同時に間違っている部分も含んでいる。  とはいえ宗教以上に問題とされているのは自らの思想と言えよう。宗教に入れば、その思想は自ずとそれに染まってしまうものだが、しかし入らなかった場合、或いはそれに相当な憎しみを抱いている場合はどうなるだろうか?  ある学者は言う。宗教に入った人間よりも宗教を憎む人間の方が思想は大きく歪んでしまうと。内在的思想が前者に比べてとても大きく歪んでしまうだろう、というのだ。内在する思想は外在する思想よりも読み取られにくい。外在する思想が正しいのか内在するそれが正しいのか正確には解らない。だが実際に『意識』しているかどうかは本人により決められる。  内在思想と外在思想は紙一重に存在するものであり、片方が欠けている人間は居ない。表裏がきっかり解らないのもいればそれが分離しきれてなく、混在していることだってある。 「内在思想と外在思想……そこまで考えてしまえば、全く論点が変わってしまう。問題はそうじゃない、そんな小さな問題じゃない。問題は『宗教』が精神や思想に与える影響について、だ。僕は学者じゃない、ただの人間だ。だから理論的にもおかしな所があるかもしれない。修正不可能なくらい大きな矛盾があるかもしれない」 「……俺に教鞭を垂れるというのか」  そう言ってヴァルトは崇人の頬を思い切り叩いた。彼の頬が真っ赤になり、口からは血も溢れていた。  ヴァルトは溜息を吐き、続ける。 「立場を弁えろよ、タカト・オーノ。お前は捕まった立場。言うならば人質だ。奴隷と言ってもいいだろう。国同士の戦争や紛争ならば捕虜となった人間の安全はある程度保証されるが……俺たちは国ではない、『組織』だ。確かに何れは国としてその地位を世界に宣言する。今はその前段階に過ぎない。……その意味は、流石に理解出来るだろう?」 「いざとなれば殺すことだって容易に出来る……とでも言いたいのか。そんなことは弱者が考えるようなことにも思えるがな」 「そう粋がっていられるのも今の内だよ」  そう言って。  ヴァルトは崇人の居る部屋から立ち去っていった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「ヴァルト・ヘーナブルが……敵?」  マーズの発言はヴィエンスとコルネリアには予想外の発言だった。今まで一緒に戦ってきた経験のある、いわば仲間だと考えていた彼が敵になるとは思いもしなかったのだ。  ヴィエンスは舌打ちして、少しだけ歩く。 「……ったく、全然考えつかなかった。全然予想できなかった! どうしてそんなことが考えつかなかったのか……。まったくもって、自分を恨むよ」 「ヴィエンス、今それを言っても何も変わらない。変えたいのならば余計なことを言わないほうがいい」  マーズの言葉にヴィエンスは頷く。渋っている様子からあまり理解したくないようだった。 「……それはさておき、もう軍には報告してある。私はこの体たらくだから動くことが出来ない。だから、よろしく頼むと伝えてあるよ」 「よろしく頼む、って……。起動従士の殆どが動けない状況で動くことの出来る兵力なんて使えないのばっかりじゃないのか?」 「いいえ、そんなことなんてないわよ。けっこう人間の兵隊も舐めていると足元を掬われるのよ?」  そう言って、マーズは笑みを浮かべた。  その頃、第一軍令部。  ティズ・ルボントは受話器を置いて、小さく溜息をついた。 「どうしました、ティズ司令官」  書類を持ってティズに声をかけたのはロスだった。ロスはティズの秘書となっている。大抵秘書は女性が務めるものだったが、ティズのたっての希望からロスが務めている。  ティズはロスの言葉を聞いて、そちらを向いた。 「ああ、ロスか。実はマーズ・リッペンバーから『お願い』があってな」 「お願い? マーズ・リッペンバーと言えば起動従士でしょう。しかも『女神』と謳われるくらいの実力を持つ、まさに天才と言わしめる存在だ。一般兵士と比べれば天と地の差があるくらいなのに、どうして俺たちにお願いをしてくるんでしょうね?」 「それが解らないから悩ませているんだろう。しかも無理難題の類じゃない。至ってシンプルなお願いというやつだ。兵をかしてほしい、ということだよ」  第一軍令部に所属している兵士は屈強な兵士ばかりである。理由は単純明快、ティパモール内乱に参加した兵士ばかりなのである。  だからこそ『第一』と冠されているのであり、第一と呼ばれる実力があり、第一と呼ばれる所以があるのだ。 「……しかし、兵をそう簡単に出すことは出来ないだろう? こちらも数ヶ月前に起きた戦争の事後処理に追われているというのもある。一応平和条約を結んでいるとは言え、いつ襲ってくるか解らない。それなのに、兵を頼むなんて……」 「流石に全員を出すつもりは無いよ。一個中隊くらいかな。第一の人間が三百人程度だったからその十分の一程度をどうにかして捻出するつもりだ。『お願い』とはしているものの、断るわけには行かないからな」 「……起動従士というのは厄介なものだな。一般兵士のことを解っているのか解っていないのか……」 「それは我々の考えるところではないよ」  そう言ってティズは笑みを浮かべた。  しかしながらティズにとってもそれは理解していた。今、戦争がいつ起きてもおかしくない状態が長引いているというのに、兵士を貸してしまって問題が起きないと思うほうがおかしな問題なのである。  たとえばの話。  今回の作戦を他国に知られていたら、外国向けの戦力が乏しくなっていることを他国に知られてしまったら。 「とにかく……。はっきり言って、起動従士のお願いを断るわけには行かない。地位的にも我々は下位だからだ。上位の人間には従わなくてはならない。だから、ロス。お前にその軍の指揮を任せたい」  その言葉はロスにとって予想外だったようで、目を丸くした。  ロスは訊ねる。 「俺が?」  それはティズの言葉をまだ理解しきっていないから、そう言ったのである。  ティズはロスの言葉を聞いて頷く。 「そうだ。ロス、きみにしか頼むことが出来ない。これは軍を任せるという意味でもあるが……ティパモールを本気で蜂起させたら世界的にヤバイことになる。我々はティパモールにいて何もしなかった。できなかった、のではない。あの凄惨な戦場で、弱者に手を差し伸べることだって出来たはずなのに、できなかった。しなかった。それは『権力』が怖かったからだ。そして、国が滅びるのを、自分の栖が失われるのが怖かったからだ」 「今なら……ティパモールを助けることが出来る。そう言いたいのか?」  ティズは頷く。 「昔の柵を、ティパモールを解き放ってくれないか、ロス。そのためにお前に軍を託す。……頼む」 「頼む、なんてそんなこと言われても問題ない。お前と俺の仲だ」  そう言って、ロスは踵を返し司令官室を後にした。  ティズはそれを、敬礼して見守っていた。彼らは立場的に言えばティズのほうが上なのだが、彼らだけの会話の時にはそんなものは取り払っている。どんなことでも分け隔てなく話すことが出来るようにするためだ。  だから、彼らのあいだにおいて敬語など無駄だ。彼らはお互いを尊敬しているのだから。  ロスが見えなくなるまで見守ったティズは頷いて、席に着いた。  マーズは自らの部屋にヴィエンスとコルネリアを集めた。先ほどの続きではなく、一度分かれたあと改めて召集したのだ。  理由は単純明快。まだ大会は一回戦が始まって少ししか経っていないのである。キュービック・ガンナーが終わり、次は『ドウル・アタッカーズ』が始まるところだったが、時間の都合により明日へ変更となったのだ。  マーズは小さく溜息を吐く。 「……先ずは集まってくれてありがとう。急な呼び出しで申し訳ないわね」 「別に構わない。それにそういう形式張った挨拶もあまり必要としない……そうだろう?」  ヴィエンスの問いにマーズは頷く。  ヴィエンスは相変わらずマーズに対して敬語を話していないが、まあ、彼女にとってそんなことはどうでも良かったし今それを言及すべきでもない。それ以上に大きな問題が蠢いているというのだから。 「そうね。そのとおりよ……。今、国王から命令が下った。ティパモールの復権を企む組織が暗躍しているとの情報が入った、と。そしてその情報を元として考えるに……、今回の大会を狙う可能性が高いという結論に至ったわ」 「何でだ? 去年だって大会を襲ったが、あれはティパモールに近い会場だったからだろ。どうして今回も襲う必要があるんだよ」 「大会は世界的に注目されているコンテンツよ。ヴァリエイブル以外の国は行わない、だけれど世界からそれを見に数多くの人間が訪れる。それには未来の起動従士を引き抜こうとするスカウトマンめいた存在だっているわ」 「スカウトマンめいた、ねえ……。まさか俺たちの時にもそういうのが来ていたのか?」  ヴィエンスの言葉にマーズは頷く。  マーズは水を一口呷り、さらに話を続けた。 「私が話したいのはそんなことではない。そんな末端の情報をあなたたちに告げるためにわざわざ呼んだわけじゃないのよ。私が言いたいのはこれからここで戦争が始まるかもしれないという事実だけ」  淡々と述べられた事実だったが、しかし彼らの心に突き刺さるには充分であった。  マーズの話は続く。 「……ともかく、ここで戦争が起きてしまうかもしれない、その理由について簡潔に述べると、『新たなる夜明け』が考えている作戦について。その作戦の目的は、ティパモールの再興を世界に知らしめること……だと考えていたけれど、さらに大きな理由があるらしくてね」 「?」 「ティパモール内乱が起こった真の理由を世界へ発信するためではないか……そう言われている」 「真の理由……? 誤ってティパモール人を殺してしまった、それによってティパモール人の怒りが形になったのが内乱じゃないのか?」 「そうだと私も思っていたし、さっきあなたたちに話した昔話でもそう語っているのだけれどね……。どうも彼らは何かを掴んだらしいのよ。重大な理由を」 「それを発信されることを……国が恐れている。ということだな?」  マーズは頷く。  当然だろう。今までヴァリエイブルは世界に『いざこざが起きてしまって、兵士の不注意により一般市民を殺害した』ことで内乱が発生したとして、ティパモールの騒動について謝罪しているし、さらにそれで見解を示している。それが八年経った今になって新しい事実が明かされてしまってはヴァリエイブルの面目が丸潰れとなってしまう。それをヴァリエイブルは避けたかった。 「だから、私たちに任せたのでしょうね……。場合によっては戦争になってしまうだろうということを」  マーズの言葉に、ヴィエンスたちは俯く。  彼らは理解せざるを得なかった。彼らが背負っている、その任務の重さを。 「……お兄様、ついに出発なさるのですね」  その頃、王城ではレティア・リグレーとイグアス・リグレーがテラスにて話をしていた。月夜の晩にそのような場所で男女が話をしている。シチュエーションだけ見れば密会にしか見えないが、もしかしたらそうなのかもしれない。  これからイグアスは王家専用機ロイヤルブラストに乗り込み『大会』が行われているスタジアムへと向かう。  理由は簡単だ。残党が蜂起するという情報が入ったからである。しかもその残党は『ティパモール内乱が起きた真の理由』を公表するのではないかという噂も入っている。  その真の理由がどういうものなのか彼には知り得なかったが、それが公表されたら世界的にヴァリエイブルが今まで以上に苦しい立場になることは確かだった。現に内乱があってからのヴァリエイブルは他国から酷い国だと思われていたし、扱われたかもしれない。それをラグストリアルがどうにか取り持って八年でここまで戻したのだ。  それを破壊されては困る。困るのである。  だからこそ、彼自らが出陣する。目的は赤い翼残党『新たなる夜明け』の完全破壊。 「……それじゃ、僕は行くよ。レティア、ここから僕を見守っていてくれ」  レティアは涙を流しそうだったが、それを堪えて頷いた。  イグアスは頷いて、手を振る。それに答えるように彼女も手を振った。  王城地下にある格納庫。  そこにロイヤルブラストの機体はあった。黒を基調とした機体に白いラインが踊るように波打っている、独特な機体であった。  ロイヤルブラスト、そのコックピットに入ったイグアスは小さく溜息を吐いた。 『大臣、様子は如何ですか』 「大臣……か。堅苦しいから普通にさん付けでいい。どうした?」 『一応報告をと思いまして』  声だけだったが、その声はとても落ち着いていた。これから何を語るのかは解らないが、イグアスは王家の人間だ。最大限に敬意を払う必要がある。だから緊張するのはある意味仕方ないことなのかもしれないが、少なくとも彼女はそんなことないようだった。  声は続く。 『「新たなる夜明け」殲滅のため、一応実行したことについてご報告を』 「解った。手短に頼む」 『了解しました。ハリー騎士団所属、「アシュヴィン」専属起動従士のエルフィー及びマグラスを抹殺いたしました』  語られたのは変えられようのない事実。  それでいて紛れもない真実。 「……彼女たちの様子はどうだった」 『終始関係ない様子でした。新たなる夜明けの企みなど知らなかったし、自分たちはずっと国に仕える気持ちで起動従士として活動しているとも言っていました。ですがそんなことは戯言に過ぎないと判断しましたのでその場で殺しました』  ひどく冷淡な声だった。  イグアスは溜息を吐く。 「……怒られてしまうな、私は。ハリー騎士団の人間になんといえばいいか」 『仕方ないことです。そもそも彼らの出は赤い翼の残党だった。いつ彼らが裏切るかも解らない状況で彼らをストックし続けるのは少しリスクが高すぎます。ですから、判断は正しかったのです。それに、最初から凡て信じた人間などいるはずもないでしょう』 「そうだろう……。だが、僕の手を汚さずに殺したこと。これを問われては」 『何を仰るのですか。あなたは今からほんとうに人間を殺しに行くのですよ。それが何の問題でも? 間違っていません。あなたは正しい行動をしているだけです。国を正しい方向へ導くために……』 「そう……だよな」  言って、イグアスはリリーファーコントローラを握る。刹那、唸りを上げながらゆっくりとロイヤルブラストが動き始める。既に整備室から人間は掃き出しているので問題はない。 「それでは、これからハリー騎士団に合流する。あとのことをよろしく頼んだぞ」 『かしこまりました』  そして通信は終了した。 「……まったく馬鹿だよなあ、人間というのは」  イグアスとの通信を終えた女性は後ろのソファに座っている男に向かって笑みを浮かべる。  ソファに座っていたのは帽子屋だった。  立ち上がり、彼も笑みを浮かべる。 「それにしても名演技だったよ、ハンプティ・ダンプティ。アカデミー賞をあげてもいいレベルだ」 「アカデミー賞? なんだいそれは」 「まあ、演技のうまい人にあげる賞のことかな。僕も詳しいことは覚えていないのだけれどね。何分、人間でない状態で長く生きすぎてしまったからね」  それを聞いてハンプティ・ダンプティと呼ばれた女性はソファに腰掛けた。  帽子屋は立ったまま、彼女を眺めていた。  ――そして、長い夜が静かに始まる。 10  むかしむかしあるところ。翼の生えた人間が暮らす小さな街がありました。  その街は山々に囲まれており、滅多にほかの人間が入ることができませんでした。  そんなある日、その街にひとりの少年がやってきました。少年はとても傷ついており、息も絶え絶えでした。それを見つけた翼の人間たちはその少年を見て驚きました。  彼には翼が生えていなかったのです。  それを見た彼らはそう長く論じることもなく、ある一つの結論を導きました。  ――この少年を殺してしまおう、と。  しかしその時、翼の人間のリーダーが現れて言いました。  それは可哀想ではないのか。私がその少年を観察しよう。そして人間がほんとうに危なくないのかそれを確かめようではないか、と。  翼の生えていない人間は、かつて翼の人間たちをケダモノだと罵ったのです。そして彼らをこの地へと追放したのです。彼らの怒りも尤もでしょう。  しかしリーダーは思いました。確かに過去、翼の人間たちは人間による差別を受けた。だが、それももうはるか昔の出来事だ。  今からでも人間と翼の人間が寄り添い合って生きていっても――いいのではないか、と思い始めたのでした。  翼の人間のリーダーは、その名前をトキと言いました。少年もはじめは翼をはやしたトキの姿を見て怯えていました。当然でしょう、今まで自分たちと違う存在と関わったことがないのでしょうから。若いからこそ、経験も浅いのです。  しかしトキが世話をしているうちに、彼も徐々に言葉を話すようになりました。打ち解けるようになってきたのです。  少年の名前はトオイと言いました。トオイは笑みを浮かべてトキの行動を見るようになりました。自分の身の回りの世話を何でもしてくれるトキに、いつしかそういう感情が芽生えていたのでした。  ある日のことです。やはりトオイのことをよく思わない翼の人間たちが居ました。しかし彼らはトキのことを崇敬していましたし、ほかの民も崇敬していました。トオイを殺すということはトキの思想に反すること。何が起きるのか彼らにも解らなかったのです。  トキのことは裏切りたくない。でも|翼の無い人間(トオイ)は許されない。それはやはり人間に対する禍根が深いことを示していたし、人間を信じることが出来なかったのです。  そこで彼らは考えました。トオイを事故死に見せてしまえばいい。それならばトキは他殺を疑うことなどなく何れそう遠くないうちにそれを受け入れ、翼の人間たちを導いてくれる――そう思い込むようになりました。  翼の人間に存在するグループ概念は人間が通常に取るグループ概念とは大きく異なります。一般にグループとは『組』のことを言い、人間は自然に群れを成すことが多いのですが、翼の人間はそうではなく、今の時代に比べればもっと前時代的なものでした。  『天啓』――彼らはそう呼ぶイベントによってリーダーを決めていました。その内容は一部の翼の人間たちにしか知らされません。ですから知らない人が大半なのです。  天啓によって決められたリーダーは彼らにこういう意味合いで呼ばれるようになります。  ――何れ現れる『終焉』の時、|翼人(よくじん)を安寧の地へと導く勇者  安寧の地が彼らにとって何処なのか解りませんでしたし、そもそも終焉がいつ来るのかも解りませんでした。ですが彼らはそれを信じていたのです。彼らはそれを信じながらも、それが起きて欲しくない――そう思っていたのです。当然と言えば当然なのかもしれません。だって『導く』役割が勇者なのですから、勇者以外の人間がそれを知っているのもおかしな話です。  しかし彼らはそれを信じていました。信じきっていました。いつ起きるか解らない終焉を待ち、その終焉が少しでも伸びないかカミに祈り、カミや勇者に安寧の地へ踏み入ることを認めてもらうために善行を重ねたり、様々な行為を行動を重ねました。  そしてその時は訪れました。ある靄がかかった朝でした。レースのカーテンが空全体にかかっているようでした。それはどこか幻想的でした。  トオイはいつものように外に出て身体を伸ばしたあと、裏にある湧水で顔を洗いました。  目を覚ました彼でしたが、それでも、背後から迫る気配には気付かなかったのです。  顔を洗うのから戻ってこないトオイを不審に思ったトキは外に出て彼を探しました。どこかに行ってしまったのではないかと思い、探しました。  どこに行ってしまったんだ、どこに消えてしまったんだと彼を探しました。  ――そして、遂に彼を見つけました。  滝壺のそばで、冷たくなった彼の身体を見つけました。殴られ蹴られ切られ裂かれ……原型をとどめていない姿で発見されましたが、彼が彼であることは、トキは直ぐに理解しました。  どうしてこうなってしまったのか、トキは冷たくなった彼の身体を抱いて泣きました。男が泣くことはあまりかっこいいことではありませんでしたが、そんなこと彼にとってお構いなしでした。彼はただ、泣きたかったのです。  そして涙を流すだけ流して、彼は決意しました。  誰がトオイを殺したのか。そして、なぜ死んでしまったのかそれを突き止めるために。 「……これがティパモールに伝わる、天使の伝説だよ」  ヴァルトは縄に縛られた状態にある崇人に語っていた。  その内容はティパモールに伝わる天使伝説。言い伝えと言ってもいい。昔から伝わるティパモールの話を崇人に話した真意は誰にも理解出来ない。強いて言うならばヴァルト本人しか知らないだろう。 「……その中途半端の話、続きはないのか?」 「続き? さあね、きっとトオイを殺した犯人を突き止めて殺したに違いない。罪を受けるべき存在はたとえ天使であっても罰する必要があるからね。ティパ神はそれを説いているわけだ」 「天使、ねえ……。ところでその話をした意味がまったく理解できないのだが、それについて質問しても?」 「構わないよ。だが、それについて答える必要も無いがね」  そう言ってヴァルトは部屋を後にした。言うことだけ言って、立ち去っていった。 「……何がしたかったんだ、あいつ」  崇人のその言葉はヴァルトに届くことはなかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  イグアス・リグレー率いる増援部隊は闇夜の中を進んでいた。視界は悪いが、ライトを点けてしまってはこの近辺に住んでいる住民に疑問の目を向けられてしまう。噂を持たれてしまった時点で作戦は失敗したことになるのである。だから、それは入念にチェックしていかねばならない。 「しかし……ここまで道が悪いとは思いもしなかったな」  そう言ってイグアスは舌打ちする。今回彼は初めての指揮をとる。そのためほかの起動従士たちは疑問を浮かべていた。たとえ王族といえども指揮を務めることが出来なければ意味がない。そうなれば最悪勝手に行動する必要だってある。  そしてイグアスもその危険性を理解していたし、対策も考えねばならないと思っていた。だが幾ら考えてもその対策は出てこず、結局後回ししているだけに過ぎなかった。 「……まあ、結局は俺がどうにかすればいいだけのこと。指揮官としてヘマしなければいい。ほかの起動従士に愛想を付かれなければいいだけの話だ」 『リーダー、目標を確認しました』 「目標……コロシアムだな」  通信に答えるイグアス。  一瞬の遅れがあって通信が返ってくる。 『はっ。コロシアムは明かりが点いていますから遠くからでも目立つものですね。あれが敵の要塞だったら一番狙われやすいものですが』 「冗談を言っているのも今のうちだぞ。これから大きな戦いが起きる。場合によってはコロシアム一帯に住む住民を犠牲にしてでも平和を守らねばならないかもしれない」 『今のうちに避難させておいたほうが無難なのでは?』 「馬鹿いえ、そんなことしたら敵にばれる。ならばそんなことをしないでそのまま突入したほうがいい」  それ以上起動従士は答えず、通信がぶつ切りになった音だけがした。どうやら了解したらしい。  彼が提案した作戦は最小限の死者に抑え最大限の結果を得ることだった。コロシアム一帯の人間に犠牲になってもらう代わりにティパモールのさらなる混乱を阻止し、国として形を保持していく。これならば何の問題もなく国を発展していくことができる。彼はそう考えていた。  だが、一般的思考に立ち戻ってみればそれははっきりとした異端である。誰が考えようともそれは異端であることは間違いないのである。彼が王族という立ち位置でなければ誰かが進言したに違いない。その方法は間違っている、もっと民を大切にした戦い方をすべきだ……と。  進言する人間がいないということは彼が王族であること、さらに彼が大臣という要職に就いていることが挙げられるだろう。国の|政(まつりごと)を担う立場にある人間の言動をそう簡単に否定することなど、特に起動従士である彼らには出来ない。  そもそも起動従士は戦争や紛争が起きないと使えない人間であるから、全体的に見れば使い勝手が悪いのは誰だって理解出来ることかもしれない。戦争が起きない、紛争もない、平和な世界が訪れるということは、イコール起動従士の仕事が完全に失われたことを意味しており、それについては彼らも危惧しているのである。 「さて……諸君、コロシアムの光が見えてきたということはまもなく到着するということだ。コロシアムに到着次第戦闘態勢に入る。コロシアムに居る人間は敵味方問わず殺す勢いで作戦に臨むこと、以上だ」  そして、静かに作戦は幕を開けた。  その頃、マーズは自身の部屋で増援が来たことを知った。しかしそれはイグアスからのものではなく、彼女を慕う起動従士からのものだった。  マーズはその起動従士から聞いた言葉を、出来ることなら信じたく無かった。もっと言うならば聞きたくない事実だったとも言えるだろう。 「……それ、ほんとうなの?」  マーズは話を聞いてからその真偽を起動従士に訊ねた。  起動従士は静かに、小さく、呟くように言った。 『確かに。イグアス様は敵味方問わずコロシアムを破壊すると、そう仰りました』  はっきりと、それでいて明確に。電話で話す起動従士は言った。彼女はそれを聞いて舌打ちする。自分がこの場に居て何も出来ないということが、とてももどかしかった。  敵味方を問わない。それは即ち、マーズたちを誤って殺しても何の問題も無いということだ。 「国は……イグアス様は、そんな決断をしたというのか……!」 『ええ。私たちの殆どはそんな決断は拒みたいところですが、イグアス様の気持ちが変わらない以上は私たちに変更の権利などありません……』  もし勝手に変更などしたら国家反逆罪と見なされその場で殺されかねない。誰もが皆自分の命が惜しいことは当然であった。  だが、その起動従士はマーズに助かって欲しかった。マーズ・リッペンバーという存在はこんなところで失ってなどいけなかった。彼女はここで死ぬわけにはいかなかったのだ。 『……マーズさん、こうなったら方法は二つしかありません。あなたはここで失ってはならない、失ったら世界のためにはなりませんから』 「嬉しいことを言ってくれるじゃない」  微笑み、頷く。 『一つは私たちに見つかるよりも早く凡ての人間を救出することです。……何とか我々も策を講じます。時間稼ぎが成功すれば良いのですが……ともかくそれが一番幸せな終わりを迎えることが出来るでしょう。ただし、リリーファーを使うことが出来ません……というよりもそれを使うために戻る時間が確保出来ませんから、自ずとリリーファーを使わずして作戦を実行する必要が出てきます。はっきり言ってこれは危険な選択です』 「確かにね。幾らメンバーを集めても大半は学生上がり。それも場数を踏んでいない人間ばかりだから、足手まといになるのは確実……かしら」 『……二つ目は今すぐこの国から脱出することです。あなただけならどの国に行っても起動従士として働くことは出来るでしょう。そして未だこの国が好きだと言うのなら、ほとぼりが覚めてから戻ってきてもいいではないですか』 「駄目よ、それじゃ……。ほとぼりが覚めたとしても私はここへと戻ることが出来ないでしょうね。国を、ヴァリエイブルの力は凄まじい。例えどう誤魔化したとしてもいつか追い付かれてしまう」 『だったら……ヴァリエイブルの力に屈しろというんですか。理不尽じゃないですか、あなたはずっと国のために頑張ってきたというのに!』  マーズは溜息を吐く。 「しょうがないわよ、起動従士は戦争や紛争が起きない限り必要とされない。それ以外はただの税金ドロボウと言ってもいい。……まぁ、そう思われても仕方無いのかもしれないわね」 『そんなことは……!』 「ありがとう、心配してくれて。だけどあなたはあなたの任務を遂行しなさい。情に流されてチャンスを逃すなんてあってはならないことよ。例え不満な作戦であったとしても、表情一つ変えずに実行する。我々はそうでなくてはならない」 『ロボットと同じではないですか、それでは』  電話の相手は力なく呟いた。  予てより起動従士を自動化しようという動きはあった。その方が感情的にならなくて済むし何しろ命令を聞くからだ。人間ならば予想外の事由で思い通りにならないことが多々ある。 「そう。ロボットと同じよ。我々起動従士の究極体がそれと言ってもいい。ロボットは意志を持たない。自らで考えて行動しない。だから重宝されるのよ。使いやすいから。使い勝手がいいから。抗うことをしないから」  人間の都合というのはいつまでも勝手なものである。 『……ですが、ですが! 我々は人間です!』 「人間……そうね。確かにそうだけれど、でも私たちはロボットに近しい存在であるのは確か。人権こそ認められているけれど立ち位置は……」 『解りました。それじゃ、あなたは……』 「タカトを救う。そしてリリーファーが凡てを破壊する前に赤い翼を完膚なきまでに破壊する」  マーズはそう言って電話を切った。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  マーズ・リッペンバーはハリー騎士団の面々を集めて作戦を発表した。 「最初私たちが戦争を阻止するのかと思っていた……だが、思惑は殆ど違った方向に行ってしまった。今言ったとおり、二時間後を目安にコロシアムの全面爆撃が開始される」 「全面爆撃……大会のメンバーも俺たちも全部皆殺しっていうのかよ!?」  ヴィエンスの言葉にマーズは頷く。 「皆殺しという表現は間違っているかもしれないわね。正確には殺戮と言っていい。それがこのコロシアムで幕を開けようとしている」 「しかもそれをしようとするのが……イグアス・リグレー……王族だってことか……。最低で最悪だな。ここに本人が居たらハッ倒していくレベルだ」 「もしくはここであの忌まわしき歴史を消去するつもりなのかもしれないわね」 「忌まわしき歴史……ティパモール内乱のことか?」  首肯するマーズ。 「先程も言ったかもしれないけれど、新たなる夜明けはティパモール内乱に関する新しい事実を知っているのだという。それが真実だとすれば、それが世界に公表されてしまったら、世界は混乱してしまうだろうしヴァリエイブルは反感を喰らうことは間違いない。……彼らはティパモールを完膚なきまでに破壊したヴァリエイブルを嫌っているからそれをしようとしているのも頷ける」  マーズの言葉は至極論理的であった。ティパモール内乱の出来事は未だにヴァリエイブルにも汚点であるといえる。  その出来事を掘り起こしてしまうような、新しい事実を持っているというのならばそれを公表して欲しくないのも頷ける。  だが、そのために話し合いをするでもなく強硬姿勢に出るヴァリエイブルはどうなのだろうか、とマーズは思った。コロシアム周辺の住民を殺戮してでもその事実を公表したくないというのだろうか。 「とにかく作戦について説明する。簡単だ、現時点において私はタカト・オーノが新たなる夜明けに捕まったのではないかと推測している」  その一言に集まっていたハリー騎士団の一員は驚いた。予想していたのかもしれないが、それでもいざ言われると驚いてしまうものだった。 「新たなる夜明けに捕まっているとしたら、新たなる夜明けがどこにいるのかを見つけなくてはならない。……そこで私は調べた。どうやら大会会場の地下に怪しい人影が大量に出入りしているのが目撃されているらしい。それから推測するに、地下に新たなる夜明けがいるのではないかと考えられる」 「その推測からいくと新たなる夜明けは随分と前からコロシアム地下に潜伏して準備を進めていたということか……。いくらなんでも警備がザル過ぎたんじゃないのか?」 「確かにそうね……。それについてはこれが終わってから対策を考えてもらわなくちゃ」  呟いて、マーズは紙を取り出す。それは畳められており、テーブルに広げていく。 「これはここの地図。断面図というタイプね。断面図を見ると明らかに怪しいスペースが見える。……ほら、例えばこことか」  そう言って指差した場所にあるのは名前も書かれていない空白のスペースだった。見るからにして怪しいスペースなのに、誰も気付かなかったのだろうか。 「おかしいと思わない?」  マーズはヴィエンスたちに訊ねる。  ヴィエンスもコルネリアも薄々ながらその事実に気付いていた。  もしかしたら――新たなる夜明けはヴァリエイブルとパイプが繋がっているのではないか。それはあまり考えたくない事実であり、出来ることならなっていて欲しくない事実であった。 「ええ……そうでしょうね。きっとあなたたちも今のことを聞いて嫌なことを考えてしまったと思う。だが、これは変わらない。事実よ」  マーズの言葉にヴィエンスたちは何も言わなかった。 「起動従士の意味をどう捉えているのか解らないけれど……いい駒としか思っていないんじゃないかしら。本人から話を聞いていないからただの推測になってしまうけれどね」 「推測、ですか」  そうは言ったが、彼女の話は推測だと言い難いくらい的確なものだった。  コルネリアは怖かった。自分の『正義』が間違っていたのかと思った。どうして自分が死なねばならないのかと思った。自分がやっている行動は正しいものではないのかと思った。  どうして、どうして、どうして……。彼女の頭の中をクエスチョンマークが埋め尽くす。 「……まあ、確かに解らない気持ちも解る。私もどうしてこんなことになってしまったのか……今までは建前ばかり並べてきたけれど、いざこうなってみると解らないものね……」  マーズは溜息を吐く。  しかしこうしている場合ではない。彼女の決意はそれほど軽いものなどではないのだ。 「どちらにせよリリーファーを良く思っていない集団もいるし、今回みたいにティパモールと組んで何か為出かそうとしている人間がいるのも事実。だけれど、私たちはそれでも戦わなくてはならない。私たちの背後にヴァリエイブルの住民五千万人がいることを、努努忘れないように」  マーズの言葉を聞いて、ヴィエンスたちは大きく頷いた。  彼らの目にはこれから始まる大きな戦い、そしてその勝利が写りこんでいた――のだろう。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「物語を転換させる?」  ハンプティ・ダンプティはソファに腰掛けて紅茶を啜っている帽子屋に訊ねる。訊ねる、といってもハンプティ・ダンプティが言ったのは帽子屋の言葉の一部を反芻しただけに過ぎない。 「そう。物語を転換させるんだ。文字通り、大幅にぐるっと、百八十度ね」 「そうはいうが……いったいどうやって?」 「簡単だ。インフィニティを使うんだよ。そしてそのためにパイロットを用いる。簡単だろう? 世界を転換させる、ストーリーを転換させる……。そうでないとやっぱり『見ている側』からしても面白くないしね」 「見ている側……つまり我々から見て、ということなのだろうが、それで何が得られる? 作戦の可及的速やかな実行こそが目的では無かったのか?」  帽子屋は残っていた紅茶を飲み干した。 「可及的速やかに。確かにその通りだ。そうでなくてはならない。……だが、必ずしもそれをやろうというわけじゃない。作戦遂行も大事な目的だ。だがハンプティ・ダンプティ、僕たちがやりたいのは未々ある。その第一段階として先にこちらを済ませてしまった方がいいだろう、ってわけだ」 「成る程。それほどまでに時間がかかる可能性があるならば致し方無い。……それで? それによる効果は何だ?」  ハンプティ・ダンプティの言葉を聞いて、帽子屋は薄ら笑いを浮かべる。まるで彼はその言葉を待っていたかのようだった。  帽子屋は腰掛けていたソファから立ち上がり、ハンプティ・ダンプティの肩に軽く触れた。 「……一度世界をある段階まで破壊する。その為にインフィニティとその起動従士に犠牲になってもらうよ」  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃、崇人の目の前には一人の少女が立っていた。  いや、正確には性別が把握出来ない。ゆったりとした茶色のローブを着ていることから身体のラインが一目で解らないというのもあるだろう。 「はじめまして、タカト・オーノ。私はアインと言います。以後、そう呼んでください。……まぁ、別に私の名前を覚えなくても何ら問題はありませんけれど」 「……御託はいい。で、何をしにここに来たんだ? まさかそういう無駄話をするためだけに来たわけじゃないだろ?」 「ええ、その通りです。あなたを私たちの思い通りにするために私はここにいるといってもいいでしょう」 「思い通りにする、だって? 生憎、そんな簡単に動く人間じゃねえぞ」 「ええ、それは理解しています」  アインは身動きの取れない崇人の頭に手を当てる。  それと同時に崇人の脳内が金属音で埋め尽くされた。  アインは呟く。 「思い通りに動いてくれないなら、こちらからそうしてしまえばいいんですよ」 「あ……ああ……」  崇人は恍惚とした表情を浮かべながら、小さく喘ぐだけだった。それしかできなかったというわけではないが、行動が支配されていたと言ってもいい。自分でそれ以外の行動をすることを考えることができなかったのだ。 「……さあ、動きなさい。タカト・オーノ。そしてあなたに命じられた使命を、やり遂げるのです」  そして、崇人の意識は微睡みの中に落ちていった。 「タカト・オーノの洗脳はうまくいったかね?」  ヴァルトが訊ねるとアインは小さく頷いた。それを見てヴァルトは笑みを浮かべる。  洗脳が成功したということは彼の命令に従う傀儡が出来たということになる。タカト・オーノが現時点をもって赤い翼の傀儡と化した。これを世界に発表すれば世界は赤い翼を脅威として認定せざるを得なくなる。それが彼らにとっては必要なことだった。 「力で来るのならばこちらも力でねじ伏せるだけだ……。それが最強のリリーファーならば尚更というわけだよ」 「ええ、存じております」  アインは頭を下げる。 「アイン、と言ったな。ご苦労様だった。しばらくは休憩をしても構わないぞ。洗脳が確認取れ次第、報酬を払おう」 「ありがとうございます」 「なに、ウィンウィンの関係だろう。私は洗脳がかかり傀儡が手に入る。そちらは大量のお金が手に入る。これ以上にウィンウィンの関係を見たことはない」  そう言ってヴァルトは上機嫌に部屋をあとにした。  アインが不敵な笑みをずっと浮かべていたことは、誰にも知り得ないことだった。  コロシアムを走るマーズたち。  先ずはコロシアムの地下へと向かわねばならない。広大な地下施設が広がっているというのにそれが国に秘密となっていたその事実を表向きの交渉事由として行う。それによってどうにかして地下への活路を導くという作戦だ。  しかし、それは思ったより難航していた。 「……地下室への入口は愚か、そういう怪しいものすら見えないぞ……?」  そう最初に言ったのはヴィエンスだった。彼もまた地下室への入口を探していたのだった。  マーズはスポーツドリンクを一口飲み、言った。 「確かにそうね……。倉庫を見せてもらったけどそこですらそういう怪しい場所は見つからなかった……。それとも私たちの知らない通路が存在しているとでもいうのかしら……」 「まさか……。いや、考えるべきかもしれない。ここまでして見つからないとなると、こういった場所にあるかも」  ヴィエンスは壁に手を当てた。  それだけだった。  壁がゆっくりと回転し始めるのだ。 「ヴィエンス、それって!」  マーズにコルネリアはそれを見て慌ててヴィエンスのそばにくっつく。唯一手に入りそうな手がかりだ。ここで逃しては何が起こるかわからない。手遅れになるかもしれない。だから、急いで向かわなくてはならないのだ。  そして彼女たちは通路の裏へと足を踏み入れた。 「まさか壁が回転するとは思いもしなかった……。そこまで古典な仕組みを利用しているとは……」  マーズは呟く。それはほかの団員も一緒だった。地下室の入口が見つからなかったのは甚だ疑問だったがまさか壁を回転させるとは思いもしなかったのである。  通路の裏は思ったより明るかった。電気も通っており、質素な作りになっている以外は普通の通路となっていた。そう、まるで従業員用通路のような雰囲気だった。 「まさかこんなところに通路があるとはな……」  マーズは呟きながら通路を進んでいた。今ハリー騎士団はマーズを先頭にし、|殿(しんがり)をヴィエンスが務める形で進んでいた。  通路の広さは人一人分、さらにそれから若干の余裕がある。壁はコンクリートで出来ており、とても質素なつくりとなっていた。 「この通路はただの従業員用のそれに見えますけれど……。特に何の問題も無さそうですし」  訊ねたのはコルネリアだった。  彼女の言う通り、ここはただの従業員用通路だった。それ以上でもそれ以下でもない。かといって何も仕掛けが無いかと言われればそれは嘘になる。 「従業員通路として設計されたこの通路……恐らく赤い翼の通用口として使われていた可能性がある」 「どうしてですか」  コルネリアは訊ねた。マーズの言葉に違和を抱いていたわけではない。疑問に思ったというよりもどうしてその結論に至ったのかが気になったのだ。  それに対してマーズは足元を指差す。 「これを見ろ」  そこにあったのは鳥の徽章だった。いや、正確には鳥だったがその翼が炎だった。煌々と燃えていた。 「これは……赤い翼の徽章……!」  コルネリアの言葉にマーズは頷く。 「そうだ。その通りだ。赤い翼の徽章がこんなところに落ちている。罠かもしれないが……だが、彼らがここを使っていた可能性はこれで拭いきれなくなった」  仮に罠であったとしても、それを確認する必要がある。彼女たちはそう考えた。  それは確かに正しいだろう。だが、それと同時に敵に見つかりやすくなる危険性も孕んでいる。  とはいえ彼女たちにとってそんなリスクよりもインフィニティのパイロットを確保することが優先された。そうでないと敵に洗脳などされてしまっては大変なことになってしまうからだ。  仮に洗脳した人間が居たとしたら、その個人或いは集団にとって最強の味方となり得るだろう。なぜなら現時点においてインフィニティは最強のリリーファーなのだから。 「インフィニティが最強のリリーファーたる所以……ですか?」  マーズは歩きながら、団員に訊ねる。 「そりゃ当然でしょう。ほかのリリーファーが持ち合わせない装備ですよ。それを補うためのエネルギー生成もすごいし、それを操縦できるのはタカトだけってのもあれですがね」  言ったのはコルネリアだった。  それはそのとおりだ。インフィニティは最強のリリーファーとして名高いのはほかのリリーファーに装着することの出来ない武器が多数揃っているからである。  その武器さえ使えれば世界を支配することも容易だろう。それ程にインフィニティはリリーファーというカテゴリから既に超越した存在だといえる。 「だからこそ……だからこそ、インフィニティは正しい使い方が出来る人間のもとに無くてはならない。あれがテロリストの手に落ちてしまえば……何が起きるのか容易に考えられる」  殺戮か、破壊か。  少なくともその先に見えるのは良い未来でないことは確かだった。 「とにかく急がなくちゃ……!」  マーズ率いるハリー騎士団の面々はそう言って通路を駆け出していく――。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「ところで、どうやって世界を破壊するつもりだい?」 「世界を破壊するんじゃないよ。あるべき段階まで下げるんだ。具体的には人間から文明を奪う」 「文明を奪う……それは石器とかを使わせるということか? 人間が初めて火を使うことが出来、喜び、食事を作ることができた時代レベルにまで?」  通路をハンプティ・ダンプティと帽子屋が歩く。ハンプティ・ダンプティといえば未だに少女の姿をしていた。彼女曰く、そのほうが動きやすいのだという。  ハンプティ・ダンプティの問いに帽子屋は微笑む。 「流石にそこまではしないよ。それに、そこまでしてしまったら計画が失敗に終わってしまうだろう?」 「計画というが……まだ具体的な計画の、その凡てを誰も理解していないぞ。凡て帽子屋、君の心の中で留まっている。だから誰も知らないし誰も同調できない。アリスとともに私たちは世界を監視し続けてきた。それにほんの少しの『刺激』をあたえるものとなる……我々はそうなると思ったから、その計画に賛同したのだ。それが実は肩透かしだったとなると……どうなるかは把握しているだろうな?」 「分かっているよ」  帽子屋は深く溜息を一つ。 「だから計画の一端を見せようとしているのだから」  帽子屋は立ち止まる。  そこにあったのは巨大な扉だった。彼らの身体の数倍もある大きさの扉がそこに屹立していた。  その扉には大きくこう書かれていた。  ――関係者以外立ち入りを禁ず。  そのとなりには小さく『produceed by Dias and Retenberg』と書かれていた。 「……これはいったい?」 「まあ見ていればわかるよ。それは因みに開発者の名前だ。正確にはあるグループの名前とも言えるがね」  そう言って帽子屋は扉をゆっくりと開けた。  ゆっくりと扉が開く。それをただじっと見つめるハンプティ・ダンプティと帽子屋。  いったいその先に何があるのか。そして彼は何を考えているのかこれといって掴めないところが、帽子屋にはあった。そう思っていたハンプティ・ダンプティは帽子屋を今ひとつ信用していなかった。  彼に対して抱いていたのは、圧倒的恐怖。  シリーズの中堅の立ち位置という彼だが、既に二体のシリーズを『破壊』している。彼はシリーズの中にいてシリーズを存続させようとしていないのではないか。そう思うくらいだ。  だからこそ、彼には疑念を抱いているのだ。いつ反逆を為出かすか解らない。だが、反逆をした時、ハンプティ・ダンプティはそれに抗うことが出来るのか、アリスを守ることが出来るのか……そう考えると圧倒的不利であることは明らかだった。  帽子屋の凡てを手に入れることは無理でも、彼の戦力は把握しておかねばならない。だからこそ、常にハンプティ・ダンプティは帽子屋とともにいるのだ。 「ほら、開いたぞ……」  帽子屋はそう言って中へ入っていく。それを聞いたハンプティ・ダンプティも一歩遅れて彼の跡を追った。  中は広かった。ドーナツ状の床を彼らは歩いた。壁にも模様があるのだが、ハンプティ・ダンプティはそれよりも別のものに惹きつけられた。  そこにあったのは大きなガラス管だった。ガラス管の中には緑色の液体が満たされており、そして、そこに居たのは――。 「これは……人間?」  巨大な女性が、一糸まとわぬ姿で浮かんでいた。 「人間じゃあない。これもリリーファーだよ」  そう言う帽子屋にハンプティ・ダンプティは首を傾げる。 「……何を言っている、帽子屋? あそこにいるのは確かに人間のメス……『女性』だろう。リリーファーはもっと機械的だし直線的なフォルムを……」 「直線的なフォルムをしていないと、それはリリーファーじゃないのか?」  帽子屋の問いにハンプティ・ダンプティは何も答えられない。  そのとおり、リリーファーの定義など誰も決められない。だから、直線的なフォルムで無かったとしても、それが機械的なフォルムでなかったとしても、人間的フォルムであったとしても、リリーファーと定義されればそれはリリーファーだった。  帽子屋は恍惚とした表情で女性――否、リリーファーを眺める。 「ここまでに恐ろしい程時間がかかった。年月というのは過ぎるのが速い。特に自分に興味のある事柄を延々とやっている場合は、ね」 「帽子屋、おまえはいったい……何がしたいんだ。世界をある段階まで昇華させる、と言ったが……」 「いや、違う。文明をあるレベルまで落とすんだ。そこまで落とせば誰も僕の計画を無視することなどできなくなる。人間は再び……神を崇敬するようになるんだ」 「帽子屋……おまえ、まさか……!」  ハンプティ・ダンプティは気付いた。  今まで帽子屋が言わなかった、計画の裏側に。 「……神を作るつもりなのか!!」  ハンプティ・ダンプティは帽子屋に対し、そう激昂した。 「神を作る、か。成る程、それもいいアイデアかもしれない。僕のメモ帳に書き添えておくことにしよう」 「神を作ることじゃ……ないというのか」 「違うね」  帽子屋はハンプティ・ダンプティを鼻で笑った。  帽子屋はガラスに手を置いて、 「僕は神を作るのではない。だって僕達は世界を監視するために生まれた存在なのだから。だけれどもうそれに飽きてしまったんだよ、僕は。理由は二つある。一つは人類が我々の思っているプランで生きていくことをしなくなったという点について。これについては非常に面白いことではあるが……しかしいつか我々の凡てが知られてしまうのではないかという恐怖もある。そして、もう一つ」  帽子屋は人差し指を立てる。 「もう一つは簡単だ。単に私利私欲と言われればそれまでだが……。だが、そんな言葉で囚われるものではない。もっと素晴らしくて、もっと崇高な考えなのだから」 「……何だ。そんなに勿体ぶらずに言ってみろ」 「これは神の|御座(ござ)だ」 「神の、御座……だと?」  ハンプティ・ダンプティは帽子屋の言葉を反芻する。 「そう、神の御座。神の座る場所と言ってもいい。これは神になる魂が座る場所に過ぎない。君はこれが神そのものではないかと考えたが……そんなわけはない。これはただのリリーファーだ。それ以上でもそれ以下でもない」  この人間めいた形の巨大な物体が、リリーファーである。帽子屋はいうがハンプティ・ダンプティには如何とも信じられないことだった。そもそもこれ程のリリーファーを見たことがない。 「リリーファーであることが間違っているわkではない。ただリリーファーである意義が解らない。これに君が乗ってドンパチでもするつもりかい?」 「成る程。そのアイデアもあるね。だが、今ここでは不採用だ」  踵を返し、帽子屋は指を振る。 「そんな簡単な問題ではない。そんな簡単に解決出来ることじゃないんだよ。だが、簡単に解決する方法がたった一つだけある。それは僕が実施しようとしている方法だ」  彼の目の前に置かれていたのは機械だった。普通、機械といえば様々な用途に用いられるためにボタンとかレバーとか数多に設置されているものだと思われるが、この機械にはレバーが一つしか設置されていない。 「このレバー、何に使うと思う?」 「……まさか」  ハンプティ・ダンプティは自らの考えの恐ろしさに冷や汗をかいた。  帽子屋は笑みを浮かべて、 「そう、その通りだ。これは『彼女』を解放するための装置だ。これを引けば、地上へと彼女が解き放たれる。そのあとに何が起きるかは……誰もが想像出来るかもしれないし、誰も想像出来ないことかもしれない」 「お前は……悪魔になろうとしているのか!」 「悪魔? いいや、違うね。僕は神の御膳立てをしているだけに過ぎない。神が降臨するために、自分たちが住みやすい世界にするために、行う第一歩だよ。もっとも、その一歩は大きすぎてそれだけで計画の大半を終了してしまうのだがね」  悪魔ではなく。  神が降臨する空間を創りだす。  そのための苦労は惜しまない。 「しかし……それとこの巨大なリリーファー、どう関係があるという? まさかこれを駆動させて世界を破壊するとか言い出さないだろうな?」 「半分正解だ。だが、半分誤答とも言える」  遠まわしに帽子屋は答えたので、ハンプティ・ダンプティは苛立ちが隠せなかった。当然だろう、今までけむにまいてきたのだから。漸く彼の作戦の全容が明らかになるといったこんなところでまたけむに巻かれるわけにはいかないのだった。 「ならば、その誤答と言える部分をお教え願えないかな? 幾ら何でも君だけが知っている情報が多すぎるよ。そうだと僕たち『シリーズ』も君に対する疑念をぬぐいきれない」 「……そうか。確かにそうかもしれない。だが、今更ここで真実を告げたとしてもそれを変更することなどできないのだよ。もう計画は最終段階に突入しているのだから」 「おい、それってつまり……どういうことだ」  ハンプティ・ダンプティの言葉に帽子屋は答えない。  いや、それどころか。  この世界に、この空間に誰ひとりとして存在しないような、そんな感じで帽子屋は立っていた。笑みを浮かべ、水に揺蕩うリリーファーを眺めていた。 「やっと……僕の思い描いた世界を作ることができるんだ。長かったよ……アリス、そしてイヴ」  帽子屋は微笑む。  彼は手に握っていたスイッチを――ゆっくりと押した。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  ヴァリエイブル連合王国、その首都にあるヴァリス城。 「国王陛下! 大変です!」  兵士が大声を上げてノックもせずに王の間へと入ってきた。  国王であるレティア・リグレーはそれをものともせず、兵士に訊ねる。 「兵士よ。先ずは落ち着きなさい。そして落ち着いてから何があったのか、私に伝えてください」 「落ち着いてもいられません」  しかし兵士はその命令を拒否した。 「先程、大きな爆発があり……その原因は不明なのですが、ティパモールが消滅しました! そしてその付近にあったカーネルも損傷! 現在確認作業を急いでおります!」 「カーネルとティパモールで爆発……? カーネルはリリーファー開発の拠点となっている場所ですよ! いったいあそこで何が!」 「分かりません! 分かりませんが……、ただ爆発の近くに居た人間は口を揃えてこう呻いていたそうです」  ――巨大な人間が地の底から湧き上がってきた 「……何ですって?」  レティアはそれを聞いて耳を疑った。そうだろう。そのことは実際ならば有り得ないことなのだから。  しかし彼女は思い出す。それは世界の伝承とも言えることだった。おとぎ話のようにも思えて、子供達がよく大人から聞かされる、ポピュラーな昔話だ。  巨人が出現し、世界を無に帰すというその昔話。  彼女はそれを即座に思い出した。 「『アルファの巨人』……まさかほんとうの話だったとは!」 「アルファの巨人、というと……昔話の一つとして有名なアレですか」 「そうです。あなたも聞き覚えがあるでしょう? 小さい頃、親から聞いたことがあるはずです。私も母からその話を聞いて覚えています。あの物語の最後は確か……」 「大いなる光に包まれた巨人がその巨人とひとつになって、世界を闇から守る……でしたか」 「それは一般的に知れ渡っている話、ですね」  それを聞いて兵士のひとりは首を傾げる。  アルファの巨人には二つの物語が存在している。一つは民衆に広く知れ渡った一般的な物語。闇を振り払うという伝統的なハッピーエンドで物語は締められる。  もう一つは王族などの限られた人間しか知らない真実の物語。昔話として語られるのは変わりないがそれが実際に起きたのかどうかは解らないし、ハッピーエンドかどうかも解らない。  レティアの話は続く。 「あのアルファの巨人……私の知っている話では光の巨人とひとつになり、そのあと、巨人の意思によってどちらにも世界は傾くのです」 「どちらにも……とは、もしや」  兵士の顔がみるみるうちに青ざめていく。レティアの言いたかったことが理解できたからだろう。  レティアは頷き、話を続ける。 「ええ、つまりそういうことです。世界は闇に包まれるかどうか……それは巨人の意思によって決定されるということ。裏を返せば巨人を操る人間の意思によって世界が繁栄するか破壊の一途を辿るのかが決まる……ということなのです」  レティアは立ち上がり、窓を見上げる。  ティパモール、それにカーネルのほうは黒煙が上がっていた。 「どちらにせよ、このままでは危険です……。ティパモール、カーネル近辺に住む国民を急いで首都へ集めなさい! 今すぐに!」 「はっ!」  敬礼し、兵士はその場を去る。  レティアは、黒煙をただ見つめるだけだった。 11  ヴァリス城地下。  インフィニティ格納庫。  二人の作業員がインフィニティ格納庫を清掃している。 「しかしまあ……ここはほんとうに使う機会が少ないなあ。なのにどうしてぴかぴかに磨いておく必要があるんだ?」 「知らねえよ。ただ一応、いつ出撃してもいいようにきれいにしておくんだよ。それが俺たちに課せられた仕事だ。何も言わずにただ言われたことをこなすのがプロってもんよ」 「まあ、そうなんだろうけれどさあ……。あんまり綺麗すぎて汚い場所が見当たらないぜ? さっきから埃一つみえやしねえ。もうお終いにしてしまいたいくらいだ」 「……まぁ、確かにそれもそうだな。ここが使われる時は国が相当ヤバい時に限られるからな。即ちここが使われていないということは国が未々安心ってこった。平和でいいことじゃねえか」 「それもそうなんだがなぁ……」  会話を切り上げ、清掃を再開する作業員の二人。  しかし既にそれなりに綺麗になっていたのもあって――そう磨かなくとも床は埃一つ無い綺麗な状態へと姿を変えた。 「どうよ! ここまで綺麗にすれば仕事した実感が湧くってもんよ!」  えっへんといった感じで作業員は鼻高々な様子。  その時だった。  ――ミシッ。  亀裂が走ったような、そんな音がした。  正確には亀裂というよりも何かが動き出したような音。 「……お、おい。今何か動いたような音がしなかったか?」 「動いたような音? ……いや、そんな音は聞こえなかったが」 「ほんとうか? ほんとうに聞こえなかったのか?」 「何だ、疑り深いな。聞こえなかったと言ったら聞こえなかったよ。それ以上でもそれ以下でも無い」  しかし。  その音は不規則に、徐々に大きくなってくる。  彼ら作業員も無視できないほどに。 「おい……やっぱり聞こえないか?」  その言葉に今まで聞こえなかったほうの作業員も漸く慌て始めた。 「ああ、聞こえるよ……」  振り返り、その音源を見る。  そこにあったのは、インフィニティが堂々と動く姿だった。 「インフィニティが……動いてる……!」  二人の作業員は驚愕する。  当然だろう。あれには何も載っていない。誰も載っていない、要するに『無人』状態にある。 「おかしいだろ。あれは無人状態の筈だぞ!? どうして、動いてやがるんだ!!」 「そんなこと俺が知っていると思うか?! とにかく逃げるんだよ! あいつの進路上に居たらぺっちゃんこになっちまう!!」  人が載っているという確証も掴めないまま、二人の作業員はインフィニティの進路から外れるように避けた。  インフィニティは、まるで人間のように大きく頷くと、ゆっくりとゆっくりと飛び上がっていった。  壁を、天井を破壊し、飛び立っていった。  ただ作業員の二人はそれを唖然とした表情で見守るしか出来なかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「インフィニティを呼び出しました。あと数分もすればコロシアムに到着します」  うつろな目をした崇人はヴァルトに告げた。  ヴァルトは笑みを浮かべながら、崇人に頷き、彼の頭を撫でる。  崇人はそれを受け入れ、ただ頭を撫でてもらう。 「よく出来た。さすがはインフィニティの起動従士、と言ったところか。世界を我々のものにする計画……それが順調に進んでいて僕は嬉しいよ。そして、その計画にインフィニティを利用出来ることも嬉しい」 「自分はリーダーの考える計画に参加することができて、光栄です」  トーンの上下もない、作られたような調子。  しかし崇人はこれが普通だった。もしかしたら抗っている可能性も考えられるが表面に出ていない時点でそれも水の泡、行動をしているのは洗脳の証拠だ。 「アインにはあとで大量の金をくれてやらんとな……。それにしてもあいつ、地位などいらぬと言っていたな」  ヴァルトは疑問を呟く。それは、先程アインとの会話であったことだ。  アインとヴァルトは金銭のやり取りをした。それはアインが崇人の洗脳を実施したからだ。そして、現にアインは崇人の洗脳を完了させた。だから、それに見合う報酬を支払った。  ヴァルトとしてはこのアインという存在を手放したくなかった。アインとは今回だけの付き合いとなっていたが、アインが望むならば専属として、それなりの地位を与えるつもりだった。  だが、アインはそれを望まなかった。金銭だけ受け取るとそのまま姿を消してしまったのだ。 「……まあ、今となってはどうでもいいことだが、ある意味惜しいやつを亡くしたと言ってもいい」 「死んでいませんがね」  そう言ったのは『新たなる夜明け』の幹部であるレシューム・マクリーフだ。  レシュームの話は続く。 「そもそも、あいつはどこか気難しい感じでしたよ? 俺たちが考えている別の洗脳をしたら困るから監視をつけようとしていましたが、集中が切れると洗脳が出来なくなるの一点張りでしたから」 「確かに何か裏があるのかもしれない。……だが、現に洗脳は成功している。それによって我々が得る利益は莫大と言ってもいい。少しくらい寛容であってもいいのではないか?」  ヴァルトの言葉にレシュームは頷く。 「ま、リーダーが言うならば俺たちはそれに従うだけなのですが。とりあえず報告だけはしましたよ。注意は……一応しておいたほうがいいかもしれないですね。俺たち、世間的にはテロリストなのですから」 「そうだな。確かに今はそうだ。だが、これが終わったとき、我々は英雄になっているかもしれないぞ?」  立ち上がり、崇人に告げる。 「タカト・オーノ。まもなくインフィニティがコロシアムに到着する。我々は君をインフィニティに載せる。そして、君にはあることをやってもらいたい」 「なんでございましょう」 「……コロシアム、そしてヴァリス城の完全破壊だ」  ――シン、と場が静まった。  内容を理解していないのか、崇人は首を傾げ、ヴァルトに訊ねる。 「……どういうことでしょう」 「言ったまでのことだ。このコロシアム、そしてヴァリエイブル連邦王国の首都であるヴァリス城を完膚なきまでに破壊する。そうすることで何が起こるだろうか? 想像がつかないわけでもない」 「現世界の状況を鑑みるに、ヴァリエイブルは他国から攻め入られると思われますが」 「そうだろう。だが……僕達は最強のリリーファーを保有している。そして、それを動かす鍵となる起動従士である君も、だ」  ヴァルトは告げる。 「それによって何が引き起こされるだろうね? ヴァリエイブルの国政はずたずたになるだろう。ヴァリス、エイテリオ、エイブルの三カ国がそれぞれの権益を守るために解散する可能性もある。いや、寧ろ僕達はそれを狙っているんだよ。それによって世界のバランスを大きく崩す。法王庁もアースガルドもペイパスも、最近戦争をしたばかりだ。国力などそう回復していない。そこでインフィニティによる襲撃……世界はどうなるだろうね? きっとそれは僕が想像する以上に、君が想像する以上に、壮大で緻密で繊細な未来を迎えるだろう。それを望んだのは僕だ。そしてティパモールの民だ。過去、ティパモールを殲滅した罰をヴァリエイブルに、そしてティパモールを無視した世界に罰を与えてやるんだよ」  言葉の後、ヴァルトは笑い出す。狂ったように笑い出す。  狂人だと考える人間も少なくは無かった。  だが、彼らはそれをただじっと見つめるだけだった。 「世界を変えるということを知って、僕はどれほど待ったか! 兄さんが世界を変えることを失敗してどれほど苦しんだか! 世界は戦争を繰り広げるばかりではないか! 安寧の地など無い……人間にそうつきつけるばかりではないか! ならば、どうすればいいのか」  振り返り、崇人へ訊ねる。  崇人は何も言わなかった。いや、正確には言う前にヴァルトが答えたといえばいいだろうか。 「簡単だよ。安寧の地を作ればいい。戦争を! 終わらせればいい! 今の歪んだ世界を、状況を! 凡てゼロに戻しちまえばいいんだ!!」  凡てを無に帰す。  それはかつて様々な人間が口にしたセリフにも思える。崇人の昔居た世界でもコンピュータゲームの世界で魔王たる存在がそんなことを口にしていた。  もし、魔王たる存在がこの世界に居るとするならば、魔王はどんな言葉を人類にかけるのだろうか? 「……解りました。凡てを無に帰すため、タカト・オーノ。インフィニティとともに力を使いましょう」  跪き、言う崇人。  それを聞いて愉悦の表情を浮かべるヴァルト。 「そうだ。あとは凡て破壊するのみ。破壊して破壊して破壊して破壊して破壊して破壊して破壊して破壊する。それ以上の意味を持たない、人間が持つ古来の技術だ。いや、それに関しては技術すら必要としない」 「今回の目的は『破壊』、ただそれだけで宜しいでしょうか」  ヴァルトは首肯。 「あぁ、上々だよ。計画も滞りなく進んでいる。あとはこのまま世界を破壊するのみ――」 「ならば、時間はあまり多くありません。急いで行いましょう。タカト、インフィニティが到着次第、インフィニティに乗り込み、活動を開始しなさい」  レシュームの言葉に崇人は頷く。そして、彼は一礼して部屋を出て行った。 「……それにしても、不気味とは思いませんか?」  訊ねたのはレシュームだった。 「なぜだ?」  首だけをレシュームのほうに向き、彼は言った。  レシュームは顎のほうに手を当て、 「なんというか、あまりにも洗脳が効きすぎている気がするのですよ」 「何を言っている。洗脳なんて効きすぎたほうが逆にいいのではないか? それに使いやすい存在ならば死ぬまで使う。それがいい。休暇なんて与えるものか。なぜなら、その行動に意味を持たないからだ。意味を考えないからだ」 「確かに……それはそうですが……」  熟考するレシュームの頭をぽんぽんと叩くヴァルト。 「安心しろ。あいつは大丈夫だ。仮になにかあったとしても、僕が赤い翼を守る。それだけは、約束しよう」  ヴァルトの言葉に、レシュームはただ頷くだけだった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「ああ、こんなところにいらっしゃった!」  通路を進んでいたマーズたちは、背後から迫ってくる声に気づき足を止めた。  近づいてくる声はどこか聞き覚えのある声でもあった。  燕尾服に身を包んだ、執事めいた男性。 「確か……グランドさん?」  息も絶え絶えに到着したグランドだったが、息を整える暇もなく、言った。 「緊急事態です。急いでコロシアムにお戻りください! 大変なことが起きようとしているみたいなのです」 「……ここで話しなさい」  マーズの目つきが鋭くなる。  彼女の言葉を聞いてグランドは頷くと、語り始める。 「現在国がティパモールとこの付近一帯に非常事態宣言を発令しました。それによりこの付近とティパモール近辺の住民の方々は直ちにヴァリス城へ避難する必要が出てきました。しかしながら手が足りずどうすればいいのか我々も困っていたのですが……まもなくイグアス大臣を筆頭に部隊が到着するとのことで」 「ちょっとまて! 部隊? 避難? 非常事態宣言? そんなこと聞いてもいないし、それを発令することの重大なことが起きたというのか!?」 「起きたよ、今ここで」  声が聞こえた。  一歩、また一歩とゆっくりこちらに向かってくる。  そして、漸くその声の主の姿が見えてくる。  その存在は黒い服を着ていた。しかしそれは恐ろしい程に肌を隠していなかった。豊満な胸が殆ど露わになっていたし、黒い鍔の広いとんがり帽子を被っていた。背中も恐らく殆ど見えているのだろうが、黒いマントでそれは見ることができない。  笑みを浮かべて――いわゆる『魔女』がそこに立っていた。 「あら……。どうやら、私の聞いていた話とは違ったストーリィになっているみたいね」  魔女は言った。  マーズは魔女をにらみつつ、訊ねる。 「どういうこと?」  魔女は妖艶な笑みを浮かべ、 「私の聞いていた話だとここに、この間戦った少年も来るはずだったのだけれど……ああ、そうだった。少年はさっさと捕まって、今はアインの指示を受けているのだったっけ。私としたことが忘れていた」 「……ということはあなたを倒して先に進めばタカトは居るのよね?」  マーズは護身用に所持していたナイフを取り出す。  それを見て魔女は高笑い。 「あなた……魔女にそれで挑むつもり?! 流石に笑っちゃうわ……。馬鹿なんじゃないの ?」 「馬鹿かもしれない。でも、私はあなたを倒さねばならない。私たちは! あなたを倒して、タカトに会わねばならない!」 「それもそうよね。インフィニティを悪用されれば世界は滅ぶかもしれない。あの坊ちゃんはそれを思って、あの子を使っているのかもしれないけれど。……はっきり言って私たちにはなんの関係もないわ。シリーズがそう言っているから、指示に従っているというだけ。あの白い箱庭から滅多に登場しなくなったシリーズの代わりに、外の世界で汚れ仕事をするのが私たち『スナーク|狩り(ハント)』の仕事なのだから」 「スナーク狩り……」  マーズは魔女の言葉を反芻する。  魔女はゆっくりとこちらに近づいてくる。 「……でもそんなこと覚えてなくても別に構わないわよ。だって、あなたたちは――ここで死ぬのだから」  持っていた杖を、振り翳す。 「――雷の力を、我に与えよ!!」  雷撃が、電撃が、降りかかる。雷撃はちょうどマーズの一歩前辺りに直撃した。  冷や汗をかいた彼女だったが、それでも後退することは無かった。 「ヴィエンス、コルネリア、それにリモーナ。あなたたちはグランドさんの指示に従ってさっさと逃げなさい」 「そんな……!」  マーズの言葉に動揺する一同。  いち早く行動したのはヴィエンスだった。 「……コルネリア、リモーナ。行こう。助けを待っている人が居る。それを救うのも、俺たち騎士団の役目とは思えないか?」 「救う、騎士団? あんたたち、ほんとに救えると思っているのかしらぁ?」  おちょくっている。  魔女は彼らの感情を逆なでしていた。 「何が言いたい!」  コルネリアは一歩前に出て、魔女に進言する。 「簡単よ。……これからやってくる部隊とやらは民衆を救いに来たのではない。混乱を収束させに来たのよ。そのためならばどんな犠牲も厭わない……。部隊はそう考えている。少なくともそのリーダーを務める、イグアス・リグレーはね」 「イグアス大臣が……!? まさか! そんなこと……」 「有り得ない、って?」  マーズの言葉に返す魔女。  彼女の心の隙間に入るように、ねっとりと粘っこく言う。 「……一年前の『赤い翼』の事件。あなたも覚えているでしょう? 事態を収束させるためならばどのような犠牲を払ってでもいい。そんな命令をあなたは受けたはずよ。忘れたとは言わせない。今が平和の世界だからそんなこと忘れてもいい……そんなこと思っていたのかしら? だとしたらその甘い考えは捨てたほうがいいわね。だってこれから始まるのですから。大いなる時代が。人間がどん底まで叩きのめされ、生きていく、そんな『冬』の時代が!」  冬の時代。  それは季節的な意味ではなく、また別の意味だということをマーズは理解していた。  スナーク狩り――ひいてはシリーズが行おうとしているのは、人間世界のリセット。そのために赤い翼を利用し、ひいてはインフィニティをトリガーとしている。 「あなたたち……インフィニティをトリガーにしてまで、何をする気なの!?」 「インフィニティはシリーズによって、いや、正確にはシリーズのひとりによって作られたもの。その時点でシリーズの中にはその計画の根幹となるものが出来上がっていた……そういう仮説があるとしたら?」  魔女は、言った。  それは彼女にとって予想外のことだった。  しかしながら、それによってインフィニティの謎――その一部が解明したようにも思えた。  インフィニティは今まで誰が開発したのか明らかになっていなかった。正確には大科学者である『O』が開発した――という寓話もあるが、それは所詮寓話に過ぎず、結局のところ誰が開発したのか分からずじまいだった。  しかし、人間という枠から外れた『シリーズ』が開発したというのなら話は別だ。それならば開発したのがOという不特定な人物であるということも頷ける。 「それじゃOはシリーズの誰かに……」 「オー? ああ、そうだったっけ。人間の世界ではインフィニティを開発したのはオーというアルファベットで書かれている形だったかな。……それは正確には違うんだよ。それは開発者が間違ったと言ってもいいのだけれど、彼の名前がOから始まったというのもあるし、それに関連付けてネーミングしたのもある。……あなたはギリシャ文字というのを聞いたことがあるかしら?」  ギリシャ文字。  かつてあった世界は、様々な言語に分かれていた。そしてその大半は淘汰されていった。現在残っているのはマーズたちが普通に使うことのできる、ルシュア語のみとなる。  ギリシャ文字は特殊な形態にあったと言われているが、文献があまり残っていないからそれが人間に広まっていることはない。 「ギリシャ文字というのは二十六の文字から構成されている。それぞれ小文字と大文字にね。そしてその最後の大文字というのは、俗に『終わり』を意味している……。最終或いは究極とも言われるけれど、結局はその類に入るもの。そしてその文字は、こう読まれる」  魔女は空に文字を描く。  人差し指で直線に膨れ上がったものが出来たような、そんな形を描いた。  文字を描いたあと、魔女は口に手を当て、呟いた。 「――|Ω(オメガ)、とね」 「Ω……?」  マーズは魔女の言葉を聞いて首を傾げる。  それを見て魔女はくくっと笑う。 「ああ、そうだった。ギリシャ文字を知らないからそう言っても解らないのね。ああ、可哀想!」 「魔女、と言ったわね。流石にムカついてきたわ。なんというか、さっきから鼻にかける感じで、ね」 「あら。嫉妬しているのかしら?」  魔女はまた一歩進む。 「嫉妬は恐ろしいものよ。人間は嫉妬により世界を変えていったといってもいいくらい、嫉妬に塗り固められた歴史を送った。そして今もそう。インフィニティという最強の個体を保持している。それによって他国で嫉妬が生じているのもまた事実でしょう?」 「確かにそれは事実かもしれない……。だからといって、それを正当化してはならない! インフィニティの力はあまりにも強力である。だからこそ、それを私たちは『守って』いかねばならないのよ!」 「守る? 既にあなたたちヴァリエイブルは腐る程使っているじゃない。誰のものであるのかを理解しないまま、人は強いものを使っている。強ければそれでいい? バカバカしい、だから人間はつまらなくて、くだらないのよ」  マーズと魔女の会話は水平線上からずれることは無かった。一ミクロンたりとも動くことのないその境目を見ていて、周りは怒りを募らせていた。どうすればこちら側に都合のいい展開を持っていくことができるのか。  それができるかどうかが解らなかった。水面下での探り合い――といえばいいだろうか。 「人間はくだらない……。それは人間以外の存在である、人間の理から外れた魔女という存在の視点から言えることでしょう? 人間からすれば人間はくだらないなんて思わない」 「それは当然でしょう。人間が同族嫌悪することもあるけれど、それは人間以外が嫌悪する可能性から比べれば天地の差があると言ってもいい」 「天地の差……ねえ。そんなこと、ほんとうにありえるとでも思っているの?」  マーズの言葉に、魔女の顔には青筋が立ち始める。  それを見てマーズは思う。魔女という存在は煽りに弱い、と。魔女は外界に居た。人との関わりが乏しかった。だからこそそういうものに慣れていないのではないだろうか、という仮説がマーズの中で出来ていた。  魔女は愉悦な笑みを浮かべる。未だ自信があるのだろう。煽られていることに自分で気付いていないのかもしれない。 「ええ、その通りよ。あなたたち人間は解っていないの。この世界がどのようになっていったのか。どんな風に変わっていったのか。人間がこの世界を作り上げたのではない。人間以外の存在が、過去に世界の形を作り上げたというのに、それをあなたたちは記憶を上書きしているのよ。世界は人間が作り出した、自分たちは偉大な存在だ……と。ほんと、人間って愚かよね」 「人間が愚か、ですって? 人間は愚かな時代を生きてきたかもしれないわ。確かにそれはそうかもしれない。……でも、私たちは長らくこの世界で生きてきて思った。人間は愚かかもしれない。人間は汚い存在かもしれない。それでも人間はお互いがお互いのことを思わないと生きていくことが出来ない。人間はひとりで生きていくことが出来ないのよ。人間はそうやって生きていくのよ」  魔女は踵を返した。  魔女は懐に忍ばせていた時計を見て、頷く。 「……ここまでのようね」  その言葉と同時に、通路が大きく揺れた。それはもう、立っていることが出来ないほどに。  マーズたちが軒並み尻餅をついてしまったが、しかし、魔女だけはその場に立っていた。 「何をした……! まさか魔法か!?」 「魔法? まさか。私がこんな状態においてそんなことをするとでも? 私は高い金をもらって、約束をしてもらって、そのために活動しているまでだ。時間稼ぎ、と言えばいいだろうか」 「時間稼ぎ……だと?」  マーズは訝しげに首を傾げる。 「ああ、そうだ。時間稼ぎだよ。ただその時間稼ぎが何を意味しているのか……それは明確に理解していないがね」 「なんだと……!」  徐々に魔女の身体が煙に塗れていく。  消えていく。消えていく。消えていく。 「待て――!」  マーズは魔女の手を取る。  ――が、実際にはその手を取る前に魔女の身体は煙と化して消えていった。  魔女が消えてもまだ揺れは収まらない。 「マーズ・リッペンバー様! 急いで、戻りましょう!! 先程の魔女とやらの言葉を聞いてから……何やら嫌な予感が致します……!」  グランドの言葉にマーズは頷く。  そしてハリー騎士団の面々は通ってきた通路を再び戻っていった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  地上は強い風の塊に覆われていた。  青白く光る物体が、その風の塊の中心に鎮座していた。 「あれが……インフィニティ……なの?」  マーズは呻いた。そこにあったものが、彼女の見たことがあるモノだったからだ。いや、彼女だけではない。正確にはハリー騎士団全員が身近に感じていたモノであった。  インフィニティ。  最強のリリーファーであり、そのリリーファーはたったひとりの起動従士にしか扱うことは出来ない。即ち、インフィニティが動いているということは彼がインフィニティに乗り込んで操作しているということになる。インフィニティには自律して動くオペレーティングシステムが存在しているというが、それも基本はユーザである起動従士に依存している。  だからこそ、起動従士が操られてしまうとその時点で大変なことになってしまうのは誰にだって理解できた。 「タカト……あなたいったい、何をするつもりなの……!」  世界が、コロシアムを中心として、闇に飲み込まれつつあった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  法王庁自治領。  その中心にある首都ユースティティア。  そしてその中心に聳え立つ、クリスタルタワーの最上階にある法王の間。  法王は報告を聞いていた。 「成る程……。ヴァリエイブルから、凄まじいエネルギー反応を感じている、と」  報告をしているのはバルタッサーレだ。 「はい。まだ確認しきれてはいませんが、このままですと法王庁の自治領までその嵐がやってくる可能性も……」 「どういうことだ? 嵐は動かないのだろう?」 「その……勢力が拡大しつつあるのです。このままでは世界が壊滅すると言ってもおかしくはありません。現にヴァリエイブルは首都付近まで嵐が勢力を伸ばしており、死者が多数出ているとのことです。諜報員の話によれば、嵐は怪しげな雰囲気が立ち篭めており、……人が生きている気配がない、と」 「当たり前だろう。バルタッサーレの報告どおりならばその嵐とやらの勢いもとてつもないはずだ。ならばその中で人が生きることなど不可能に近い」 「ええ……。それもあるのでしょうが、それ以外のこともあります。それが……『魔法』とは違う、ものだというのです。なんというか……死臭、といいますか」 「死臭? 死体が大量にできたとでもいうのか? 或いは短期間で大量の死体が腐ったとでも?」 「いえ……そうとは言い難いのですが……」  バルタッサーレは言葉を濁す。まだ確定でない情報であるからかもしれない。  対して法王は苛立ちを募らせていた。バルタッサーレが言葉を濁しているというのもあるだろう。しかし、それ以上に和平交渉を結びその条約を結んだにもかかわらず再び世界を脅かしているヴァリエイブルに怒りを募らせていた――というのが正しいのかもしれない。 「……ともかく、今回の報告は『赤い翼』なるテロ集団が関わっている。バルタッサーレはそう報告した、そうだな?」  法王の言葉にバルタッサーレは頷く。  だとしたら問題である。ヴァリエイブルは数年もの間、赤い翼という脅威を放置していたということになるのだから。一年前も赤い翼が襲撃したという時もその一派のみを潰し、それ以上のことは大してしなかったという。だとするならば、赤い翼に対して怠慢を働いていたということになる。 「|彼奴ら(ヴァリエイブル)のみの世界ではないということを、彼らはまだ理解していないらしいな」  法王は溜息を吐く。その言葉に、苦笑しつつバルタッサーレは頷いた。 「とにかく、嵐は何とかせねばなるまいな」  法王は呟く。その言葉にバルタッサーレは頷いた。  ヴァリエイブルから生み出されている『嵐』は最低最悪の災害であった。このままではヴァリエイブルだけではなく、他国にも影響を及ぼしかねない。 「となると……事態を収束させるためには、先ずは嵐を止めなくては」 「嵐についてだが、破壊する必要はない」  人差し指を立てて、法王は言った。  バルタッサーレは法王の言っている言葉の意味を即座に理解したらしく、表情を強ばらせる。 「まさか……ヴァリエイブルを犠牲にして、嵐を食い止めるおつもりですか!!」 「まあ、予定ではそうだ。ヴァリエイブルにはあの最低最悪の大災害を生み出した『罰』を償ってもらう必要がある。そのためにも、|彼(か)の国であの嵐を食い止める必要があるわけだ。生憎、私たちの領土はなんとかすればヴァリエイブルからの嵐による攻撃を食い止めることが可能となる。報告通りならばヴァリエイブルは長らく人が住めなくなるだろう。そうなれば、世界はだいぶ狭くなるな」 「確かにそうですが……。それを守るのも我々の仕事なのでは……!」  バルタッサーレは激昂する。今目の前に立っているのが自らの上司で、この状況から自分自身に何が起こるのかを理解していたのに。  ただ自分の信念だけで罪の無い多数の人間を見殺しにするということが、そのことよりも優先して許せなかったのだ。 「何を怒っている。……まさか君、ヴァリエイブルに同情しているのではないだろうな?」 「だとしたら……何だと言うのですか」  バルタッサーレの言葉に、法王は小さく溜息を吐いた。 「だとしたら、か。先の戦争までは、未だ忠誠を誓っていた。それでいて忠実な部下だった」 「それはあなたが神の代行者だったからです。私は。いえ、この領土に住む人間は! 神が居ることを信じ、あなたの言葉を神の言葉とした! そしてあなたを……神として信じた!」 「あぁ、そうだったな。確かにそうだった。あんまりにも当たり前過ぎて、忘れてしまっていたよ」  そう言って法王は笑った。  |下卑(げび)た笑顔だった。  それを見たバルタッサーレは、ただ何も言えなかった。  それは今まで信じていた法王が、善人の皮を被った悪魔だからだろうか?  それともヴァリエイブルの人間を少しでも救うことが出来る絶対的な『力』があるにも関わらず、向かうことが出来ない自分を蔑んでいるからなのか?  それは自分自身でも解らないことだった。彼にとってそれは身勝手なことかもしれなかったが、それでも、彼は葛藤した。葛藤し続けた。 「…………人間を無慈悲に殺したくないのだろう?」  法王の言葉に俯いていた彼は、その言葉を聞いて思わず顔を上げた。  法王の話は続く。 「別に私も言うことではないだろうと思い言わないでおいたが……、人の命を無慈悲に取ろうなど考えて、いいはずが無い。いいはずが無いのだよ」 「ならばヴァリエイブルにもそれが適用されないでしょうか……! このままではさらに被害が増大して、甚大な災害へと姿を化してしまいます。確かにかつてヴァリエイブルは我々と闘った国です。ですが和平条約を結び、今やあの国との関係も歩み寄ったものにしなくてはならないのでは……」 「歩み寄った、和平条約? バルタッサーレ、君のマイブームは冗談を言うことなのか?」  それを聞いて、再びバルタッサーレの怒りのゲージが徐々に上昇していく。 「冗談、ですと……! あれほどまでに破壊の限りを尽くし! 圧倒的な力でヴァリエイブルを蹂躙した『あれ』はどうなのですか! 我々はそれを繰り返さないべく、世界に平和を取り戻すべく和平条約を結び、平和へとそれぞれの未来を歩み始めたのではありませんか! それをあなたは……何もかも、完膚なきまでに破壊するおつもりですか!!」 「この世界は育ち過ぎた。良い方向にも悪い方向にも、だ。だから、この世界を『一から』創り直す。世界創成とも言えることだ」 「私が言いたいのはそういうことでは……!」  法王は笑みを浮かべ、外を眺める。外は雲ひとつない青空だった。 「これ以上『命令』を守りたくないのであれば、敢えてそれを止めようとはしない。だが、君が所属しているのは何処だ? 君の直属にいる上司は誰だ? そのことを|努々(ゆめゆめ)忘れないでおくこと……だな」  その言葉を聞いて、バルタッサーレは小さく舌打ちした。目の前に居る人間こそ彼の上司だったが、そんなことどうでも良かった。  そして踵を返すと、言葉もかけないまま足早に去っていった。 12  去っていったバルタッサーレを見送って、法王は再び下卑た笑みを浮かべた。  そして彼は高らかに声を上げだした。周りには部屋もある。そこには人も居るというのに、彼は笑った。人目も憚らずに、笑ったのだ。 「……見ていて楽しかったよ、法王|猊下(げいか)?」  声が聞こえた。  その声は闇から聞こえているようだった。  法王もその声の主の正体を理解していたからか、ただ頷いた。 「きっと彼はああ思っているだろう。……私が崇拝している法王猊下は変わってしまった、とね! やはり人間というのは見ていて面白い。何度もやったとしても毎回パターンの異なる、予想外の行動を取るのだから」  姿が。  変わっていった。  壮年の男性は、猶予も与えること無く、ものの数秒で少女へと姿を変えた。 「ご苦労様、ハンプティ・ダンプティ。感想は?」  帽子屋と呼ばれる男は、高級感溢れる椅子に腰掛ける少女に問い掛ける。 「上々といったところかな。……それにしても、バルタッサーレ、だっけ? 彼を放つのはなかなかに痛手な気がするなぁ。別に帽子屋の計画に茶々を入れるつもりは無いが……。そこのところ、どうにかならなかったのかい?」 「彼は計画に不要だったからね。『試した』んだよ、もしここで未だ誘いに乗るようならば再び登用したが……、あの様子ならば登用しないで正解だったな。所詮起動従士はリリーファー無しではろくに戦うことも出来ない。況してや法王庁が所有する起動従士の殆どが僕たちの息がかかっている人間ばかりだからね」 「とどのつまり、バルタッサーレが国を離れようとも何ら問題は無い……と?」  帽子屋は頷く。 「まぁ、もしかしたら必要なパターンが現れるかもしれないけれどさ。少なくとも次の|段階(ステップ)に向かうためにはいらないよ」 「インフィニティを依り代にした……擬似的な『|世界の最期(ワールドエンド)』、か。まさかここまでうまく成功するとはね」 「世界の最期は最初から考えていたことだからね。でも、これで終わりじゃない。終わりは終わりのままではなく、そこから始まりも生まれる。それを僕たちは危惧する必要があるんだよ」 「第二第三のインフィニティが出る可能性も……あるのか?」  ハンプティ・ダンプティはずっと気になっていたことを帽子屋に訊ねた。  第二第三のインフィニティ。これは彼ら『シリーズ』が想定している未来の可能性……その一つだった。  インフィニティは最強のリリーファーと言われている。その理由は単純明解、インフィニティを上回る力を持つリリーファーが開発出来ないからだ。したくても、技術力が無い。  だが――五年、十年と時代が過ぎていけばどうなるだろうか? 飛躍的に発達する科学技術が、いつしかインフィニティの技術を上回ったとしたら? 「……確かにその可能性も考えている。最低最悪の可能性だけれどね。インフィニティには未々頑張ってもらわないといけないし、インフィニティの性能を上回るリリーファーも出てもらっては困る。……だから、世界の最期、その後に残された世界は『技術レベルをある段階まで引き下げる』必要があるわけだ」  ある段階までに文化及び技術を引き下げるということは、即ち人間を下位互換させた世界へ遷移させるという意味に等しい。  人間という立ち位置を無視している、或いは弄んでいると言われてもおかしくないこの計画。最初は帽子屋だけが進めていた。彼主導の計画だった。  しかしいつしか、それはシリーズ全体の計画と化した。シリーズの長を務めるハンプティ・ダンプティが帽子屋に賛同し始めたからだ。それによりシリーズの一員はそれに参加せざるを得なくなった。ハンプティ・ダンプティには誰も逆らえなかったのだ。  それでも逆らう存在は、徹底的に排除する。  それによって反逆を考えていた存在の見せしめになる。お前も反逆をするのならば、こういう扱いをされるぞ、こういう可能性を孕んでいるぞ……と。 「そんな努力をこなして、漸くここまでやってきたのだよ。それを否定されるつもりなど毛頭無い。それは解るだろう?」 「確かにそうだ。だがなあ……、少々焦り過ぎではないか? もう少し段階を踏んでいっても……」 「段階は充分に踏んだよ。そうしてそうしてやってくるんだよ。世界の終わりを、呼ぼうじゃないか」 「呼ぶ、ねえ……」  ハンプティ・ダンプティは目を細める。  まだ帽子屋のことを信用していないのかもしれない。  そしてそのことを帽子屋は知っていた。それを知っているから、故に帽子屋はハンプティ・ダンプティを利用しているのだ。  ハンプティ・ダンプティが裏切るデメリットよりも、ハンプティ・ダンプティを自分の元に置いておくメリットの方が大きいということだ。 「ハンプティ・ダンプティ。君には最後の作戦をして欲しい」 「それは全部含めた作戦か? それとも、『ワールドエンド』前最後の作戦か?」 「後者だよ」  帽子屋は答えて、微笑む。 「後者、か。何をすればいい。何かする必要はあるのか?」 「物分りが良くて助かるよ。……君はかつてある男子学生に『精霊』を謳ってたぶらかしていたのを覚えているかい?」 「あぁ、あの男だな。確か名前は……」  ハンプティ・ダンプティはそれが誰だか思いだそうと、視線を上に向けた。  帽子屋はそれを見て笑みを浮かべ、空を見上げた。 「ファルバート・ザイデル、だよ」 「あぁ、そうだった。そいつだ。あんまり特徴が無いもんで忘れてしまっていたよ」 「……それは彼が可哀想だよ。是非ともこれを機会に覚えておいてくれ。何故なら彼もまた大事なトリガーの一つになるのだから」 「トリガー、だと? 帽子屋、ここに来て人間を使うというのか? 何故だ。完璧を追求するのであればもっと工程も短縮出来るのではないか?」 「出来るだろうね。だが、それだと最終的な結果が異なってしまう。……確かに面倒なのは解る。だが、人間が介入するかしないかで、彼の完成度合いが大きく異なるんだよ」 「完成度合い?」  帽子屋の言葉に含まれていた単語の意味を理解出来なかったハンプティ・ダンプティはその意味を帽子屋に訊ねた。  帽子屋は笑みを崩さなかったが、しかしきちんとした答えを導くことは無かった。 「おい、完成度合いとは何だ。それが高いことで何が産み出されるんだ」 「そこまで解っているのなら、充分なんじゃないかな。あとはハンプティ・ダンプティ、君自身が解き明かしていくべきことだ」 「何だそれは……。馬鹿にしているのか、帽子屋?」  それを聞いて帽子屋は目を丸くする。 「そいつは心外だね。僕はハンプティ・ダンプティ、君のことを低く見たことなど一度も無いよ。……そう、シリーズに僕がなってから、ずっとね」 「ずっと、か」  ハンプティ・ダンプティは微笑む。  それを見た帽子屋は目を丸くする。ハンプティ・ダンプティがそんな表情をするのは見たことがなかったからかもしれない。どちらにせよ、帽子屋はハンプティ・ダンプティの表情をそこまで細かいパターンで見たことがない。 「まあ、それはいい。取り敢えずハンプティ・ダンプティにやってもらいたいのは、そのファルバート・ザイデルに最後の手助けをして欲しい、というわけだ」 「手助け? ……人間に力を貸すなんて、帽子屋、おまえらしくもない」 「別に手助けというわけではない。寧ろ、計画の|一助(いちじょ)となるものだ。僕の計画にはなんの間違いもないからね。そのためには人間だって使うんだ」 「成る程。それじゃ……これから私がその人間に手助けすることも、帽子屋の計画に関係あることになる、と?」  帽子屋は頷く。 「そうだよ。これからとても面白いことになる。そのためにはファルバート・ザイデルが行動してもらうのがいいというわけだよ」 「ふむ。それもそうか。……ならば、向かうとするか」  ハンプティ・ダンプティは歩き出す。  帽子屋は笑みを浮かべ、その光景を眺めていた。  これからが最終戦。  世界の終わりを見るために、彼らは最後の行動に打って出る。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃、ファルバートはハリー騎士団の面々と合流していた。理由は単純明快、嵐から逃げるためと現状を把握するためだ。 「何ですかあれは!」  ファルバートはマーズに訊ねる。  マーズは苦虫を噛み潰したような表情でファルバートに答える。 「あれはインフィニティ……よ。恐らく、ね。赤い翼の人間に唆されたのかどうかは知らないけれど、あの姿になってしまった」 「あの姿……? 普通のインフィニティと何が違うんですか!」 「あの姿は、一年前……私たちがその姿を封印したと言ってもいい。カーネルの独立騒動の話は知っているわね?」  こくり、とファルバートは頷く。 「あの時の話になるのだけれど……タカトは感情を昂らせて、インフィニティのロックを外してしまった。決して、犯してはならない禁忌を犯してしまった。そして彼は……インフィニティは『インフィニティ・シュルト』なるもう一つのフォルムにチェンジした。……それが動いた様子は一つの絶望と言ってもよかった。破壊破壊破壊破壊、混沌の上に破壊を上塗りしていく。それがインフィニティ・シュルトだった。インフィニティ・シュルトの性能を見た私たちはそれを国に報告し、二度とそのようなことが無いようにした。二度とそのようなことが起きないようにした。あのままでは、世界すら滅ぼしそうな気がしたから……」 「でも現に、インフィニティは『暴走』しているじゃないですか! やはりインフィニティの起動従士は精神が未発達だった……。そう言っても過言ではないのでは!」  その言葉をマーズは聞き逃さなかった。  刹那、マーズはファルバートの頬を引っぱたいた。激しい音が、空間に響いた。 「……あなた言っていいことと悪いことがあるわよ。特に今は緊急時。言葉に気をつけたほうがいいのではないかしら? たとえ父親が有名な起動従士であったとしても、その同じ職に就けるとは限らないのよ?」 「何が言いたいんですか……! 間違っていないでしょう!? インフィニティの起動従士は感情を昂らせて暴走し、結果として多大な被害を負った……あなたはそう言いたいはずだ! そして今、それが繰り返されようとしている! 同じことが、ここで起きようとしている! それを精神未発達と言って、何がおかしいんですか! 僕には……まったく理解できませんよ!」  ファルバートの言葉にマーズは答えなかった。  ほかの人間もそうだった。ヴィエンスにコルネリア、リモーナもそうだった。双子もそうだった。みんなみんな、何も答えなかった。  誰も答えることが出来ないことなのだ。ファルバートはそれを見て凡てを察した。  誰も答えたくないことなんだ。ファルバートは察した。  だから彼はその場にいたくないと思った。その場から逃げようと思った。  彼は踵を返し、走り出した。 「待ちなさい、ファルバート・ザイデル! そっちは危険よ!!」  マーズの問いかけにも答えずに、ただひたすらに彼は走り出した。  目的地など、決めぬまま。 13 「……おや、どうした。ファルバート・ザイデル?」  声が聞こえた。  ファルバートは立ち止まり、辺りを見渡す。辺りは破壊の絶叫で覆い尽くされていたが、しかし一点だけ、正確に言えば彼の直ぐ左隣だけが、違った。破壊の絶叫ばかりが立ち込める空間は、はっきり言って生の感覚が無い。しかし彼の直ぐ左隣に居た『彼女』だけは生の感覚をありありと見せつけている。  そこに居たのは、ファルバートと契約を交わした精霊だった。  それを見て彼は一条の光を見出だしたようにも思えた。何処までも行き止まりばかりだった彼の考えに一つのスパイスを与えてくれる存在だと――少なくともファルバートは――思えた。  精霊の話は続く。 「ごめんなさいね。あなたの精神が不安定だからかもしれないのだけれど、私は常にあなたの傍に居るのに見えなくなってしまう……そんな不可思議なことが起きるのよ」  無論、それは嘘だ。何故なら精霊の正体はハンプティ・ダンプティだからだ。ハンプティ・ダンプティが常にその場に居たわけではないのは明らかだった。  だが今の彼には、そういう『普通』を判別する力が劣っていた。彼にとって一番の実力を示す場であった『大会』がこのような形で潰されてしまったからだ。  彼の心を支配するのは圧倒的な怒りだった。それはこの大会を、この会場を潰したインフィニティ……ひいてはその起動従士である崇人に対してだった。  理不尽な怒りと言われればそれまでかもしれない。しかし彼にとって『大会』というイベントは人生の中でも大きなウェイトを持ったものだった。  父親を見返したいと思ったのが、彼が起動従士を目指した理由だった。父親は有名な起動従士だ。だから何をしても『あのザイデルの息子』だと揶揄され、正当に評価などされなかった。 「何があのザイデルの息子、だ! 俺だってザイデルだ。そんな固有名詞じゃない、ファルバート・ザイデルという立派な名前が、俺にはあるんだよ!」  気が付けばファルバートは精霊に向かって叫んでいた。  精霊には何の関係も無いのだと思いながらも、矛盾した行動を取ってしまった。 「あなたは悪くない」  精霊はそれでもファルバートの傍に寄り添う。 「あなたは悪くない。あなたは悪くないのですよ」  精霊はファルバートに寄り添い、抱きしめる。ファルバートはただその精霊にされるがまま、抱き寄せられる。  ファルバートは微睡みの中で、精霊の声を聞く。 「あなたは悪くない。あなたは悪くない。……悪いのはだあれ? 悪いのは、世界を滅ぼそうとしているのは、あなたの邪魔をしているのは、いったい誰?」  ファルバートは虚ろな目である一点を見つめる。  そこにあったのはインフィニティだ。 「そう……」  微笑んで、精霊は頷く。 「あそこにあるのはインフィニティ。インフィニティがあなたの邪魔をしている。でもインフィニティをあなたは欲している。これはかなり大変なことになっているということね? インフィニティを使っている起動従士が、邪魔をしていると考えればいいのかな?」  再びファルバートは頷く。  インフィニティに乗り込んでいる起動従士などたったひとりしかいない。 「タカト・オーノ……!」  ファルバートはその名前を呼んだ。 「そう。タカト・オーノ。彼が悪いのよね。彼さえいなければ今頃インフィニティに乗れたのはあなたかもしれない。……いや、解らない。今からでも遅くないかもしれないわよ?」 「今からでも……遅くない?」 「そう。だって考えてみたらどう? インフィニティに乗っている起動従士はこれ程の災害を引き起こした。ならば『罰』を受けてもいいはずよね? インフィニティを没収されても、何ら問題はないはずよね?」  若干精霊の言葉にも熱が入り始めるが、それにファルバートは気付かない。 「さあ、やるのよ。ファルバート。あなたなら出来る。あなたならあのインフィニティを、タカト・オーノから奪い返すことが出来る。あの最強を、あなたのものにすることが出来る。それってとても楽しいことだと思わない。嬉しいことだと思わない?」  ファルバートの頭にはあるヴィジョンが浮かんでいた。それは彼が操縦するインフィニティが戦場を闊歩する姿だった。  彼は父親を超えたかった。そしてその代表格とも言えるインフィニティの適格者となることは、彼にとっても最高の目標であった。  それを狙えるチャンスが今、回ってきた。タカト・オーノからインフィニティを奪い、起動従士の座から引きずり落とせば、インフィニティの起動従士に自分が就任できるかもしれない――彼はそう考えていた。  笑みを溢し、呟く。 「インフィニティを奪うインフィニティを奪うインフィニティを奪う……」  インフィニティを奪う。  彼の頭の中はそれでいっぱいだった。それしか無かった。それに占有されていたのだ。  インフィニティを奪う。  そのためなら彼は、どんな手段も厭わない。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  残されたハリー騎士団の一行は作戦会議を立てることにした。とはいえそんな時間も無いため、リリーファーに乗ってから会議をすることとなった。  即ち先ずはリリーファーが保管されている保管庫へと向かわないといけないわけであって……。 「ここからリリーファーの保管庫までどれくらいだ?」  ヴィエンスの言葉にマーズはスマートフォンを操作する。電波は繋がらないがローカルフォルダに保存されているデータを参照しているのだろう。 「ええと、ここから五分ね」  地下通路。  コロシアムは整備などの関係もあり、関係者を通す通路を地下に張り巡らせている。それはその一つである。 「あまりにもたくさんあり過ぎますから関係者でも迷子になることが多いのですよ」  先頭を歩くのはグランドだった。グランドは関係者ということもありこの地下通路の地理には詳しい。だからというわけでもないが、彼が先陣を切って進んでいるのである。  グランドは立ち止まる。それを見てマーズたちも立ち止まった。 「どうしたのですか、グランドさん?」  マーズは訊ねる。  グランドは首を傾げ、目を細める。 「遠くで何かが壊れたような音がしましたものでね。もし水路が決壊したのであれば遠からずここにやってきます。鉄砲水なんて人間が喰らえばひとたまりもありません。だからそういうのには注意する必要があるわけです」  いつもはそんなことが無いように厳重にチェックとメンテナンスを繰り返しているのだが、事態が事態である。メンテナンスをしていしたって『絶対』は有り得ない。 「まあ……何かあったら私がなんとかいたしましょう。これでも守護魔法くらいは使えますからな」  魔法も使えるのにここまでの地位というのは何か理由でもあるのだろうか?  マーズたちはそう思ったが、流石にそれは個人のプライベートに関わることであるから訊ねないでおいた。何かいざこざがあっても困るからだ。  グランドの言葉に従ってマーズたちは今、地下通路を進んでいる。地下通路は関係者が通るから地下を縦横無尽に動くことが出来る。だからある場所からある場所までというのをどんな場所からでもどんなパターンでも実行することが出来るのだ。ただし、あくまでもそこまでのルートを知っているのが条件になるわけだが。 「この地下通路というのは……いったいどれくらいの本数があるんだ?」  訊ねたのはヴィエンスだった。歩くばかりの単純行動は彼にとってあまり面白くないことで、なおかつ耐え切れなかったらしい。一番そういう説明をしてくれそうなグランドに質問をしたというわけだ。  グランドは軽く笑うと、答えた。 「面白いご冗談をはなされますな。……とまあ、私の方からの冗談もさておき、本数の話ですか……。本数はあまり把握していないのですよ。縦横無尽に通ることができますから、一本の通路の始点終点の組み合わせすら解らず仕舞ですよ。あまりにもたくさんの通路と組み合わせすぎたせいで通路が個々に数えることが難しくなった……とでも言えばいいでしょうか」 「じゃあ実際の数字も解らない……ってことか。でもそうなると管理とか面倒になるんじゃないか?」 「そりゃあもう。私は管轄が違いますから、生憎それになることはありませんがね」  それ、というのは通路の管理の役職のことを指すのだろう。確かにそれをやるのは骨が折れそうだ、とマーズは思うと心の中で小さく頷いた。  縦横無尽に広がっていると思われていた地下通路だったが、地下通路について詳しく知っているグランドを先頭にしているためか、然程迷うことも無かった。  グランドが居るからこそ迷うことが無かった……彼女たちの認識はそれで一致していた。  一致していたからこそ、或いは一致していたが故に疑問を抱くことなど無く、作戦会議を悠長に実施する事が出来るわけだ。 「……とにかく第一にやらなくてはならないこと、それはもう言わなくていいかもしれないけれど、インフィニティ・シュルト……インフィニティの暴走パターンね」  頷くハリー騎士団の面々。  しかしリモーナだけが首を傾げたままだった。彼女はインフィニティ・シュルトの存在を知らない。だから知っている体でそんなことを言われても解らないわけだ。 「インフィニティ・シュルトはインフィニティが暴走した姿よ」  そんなリモーナを見てマーズは凡てを察したらしい。 「インフィニティはタカトが起動従士になっている。即ちタカトが操縦しているということになる。それは確かに間違っていないのだけれど、リリーファーの操縦は感情に振り回されるということがとても多い。……でもそれはあくまでも『通常形態』というだけ。だがインフィニティは暴走により、或いは別の条件でもあるのかもしれないけれど……、形態を変えることが出来る。それが即ち、インフィニティ・シュルトというものなのよ」 「インフィニティ・シュルトは恐ろしい存在なのですね」  リモーナはただ一言、ぽつりと呟いた。  そんな彼女を見て、マーズは笑みを浮かべた。 「私はそう思わないわ」  それを聞いたリモーナは、瞬間、顔を上げた。 「確かに恐ろしい存在なのかもしれない。でも、私はそう思わない。インフィニティ・シュルトはそのような存在ではないと……私は思うのよ」 「災害を形在化したような、そんな存在にも思えます」  しかし、リモーナの考えは崩れない。  マーズの話は続く。 「災害を形在化したもの……ね。そう言われればそれまでかもしれない。でも私たちがそれを言ってしまえばそこまでの話なのよ。タカトは確かに精神的に言えば不完全かもしれない。けれど、それで放っておいていいの? だめでしょう? 私たちが、ハリー騎士団がカバーしていかなくちゃいけないのよ」 「確かに……それはそうかもしれないですけれど……」 「そう思っているのなら、剣を取りなさい。戦いなさい。タカトを守るために。そうすれば彼もきっと、気付いてくれるはず。自分のしていることの意味に。きっとあれは本心ではない。操られているからこそ、あれほどの行動をしているだけに過ぎないのよ」  マーズの言葉は確定事項ではなく、期待を込めた発言にも取れた。そのとおりだろう。マーズ以外のハリー騎士団の面々だってそうだ。タカトが進んで破壊活動に勤しむなど有り得ない。信じたくない。  だから彼女はそう言った。タカトは操られているのだ。タカトは悪くないのだ……と。  だが、リモーナは信じられなかった。同じクラスメイトであるタカトのことを信じてあげたい気持ちはあったが、だけれど、信じるにはまだ時間が足りなかった。  だが彼女もまた、起動従士を目指す少女だった。 「私はいったい……何をすればいいんですか?」  そう言った。  リモーナの言葉にマーズは頷くと、 「そうね。先ずは私たちといっしょにリリーファーの格納庫へ向かいましょう。大会に用意しておいたリリーファーもたくさんそろい踏みのはず。私たちは自分のリリーファーで向かうから……リモーナとシルヴィア、それにメルは好きなリリーファーを使いなさい。使い慣れたものが一番なのだけれど……、今はこの際仕方ありません。確か初心者に使いやすいリリーファー『ベスパ』があったはずだからそれを使うこと。黄色い躯体だから、きっと見ればすぐ解るはずよ」 「ベスパ、ですね。解りました」  リモーナは頷く。それから一歩遅れてシルヴィアとメルも頷いた。彼女たちもまた、道は違えどリリーファーに携わる道を夢見る少女たちだった。  ハリー騎士団に三人の少女を加えて、彼らは進む。  目的地であるリリーファー格納庫までは、あと少しだ。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  タカト・オーノはインフィニティの内部から空を眺めていた。紫色の空は普通ならばいつもの空ではないことをすぐに感じることが出来る。  それは彼の精神状態が普段の状態ならば、の話だが。 「……空が綺麗だ」  こんな状況であるにもかかわらず、崇人はそう言った。タカト・オーノは、大野崇人はそう言った。  彼は苦しんでいた。それは、エスティ・パロングが原因だった。  彼はエスティの死を受け入れたはずだった。だが、あの『催眠』によって彼はエスティの死ともう一度直面することになってしまったのだ。  やっとのことで乗り越えたエスティの死と、彼はもう一度向き合っている。  彼の精神状態はもう限界に近かった。 「俺はエスティ・パロングが好きだった」  あろうことか。  マーズではなくエスティのために動いていた。  エスティ・パロングのいない世界など、彼にとって必要なかった。  エスティ・パロングが居る世界へと、はやく向かいたかった。 「エスティ……すぐに……そっちに向かうよ……。それとも……君のいない世界を完膚なきまでに破壊しつくした方がいいのかなあ?」  彼は笑っていた。  空を見て、笑っていた。  彼の精神状態は限界を超え、狂っていた。狂人と呼ばれるような状態にまで陥っていたのだ。 「エスティ……そうか。僕をずっと見ていてくれたんだね、エスティ……。僕はどうすればいいかなあ。君のいない世界なんて、はっきり言って退屈だよ」  彼のしてきた行為は、マーズの好意を無下にするものだと言っても過言ではない。  マーズは崇人のことが好きだったから、身体を彼に委ねた。そして崇人もマーズの好意を無下にすることなくそれに従った。  なのに。  にもかかわらず、崇人はまだエスティを愛していた。  それははじめて好きになった人だからか。それとも催眠によって想起されただけなのかは解らない。  どちらにせよ、崇人の精神はもう限界を超えていた。 「帽子屋」 「どうしたんだい、バンダースナッチ?」  広々とした白の部屋にアリスとバンダースナッチ、それに帽子屋が居た。帽子屋はアリスを連れて、どこかへ向かおうとしていた。 「アリスを連れてどこへ向かう気なのでしょうか?」 「この前にも説明したよね。アリスを使うことによって計画は最終段階へと昇華する、って。世界の文明はあるべき段階までグレードダウンする。そうして僕の、僕たちの願いは叶えられるというわけだ」 「願い、ですか。それはいったいなんなのでしょう?」 「……それはお楽しみだよ。願いは言うと叶わないと言うだろう?」  帽子屋の言葉に呆れたのか、バンダースナッチは溜息を吐いた。 「そうですね。願いごとは言ってしまうと叶いません。それは昔から言われていることです。ですが少々秘密主義しすぎやしませんか?」 「そうかなあ? はっきりと僕は告げたはずだよ。シリーズが観測上暇をしなくていいようになる、ってね。そのためにアリスに協力してもらう。正確には……僕たちが住みやすい世界へと変えてもらうための準備、とでも言えばいいかな」 「準備?」 「もう言っても問題ないだろう。だってこれから計画は変わることなんてないからね。……これからアリスはインフィニティの中に入る。インフィニティには何が居るか、言わずとも解るよね。起動従士タカト・オーノだ。彼とアリスには『融合』してもらう。そして、インフィニティとも深層的に繋がる。それによって、シリーズ最後のパーツが埋まるというわけだ。僕たちシリーズは全部で七種類居るんだよ。知っていたかな?」 「七……種類?」 「そう。ハンプティ・ダンプティ、帽子屋、バンダースナッチ、白ウサギ、チェシャ猫、ハートの女王……そして残った一つが、インフィニティとアリスの融合によって生まれるものだよ」  帽子屋は笑みを浮かべたまま、一歩踏み出した。 「――その名前は、『ジャバウォック』」  そして、その名前を告げた。 「ジャバ……ウォック?」 「聴いたことが無いかもしれないね。あくまでもそれは古に語られているだけに過ぎないから……かもしれない。それに『アリス』が一番関わるであろう時にジャバウォックは居なかった」 「ジャバウォックは……まさにイレギュラーな存在だと言うことなの?」  バンダースナッチの言葉に、帽子屋は静かに頷く。  アリスはいったい何をしているのか解らず(敢えて理解していない振りを取っているのかもしれない。実際にそれを確かめる術は無いが)、帽子屋とバンダースナッチの顔を交互に眺めるだけだった。  慌てているということは直ぐに帽子屋にも理解出来た。だから帽子屋はそちらをちらりと一目見ると、アリスに優しく微笑みかけた。 「大丈夫だよ、アリス。直ぐに話は終わるから。そんなに悲しい顔をしないでおくれ」 「……直ぐ、終わる?」 「あぁ、直ぐに終わるとも」  頬を撫でる帽子屋。その姿はまるで子供を宥める父親のようだった。 「それにしてもあなた……父親みたいね。シリーズになる前は人間だったらしいし……案外普通の家庭でも築いていたんじゃないの?」  それを聞いた帽子屋の顔が一瞬だけ強張った。  それを見たバンダースナッチは首を横に振り、 「……もしかしたら嫌な記憶を思い出させてしまったのかしら。あなたにとって、人間だった頃の記憶は魂が穢れる程酷いものだった……のかしら」 「魂が穢れるだとかそんな大層な問題では無いが、少なくともあまり聞かれたくない話題ではあったね」 「そう。……それは悪いことをしたわね」  バンダースナッチは頭を下げる。 「いいんだ、昔のことだから。……それじゃあまり時間も無いから、僕はこれからアリスと共に出掛けてくるよ」 「ワールドエンド、……楽しみにしているわ」  そして、帽子屋とバンダースナッチの会話は静かに終了した。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇ 「ほんとうにこのリリーファーが僕の能力を一番引き出すことが出来るというのか?」  ファルバートと精霊は一足先にリリーファー格納庫へとやって来た。精霊は「近道を使った」としたが実際には気付かれないように霧の魔法と転移魔法を数回やったからだった。しかしその真実をファルバートは知る由もない。  今、ファルバートの前に立っているのは一機のリリーファーだった。黄色いカラーリングの、同世代機よりも一回り小さいものだった。 「あれはベスパだよ。第三世代だったかな。型としては若干古い。だが使い勝手としては一番だよ、それに鶏冠よろしく頭についた鋭い角!」 「……性能としては?」 「性能はまずまず。はっきり言ってこんな場所で燻っているのが解らないくらいの性能ではあるね」  それを聞いたファルバートはニヤリと笑みを浮かべた。 「成る程……。解った、それを使おう。そして俺はどうすればいい?」 「簡単なことだよ。インフィニティの起動従士……その定義を書き換えてしまうんだ。上書き、とも言えばいいだろうか」 「定義? 上書き?」  ファルバートは精霊が何を言っているのか解らなかった。  起動従士の定義を書き換える。それは即ち、リリーファーに唯一登録される起動従士を別の人間へと差し替えるということだった。それによってインフィニティの起動従士をファルバートにしてしまえばいい……精霊はそう言ったのだ。 「そう。上書きはそう難しいことでは無いよ? ただ時間がかかるだけ、ただ若干難しいだけ。それ以上でもそれ以下でも無い。それによって産み出される利益はとんでもないことになるだろうね」 「利益、だって?」  ファルバートは訊ねる。  精霊は言ったが、少しだけ顔をしかめた。それにファルバートは疑問を浮かべたが、それも僅か一瞬の出来事、その様子を偶然に捉えている人間がいるならば……精霊の真の姿を見つけることも出来ただろう。 「……ともかく、これから向かわなくてはならない。インフィニティの『頭脳』をちょいと弄くり回せば何とかなる、というもの。但し場所がどうにもこうにも難しい。……どうにかすればいいのだろうけれど、なかなかそうも行かないのですよ」 「頭を改造するまでの時間稼ぎをすればいいのか?」  ファルバートの言葉に精霊は頷く。 「そう。まぁ、それ程長い時間はかからないけれどね。おおよそ三分はかかるかな。それまでは耐えて欲しい。裏を返せばそれさえ済めばインフィニティはあなたのものになる……」  ファルバートはたまらず歩き出した。その足は一目散に、ベスパへと向かっていた。  彼が次にやることは、もう決まっていたのだった。 「ほんとうに、ほんとうにインフィニティに乗ることが出来るんだよな?」 「私を信じてください、ファルバート・ザイデル。私が出来ると言えば可能なのですよ。たとえ天地を逆転しなければならないくらいの無理難題であったとしても……」  彼はそれを聞いて頷いた。  彼は精霊の言葉は凡て真実だと思っているようだったが、しかし真実を言えば、彼は精霊に操られていた。だがその事実を理解出来なかった。受け入れようとはしなかった。  それはきっと彼自身の自尊心が傷つけられることを恐れたからかもしれない。彼自身が彼自身の躍進の代償となったものと向き合いたくなかったからかもしれない。  いずれにせよ、ファルバートは焦っていた。父親を超えるために一番単純なこと――インフィニティの起動従士になるチャンスがこんなにも近くに巡ってきたからだ。どんなことをしてでも、彼はインフィニティの起動従士になりたかったのだ。  それは、ある種の執念とも言えた。ある種の確執とも言えた。  ファルバート・ザイデルがファルバート・ザイデルたる所以の、その一部……それはどす黒く汚れた『負』の感情だった。  精霊――否、ハンプティ・ダンプティはそれを理解していた。理解していたからこそ、彼を利用したのだ。圧倒的憎悪の感情を抱いた彼を、このまま利用しないわけにはいかない。精霊はそう考えていた。 「さぁ、やろうじゃないか。……ついにこの時がやって来た。僕は待っていたんだ、このタイミングを。僕は楽しみにしていたんだ、この時を! インフィニティ……世界最強のリリーファーを使うことが出来る、このチャンスを!」  精霊は|北叟笑(ほくそえ)んでいた。人間はこれ程までに使いやすいのかと思えると、笑いが止まらなかった。無論、それはファルバートに気付かれないように、ではあるが。  ファルバートが高らかに宣言していたが、しかしそれが実現することは無い。いや、実現させるわけがなかった。精霊――ハンプティ・ダンプティはあくまでも帽子屋の立てた計画に従うだけだ。そのお膳立てをするためだけに活動しているのだ。  ハンプティ・ダンプティはそれを苦とは思っていない。かといって楽しいものとも思っていない。その作戦を実施して、その計画が完成して、世界がどのように変わっていくのかが気になるだけだったのだ。 「世界がどうなると思う、ファルバート・ザイデル?」 「世界? どうでもいいよ、そんなもの。僕がインフィニティに乗ることが出来れば!」  ベスパのコックピットでリリーファーコントローラを握りながらそう答えるファルバート。  それを見て精霊は楽しかった。面白かった。人間というのはこれ程までに扱いやすい生き物であるかということを。これ程までに醜い行きものであるかということを。 「さあ――、タカト・オーノ。僕が一番インフィニティを使うことが出来るんだ。いや、使うようにするんだ。その為にも……今インフィニティを使っている君は邪魔で邪魔で仕方が無い。さっさと死んでもらうよ」  ああ、聞いていて楽しい。  もっと僕を楽しませておくれよ。  もっともっともっと……楽しいことを。  精霊は歯を見せて笑っていた。  だが、その姿をファルバートに見られることは無かった。見る必要もなかった。そう心配する必要もなかった。なぜなら精霊がそれを見せないように操っていたからだ。 「さあ、はじめよう……!」  そしてファルバートはリリーファーコントローラを強く握った。 14  その頃イグアス・リグレー大臣率いる騎士団はコロシアム近辺に攻め入っていた。元はと言えばここはターム湖の畔ということもあり、多くの観光客が訪れる。さらに観光地以上にここがリゾートとしても有名なので別荘も多く建てられている。  その後の記録に依れば、当時そこには三万人程度が暮らしていたらしい。富裕層が大半を占めていた。理由は単純明解、大会を見に行くために別荘を利用していた富裕層が多かったのだ。  別に彼ら騎士団はそれを狙ったわけではない。だが、結果的に、彼らは富裕層を狙って攻撃したのではないかという疑念が、未来に長く残ることとなってしまった。  圧倒的破壊と、圧倒的非道を尽くす彼らの姿は後にこう語られている。  ――同じ人間同士なのに、なぜこうも争わなくてはならないのか。同じ人間だからこそ争うことはやめて、手を取り合うべきだ。  ――少なくともその時の光景はそのような言葉が通るような場所ではないことが明らかだった。まるで肉食動物が獲物を狙うかのように……否、肉食動物が逃げることもままならない非力な動物の群れを食い散らかしていくようにも見えた。  多くの人間はそれを見て絶望したはずだろう。自らの身体を、存在を様々な敵から守ってくれるはずの、自分の国のリリーファーが、自分の町を破壊し、自分の家を破壊し、自分の家族を踏み潰していく姿を見たことによって、多くの人間は困惑し、そして絶望したことだろう。  彼らに感情は無いのか。彼らに慈悲は無いのか。人々はリリーファーに疑問と怒りを覚えた。  しかし彼らがどう考えようとも、彼らが抵抗の意志を示そうとも、リリーファーと人間では戦力の差が明確に着いていた。  人々の心は絶望に染まっていた。絶望は次第に悲しみに、悲しみは次第に怒りへと姿を変えた。  しかしながら、敢えて改めて言おう。  リリーファーと人間とではその戦力の差は圧倒的なものだった。後に、その状況から生き延びた人間は語る。  ――あの時、あの圧倒的戦力差を見て思った。やはり人間は無力なのだ……と。行動力があったとしても、強い意志があったとしても、強力な兵器があったとしても、リリーファーには敵わない。まるで『こんな事態を予想していたかのように』、リリーファーに対抗する術など何も無かった。  人間がリリーファーに対抗する術は無い。強いて言うならリリーファーを持ってくるほか無いという訳だ。  しかしながら、それは本末転倒と言えるだろう。リリーファーに対抗するにはリリーファーしかない。単純明解な解答ではあるが、どこかしっくり来ない。  ただし、その場に居た殆どの人間はこう思ったことだろう。  ――この事件は歴史に大きく名前を刻むものだということ。  それを思わなかった人間は、きっと誰一人として居なかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃ハリー騎士団は漸く全員がリリーファーに搭乗することが出来た。時間はかかったが、ここからは早い。そんなに時間もかかることなく決着が着くのではないか……マーズはそんなことを考えていた。  そもそも国のやっていることは人道に反するものだ。罪の無い人間を大量に殺すなどは法律以前の問題だ。人として間違っているのである。 「そんなこと間違っている……。間違っているんだよ……。そんなことがあってはならないんだ……」  マーズは自らのリリーファー、アレスのコックピットにて呪詛のように呟いた。  マーズからしてみれば、間違っているのは国だ。  しかし国からしてみれば間違っているのはマーズたちだった。マーズたちハリー騎士団がテロリスト集団『赤い翼』を匿っているのではないかという可能性も浮上しているためだ。  しかし実際にはそれは、ハンプティ・ダンプティが用意した罠だった。人間を攪乱させるために用意した、罠だったのだ。  それを疑うことなく騙された人間を見て、ハンプティ・ダンプティは笑ったに違いない。人間はこうも容易く使うことが出来るとおもったに違いなかった。 「人間はかくも使いやすい。それは君も思っていることだろう」  精霊――ハンプティ・ダンプティの耳元に声が届く。程なくして、それが帽子屋の声だと気付く。  ハンプティ・ダンプティはファルバートに気づかれないように、独り言を装って、答える。 「面白いくらいに事が進んでいるよ。まるで君が実際に動かしているかのようだ。この計画は君が書いた紙の上で実際に動いているかのように、そのように再現されているようにも思える。……ここまで緻密な作戦を立てていたというのなら、素直に感服するよ」 「それはありがとう。確かにこれは緻密だ。少し誰かがミスした瞬間にパアになってしまう。だが、そのスリルが心地いい。僕はそう思うんだよ。思ったことはないか? 君も今回は前線に進んでいるが、いつ計画がおかしくなるかというスリルに追われていないかい?」  追われていないと言えば嘘になる。  インフィニティによる計画は彼にとっても、世界にとっても未知数だった。強いて言うならば帽子屋の考えがどこまで正しいのかも彼には解らなかった。  それを確かめるために参加している……ようなものであり、実際にはまだ帽子屋を信用しているわけではない。  一番の目的はアリスの監視だ。  アリスを使うと言った帽子屋。その目的こそ理解しているが未だに信用していないからこそ、アリスから生まれた最初の存在であるからこそ、アリスの存在を一番に思っているのがハンプティ・ダンプティだった。 「……とにかく、僕はこれから計画の最終段階へと移る。アリスとインフィニティの融合だ。そしてベスパに乗り込むファルバート……彼の制御は任せたよ」  そしてハンプティ・ダンプティが返事する暇もなく帽子屋の気配は消えた。 「さて、無事に乗り込みましたか。ファルバート・ザイデル」  気分を入れ替える。  これからはハンプティ・ダンプティではない。精霊としてこの作戦を成功に導かねばならない。 「ああ。大丈夫だ。……それにしてもこのリリーファー、古くないか? ところどころ反応が悪いぞ」 「それは致し方ない。もっと性能がいいやつも探せばあるだろうがそれゆえに個人個人に鍛えてしまっているからね。何も無い、いわば真っ新な状態であるそれが一番というわけですよ」 「成る程……そんなことも考えていたのか」  無論、嘘だ。  そんなこと、作戦を成功に導くためのデマカセに過ぎない。 「とにかく見えてきましたよ。あれがインフィニティです」  嵐の中心に居る、未だ沈黙を保つ一台のリリーファー、インフィニティ。  ファルバート・ザイデルの乗り込むリリーファー、ベスパはそれを目視出来る距離まで迫ってきていた。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  そして、インフィニティ内部。 「……やあ」  コックピットには崇人以外の人間が居た。  それは人間というよりも少女と言ったほうがよかった。若干ゴスロリチックな黒を基調にした格好をした少女は、崇人を見て微笑んでいた。 「……お前は誰だ」 「誰だ、というのは流石にひどいんじゃないかな。相手は子供だよ?」  その声は聞き覚えがあった。  舌なめずりするような、耳障りというか、どこか耳にひっかかる声。 「帽子屋……、何故お前までここに居る」 「まさか僕のことを認識出来る程まで自我が回復しているとはね。……もしかして催眠がうまく言っていないとか?」 「催眠? どういうことだそれは」 「……あ、部分的に切れているのか。まあ、いいや。そのほうが都合がいい」 「都合がいい? それはいったい……」 「君は、エスティ・パロングを救いたいとは思わないかい?」  空気が凍りついた。 「エスティを……救えるのか?」 「そりゃ、勿論。嘘はつかないよ、僕」 「……信じていいんだな?」 「ああ。エスティを救いたいんだろう? そして、最終的には、君は元の世界へと戻りたいのだろう?」  元の世界。  崇人はそれを聞いてふと思い出した。昔、前の世界で働いていた時のことを。あの時は何もなかった。あの時は仕事しか無かった。暇で仕方なかったわけではないが、ただ、満たされなかった。  満たしてくれるものが欲しかった。  そう思っているとき――彼はクローツへとやってきた。 「君はもしかしたらこの世界に居続けたいと思うのかもしれない。別にそれは構わないよ。それは自分自身の意志だからね? だけれど君が曲げられない意志の一つが、……エスティ・パロングの『蘇生』だろう?」  蘇生。というよりも彼女がいた世界。彼女がいた時代。彼女がいた空間。その凡てが愛おしい。その愛おしい一欠片が、その愛おしい世界が欲しかった。失って気づく、その愛おしさに……彼はもう一度触れたかった。 「だったら、彼女の腕を取るんだ。タカト・オーノ」  帽子屋の言葉に首を傾げる。 「意味を言っている時間ではない。君がエスティの居る世界を取り戻したいのであれば、君がこの世界よりもエスティ・パロングの生きている世界の方が重要と考えるのならば、彼女の手を取るがいい」 「……ほんとうに、エスティは」 「それは、君の覚悟次第だよ」  帽子屋の言葉は未だ信用出来ないことがあった。  しかし今は……エスティを救うことが出来るという唯一の方法に縋りたかった。初めて好きになった人にもう一度会いたかった。  たとえ世界を敵に回したとしても、彼はエスティに会いたかった。  そして、彼はゆっくりとその右手を、少女の右手に――添えた。 「交渉成立、だね」  帽子屋は微笑む。それと同時に彼の身体に鈍い痛みが走った。 「ぐあっ……。な、何をした!?」 「何をしたか、と聞かれて答えられる程大層なものではないよ。今君は彼女と一つになろうとしているんだよ。それはとても名誉なことなんだよ?」 「名誉だか何だか知らねえが……、ほんとうに彼女に会わせてくれるんだろうな?」 「ああ。当たり前だ。僕は嘘が大嫌いなんだよ」 「嘘が大嫌い…………その言葉、絶対に忘れるなよ」  睨み付けながら、崇人は帽子屋に言った。 「いやはや、恐ろしいなぁ。そこまで睨み付ける必要も無いよ? 僕は約束を必ず守るから……但しエスティ・パロングが人間の姿であるかどうか、保証はしないけれどね」  後半の言葉はあまりにも小さく、崇人に聞こえることは無かった。  寧ろ、聞こえない方が彼にとって良かったのかもしれない。  彼は救いを求めていた。そしてそれ以上にエスティを求めていた。  だから彼と彼女が共通で乗った、あの黄色の|機体(リリーファー)を見た時に、そしてその機体が近付いて来るのを見た時に、彼はエスティが帰ってきたのではないかと思った。彼への救いが来たのではないかと思った。 「……が……は……!」  少女――アリスの姿は最早何処にも無い。だが崇人は未だ彼女を身体の中で感じていた。  少女の凡てが彼に流れ込んでいくのを感じる。脈打つ心臓の鼓動が徐々に落ち着いていく。否、さらに低下していく。  最終的にはこのペースでは心臓が停止してしまうのではないか――そんなことすら疑ってしまう程だった。 「……どうやら成功したようだね、ジャバウォック」  帽子屋の言葉を聞いて俯いていた崇人は、ゆっくりとその顔を上げた。  そして、口角を緩ませた。 「いやはや、まさかこんな強引にやってしまうとは思わなかったよ、帽子屋」  その声は崇人によるものではなかった。  落ち着いた、深みのある声だった。 「僕だって段階を踏んでゆっくりと進めたかったけれどね。時間の問題もあったから、仕方無いよね。強引に……とは言うものの言うほど強引なやり方でも無いし」 「まぁ……いい。それにしてもこの身体……いい身体だ」  掌を握ったり広げたりを繰り返す。身体に自分の魂が定着したのを、この身体の使いやすさを確かめているのかもしれない。 「はじめて僕が君を産み出した時のことを思い出したよ。……確かあの時もこれくらいの少年の身体を使ったな」 「……ところで、何故今更私を? 何か意味でもあるのか?」 「意味が無かったら君を呼び出したりしないよ。魂の摩耗を防ぐため、魂を『アリス』に封じ込めた時にも僕はそう言ったじゃないか」  ジャバウォックはシリーズの中でも異色の存在だった。シリーズでは古参とされるハンプティ・ダンプティですら知らない情報だからだ。  況してやアリスがジャバウォックの『魂の器』など知る由も無い。知るはずが無いのだ。 「魂をアリスに……。あぁ、そうだったな。確かにそうだった。僕が封印される時君はそう言っていたね? その方が僕にとってもいいことばかりなる……君はそう言ったはずだった」  どうせ隠すのならば、同じ種類の存在の中に隠した方がいい。そう考えたのもまた、帽子屋だった。帽子屋の考えはいつも同じだった。同じとは言っても細かいところは適宜変更されるしパターンによって構成されていた。緻密な計算によって生み出された計画だということを、ここで改めて思い知ることとなるのだった。 「そうだ。確かにそうだ。僕は君の魂をアリスの中に隠した。正確に言えばアリスだったもの……になるがね」 「アリスだった……もの?」 「君の知るアリスと今までいたアリスとは違う……というわけだ。正確には改造した……と言えばいいかな。改造したアリスはもはやアリスの型を為してはいないよ」  ジャバウォックは首肯する。  帽子屋は笑みを浮かべた。  二人はただ、それだけだった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃。  ベスパに乗り込むファルバートはインフィニティに攻撃を仕掛けていた。  いや、正確には何度もインフィニティに砲撃を与えている。ダメージを与えている、はずだった。  しかし攻撃が当たったようには見えなかった。まったくもって無傷だったのだ。 「さすがはインフィニティ……硬い……! おい、インフィニティのプログラムにはハッキング出来たのか!?」 「未だ……ね。忙しいから、あまり話しかけないで!」  それを聞いてファルバートは舌打ちする。別に精霊のことを信じていないわけではないが、……だからといって少々怪しさを覚えてくる。  彼は現在催眠状態にかかっている。だからそんな疑念など抱くはずもないのだが、今はそれが薄れてきてしまっているのか、その疑念を抱きつつあるのだ。 「……まあ、そんなことよりもやるしかない。インフィニティを奪えばあの父さんも納得するはずだから……!」  殆ど独り言のように呟くファルバート。  それを聞いていた精霊は北叟笑んでいた。はっきり言って精霊――ハンプティ・ダンプティはインフィニティのプログラムへハッキングなどしていなかった。否、出来るはずが無かった。  そもそもインフィニティのプログラムの重要な構成部分を知っているのは帽子屋であり、ハンプティ・ダンプティはその中でも一部の情報しか帽子屋から聞いていない。そのため、ハッキングはおろかどこがインフィニティのプログラムが書かれているのかも解らない状況だった。  にもかかわらず、ハンプティ・ダンプティはどうしてそのような嘘を吐いたのか?  答えは単純明快。 「インフィニティにアリスの魂を寄生させ……『ジャバウォック』を構成する。それまでは……、未だバレるわけにはいかない。いや、未だ気付いてもらっては困る」  ファルバート・ザイデルは重要なパーツだった。  インフィニティの起動従士であるタカト・オーノが現世に区切りをつけるために必要な存在だった。正確には、エスティ・パロングのいない世界に見切りをつけるため……といえばいいかもしれない。  エスティがいない世界等必要無いと彼は幾度となく思ったことがあった。しかしそれは徐々に薄れつつあった。  理由はマーズ・リッペンバーだった。彼女の献身あってか彼は普通に戻った。  だが、そんな甘くは無かった。  フラッシュバック、という言葉を知っているだろうか。あるタイミングでそれが再燃してしまうことだ。それまでは完全に断ち切ったように見えたのに、急に復活してしまうのだ。  そう。  崇人を催眠によりフラッシュバックさせ、そして世界に見切りをつける。  それが帽子屋の計画だった。絶望が心に植えつけられた存在である崇人はジャバウォックの受け皿にはうってつけだった。  そもそもジャバウォックとは何か。  ジャバウォックはシリーズ最後の存在であったがその存在を知るシリーズは少ない。強いて言うなら帽子屋とハンプティ・ダンプティしか知り得なかった。  さらに言うとジャバウォックの正式な意味を知っているのは帽子屋だけだった。 「……それにしても、あんたも今や僕と同じ存在か。感慨深いね。どうだい? 同じシリーズになってみて」  ジャバウォックは帽子屋に訊ねる。  帽子屋は鼻で笑うと、首を横に振った。 「寿命の概念が完全に取り払うことが出来るから便利かと思っていたが、失敗だよ。残念だと言ってもいい。こんなんだったら普通に早く実行していればよかったかもしれないね」 「そりゃあいい」  ジャバウォックはどこか擽られたように堪えながら笑った。  帽子屋はそれを見て幸せそうに笑みを浮かべた。  当然だった。帽子屋はジャバウォックを再生させたくてずっとここまでやってきたのだ。ジャバウォックが帽子屋の計画の最終パーツと言っても過言では無かった。  ジャバウォックは帽子屋――正確には帽子屋『だった』人間が作り出したエゴイズムの塊だった。 「長い時間がかかってしまったが……フフフ、漸くここまでやって来た。君の器になっているタカト・オーノ……いや、ここまで来たら敬意を表して前の名前で言うべきかな。君の器になっている大野崇人もさぞかし喜んでいるだろう。こんな歴史的場面に対面することが出来るのだからね」 「……成る程。お前と同じ世界からやって来た人間か。ならば、抵抗が無いのも頷ける。まさか……『喚んだ』か?」  ジャバウォックの言葉を聞いて、帽子屋は「まさか」と答える。まるでそれはジャバウォックの言葉が冗談だと受け取られているようだった。 「彼がこの世界にやって来たのは全くの偶然だよ。でもまあ、彼が居なかったらこの世界は何度も滅んでいただろうね。それを考えると、やっぱり誰かに『喚ばれて』いたのかもしれない」  帽子屋は舌なめずり一つする。  ジャバウォックは小さく溜息を吐いて、話を続けた。 「……で、僕はどうすればいい? まさかインフィニティを操って世界を破壊するのが、僕を喚んだ目的……とは言わないだろうね?」 「惜しいね、半分正解だ」  帽子屋は悪戯めいた笑みを溢す。  ジャバウォックはそれで苛立ちを募らせることは無かった。帽子屋がそういう性格だということはよく知っていたからだ。 「君にインフィニティを操らせるのは正しい。ただ、それじゃ足りないんだよ。問題はそれからだ。インフィニティを操って世界の文化レベルをある段階まで下げる。その後君にはもう一度封印してもらって欲しいんだ」 「……理由を聞いても?」 「この計画の終焉は今ではない。まだ舞台の配役が足りないんだよ。そしてその配役が揃うのはそう遠くない未来だ。確定は出来ないがね……。それが一年後になるか五年後になるか、はたまた十年後になるか……それは僕にだって解らない。世界に対する挑戦状とも言えるだろうね」 「百年後の可能性もあるのか?」 「それは無いかなぁ。だってインフィニティの起動従士が生存しているのが条件だからね? 肉体が持たないよ」  やろうと思えば直ぐにでも出来るだろう計画に、未確定要素を混合させる。  そんなことは普通ならば有り得ないだろうに、それを平気で行う。それが帽子屋という存在だった。 「……話は解った。だが、もうひとつ問題がある。インフィニティは『暴走』に見立てるべきなのか? それとも理性に則って行なった方がいいのか?」 「前者がいいだろうね。後者でもいいんだけど、その場合捕獲された時起動従士が即時射殺されかねない。それは流石にまずいことになるからね」  帽子屋の言葉にジャバウォックは頷き、時折質問をしていく。そうして帽子屋の計画を短時間で、かつ自分が知っておけばいい情報だけを仕入れるわけだ。 「……一通り理解した。取り敢えず先程聞いた通りに実行しよう。それでいいのだろう?」  帽子屋は首肯。  そしてジャバウォックはリリーファーコントローラを握った。  強気な発言をしたジャバウォックだったが、リリーファーの操縦などしたことは無い。  だが、インフィニティに関してはそのことについて心配する必要など無いのだった。 「あぁ、最後に言っておくよ。このインフィニティには便利な機能が備わっていてね? 『インフィニティ・シュルト』って言うんだけどさ……それがいわゆる暴走形態なわけ。何処かの言葉で罪、って言うんだっけかな? まぁ、あんまり記憶に無いから断言は出来ないのだけれど、どちらにしろその便利な機能を使うっきゃ無い……ってわけだ」 「成る程。インフィニティ・シュルト……か。でも模擬的にそれを実現出来るのか? |その形態(インフィニティ・シュルト)は暴走形態だから、普段のコマンドでは実現出来ないのだろう?」  それを聞いた帽子屋は、その言葉を待っていたのかとても嫌みな笑みを浮かべた。 「僕を誰だと思っている。このリリーファーに関しては誰よりも詳しく知っているぞ? 暴走形態にするプログラムなんて容易に改竄出来る。しかも痕跡も残らない」  そもそも。  インフィニティに実装されているオペレーティングシステム『フロネシス』はこの世界においてオーバーテクノロジーであった。  声紋及び網膜認証と完全コンピューティングにより実現したシステムはその時代では|解析不可能な部分(ブラックボックス)が非常に多く、解析も進まないというわけだ。科学者曰く、その解析には人類の科学技術があと数世代上にシフトしないと厳しいくらいだった。 「この時代にフロネシスを解析出来る人間が居ないことは確認済みだし、フロネシス自体さらに進化を続けている。そう簡単には解析などさせないよ」 「……解った。帽子屋がそこまで言うのなら、そのプログラムを、インストールしてくれ」 「言われなくてもするつもりさ」  そう言って帽子屋は持っていた携帯端末を起動させた。 15  それだけだった。  インフィニティ・シュルトに移行させるにはそれだけで充分だった。 『インフィニティ、モードチェンジ――ヴァージョン・シュルト――スタート』  フロネシスが抑揚の無い声で言った。その声はとても不気味なものだったが、ジャバウォックと帽子屋はそれを気にしなかった。  寧ろこの瞬間を楽しんでいたのだろう。その笑顔はまるで新しい玩具を与えられた子供のようにも見えた。  これからの様子を楽しんでいたのだ。楽しみにしていたのだ。 「ほんとうに……楽しそうに笑うな」  ジャバウォックは呆れ顔でそう言った。  それを聞いた帽子屋は首を傾げると、再び微笑んだ。 「だって、ほんとうに楽しみにしていたからね。今の気分は次の日に遠足があるのに眠れない子供くらいかな?」 「……君の例えは相変わらずよく解らない。それさえ理解出来れば完璧なんだろうが」 「今の世界に完璧という概念は無いよ。人間も動物も皆不完全だ。何処か必ず欠けている。聞いたことはあるかい? 人は人と人が支え合って出来ているのだ……と」 「それはどこかの国の、言葉の話かい?」  頷く帽子屋。  ジャバウォックと帽子屋はこうして話に集中しているが、実際にはインフィニティ・シュルトが自動実行されているから会話することが出来るのであって、外では破壊の限りをしつくしている。  外部から見れば悪者は紛れも無くインフィニティの起動従士である崇人である。だからこの責任が問われるとするならば、崇人に凡てが振りかかる。  狡猾で最悪な作戦だということが一目で解るものだ。 「くくく……」  帽子屋の口から笑みが溢れ出す。抑えきれなくなった笑い声は、徐々に、徐々に大きくなっていく。  世界では破壊の絶叫が鳴り響いているというのに。  ここだけは別の世界が構成されているようにも見えた。 「タカト・オーノは目を覚ましたら覚えのない犯罪について、その処遇を問われることだろう。たとえどんなに厳しいことがやって来ようとも、君は諦めてはならない。いや、諦めてもらっては困るんだ。僕の計画を実現するためには、君が重要なパーツだからね……」 「相変わらず性格の悪いことだな。いつか背中から刺されても知らないぜ?」 「そういう可能性のある存在は全員排除した。そしてこれからもその可能性が僅かでも見られるならば排除していく。それだけは何も変わらないよ」  その言葉にジャバウォックは頷く。 「まぁ、僕としても君が居なくなると厄介だからね。君が居なくなってもそのメリットが維持される……なんて事態に陥るまでは君と共に死んでやるよ」  その言葉に帽子屋は頷かなかった。  世界では未だに破壊の絶叫が続いていた。  ――この事件は後に『|破壊の春風(アンリミテッド・デストロイ)』と呼ばれるようになり、その歴史に深い深い傷を刻んだ。  ――この事件による死者は二万人以上、行方不明者も同等或いはそれ以上の規模があると言われている。  ――ハリー騎士団は今回の事件をきっかけにティパモール周辺を首都とした『ハリー=ティパモール共和国』を樹立、及びヴァリエイブルからの独立を果たした。  ――インフィニティはそのままセレス・コロシアムに置かれることとなった。暴走が未だ続く可能性があったからだ。実際に暴走の危険性が無いことが確認されたのは、それから十年後のことだった。  そして時は流れ――皇暦七三一年十一月。  新たな物語、その火種が、ゆっくりとその規模を広げつつあった。 インフィニティ 第一部 完