1  皇暦七三一年。  あの出来事――破壊の春風が起きてもう十年の月日が経とうとしていた。  人々は十年間、そのおぞましい出来事を忘れることは無かった。忘れたくても忘れられなかった。それ程に人々はあの出来事で、失ったものが大きすぎたのだ。  あの出来事から世界は大きく変化した。  破壊の春風が起きたコロシアム近辺は十年経過しても未だにその痛々しい痕を遺している。  例えば少し前まで人が住んでいたような痕跡が残る家屋。  例えば我が子を守ろうとその身を挺した親子の死体(十年も経てば肉体は朽ち骨のぎ残っているものとなっているが)。  その痕は十年経った今でも残されている。当時はさっさと再開拓すべきだという意見が多かったが、現在は『負の遺産』として残すべきだという意見が殆どである。  僅か十年、と言えばいいのか。然れど十年、とも言える。何れにしろ、十年という時間は人間の感性を変えるには充分過ぎる時間だった。  クフーレ砂漠。  かつて『ターム湖』と呼ばれたその地は、一夜にして水が涸れ、今や荒野――或いは砂漠とも呼ばれる――になっている。  そのクフーレ砂漠を走る一台のバイクがあった。それはバイクにしては若干大きすぎた。正確には、人一人乗るには大きすぎたというだけだが。  バイクには二人の人間が乗り込んでいた。一人は男、一人は女である。カップルと言えば聞こえがいいが、現在二人はそういう関係までに至っていない。  少年と少女はバイクを走らせていた。正確には少年が運転手を勤め、少女は強引にバイクに装着した後部座席に座っていた。しかしシートベルトなど勿論存在しないから、少女は少年に抱きつくような形で乗っていた。 「……ひどい様子だね」  涸れた湖の成れの果てを見て少女は言った。そして少年はそれに同調するように頷く。 「あの出来事があって、一瞬にしてこの地域一帯の地形が変わってしまったからね。自ずと生態系も変わらざるを得ない。それが動物の生きる術だから」  少年の答えを聞いて少女は俯く。  彼らは十年前、この世界に生まれた。だから『破壊の春風』以前の世界を伝聞以外で知る方法が無い。 「十年前……正確には私たちが生まれたころ、まさかこんなことが起きていたなんて思いもしなかった」  少女は言った。続いて、少年は答える。 「確かにそれは仕方ないことかもしれない。でも、僕たちはこの世界で生き続けるんだ。そのためにも、この世界を少しでもより良いものにしていかなくちゃいけない。……母さんもそう言っていただろう?」 「それはそうだけれど……」  二人を乗せたバイクはまだ湖上――果たしてそれを湖上といっていいのか解らないが――を走っている。砂漠と化したその地を湖上と言っていいのかは不明瞭だが、しかしそこは湖上といえる場所だった。  二人は巻き上がる砂埃から目を防ぐためにゴーグルを装着していた。そうしないと目が見えなくなってしまうからだ。 「それにしても……母さんはこの辺りに生命反応があるって言ってたのに、まったく見つからないね」 「お前、ほんとにこの辺だって言ってたのか? 嘘じゃないのか?」 「母さんが嘘を吐いたとでも言うの?」 「いや……。そうとは思えないけどさぁ……」  少年と少女の会話はあくまでも他愛の無い内容ばかりだった。  砂漠の中で話すことなどはっきり言って何も無かったためである。実際、砂埃が常に舞い上がっているため、口を開けない方がいいのだろうが、彼らはそれよりも長旅の暇を解消する手段を選んだというわけだ。 「……はぁ。やっぱし誰も居ないのかなぁ。嘘を吐いたとははっきり言って思えないけれど」 「嘘を吐いたとは思えない、って言ったのは君だろ……ハル」  ハルと呼ばれた少女はばつの悪そうな表情をして、そっぽを向いた。  その時だった。  少年――ダイモスの腰に装着されている装置が音を発した。その音はどちらかといえば不快な音だった。 「この音にするな……って僕は言ったんだけれどな。何と言うか人間が不快だと思う音にしたんだよな?」 「それは私じゃなくてメリアおばさまに言ったら?」 「メリアさんにはきちんと言ったよ。言っても聞いてくれねぇんだよ……」  ダイモスの愚痴は程々に、彼が持つ機械が反応したということは、それはたった一つにしかほかならなかった。  即ち、生命反応があったということ。  生命反応は人間だけではない。動物だってそうだ。どんな存在でもいい、とにかく生きている存在がクフーレ砂漠に居ればいいのだ。それを彼らは探しているのだから。 「生命反応がある。それは素晴らしいことよ。急いで探しに行かないと!」 「探しに行かないと、とは言うけどなぁ……。この機械は未々不完全な部分が多い。その一例が『生命反応のある場所の詳細が解らない』ということだ。半径二十メートル圏内に生命反応があればああいう風な反応を示す。だが、その半径二十メートルから詳細が絞れないということが現状だよ」 「……半径二十メートルも絞れればそれで充分なんじゃないの? 私は機械についてあまり詳しくないから解らないけれど……」  ハルの言葉にダイモスは苦笑する。 「まぁ、確かにそうなんだけれど……」  とにかく、生命反応があったのだから、そちらに向かわねばならない。ダイモスはバイクを止めて、付近を見渡す。ターム湖には古代文明の遺跡が沈んでいたらしく、辺りには石で出来た建築物が建っていた。砂地に屹立するその姿は不気味さすら感じさせた。 「古代文明の建築物……とは言っていたけれど、しかし解らないものだな。当時の人間はどうしてこれ程までの技術を持っていて滅んでしまったんだろう?」  ダイモスの言う通り、かつてこの世界には文明があった。それも今の文明とは比べ物にならないくらい高度なものだ。  だが、その文明は今や殆ど残っていない。その殆ど残っていないという部分も、大半は遺構であった。だから人はその古代文明をお伽噺のように考えているのだ。 「それは解らないよね……。色んな学者が調べてもいいのに、誰も調べなかった。或いは調べたのにその結果を発表しない。……それっておかしなことなのに、誰もそれがおかしいなんて気付かないんだもん」 「気付かないじゃなくて、それを隠蔽している組織(バック)が大きすぎるだけだよ。……だからといってそれに倣ってもいいわけではないけれどね」  生命反応のあった場所を探すと、建築物が一つだけあった。  そこに生命反応があるだろうと予想をつけたダイモスはその中へと入っていった。  それはあっという間に見つかった。 「……子供?」  そこに居たのは子供だった。  ダイモスたちに比べると一回り小さい子供は一糸纏わぬ姿であった。黒い髪の子供はその姿を見た限り、少年だった。  ダイモスはそれを見て違和感しか無かった。何故ここに裸の少年が居るのか? そして、少年の目は何故これ程までに迫力があるのか? その疑問が頭を過った。  それに対してハルはこの少年を保護せねばならないと思っていた。ダイモスと同じように疑問は確かに抱いていたが、しかしそれ以上にこの少年を守ってやらねばならないという強い意志が働いていた。十歳にして母親の心が芽生えた――とでも言えばいいのだろうか。  お互いがお互いに、この少年に関心を、そして疑問を抱いていた。  そして、地響きが鳴った。 「……何が起きた!?」  ダイモスは外に居たハルに訊ねる。  ハルはどうにか倒れまいとしながらも、ダイモスの言葉に答える。 「解らない! けれど……これだけは言える! この地響きは自然現象じゃない、ってこと!!」  そして彼らの居る建築物、その傍から、その地面から何かが噴き出してきた。  それは魔物とも言えるような生き物だった。  それはどの生き物とも言い難い存在だった。 「あれは……『ビースト』!」  ビースト。  破壊の春風直後から世界の生態系は大きく変化した。その最たる例がビーストだった。  ビーストの原型は何なのか、それは誰にも理解出来なかった。破壊の春風により科学技術が大きく衰退してしまい、解析する術が無いのだ。  だからビーストに対する有効手段が無い……わけではなかった。  それを見たダイモスとハルは一瞬油断したとはいえ、直ぐに笑みを浮かべる。 「やるしか無いようだな、ハル」 「えぇ、ダイモス」  そして二人は手首に巻き付けられたブレスレットのようなものに触れる。 「……さあ、来い! ブルース!」 「来てちょうだい! リズム!」  その言葉と同時に、二人の装着していたブレスレットが光に包まれる――。  その頃、どこかの地下。  機械に囲まれた部屋で、二人の女性が会話をしていた。 「……どうやらクフーレ砂漠でビーストが姿を見せたようね。ダイモスとハルがブルースとリズムをそれぞれ要請したわ」  白衣を着た女性は眼鏡を上げて言った。  対して、ポニーテールにした女性は答える。 「ブルースとリズム……二人揃っての『実戦』は初めてね。出来ると思う?」 「私に聞かないでよ。あなたの子供なんだから、あなたが一番知っているんじゃなくて?」 「それはそうなんだけれどさぁ……」  溜息を吐いて、女性は言った。  女性はダイモスとハルの母親だった。そしてその女性は、その二人の父親を探していた。いや、正確には場所は知っている。彼が行方不明になった十年前から知っている。だが、ほんとうにそこに居るのかが未だ不明瞭なのだ。 「……ところでブルースとリズムの最終調整って終了しているのかしら?」 「まぁ……、一応ね……」 「一応……?」  疑問を残した彼女だったが、女性はそれ以上問い質すことはしなかった。  ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇  その頃、ブルース内部。 『ビーストとの実戦は初めてだから緊張だね……』  ハルの言葉はコックピットにあるスピーカーを通して聞こえてくるようになっている。そしてそれは、リズムに乗っているハルも同じであった。 「確かにそうだ。だからと言って油断しちゃいけない。油断は禁物だ。それをした瞬間、命を投げ棄てたと同じ意味を持つと思った方がいい」  ハルは初陣に緊張を隠せないようだったが、ダイモスは緊張していないようだった。  正確には緊張していないというよりも、それをハルに見られまいと必死に隠しているだけなのだが。  ダイモスはブルースのリリーファーコントローラを握った。  そしてブルースとリズムはビースト目掛けて走り出した。  ブルースは攻撃担当だとすれば、リズムは防御担当だと言える。一見同じタイプのリリーファーにも見えるが、ブルースのカラーリングは赤、リズムのカラーリングはピンクとなっている。  二機のリリーファーの違いはそれだけでは無い。ブルースとリズムの装備にも違いがある。ブルースの装備は巨大な長剣ムラマサ、リズムの装備は大きな輪が幾重にもなっているハッピーリングである。  ハッピーリングはただの武器ではない。魔法を構成する重要なファクターである『円』であるともいえるそれは、リリーファーが魔法を使うことの出来る唯一の武器となっているのだ。  ブルースとリズム、それにビーストは対面する。ビーストはいわゆる『獣』のような存在であり、自らの本能のままに動く。だからこそ危険な存在であり、不穏な存在であるのだ。 「……先ずはこっちからだぁああっ!」  一歩を踏み出したのはブルース。未だ動くことの無く様子を窺っているように見えるビースト目掛けて攻撃をするチャンスだと考えたのだろう。  駆け出していくブルース。しかしそうであってもビーストが動く気配は無い。 (何故ビーストは動こうとしないの……? 今までのパターンならば動いて、避けて、猛攻を仕掛けてくるはず。だがこれは……まるで待ち構えているかのように……)  リズムに乗るハルは防御態勢をとりながらビーストの様子を眺めていた。  彼女が感じていたのはビーストに対する違和だ。今までのビーストは野性の勘で動いていると言われていた。だから攻撃も避け、向こうから攻撃を仕掛けることが多い。そのパターンがあるからこそ、ハルは何があってもいいように防御態勢を敷いているというわけだ。  だが、だからこそ。どこかおかしいと彼女の中の誰かが言っていた。彼女の中に別人格があるわけではないが、彼女の考えとそれは明らかに違っていたのだ。  さらにブルースとビーストの距離は縮まっていく。それでもなおビーストは動かない。ブルース――正確にはブルースに乗り込んでいるダイモスはそれを見て笑っていた。きっとこのビーストは今までに見たことが無いリリーファーを見て驚いているのだ――そう思っていた。  だが、ハルの考えはそんな楽観視していたダイモスとは大きく違っていた。  もしかしたらビーストは何か機会を窺っているのでは無いか?  そう思いながらも、彼女は、一撃を与えるため前進を続けるブルースの姿を眺めていた。  ――その時、彼女は見逃さなかった。ニヤリ、と人間味を帯びた笑みを、ビーストが浮かべたのを。 「まさか……!」  そして彼女の頭にある仮説が浮かび上がった。それはもし真実ならば酷いものだった。真実であって欲しくないものだった。  だが、その仮説を立てるまでに、相方であるダイモスは至っていない。だからこそ、早く彼に伝えねばならない――そう思って、彼女は通信を開始した。 『ダイモス、離れて! ビーストはきっとあなたを待ち構えて――』  しかし、遅かった。遅すぎたのだ。  刹那、待ち構えていたビーストによる咆哮をブルースはモロに喰らった。 「ダイモース!」  ハルはマイクを両手で構えて叫んだ。  ビーストの咆哮によるあまりの強さに、廃墟めいた構造物のひとつが根本から崩れ落ちた。  ハルは泣いている場合では無かった。悲しんでいる場合では無かった。  直ぐに彼女はハッピーリングを駆使し始める。ハッピーリングは幾重にもなる輪から構成されているが、それが完全に繋がっているわけではない。一つが二つに、二つが四つに、まるで増えているように見えるが、実際にはそうではない。幾重にもなるハッピーリングを部分的に分解しているだけなのだ。 「はぁ……ハッピーリングは未だ実戦では使ったことの無い、謂わば未完成なものだとメリアおばさまは言っていたわね……」  ハルは呟く。  だが、ここで諦めるわけにはいかない。ここで諦めてはならないのだ。 「行くわよ、サンダーボルトっ!!」  ハッピーリングを横一列に四つに並べる。そしてそれと同時にハッピーリングの一つ一つの輪、その内部にそれぞれ違う『紋』が浮かび上がる。それが魔法を構成しているのだ。  暗雲が立ち込める。ビーストは何があったのだと空を見上げる。 「魔法は初めてかしら?」  敢えて外部スピーカーをオンにしてハルは言った。外部スピーカーをオンにしておけば、ビーストにも言葉が聞こえるというわけだ。  右手の、その手のひらをピストルの形にする。左目を瞑り、照準をビーストに合わせる。 「――パン」  そしてビーストの心臓を正確に雷が撃ち抜いた。  ビーストはそれから動かなくなった。  ビーストの傍まで寄り、心臓が完全に停止したのを確認して、彼女は構造物――正確にはそれだった瓦礫を退かしていく。  目的はただ一つ、彼女の兄であるダイモスを救うためだ。  少し退かしただけであっという間にブルースは見つかった。 「大丈夫?」 『あぁ、大丈夫だ。……しかし危なかったな。まさか待ち構えているとは思いもしなかった。……油断していたよ』  ダイモスはそう言いながら、未だ構えていたムラマサを瓦礫の中から引き抜いた。 「じゃあ、帰りましょうか」  手を取ってハルは言う。  ダイモスは微笑み、頷く。 『あぁ……。だがそれよりもやらなくてはならないことがある』 「やらなくてはいけないこと?」  再びダイモスは頷くと、ムラマサを思い切り持ち上げ、ある場所を突き刺した。  そこはリズムの頭部の少し右にずれたところだった。そしてそこにはビーストの心臓があった。ビーストは雷に撃たれてもなお、生きていたのだ。 「ビーストは、未だ生きていたの……!?」 『ビーストは心臓を潰さない限り生きている。生き続けている。それは誰にだって言われていたことだろ?』  ダイモスの言葉に、ハルはゆっくりと頷く。若干言い方に難があったが、しかしダイモスが気が付かなければ、ハルは死んでいたかもしれないのだ。 「さぁ、帰ろう。……バイクはどうしようか?」 『後で回収するしか無いだろ。……面倒だけれど、ハーグに頼むしか無いな』  そしてブルースは、立ち上がった。  その時、ダイモスは視線を感じた。  その方向を振り返ると、無機質かつ不気味に立ち並ぶ構造物ばかりだった。 「……何かいた気がするんだがな」  ダイモスは呟いて、ハルと共に帰路についた。  構造物、その一つ。屋上で帽子屋は先程の戦闘の様子を眺めていた。  帽子屋は微笑む。 「やっと……ついにここまでやって来た。さぁ、最後の仕上げまであと少しだよ。ダイモス・リッペンバー、ハル・リッペンバー。君たちがさらに強くなり、直接会えるのを楽しみにしているよ」  そして帽子屋はそこから、一瞬にして姿を消した。 2  ブルースとリズムから降りて、ダイモスとハルがハーグの運転するトラックに乗って帰ってきたのは、それから一時間後のことだった。 「……ったく、最近ビーストが増えたと思わねえか? 別にビーストは心臓さえ止まってしまえば暫くして消えて無くなっちまうからいいけどよ。それにしても増えすぎとは思わねえか?」  ハーグ・エラミーカは煙草を加えながら早口でハルに告げた。助手席に居るハルは苦笑いをしつつその言葉に頷く。  ハーグはダイモスたちが所属する『国家』で働く技工であった。この世界では破壊の春風以降、人間が大幅に激減してしまった。それもあってか、特に技術者の数があまりにも少なくなってしまったのだ。  今や『技術者』というレッテルは、それだけで希少価値の高い宝石のような存在となった。それが高い技術を有しているならば、尚更だ。  ハーグもまたその一人だった。リリーファーの兵器を造る技術者よりも、さらに貴重な技術を持った人間だった。  彼の持つ技術は『人間の兵器を造る』ことだった。人間の兵器はリリーファーの台頭により大きく衰退した。だから人間の兵器を製造する技術は、リリーファーのそれに比べて発達しなかったのである。  ――しかしそれは、『世界的に見た』場合の話になる。  ハーグはリリーファー主導の世界だったにもかかわらず、いつかまた人間主導の世界がやって来るだろうと思いながら、人間の武器を造り続けた。  だからなのかどうかは定かではないが、結果的に見れば、人間の兵器を精密かつ精巧に造り上げるのは、この世界では彼しか居ない……そう断言出来る程の力量を持った男だった。 「それにしても、なんでここまで急にビーストが増えているんだか……。まったくもって理解出来ねえな」  ハーグはハンドルに手をかけつつそう言った。 「ビーストが発生したのは五年前……確かそんな話を聞いたことがある。『破壊の春風』によって変貌を遂げた環境が影響を及ぼした……と聞いている」 「正確にはそう習った、の間違いだけれどね。そういう大人ぶるところとか、子供だよね」 「ハル、それはお前だって言えないだろ!? 子供ってことには変わらないじゃんか!」  ダイモスとハルの会話こそ、いわゆる『子供の会話』だと言うことに気が付いていない。自覚出来ていないのも子供たる所以……とでも言えばいいだろうか。 「……まぁ、確かにビーストが増え続けているのは事実だ」  ハーグのぽつりと呟いた、その一言を聞いて二人とも耳を|欹(そはだ)てた。 「ハーグさん、それってつまりどういうこと?」 「言葉の通り……だよ。ここ一ヶ月でビーストの量が明らかに増加している。何故増えているのか……その原因ははっきり解っていない。だからこそ怖いんだよ。俺たちの知らない範疇でビーストがわんさか増えている。異常で奇妙なことだと思うし、この問題は早々に解決せにゃならんだろうとリーダーも仰っている」 「それじゃ、私たちも実戦に投入を……」 「ダメだ」  彼女たちの願いはハーグによってあっさりと下げられた。  それを聞いて愕然とした表情なのは、何もハルだけではない。ダイモスだってそうだったのだ。 「何故ダメなのか、理由は先程の戦いを経験したお前たちなら解ることだろうよ」  続けて、ハーグは言った。  小さく舌打ちしてダイモスは答える。 「さっきの戦いが不甲斐ない……そう言いたいのかよ! もしそれが原因なら、『次』こそは……!」 「次なんて無い!」  ハーグは激昂した。ダイモスとハルはハーグが激昂した姿をあまり目の当たりにしたことは無かった。だからこそ、驚いているのだ。 「実戦には『次』なんて無いんだよ! 確かに今回は不甲斐ないミスを犯しても、そのミスを取り戻すことが出来た。だがそれは君たちが二人で行動したから、ダイモスがそれに気付けたからだ! もしダイモスがそれに気付くことが出来なかったとしたら? もし君たちが片方しか出動していなかったとしたら? ミスを取り戻すことはおろか、命すら落としかねないんだぞ!」 「……解ったよ。確かに悪かった。実戦に次なんて無い。それは母さんが何度も教えてくれたはずなのにな……」  ダイモスとハルは若干俯きながら、トラックから降りた。 「ダイモスくーんっ!」  その時だった。とぼとぼと、いかにも情けない感じで歩いていた彼の元に一人の少女が走ってきた。  少女は作業着を着て、スパナを胸元のポケットに入れていた。しかしその作業着ではたわわな胸が収納しきれないらしく、ボタンは第三ボタンまで開けられていた。  少女はダイモスに抱きつくと胸にダイモスの顔を押し付けるような態勢を取った。 「今日の任務も大変だったねぇー! 聞いた話によれば、またビーストが出たんだって? なかなか起動従士も増えないっていうのに大変だよね!」  ダイモスは顔を紅潮させながら、何とかその状況から脱しようとしていた。  対するハルは少女の胸と自分の胸とを比較していた。彼女が自分の肌に沿って撫でていくと、なだらかな山こそあるものの、少女程では無かった。 「どうしたの、妹さん?」  それを見ていた少女はニヤニヤしながらハルの姿を見ていた。わざとハルに自らのたわわな胸を見せつけているのだ。  それを知っているからこそ、彼女は苛立ちを隠せない。 「いいえ? 何でもございませんよ。ただ、私も頑張ったのにこの扱いの差はどうなのかなーと思っただけですよ?」 「あーら、すいませんね? ただ私はダイモスくんに対して疲れを癒して欲しかったがためにこの行動をしているだけなのよ。きっとあなたがやられても喜ばないでしょう? でも私はこれしか出来ないからね。これをするか何もしないかだったらこれをするしか無いじゃない?」 「何言っているんだ。本業があるじゃない、メカニックの仕事が。それもしないでただ慰労の為にいるとか、メカニックの名が廃るわよ。別の職業に転職したら?」  気付けば二人を取り囲む冷たいオーラが流れていた。あまりの冷たさに凍えてしまう程だった。  とっくに解放されていたダイモスだったが、この原因を作り出したのはある意味自分であるということを解っていても、止めようとする意志が今の彼には無かった。 「おいおい、二人ともどうしたんだ?」  歩いてくる一人の存在にいち早く気付いたのはダイモスだった。無意識のうちに救いを求めていたのかもしれない。  歩いてきたのは飴を舐めている男だった。黒髪の中に金のブリーチを施している。見るからに厳つい男だった。 「ヴィエンスさん! ……ちょっといいですか」 「また痴話喧嘩か? 実の兄妹なんだから、それくらいきちんと整理しておけよ。お前たちのコンディションが悪くなるとお前たち以外の協力者も害を被るかもしれないからな」  ヴィエンスに助けを求めたが、しかし彼の反応は冷たいものだった。 「……だが、この状況が長く続くのもあまりいいものではないのもまた事実」  ヴィエンスは呟くとハルと少女の前に立って二人の頭を小突いた。  即座に二人は頭を抱える。やはり、それなりに痛かったのだろう。 「……長々と喧嘩をしている暇があるのか?」 「あり……ません」  渋々と二人は頷く。 「ならお前たち、何をすべきか解っているんだろうな?」 「は、はいっ!」  少女は走ってドックの方へと去っていった。 「まぁ……ざっとこんなものかな」  ヴィエンスは手を叩いて言った。  それを見たダイモスは頭を下げる。 「あの……。ありがとうございました!」 「これくらい朝飯前だ。国家の治安くらい守れないと『あいつ』を救うことなんて出来やしないからな……。あいつはまだ冷たい石の中で一人きりだから、早く救ってやらなくちゃいけないんだよ……」  ヴィエンスは自らの拳を握り、それを見つめる。ダイモスたちはそれがどういう意味なのか理解出来ず、きょとんとした表情を浮かべていた。  その視線に気付いたのか、ヴィエンスは慌てて咳払いを一つ。 「……そうだ。リーダーがお前たちを呼んでいたぞ。理由は解らんが、大事な話があるらしい」 「大事な話?」  ヴィエンスは頷く。しかしヴィエンスから聞いてもそれが何なのか解らなかった。  とにかく聞いてみないことには始まらない――そう思った彼らはリーダーの居る部屋へと向かった。  リーダーの部屋に向かう途中、ダイモスはある少年のことを思い出した。 「……そういえばハル、覚えているか? あの建造物で居た少年のこと」 「少年……、ああ、確か裸一貫だった少年だっけ?」 「そうだ。あの少年、どこに行ってしまったんだろうな?」  彼が気になっていた疑問とはそれだった。  少年は裸で遺跡となっていた建造物の一つに居た。ただそこにいただけだった。眠っていた痕跡も、暮らしていた痕跡も無い。だからこそ疑問だった。どうしてそこに暮していたのか? どうしてそこに居たのか? ということについて、気になっていたのだ。  ハルはダイモスの問いに首を傾げる。必死に考えているのだろう。答えを直ぐに導くことなどそう容易ではない。 「それは確かに私だって気になったけれど……、でもその子消えちゃったじゃない。私たちがビーストを倒して直ぐその姿を確認しに行ったら周囲にもその姿は見られなかった。……それはあなたが一番良く知っているはずでしょう?」 「そうなんだ。そりゃ、そうなんだけれどさ……」  ダイモスは未だ納得出来ていない様子だった。目の前から、ということでは無いものの、助けなくてはならないと思った者が姿を消していたことについて、若干ながら疑問点が残るばかりだったのだ。  例えば、何故少年は何も着ていなかったのか? ということについて考えてみれば、それは疑問点ばかりしか浮かんで来ないのは容易なことだ。他にも、それと関連して、少年はどこからやって来たのか、そしてどこに消えてしまったのか……その二つについても疑問が残る。 「疑問は確かに多くあるけれど……現時点でそれを解決する術は無いわ。一番いいのは本人に直接聞くってのがあるけれど、そもそもその本人が居ないから問題にしているのだしね」 「それは解っている。解っているさ……」  ダイモスとハルが歩きながら会話をしている間に、彼らはある一つの部屋へと辿り着いた。  彼らはそれぞれ小さく溜息を吐いて、ノックした。この部屋をノックする時は、必ず三回となっている。多くても少なくても問題になる……というわけではないが、とにかくそれがここでのローカルルールであった。 「ダイモス・リッペンバー、ハル・リッペンバー、入ります」  代表してダイモスが告げる。  そして扉を開けて、彼らは中に入った。  中は執務室のようになっていた。左右には本棚があり、様々な本が並べられている。本の種類も新旧まんべんなく揃っている。  奥には机が一つ置かれていた。その机に腰掛けていた女性はダイモスたちが入ってきたのを見て、小さく微笑んだ。 「おかえりなさい、ダイモス、ハル」  優しい声だった。暖かくなるような声だった。  それを聞いて彼らは小さく頭を下げた。その後、女性もゆっくりと頭を下げる。 「母さん、ただいま。……だけれどそれは大袈裟だよ。別に、そんな遠くまで旅をしたわけでもないからね」 「いやいや、それは謙遜だよ。実際二人は色んなところに行っているからね。クフーレ砂漠とここは、いわゆる目と鼻の先と言われる場所に相当するのだから、心配する必要は無いのだけれど、それでも……ね」  それを聞いてダイモスは小さく溜息を吐いた。 「母さんが心配するのも解る。……でもクフーレ砂漠には何も無かった。ただの遺跡と言ってもいいくらいに……」 「クフーレ砂漠の遺跡は元々旧時代のものだと言われている、相当古い建物だからね。フロアは相当数存在していたらしいけれど、それは残っていない。ほぼ吹き抜けになっている。それ自体は相当凄いものだったらしいよ、実際には殆ど残っていないし、意味すら理解出来ないと学者は述べている」 「ただの建築物を、あれだけの量、しかも意味など無く造った……と?」  女性は首肯する。その言葉はダイモスたちにとって信じられなかったが、しかしそう考えれば合点がいく。  女性の話は続く。 「今はあの建築物も価値が無いものだと見られていた。だが、かつてはまともにあの建築物の価値を考えていた。見極めようとしていた、と言ってもいいのかな。とにかくあそこには何かある……そう思った科学者が殆どだったくらいだ」 「でも、そうだとしたらあそこは今頃それなりに人気になっているはず……。何か理由でもあるから、あんなことになってしまったんじゃ……」 「そう。問題はそこだよ。あの建築物はそれ程までの規模を誇っていた。にもかかわらず、あっさりと人が居なくなってしまった。その原因は、今となってはまったくの謎となってしまったがね」  女性はそこまで言うと、机にあるガラス瓶を取り出した。ガラス瓶には白濁色の錠剤が充填されていた。  それを見てダイモスは察する。 「もう、今日の『時間』ですか」 「……まぁ、仕方無いことなのよ。自分では乗りきったつもりでも、精神の奥底では未だそれが生き続けている。そしてそれは、恐らく一生向き合っていかねばならないもの……」  彼女はそう小さく呟いた。  彼女は心的外傷を患っていた。彼女はそれを『治った』などと思い込んでいる。  心的外傷はそう簡単にその傷が癒えることは無い。大抵は時間をかけてゆっくりと治療していくものだからだ。  にもかかわらず彼女は、彼女が背負っている使命たるものが重石となっていたのだ。  それが重石になっていたことは彼女自身も理解していたことであるし、他の人間も理解していた。そしてその問題は彼女が死ぬまで一生向き合わなくてはならないということも理解していた。そうせざるを得なかったのだ。 「私はほんとに申し訳ない気持ちばかりなんだけどね……。でも、人が少ないし、私だけじゃなく、色んな人が同じように苦しみながらも、懸命に生きている。私だけが治療とかで休んじゃ悪いもの。どうせ死ぬなら、戦って死んだ方がいい」 「母さん。死ぬなら、とかそんなことは言わないでくれよ。そんなことが無いようにメリアさんや医療チームの人たちがそういった薬とかで、何とか症状を和らげようとしているんだから。病は気から……どこかの古い言葉でそんな言葉があるよ。まさにその通りなんじゃないかな、気を強く持たなきゃ、どんな病気にだって耐えられない」 「……ありがとう、ダイモス、ハル。私はあなたたちのような子供が居て……ほんとうに幸せ」  女性は涙を流しそうになったが、それを既のところで耐え、そう言った。  途切れ途切れの言葉だったが、涙を堪える現状にある彼女が言える、精一杯の感謝だった。 「それじゃ、失礼します」  そして二人は部屋を後にした。  誰も居なくなった部屋に女性――マーズ・リッペンバーの啜り泣く声がこだまする。  彼女が一人で子供を産んでから、もう十年の月日が経った。彼女はもう両親を亡くしてしまったから、今はもう肉親がいない彼女にとって、この歳まで二人の子を育てるというのは、とても大変な苦労だったろう。  『彼』を失ってから――彼女の心もまた、ダメージを受けた。  そのダメージはそれを受けた人間でなければ解らない程、計り知れないものだった。  とはいえ彼女はそれで諦めるわけにはいかなかった。寧ろ『諦めてたまるか』という思いが彼女の心を支配していた。  それでは不味い――そう思ったのは彼女の親友であり、現在はヘルスケアからリリーファーの仕事までをこなすワーカーホリック、メリア・ヴェンダーだった。メリアはこのままだとマーズの精神が復讐に支配されてしまう。復讐に支配されてしまっては、その後に何が起こるのか解ったものではない。復讐する相手を間違った場合、それは人間ではなく『兵器』になる。それは誰も望んでいない。望みたくないことだ。だからこそメリアは薬を調合した。それによってマーズが暴走することが無くなった。  だから彼女はこの薬を飲み続けている。彼女が他の周りの人間に悲しみを与えないように。  そしてこの薬は一度飲めばその効力も弱まっていく。即ち、徐々に効き目の強い薬にしていかねばならない。挙句、薬というのは効力が強くなればなるほどその副作用も強くなっていく。  今彼女は普通に立っているが、それも数分が限界。歩くには補助が必要な程、筋力が衰えていた。  だが、それと同時にリリーファーの操縦の腕も衰えていった……というわけではない。筋力が衰え、自分では歩くことすら覚束無いというのに、リリーファーの操縦の腕だけは衰えること無かった。寧ろ、十年前に比べ向上したともいえる。これはメリアも有り得ないことだと驚愕する程だった。  それも凡て、『彼』を救うため。彼の笑顔を見るために、彼女は決して希望を捨てたりなどしない。  だからこそ彼女はこの十年間頑張って来られたに違いない。彼女は彼女なりに十年間頑張ってきたのだった。 「タカト……」  彼女はその名前を呟く。  タカト・オーノ。  彼女が愛した少年で、今は消息不明と『言われている』。  タカトは生きている。それを確信へと変化させたのは、コロシアム跡地――十年前の災厄があった現場でのことだった。  かつてインフィニティと呼ばれていたリリーファーは、行動を停止していた。そして、その内部から生命反応を確認したのだ。  タカト・オーノは生きている。  その事実は彼女に一つの規模を与えることとなった。  しかし、それと同時に彼女は決断に迫られなくてはならなかった。  結果的に十年前の災厄を起こしたのはインフィニティ――即ちそれに乗り込んでいるタカト・オーノだ。そしてマーズたちの組織には十年前の災厄により、家族や大切な人を失った人間が数多く居る。  彼らにとって、タカト・オーノはその怨みの原因であるといえる。  むやみやたらに彼らと接触させたが最後、タカトは死んでしまうかもしれない。それはどうにか回避したかった。  ならば、どうすればいいのか。 「私はタカトに会いたい。タカトを助けたい。……けれどそれは許されないのよね……。このまま、幾ら何でも彼らに十年前を無かったことにしてくれ、なんて言えないし」  彼女の心は狭間で揺れ動いていた。  タカトの扱いをどうするかで、彼女だけでなく、この国全体をも揺るがす事態になりかねないのだ。  彼女たちの国、ハリー=ティパモール共和国は十年前、ハリー騎士団と彼らに賛同する有志によって建国された新しい国家である。その国家はマーズ・リッペンバーを元首としており、実質の王制となっている。  彼女がそうしたのでは無い。有志の方々がそのようにしていいと告げたのだ。  もしタカトを救い、彼をそのままにしておこうとするものなら、彼だけではなく、マーズたちも処罰される可能性があった。 「考えなさい、マーズ・リッペンバー。何かいいアイデアを、あなたは持っているはずよ……!」  一人で彼女は考える。それはほかの人間に責任が分散させないようにした、彼女なりの優しさだった。ほかの人間にこれについて意見を訊ねれば、その人間も責任を問われかねない。ほかの人間――況してや、長年味方としてきた人間ばかりである――を傷つけることは、彼女には出来なかった。  最終的に彼女は、一つの結論を導いた。『タカト・オーノ救出作戦』その第一段階を――。 3  崇人は水の中にゆっくりと佇んでいた。  少し気を緩めてしまえば、何もかも溶けて無くなってしまうような……そんな感じになっていた。  だが、そんな状況であっても、彼は慌てることなどなかった。というより、何も考えたくなかった――というのが正しいかもしれない。  何もかも捨ててしまおう。考えることをやめてしまおう。  そこはかとなく彼はそのまま浮かんでいた。 「――あなたはそれでいいの」  声が聞こえた。  彼の目の前に、光の塊が出来た。 「君は……いったい? 「ここで諦めても、あなたは後悔しないの?」 「どういうことだよ……。僕はそんなことよりもただここに居たいんだ。気持ちいいし、嬉しいんだ」 「それはあなた自身が造り上げた『嘘』。あなたが生きていて一番気持ちいいと思えた感情を、そのまま世界にして造り上げただけのこと。この世界に囚われてしまっては、あなたはあなたで居なくなる。それでも構わないの?」  ……自分が自分で居なくなる、ってどういうことだろうか?  彼にはそれが理解出来なかった。理解しようと思っていても、それをしたくなかった。 「……急ぎなさい。この世界はゆっくりと終焉に向かっています。だけれどそれはあなたたち人間のせいではありません。もう一度『あの世界』を再現しようとした彼らが悪いのです」 「彼ら? 再現?」  そこまで来て、漸く崇人の頭はまともに考えることが出来るようになった。  というよりも、そうしないとやってられない……ということが案外近いかもしれない。 「彼らは観測者でした。神に命じられ、一度は滅んでしまった宇宙をもう一度はじめからやり直すために、その役目が与えられたのです。そして神はそのまま安寧の時を過ぎていくものだろう……そう思っていました」 「……いました?」 「彼らはある時、見つけてしまったのですよ。……かつてあった宇宙が、どのような歴史を辿ってきたのかを。その歴史を今ここで長々と話していてもどうせ無駄になりましょうから言わないでおきますが……、要するに酷い歴史だったのです。かつての民がどのように生き、そして滅んでいったのか。それが事細かに書かれていたのですから」  光の声は続く。 「それを見て神は焦りました。このままでは大変なことになってしまう、と。だから神は、あるシステムを組み換えることにしました」 「……それは?」 「アリス・システム。『シリーズ』の名前は聞いたことがあるでしょう? シリーズを一元に管理するために開発されたマザーシステム……それが『アリス』。これは神が初めに世界に備え付けておいた、ただのプログラムに過ぎませんでした。……あの時までは」  空間にノイズが走り出した。  それを見てかどうかは知らないが、光も徐々に消えていく。 「……あとはあなたが自分で真実を求めるしかありませんね。私はただ、その橋渡しをしただけに過ぎません。だけれど忘れないで。あなたにとっての希望は何なのか、あなたの本来の目的は何なのか……ということについて」 「ま、待ってくれ! もっと話を――!」  そして。  大量のノイズとともに、唐突に空間が崩壊した。 4  崇人が目を醒ましたのは、その直後だった。そして直ぐに感じたのは座っている場所の冷たさ。――どうやら彼は床の上に毛布一枚で眠らされていたらしい。  ただそれだけだというのに、寒気など感じなかった。 「ここは……?」  崇人は辺りを見渡す。  そこは独房のようだった。黒い壁に三方を囲まれ、残りの一方は鉄格子のようになっている。  窓も鉄格子になってしまっているし、頭上を見上げればカメラも回っているらしい。少なくともこの状況ならば脱出は不可能だろう。 「お目覚めのようね、タカト・オーノ」  鉄格子の向かいに、誰かが立っていた。  ハンチング帽が良く似合う少女だった。 「あ、あの……。ここはいったいどこなんですか? それに君は……?」 「姉さんのこと――忘れたなんて言わせないわ」  その言葉を聞いて、崇人は思い出す。  それは彼の中に今でも染み付いている、ある少女の記憶だった。  目の前の女性は言った。 「確かにあなたは世界的に有名なリリーファーの……その起動従士だったかもしれない。でも、あなたが目の前にいながら姉さんは死んだ! あなたが敵にみすみす捕まってしまったから母さんも父さんも死んでしまった……! あなたのせいで……私はひとりぼっちになったのよ……」  彼女は鉄格子を思い切り殴り付ける。  しかしながら女性の力で鉄格子を破壊するなど荒唐無稽な話である。そんな簡単に壊れるわけがない。 「あなたが、あなたさえ生きていなければ――!」 「やめろ、シンシア!」  その声を聞いた彼女――シンシアは思考を停止した。そして直ぐにその声の主が誰であるか理解し、踵を返し敬礼する。  そこに立っていたのは、マーズだった。 「ま、マーズ……。お前なのか?」  崇人の言葉にマーズは反応しない。  崇人の言葉は矢継ぎ早のように続く。 「僕はあれからいったいどうなったんだ? インフィニティに乗り込んだところまではギリギリ何とか覚えているんだが……」  しかしマーズは彼の話を最後まで聞くこともなく、踵を返した。 「お、おい! マーズ、どういうことだよ! 何か一言くらい言ってくれてもいいんじゃないのか!?」  しかし、それでもマーズは反応しない。  それに付いていくシンシアは崇人に冷たい視線を一瞬だけ送り、そして去っていった。 5 「観測体監視下に入りました」 「了解。引き続き監視を続行せよ」 「了解」  コントロールルームには大量のパソコンと一つの巨大モニターが設置されていた。モニター内の画面は幾つかに細分化され、それぞれ映像を映し出している。  しかしそれらの画面は凡て――タカト・オーノをそれぞれ別のアングルから映し出していた。  コントロールルーム中枢にはマーズの姿があった。 「様子はどう?」  階下に居るオペレーターに訊ねるマーズ。  茶髪の若いオペレーターは画面の様子、さらに画面に映し出されている様々な解析データを見て言った。 「様子は良好です。目を覚まして以来、外への興味も湧いているのか、外を眺めることのできる唯一の手段である鉄格子を掴んでいる姿も目視することが出来ます」  オペレーターは言った。  こう冷淡に業務を果たしているが、この中の大半の人間が十年前の災害により、家族や大切な人……その他諸々を失った。マーズとしてはすぐにタカトを助けたい気持ちでいっぱいなのだが、そうはいかない。そうしてしまうと国のシステムが破壊されかねない。だから今は監視するに留まっている。  それにリリーファー――インフィニティが生み出す無尽蔵のエネルギーは彼女たちにとってまったく見向きもしない産物というわけでもなかった。十年前の災害により自然環境は大きく変化した。そのため電気を生み出す手段とかも大きく変わってしまったということだ。それにより、電気を安定して供給することが出来なくなってしまった。  しかしインフィニティにあるエンジンは自らエネルギーを供給することのできるシステムを備えている。即ち、それさえあればこの国の電力システムに関する不安が一瞬にして消滅するということだ。 「インフィニティのエネルギーさえ使えれば大分楽になりそうですね」  マーズに語り掛けてコーヒーカップを差し出したのは、若い男だった。茶髪のショートカット、そしてきりりとした目。それでいてその目つきは鋭い。性格もきちんとしており、だからこそ彼女も彼に関して安心して任せることが出来るのである。  フィアット・レンボルーク。  ハリー=ティパモール共和国の総務大臣を務める。総務大臣といえば、放送或いは電波に関する許可を出したり、行政及び地方自治に関する業務を行ったりする。即ち、ハリー=ティパモール共和国の要と言っても過言ではない。  そもそも、ハリー=ティパモール共和国の建国について、紆余曲折が無かったと言えば嘘になる。ティパモールはもともとハリー騎士団が所属していたヴァリエイブル連合王国が完膚なきまでに破壊した地区であり、ティパモールに住む人間は、ヴァリエイブルに少なからず恨みを持っていたことは確かだ。  結果として建国が成立したのは、つい最近になる。ハリー=ティパモール共和国の元首にはハリー騎士団の副リーダーだったマーズ・リッペンバーが、トップ2ともいえる総務大臣にティパモール地区のリーダーを務めていたフィアット・レンボルークが配属されることとなった。 「ありがとう、フィアット総務大臣。……それはそうね、インフィニティのエネルギーはほぼ無尽蔵に生み出すことが出来る。それを利用すれば一番苦労が減るのは、総務大臣であるあなただからね」 「それはそうですけれどね。……でも最終的に苦労が減るのは元首であるあなたではありませんか?」  まさかの返しに驚いたマーズは微笑む。 「……さてと、私はそろそろ部屋に戻ろうかしら。何かあったら連絡をちょうだい」 「解りました」  フィアットは低く頭を下げて、マーズを見送った。  フィアットはマーズを見送ったのを見計らって、頭を上げた。  彼はこの職に就任して、必ずしも満足しているわけではない。総務大臣という職が容易に務まるものかと言われれば嘘になる。そうであることはあり得ない。だが、彼はそれでもこの職にいることがうれしいと思える一端があった。  それが元首であるマーズ・リッペンバーの存在だ。マーズはずっとこのハリー=ティパモール共和国の元首を務めてきている。彼女の政治的手腕は、少なくともフィアットが見てきた中では一番と言えるだろう。それは彼女の出がリリーファー起動従士訓練学校だから、過剰評価をしているのかもしれない。  そういわれたとしても、彼は否定することは出来なかった。  ただ、明確に、これだけは言える。  マーズ・リッペンバーはこの場所をどうにかいい場所へとするために、一番尽力している人間である――と。 「だが、彼女には近づけない」  理由は単純明快。マーズには思い人が居るということ。それも、噂によれば――十年前の災害を引き起こした『インフィニティ』の起動従士であるということらしいのである。  もしそうだとしたらそれは問題だが――まだ問題を引き起こしていないのだから、問題という必要も無い気がするが、それは致し方ない――しかし彼はまだ考えていた。  もしこの状況でインフィニティの起動従士を救うことなどしてしまえば、まずハリー=ティパモール共和国での彼女の信頼は失墜すると言っても過言ではない。そしてその後訪れるのは――元首の座を退くという圧倒的絶望である。  彼は別にそれを望んでいるわけではない。しかし彼女はそれを望んでいるだろうか? 少なくとも今の安寧の地位を捨て去ってでも、十年前の災害を引き起こしたといわれる張本人を救おうとするのだろうか?  彼にはそうとは思えなかった。だからまだ安心していた。慢心していたのだ。  今更それを考える時間など、彼には無かったのかもしれない。  だが、時間が無いこともまた事実だ。もしマーズがその起動従士に、いまだ恋心を抱いているとして、それがこの国の自治への関心と責任感よりも上回ったならば――。 「いや、そんなことは無いだろう」  フィアットは呟いて、下に居るオペレーターへ告げる。 「これから僕は食事をとる。一応携帯は持ち歩いているから……何かあったらそちらに連絡をしてくれ」 「畏まりました」  その返答を確認して、フィアットはコントロールルームを後にした。  マーズは自分の部屋で食事をとっていた。別にダイモスとハルのことが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。普通に三人水いらず食事をしたいくらいなのだが、彼女の職がそれを許さない。彼女の立ち位置――ハリー=ティパモール共和国の元首という地位が。  彼女はハリー=ティパモール共和国という一つの国のリーダーである。リーダーたる存在、いつ何があってもいいようにしなくてはならない。 「ほんとうは彼女たちと一緒に食事がしたいのだけれど……ひょんなことでタカトのことを口にしてしまったら、何が起きるか解らないしね」  そう。  彼女が危惧しているもう一つの可能性がそれだ。  ダイモス・リッペンバーとハル・リッペンバー――苗字から解るように二人はマーズの子供だ。それでいて、その父親はほかでもないタカト・オーノだった。  タカトのことは、少なくとも今の状態で彼らに知らせてはならなかった。もし知らせてしまったら……彼らは何を思うだろうか? それを彼女は解らなかった。  いくらリリーファーに乗り込んでいたとはいえ、この時代を強く生き抜いているとはいえ、彼らはまだ十歳だ。その事実を突きつけるには、まだ早すぎる。 「どうすればいいのか……このとき、タカトでもいれば助言してくれるのかしら」  マーズは考える。  だが、考えても何も具体的な案が浮かぶことは無かった。 「とりあえず、食事にしましょう」  そう言って彼女は目の前の皿を見て、手を合わせる。 「今日のメニューは……あら、鮭の塩焼きに肉じゃが……それにほうれん草の和え物、か。何だかシンプルな味付けをまとめたみたいね」  因みにメニューを考えるのは栄養士のエイリア・ファクタリスである。彼女は災害発生前もヴァリエイブルで栄養士をしていた。国王からのお墨付きももらっていた、知る人ぞ知る有名栄養士なのである。  そんな彼女がどうしてここに居るかは話せば長くなってしまうのだが、要するに、マーズと顔見知りだっただけ……である。そんな捻りも無くシンプルな理由で、少し疑ってしまう程だが、これが真実なのであった。 「……さてと」  箸を親指の上にかけ、両手を合わせる。 「いただきます」  静かで、少し寂しいものだが、彼女にとってこの時間は至福の一時だった。  早速箸を右手で構えると、彼女は肉じゃがの器からじゃがいもを一切れ摘まんだ。そしてそのままそれを口の中に放り込む。  直ぐに口の中に広がったのはマキヤソース独特の、あっさりとした塩加減、それでいてほんのりと甘い味付けだった。彼女としてはもう少し濃い味付けの方が好きなのだが、栄養士が彼女のために考えているプランだ。贅沢を言ってはいけない。  じゃがいも自身の甘味もある。その甘味とマキヤソース中心の味付けが相まって、マーズはたまらなくなった。きっと今、彼女の顔は普段とは違う『オフ』の表情なのだろう。だらけきった、と言うと表現が悪いかもしれない。しかし、どちらかと言えばそれに近い。  ご飯もご飯で、お米の一粒それぞれが『立っている』。そして噛んでいくたび、甘味を感じる。こういうものを食べる度に彼女はこの時間がとても至福であると実感するのだ。  次に、彼女はほうれん草に箸をつけた。  口に頬張るとほうれん草の青臭さが広がる。決して彼女はこれが嫌いなわけではない。むしろこれが好きなのである。 「ああ……やっぱりほうれん草はこういう味だからこそおいしいのよね。何故かは知らないけれど、ダイモスとハルはこれが嫌いって言っていたし。こんなにおいしいのになあ」  彼女はそう言って再びほうれん草を頬張る。  ……とバランスよく食べていきたかったのに、このままではほうれん草ばかり少なくなってしまう、と思ったのはそれから数口食べたときのことだった。 「おっと、いけない。このままじゃ、バランスよく食べ終わることが出来ないよね」  彼女がそう気づいたときには、もうほうれん草のおひたしは半分近く無くなってしまっていた。  資源が少ないので、お代わりすることはあまりよろしくない。憚られる、と言ったほうがいいかもしれない。  それを知っているからこそ、彼女は残念と思いながら、少しだけほうれん草の入った小鉢を彼女から遠ざけた。  さて、いよいよメインディッシュである鮭の登場である。今回はシンプルな塩焼きとなっている。栄養バランスに配慮して――とのことだろうが、そうだとしてもこれさえあればご飯が進むと言っても(特に彼女にとっては)過言では無かった。  塩加減に油加減、身のホロホロ具合。どれを取ってもピカイチだった。一例を挙げるならば、箸を身に入れると、みるみるうちに解れていくということだろうか。固いとか箸が通りづらいとかあるかもしれないが、この鮭に至ってはその心配事は皆無だ。どこから仕入れたのか、はたまた採ってきたのか。前者であっても後者であっても、その苦労は計り知れない。  鮭の味が残っているうちにご飯を口の中に。鮭の味とご飯の甘味が口の中でミキサーめいて混ぜられていく。やはり栄養バランスも大事だが、これを調理している人間も大事である。決められた食材と決められたカロリーで、いかにして美味しく食事を作ることが出来るか。それが大事なのである。 「……毎回思うけれど、このレベルの食事を毎日、って作るほうが至極大変よね……」  独りごちり、彼女は食事を再開する。 「ごちそうさまでした」  両手を合わせ、彼女は言った。作ってくれた人たちへ、そして食材への感謝を込めたのである。  因みに食器は暫くすると給仕の人間が取りに来る。だから彼女は食事について何も心配することは無い。無いのだが……。 「やっぱり、どこか今ひとつよね……。何というか、味付け自体は完璧なんだけど……?」  彼女はここ最近、味覚が狂ってしまっていた。狂う、と言ってもそんな酷いものではない。少し濃い味付けだと誰もが思うのに薄く感じるなど、人とずれている感覚を持ってしまっている、とでも言えばいいだろうか。  一度、とは言わず何度も彼女は友人であるメリアに相談していた。しかし、メリアの解答はどれも一緒だった。 『精神的に疲れてしまっているか、或いは大人になって味覚が変化したのだろう。良くあることだ。例えば、小さい頃は食べられなかったものが大人になったら食べられるようになる……そんな話だって何度も聞いたことがあるよ。耳にタコが出来るくらいだ。たぶん、それに近いものだと思う。だから、そう心配する話でも無い』  メリアの話を信じていないわけではない。だが、完全に信じきったわけでもなかった。  自分だってそれが違うことくらい解っている。解っているが、原因が何であるかということは解らない。  だからこそ、そのポイントを突かれると痛い。自分だって解っていないことを解っている風に言われることが彼女にとって一番いやなことだった。 「……いやね、結局食事の時間だけでもあまりこういうことは考えないつもりでいたのに。今日だけはそう考えてしまう」  その雑念の正体を彼女は解っていた。  タカトが見つかったことは、彼女にとってそれ程のサプライズだったというわけだ。 「タカトが見つかってうれしいのは私だけじゃない。ハリー騎士団の人間はみんなそう。だけれど、それを表に出すことはしない。出来ないのよ」  それは彼女が一番解っていた。  タカトがやったと思っていないのに、この十年間であの『災害』は完全にタカトがやったものだと認定されてしまった。認定されてしまったものを簡単にひっくり返すことは出来ない。それをするならば、それなりの証拠を持ち出さなくてはならないのだ。  しかし十年も経過してしまえば大半の証拠は風化してしまう。だからこそ強く言えないというのもある。本人たちがそう思っていても、タカトが起こした行動は人々を裏切った。人々の救いの象徴とまで言われていたインフィニティが、世界を半壊させた。その事実は十年という僅かな時間で風化するほど、人々の心は冷淡ではない。  マーズが時計を見ると、もう昼休みは終わっていた。  昼休み、というのは明確に定められたわけではない。あくまでもマーズが定めた時間であって、誰も把握しているものではない。あくまでも、あくまでも。 「そろそろ、コントロールルームを一巡しようかしら」  そう言って、彼女は貴重品を持ち、立ち上がる。  コントロールルームに向かう前に、マーズは本棚の奥に仕舞われていた写真立てを取り出す。  そこにはマーズと崇人が映し出された、写真が入っていた。二人とも笑顔が輝いている。  マーズはそれを見て、思わず涙が零れ出す。彼女の写真は十年前のものだ。十年たって彼女は姿が変わってしまった。どこか大人びた雰囲気を放ち、リーダーシップを持った、無くてはならない存在へと昇華していた。  対して、タカトはどうだったか。  タカトは、どうしてかは解らないが、インフィニティの内部で十年間睡眠状態にあった。コールドスリープという旧時代の技術がある。おそらくそれを流用したものと思われるが いざ実物を見るとそれが本当であるかは不明瞭だと思い、それでいて、不確実なものだと思い込み、そんなことはあり得ないのではないかとも思えてしまう。  要するに頭の中で様々な考えが巡り巡っているということだ。  彼女がそう考えるのも仕方ない。確かにそうなのだから。現にメリアも言っていた。このようなことは有り得ない――と。  しかし、そもそもインフィニティがあの時代に存在していた時点でイレギュラーは必然であることはマーズも解っていた。  だからこそ、マーズはそれを信じようと思っていた。思っていたが、それを告げることは彼女の立場からして憚られることだった。 もし彼女がそう言ってしまえば、この国は内部崩壊を起こす――ということを、彼女も解っていたからだ。 6 「はい、それじゃこれは誰でしょうか?」  崇人の部屋にやってきた一人の女性が、彼に鏡を見せて言った。  崇人はそれが何なのか理解できなかったが、取り敢えずそこに映し出されている――自分の顔を見て言った。 「これは……僕の顔だ。間違いない」 「はい。その通りですね」  そう言って女性は持っていたノートに何かを書き記した。  シンシアと呼ばれた少女はしばらくこういう感じだった。まるで崇人を人間だと思っていないかのような扱いだった。 「……僕は何か悪いことをしてしまったのだろうか」  崇人は呟く。  それを聞いてシンシアの行動が停止した。  しかしその停止した時間は、とても僅かだった。 「……これから、検査に入ります。ですので、これを装着してもらいます」  ジャラ、と金属同士が擦れ合う音が独房に鳴り響く。  それは手錠だった。両手の自由を奪う、一つの手段。 「これを装着すれば、今の出来事について教えてくれるのか?」 「今から検査に入り、あなたの『今』を知ることが出来ると思います。それに、あなたが置かれている現状も理解してもらわなくてはなりません」  質問に対する解答は、少しだけずれていた。 「頼むよ、少しで構わないから教えてくれないか。今は何年で、どうして僕はここに……」 「シンシア・パロング少尉、何をしているのかしら?」  彼女はその冷たい声を聴いて、振り返った。冷たい、と言ってももちろん意味的なものではなく、そういう風に解釈できるという意味である。  シンシアの後ろに、白衣を着た女性が立っていた。とはいえ、白衣の中はうっすらと黒いブラジャーとパンツが見える。そして女性は白衣のポケットに手を突っ込んで、ただ崇人を睨み付けていた。  そして彼はその人間の姿に見覚えがあった。 「申し訳ありません。現在対象に手錠をかけているところでしたので」 「時間を三分もオーバーしているのよ。少しくらい時間を守ってほしいものだけれど。私だって暇じゃないことくらい、部下であるあなたも理解しているんじゃない?」 「それは、そうですが……」 「メリア……メリアなのか?」  彼女は崇人のその言葉に一瞬身を震わせたが、すぐに冷静を取り戻し、話を続ける。 「とにかく、私の部屋に連れていきなさい。私は待っているから。いい? 時間をかけるんじゃないわよ」 「……かしこまりました」  そう言ってシンシアは敬礼する。  メリアはそれを見て踵を返すと、静かに立ち去って行った。  メリアの部屋に崇人が連れていかれたのはそれから五分後のことだった。  医官室、と書かれたプレートを見て崇人はドアの前に立つ。  同じく崇人の横に立っているシンシアが敬礼して、はきはきとした声で言った。 「シンシア・パロング少尉、入ります」  返事は無かった。シンシアは持っていたカードを扉の横にあるパネルに置いた。すると電子音のあと、扉が開かれた。  部屋は広かった。とはいえ、検査用と思われる器具がその大半を占めており、メリアが使っているスペースは僅かだった。  彼女は上下三つ、計六つのモニターを使って何かを確認していた。そのモニター一つ一つにはそれぞれ別のデータが示されている。大量の数字が上から下へ流れているものもあれば、グラフが放置されているモニターもある。  そしてその六つのモニターを、モニター裏にあるワークステーション及びメリアの前にあるキーボードで管理しているということだ。  彼女は扉が開く音を聞いて、椅子を回転させる。そして、彼女とシンシア、そして崇人が対面した。 「ご苦労様、シンシア。取り敢えず対象を検査機器に入れて。……服装も着替えさせて」 「解りました」  命令を聞いてシンシアは崇人を隣の部屋へと連れていく。  そこは脱衣所のようだった。とはいえ大人数で使うようには設計されていないらしく、 「手錠を一回外します。ですが、ここは監視カメラが五台あり、どこからでもあなたのことを監視しています。この意味が解りますね? あなたは逃げ出すことが出来ない……ということです。ですから、素直に、この服に着替えてください」  そう言ってシンシアが差し出したのは青い浴衣のような恰好だった。  素直に受け取った崇人。それを見てシンシアは頷くと、手錠を外し、部屋を後にした。  部屋を出て、大きく溜息を吐くシンシア。 「シンシア、幾らここが管轄外だからって息を抜き過ぎ。ちょっとは気を入れて」 「すいません。……でも、どうしても対象を相手にすると」  それを聞いてメリアは頷く。 「そうよね……。それは仕方ないことね。でも、あれは……」 「解っています。あれはインフィニティが暴走した可能性があり起きたことだ、と……。でも、実際にそれを実行したのは誰ですか。インフィニティに乗り込んでいたのは誰なんですか! そもそも、インフィニティは私たち人類を救ってくれる鍵となったんじゃないんですか!」  それを聞いてメリアは何も答えることができなかった。  彼女の言う通り、インフィニティの起動従士が発見されたときは、『人類の救いとなる』と大きく報道していた。現にインフィニティに敵う存在など居ない――そう考えられていたからだ。  だが、実際は違った。  インフィニティの起動従士、タカト・オーノは起動従士としての業務をする程、精神が強くなかった。  これは後にメリアが残した記録から明らかになっており、さらにマーズにも伝えられている。  マーズはそれを聞いて、責任は自分にもあるのかもしれないと嘆いたが、それを批判することは彼女には出来なかった。  何故ならメリアもまたその共犯と言われてもおかしくないためである。崇人をリリーファーシミュレータに載せたこと、そして彼のパイロット・オプションを発見したのもその時だった。彼がリリーファーとして適格という明確な証拠となり得てしまったのであった。 「……彼が着替えを終えたようね」  メリアの言葉にシンシアは振り返る。モニターの横は硬化ガラスとなっており、検査機器のある部屋が見えるようになっている。  メリアは手元にあったマイクを持ち、言った。 「これからあなたの検査を始めます。先ずはその機器に横たわって下さい」  その言葉と同時にシンシアは崇人の元へ向かう。彼のサポートを行うためだ。  崇人の元に辿り着いた彼女は、直ぐに崇人を横たわらせる。機器から突き出したベッドのようになっているスペースだ。そのスペースを支える柱はレールの上に乗っている。どうやらそれでスライドして前後に動かすようだった。  それを見ていて、崇人が横たわったのを確認したメリアはキーボードで操作し、あるプログラムを起動した。 「それじゃ、これから検査を行います。くれぐれも動かないように」  そしてメリアはエンターキーを押した。  それと同時に短い電子音が機器から鳴った。ゆっくりとベッドめいたものがスライドして、トーラス型の機器へと収納されていく。そして、トーラス型のそれは地響きのような鈍い唸りを上げ始める。  ベッドめいたもののスライドはそれがトーラス型の機器に収納されるまで続いた。そのまま数秒停止し、そしてゆっくりと逆方向にスライドを開始する。未だその状態でも機器からは唸りが聞こえていた。  そしてベッドの位置に戻り、停止した。少しして唸りも静かになった。 「検査は終了しました。起き上がってください」  メリアは再びマイクを通して彼に告げた。そしてその時小さく、「シンシア、お願い」と彼女だけに聞こえるよう小さく言った。  彼女はそれを聞いて頷くと、崇人の元へ向かった。  シンシアは崇人の隣に寄り添う形で、メリアの前にある椅子に彼を誘導した。そして彼を座らせると、メリアから少し距離を置いた位置に立った。  メリアは先程起動したプログラムに映し出された結果を見ながら、彼と対面した。 「……血圧や心拍、その他もろもろは異常なし、か。予想通りとも言えるだろう。寧ろこうであってはならない」  メリアはプログラムに映し出された様々な図表を見て言った。 「なぁ……教えてくれないか。どうして僕はこんな目にあっているんだ。あれからいったい何があったんだ」 「シンシア、取り敢えず対象の経過は良好だと伝えて。漸くコントロールルームも一安心するでしょう。これがあるまで戦々恐々としていたのだからね」  メリアはわざとらしく崇人の質問には答えず、シンシアに話題を振った。  シンシアは頷くと、医官室を後にした。 「なぁ、答えてくれよ。世界はいったいどうなってしまったんだ?」 「まぁ、私たちも一安心と言えばその通りになるわね。恐れていた事態にはならなかったのだから。まさか二回もあんなことになるなんて思いもよらずしなかったからね」 「質問に答えろよ」  メリアはモニターを見て、呟く。 「シンシア少尉が戻ってきたら直ぐにあなたは独房に戻ってもらいます。……言っておきますが、余計な真似はしないほうがいいと思うよ? そんなことをしたら、私たちはあなたを殺さなくてはならない」 「殺す……? それっていったい!!」 「残念ながら、これ以上は言えない。あなたはこの組織の人間では無いからね。あなたはこの組織の庇護下にあり、あなたの命は私たちに握られていることを理解しなさい」  何も、言えなかった。  崇人は何も言うことが出来なかった。  色々と聞きたいことがたくさんあったのに、それも凡て消し飛んでしまった。消え去ってしまった。  今まで味方だと思っていた人間に、こうも裏切られる。  それについて崇人は何も言えなかったし、何も考えられなかった。考えたくなかった、というのが正しいかもしれない。 「……取り敢えずあなたに装着されている我々の『保険』について説明します。一応説明しておかなくては、説明責任に問われますからね。あなたの首に保険をかけさせてあります」  それを聞いて崇人は首筋に触れる。そこで漸く彼は首に何か装着されていることに気が付いた。  それはリングだった。首輪とも言えばいいだろうか。人の小指よりも細いその首輪は漆黒で、少し滑らかな感触があった。 「あなたがリリーファーに乗り込んだ瞬間、その信号を読み取り、同時に自爆コードを起動します」  それは要するに、リリーファーに乗るなということを暗に示していた。 「それっていったい……どういうことだよ。訳が解らねぇよ……!」 「シンシア・パロング、戻りました」  崇人の叫びとシンシアが部屋に入ったのは、同時だった。  崇人はそれを聞いて、入口の方を見た。対してシンシアは何故自分が見られているのかまったく解らなかった。 「……そうか。つまり僕は化物扱いだと言いたいのか」  シンシアとメリアはそれについて何も言わなかった。 「インフィニティすらも化物だと思っているんだろう。何度も僕は乗って、その度にいろんなものを救ってきた……。だのに、救われている側はそれを当然の行為だと思い込み、さらにはそれが何かしてしまうとそれを害悪と見なし、要らないもの扱いする。どこの世界でもそういうことはやっぱりあるのだよな」 「シンシア、対象を独房に戻して。それと、精神が昂りつつあるから何らかの対策を取ること。いいわね?」 「了解」  メリアの言葉にシンシアは小さく敬礼する。  結局最後まで、崇人の言葉にメリアが反応することは無かった。それはただ、メリアが崇人のことを毛嫌いしているようにも見えた。 「はい、戻ってきました」  手錠を外しながら、シンシアは言った。崇人が考えている間に既に彼は独房まで戻っていたのである。  崇人は何をするのでも無く、ただシンシアの行為を眺めていたままだった。  手錠を外したのを確認したシンシアは、そのまま立ち上がると独房を後にした。  独房で、彼は再び一人となった。誰も居ない部屋で、誰も居ない独房は、彼には少し広すぎた。  彼は、独房で一人涙を流した。悔しかった。悲しかった。認められたかった。消えたかった。聞きたかった。理解したかった。触れたかった。  ……何故自分がこんな目にあってしまったのか、何故皆自分に冷たくなってしまったのか、そして、今自分が居るこの場所は何処なのか。  崇人はそれを『知りたかった』。知った上で自分の立場を理解したかった。  にもかかわらず、現状は冷酷だった。状況も知らされず、知っている人間は冷たく、質問をしたって答えてくれない。こんな状況でいったい、誰を信じればいいのだろうか? 「……誰も信じられるわけがない」  彼は自問自答に結論付けた。  彼の考えは彼にしか答えることが出来ない。それでいて、結論を見出したとしても、その結論がほんとうに正しいものなのか、彼には解らない。  誰も信じることが出来ない。誰も信じたくない。  そう思うのは、もはや当然のことだった。  そして、彼は――自らの考えがまとまらないまま、逃げるように、夢の世界へと落ちていった――。  深夜。  コントロールルームにけたたましいサイレン音が鳴り響いた。  呼ばれたマーズは眠気をものともせず、コントロールルームへと到着した。 「お疲れ様です」  コントロールルームにはすでにフィアットの姿があった。マーズは頷いて、彼から話を聞く。 「どうやら、ここへ向かってくる敵の姿があったようなので」 「それだけ? ……ちなみに、ビーストではないということ?」 「ええ。反応によれば第六世代……それから進化を遂げたものだと思われます」  『世代』と表すものを彼女は、たった一つだけ知っていた。 「今から向かってくるのは……リリーファーだということ?」  頷くフィアット。  この時代においてリリーファーを所有していて、かつ国境線にて反応が無いといえば、僅か一つしか浮かばない。 「レーヴ……。ここ数年頭角を現した反政府組織のことね」  レーヴ。  かつてこの世界にあった言語で『夢』と意味する単語であるそれは、とあるテロリスト集団の名前だった。  リリーファーを巧みに操り、ハリー=ティパモール共和国から国民の解放を宣言している彼らは、ハリー=ティパモール共和国にとって脅威にほかならないのだった。 「ハリー=ティパモール共和国を潰そうとする悪は、たとえ小さいものでも潰すしかない。それが、この国を守る私たちの役目」  彼女の言葉にフィアットは頷く。 「その通りです。そうでなければなりません。私たちはそうあり続ける。この国を守るためには、多少の犠牲も必要となります」 「……レーヴのリリーファーは一機だけなのかしら?」 「ええ。そのようです。一機だけなのは、ほんとうに助かりますね。何機あるか解っていない状況ですが……、何機も向かってこられては困りますからね。特に、このような深夜帯ともなれば」 「リリーファー、まっすぐに独房まで向かっています!」  段差の下に居るオペレーターの言葉に、マーズは頷いた。 「やはり、目的はタカト・オーノか……」 「しかし彼らはどこからその情報を仕入れたのでしょうね……。私たちが手に入れたのはともかく、独房の位置まで」 「そんなことは終わってから討論することにしましょう。そんなことよりも今は……、やってくるリリーファーをどうにかしないと。とにかく、急いでブルースとリズムを出動させて」  オペレーターはそれを聞いて頷くと、マイクに向かって言った。 「ブルース、リズムの起動従士は至急出動態勢に入れ。繰り返す、ブルースとリズムの起動従士は……」  それを聞いてマーズはようやく席に腰掛けた。一安心、とはいかないが、ようやくここで休むことが出来る。 「敵は第七世代(せだい)初期版(ベータ)であると考えられます。第六世代の流れを汲みながらも、それとは違う新しいシステムも露見されていますから」 「成る程。……、しかしそう簡単に敵が開発出来る物なのかしらね? レーヴの科学力はせいぜい今あるリリーファーを整備するくらいだと聞いているけれど」 「そうですね。実際そうだと考えられていました。……しかし、違いました。結果として、新型のリリーファーが駆動しているのがそのいい例です」  新型リリーファー。  それについて彼女は理解できなかった。理解するには時間が足りな過ぎる、と言えばいいだろうか。 「新型リリーファーの性能はいまだに判明していない。それはその通りよね?」 「ええ。そのリリーファーが我々の開発しているものより性能がいいとは思えませんが……しかし油断は禁物です。実際に何があるか解ったものではありませんから」 「その通りね……。でも、そうだとしても、私たちは攻撃しなくてはならない。向かわなくてはならない。……そろそろ準備も終わった頃合い?」 「ブルース、リズム、それぞれ準備に入りました!」  それを聞いたマーズは小さく頷いた。 「了解。エントリーシステム起動。カウントダウン開始して!」  その言葉にオペレーターは大きく頷いて、キーボードを打鍵していく。  ブルースのコックピットに入っているダイモス・リッペンバーは目を瞑って精神統一をしていた。彼はいつもこのようなことをするわけではない。  彼は初めてのことに緊張しているだけに過ぎない。リリーファーとリリーファーの戦いを彼が経験したことはない。要するに初めてのことなのだ。だからこそ、楽しんでいる。楽しみにしている。これからどうなるのかを、楽しみにしているのだ。 『ダイモス、大丈夫? 体調が悪いように見えるけれど』 「僕が? 体調が悪いって? そんな馬鹿な。そんなことは有り得ないよ。況してや、この状況……頑張らないわけにはいかないだろ?」 『それもそうだけれど……。気を付けてね?』  ハルの言葉に、ダイモスは頷く。  ハルの顔は、ブルースのコックピットにディスプレイは装備されていないため、見ることが出来ない。だが、それでもダイモスは彼女の表情を見ることが出来る。感じることが出来る。きっとこういう表情なのだろう――そう理解することが出来る。 「僕は大丈夫だ。君はどうなの?」 『わたし?』  ダイモスの言葉にハルは訊ねる。 『わたしは特に問題ないかな……。きっと、リリーファーを倒せるはず。リリーファーといっても中身は変わらないでしょうし』 「……それもそうか」  ダイモスはリリーファーコントローラを握る。  彼女の言葉を聞いて、勇気が出た――とでも言えばいいだろうか。 『始動、最終段階に入ります』  スピーカーを通してオペレーターの声が聞こえる。ようやくブルースとリズムの準備が整ったと言えよう。  それを聞いて、二人は大きく頷く。  そして、それと同時にブルースとリズムは大きくうなりを上げた。 『ブルース、リズム。発進!』  二機のリリーファーが速度を上げて、射出される。 「目標……距離、五百。四百五十、四百二十……徐々にこちらに近づいてきています」  ダイモスは冷静に現在の状況を告げる。レーダーにも観測されており、リリーファーの正体が徐々に掴めてきていた。  それは、鶏冠があるリリーファーだった。黄色いカラーリングのそれは、どこか懐かしくも見える。 「目標、視認! ハルも見えたか!?」 『ハル・リッペンバーも確認しました! 目標、距離三百五十!』  ブルースとリズム、そして敵リリーファーの距離は近付いていく。ブルースとリズムの存在を物ともせず、減速せずに、真っ直ぐに基地へと向かってくる。  何か目的があるのは確かだろうが、しかしその目的がどこで達成されるものなのかも解っているようだった。 「さて……やりますか」  彼の言葉と同時に、ブザー音がコックピットに鳴り響いた。  レーダーを確認すると、そこには何もなかった。  いや、正確に言えば。  あまりにも速すぎて、それを確認することが出来なかった――とでも言えばいいだろうか。  加速したそれはブルースへと近づいていた。そしてそれをダイモスが目撃した時にはもう遅かった。  確認されたそれは、飛行する物体だった。円盤状の本体の側面に棘のような槍がぐるりと一周付着している。そしてそれは高速で回転しながら、まっすぐにブルースの元へとやってきていた。  そしてそれはブルースの肩に突き刺さった。  痛覚が――リンクしている――彼の肩へと逆流する。  痛かったが、ハルの前で泣き言なんて言っていられなかった。  右手でそれを引き抜き、投げ捨てる。  その時、リリーファーに流れる冷却水が音を立てて流れ出した。少し運転に影響が出るかもしれないが、それは彼にとってまだ予想の範囲内であった。 「そんな簡単に……やられるかよ!」  痛みを堪えながら、ダイモスは言った。マイクの電源を入れていないから、外にそれが伝わることは無い。そう言ったのはあくまでも彼自身のやる気を鼓舞させるためだけのことだ。  ブルースは走り出す。それはリズムに乗っていた(無論、リリーファーに、という意味だ)ハルは驚いていた。未だ敵の正体がリリーファーということしか解っていないというのに、敵に近付くという行為は自殺行為と言ってもいい。あれ程の大きさの飛行物体を武器として所有している。そして、それを惜しげも無く使うことが出来るということは、未だ力を残している。彼女はそう考えていた。だから慎重にいかねばならない――と思っていた。 『ダイモス、気を確かに!』 「気を確かに、持っているよ! でも、でもさあ……やられてばかりでやっていられるかよ!」  それを聞いてハルは溜息を吐いた。ダイモスはこうなるだろうと思っていたからだ。  ダイモスはハルのことを想っている。それは妹を大事に思うが故の、愛情ともいえる。 「……やられてばかりじゃ、お前を守ることすら出来やしねえんだよ!」  その言葉はハルに届いたのかどうか、ダイモスには解らない。 「目標、距離二百、百七十、百六十、百四十……! 見えてきた! 見えてきたぞ! 敵リリーファーを視認! 鶏冠を付けている黄色のカラーリングだ! 大きさは当機より一回り大きい!」 『こちらコントロール。ブルース、これ以上の接近は危険だ! 遠距離攻撃で対応せよ!』 「そんなことやっていたら相手から何をされるか解らない! だったらこっちから攻撃したほうがいい! すでに相手は攻撃をしているということもあるしな!」  そしてダイモスは通信を切った。  これからはリリーファーとリリーファーの戦い。  横から茶々を入れて失敗してしまったとしても、それはリリーファーの起動従士が悪いのだ。  なら、最初からそれを排除してしまえばいい。その茶々を無くしてしまえばいいと思った。  そして彼は、コントローラを強く握る。 「さあ、始めようぜ」  そして、ブルースの背中に格納されていたライフルを取り出し、撃ち放った。  タタタタ! と軽い音が響く。その一発一発はどれも敵リリーファーの装甲に衝突しているはずだが、しかし命中しているようには見えない。命中しているように見えないからこそ、彼の不安はさらに増幅される。 「何故だ! 全弾命中しているというのに!」  ――邪魔。  その時、彼の耳にはっきりと声が聞こえた。  透き通った、静かな声だった。  しかし真っ直ぐとしたその声は、確かに彼の耳に届いていた。 「ハル、何か言ったか!?」 『何も言っていないわ! それより、敵リリーファーが向かってきている! 一旦後ろに下がって!』 「違う、そういうことじゃない!」  ――ここまで話して、ダイモスは理解した。  あの声はハルではない。  でも、スピーカーを通して話すことが出来るのはオペレーター以外にはハルしか居ない。オペレーターは有り得ないと考えても、ハルの声ではない。  ならば、誰の声なのだろうか?  誰の声が聞こえたのだろうか?  ――邪魔。  再び聞こえる声。 『ねえ、ダイモス! 何か聞こえなかった?』  今度はハルも聞こえたらしい。 「ああ、聞こえている。……だが、どこから聞こえる物なんだ?」  その時だった。  敵リリーファーを中心として、音が弾けた。音の波が押し寄せてきたのだ。  空気の振動が直にコックピットにも伝わってくる。  彼らはこのような武器の存在を知らなかった。だから、焦っていた。 『どうした、ブルース、リズム! 応答せよ!』  オペレーターから声が聞こえる。 「こちらブルース! 敵リリーファーから音波の攻撃! このような武器なんて搭載されているのか!?」 『こちらコントロール、それはほんとうか!? こちらとしても攻撃の正体が掴めない! ザザ……とにかく今は……ザザッ……』 「おい! まともに聞こえないぞ、通信状態はどうなっている!?」  唐突にスピーカーから聞こえるオペレーターの言葉が聞こえづらくなってきた。  それは音波の攻撃が原因なのかもしれない。 「外部からの声を遮断か……。気に入らねえなあ、気に入らねえ。そんな狡っからいことをして、つまらない人間だよ」  ダイモスは耳を押さえていた手を離し、苦悶の表情を浮かべながら、リリーファーコントローラをゆっくりと、強く握る。  ゆっくりと、ブルースが動き始める。  逃げることなどしない。  敵に背中を見せることなどしない。  ただ、前を進むだけだ。 「行くぜ、ブルース。最後まで、突っ走ろうぜ」  ダイモスは言う。それに呼応して、ブルースは動いていく。 「……なんて愚かなの。ほんとうに解らない」  声が、はっきりと聞こえた。  それは彼の耳に伝わった。  スピーカーを通して、電気信号を介して、伝わったものではない。  ほんとうに、温かみのある、そんなものなど介していない、声。  それが彼の耳に伝わった。まるで耳元で囁いたかのように。 「何……だ?」  その声を聴いたダイモスは、呆気にとられてしまった。  それに呼応するようにブルースは停止する。 『ダイモス! 急いで戻って!!』  ハルの呼びかけに彼は答えない。  ダイモスはその声に耳を傾ける。しかし、身体が動かない。動こうとしないのだ。 「これが……武者震いってやつかよ……」  ダイモスは笑みを浮かべる。だが、それだけで解決するものでもない。  こんなことをしている場合ではない。こんなことをして、なんとかなる場合ではない。解決するはずもないのは、幾ら彼でも理解していた。  けれど、身体が動かない。あれ程動かそうと必死になっていたリリーファーが、今はうんともすんとも動かないのであった。  これが、恐怖か。 ダイモスは考える。圧倒的境地に立たされた、圧倒的恐怖。それはこのことを指すのか、と。 「あなたはとても強い。だが、それゆえに未熟だよ」  ゆっくりとリリーファーが近づいてくる。その間にも彼の耳には、声が伝わってくる。  スピーカー越しの声ではない。  生の声が、そのまま耳元で囁かれているかのよう。  その間にも、敵リリーファーとの距離は限りなくゼロに近付いていく。  もう、ハルの言葉は届かない。  もう彼女の言葉も聞こえない。  だからといって彼は、あきらめることなどしなかった。 「……で? 誰だか知らねえけど、何をするつもりで? まさか、このまま話し合いで、問答で決めようなんて言わないだろうね」 「それなら充分いいのだけれどね。私たちが求めているのはあくまでも『資源』だから。限りあるこの世界で生き抜いていくために必要なものだからね」  私たち、と言った。それはつまり複数の人間が居る、ということにもつながる。  彼は話を続けた。  敵の目的を聞くために。  彼は核心を突く。 「……つまり、あれか。君たちもまた、あの『無限資源』を求めているということになるわけだな?」  一瞬、沈黙があった。  その隙にダイモスは攻撃しようと考えたが――。  しかし、その時にはもう遅かった。 「無限資源……。ええ、その通りよ。無限資源は世界で一番重要になるからね。でも、それ以上に『あれ』は人間よ。資源というだけの価値があるわけじゃない。もっと、それ以上の価値があると考えている」 「それ以上の価値……? 何を言っているんだ、お前たちが手に入れたいと思っているのは、無限にエネルギーを作り出すことが出来るリリーファー、『インフィニティ』のことだろ?」  それを聞いた相手は一笑に付す。 「まさかあなた、それを誰から聞いたか知らないけれど、鵜呑みにしているつもりかしら? だとしたら滑稽な話ね。これ以上滑稽な話を聞いたことが無いわ! ああ、笑っちゃう」  相手――おそらく女性は、それを聞いて満足そうに笑みを浮かべた。浮かべたことが確かかどうかは不明瞭だが、少なくともそうしただろう。そう、彼は思っていた。  それを見た相手はさらに話を続ける。 「間違っていると思っている? あなた、ある人から聞いたことは凡て事実として受け取っているのではなくて? だからこそ、ここで齟齬が生じている。そしてそれに疑問を抱いている。だからこそ、明確な否定が出来ない。そうでしょう?」  そうなのだろうか。  少なくとも、今のダイモスには解らなかった。  女性は溜息を吐く。 「……これでお仕舞いにしましょう。私もそう時間があるわけじゃなし」  そして、リリーファーは走り出す。 「クソッ! 動け、動けよ!」  しかしダイモスの乗るリリーファーは動かない。未だ何かあるというのか。 「動かないのは当然のことよ。だってあなた――『リリーファーに嫌われている』もの」  その声を聴いたと同時に、敵のリリーファーはブルースを横目に通過していった。  ダイモスはその言葉の意味が理解できなかった。  ――リリーファーに嫌われている。  それはいったいどういうことなのだろうか?  しかし今の彼が考えても解らないことだった。 「ダイモス! ……ここは私がどうにかしないといけないみたいね!」  そう言うとリズムは右手を差し出した。  それと同時に地面が競り上がる。そしてそこに格納されていたものが明らかとなった。  そこに格納されていたのは小さな倉庫だった。完全に出ると扉が開かれ、中からあるものが出てきた。  ライフルのようなものだった。  そもそも、ブルースとリズムはその大きさの都合上、巨大な武器は格納できない。せいぜいナイフ程度のものならば、収納することが可能だが、それ以上となると難しい。 「食らいなさい!」  ブルースはそれを掴み、構える。  敵リリーファーは凄まじい速度で走り、真っ直ぐにリズムのほうへと向かってくる。  その光景に――緊張感を覚えない人間等居るはずもない。  おびえてしまっていたのだ、彼女は。  この光景に、見慣れない光景に、おびえてしまっていた。  だから、リリーファーが向かってきていても、それを構えたとしても、そのナイフをリリーファーの肉体に突き刺すことだって、そのライフルで弾丸を放てばリリーファーの装甲だって破壊することが出来ることも解っている。  解っているのに、その最後の一歩が踏み出せなかった。 「……やっぱり弱いね、あんたたち」  その声を聴いた最後――彼女の意識は途絶えた。  恨みなのか憎しみなのか悲しみなのか解らない、呪詛を唱えながら。  崇人は眠っていた。  辺りが騒がしくなっているというのに、それでも彼は眠っていた。  そんなときだった。  部屋の壁が閃光で吹き飛び、爆発音と煙が彼を強引に現実世界へと呼び覚ました。 「……ごほっ! 何だ、これ!」  軽く咳き込むと、彼は事態を理解する。  目の前には、巨大な顔。――リリーファーの顔があった。  もう煙は外から吹き込んだ風によって流されていた。 「リリー……ファー?」  顔にあるカメラのフォーカスが一致する。 『タカト君、この世界を知りたくないかい?』  スピーカーから発せられた声を、彼は聞いたことがあった。だが、思い出せなかった。  しかしどこか懐かしい声であることは確かだった。  崇人はそのリリーファーを見て、立ち尽くしていた。 「タカト、止まって!」  だが、背後からマーズの声が聞こえて、彼は踵を返す。  鉄格子の向うに、マーズは立っていた。 「ダメ。そっちに行ってはいけない。いけないのよ」 「何を言っているんだよ。みんな冷たい状況で。まるで僕を必要としないようだ」 『そう。そこにいる人間はあなたを利用するだけに過ぎない。説明もせず、ただあなたを使おうとしているだけなのよ』  マーズは舌打ちする。  どうやら声の主が誰なのか解るらしい。  そして、リリーファーに向かって攻撃が放たれる。 『さあ、急いで。……案外、戦力も強いみたいだけれど。この世代のリリーファーにはかないませんよっと』  若干軽い感じの口調になったが、それでも目の前に居るリリーファーは崇人を乗せようとする。  遅れて、シンシアがマーズの横に到着した。 「タカトさん! リリーファーに……リリーファーに乗るつもりですか! あれ程の被害を世界に負わせておいて! また、あれ程の被害を!」 『さあ、タカト・オーノ。選択しなさい。選択の自由だけはあなたに与えてあげる。踵を返したままそちらへ向かうと、奴隷生活が続き不自由な暮らしとなる。そしてこの世界について知らないまま終わる。だが、私たちについていけばまずそのような扱いではなくなるし、この世界に何があったのかすぐに教えてあげる。さあ、選びなさい』 「そんなことは戯言に過ぎない! さあ、タカト! こっちに来なさい!」  マーズの声は徐々に怒りの籠ったものとなりつつあった。  対して、リリーファーの声はやさしく語り掛ける。 『かといって、あなたにした仕打ち……覚えているかしら? 冷たかったわよね。まるで、「ここに必要としていないけれど、取り敢えず置いておこう」みたいな感覚じゃなかった?』  確かにその通りだった。  それは間違っていなかった。 「――もう、いい」  だから、拒絶した。 「……え」  マーズはそれを、理解できなかった。理解したくなかった。  崇人は踵を返し、ゆっくりと、しかし確実に、一歩ずつ、リリーファーの元へと向かっていった。 「タカト……タカトォ……」  マーズが呪詛のように崇人の名前を呟くが、それが彼に聞こえることは無い。  崇人がリリーファーの前に着いたのを確認すると、顔の横――人間で言えば耳のあたりだろうか――が開いた。 「……ここに入ればいいのか?」  返事は無かった。  迷うことなく、躊躇うことなく、彼はその中へと入っていった。  そしてハッチは閉められ、リリーファーは任務を終えて満足したかのように、踵を返し、立ち去って行った。  それをマーズたちは、ただ茫然と眺めるだけだった。 7  崇人が目を覚ました時、彼は病室のような部屋に居た。  その病室は青白い光が窓から溢れており、一人が眠る部屋にしては巨大だった。  半身を起こし、彼は部屋を見渡す。彼の眠っていた部屋は、ベッド以外何もおかれていなかった。まるでそこには元々何も無かったかのように。 「目を覚ましたかしら」  気づくと、彼の横には、一人の少女が座っていた。無表情に本を読んでいた彼女は、彼が半身を起こしたことに気がつくと、本を読むことをやめた。  金髪のツインテールが特徴的な少女だった。その金も、青白い光を浴びて若干透き通っているようにも見える。  彼が注目したのは彼女が着ている服装だ。全体的に黒をベースにした服となっているが、その服は彼が見たことあり、また、よく着用していた服そのものだった。 「君は……起動従士なのか?」  崇人の言葉に、少女は静かに頷いた。 「十分後にまた来ます。そのときは、恐らくリーダーも来るでしょう」  唐突に。  彼女は立ち上がり、それだけを告げた。  崇人がそれを理解しないうちに(要するに言い逃げという形だ)、彼女は去っていった。  彼女がいなくなり、崇人はほんとうに一人ぼっちの空間におかれることとなった。  一人の方が寧ろ思考的に、かつ素直に物事を見ることが出来る。そういうことを言っていた学者がいたことを、崇人はふと思い出す。だが、今ははっきり言ってそのようなことをしている場合ではない。  あのときは、ただこの世界におかれている状況を知りたかったがゆえに、あのリリーファーの声を受け入れた。  だが、今は、その選択で良かったのだろうか? と早くも悔やみ始めていた。  悔やんだからといって過去が変わるわけではない。その選択に沿った未来を歩んでいくしか無い。  だが、未来の方向性は今からでも変えることが出来る。  今からでもまだ遅くは無かった。  この世界がどうなってしまったのか解らない。もし自分のせいでこうなってしまったのであれば、自分の力でまた元に戻していきたい――そう考えていた。  十分という時間は彼にとってあまりにも短く感じられた。  扉が開かれ、入ってきたのは白のコスチュームを身に纏った女性だった。茶がかったショートヘア、桜色のような唇――。コスチュームさえ違えば、どこかのモデルではないかと思う程のプロポーション。  そんな女性が黒いサングラスをつけて、彼の前に立っていた。彼女の傍らには、先ほどの起動従士がこじんまりした姿で立っている。 「先ずは、おはようございます……でいいのかな? タカト・オーノくん。君は十年物間眠っていたのだよ。その時間は君にとっては長い時間かもしれないが、世界にとっては短い時間だった。何せ、その十年という間に起きるべきではないことが連発したからね」 「……十年?」  崇人はその言葉の意味を理解できなかった。  しかし、その年数も、聞いてしまえば状況と合致する。たとえば、十年で光景があまりにも変化してしまったこと。さらに、人々の容貌が変わってしまったこと。ほかにもたくさん考えられることはあったが、そのピースが凡て繋がっていく。 「そう、十年。あなたにとってそれは一瞬だったでしょう。だって、赤ん坊が揺(ゆり)籠(かご)の中で眠るような心地良さだと聞くからね。精神の眠る庭……リリーファーとの融合というのは」 「リリーファーとの融合? ……ちょっと待て。何を言っているのか、さっぱりわからないのだが」 「やはり覚えていないか。魂の乖離って難しいものがあるね。伊達に『大災害(インパクト)』の中心に居たわけではないか……」  ぶつぶつと呟くが、その言葉の凡てが彼にとって理解できないものだった。  傍らに居た黒い少女が語り掛ける。 「リーダー……それじゃ、タカト・オーノが理解していない。知識を伝えただけではなく、時代の情報も必要となる」  それを聞いてリーダーと呼ばれた女性は頷く。 「うん。それもそうだね。確かに君の言う通りだ。私ばかり話すのは忍びない。しかし彼は十年間知識の蓄積を断念している……いや、正確には断念させられている。そういうことなのだから、私としても助けてあげたいわけだよ」 「それは。昔、一緒に戦っていたからということから?」 「そうかもしれないね」  リーダーは頷く。 「昔……一緒に?」  崇人はその言葉に反応する。  リーダーは微笑んで、サングラスを外した――。  その目を見て、彼は思い出した。ハリー騎士団の、女豹と名高い起動従士の名前を――。 「久しぶり。タカト」  そこにいたのは、コルネリア・バルホントだった。  コルネリアがリーダーを務める組織、『レーヴ』は規模数十人の小さな組織である。実態はそれだけとなっているが、実際には彼女たちの思想に賛同する組織と協力しており、それを含めると数倍にも勢力は膨れ上がる。  彼女たちの目的は大きく言って、たった一つ。 「ハリー=ティパモール共和国から国民を解放すること。それが私たち、レーヴの使命」 「……まさか、ハリー騎士団がそんなことになっていたとは。それも十年というたったそれだけの期間で」  崇人とコルネリアは階段を上りながら話をしている。なぜこんなことをしているかといえば、コルネリアが誘ったためである。先ずは景色を見せたほうがいい、という彼女の意向からだった。  しかし崇人にとってもそれは好都合だった。百聞は一見に如かず、とはよく言ったものである。何度も話を聞くよりも見てしまったほうが早い。先ほどの会話でそう感じ取ったのである。 「さあ、着いたよ」  重々しい扉が、彼女たちの前に姿を現した。 「ここって、あまり開けることが無いのか?」 「まあ、そうだね。あまり開けたがらないんだよ。やはり、十年前の大災害で家族を失った人もいるからね。はっきり言ってそういう人間たちにとって、インフィニティと君は恨みの対象になっている。今は私が居るからいいかもしれないけれど、一人で歩いていると後ろから背中を刺されることだってあるかもしれない。君に自覚が無かったとしても、君はそれ程のことをしたんだからね」 「……僕はいったい何をしたんだ?」  崇人は俯いて、コルネリアに訊ねる。 「……私も情報を提供されただけだから、はっきりとは言えないけれどね。私が知っている限りの情報を告げるならば、あれは『暴走』だ」  端的に述べた。  コルネリアの話は続く。 「暴走だけなら未だ何とかなったのかもしれないが……問題はここからだった。インフィニティは暴走し、突然『扉』を開いた」 「扉?」 「この世界の宗教について、タカト、君はどこまで知っている?」  唐突に質問され、若干ながら焦りが出る崇人。  それを見てコルネリアは自動的に判断する。 「……一切聞いたことが無い、ということでいいかな?」  その言葉に崇人は頷く。 「それじゃ、話すよ。少々長くなるかもしれないが、それに関しては許してくれ」  そう前置きして、コルネリアは話を始めた。  それはこの世界の宗教の話。  今はもう――ほとんどの人間が信じていない、偽りの神様のお話。  ◇◇◇  神様は何もない空間に、こう言いました。 「光、あれ」  この言葉によって、何もない空間に一筋の光が生まれました。その光により、影が生まれました。  次に神様は水をつくりました。水に命の素を混ぜました。その命が住む場所を制限するように陸地をつくりました。  陸地をつくった神様は、世界を管理していくために、自らの虚像を作り出しました。  虚像は一体だけでしたが、その力は凄まじく、あっという間に神様の仕事を熟していくようになりました。  神様がそれを見て安心したころ、漸く水に変化が訪れました。  命の素が作用し、生き物が生まれ始めたのです。はじめは小さなプランクトンでしたが、徐々にその大きさが巨大化し、それに比例するように生き物の数も増えていきました。  それを見た神様は大喜びして、その世界を生まれた生き物たちに託すことにしました。  しかし、保険も用意してあったのです。  その保険を発動させるためには監視役が必要でした。ですから、神様はこの世界から少しだけずれた世界に監視するための空間を用意しました。  神様はそれを箱庭と言いました。箱庭は白だけの空間であり、その構成要素は白でしかありません。また、見えにくいだけであって、その空間は有限です。いつかは必ず終わりが来ることを示しているのかもしれません。  いずれにせよ、神様はその空間で世界を監視し始めたことに変わりありません。神様はこの世界の管理に全力を尽くすのでした。  ――しかし、神様にも限界はあります。人々よりもゆっくりとしたペースではあるものの、寿命という概念も存在します。神様は世界をつくってから、徐々に徐々に、力が弱まっていったのです。  そんな中、世界では内乱が起きていました。人も動物も、凡て駆り出され、無意味に命を落としていく――そんなつまらないことが起きていました。  神様は嘆きました。世界を作ろうとしたのに、作ったあとに監視を続けていたというのに、信心深い人間ばかりだと思っていたのに、どうしてこのようなことになってしまったのかということについてです。神様はそれが理解できませんでした。なぜこんなことが置いてしまったのか、正確に言えば、理解したくなかったのでしょう。  そして神様は涙を拭いながら、この世界に残された『最終兵器』を起動しました――。  最終兵器が起動する瞬間、扉が開きました。空に扉が開いたのです。それはまったくの比喩ではなく、ただ、単純に。扉がゆっくりと開け放たれていきました。  それに注目する人間や動物が大半でした。動物によっては扉の中に向かって吠えているのもいました。きっと、扉の中から何かが来ることを悟ったのかもしれません。  そして、それは――やってきました。  扉の向こうからやってきたのは、その世界に住んでいた人間が今まで見たことのない、異形でした。異形というよりは、一部が変形してしまった人間のようにも見えます。  その形について、語ることは出来ません。なぜならそれにより、大半の人間は食い殺されてしまったのですから。  そして食い殺していった異形は満足するように笑みを浮かべると、閉じていく扉の向こうへと消えてしまいました。  最終兵器とは、とどのつまり、増え続けてしまった人類を減らすためのものだったのです。そして今もなお、最終兵器はその時を待っています。神様の力が薄れ、観測者としての立場を自らが作った人形たちに渡したとしても――。  ◇◇◇  昔話を語り終わったコルネリアは少し満足げに微笑んだ。  崇人はまだ理解できず、首を傾げていた。 「理解できないのも当然かもしれない。僅か十年の間と思うかもしれないが、私たちにとっては長い間だった。長い間、世界にはさまざまなことが起こり、さまざまなことが終わっていった。その一例が、これ。ヴァリエイブル連合王国の勢力弱体化及び新興勢力の台頭……」 「ヴァリエイブルは今、どうなってしまったんだ?」 「具体的に言えば長くなるけれど」  そう但し書きして、コルネリアは話を続けた。  ヴァリエイブル連合王国は、そもそもヴァリス王国、エイテリオ王国、エイブル王国の三国に分かれていた。  しかし十年前、正確に言えばインフィニティが『扉』を開いてから、ヴァリエイブルは内部分裂を起こした。  具体的にはエイテリオ王国がヴァリエイブルからの独立を発表。さらにエイブル王国も独立派と留保派で分裂し、独立派のクーデターによって首都を含む北部地域が北エイブル王国として独立を発表する。  残されたヴァリス王国及び旧エイブル王国の一部により新生ヴァリエイブル連合王国が生まれたが――しかし、それだけでは終わらなかった。  ティパモールを中心として、ハリー騎士団の面々がティパモールの人間と手を組み、ハリー=ティパモール共和国を建国したのである。ヴァリエイブルはそれに賛同しなかったが、エイテリオ及び北エイブルはそれに賛同し、正式に国家として認められることとなった。  それについて異論を唱えるのは、ハリー=ティパモール共和国に住むヴァリエイブル派の人間である。彼らはヴァリエイブルとともに生きようと考えていた。にもかかわらず、勝手に、意見を取り入れることなく、彼らはヴァリエイブルから独立した。  それを許せなかった。民衆の意見も聞かないで何が共和国だ。共和国は国民全員が所有していて、国民全員が政治に口出しできる権利があるはずだ。  そうして生まれたのが、反政府組織『レーヴ』である。 「レーヴ……まだ規模は小さいかもしれない。けれど私たちの意志に賛同する人間はまだまだこの国にたくさんいる。そのためにも、私たちは戦わなくてはならない。この国から、人々を解放するために」 「人々を解放……ねえ。いや、別に悪い意味で言っているんじゃない。ただ、どうして……なのかな、と。この国に不満を持っていない人間だってもちろん居るわけだろう? そういう人間の意見を無視することになるんじゃないかな……と思うのだが」 「はっきり言って、この国で『独立』を考えていたのは上層部だけよ」  端的にコルネリアの口から結論が述べられた。 「上層部……?」 「旧ハリー騎士団。それも、マーズ・リッペンバーが主導となって行っただけのこと。それに賛同した一部の人間が政府を形成し、現在に至る……。これがハリー=ティパモール共和国の全容よ」 「マーズが……そんなことを?」  その言葉にコルネリアは頷く。 「マーズがなぜそのようなことをしてしまったのかは解らない。まだはっきりとその理由を掴んでいないから。けれど、これだけは言える。彼女はきっと、何か理由があって、あのことをしているのだと。だが、そうだとしても、彼女があの国の代表でいる以上、レーヴは彼女を許さない」  その言葉とともにコルネリアは扉にかけられた鍵を開けた。  そして、ゆっくりと扉が開かれていく――。  そこにあったのは、赤だった。  一言で言えば、それだけだった。  建物、電柱、砂浜が赤になっており、おそらく水があっただろう場所は涸れている。  十年前に彼が見た光景とは違う世界となっていたのである。 「これは……いったいどういうことだよ?」  コルネリアは溜息を吐く。 「簡単に言えば、これは最強のリリーファーの成り損ないだよ」 「成り損ない……だと? これがすべて、インフィニティになる予定だった、ってことかよ」 「違う。インフィニティをさらに超えるリリーファーの存在だ。インフィニティよりもより良い性能を求めた。だが、失敗した。これがそのなれの果てだよ」  崇人にはコルネリアの言っているその言葉、その意味が理解できずにいた。  いや、そもそも。  どうして彼女はそのことを知っているのだろうか。 「なあ、コルネリア。どうしてあんたはそれを……」 「次にあなたに見てもらいたいところがある。さあ、来てくれる?」  崇人の言葉を無視する形で早々に扉を閉めるコルネリア。  それは崇人に「まだ知られたくない何か」があるのではないかと勘繰らせる程だった。  いや、もしかしたら。  わざとそのような行動をしているのではないだろうか?  そう勘繰ってしまう程である。あまりにも、あからさま過ぎる。  どちらにせよ、ここでは彼女に従うのがいいだろう――そう考えた崇人はコルネリアの指示に従うため、頷いた。 「レシピエン・システムリブート。起動従士(パイロット)の精神状態、安定」  次にコルネリアに案内されたのは、コントロールルームと呼ばれる場所であった。コルネリアの後を追うように自動ドアからその部屋に入ると、一同、コルネリアのほうを向いて敬礼した。  そして何事も無かったかのように、作業を再開する。 「ここは……?」  コルネリアは崇人の言葉に頷く。 「ここはコントロールルーム。リリーファー及び起動従士の確認を行う施設。はっきり言って、ハリー=ティパモール共和国(あそこ)とは違うだろう?」  とは言われたものの、そもそも崇人は一度も見ていないのでよく理解できない。  しかしながら、十年前に比べると施設そのものが……その技術が落ちたように思える。 「十年前の災害は、それ程すごかったということだよ」  コルネリアはコントロールルームを一望できる高台の椅子に腰掛ける。  崇人は取り敢えずコルネリアの後ろに立っていたが、すぐにコルネリアは気付き、後ろにあった椅子を指した。 「別にここは、あそこと違って奴隷のような待遇をしないつもりだよ。ただ、気を付けてくれ。さっきも言ったかもしれないが、あの災害を引き起こしたのは君だと思っている人が大半だ。いや、実際インフィニティに乗っていたのは君だから、君以外の誰がやったのだという話になるが……いや、それは今語るべきことではないだろう。まあ、とにかく先ずは腰掛けて」  その言葉に従って、彼は腰掛ける。  コルネリアはテーブルにいつの間にか置かれていたコーヒーを一口啜る。そして中空を見上げる。何か考え事をしているようにも思えた。 「ここ十年でリリーファーのシステムが変化したことについて、語る必要があるだろう。ただし私は科学者ではない。表面的にしか語ることが出来ないからそのつもりで」 「表面的、ねえ……。まあ、そこまで詳しく語らなくてもいい。でも、普通にコントローラを使って操作するんじゃないのか?」 「それはあくまでも、ハリー=ティパモール共和国……俗にいう『旧式』のリリーファーはそうなっている。私たちが使っているリリーファーはそれとは違う、『新式』と名付ければいいでしょうね、そういうリリーファーはコントローラを使う必要性が無いのよ。まったく新しいシステムと言っても過言では無いくらいにね」 「……何だと?」 「レシピエン・システム。どこかの言葉で『器』を意味するそうだよ。起動従士がリリーファーに乗り込むと、精神と肉体を分離させる。さらに精神から『魂』を取り出し、それを器の中に収納する。それにより、リリーファーは魂を得ることが出来る……。はっきり言って、私にはこれしか言いようがないな。これが間違っているのかどうかは解らない。ただ、開発をした人間が言った説明を……十年間眠っていた君に解説するにはこういう言い方でないと出来ないというのが現状だ」 「器? 魂? ……つまり、魂をリリーファーに定着させるということか?」 「そういうことになるな。ただ、そのためにはちょいと必要なものもあるが」  そう言ってコルネリアは自らの頭をとんとんと叩いた。 「どういうことだ?」 「条件として――『Q波』がニューロン上に出現する必要がある。そしてこのQ波は……成熟した大人にはあまり出ないらしい。あまり、というよりも確実に出ない。出る可能性もあるらしいが、どちらにせよ、旧式を使った私にはQ波は出ないという結論がいたっている」 「旧式を使った人間と、大人には、Q波が出ない……となると、まさか……」  そのまさかだよ、とコルネリアは言った。 「Q波が出現する、即ち新式リリーファーを使用することが出来るのは八歳から十三歳までの子供だけ。それ以上はQ波が出現しても、魂が器に定着しないとのことだ」 「リーダー、起動従士エイムス・リーバテッドのシンクロテスト、終了しました」  オペレーターからの言葉を聞いて、コルネリアが身を乗り上げる。 「了解。指数は?」 「四十七パーセントです。……はっきり言って、まだまだかと」  シンクロテストとか指数とか、よく解らない単語が並んでいて理解できなかった崇人だが、取り敢えずその会話があまりいいものではないことだけは解った。  コルネリアが再び腰掛ける。それを見計らって崇人が質問をした。 「ということは……新式をつくるために多数の人間が必要だったのではないか? 研究者、技工、それに起動従士。それはどうやって集めたんだ?」 「研究者はただ一人で充分だった。イーサン・レポルト。後で君にも会わせてあげるよ。彼は興奮していたからね……。最強のリリーファー、それを操縦する起動従士とあることが出来ると」 「……いったい、何機のリリーファーがあるんだ?」 「ざっと十機ね。コアが完成していないのを除くと六機かしら」  国でも無い、一部隊ともいえる存在が、これ程までのリリーファーを所有しているというのか。 「あとで起動従士にも会わせてあげるつもり。あなたはここの戦力になってもらうのだからね」 「……また戦争が起こる、と」 「いつ起きてもおかしくない状況よ。十年前の災害はそれ程迄に混乱を生み出した。人々は死に、泣き叫び、そして惑った。世界はどうなってしまうのかと思った。だけれど、それでも人間ってしぶといものね。十年でここまで回復してしまうのだから。まあ、あなたが起きてしまったことで、少しばかり、情勢が変わりつつあるけれど」 「それって、つまり」 「あなたは最強のリリーファーを操縦する、唯一の人間なのよ? そのリリーファーは今のハリー=ティパモール共和国みたく電源として使うもよし、私たちみたいに戦力として使うもよい。戦力として使った瞬間、その世界の勝者はほぼ決定すると言ってもいい。あなたはそれ程の存在であるということを、まず自覚するところから始めたほうがいいかもしれないわね」  なぜか後半怒られているような雰囲気になってしまったが、実際問題、理解していないのだから致し方ない。  そもそも、現時点でこの世界についてあまり説明してくれる人間が居なかった。コルネリアは確かに説明してくれた。マーズよりは、この世界について説明してくれた。しかしそれもほんの僅か。あとは戦力になってほしいという要望に過ぎなかった。  結局、こうなってしまうのか。崇人は思った。  そもそもこんなこと、最強のリリーファー――インフィニティの起動従士になった時点から確約されていたことじゃないか。  何も間違っては無い。何も間違って等いない。  崇人はそう思った。  だから今は、コルネリアの指示に従おう――と思うしかない、のであった。  シンクロテストを終えた起動従士、エイムス・リーバテッドは通路をすたすたと歩いていた。どちらかといえばその調子は軽やか、ではない。厳か、と言ったほうが近いかもしれない。 「聞いたわよぉ、エイムス。シンクロテスト、五割切ったって」  その言葉を聞いてはっと驚き振り返る。  そこに居たのは少女だった。ワインレッドのカラーリングをしたパイロットスーツに身を包み、オレンジ色のストレートロングを棚引かせる少女である。  しかし、ここにいるからもちろんのこと、彼女はただの少女ではない。  エイミー・ディクスエッジ。  彼女もまた、エイムス同様起動従士であった。  エイムスはエイミーの話を聞いて、表情を歪ませる。 「ぐっ……。そもそも、エイミーだって六割を超えたことが無いくせに。僕はたまに、六割を超えることだってあるよ」 「へえ……。じゃあ、超えてみせなさいよ。エリート起動従士サマ?」 「うるさいな。だったら君もシンクロテストを受けてみたらどうだよ。僕はもう疲れたからシャワーでも浴びて一眠りするからさ」  そう言って手を振って、エイムスは去って行った。  エイミーはそれを見て踵を返し、エイムスがやってきた方向――コントロールルームへと続く道を歩いていった。 「あら、エイミー。どうしたの、これからシンクロテスト?」  通路を歩いている最中、コルネリアとすれ違った。コルネリアは誰か一人連れていた様子だった。  エイミーは取り敢えず一礼。あんな口の利き方をしていたが、上下関係は守る彼女である。 「そういうコルネリアさんこそ、どうしたんですか?」 「彼に施設を案内させているのよ。彼、ここが初めてだから」  そういわれて、少年は頭を下げる。 「ふうん……。見た感じ私より年下みたいだけれど……起動従士なの?」 「ええ。それも旧式よ」 「旧式!?」  目を丸くするエイミー。  当然だ。新式が登場したのはここ二年のことであるから、見た目十歳の少年が旧式を使うには少々時間がおかしい計算になる。旧式を使うなら新式で訓練を積んだほうが容易だという意見もあるくらいなのだから。 「そう。追って彼の説明はするわ。……そうね、シンクロテストが終わったら集まって。ほかの起動従士にも伝えておくから。それじゃ」  そしてコルネリアと少年は去って行った。  それをただエイミーは茫然としたまま見送るだけだった。  エイミー・ディクスエッジがリリーファー『スメラギ』のコックピットに腰掛ける。  コックピットはリクライニングシートのような、ゆったりとした空間となっており、それが白いシールドに覆われていた。リクライニングシートの下半分――ちょうど腰付近の部分まではカバーが覆われている。 『スメラギ、レシピエン・システム、リブート』  コックピット内部に声が伝わる。それはコントロールルームのオペレーターの声であった。 「この面倒なやり取り、カットすることとかって出来ないわけ?」 『何を言っているの。確認こそ、大事なのよ。いつ何が起きてもおかしくないし。それに、あなたたちのためでもあるのよ』  すぐにオペレーターからの返事。地獄耳なのだろうか。呟く程度のトーンでしか話をしていないはずだったのに。 「はい、解りました。やればいいんでしょー、やれば」  適当な調子でオペレーターからの話を聞き、エイミーは目を瞑る。  ――自分の意識が、落ちていくのを実感した。  否、これは落ちているのではない。リリーファーと同化しているのである。リリーファーと同化することにより、起動従士はリリーファーの性能を引き出す。そうして戦うのが、今のリリーファーのシステムなのであった。 『レシピエン・システム、実行三十パーセント』  死刑宣告のように冷たい声でオペレーターから告げられる。 「まるで死刑宣告よね……」  彼女は口を動かすことなく、言った。これは同化がうまくいっている証拠だと言えよう。 『レシピエン・システム、実行五十パーセント』  徐々に、或いは確実に、システムは実行されていく。  低い、重い音がコックピット内部に響き渡る。あくまでもこのシステムはダミーであり、仮想空間上に行われるテストだが、実際にシステムは動く。リリーファーは実際に動くのだ。 『レシピエン・システム、実行八十パーセント。進行状況、きわめて良好』 「了解。レシピエン・システム良好」  オペレーターの声に従い、彼女は言った。  さらに重い音がコックピット内部に響く。パーセンテージが大きくなるにつれ、その挙動も大きくなるということだ。 『レシピエン・システム――実行百パーセント。完全起動に入ります。以後、シミュレートマシンシステムと連携します――』  そして、彼女の意識は――その後のシステムに飲み込まれていった。 「シンクロテスト、五十七パーセント……かあ」  エイミーはシンクロテストを行った後、廊下を歩いていた。  彼女が言っているのはメリアから言い渡されたシンクロテストの結果であった。はっきり言ってシンクロテストの結果はいいものとは言えなかった。だからこそ、彼女は落ち込んでいたのだ。  基本、シンクロテストにおいて『実戦でも安定して動作できる』限界が五十五パーセント以上。それを考えると一応安定動作の限界よりは高い数値を示しているが、それでもギリギリである。  あれ程、エイムスに大きい口をたたいたというのに――これでは示しがつかない。  エイムスとエイミーはライバル関係にある。とはいえ、別に二人ともお互いにライバルと思っているわけではなく、特にエイミーがエイムスにライバル意識を持っているだけのことである。 「エイムスに……言わなければいい話なのだけれど」  どうせ言われないのだから隠してしまえばいい。  彼女はそう思った。  だから言わないことにしておいた。――それが一番いいと思ったから。 「やあ、エイミー。どうだった、シンクロテストの様子は?」  ――そう思ったすぐに、どうして目の前にエイムスが表れたのだろうか。そう考えると彼女は溜息を吐くことしかできなかった。  目の前にエイムスが立っていた。彼の恰好は先ほどのようなパイロット用スーツだった。着替えるものがないわけではないが、いつ何が起きてもおかしくないということで、殆どの時間で起動従士はそのスーツの着用を行っている。義務ではない。あくまでも自主的に行っているのだ。 「……あなたにそれを言う義務でもあるのかしら?」 「あるよ。あれ程自信満々に僕のことを蔑んでいたのだからね。せめて……六割は超えたんだろうね? シンクロパーセンテージを超えて、余裕をもって戦えるのだろうね?」  それを聞いてエイミーは唇を噛んだ。  まさかそんなことを言われるなど思ってもみなかったからだ。  彼の話は続く。 「……まあ、いいや。今回、僕がここにやってきたのは君を呼ぶためだったし」 「私を……呼ぶため?」  首を傾げるエイミー。  その言葉にエイムスは小さく頷いた。 「そう。君を呼ぶため。もっとも、僕も呼ばれているのだけれどね。……二人ともコルネリアさんの部屋に来てくれ、とのことだよ。どうしてコルネリアさんがそんなことを言っているのか、僕にははっきりと解らないけれど」  エイミーとエイムスがコルネリアの部屋にやってきたのはそれから十分後のことだった。  コルネリアの部屋に来るのはこれが初めてではない。それに、彼女から呼び寄せられたということもまた、初めてではないのである。 「エイミー・ディクスエッジ、エイムス・リーバテッド、入ります」  ノックをして、コルネリアの部屋へと入る二人。  そこにはすでに黒いパイロットスーツを着ている女性、コルネリア、そしてエイミーが途中で出会った起動従士が居た。 「……どうやら全員集まったようね。それじゃ、説明を開始するよ。説明、と言っても簡単に言えばこちらにいる起動従士の紹介になるけれど」  そう言ってコルネリアは起動従士――崇人を指した。崇人は突然のことでどう対応すればいいのか解らなかったが、取り敢えず頭を下げた。 「……タカト・オーノだ」  その名前が放たれた瞬間――空気が凍り付いたような感覚に陥った。  当然だろう。彼女たちがその名前を忘れるはずがなかった。 「彼は……まあ、彼のことを知っている人間も少なくないだろう。あの十年前に起きた災害……その元凶とも呼ばれている。だが、彼はそういう存在である前に、起動従士だ。あの最強のリリーファー、インフィニティを使っていた」 「だから、呼び寄せた、と? もしかして政府から奪ってきた重要機密って……」 「そう。彼のことだよ」  それを聞いたエイミーとエイムスは何も言えなかった。  彼らにとって戦力が増えることはとてもうれしい。だが、それ以上に、タカト・オーノはこの世界をここまで破壊せしめた張本人であった。だから、彼らには怒りがあった。 「……はっきり言わせてもらって、その元凶と同僚として戦っていけるとでも? いくらコルネリアさんの指示でもそれは……。ねえ、エイムス?」 「え、僕?」 「そうよ。あんたもここに所属している起動従士なのだから。きちんと答えなさいよ」 「僕は……確かに、あんなことにしてしまった犯人が目の前に居るのはとても憎いですけれど……それ以前に戦力を増強する必要があるのは確かです。だって、いくらリリーファーが六機あるとはいえ、まともに動いているのは起動従士が決まっている三機だけです。これだけではいくらなんでも戦うのは難しいでしょう。ハリー=ティパモール共和国が所有しているリリーファーは我々の数倍とも言われていますから。それを考えると……」 「インフィニティの追加は妥当、ってこと!?」  激昂したのはエイミーだった。彼がまさかそんなことを言い出すとは思いもしなかったのだろう。  コルネリアの話は続く。 「……解った。そこまで言うのならば、こうしよう。どうだ、エイミー。タカトと模擬演習をやってみないか。タカトは旧式のリリーファー、君は新式リリーファーだ。もちろんタカトがインフィニティを連れ戻しても構わないが……。そんなことをするとここの存在がばれてしまうからなあ……。そういうことだからタカト、取り敢えず今回は旧式のベスパで我慢してくれ」  ベスパ。  彼にとってその単語はとても懐かしい響きだった。大会で乗ったことのあるリリーファーだったこともあるし、その後も何度見たことか。  それを聞いた崇人はゆっくりと頷く。 「……タカトはいいと言っている。これで君が勝てばタカトは戦力に入れない。同時にここからも消えてもらう。だが、タカトが勝った場合……戦力に加える。これでいいな?」 「ええ、いいわ。それで十分でしょう」  そして――エイミーと崇人の模擬演習、その約束が取り付けられることとなった。 8  二人が居なくなった部屋で、崇人は頭を抱えていた。  自分が何をしたのか漸く理解できたからこそ解る事実だが、おそらく衝突は避けられないと考えていた。コルネリアもそう言っていたからだ。  だが、まさか急に模擬演習をする羽目になろうとは――思いもしなかった。流石に予想外だったのである。 「……というか、コルネリア。あれは言い過ぎだろ。もし僕が負けてしまったら、どうするつもりだ? それこそその言葉の通り、ここから出ていかないといけなくなる」 「その時はその時よ。奴隷にしてインフィニティを呼び寄せて、ハリー=ティパモール共和国に脅迫してもいいかもしれないね」 「……それ、冗談のつもり?」 「いいや。まったく」  だと思った。  崇人はそう思うと何も言えなかった。確かに――とは言えないが、実際問題、彼女は十年前もこのような性格だったことを覚えているからだ。  だが、だからこそ、彼は安心したともいえる。この世界でみんな、崇人の知っている人間は別人のように変わってしまった。しかしながら、コルネリアは十年前と変わらなかった。それが彼にとって、とても嬉しかった。 「さて、問題は……いつそれをやるか、だね。いつ頃やる?」 「できれば一度ベスパのチェックをしたい。問題は無いのだろうが、確認だけでも」 「まあ、大丈夫だろう。話は通しておくよ」  コルネリアは机上に置かれた電話から受話器を取って、電話をかける。 「もしもし、私。――ええ、タカトがベスパを使いたいとのことだから。私も一緒にそちらへ向かうつもりよ。よろしくどうも」  簡単に用件だけを告げ、コルネリアは受話器を置いた。  それを聞いた崇人は、いったいどうしたんだ? と思った。 「タカト、向かうよ。これからベスパのチェックを許可してもらった。今からならいいと伝えてもらったよ。取り急ぎ向かうぞ」  そう言ってコルネリアは崇人の手を取った。  そして二人は走っていく。  整備場に置かれている黄色いカラーリングのリリーファー。  それがベスパだと一目で解ったのは、ベスパに乗る機会が多かったのと、ベスパを見る機会が多かったからなのだろう。 「まさか、十年経ってもベスパに乗ることになるとはなあ……」  崇人はベスパを見上げながら、そう呟く。  対してコルネリアは冷淡である。十年間、この機体を見ていたからなのかもしれない。 「コルネリア、ところでこの機体……もう完璧なのか?」 「どうかしらね。ちょっと聞いてみようかしら。……おおい、ちょっと。これを整備した整備技師は?」 「私です」  手を挙げた整備技師は女性だった。キャップから薄黄色のポニーテールがはみ出ている。眼鏡をかけているが、その姿には見覚えがあった。 「はじめまして……ではないですね。お久しぶりです。エイルです」 「エイル、さん」  崇人は思い出していた。  十一年前、『大会』の時――初めてベスパと出会い、その担当をしていた整備士。  それが彼女だった。 「……お久しぶりです」  エイルは右手を差し出す。崇人もそれを見て右手を差し出し、握手を交わした。  エイルは十年前と変わっていない様子だった。十年前と今、強いて違う点を挙げるとするならば、若さが衰えたくらい……ということを考えたところで、崇人は考えるのをやめた。これ以上考えていたら、エイルに悪いと思ったからだ。 「私は十年前こそ部下もいいところでしたけれど、今はリーダーを務めているんですよ。まあ、人員が足りないからこそリーダーになっただけなのですけれどね」 「成る程。あの時は、新人みたいな感じだったのになあ」 「ええ、正しく新人でしたよ? どのようなものでも十年、辛抱強く続けているとプロ級になると言いますからね。それは趣味でも変わりないですし。十年前から起動従士を続けてきた人は、十年で漸く一人前……という感じでしょうか」 「聞いたことあるな、それ。でも十年で一人前って何だか手間がかからないか? 中途半端、とは言わないけれど」  崇人はベスパの機体を触る。肌を通して冷たい感触が伝わってくる。  思い返す――十年前の出来事。 「大会の時、使ったなあ……。懐かしい。どうすればいいのか、覚えているかも不明瞭だ」 「十年前とは勝手が違うと思っています?」  その言葉を聞いて崇人はエイルの顔を見た。 「まさか、十年前と――」 「旧式のリリーファーを使う起動従士なんてそうはいないですよ。放置とは言いませんけれど、ほぼ十年前と変わらない状態を維持しています」  それを聞いて崇人は嬉しかった。自分が十年前使っていたリリーファーがそのままの姿で保存されているということ――それがとても嬉しかった。  エイルは手に持っている資料をぱらぱらと捲りながら、話を続ける。 「体長十五メートル、装備はアマトール弾を用いたライフル、巨大スタンガン、あとは……ナイフ、ですか」  それを聞いて崇人は落胆した。それしかないのか、とも思った。 「しょうがないのですよ。十年前と違って主流リリーファーが変わってしまった。使われないリリーファーに装備が伴わないのははっきり言って常識と言ってもいいでしょう」 「……まあ、それは仕方ないよな」  頭を掻きながら崇人は言った。  ベスパとスメラギの模擬演習はその日の夜に行われることとなった。  暗視ゴーグルを身に着けながら、リリーファーの準備が進められている。 「ところで……一つ気になることがあるのだが」  リリーファーコントローラに手を置いて、崇人は訊ねる。 『どうしました?』 「いや……、十年間も動かさなかったリリーファーがまともに動くのかと……」 『ああ、そういうことですか』  そういうことですか、と言われてしまった。 『それくらいなら問題ありませんよ。きちんとメンテナンスは行っていますから』 「そうか……。なら、いいんだが」  それを聞いて崇人は一安心した。  崇人はリリーファーコントローラを再び強く握る。 「まさかまたこれに乗る機会があるとはね……。人生って解らないものだ」 『タカトさん、エイミーのほうが準備整ったみたい。こっちは?』 「エイミー? ……ああ、僕と戦う起動従士か」 『もう、しっかりしてくださいよ。……ああ、でも名乗っていなかったでしたっけ。だったら忘れていてもしょうがないかもしれませんが。そもそも忘れているのではなくて、知らないだけですけれど』 「……十年でおしゃべりになった?」  崇人の言葉にエイルは首を傾げる――モニターに彼女の表情が写っているためだ。  エイルの表情を見て少しだけ崇人は不安になった。十年前にいた彼女と、今の彼女はまったく違っていたからだ。姿は少し成長した程度に留まっているが、その中身――精神的にはさらに成長を遂げているのだろう。 『……準備に入ったようです。そろそろ、出撃準備をすべきかと』 「解っているさ、解っているとも。……だがなあ」  何せ十年ぶりのリリーファーである。慣れるものも慣れるはずがない。寧ろリハビリの時を与えてほしいと思うくらいだった。少なくともはじめ崇人はそう思っていた。  ――だが、今考えてみると、それは少々違った。  リリーファーコントローラを握ると、十年前の記憶が蘇るのだった。あの血沸き立つ、戦いの過去を。  だが、それは彼にとって思い出したくない歴史でもあった。思い出したくないものは、人に掘り起こされたくないものでもある。 『――どうですか?』  まるでこの状況になることを解っていたかのように、エイミーは言った。  それを聞いて崇人は微笑む。 「ああ、順調だ」  ――そして、戦いの火蓋が切って落とされた。 9  演習の場所として指定されたのは岩山だった。隠れる場所が多く、戦いをするにはうってつけと言えるかもしれない、その場所。  崇人が乗り込むベスパの前には、新式リリーファー『スメラギ』がその姿を現していた。スメラギの表情は――そもそも無機物であるリリーファーに表情があるのかどうかすら不明瞭ではあるが――どこか笑っているようにも見えた。 「……十年で、ここまで変わってしまうのか?」  崇人はぽつり、呟いた。その言葉には、やはり理解することが出来ないという感情が込められていた。  彼は知らなかった。人も、物も、外見だけならば十年という期間はあっという間に変わってしまうということを。そして、人も、物も、中身が変わるには――あまりにも短すぎる時間であるということを。  ベスパとスメラギが対面する。スメラギの中に乗っている起動従士――エイミーは辺りを見わたすため、『スメラギの首を回した』。精神的に同調しているため、動きもリアルになっている。 「……成る程ね。精神的に同調している、ってわけか。まったく、僅か十年でそこまで進歩するものかねえ……」  崇人はそう言って小さく溜息を吐いた。  しかしながら、今はそのようなことを話している場合ではない。  今は――たとえ演習であったとしても――戦いのときなのである。 『それでは、これより模擬演習を実施します』  コックピットに声が響き渡る。それがエイミーの声であることに気付いたのは、それから少ししてのことであった。  そして、サイレンが鳴り響き――それから少しして、その合図が演習開始のものであると解った。 「……やるしか無いんだよな」  正直な話、彼はそれ程戦闘狂では無い。戦いたいという意志がある訳ではないが、今彼が生きるためには戦うしかないということだ。  彼はライフルを構え、岩山に隠れる。先ずは相手の様子を見る。それだけのことだ。  対してスメラギは最初からライフルによる猛攻である。  ドタタタタ! と撃ち放つライフル。その勢いは岩山を残さず破壊する程である。 「……あんなもの、どうやって倒せばいいんだよ」  崇人は呟きながら、スメラギの方を見つめる。  対して、スメラギ。 『あははははは! 所詮は十年前の古臭い生き方をしていただけはあること! さっさと潰してあげるわ!』  あえてスピーカーを通して言っているのは自信の表れなのだろう。 「……何だかなぁ。生き方について、改めてとやかく言うつもりは無いけれど、そこまで否定しなくてもいいんじゃないのか? それとも否定しなくてはならない理由でもあるのか?」  後者は半分冗談のつもりで――こちらもスピーカーを通して――諭すようにも見えた。  かといってこれに効果があるとはいえない。こんなものに効果があるのならば、さっさと世界は平和になっている。 「……はっきりとは解らないが、漸く調子を取り戻してきた、ってところかな? まぁ、だからといってこの状況が直ぐに改善するかと言うのは微妙なところではあるけれどね」  リリーファーコントローラを強く握り締め、崇人は呟いた。  ゴウン、と唸りを上げるベスパ。それは怒りを露わにしているようにも見えた。 「さあ、いっちょやりますか」  刹那、ベスパが動き出す。そのタイミングは偶然か必然かは解らないが、スメラギの放つライフルの弾丸が尽きたタイミングだった。  当然、武器を失ったスメラギに対抗の手段など無い。そのまま雪崩れ込む形で、ベスパはスメラギに襲いかかった。  そしてベスパは構えていたナイフをスメラギの首筋に充てて、呟いた。 「……チェックメイトだ」  ――その瞬間を見て、崇人の勝利ではないなどと言う人間は、誰一人としてありはしなかった。  ◇◇◇ 「流石だよ、崇人。十年のブランクを感じさせない程だ」  演習を終えた崇人を出迎えたのはコルネリアだった。  コルネリアに崇人は訊ねる。 「いいのか? 自分の国……いや、この場合は組織か? その起動従士を出迎えなくて。仲間だろ?」 「今日からはタカト、君も仲間だよ」 「いや、そういうことでは無いのだがな……」  崇人は気付いていた。遠くから、遥か遠くから突き刺さる冷たい視線を。そしてその視線がほかでもないエイミーのものであるということを。 「ほんっとにむかつく!」  起動従士には待合室が用意されている。各自の着替えスペースのほかに、共有して滞在することの出来る施設になっている。  その施設、中心に置かれているソファにエイミーが横になっていた。エイミーの表情はどこか不機嫌で、こういう時はあまり話し掛けないほうがいい。触らぬ神に祟りなし、とはこのことを言うのだろう。 「……まぁ、コルネリアさんも何か考えがあるんだと思うよ。そうでなければ、実際問題、利用しようなんて思わないよ」  だが、そんな険悪な雰囲気だったにもかかわらず放たれたエイムスの発言は、彼女の火にガソリンを撒いたようだった。 「それじゃ、私たちが使えないから……あんな『テロリスト』を呼んだわけ?」  正確には呼んだのではなく、奪ったと言ってもいいだろうが、そこまで言葉の定義を厳密に規定する必要も無い。  そもそも崇人がテロリストかどうか、世界的に決定したわけでもない。あれからもう十年は経過するというのに、未だそこについてはあやふやなのだった。  崇人をテロリストとして世界的に処刑すべきだと訴えるグループも居れば、世界がこのようになってしまったのは彼一人の責任ではない、彼を守るべきだと考えているグループも居る。人間の考えというものは、まさに十人十色だ。 「テロリストというのは言い過ぎじゃないか? 何せ未だ確定していない情報だよ。プライベートなら未だ兎も角、このようなオフィシャルな場所で発言するのはどうかと思うけれど? 監視カメラもあるから声も録音されているだろうし」 「……何よあんた、あのテロリストの肩を持つわけ!?」  とうとう怒りが抑えきれなくなったのか、エイミーは立ち上がる。そしてゆっくりと、エイムスのほうに歩く。  そしてエイムスの前に立って、彼を見下した。 「否定しなさい、さっきの発言を」 「さっきの発言……って? きちんと言ってもらわないと、何が何だか解らないんだよね。非常に申し訳無いことではあるのだけれど」 「あなた……!」  そしてエイミーの右手がエイムスの頬目掛けて繰り出された――!  ――が、彼女の一発がエイムスに入ることは無かった。  いや、それどころか。  彼は何か特殊なシールドで攻撃を防いでいた。限りなく透明に近い、薄ピンクの薄膜だ。 「……何よ、これ」  エイムスはシールドの中からエイミーをほくそ笑んでいた。 「薄膜、だよ。強いて言うなら人間が人間である形を維持するために用意された器、その第二障壁。尤も、人間にこの第二障壁が使えるわけでは無い。僕のように選ばれた人間で無くては」  形勢が、逆転する。  今までシマウマを追いかけていたライオンが、そのシマウマから致命的な一撃を受けたかのように。  彼女は今、完全に弱者のそれとなっていた。  エイムスは立ち上がる。それと同時にエイミーが仰け反り、ゆっくりと後退していく。 「あなた……、人間じゃないってこと?」 「人間じゃない、ということに関してははっきりと正確な解答を示すことはできない。だから、強いて言うなら『解らない』と告げるしか無いだろうね」  エイムスの発言は不明瞭なことばかりで、殊更彼女の不安を加速させていった。目の前に居る、気性の知られた人間が、実は気付かないうちに全くの別人にすり替わっていた……これが他人に起きたことだと伝承で聞いたならば、確実に笑い話の一つに入るだろう。  だが、今はそんなことを言っていられないこともまた、事実である。 「人間が人間としての地位を確立したのは、この世界ではどれ程の昔になるのだろうね。少なくとも、僕が知っている時代よりは昔のことになるだろうけれど」 「あなたは……人間ではない……。ならば、何者?」 「僕は人間ではない、って? だから言っただろう。その結論は不明瞭である、と。僕ですら、その本人ですら、僕の正体ははっきりと言い難いのだから」  そして、エイムスはエイミーに触れて――微笑んだ。 「僕の名前は『チャプター』だよ。シリーズより生まれし、番外個体。シリーズの行う任務を忠実に実施するための、僕(しもべ)とでも言えばいいだろうか。ともかく……そのような存在だよ」  エイムスの表情はどこか悲しそうだった。  直後、エイミーは恐れた。彼女と一緒に過ごしていた、一番の人間が、人間ではなかったという事実に。  エイムスの話は続く。 「チャプターはシリーズに比べればランクを一つ下げた状態にある。状態ということはその状態を一つ上に遷移すれば、それはシリーズと同義と言える。それが意味することは、人間には当然、解りもしないだろうね」 「あなたは……何を目的として、ここに潜り込んだの……?」 「僕かい? そりゃあ当然だ。……シリーズを神へと昇華する、そのために。ああ、言っておくけれど、僕は君のことを想って機密事項を封印から外したのだよ?」  エイムスは小さく頷いた。  エイミーはその言葉を聞いて、彼に従って頷くしかなかった。 「だが、だからといって、それを大っぴらに言ってもいいわけではない」  エイムスはエイミーの身体を、彼の方に引き寄せる。  絡めとられるような錯覚に襲われ、彼女は冷や汗をかく。  そしてエイムスは――ニヤリと笑みを浮かべた。 10 「これから、作戦会議を開始する」  会議場にて、多くの起動従士と崇人、それにコルネリアとオペレーター数名に、リーダー格と思われる屈強な男性が円卓に並んでいる。  コルネリアの声を一つの合図として全員は頷く。  その言葉と同時に、コルネリアの背後にあるホワイトスクリーンに何かが映し出される。それが地図であると理解するまでに、そう時間はかからなかった。 「今回、我々はハリー=ティパモール共和国に攻め入る」  コルネリアから発せられた、たった一言で、会議場の空気が凍り付いた。当然だ。誰もそんなことをするなんて思いもしなかったからだ。 「作戦は簡単。起動従士……エイミーとエイムスと……あとはタカトね。今回は三人を主軸として戦闘を行う」 「私も、後方支援を行うの?」  黒いパイロットスーツに身を包んだ少女――シズクは言った。  その言葉にコルネリアは頷き、話を続ける。 「ええ。その通りよ。だからこれはきっとそう難しいことじゃない。時間もかからずにすぐに終わることでしょう」 「終わることでしょう、って……。いったい、何を目的としているんだ? それくらい教えてくれないと、幾らなんでも出来ないと思うが」  苦言を呈したのは崇人だった。  その言葉を聞いて罰の悪そうな表情を浮かべたエイミーだったが、コルネリアがそれを宥めた。 「ええ、それについてもこれから説明するわ。……今回行ってもらうのは、インフィニティの奪還よ。今はハリー=ティパモール共和国のシステム、その根幹を担っているから、解除するのは難しいことかもしれないけれどね」 「インフィニティを……奪う?」  その言葉を聞いてコルネリアは頷く。  崇人は考えていた。確かに戦力になる。そうコルネリアは言っていた。そして崇人はインフィニティの起動従士だ。インフィニティを百パーセント使いこなすことが出来る――ということ以前に、現時点でインフィニティに乗り込むことが出来る人間が崇人しかいないのである。  とどのつまり。  インフィニティと崇人が一緒に居ることで、インフィニティに崇人が乗り込むことで、その性能が最大限引き出されるということである。 「深夜に出撃して、早朝作戦を開始する。そのためにも、今日は眠れないかもしれない。でも、充分に休息は取ってほしい。これから始まる作戦は、そう簡単な話ではない。いいえ、むしろ難しい話になる。それについても……きっと何人かは察しがついているかもしれないけれど、私たちの目的を達成するには、これが一番の道のりであることは確か。でも、その道のりはとても険しく、達成することも難しい。もしかしたら、死人が出るかもしれない。それは、初めに考えておいてほしい」  再び、会議場の空気が凍り付く。  それは先ほどのような状態なのではなく、考え込んでしまったから――だ。 「……それでは会議を終了する。諸君の健闘を祈る」  そして、会議は静かに幕を下ろした。 「……いい演説だったんじゃないか」  会議場に残ったのは崇人とコルネリアだった。コルネリアは残った資料の整理、崇人はそのコルネリアを待っていた。 「そりゃ、何年もリーダーを務めていればね。これくらいの話は出来るようになる」 「僕と戦っていた頃は『高嶺の花』って印象が強かった」 「……無駄口を叩きに残っているのならば、時間の無駄になるから休憩することをお勧めするよ」  コルネリアはそう言って資料を持って立ち上がる。崇人もそれを見て彼女の後を追う。 「違うよ。ただ僕は……まだ十年の間にあったことを聞き足りていない。そう思っているんだ」 「いいや。『破壊の春風』が起きて、文明が衰退した。そこからは小さな諍いがあったが、説明するほどでは無い」  崇人の好奇心や興味といった感情を、コルネリアは凡て否定した。  だからこそ、殊更理解出来なかった。そして知りたかった。十年という年月の間に、いったい何があったのかということについて。 「……ほんとうに聞いてもつまらない話よ。強いて言うなら、インフィニティの処分に激昂したマーズがリリーファーを用いて城を攻撃したことから始まった独立騒動とか……」 「マーズが、そんなことを?」  コルネリアの発言に崇人は首を傾げる。 「あの頃はみんな凄惨さに気持ちが追い付かず……、物事が正常に判断出来なかったのだろう。だからこそ、今のように派閥で別れるようになったのかもしれないがね」 「派閥、と言ったって……。ここにはコルネリア一人しか居ないんじゃ……」 「あら、彼女もそうよ。整備技師のエイル、彼女の腕は最高級よ。伊達に長くやってるものでもないわね」  コルネリアは資料の束を持ち上げたまま、ゆっくりと歩き始めた。崇人もそれに従って歩いていく。  並んで歩く二人だったが、その表情は堅い。十年ぶりになるのだが、十年ぶりの再会を喜ぶ暇など今の二人には無かった。 「……まあ、確かに積もる話もある。この作戦が終わったら話でもしようじゃないか。私の主観で良ければ、この十年で何があったか話すことは可能だ。ただ、それは廊下で立ち話をするときに使うような題材ではない。話が長すぎるからだ。一時間、二時間……或いはそれ以上かかってしまうかもしれない。逆にあっさりと終わってしまうかもしれない。けれどもそれは……誰にも解りはしない」 「作戦が終わったら……ほんとうだな?」 「あぁ、二言など無い。それまでには私も話すことを整理しておこう。そうしなければ話の流れが支離滅裂になってしまうだろうからね……」  コルネリアと崇人はある扉の前で立ち止まった。正確に言えばコルネリアが立ち止まったのを見て彼も止まっただけなのだが。 「ここまでで充分だよ、ありがとう。タカト、君も夜の作戦に向けて英気を養ってくれ」  コルネリアはそう言うと彼女の部屋の中へと入っていった。  さて。  そうなれば崇人も彼の部屋に行かなくてはならない。どうやらこの施設に来たとき最初にコルネリアと会ったあの部屋が崇人の部屋らしいのだが……。 「どうやって行けばいいかな、これは」  そう言って彼は頭を掻いた。  彼は知る由も無いが、この施設、増築による増築を重ねた結果、通路の太さが一定にならなかったり、蛇のようにくねくねと曲がっていたりと、少々一見には理解し難い構造となっているのだ。 「解らなかったら人に聞け、とは言っていたものの……」  とりあえず崇人は通路を進むことにした。最悪人とすれ違えばいい――そんな客観的な考えを持っていたからだ。  しかし、いつになっても前の方から人がやってくる気配が無かった。これは一体どういうことだ? と首を傾げてしまうくらいだった。 「どうかしたの?」  そのときだった。崇人の背後から声が聞こえた。  彼が振り返ると、そこに立っていたのは黒いパイロットスーツに身を包んだ少女――シズクだった。 「うわっ!? ……何だ、シズクさんか」 「……別に私の事はさん付けしなくてもいい。ところで、あなたの部屋はこちらの方角では無いと思うのだけれど」 「ん……。あ、ああ! そうだったな、さて行かなくちゃな!」  百八十度回転して、崇人は来た道を戻ろうとする。 「……もし、道が解らないのであれば、案内するけれど」  それを聞いて崇人は直ぐにお願いしますと頭を下げた。  そして彼がその選択が正しいと判断したのは、それから少ししてのことだった。  彼女はここに来て長いのか、裏道のような隠し通路のような場所をよく通っていた。途中までは崇人も経路を覚えていたが、隠し通路の量から記憶するのを放置した。  シズクは無言のままだった。沈黙のまま重い雰囲気が二人の間を包んでいた。  崇人の部屋ももうすぐのところで、シズクが踵を返し、言った。 「……この作戦は失敗するかもしれない」  そしてそのまま再び踵を返し、シズクは立ち去っていった。 「おい、それってつまり……!」  崇人は彼女に訊ねようと手を伸ばした。だが、その手は僅かに届かなかった。  シズクは振り返ることもなく、その場から去っていった。 11  崇人は自室のベッドで横になっていた。とはいえ眠ることは無い。とても目が冴えてしまっているからだ。  彼は考えていた。これから自分たちが行う作戦についてだった。先程コルネリアが言っていた『順番』についても考えなくてはならなかった。 「……順番については、この際もうどうだっていいとして……やはり戦い方、か?」  一番の問題としているのは、連携についてだ。結果として崇人とエイミー、それにエイムスは連携をして戦っていくこととなる。  一度しか話したことが無い二人と、そこまでの連携をすることは可能なのだろうか?  恐らく、というよりも確実に不可能だという言葉が来るのは間違いではない。間違いではないかと聞き直してしまうくらいだと言えよう。 「コルネリアは……いったい何を考えているんだ?」  天井を見上げて崇人は小さく呟いた。  インフィニティを手に入れること、それが必ず『人々の解放』につながるのだろうか? 崇人はそれを考えていた。そんなことが出来るとは思わなかった。  まるで、何者かに操られているような……。 「いや、そんなことは無い……と思う」  首を振って、しかし途中でその考えを改める。 「そうだよ、信じてやるのが常ってもんだろ。……コルネリアは僕を助けてくれた。ならば、彼女を助けてやることもまた常」  彼は唯一その部屋にある窓から外を眺めた。  外は赤いモニュメントめいた何かが混在していたが、それだけははっきりと見えた。  沈みゆく太陽。赤々とした夕日が彼の目に飛び込んできた。 「……いい天気だ」  ――このまま世界が変わらなければいいのに。平和のままであればいいのに。  彼は思ったが、しかし――世界はそう簡単に変わっちゃくれない。  それを彼は、すぐに実感することとなる。  そして、深夜。  ついにその時がやってきた。  水平線に三機のリリーファー――スメラギ二機とベスパが待機している。後方にはベスパを改良した、ベスパ・ドライ。 「ベスパとこれって何が違うんだ?」  因みにドライにはシズクが乗っている。ポーカーフェイスを貫いていて、このように崇人が呼びかけても反応が無い。 『ドライはベスパを改造したことによって産み出された、二種類目のリリーファーになります。その前にもう一種あったんだけど、改良したせいで今はもう無いとか……』  代わりに答えたのはオペレーターの代理を行っているエイルだった。どうやら普段居るオペレーターは昼間のみの活動らしく、夜間は彼女が担当しているのだという。それを聞いて、崇人はさらに、レーヴの人手不足を痛感する。敵に対抗する手段は揃っていてもそれをサポートする人間が居なければ元も子もない。 「……成る程。もしかして、今僕が使っているタイプから新式とやらにバージョンアップしたのが『ドライ』という考えになるのか?」 『まぁ、そういうことになりますね。それ以外の基本的な性能は、まったくといっていいほどに変わりませんけれど』 「三倍速くなるとかそういうことは……。あ、いや、そもそも赤くなかったか」 『?』  冗談を言おうと思ったが、そもそもその冗談は彼が昔居た世界でしか通用しないものだったことを思い出し、止めた。 『……まぁ、そんなことはどうでもいいの。今回の作戦について簡単に説明するわね。スメラギ二機はこのまま目標に突撃、ベスパはスメラギ二機に追従する形で、インフィニティが格納されている倉庫に向かう。残りは援護射撃、ってところかしら』  エイルの言葉は冷静だった。  的確な判断を下しているのは、恐らくコルネリアの言葉をそのまま伝えているからなのだろう。なぜそう崇人が思ったのかといえば、時折紙を見て読み上げているような、一本調子なところが見られるからだ。  だが、彼が考えるにそれはどうなのだろうか――とも思えた。コルネリアは今回の作戦を、絶対に頑張らねばならないものと位置付けていたはずだった。にもかかわらず、本人が表に出てこないのは些か問題である。 「護身……というわけでも無さそうだな。何というか、いつでも逃げられるようにしている、とか……」 『――午前一時ちょうど。諸君、作戦開始の時間だ』  彼がコルネリアに対し疑心暗鬼な発言をした直後のことであった。  突如スピーカーを通してコルネリアの声が聞こえたのだった。 『作戦は、先程も言った通りこの組織の要となるだろう。インフィニティはそれ程に力強く、繊細だ。インフィニティを持ち帰る必要は無い。インフィニティに来るべき起動従士を乗せるまでで良い。それさえ上手くいけば、あとは何ら問題は無い。インフィニティとはそのように……次元も時間も空間も、何もかも超越していると言えるだろう』 『まさか……! つまり私たちはインフィニティに起動従士を乗せるまでで、あとは必要ないとでも言いたいわけ!?』  コルネリアの言葉に噛み付いてきたのは、ほかでもないエイミーだった。 『別にそんなことは言っていない。あくまでも今回の目的がそれだと言うだけだ。リリーファーも起動従士も、一機一人たりとも犠牲にする気は無い』 『……そう、ならいいのだけれど』  崇人はエイミーの発言にどこか引っかかりを感じたが、しかしそれはただの違和感に過ぎないとして葬り去った。 『……ふむ、一時三分か。少々時間は過ぎてしまったが、何の問題は無い。寧ろ正常とも言えるだろう。なに、数分のミスなんて良くあることだ』  気付けば彼は独りでにリリーファーコントローラを握ろうとしていた。彼女の言葉に乗せられていたのかもしれない。 『さぁ、始めるぞ。インフィニティを在るべき場所に戻すための戦いよ。それは時間がかかるかもしれない。だが、やらなくてはならない。だが、戦わなくてはならない。これにより物語は一つの区切りを迎える。この作戦がどういう結果を得るにしろ、これによりハリー=ティパモール共和国にはダメージを与えることが出来る。諸君、それでは健闘を祈る』  そして。  今ここに『インフィニティ奪還作戦』――またの名をオペレーション・インフィニティ――が、静かに始まるのだった。  ◇◇◇ 「人間はどの状況下であっても争いを求める。争いを嫌う癖に血腥いことを好きになる。人間は矛盾の塊だよ。……まぁ、だからこそいつになっても監視はやめられないのだけれど」  ソファに横になりながら、帽子屋と呼ばれている男は言った。  帽子屋は正確に言えば男性ではない。さらに言うならば女性でもない。老若男女いずれにも当てはまることは無い。  帽子屋とは、そういう存在だった。 「……十年も世界を遊ばせておいて、その結論がそれかい? だとしたら何だか幼稚な結論だと思うのだけれど」 「ハンプティ・ダンプティか。君も随分と久し振りだ」  ソファの前に立っていたのは白いワンピースを着た少女だった。しかし少女は少女と呼ぶには小さかった。 「……久し振り、ねえ。十年前、君が『種を蒔いたから、暫く世界観測だけに留める』と言った時には驚いたよ。実際にこの十年は観測で済ませたわけだからね。色々なイレギュラーもあっただろうけれど……、結局は君が思い描いた通りに世界は形成された、ということで問題ないのかい?」  ハンプティ・ダンプティの発言に帽子屋はつまらなそうに頷く。水溜まりを踏んだハンプティ・ダンプティの足が汚れる。汚れで染めあがる。 「しかし、まあ……」 「何だい、ハンプティ・ダンプティ。質問があるのならば受け付けよう。何せ君は三年間のコールドスリープにあったからね。その間に何があったか把握しきれていないのだろう?」 「まぁ、そうだね……。ならば、一番に質問したいことがある」  ハンプティ・ダンプティは水溜まりに浸かっている人の頭程の大きさの何かを軽く小突いて、言った。 「君、ここで何をした? この部屋を真っ赤に染め上げる程の血……きっと数え切れない量の人間を『使用』したはずだ」  ハンプティ・ダンプティが小突いたのはほかでもない、人間の頭蓋だったのだ。  ――彼らが居る部屋は、壁が白で覆われていたため、通称『白の部屋』と呼ばれていた。  だが、今は違う。その白を完全に赤に染め上げる程の血が床と壁に塗りたくられていた。流石に血の臭いはしなかった。恐らく何かの加工をしたのだろうが、だとしてもこのような部屋で引き続き監視を続ける帽子屋は『異常』だ。 「なぁ……帽子屋。君は私が三年間コールドスリープになっていたその間、いったい何をしていたんだ?」 「シリーズを『破壊』し過ぎた。だから監視の目が足りなくなったのだよ。そもそもの話になるが、破壊したシリーズはあまり監視に関与していなかったから、破壊してもしなくても、いずれはこれをしなくてはならないと思っていた」 「……これは、もう一つのシリーズを作ろうとした、その残骸……」 「いいや、シリーズの複製には失敗した。コアがもう新鮮ではなかったこともあったし、定義が非常に難しいのだよね。複製ということは、未だ存在しているものをも複製してしまう可能性としては捨てきれない。まぁ、そのまま完成しない可能性だって有り得るからね」  帽子屋の言動はハンプティ・ダンプティには理解出来ないものだった。理解は出来なかったが、ハンプティ・ダンプティは一つだけ理解することが出来た。  それは帽子屋が『正常』の範疇から逸脱している――狂っているということだ。何十年とこの部屋で監視し続けてきたが、やはり帽子屋は頭の螺子が数本抜けてしまっているのではないか――そう思う、或いはそう思ったほうが納得出来る機会がとても多い。  しかしながら、そうであったとしてもそれがシリーズに不必要であることとは直結しない。帽子屋は既にシリーズの中核を担っている。だから否定することや批判することは出来たとしても、シリーズから追放することは――最早現時点では不可能であった。 「……聞いているかい?」  それを聞いてハンプティ・ダンプティは我に返る。ハンプティ・ダンプティの表情を見て、帽子屋は笑みを浮かべる。まるで、そんなこと解っているとでも言いたげだった。  ハンプティ・ダンプティは数瞬だけ考え、そして頷いた。 「……だがシリーズとは似て非なる、まったく新しい存在を産み出すことは出来た」 「……………………え?」  帽子屋の言葉にハンプティ・ダンプティの目が点になった。それくらい、驚きを隠せ無いと言ってもあいだろう。  帽子屋の話は続く。 「はっきり言って自分がこのようなものを生み出すためか、上手く世界の次元が一致しないのだよ。シリーズではなく、新たな章(チャプター)として生み出した。それは世界の変異に反映されることもないまま、特異点を生み出す。こっちがどう考えでもってイレギュラーなものだよ。レギュラーに拘る時代は、案外とうの昔に消えてしまったのかもしれない」 「ちょっと待て、いったいお前は何を言っている……?」  ハンプティ・ダンプティの問いを無視して、帽子屋の話は続く。  それは非条理も不具合も、何もかも包容したような、そんな優しい笑顔に包まれていた。 「僕はね、ハンプティ・ダンプティ? 世界を変えてしまいたいのだよ。そのためには、シリーズではない別の何かを生み出し、世界のコードを書き換えなければならない。それは話を聞いただけで億劫だろう?」 「世界を変える、ね……。今日日、普通の子供ですら言わないぞ?」 「子供が言うのは世界征服の範疇だろう? はっきり言ってそんな範疇、埒外に居ることが常識の僕には何の関係も無いよ。勿論のこと、それはハンプティ・ダンプティも例外では無い」 「世界を変えること……その歪みが起こり始めている。なんてことは言わないよな?」  ぴくり、と帽子屋の眉が微かに揺れる。  そして。 「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!」  何かの堰が壊れたかのように。  帽子屋は突然として笑い出した。  その原因が何であるのかハンプティ・ダンプティには解らない。いや、その理由が解る存在など、たったの一つを除いて――居るはずがなかった。 ◇◇◇  インフィニティ奪還作戦は恐ろしい程、スムーズに進んでいった。理由は解らない。しかしそれはレーヴにとって好機でもあったし、油断を招いたともいえる。  そしてその結果は――思ったよりあっさりと訪れる。 『タカト! 急いでインフィニティに乗り込んで!!』 「ダメよ、タカト! インフィニティに乗り込んでしまえば、そのまま世界は……どうなるのか解っているの!?」  コックピット内部のスピーカーを通して聞こえる声はコルネリアのものだ。  対してインフィニティが格納されている倉庫から、ガラスを伝って聞こえるのはマーズのものだった。  インフィニティが格納されている倉庫まで強引に突入し、崇人がインフィニティに乗り込む。  そこまでが作戦の概要である。即ち、今はその作戦の最終段階――ほぼ完成の状態まで来ていた。  にもかかわらず、彼は悩んでいた。  本当に今、インフィニティに乗ってもいいのだろうか、ということについてだ。もしかしたら悩みではなく焦りかもしれない。十年の過去を埋めるために、彼は話を聞きたかった。そして話をしてくれたのはマーズではなくコルネリアだった。  今思えばマーズは話をしたくなかったのではないだろうか? 出来事を手っ取り早く説明したいのならば、何もかも含めて説明してしまえば良かったはずだ。しかし彼女はその話をするどころか、崇人を幽閉し、自らと会う機会を減らした。  それは裏を返せば、いいことだけ言って都合の悪いことは抹消する――そのようにも感じ取ることは出来る。  しかし、マーズは違うのでは無いか。崇人は今頃になって思い始めた。マーズはほんとうに、崇人のことを思って言わなかっただけなのではないか、と。 「タカト! お願いだから……、お願いだからインフィニティには乗らないで!」 『タカト、君が悩む気持ちも解る。だが今は私に従ってくれ。インフィニティに、乗ってくれ……!』  各々が相反する要求を崇人に迫る。  しかし崇人の身体は一つしかない。それは当然だ。だから彼が従うことが出来るのも二人のうち何れかと言える。 「どうすりゃいいんだよ、俺は……!」  崇人は葛藤していた。自分が何をすればいいのか解らなかった。  だが、彼の選択は――彼自身が選択することは出来なかった。 『……ったく、何を考えているんだ。インフィニティに乗るか、乗らないか。そんな単純な二択だぞ? 男ならさっさと決めちまえ』 「はあ……? というかお前はいったい何者だよ」  刹那、彼の身体が彼の意識と相反して、ゆっくりと動き出した。足を使って、歩いていたのだ。 「お、おい! どういうことだよ、これは!?」 『いいから黙って歩け。……それとも、引きちぎられたいのか? 身体の動きと抵抗しようとする精神は、その力を強めれば身体が真っ二つになる。これに対抗する術など考えないで、素直に従うことだね』  崇人の身体は何者かに操られていた。だが、それは誰にも解ることなど無い。  彼は真っ直ぐインフィニティに向かっていた。コックピットは既に開かれている。 「インフィニティにはフロネシスがあったはずだ……。どうやってロックを解除した?」 『そりゃ言えないな。ま、強いて言うなら「情報通」が居る……ということくらいか?』  情報通。  それもただの情報通だというわけではない。この世界に精通する、特別な存在だった。  そして彼は見えざる手によって、彼は強制的にインフィニティのコックピットに放り込まれた。 ◇◇◇  コルネリアはそれを見て笑っていた。ついにそれが成功した、と笑っていた。  インフィニティさえこちらの戦力に加えてしまえば、あとは敵など居ない。それは解りきっていたことだった。そんな、子供でも解る結論に、彼女は何度も頷いていた。  だからこそ、彼女は解らなかった。  崇人がインフィニティに乗り込んだのは、自らの意志ではないということに――。   ◇◇◇  十年ぶり――正確に言えば十年間コールドスリープ状態にあったのだから、十年もの間インフィニティに乗りっぱなしとも言える――に乗ったインフィニティのコックピットは、いつもと変わらなかった。  いつもと変わらない――十年間メンテナンス無しでそれを保つことが出来るのは不思議で仕方がないが――そのコックピットは、静かに崇人を迎え入れた。 「……フロネシス、聞こえるか」  彼はいつものように語りかけた。その相手は紛れも無くインフィニティに搭載された基本ソフト、フロネシスだった。 『お呼びですか、マスター』  直ぐに、十年前とまったく変わらない声がコックピットに響き渡った。ソフトウェアなのだから十年だろうが二十年だろうが、或いは百年だって声が変わらないのは当然のことだと言えるだろう。  フロネシスは続ける。 『……敵を何機か発見しました。如何なさいますか?』 「因みに、その詳細は?」  フロネシスが告げたのは――マーズたちのほうだった。  インフィニティの選択は、コルネリアだった。 「……解った。ならば其方に向かって全門斉(せい)射(しゃ)。そして直ぐにここから脱出するぞ」  返答は無かった。  刹那、インフィニティの砲塔凡てがマーズの居る方角を向いた。 「……ねえ、何でよ?」  ぽつり、彼女は呟いた。  しかしインフィニティは其方に砲塔を向けたままだ。 「私より……コルネリアを選ぶの? 私、あなたと一つになって……結ばれて……、子供も居るのよ?」  崇人は答えない。 「嫌だよ……。未だ、未だ死にたくない。あなたと一緒に、タカトと一緒に過ごしたいのよぉ……」  崇人は答えない。  そして――そのまま咆哮が撃ち放たれた。  彼女の絶叫とともに、城塞が崩壊していく――。  ◇◇◇ 『ご苦労様、これで今回の任務は一通り終了よ。あとはそのまま戻るだけ。気を引き締めてちょうだいね。遠足は帰るまでが遠足だ、と言うくらいにね』  崇人はトランシーバー(インフィニティの通信周波数は独特であり、コルネリアはそれを知り得ない。また、レーヴの機械では交信することが出来ないためである)から聞こえたコルネリアからの言葉を聞いて、その電源を切った。  操縦をフロネシスに任せ、崇人は透過コックピットフロントから外を眺めていた。  血のように真っ赤な建造物だった何かを眺めるのは大変苦痛であったが、今の心を癒すには充分過ぎた。 「あの選択は……正しかったのだろうか」  崇人はさっきのマーズの絶叫をフラッシュバックさせていた。  インフィニティ――フロネシスに従い、あの結論が得られた訳だが、果たしてその結論は正しいものだっただろうか?  いや、それを考えるのは野暮というものだ。フロネシスは常に正しい結果を導いていた。いつも彼を救っていた。  だから今回の結論もきっと正しいのだろう。彼は何時しか頭の中でそのように考えるようになった。一種の現実逃避と言えばそれまでだが。 「そうだよ、きっと正しいんだ……。僕は間違っていない。間違っていないんだよ」  自らに言い聞かせるようにして彼は言った。  そしてその選択について、彼は恐ろしく後悔することになる。だが、それは大分先のことになるだろう。  インフィニティがスメラギ二機と共にレーヴのアジトに到着したのは、それから二十分後のことだった。  先ず、インフィニティとスメラギとで一目見て解る違いはその『大きさ』だろう。スメラギはインフィニティの胸部走行あたりの大きさになる。 「……改めて見ると、インフィニティの大きさは圧巻だな。惚れ惚れするくらいだよ」  崇人の横に立ち、話すのはコルネリアだった。 「……やっぱりリリーファーは大きけりゃ大きいほうがいいのか?」 「そういうわけでも無い。小さいリリーファーは小回りが効くし隠れやすい。だが火力が低いものが殆どになってしまうから長期戦向けかもしれないな。大きいリリーファーはその逆だ。小回りが効きづらいかわりに火力がどでかい。一発で小型機を潰すことが出来るくらいに、ね。だから短期決戦には向いているかもしれない。だってその一撃で戦争が終わってしまうかもしれないのだから」 「インフィニティは大型機、それでいて火力最強。それってチートになるよなぁ……」 「チート?」 「……あぁ、いや、何でもない」  思わず崇人が昔居た世界での言葉を使ってしまう程だったが、直ぐに取り直す。 「崇人、君も疲れただろう。今日はゆっくり休むがいい。……また明日も大変なことになるだろうからな」 「……それっていったいどういうことだ?」  コルネリアが見せてくる新聞記事を、彼は熟読していく。見出しにはこう書かれていた。  ――『ハリー=ティパモール共和国元首、十年前の「事件」首謀者と意外な関係?』  崇人はその見出しを読み終えてコルネリアから新聞記事を引ったくる。  さらにそこには、このように書かれていた。  ――ハリー=ティパモール共和国元首、マーズ・リッペンバーは十年前の『事件』の首謀者と恋仲にあった、と自らが語っている。  ――事態を重く見た共和国はマーズを元首から下ろし、国家転覆罪の容疑で逮捕した。また、十年前の『騎士団』メンバーは何れも関連を否定しているため、今回の逮捕には至らなかった。 「……どういう、ことだ?」 「どうやらあなたとマーズのやり取りがカメラか何かに収められていたようね。まぁ、こっちにとっては都合がいい。何せ国が混乱状態に陥っているからね……」  コルネリアは笑っていた。  その表情は今まで彼が見たことが無かった、恍惚とした表情だった。  それを見て崇人は少しだけ恐ろしくなった。それと同時に彼は未だ気付いていなかった。彼とインフィニティが、十年後のこの時代に持つ影響力を――。 12  マーズは虚ろな目をしてベッドに腰掛けていた。  今彼女が居る部屋はかつて使用していた豪華なそれでは無い。囚人用に用意された質素な独房である。  どうして彼女はこんなことになってしまったのか、それは彼女自身が良く理解していることだろう。  十年前の『破壊の春風』、その首謀者との関係を問われたためだ。迂闊だった。まさかあのタイミングでカメラに録画されているとは思いもしなかったのだ。  それも仕方無いといえばその一言で片付くのかもしれない。 「……まぁ、こうなることを一番解っていたのは自分だったはずなのにね」  因みに彼女が国家転覆罪で逮捕されるとき、その罪名に笑ってしまっていた。逮捕に訪れた兵士は首を傾げていたが、確かにそれは彼女にしか解らない笑いのツボなのかもしれない。  国家転覆など彼女は考えたことも無かったからだ。いや、強いて言うならばハリー=ティパモール共和国が建国した時点で彼女は国家転覆罪の対象だったのかもしれない。 「私はここまで頑張ってきたのに……! どうして……! 彼は何も、していないというのに!!」 「だったら、証明すればいいじゃない」  独房は読んで字の如く一人部屋だ。だから部屋の中からマーズ以外の声が聞こえることは、はっきり言って有り得ない。  にもかかわらず、声が聞こえた。――その声の主は、本当に人間なのだろうか? 「……人間じゃないと思うのも当然かもしれないわね。だって私はたった今誕生したんだもの」 「たった……今?」  その割に声は大人びている。本当に今生まれたばかりなのだろうか。 「だから言ったじゃない」  少女(と思われる声)は続ける。 「私は……いいえ、私たちは人間とは似て非なる概念。人間の闇から生まれ、それを糧とする……」 「あなたの……名前は?」  マーズはその声を信じていた。きっと藁をも縋る思いだったのかもしれない。これが最後のチャンスだと思ったのかもしれない。  だから彼女は願った。この状況から――どうにかして逆転する術を。  それを理解したかどうかは定かではないが、少女は含み笑いをして、言った。 「私の名前は『チャプター』のひとり、ルノーよ。よろしくね、マーズ」  ルノーは微笑みながら、怯えるマーズの話を聞いていた。はじめはマーズも突如現れたルノーという存在に疑問符を浮かべていたが、直ぐに慣れた。 「ねえ、ルノー。あなたはどうしてその姿を見せようとしないの?」 「私はあなたの闇、あなたが表であるならば、私は裏の存在と言えるでしょう。しかしながら私が外に体現させてしまうと、あなたの存在が不安定になる。だからこそ、私は体現しないのですよ」  マーズの質問には丁寧に答えるルノー。  ルノーと会話する時、はじめは見られると恥ずかしいものがあったが、三日もすればそんなことは関係ない。寧ろそれを見せつけている。  メリアが彼女の様子を見に来た時は、ちょうどルノーと話をしていたところだった。 「あら、どうしたの。メリア? 今わたし、ルノーと楽しい話をしていたのよ。それはそれは楽しい話でね……あなたも聞いてみる?」  メリアは事前にマーズの様子を聞いていた。だが、これは予想以上に……酷すぎた。僅か数日で人間はここまで壊れてしまうのか、と感心してしまう程だった。  メリアは表情にそれを見せないまま、彼女に問いかける。 「……それじゃ私もルノーの話を聞こうかしら。彼女は今、どこにいるのかしら?」  それを聞いたマーズがきょとんとした表情でメリアを見た。 「……何を言っているのよ、目の前にいるじゃない。目の前に」 「目の前? ……あ、そうだったわね。ごめんなさい」  その後、メリアはマーズとルノーの会話を聞いていたが、最初の予想通り、まったく理解することは出来ず、結局話の途中でリタイアしてしまった。  マーズは精神病を患っている――これはあくまでもその時診断したメリアによる判断だった。 「ほんとう? あはは……やっぱり。大変だよねぇ、あなたも解る?」 「そうなのよ。もう疲れているの。……そういうことばっかりやっているとね、自ずと疲れてきちゃうのよね」  その言葉、その凡てが『彼女が脳内に構成している』少女との会話から抽出したものであった。 「はっきり言って……結果だけを述べられてそこを治せと言われても難しい。人間の身体は数え切れない程の歯車が支えている。その一つが壊れているとしたら? 連鎖的反応を起こし、どこまで治せばいいのか簡単に解らなくなる。……さらに言えば、歯車が回らなくなったらもう終わりだと思えばいい。幾つかのバイパスが用意されているとは思いたいが……歯車のルートは基本的に一つだ。そう簡単に治すことなど出来ない。要するに、もし治すのであれば、人間そのものを一から、尚且つ全体的に治す必要があるのだろうな」  とどのつまり、お手上げということだ。これ以上することなど何もない。時間が過ぎ去るのを、待つしかない。――メリアの結論はそういうことだった。  そしてそれで一番甘い汁を吸うことが出来るのは――紛れも無い、フィアット・レンボルークだった。今彼は、かつてマーズが座っていた席に腰掛け、優越感に浸っている。 「……いやあ、それにしても助かりましたよ。あの状況でマーズさんがあんなことを口にしてくれて」  フィアットの隣に居るのは彼の秘書であるクライムだ。クライムは紅茶を注ぎながら、フィアットの話を聞いている。 「知っていたのですか? テロリストとマーズ・リッペンバーが繋がっていたというのは」 「そもそも彼とマーズは結ばれる寸前だったのだろう? 無論、その時は年齢という壁があったらしいが。僕にとっては愚問だよ。そんな単純な理由で、結婚しなかったなんて! 年齢という壁はほんとうに大変なものだね。少しは同情するよ、嘘だけれど」 「はは、面白いジョークですな。そのようなことを言えるのは、フィアット様だけでございますよ」 「……ところで、『騎士団』はどうした?」  トーンを変え、彼が訊ねる。  クライムはそれを聞いて同じくトーンを合わせる。 「騎士団は突然の逮捕に驚いているようですが、現在は業務を再開しております。特に問題は無いかと。また、反逆者が出る様子もございません。現時点では」 「成る程、ならばよい。ありがとう、クライム」  そう言ってクライムが注いだ紅茶を一口啜る。紅茶はちょうどいい――だいたい人肌くらい――温度に調整されていた。だから、ゆっくりと飲むことが出来る。 「相変わらずクライムの淹れる紅茶はうまいよ。流石だ」 「もったいないお言葉、有難き幸せでございます」  首(こうべ)を垂れるクライム。それを見てフィアットは正面のスクリーンの方を向いた。  正面のスクリーンには、ある場所が映し出されていた。  インフィニティがあった場所――倉庫である。今はがらんどうとなっているが、しかし彼はそこに着目していた。  そこにあるのはインフィニティの残存エネルギー。  僅かなエネルギーではあるが、そこから復元すれば……。 「……何か、考え事をしてなさるのですか」  クライムは呟く。それを聞いたフィアットは我に返った。 「そうだよ。急いで、工廠に居るメリア女史を呼び寄せろ。大至急頼みたいことがある、とね」 「ほう。何かあるのですね?」 「ああ、これから始まる『戦争』に備えなくてはね」  そしてクライムとフィアットの会話は終了した。  ◇◇◇ 「マーズはどうして捕まっちまったんだよ……」  ヴィエンスはそう言って俯いていた。  ハルとダイモスは未だ帰還していない。なので、今は彼にとっての休息の時ともいえる。ほぼ彼らと同じ生活を送っているヴィエンスにとって、休息の時はこういうタイミングでしかあり得ないのである。 「きっと彼女にも、彼女なりの矜持ってものがあるのですよ」  言ったのはシンシアだった。  シンシアはコーヒーカップを二つ持っていた。カップからは湯気が出ており、コーヒーのいい香りが引き立つ。  それを一つヴィエンスに手渡し、彼女はその隣に腰掛ける。 「済まないね、コーヒーを淹れてもらって」 「別に。……それに、マーズさんが逮捕されて不安なのは私も同じですから」  シンシアはコーヒーカップを両手で持ちながら――ちょうど手を温めるような構図になっている――呟く。  ヴィエンスはシンシアの心境を知っている。彼女がどうしてここを志願したかも知っている。だからこそ、彼はそれ程強く言えないのである。寧ろ、ここまで強くいられる彼女のほうが違和感を覚えるのだ。 「……もしかして、私を心配しています? どうしてこのように元気でいられるのだろうか、とか。そんなことを想っていますか?」 「い、いや。そんなことは……」  ――思っていない、と言いかけたところで嘘はいけないと思ったらしく、咳払いを一つ。 「いや、済まない。確かに思った。君に悪いことをした。そう思ったよ」 「正直なことはいいことだと思いますよ」  シンシアは言った。  ヴィエンスは彼女の表情を見る。彼女は笑っているでもなく、ただどこか遠くを眺めていた。 「確かに私は十年前……正確に言えば、十一年前になるのでしょうか。姉を失いました。その時の母の泣き崩れた風景は今でも忘れることが出来ません。目に焼き付いてしまった、と言ってもいいでしょう。しかしながら、母は彼を許していました。母は騎士団を許していました。ですから、私は母のいいつけを無視して恨みを晴らすことなんて出来ません。強いて言うならば……」 「言うならば……?」 「タカト・オーノは姉が死んでいくさまを目の前で見たと聞きます。そして、姉は近付くなとも言ったらしいのです。即ち、姉が救った命とも言えるでしょう。そんな彼が、あんな弱気でいてもらっては困るのです。姉が救った命なのですから……姉の分も生きてほしい、と私は思うのですよ」  そう、彼女は言った。  彼女の名前は、シンシア・パロング。  かつて崇人の目の前で死んだ女性、エスティ・パロングの妹である。 13  崇人とコルネリアは通路を歩いていた。  すでにあれから一週間の時が経っていた。  時間というのは過ぎるのが早いものだ。崇人はそう思っていた。コルネリアの背を見つめながら、彼はひたすらこの通路を歩いていた。  通路の左右は壁ではなく、無限にも広がる奈落。奈落ということは、落ちると無限にも感じる落下となる。しかしながら、そうならないように通路には柵が備え付けられている。 「この先に、何があるんだ?」 「……世界の希望、或いは絶望の種」  コルネリアは彼の言葉に呟く。  崇人はそれを聞いて首を傾げることしかできなかった。 「そう言って解らないのは確か。でも、それしか形容することが出来ないのもまた事実。そうだとしても、私たちはこれを知ることを許されているのは、僅かな時間しか与えられていない。そもそもこれが人間という低俗な存在に閲覧を許されること自体、不思議なことではあるのだけれどね」 「……つまり、人間がそれを知ること自体烏滸がましい、と?」  コルネリアは頷く。  なおも二人は歩く。通路は徐々に細くなっていくのを感じながらも、しかしコルネリアの足が止まることは無い。だから、彼もその足を止めない。 「人間が知ること、それが烏滸がましいと思えるものをどうしてここに用意してあった?」 「用意してあったのではなく、用意させられていたと言えばいいだろうか。十年前のあの出来事があって、私たちがレーヴという組織を結成して、ここをアジトとしたのも、それが原因と言えるね。この種が我々にとって、いや、人間にとって絶望となるか希望となるかは、解らない」 「だから、ここに来た、と? でも、そうだとしたら、僕がここに呼ばれる理由がまったくもって理解できないのだけれど」 「あなたがこれを知ることで、あなたも正確にレーヴの一員になったと言える。そう、他のメンバーも言っているから」  即ち、これがメンバーへの登用試験ということになる。 「これが試験、ってことか?」  ニヤリ、と笑みを浮かべながら訊ねる崇人。  なぜ自分もそのような表情を浮かべることが出来たのか、彼自身理解することが出来なかった。何故だろうか――その答えは、おそらく一生解ることも無い。  コルネリアは振り向くことも無く、かといって何か反応を示すことも無かった。 「……少しくらい、反応を示してもらってもいいのではないか?」  崇人は訊ねる。 「着いたわ」  しかし崇人の質問とは違う言葉を、示した。  そこにあったのは巨大な扉だった。扉には刺繍のような細かい模様が刻まれていた。  中央にはコルネリアが見たことのない文字で、何か書かれていた。 「これは……」  崇人は目を見開いて、それを見る。  コルネリアが続いて解説する。 「これは古代文明……旧時代とでも言えばいいかしら? その時代に書かれただろうと言われている文様。何かの規則に従って書かれているのだけれど……、タカト? どうかした?」 「何で……こんなところに……」  心臓が高鳴る。  どうしてこのようなところにあるんだ――崇人は信じられなかった。  なぜこのような場所に――。 「どうして、ここに『日本語』があるんだよ!!」  日本語。  それは彼がもともと居た世界、その中にあった島国『日本』が公用語とする言語である。  この世界には普通に日本語があると思われていた。しかし実際には、それは彼がそう見えているだけだった。ほかの人にはこの世界特有の言語に見えていたらしい。それは数少ない神様からの贈り物であると、彼は勝手に解釈している。  だが、今は違う。  彼女が見ても、崇人が見ても、紛れも無い『日本語』が表記されている。  これは由々しき事態だ。先ず、どうしてここに日本語が書かれているのかということも問題であるし、その日本語は何が書かれているのかということも問題だ。 「……ねえ、タカト。もしかしてその言葉、読めるの?」  頷く崇人。それを見てコルネリアは笑顔を見せた。 「なら、これを読んでみて。いったい何が書いてあるのか、教えて?」  再び頷く崇人。  そして彼はゆっくりと、その言葉を読み始める。 「――ここは、世界の始まりの場所。始まりは終わりであり、終わりは始まりを生む。世界の原初はこの場所から再び生まれることだろう」  言葉を読む崇人。しかし、その意味が曖昧にしか理解することが出来なかった。  世界の始まり――それをそのままの解釈で考えると、この世界は最低でも一回滅んでしまったということになる。再生、という言葉が盛り込まれていることからもそれは窺える。  だとすれば、どうしてこの世界は一度滅んでしまったのか――という結論に至る。 「タカト?」  ――そこで彼は我に返る。コルネリアの声を聞いて、崇人は今までの考えから一旦離脱することになる。 「世界の始まりとか書いてあるけれど、結局この扉を開く鍵にはならない、ということよね?」 「……そういうことになるな。今、言葉を読み上げたがそれによって何か発生するというわけでも無いし」  それを聞いて小さく溜息を吐くコルネリア。 「そう。それは仕方ないわね。ひとまず、戻りましょう。作戦を考えなくてはならないし」 「作戦? これについて、ってことか?」 「それもあるわね。……これは人間が住むはるか昔からあると言われている扉なのよ。岩壁を壊そうとしても、あまりにも固い素材で出来ているらしく、破壊することはおろか傷をつけることも出来ない。だから、この扉を開けることしか出来ない。私は気になってしょうがないのよ。この扉の向こうに何があるのか。人はこう言うわ。この扉の向こうには、別の世界が広がっているのではないかって」 「そんなまさか……」 「そんなことが有り得るのよ。並行世界、とは言わないけれど。そのような世界が広がっていてもおかしくはない、という意見が大半を占めている。一度は崩壊しかけたこの世界に絶望を抱いているかもしれないけれどね。この世界を見捨ててでも、あの扉の向こうに行きたい気持ちは解る。私だって、出来ることならこの世界からあの扉を潜っていきたい」 「……この世界を捨てる、ってことか?」  崇人はふと前の世界のことを考えていた。  志半ばで見捨てることとなってしまった仕事、会社、日常。  一人ぼっちだったが、忙しかったが、今ではあの時代がとても彼にとってかけがえのないものとなっていた。 「ええ、そうよ。この世界はもはや崩壊寸前、いや、崩壊しているといってもいい。人間はいつも戦争をしている。それも、リリーファーを使って。少年少女に、私たちよりも将来がある少年少女に無理やり操縦させて、世界を自分たちのものにしようとした。あの時代は終わったのよ。今はもう、残り少ない資源を、リリーファーを使って手に入れようとするだけ。リリーファーで、力で、制する時代になった。それは前の時代と変わらないかもしれない。けれど、この世界は、もう破綻している。いつシステムが崩落してもおかしくない。あなたが眠っている十年間に、ここまで世界は堕落してしまったのよ」 「……そうだとしても、見捨てるという選択には未だ至らないんじゃないのか」  崇人の答えは一つだった。  たとえそれ以外の選択が、あったとしても。  彼はきっと――その選択しか選ばないだろう。 「間違っているよ、コルネリア。この世界も、いや、どの世界であっても、見捨ててはいけない。この世界をそうしたのはいったい誰だって言うんだ? 紛れも無い、人間だろ。僕たちだろ。だったら、責任を取るのが筋だ。この世界を崩壊させてしまったから、食いつぶしてしまったから、あとは別の世界に移動して、この世界に居た別の存在に任せてしまおう……そんなの虫が良すぎる。それは許されないよ」 「だったら……だとしたら! どうすればいいのよ! この世界は、もう疲弊している! 資源も使い切ろうとしている! この世界に明るい未来なんて存在しないのよ……」  崇人はコルネリアに手を差し伸べる。 「そうだとしても、たとえそうであったとしても、僕たちは生きていくんだ。この世界を守るんだよ。この世界がこれ以上ひどくならないように、未来の世代に託していくんだ。問題を先送りにしないで、この世代で問題を解決することが出来れば一番いいのだけれど……そういかないのが現実だ。だから、なるべくひどくならないように努力する。それだけでも違うとは思わないかい?」 「……それは違う」  しかし、コルネリアはそれを否定した。  崇人はそれを聞いて、少しだけ狼狽える。それ程までに『他の世界』への執着心は強いのか――そう思わせた。  コルネリアの話は続く。 「確かに崇人の意見も正しい。それは間違っていないよ。けれどね、この世界はもう終わりを迎えようとしている。もうこの世界が発展していくことは、きっとないと思う。なら、終わりにしてしまったほうがいいの。僅かでも良い可能性を夢見て……その結果がこれ。もうこれしか何も出来ないのよ……」  コルネリアは言う。  しかし、そうだとしても。  崇人は納得することが出来なかった。 「……頼むよ。どうにかこうにかして、僕が何とかする。この世界をどうにかするよ」 「どうにかする?」  それは、彼が別の世界からやってきた――そういう意味もあったのかもしれない。  元の世界へと戻る手段が現時点で見つからない今、もう世界を見捨てたくなかったのかもしれない。  それは、かつて社会人だった崇人にとって、心情の変化ともいえるだろう。 「どうにかする、ってどうするのよ。言いたくないけれど、この世界をここまでの状態へと加速させてしまったのはあなたにも原因があるのよ? それを理解しているの?」 「それは……」  そう言われても彼には十年前の『その時』の記憶がないのだから仕方がないことである。  コルネリアは彼を言葉で捲し立てる。 「あなたがどうこう言ったとしても、確かに世界は変わらないのかもしれない。それをあなたに言うのも間違っていると私は思う。けれどね、この世界が『戻る』なんて簡単に言ってほしくないの。この世界はもう終わり。終わりの段階まで来てしまっている。いつ世界のシステムが崩壊してもおかしくない。その段階にまで……。そうならば、別の世界に行こうと思う私たちの気持ちだって、充分に解るのではなくて?」 「そうなの……だろうか」  崇人は俯いたまま、その言葉しか紡ぐことが出来なかった。  コルネリアは踵を返し、数歩歩く。  立ち止まり、告げる。 「……ごめんね、こんなこと言って。けれど、私はこの世界を変えたいなんて思っていないの。この世界をここまでにしたのは、最終的にリリーファーのせいだと思っている。リリーファーが生まれたからこそ、この世界はここまでリリーファー主導の世界へと化してしまった。リリーファーが生まれなければ、インフィニティだって生まれなかった。もしも過去に戻る技術があるのなら、私はリリーファーが生まれなかった世界にしたい。それすら考えているの」  コルネリアの決意は固かった。  だからこそ、彼も止めることは出来なかった。  せめてもの、罪滅ぼしだったのかもしれない。世界をここまでにしてしまった罰を償うためだったのかもしれない。  彼はコルネリアについていこう、と思った。  彼女とともに、歩いて行こうと思った。 14 「……ひどい状況ね」  ハリー=ティパモール共和国、リリーファー倉庫。  先の戦いにおいて一番の被害を受けた場所である。  そこに似合わないヘルメットをかぶって現場の指示にあたっていたのは、メリアだった。 「やあ、メリアさん。大変忙しいように思えますが」  声をかけたのはフィアットだった。フィアットもまたヘルメットを被っていた。安全対策、ということである。  それを見てメリアは鼻を鳴らした。 「ふん。まあ事態は徐々に回復しつつある、と言えるだろうな。実際問題、これを直すのは随分時間がかかることだろう。しかしながら、急いで直さなければ業務に差支えが出てくる。そのためにも、急いで修理せねばなるまい」 「それはその通りです。いつレーヴが襲い掛かってくるか解りません。そのためにもここが前線基地と成り得るのですから」  フィアットの言葉に溜息を吐き、手元の資料を見るメリア。  フィアットは一歩前に――即ちメリアの隣に立つ。 「……マーズ・リッペンバーですが、精神状態はやはりあまり宜しくないとのことです」  それを聞いてメリアの目つきが変わった。  フィアットはそれを知らぬ顔で続ける。 「私としても出来ることならば彼女を回復させてあげたいのですが……なかなかうまく行きません。どうやら、別の人格を作り上げてしまったらしいのですよ。そして、その人格と彼女自身がもともと持っていた人格とで話をしていて、これが大変盛り上がっているらしいのです」 「別の人格、ですか。確かにその考えはありましたが……。成る程、いやはや、さすがはフィアットさんですね。そう簡単に考え付きませんよ、その答えには」 「いえいえ。……というわけで、あなたに一つ相談が」 「相談、ですか」  ええ、と言いながらニコニコと微笑むフィアット。  やはりこいつは苦手だ――そう思いながら頷くメリア。 「ありがとうございます。取り敢えず話だけでも聞いていただければ、と」  そう前置きして、フィアットは話を続ける。 「実は、マーズ・リッペンバーに対する世間の評判が酷評、というものになっておりまして」  出だしは最悪だった。 「折檻されていることを、国民に知らせてしまったのか!?」 「そんなことはしませんよ。でも、噂というのは国民が好きなものです。次々と広まっていきました。果ては、現実ではありえないことでも」 「……例えば?」 「『マーズ・リッペンバーは国家転覆を企んでいる』、とか」 「そんなの出任せだ、言わせておけばいいではないか」  メリアの言葉に、フィアットは首を横に振った。 「ところが、そういかないのですよ。国民はその感情を、その不満を国にぶつけつつある。どこかでガス抜きをしなくてはならない。これは、私だけではない。国全体の決定事項ともいえます」 「……何をするつもりだ」  何となく、フィアットが何を提案したいのか――その目論見が解ったような気がした。  そしてそれはフィアットの計画通りだった。  フィアットは笑みを零しながら――あくまでも営業スマイルであるが――結論を告げた。 「マーズ・リッペンバーを国家転覆罪として、公開処刑をしよう……そのような意見がまとまりつつあるのですよ」 「……そんなことを言われて、私はなんと言えばいい? 流石に、やめろと言っても無駄だろう?」  それを聞いてフィアットは顎に手を当てる。彼の癖、とまではいかないが、考える時によく行う行動である。  フィアットは告げる。 「そうですね。流石にそれは無理でしょう。国民感情を落ち着かせる代替案を出していただけるのであれば、例外ではありませんが」  とどのつまり。  フィアットはマーズを殺そうとしているのだ。精神状態が安定していない、今の状況を狙って。  メリアは唇を噛む。このままではマーズが殺されてしまう。だが、国民感情というのは国を経営していく上では重要であることを、メリアはマーズから聞いていた。だからこそ、どうしようもないことを実感せざるを得ない。  ここで彼女が少しでも政治に関して詳しい知識があるのならば、打開策をフィアットに告げることが出来たのかもしれない。  しかし彼女は研究者。自分の専門分野に関しては一流かもしれないが、それ以外は素人と言っても過言では無い。 「……因みに、処刑日時は決定しているのか?」 「ええ、決定していますよ。三日後です。早朝にやろうかと」  三日後の早朝。今がもう夕刻になろうかというタイミングなので、実質あと二日ということになる。 「そう、か。解った。私から『騎士団』には伝えておこう」  それを聞いてフィアットは少しだけ喜んだように見えた。 「そうですか! ありがとうございます。それでは、よろしくお願いしますね」  フィアットはそれだけを言うと、踵を返し、倉庫を後にした。  フィアットが立ち去ったのを確認して、メリアは大きく溜息を吐く。 「あと、三日……か」  空を見上げ、考える。  しかし――一人で考える時間など、とっくに存在しなかった。 「先ずは、情報共有から始めなくてはならないな」  そう呟くと、資料を近くに居る副監督に押し付けて、早々と休憩に入った。 ◇◇◇ 「マーズが処刑される、だと……!?」 「ええ。少なくとも、あと三日だと言っていたわ。高らかにね。あの男、きっと最初からこれを狙っていたのよ」  ヴィエンスはメリアから事実を聞いて、机を叩いた。  信じられなかったのだろう。信じたくなかったのだろう。 「三日、ですか。しかし実際にはあと二日程度、ということになりますよね」  言ったのはシンシアだった。シンシアもまた、マーズに救われたと言っても過言では無い。だからこそ彼女に対する思いは人一番強いのだった。  シンシアの言葉に頷き、メリアは話を続ける。 「確かにその通り。だけれど怪しいのよね……。私は一応研究部門を担当している。と言っても政治には何の関係も無い、素人と言ってもいいのよ? どうしてマーズのことを言ったのか、まったく解らないのよ」 「それはその通りだ。……まさか、罠か?」  ヴィエンスは言った。  その言葉に、空間が凍り付く。  それは彼女の子供であるダイモスとハルも同じだった。 「……そうだとしたら、そいつを俺は許せない」  口火を切ったのはダイモスだった。彼はマーズのことが好きだ。もちろんそれは母親として、好きなのである。マーズのことが好きだから、彼女を助けようと思っている。助けねばならないと思っている。彼女をこのようにした『国』が許せなかった。 「……確かにその通りだ。私だって許せんよ。このように人間の命を弄ぶことについてね」  メリアの手は震えていた。怒りを抑えきることが出来ないのだ。  そう思ったヴィエンスは、メリアの手を優しく握った。  それを感じたメリアは思わず顔を上げる。  そして二人は目を合わせると――、同時に顔を赤らめた。  そこからが早かった。二人は瞬時に目を背ける。顔を赤くしているのに、未だ気が付いていないらしい。 「お二人とも……いったいどうしたのでしょう?」 「男と女の話題だ。放っておけよ」  ダイモスとハルは案外クールにそれを受け流した。  それはそれとして。 「取り敢えず、考えをまとめましょう」  一、と言って人差し指を立てるシンシア。 「マーズは捕まっていて、明々後日の朝には処刑される。おそらく公開処刑になるでしょうね。今、マーズに対する評価が最低らしい。仕方ないことなのかもしれない。実際、タカトが未だ『罪人』とされている以上、その関係性は裁かれてしまうことになるからね」 「……関係性、ねえ。実際問題、そこまでタカトが危険視されているのか?」 「どういうこと?」  それを聞いて、メリアは一瞬言葉の意味が理解できなかった。  ヴィエンスの話は続く。 「タカトはインフィニティを使って『あれ』を引き起こした。しかし、あれがほんとうにタカトによるものなのか、というのが疑問視されつつある。だが、それを無視して国は、それを正当化しようとしている……。国民は真実を知らないから、それで操作されていると言ってもいい。どう思う、この現状を?」 「どう思う……ですか」  答えたのはダイモスだった。 「もしかして、国は何かを隠そうとしていて……その代わりに今回の処刑を行おうとしている、ということですか?」  ハルの言葉に無言で頷くヴィエンス。 「そうだ、その通りだ。マーズの処刑のバックで何かを行おうとしている。……まったく、昔からあいつは食えない野郎だと思っていたんだよ、フィアットって奴は」 ◇◇◇  フィアットは食事をしていた。  ワインに分厚いステーキ、サラダ、ライス。見るからにして豪華な食事が並べられていた。ステーキをナイフで切ると、力をかけることなくすっとナイフが入っていく。ナイフで切り分けられた断面から肉汁が溢れ出す。  そのお世辞にも小さいとは言えない、切り分けられた肉塊を頬張る。  汚い食べ方ではないが、口に入れたときに肉汁が口の中から溢れ出し、膝上に置かれたナプキンに零れる。 「お飲物は如何でしょうか」  クライムがワインボトルを持ってきてそう言った。それを聞いてフィアットはクライムを一目見る。そしてクライムの姿と、彼が持っているワインボトルを確認すると、グラスに残っていたワインを飲みほした。  それをテーブルに置いたと同時にワインが注がれる。  今の彼にとって、ワインは血肉と同等だった。  ワインを飲むことで、それが彼の血となるのかもしれない。そう思う人間が表れてもおかしくはない程、彼はワインを飲んでいた。しかしながら、ワインにはアルコールが含まれていないのかと錯覚してしまう。  なぜならば、彼は一切酔っているようには見えないからだ。 「気分は最高だよ、クライム。私は凡てをレールに乗せている。プロットを作ったと言ってもいい。いや、今や私がこの物語のストーリーテラーになったと言っても過言では無い。そう実感させるほどに、物語が進行している」 「……『騎士団』は、うまく動きそうなのですか」  クライムの言葉を聞いて、彼はすぐそれに返答せず、ナプキンで口を拭いた。 「当然だよ。私の言葉を聞いて騎士団は必ずや行動に移すことだろう。そうしてもらわなくては困る。私の計画のためには、ね」 「……『チャプター』の計画、ですか」 「そうだ。チャプターはシリーズとは違う組織であり存在であり概念である。ならば、私の計画はシリーズとは違う。僕たちが考えた、新たな世界へと昇華するプログラムだよ。シリーズはインフィニティを使おうとしているらしい。ならば、その都合のいい存在を使ってしまえばいい」  その間、クライムは一度も相槌を打つことは無かった。する必要が無いのだ。寧ろ相槌を打ってしまうと彼の邪魔になってしまう――ということを、クライムも知っていたのだ。  フィアットの話は続く。 「インフィニティは非常に『好都合』な存在だ。何しろ、使い勝手がいい。起動従士の心があれ程までに弱いのは、おそらく帽子屋が何か仕組んだのだろう。ならば、それを使ってしまうほうがいい。使うことにより、僕たちの考えた計画もまた、新たな段階へと進む」 「つまり、インフィニティを使うことはシリーズとチャプターの共同認識である、と?」 「だってインフィニティはこの世界を救う存在だとも言われているんだよ? 救う存在ならば破壊する存在であってもおかしくはない。寧ろ表裏一体と言ってもいいくらいだ。正義と悪、その両方が介在する……それってとっても面白いことだと思うのだよね」 「そうですか……。わたくしは別に否定するつもりはありませんが、しかし少々急すぎる気もしますが」 「そうかな?」  フィアットは最後の肉塊を口の中に放り込んだ。  肉塊を数回噛んで、ワインで体の中に流し込んだ。 「たとえそうであったとしても、僕は別にかまわないと思うよ?」  人称が安定しないのは人格が安定していないことの表れだろうか。 「それが彼らの選んだ道ならば、ね。けれど僕はそれを認めない。認めるわけがない。僕はこういう人間だということは知っているだろう? クライムは、ずっと僕の執事をやっていたのだからね」 「ええ……。存じ上げております」  空のワイングラスにワインを注ぐ。 「ならば僕の性格は知っているはずだ。最低で最悪だ、と。それは僕だけでは無い。チャプター全員が当てはまることだよ。チャプターはシリーズから生まれた。もともとはシリーズの欠員を補填するための存在だった。だから、補欠とも揶揄されたよ。けれど、僕たちの実力はそれだけじゃない。それだけではないということを、シリーズに見せつける。そして僕らの実力を証明するんだ。その第一歩が、これということになる」  フィアットは凡ての食事を終えると、ナプキンで口を拭いて席から立ち上がった。 「就寝なされますか」 「いや、少し散歩する。今日は月がよく見えるからな」 「……解りました」  頭を下げてフィアットを見送るクライム。  そしてフィアットは、部屋を後にした。 15  夜の庭をフィアットは歩いていた。静かだが、仄かに虫の鳴き声が聞こえてくるなど、生き物の気配を感じられる。  彼はこの空間が好きだった。だから何かあった時は必ずここを訪れるのだった。  空を見上げると、ちょうど真上に満月が煌々と輝いていた。  夜のウォーキングを楽しんでいた彼だったが、そこで違和感に気付いた。  草花を見つめる、白いワンピースの少女がそこに居た。  普段の彼ならばここが立ち入り禁止である旨を伝え、出て行ってもらうだろう。しかし、今は違った。  彼女の美しさに、彼は見とれていたのだ。月光に照らされた、白い少女を――美しいと思った。  そんな様子で少しフィアットが彼女を見つめていると、彼女もその視線に気付いたのか、フィアットの方を向いた。  透き通るような白い髪、白磁のような肌、それとは真逆の凡てを吸い込むような黒の目。そのどれもが絶妙に調整され、尚且つ完璧だった。  彼女もまたフィアットを見つめていたが、直ぐに事態を把握したのか、頬が赤く染まる。 「あ……! 申し訳ございません。お花がとても美しくて……その……門も開いていたので」  門が? と彼は彼女の背後にある巨大な裏門を見た。裏門は確かに開放されていた。  少女の話は続く。目の前に居るのが地位の高い人間だと察したのかどうかは解らないが、緊張している様子だった。 「それで……私は暫く花を見ていました。少しだけなら、という軽い気持ちでしたが……。きっと、もうとても長い時間が過ぎていることでしょう……。ほんとうにすいませんでした」  深々と頭を下げる少女。それを見てフィアットは重い口を開けた。 「花は……綺麗だったか?」 「えっ?」  意味が理解出来なかったのか、少女は一瞬たじろいだ。 「聞いているのだ。その花は綺麗だったか……と。感想をただ言えばいい」  少女はそれを聞いて、小さく、しかしはっきりと頷いた。 「そうか……。なら、いい」 「月、綺麗ですよね」  唐突に彼女は言った。 「ああ」 「月の光って、あんなに静かな光なんですよね。でも、それは太陽の光を反射させただけ……。太陽から出た光という点では変わらないのに、昼と夜を作り出し、ここまで違ってしまうんですよね」 「……そうだな」  フィアットと少女は並んで月を見ていた。それはまるで恋人同士のようにも見えた。 「……もし君が、またこの花を見たいというのならば、この時間に門を開けておこう」  唐突にフィアットが言ったその言葉を聞いて、少女はそちらを向いた。 「いいのですか? 私は勝手に……」 「今日は勝手に入ったのかもしれないが、次からは違う。私の許可が下りているのだからな。警備にもそう伝えておこう」  それを聞いて彼女は微笑む。 「ありがとうございます……!」  フィアットはその笑顔を見て、それに応えるように微笑んだ。  フィアットはこの時点では理解しなかったかもしれないが――彼は彼女に恋をしたのだった。  ◇◇◇  その満月はマーズの居る独房からも見ることが出来た。 「ねえ、見て。月だよ! 真ん丸だよ!」 「ええ、そうね」  彼女は隣に居るルノーに言った。当然、ルノーの姿はマーズにしか見えない。だからほかの人間にとっては彼女が一人芝居をしているか、精神が崩壊しかかっている状態で、別の人格を作り出しその人格同士で話しているか――その何れかを考えていた。 「ねえ、マーズ。あなた、このままでいいと思っているの?」  ルノーは彼女に訊ねた。 「どうして?」 「だってあなた……あと三日で処刑されるのよ? かつて『赤い翼』なる組織の長も処刑されたという、あのギロチンで」 「そうね……」 「怖くないの、あなたは? 誰かに助けてもらいたいだとか、そんなことは無かったの?」  マーズは考える。  助けてほしくない、と言えば嘘になる。だが、彼女にはある考えが芽生え始めていた。 「ねえ、ルノー。実はこれは、私に対する罰なんじゃないかな……って思っているんだよ」 「罰?」 「そう。戦争で、リリーファーで、私はたくさんの人を殺していった。それが生きていくために仕方が無かったことだとしても……私はそれが許せない」 「でもあなた以外に……人間を殺したリリーファー、いいや、起動従士だって居たはずよ? あなた以上に人間を殺した、起動従士だって……」 「起動従士はいつか必ず裁かれる時が来る」  マーズの返答は端的でかつ簡潔だった。 「それは平和になったタイミングか、何かの拍子にヘマをしてしまったか……いつのタイミングかは解らない。けれど私たち起動従士は人間を殺した。その罪は遅かれ早かれ裁かれることは確実」 「今回のこれはそれに則ったもの……ってこと?」 「偉い学者が旧時代に書かれた本からまとめた文献に、こう書かれていたわ」  但し書きして、マーズは言った。 「人間は生まれた瞬間を以て何もかも決定される……と。寿命も、行動も、死因も、家族も」 「……聞いたことはあるわね、古い文献だったと記憶しているけれど」 「そう。古い文献。そもそも旧時代の文献はあまり信用されていないから、その文献も結果的に信用を失っているのだけれど」 「……でも、あなたはそれを信じているのでしょう?」  マーズは無言で頷く。 「だったら、それでいいじゃない。あなたがそれを思うなら、あなたがそう実感しているのなら。……私はあなたの生き方についてあれこれ言うつもりも無いし、否定するつもりも無い。だからこれで終わり。あなたの生き方について、これ以上言わない」 「それでいいよ。私もこの生き方を変えるつもりは無い。ただ、もしもそれでも私を助けてくれる人が居るのなら、私はそれに従うよ」  二人の会話はそれで終わった。  それが二人の会話に見えたのは、マーズとルノー以外に居なかった。 ◇◇◇ 「月が綺麗ですねぇ……」  その満月を眺めるのは、メリアも同じだった。  研究室には小さなパソコンが置かれており、電源が点いていた。画面に映し出されていたのは、マーズの身体情報についてだった。 「……満月はとてもきれいだ。だが、それよりもマーズのことが心配だ。検査の結果異常が無いことは解った。しかし……でも、まだあれは観測されているという」  ――マーズのもうひとつの人格、その析出。  それが行われたことについての疑問。精神的に異常が無いのならば、その原因が改められることになる。 「だとすればさらに疑問が浮上する。もし私の仮説が当たっているならば……」  そこまで言って、メリアはキーボードから何かを打ち込んだ。  それは記録だった。一人の女性に対する様々な記録だったのだ。  それを見てメリアは首を傾げる。データに違和感があったためだ。  そしてそれは彼女の考えていた『仮説』と等しいものになる。 「私は数年もの間……ずっとこれを危惧していた。だが、それを誰も理解しようとはしなかった。いや、もしかしたら薄々その事実に気付いていたのかもしれない」  気付いていたとしたら、さらに事態は悪化する。事態が悪化する――それは価値観と考え方が大きく異なることを意味している。  もしもそれを見て見ぬ振りしていたのならば――それを看過することは出来ない。看過してはならないのだ。 「リリーファーは強い。それによって戦争のシステムを大きく変えたのだから」  だが、だからとしても。 「だがリリーファーを開発する際、ベースとしたものは紛れもなくあのシリーズという異形だろう」  ならば、そうだとすると。 「シリーズと同じ成分が含まれている。その成分は人間には含まれていない。強烈な拒否反応を示すのは間違いない」  パソコンの下にある机から一冊の本を取り出す。  それは古文書だった。旧時代からある本には、こう書かれていた。  ――人はいつしか、恐れを忘れる。そして、それと同時に驕りを覚える。  ――一度驕り始めると、人はそれをグレードアップさせていく。ならば、驕りを無くせばいいのか?  ――そのために私は考える。そして私はそれを『シリーズ』と呼んだ。  どこかの国、いつかの時代に書かれたそれは、彼女の目を引いた。そして直ぐに、彼女にとってこれは有益情報であることを確信した。  メリアにとってその事実は、彼女の研究を、彼女の仮説を位置付ける有力な証拠と成り得た。 「……この世界は仕組まれている。リリーファーのことも、起動従士も……。いいや、そもそも、どうしてこの世界はリリーファー同士による戦争を強いている? それっていったい……」 「それ以上はいけない」  声が聞こえた。  振り返ると、そこに立っていたのは白いワンピースの少女だった。  少女は長い銀髪を風に靡かせていた。ほのかに笑みを浮かべ、メリアに言った。 「はじめまして……でいいのかしら? 私の名前はクック・ロビン。シリーズの番外個体と呼ばれている存在です。ああ、そのままで結構。私はあなたたちに危害を加えることはありません。それをする必要もありませんからね」 「……それをどう信じろ、と?」  メリアの言葉を聞いて微笑むロビン。 「それもそうですね。その通りですよ。確かにそれについて疑問を浮かばれるのは間違っていません。寧ろ正しい認識だといえましょう。でも、私はそうだとしても、こう言い切りますよ。私はあなたたちに危害を加えるつもりはありません。忠告に訪れたのですよ」 「忠告……ですか」 「ええ」  ロビンは微笑み、もう一歩。 「あなたの考え以上に、この世界は大きく変貌を遂げようとしている。その点の中心に立つのは、タカト・オーノ。ただ一人なのよ。……あなた、『ツクヨミ』というリリーファーを聞いたことがある?」 「ツクヨミ……? 聞いたことも無い。第一世代か?」 「いいえ。それは第一世代でも無い、もっと言うなら世代という概念にとらわれていない……。あなた、インフィニティの真の意味を知っているかしら?」 「インフィニティの……真の意味?」 「そう。インフィニティがなぜインフィニティという名前を与えられたのか。少しはそれを考えてもいいかもしれないわね」  それだけを告げて、クック・ロビンは姿を消した。 「インフィニティの、意味……ですって?」  それを反芻するが、すでにもうロビンの姿は無く、彼女も目を疑うだけだった。 16  三日後。  早朝、マーズ・リッペンバーは『彼女』と話をしていた。 「もう、今日でおしまいだね」  その言葉にマーズは頷く。  結局、今日まで誰も来ることは無かった。  彼女を救う必要などない――そう思われたのかもしれない。 「あなたは悪くない。あなたがそれを言っただけだから。……さあ、向かいましょう。もうすぐ、あなたを迎えにやってくる」 「誰が……?」 「マーズ・リッペンバー、外に出ろ」  声が聞こえた。  見ると鉄格子がつけられた扉が開け放たれており、そこから一人の男がマーズを見下していた。  それがかつて彼女の部下であった男であることは、マーズも知っていた。 「……今日、ですか」 「そうだ。今日、お前は処刑される。それは間違っていないことだ。それを受け入れ、処刑される」 「……そうね。私、処刑されるのよね」  どこか遠くを見つめるマーズ。 「怖いか? まあ、今更言っても遅いが」 「遅い、でしょうね。でも、私は後悔していない。たとえタカトとの関係が解って、それが原因で死ぬことになっても……私は後悔しないわ」 「それをどこまで言えるかな」  そして、マーズは外に出され、ある場所へと歩き出した。  それが彼女の最後の地だということを、まだ彼女は理解しなかった。理解したくなかった。言葉では言ったとしても、未だ彼女は願っていたのだ。誰かがきっと助けてくれるだろうということを、未だ望んでいたのだ。 ◇◇◇ 「作戦会議をする必要は?」 「ないだろ。とにかく、マーズを救う。ただそれだけのことだ」 「もしかしたら軍が居るかもしれないけれどね」 「それは問題ない。すでに軍の人数及びリリーファーの数は把握済みだ。……ハリー騎士団の底力を見せてやろうぜ」  工廠、その奥底。  ニュンパイに乗り込むヴィエンス、ブルースに乗り込むダイモス、リズムに乗り込むハルはそれぞれ行動を示していた。  作戦は簡単だった。――リリーファーを使って、マーズを救出するということ。  それによって、ハリー=ティパモール共和国は崩壊の一途をたどる可能性もあった。  だが、マーズを救うためには仕方ないことだ。それはヴィエンスも理解していた。  マーズ・リッペンバーはこのような場所で死ぬ人間ではない。それはヴィエンスが提唱したことだった。彼が強く提唱しなければここまでの行動をすることは出来なかっただろう。 「……怖いかもしれない。今まで、自分たちが仕えていた、自分たちが家族のように接していた人間たちと戦うことになるのだから。そうなってしまったことを、先ずは謝罪する」 『どうしてヴィエンスさんが謝罪する必要があるんですか?』  訊ねたのはダイモスだった。  ダイモスの話は続く。 『確かにこれは最悪のケースかもしれませんが……そうだとしても、僕がこの選択をしたのは、自分自身の責任によるものです。ですから、責任は自分で取るのがふつうですよ』 「……ダイモス」 『私も一緒です』  その発言はハルからだった。 『私も兄さんの意見に賛成します。母親を……母さんを救うために、出動してはならないのですか。目の前で母さんが殺されてしまうのを、ただ指をくわえて見ていろと言われて……素直に従うはずがありません』 「……そうだな。確かに、それはその通りだ」  その筋が通っているというのも――あいつの子供だからだろうか。  ヴィエンスはそんなことを考えたが、それを口に出すことなどしない。  三人は一歩進む。  その先にあるものが希望なのか、絶望なのか――それは未だ誰にも解らない。 ◇◇◇ 「いよいよこの時がやってきた」  コルネリアはマイクを通して、四機のリリーファーに告げた。  インフィニティに乗り込んでいるタカト。  アイン――黄色のリリーファーに乗り込んでいるシズク。  スメラギ・アンに乗り込んでいるエイミー。  スメラギ・ドゥに乗り込んでいるエイムス。  これらはレーヴの精鋭と言ってもいい、最強の布陣であった。 「私もあとでベスパに乗り込み直接指示を送る予定なので、そのつもりで」 『ベスパで?』  訊ねたのは崇人だった。 「ええ、ベスパならば私も操縦することが簡単だもの。だったらそれを使ったほうがいいでしょう?」 『まあ、それもそうだが……。でも指揮官というものは安全なところで指示を送るに徹したほうがいいんじゃないのか?』 「それも考えたのだけれど……、でも見てみないとね。何も言えないのよ。見ることで初めて現場の流れが解る……そういうパターンだってよくあるわけ。だったら、私もリリーファーで出撃したほうがいい。もしかしてタカト、私のことを心配しているの?」 『心配していないと言えば、嘘になる。やはり、かつてのチームメイトだったからな』 「……ありがとう、タカト」  突然コルネリアの言った言葉に、崇人は目を丸くする。 『どうしたんだよ、突然。そんなことを言いだして。らしくないぞ』 「いいの。こういう時じゃなければ、言うことも出来ないから」  コルネリアは小さく溜息を吐いて、言った。 「それでは、全員出動! 目標、マーズ・リッペンバー!!」  こうして彼らは行動を開始する。  そのサイドは違うかもしれないが、彼らの目標は一致していた。  マーズ・リッペンバーの救出。  それによって何が起きるのか――世界がどう変わってしまうのか――彼らが知る由も無い。 17  断頭台。  文字通り、首を切断するための台である。  ステージの上に置かれたそれは、民衆に見える位置に堂々あった。 「ついてこい」  手錠をつけられているマーズはステージの上へと引っ張られる。  同時にステージを見ていた民衆は怒号をまき散らす。何か物をマーズにぶつける人間だっていた。しかしマーズは動じなかった。ぶつけられたものが原因で傷を作り、血を流そうとも。彼女はただステージから民衆を見つめるだけだった。 「……何か言いたい言葉はあるか」  最後にこう告げるのだろう。  マーズは頷いて、一歩前に出る。  マーズ・リッペンバー最後の言葉。 「――みなさんに何を言っても、許してくれるとは思っていません」  一言、それを聞いて民衆の怒号が復活する。 「何を言っているんだ!」 「お前が民衆を裏切ったんだろうが!」 「裏切り者! さっさと処刑されろ!」  不満をまき散らしている。  しかし、それでもマーズは動じない。 「ですが、これだけは伝えたいのです。タカト・オーノについて、そして……あの『十年前』の災害について」  しん、と場が静まった。  同時にそれを上から眺めていたフィアットは笑みを浮かべる。 「タカト・オーノはインフィニティの起動従士です。インフィニティは最強のリリーファーとして謳われ、それを操ることの出来る人間が居ませんでした。しかし、彼が登場したことでこの世界の歴史は大きく動き出したともいえるでしょう」  タカト・オーノの歴史について語るマーズ。  そこで数人の民衆は違和感を抱いた。 「突然、インフィニティに乗ることの出来る人間なんて現れるのかよ!」 「そう。そこは私たちも長年気になっていたところです。……彼は遠い場所からやってきました。異世界人、とでも言えばいいでしょうか」  その言葉にざわつく民衆。  異世界という言葉には、民衆も聞き捨てならないものがあるのだろう。特にこの時代、世界から逃げ出したいと願う人が続出している。そういう人間たちにとって――『異世界』は素敵な響きなのである。 「異世界人である彼は、この世界について何も知りませんでした。まあ、当然ですよね。異世界に住んでいた人間がこの世界の知識を持っていたら逆にそれは不思議ですから」  マーズの話は続く。  人々はマーズの話に取り込まれていった。 「ですからタカトは学校に入ることになりました。リリーファーの技術を学ぶためではなく、この世界について学ぶために……。今は亡き先代ヴァリエイブル国王もそれに賛成していました」 「先代のヴァリエイリブル王が?」  それを聞いてさらにざわつく民衆。  フィアットは徐々にマーズが何をしたいのかが解ってきた。 「成る程ね……」  理解した後、再び笑みを浮かべる。  ワインを啜り、呟く。 「そんな作戦が、ほんとうに成功するとでも思っているのかなあ?」  そしてフィアットは背後に居た兵士に何かを告げる――。 ◇◇◇  マーズの話は続く。 「先代ヴァリエイブル王は考えました。このリリーファーを使えば最強の国家が誕生すると。確かにその通りだと私も思っていました。数十年という長い間、ヴァリエイブルは他国との戦争の危機に脅かされているから。でも、そう簡単に世界は変わってくれない。だからこそ私たちは今の状態を変えよう。この世界を変えようと考えていました」  次第に、マーズの声を批判していた人間の声が小さくなっていく。  マーズの話を聞こう――そう思う人間が増え始めたのだ。  マーズの話は続く。 「ティパモールで起きた戦乱を覚えていますか。あの時、私たちは戦ったのです。そして、正義のために――タカトは人を殺めました。赤い翼、そのリーダーを」  赤い翼。  それを知らない人間等、ティパモールに居るはずがない。  ティパモールを独立させるために尽力した団体であり、現在はハリー=ティパモール共和国の首脳にまで上り詰めている存在だ。 「赤い翼のリーダーは、インフィニティを使って世界を壊そうとしていたのです。当然それは許されません。この世界の平穏は、私たちが守るのと同時に私たちが壊す可能性だってあるのですから」  世界のため。  そして、自分たちの正義のため。  そのために、人間を殺す。  同じ人間同士で、争う。  それは間違っているのだろうか? 「私たちは『正義』を貫きました。貫くために、或いは、貫いていくために、世界の行われた争いを仲介するために戦いました。それは間違いではない、正しいことだと思っていました。――ですが、あるタイミングでそれは虚構であると思い始めました。それが十年前の『破壊の春風』です」  しん、と静まった。  その中で、物ともせずマーズは話を続ける。 「『破壊の春風』はひどいものでした。しかしながら、それが起きた原因については誰も語りません。語ろうともしません。間違っているわけでもありませんが、少々おかしな話とは思いませんか? 普通、語る人が居てもおかしくはないでしょう、あの災害の後に起きたことを」  確かに、人々は知らない。  あの災害が発生したことと、その被害は知っていても。  その災害が起きたまでの過程は――知る由も無いのだ。 「あの時、ティパモールに程近いコロシアムではある大会が行われていました。今となってはもう行う余裕など無くなってしまいましたが……。その名前を、こう言いました。『全国起動従士選抜選考大会』と」  その名前は聞いたことある人も多いようで、民衆の中で頷く人も出てきている。  それを見てマーズは続ける。 「全国起動従士選抜選考大会は、文字通り起動従士を集めるものです。正確に言えば、起動従士を目指す若者を競わせ、優秀な成績だった若者はそのまま起動従士となるものです。私もそうでした。私もそれによって起動従士に選ばれ、今日まで起動従士として生きてきました」  マーズが起動従士としてリリーファーに乗っていたのは、七年前までのことだ。  それからは慣れない政治の勉強をしていたので、リリーファーで戦うのは後の世代に任せていたのだ。 「大会に参加して起動従士という夢を掴む若者は多かったです。決して少ないとは言えません。あの時も……確か総勢百名近い人間が居たのではないでしょうか。その人間がみな、起動従士になるために努力を重ねてきました。そして、あの舞台……あそこで世界が一旦終わり、今の世界が構築されたと言ってもいいでしょう」  世界は一度終わった。  その言葉にどよめく人もいたが、それでもマーズは無視し続ける。 「今の世界が構築されてしまった原因は、確かにタカトにあります。けれど、この世界がいたるまでの過程の上で……何度も彼は世界を救ってきました。それも、理解してください」  マーズ・リッペンバーはただ前を見ていた。  彼女の強い意志は、この時であっても変わらなかった。 「世界を救ってきた彼を……世界は見捨てるのでしょうか? 見捨てなくてはいけないのでしょうか。そもそも、彼はあの災害を起こしたといえるのでしょうか?」  今度こそ。  民衆のざわつきが大きくなる。それは彼女も理解していたことだ。 「彼は、インフィニティに乗り込んでいました。しかしその時インフィニティには……タカト以外の熱反応があったと言われています。その証拠もきちんと残っています。その証拠を提出すればタカトの無実は証明されます」  その発言は、フィアットにとっても予想外のことだった。  それと同時に、民衆の動揺はピークに達する。 「タカト・オーノは無実です。彼は何もしていません。寧ろ彼も被害者なのです――」 「それではこれより、マーズ・リッペンバーの処刑を執行する!」  痺れを切らした兵士はマーズの身体を抑えつける。そして、強引に断頭台へと運ぶ。 「やめて! まだ話は終わっていない……。まだ話すことがある! 彼の無実を証明しなくてはならないの! たとえ私がここで処刑されたとしても!!」  そして。  マーズ・リッペンバーは力の限り、叫んだ。 「タカト・オーノと『インフィニティ』はこの世界に必要な存在だから……!」 『――間に合ったようだな』  それと同じタイミングだった。  スピーカーを通したような、どこか間延びした音声が広場に響き渡った。  民衆は動揺する。周囲を見渡し、それがどこからのものかを調べる。  見わたすまでも無かった。  なぜなら。 『マーズ・リッペンバー、彼女を救いに来た』  ヴィエンスが乗り込むニュンパイが、広場のすぐ目の前に居たためである。  それを見てフィアットは舌打ちする。 「奴ら……。軍用の特別回線を用いやがった! あれは確か……首都戦争反撃用のものだったはずだ!!」  慌てて立ち上がり、フィアットはどこかへと歩き出す。 「どこへ?」  クライムの言葉に笑みを浮かべる。 「……クライマックスを楽しみに見に行くんだよ。映画だってクライマックスを楽しみにするだろう? それと同じ原理。これからクライマックスだ。どうなるか、楽しみだろう?」 「それは、わたくしも同じでございます」  恭しく頭を下げるクライム。 「そうだろう。ならばついてくるがいい。急がないと間に合わないぞ」  そして――クライムとフィアットはある場所へと向かった。 18  ヴィエンスの乗り込むグリーングリーンニュンパイは広場を一望するように屹立していた。ニュンパイは現世代である第六世代に比べれば性能は劣る。しかしながら、リリーファーが殆ど存在しない現状では、これでも無いよりはマシの部類に入る。 「どうやら、あっという間に終わる……と思うのだがね」  ヴィエンスはそう言いながらも油断はしない。かつてそれをした結果、窮地に立たされたことが何度もあった。慢心はしてはならない――それが彼の一番の言葉ともいえるだろう。 「さて、それじゃ……急いでマーズを救うことにしましょうかね」  そしてグリーングリーンニュンパイは一歩踏み出した。 『――残念ながら、そう簡単にこちらも奪われては困るのだよ、ヴィエンス・ゲーニックくん?』  声が聞こえた。  それと同時に左半身に熱光線が当たる。 「ぐあああああ……! 敵、やはりね!」  ヴィエンスはこの事態を想定していた。それどころか、リリーファーが警備していることはすでにメリアから入手済みである。彼女の協力さえなければここまでリリーファーを運ぶことも出来なかっただろう。  ヴィエンスはそちらを見る。  そこに立っていたのは――凡てを黒に包んだ、球体。正確に言えば、球体に手足がついている。まるでヒヨコが卵の殻から手足を伸ばしたかのような、そんな感じだった。 『ああ、これに驚いているようだね? 漸く実戦投入することの出来る段階まで到達したからね。少しは試しておかねばならない。クーリングオフよろしく、試用期間は大事だ。そうだろう?』  乗り込んでいたのは、見知らぬ人間だった。  しかし、高圧的な態度はフィアットを想起させる。 「あんたが誰だか知らないが……こっちは人を救わねばならない。彼女は大事な存在だ。ハリー騎士団としても、そして、いつか『アイツ』が帰ってきたときに備えて、彼女はここに居てもらわないと困るんだよ!」  コイルガンにエネルギーを装填するヴィエンス。  徹底抗戦の構えだ。  黒のリリーファーは動かない。 『……実戦投入の耐久テストをしても構わないだろうね。計算上ならばインフィニティの攻撃にも五十五秒までなら耐えうることが出来るらしいが。このリリーファー「ヤタガラス」のテストになることを、誇りに思うがいい』 「吠えていろ」  そして。  ヴィエンスは『ヤタガラス』に向けてコイルガンを撃ち放った。  ニュンパイに標準搭載されたコイルガンは他のリリーファーに比べると性能が劣るものの、充分実戦に耐えうるものとなっている。  インフィニティの攻撃でも一分は耐える――そんなリリーファーが開発されたことなんて聞いたことも無い。そんなものは嘘っぱちだ。インフィニティの攻撃にそんな長時間耐えるリリーファーがあるはずがない。  ヴィエンスの見解はそうだった。  しかし、それは大きな間違いだった。 『……今、君はコイルガンを使って攻撃したのかい?』  問われて、ヴィエンスは何も言えなかった。未だ現実を飲み込めていないのだ。  それを理解しているからこそ、敵は言った。確認した。今の攻撃はコイルガンによるものなのか、と。  そこにあったのは、傷一つついていないヤタガラスだった。 「はっはぁ! やってやったぞ! ヴィエンスがどんな表情を浮かべているのか容易に想像が出来る! 一言で言えば絶望だ、絶望に満ちた表情をしていることだろう!!」  フィアットは高台からそれを見て、高らかに笑っていた。  クライムは静かにただ微笑むだけで、彼の背後に立っていた。 「……しかし、あれほどまでに高性能なリリーファーを開発していたとは、まったく知りませんでした」 「騙すなら先ずは味方から……とは聞いたことがあるだろう? それを実践しただけだ」  クライムは再び頷く。 「……しかし、まさかここまでの成果を弾き出すことが出来たとは。これは素晴らしいことだぞ……。すぐに量産態勢に入らねば」 「量産……出来たとしても人が足りません。リリーファーに乗って戦う、起動従士の存在が」 「何を言っている、クライム? ……無いなら作ってしまえばいいのだよ、適性を持った存在を!」  適性を持った存在。  それは即ち、起動従士のことそのものを意味していた。 「起動従士を量産など、可能なのでしょうか」 「簡単だ。ちょっと脳を弄くってやればいい。それだけで起動従士に必要な要素は満足される。……人間とは本当に単純な生き物だ。だが、それがいい。実に素晴らしい」  フィアットは笑っていた。この世のものとは思えない、歪んだ表情だった。 「……どうした。まるで僕が普段と違う、別人のように思っているのかい? だとしたら、それは不正解。掠りもしていないよ。正解は、元々僕はこういう存在だった……ということだよ」 「そのようなことは……」 「無い、と言いたいのかい。お人好しだね、クライムは。本当にお人好しだ。だが、それはいつか身を滅ぼすだろう。僕の正体を知れば、もう君は戻ってはこられない。ただの執事だった君が、関係者になるのだから」  クライムは何も言えなかった。  自分の現状を、フィアットの真実を理解したくなかったのだ。自分のやってきたこと凡てが崩れ去ってしまうような気がしたからだ。 「……解った。ならば、選択の自由を君に与えよう。僕の真実を知りたいか、知りたくないか。二択だ。答えなんて全く無い。どれが正しいだなんて誰が選んでも変わらない。ならば、自分の力に信じるのもいいとは思わないか?」 「私は……」  クライムは考える。何時もならば直ぐに了承していた。  しかし事態が事態である。ここでどのような選択をすれば良いか――恐らく選択次第では死ぬことも考えられる。  クライムは冷や汗をかいていた。いつも冷静を欠いたことの無いクライムにとって、それは経験したことの無い『異常事態』だった。 「……さぁ、選びたまえ。君は一体どちらを選択する? 僕の真実を聞いて受け入れるか、聞かないで真実を闇に葬り去るか。答えは決まってると思うがね」 「私は……真実を受け入れます」  軍門に下る。  その選択を決断したのは、まさに苦渋の決断と言えるものだった。  それを聞いてフィアットの表情が歪む。笑顔でも怒りでも憎しみでも苦しみでもない、まったく新しい表情。 「ならば教えてあげよう。僕の名前は『フィアット』だ。しかし人間ではない。チャプターという、まったく新しい概念だよ。人間の進化の可能性、と言ったほうがいいかもしれないがね」 「……ったく、何なんだ! あのリリーファーは……! まるで、化け物じゃねえかっ」  グリーングリーンニュンパイ、コックピット内部。  ヴィエンスは目の前に屹立しているリリーファー、ヤタガラスを見て何も出来なかった。  黒を基調としたカラーリングであり、グリーングリーンニュンパイに比べれば大きさは一回り小さい。たったそれだけにもかかわらず、性能差は圧倒的だった。 『もう降参ですか? まぁ、国家を変えようとする反逆者の一団ならば、それすらも認めませんけれどね!! そもそも、あなた独りで何が出来ると!? 古いリリーファーにしか乗れない老害が、何を言ってやがるんですかね!!』 『独り……だって?』  背後から、声が聞こえた。  ヤタガラスの背後には、いつの間にか二機のリリーファー――ブルースとリズムが立っていた。 「いつ、俺たちが独りだって言った? ハリー騎士団はマーズが捕まった時点で、いいや、その前も!! 団結して動いていたんだよ!! マーズを救うために、俺たちはさらに団結した……!」  そして、ヤタガラスに二機分のエネルギーが込められたコイルガンが放たれる――。  ヤタガラスが倒れていく。  それは人々にとって、新たな時代の幕開けを予感させるものでもあった。 「ヤタガラス……リリーファーが……国のリリーファーが、倒されていく!」  処刑が途中で中断されているマーズはその光景に向かって叫んだ。  直ぐに兵士が彼女の身体を激しく揺らす。強制的に言葉を止めるためだ。 「ダメ……。ヤタガラスはそんな簡単に倒せる相手じゃない……!」  マーズは知っていた。  ヤタガラスは、リリーファーの中でも最強クラスであり、その存在が隠されていたということを。  ヤタガラスが秘密裏に開発されていたことと、起動従士を人工に開発しようとしていたこと――これら両方、彼女は知っていた。知っていたからこそ、その場から逃げたくなかった。インフィニティに頼ろうと思っていた。  だが、それが裏目に出た。 「こうやって邪魔者を排除していったのかしらね。あのフィアットという奴は」 「処刑を執行する」  兵士は漸く断頭台に彼女を運び込んだ。後は兵士の持つ剣で首を分断させるだけとなった。  彼女は目を瞑り、その時を待つ。受け入れた、ということになる。 『駄目だ、マーズ。未だ諦めるんじゃない!!』  スピーカーを通してヴィエンスの声が聞こえる。  マーズは顔を上げ、グリーングリーンニュンパイの方を見つめた。  ヴィエンスの笑顔が、見えたような気がした。 『お前は未だ生きていなくちゃいけないんだ!! 世界はどうした、タカトはどうした! お前がここで死んだら……俺はあいつに会わせる顔が無いんだよ!』 「タカト……、そうね。彼にも悪いことをしてしまったわ。私は彼に会わせる顔なんて……」 『マーズ、何を言っているんだ。お前は母親だろう!? そんなことを言って、子供を遺してお前は死ねるのかよ!?』  ヤタガラスはゆっくりと起き上がる。  ヴィエンスは舌打ちして、再びコイルガンにて攻撃を開始する。 「私だって……私だって、死にたくないわよ……。ダイモスとハルと、楽しい思い出をたくさん残していきたいわよ……!」  マーズの目から、ポロポロ涙が零れ落ちていく。  涙が溢れて止まらなかった。 「泣いても叫んでも結果は変わらない。……マーズ・リッペンバー、お前はここで死ぬ」  マーズを断頭台に抑えつけ、兵士は剣を構えた。  一度、兵士は刀身をマーズの首に当てる。ひやり、と冷たい感触が彼女の首筋を走った。 「これで終わりだよ。足掻いても無駄だ」  そして、兵士はマーズの首目掛けてその剣を振り下ろした――。 『そんなこと、させるか』  その時だった。  低く落ち着いた声と、唸るような大地の振動があったのは、ちょうど同時のことだった。  断頭台の後ろに、一機のリリーファーが立っていた。  そのリリーファーを見たことの無い人間など、誰も居ないだろう。 「インフィニティ……、とうとうやってきたか!」  フィアットはそのリリーファーの名前を言って、ニヤリと微笑んだ。  インフィニティ。  かつては最強と謳われた、伝説のリリーファー。その火力も、エネルギーも、計り知れない。  それが今、目の前に君臨していた。 「……マーズを餌にすれば、必ずや訪れると思っていたよ。人間はこういう感情に甘いからねぇ」  フィアットは愉悦の笑みを浮かべる。自分が望んだ展開になったこと――それが恐ろしく、そして嬉しかった。  クライムは背後にただ佇んでいた。 『……マーズ、無事か?』  崇人の問いにマーズは大きく頷く。  マーズの隣に居た、首を分断しようとしていた兵士は、インフィニティを警戒している。  警戒、とは言っても相手はリリーファーだ。勝ち目など、万に一つも存在しないだろう。体格差、兵力差、火力差……様々なことで人間は劣っている。  それ程までに、人間の戦争はリリーファーに頼りきりになってしまったのだ。 『一先ず、敵を倒す必要があるな……』 『おい、タカト』  崇人が制御を再開しようとしたタイミングで、声をかけられた。  その声はグリーングリーンニュンパイに乗り込むヴィエンスからだった。 『やぁ、ヴィエンス。……本当に久し振りだな。特にこうやって二人ともリリーファーに乗っている姿というのは』 『乗るな、と警告されていたんじゃないのか』  再会を喜ぶよりも。  彼はそれを気にしていた。 『……今、僕はレーヴの人間だからね。あちらの命令に従っただけだよ。あちらもこちらもインフィニティの力を求めていた。こっちはインフィニティだけを求めていたが……、あっちは僕自身も必要とされていた。だから、レーヴに着いた』 『こちらが仮にお前に乗って欲しいと言ったのならば、こちらについたというのか?』 『あぁ、そうだよ。その通りだよ。実際問題、僕は君たちに否定された。拒絶された、と言ってもいいかもしれないね。その状況下で君たちに協力しよう、なんてそんな虫のいい話があるか?』  ヴィエンスは何も言えなかった。  そもそも当時の国の見解として、崇人は危険分子として扱われていたため、あのままの状態ならばリリーファーに乗ることは愚か自由に生活することも出来なかっただろう。 『グリーングリーンニュンパイのような旧式のリリーファーは今や少なくなってしまった、と聞いた。理由は判明している。あの災害によってリリーファーの意義が見直され始めたからだ。リリーファーは平和のために本当に必要なのか、そう思われたとも聞いている』 『どこでそれを……、いや、言わなくても何となくだが理解した。レーヴか。レーヴがそんな法螺を吹いたんだ』 『法螺を吹いた、と言える証拠はどこにあるんだ? 現に旧式は廃れているじゃないか。このまま放置しても崩壊の一途を辿るのみだぞ』 『……確かにお前の言葉が間違っているなんて、声を大にして言うことは出来やしない。俺たちはただ国がこうしろと言われたことについて、イエスと答えているだけだよ』 『ヴィエンス……どうしてだ! 少なくとも十年前の君はそうでは無かったはずだ!』  ヴィエンスは何も答えない。  崇人の話は続く。 『なぁ……、答えてくれよ。どうしてお前は変わってしまったんだ?』 19  ヴィエンスはグリーングリーンニュンパイのコックピット内部にて、俯いていた。  崇人に真実を告げて良いものか、悩んでいたからだ。  もちろん今の目的はそんなことではなく、マーズを断頭台から救出することだ。恐らく崇人もそう考えているに違いない。 (レーヴのリーダーが何を考えているのかは、はっきり言って未知数になるが……。わざわざ何機もリリーファーを出動させたところを見ると、やはりマーズの救出となるだろう)  しかし、ヴィエンスには疑問があった。  それは、どうしてレーヴが彼女を救うのか? ということだ。レーヴの目的は(少なくともヴィエンスたちについては)全く情報が入っていない。だから、マーズを狙う意図が全く掴めないのである。  掴めないからこそ、解らない。何がしたいのか解らないのだ。 「全くもって理解出来ない……。どうしてこんなことになってしまったんだ? 世界が変わってしまって……それだけじゃない、皆も変わってしまった。どうしてこんなことになったんだろうなぁ……」  ヴィエンスは言うだけだった。具体的にそれをどうにかする案が浮かばなかったからだ。 「タカト……お前はいったいどんな『意志』を持っているんだ……?」  ヴィエンスの問いは、彼の耳まで届くことは無かった。 20  マーズはそれを眺めるだけだった。参加したくても参加出来ないことが苦痛で仕方なかった。  どうして自分はこのようなことになってしまったのだろうか、マーズは考える。  元はと言えば、十年以上前マーズとタカトが出会い、彼にインフィニティへ乗るように指示したのが始まりだった。その頃未だ彼女はインフィニティの起動従士が発見されたという案件についての事の重大性を理解していなかった。  インフィニティによる被害を、未だ彼女は見くびっていた。 「これが……この世界最強のリリーファーの力」 「果たして、それは未だ続いているものだと言えるのか?」  兵士が嘲笑しながら彼女に訊ねた。 「ええ。最強はインフィニティ。これは揺らがないでしょうね。たとえ、世代が幾つ増えていったとしても……それが変わることは無い!」  マーズの切った啖呵に思わず笑いが零れる兵士。 「いやあ……面白い話だったからつい笑いが込み上げてきてしまってね。別に君の話がつまらなかった訳ではないということは否定しておくよ」 「つまりあなたは、はじめからまともに話を聞く気なんて無い、と」 「そりゃそうでしょう。一介の兵士がそんな話を聞いている……そして感想を述べる。普通に考えるならばそちらの方がおかしな話だ。そうとは思えませんか? まぁ、あなたはそんな幻想を抱いたままらしいですが……」 「あなた……いったい何者?」 「僕が誰かを言ったら、話がつまらなくなるだろう? ……でも、ヒントだけなら与えてもいいかもね。たった一回だけだから、良く聞くといいよ」 「いいからさっさと話しなさい……!」 「おお、怖い。話すと言っているだろう? それとも君は人の話も聞くことが出来ないのかい。それじゃ、ヒントだ」  彼は再び剣を構える。 「君が子供を作ることとなった原因……知っているかい?」  見当違いのことを言い出したので、マーズは目を丸くしてしまった。  兵士の話は続く。 「確かあれは『誰か』が君に細工をしたからだ。発情させ、興奮させ、タカトと『行動』に至った。だが、君は気付かなかったんだよ。その時に何があったのか、ってことの本当の意味に」 「本当の……意味?」  マーズは何があったかを思い出そうとする。  だが、曖昧なその記憶は断片的にしか思い出すことが出来なかった。  それを予測していたのか、兵士は舌なめずりを一つ。 「誰かから聞いたことは無いかい? 『バンダースナッチ』とは単数ではなく複数個体の総称である、と。そして君にバンダースナッチの魂を埋め込んだことを」  マーズは思い出せなかった。  もしかしたらその記憶は、あまり残らないように細工がされていたのかもしれない。 「バンダースナッチの魂には器が必要だ。だがその器には成熟しきった身体よりもこれから成長する身体のほうがいい。長く続ければ受け入れやすくなるのは当然のことだからね」 「あなたは……いったい何が言いたいの!? 十年前……私の身体に何かしたというの!?」 「ああ、そうだよ」  あっさりと兵士は肯定する。 「十年前、『器』が成就することを祈って、魂を入れ込んだ。すると面白いことに、その魂は二つに分かれた。そんなことは、今まで有り得なかったというのに! 人間の神秘とは、斯くも美しいものだよ。そうだとは思わないかい?」  マーズは何も答えない。  兵士はそんなマーズを余所目に、真実を告げる。 「……はっきりと言ってしまおう。君はダイモスとハルを君とタカトの子供だと認識しているのかもしれないが、それは半分間違っている。正確には僕の子供だよ。そもそも、僕たちには『子供』という概念が無いから、人間に合わせてそうカテゴライズするしか無いのだがね」  彼女にとっての常識が、音を立てて崩れていく。  ダイモスとハルが、彼女の子供では無い――それだけ、その真実を聞いただけで、彼女は何も出来なかった。  兵士の話は続く。 「どうした、どうしたのかな? 僕が言ったことがそれほどまでに胸を痛めたのかい? 謝罪はしないよ。するわけがないだろう?」 「ええ……。それくらい解る」  兵士が謝罪をするはずがない。  なぜならそこに立っている人間は――。 「正確に言えば人間ではないのだけれどね。『久しぶり』、マーズ・リッペンバー?」 「帽子屋……!」  シリーズ、帽子屋が立っていた。 ◇◇◇  崇人とヴィエンスの攻防は続いていた。  それだけでは無い。崇人が率いるレーヴ軍とヴィエンスが率いるハリー騎士団とで大きな争いと化してしまった。  だが、その争いは誰が見ても新式リリーファーを所有している――レーヴの方が優勢だった。 「どういうことだ、これは!」  フィアットは我慢できなくなったのか、激昂する。 「どうなさいましたか。これも計画のうち、なのでは?」 「そんなはずがあるか! これは……これは違う! こんなことにはならないはずだった! クソッ! 早く、早く、処刑すればいいものを!」  フィアットは柄にもなく叫んだ。  見つめながら、クライムはフィアットの肩を小さくたたいた。 「大丈夫です。何の問題もありません。これからではありませんか。まだまだ時間はあります。今はあちらが有利かもしれませんが、このままいけばハリー騎士団もレーヴも力を使い果たすでしょう。そのタイミングを狙うのです」 「タイミングを……成る程。それはそうだな」  フィアットはすぐに微笑む。それを見て一息吐くクライム。  かつてこのようなことがあった時、コントロールが出来ず、フィアットが暴走したことがあった。 そのことを教訓に、現在はすぐにコントロールできるようになった。  悪い言い方をすれば洗脳そのものだが、間違ってもそれは洗脳では無い。  マインドコントロールとでも言えばいいだろうか。その類に近いものをクライムは行っている。  それは悪いことではない。彼にとって正しいことであると、実感している。 「さあ、行いましょう。あなたの信じる道をそのまま進めばいいのです。あと僅かなのでしょう? ならば、猶更頑張るしかありませんよ」  クライムの言葉に何度も頷くフィアット。  そして、フィアットは再び場を眺める。 ◇◇◇ 「そう、覚えていてくれたんだね? 十年以上前のことだったのに。それとも、あの『行為』はあれ程までに扇情的であったのかな?」 「五月蠅い、帽子屋。あなたがここに居るということは、この世界をどうにかするつもりなのでしょう。そのために、インフィニティを使う」 「……そこまで知っているのかい。幾らなんでも、早すぎたね。僕としてはもう少し時間がかかるものだと思っていたけれど」 「人間、嘗めるんじゃないわよ」 「別に僕は嘗めてなどいないよ? むしろ称賛したいくらいだ。けれど、今の状況ははっきり言っていい状況とは言えないねえ。考えてもみれば解る話だが、この状況から逃れられるにはどうすればいい? ハリー騎士団とレーヴが死んでいけばいいことだ。だが、それによってあいつらが思っている方向に物語は進んでいく。そいつはいけ好かない」  帽子屋は早口で捲し立てるようにそう言った。  だがマーズにはその言葉の半分も理解できなかった。 「あ、あの……つまり、どういうこと? シリーズ以外にも、この世界を引っ掻き回そうとしている存在が居るということ?」 「面倒だが、仕方あるまい。絶望して、死んでくれ」  そして――マーズの首が切り落とされた。 21  その歓声に、崇人は何が起きたのか理解できなかった。  先ずそれについて理解する必要があった。  歓声の湧き上がる方向を見て――彼は絶望した。  はじめに、それはボールに見えた。兵士と思われる男が檀上で、紐のついたボールを持っている。顔と剣には血が付いている。そして、断頭台にはマーズの身体が――。  ――首から上が無い形で、横たわっていた。 「……マーズ?」  改めて、兵士が持っているボールを見る。  よく見るとそれはボールでは無い。紐のように見えていたものは、紐に比べれば細く繊細で、いつ切れてもおかしくないものだった。ボール本体には赤い液体がべったりと付着しており、もともとの『肌色』が見えにくくなっている。そしてボールに付属するのは開いたままになっている目と、鼻、それに口――。  兵士が持っていたのは、マーズ・リッペンバーの頭部だった。 「諸君、マーズ・リッペンバーは処刑された。彼の『災害』の主犯と呼ばれているタカト・オーノと協力し、国家を転覆させようとした罪について、裁かれたのだ」  静かに、告げる。 「まああああああああずうううううううううううううう!!!!」  崇人はスピーカーの電源がオンになっていることも構わず、叫んだ。  そしてヴィエンスと戦っているのも無視して、走る。  目的地は、ステージ。 『おい、馬鹿! ……あのままだと、国民を踏み潰しちまうぞ!』  ヴィエンスの言葉も、今の崇人には届かない。 「国民を踏み潰す? そんなことはどうだっていい! マーズが、マーズが、あああああ!」 「ハハハハ! 見よ、あれがインフィニティだ! 最強のリリーファーと謳われたリリーファーを乗りこなす起動従士だよ!」 「許さない……許さないぞ……!」  インフィニティが駆動する。  足元に居る人々を気にせずに。  吹き飛ばされ、踏み潰され、無残にも死んでいく人々を余所目に。  崇人はもう、何も考えられなかった。  マーズが死んでしまった。  マーズが無残な姿になってしまった。  それを、見てしまったから。 「お前は……お前だけはっ!!」 「殺す、か?」  マーズの首を持ったまま、兵士は見上げる。  インフィニティはもはや暴走寸前だった。いつ十年前のようになってもおかしくないだろう。  兵士は――帽子屋はそれを狙っていた。  暴走へと持ち込むことで、彼の考えている計画の完成形へ一歩近づく。  そのためには、暴走が必要不可欠だった。 「インフィニティに引き寄せられるように、一機のリリーファーがやってくる。それは神への挑戦だよ。この世界を作り上げた神の……階段を上る第一歩とも言えるだろう」  暴走するインフィニティの攻撃を避けるため、或いはインフィニティの攻撃を受けて死んでしまったため、人々は広場に居なかった。  ただ一人、帽子屋だけが檀上に立っている。 「世界は大きく変わろうとしている。その選択を、その特異点は君だ。君に委ねられている。世界は、君によって委ねられていると言ってもいい。ただし、この世界は案外シンプルに構成されている。良くも悪くも、君が『生きたい』世界へと変貌を遂げる。その選択をするのは君自身であるし、君自身が責任を負わなくてはならない」  インフィニティの動きは止まらない。  帽子屋は微笑む。 「僕を殺してもマーズ・リッペンバーは戻ってこない。それどころか、世界はあっという間に滅んでしまうだろうね。君という存在が世界に齎す影響は途轍もないということだよ」 「でも、お前がマーズを殺したことには何も変わりはない……!」  首を横に振る帽子屋。 「そうだね、間違っていない。けれど、僕の計画は必ず実行される。君がどのように動いたとしても……最終的には一つの結果へと導かれる。それは紛れも無く、僕の考えた結末だよ」  帽子屋は笑っていた。  世界を操作する、その計画を――その一端を、崇人に伝えることが、ここでの彼の使命だった。それを行うことで、今後有利に進むことが出来る。そう考えたのだ。  だが、それでも彼は諦めない。 「たとえお前たちの敷いたレールに従っていたとしても……脱線してでも、俺は平和な世界を生み出してやる! 誰も死なない世界を、俺は、あいつを、エスティを失った時に誓ったんだ……!」  それを聞いた帽子屋は小さく鼻で笑った。 「宣誓、ねえ! そんなもの意味など無いのだよ! 僕たちの計画の範疇ではねえ!!」  帽子屋は高らかに笑い、そして、床にマーズの頭を置いた。 「お前の考えなどどうでもいい! 今は、マーズを殺したお前を殺すだけだ!!」 「それが、ほんとうに出来ると思っているのかな?」  帽子屋は跳躍する。  一瞬でインフィニティのコックピットと同じ高さまで跳躍した帽子屋は、ニヤリと笑みを浮かべる。 「別に僕は悪いとは思わないけれど……、僕をここで倒そうと思うのならば、その考えを少しはただしたほうがいいと思うよ。無理難題だ。僕はここに生き残る。計画の最後を達成するまでは、生き残るのだよ。生き残らなくてはならない。生き残らなければ、この世界が最善な方向に進むことは無いのだよ」 「進まないとか進むとか、そんなことはどうでもいい!」  腕を動かし、帽子屋にダメージを与えようとする。  しかしながら、それを予測しているのか、帽子屋には一切ダメージが入らない。 「……どうして、マーズを殺した?」 「未だ冷静でいられるのだね。それはそれで、面白い。いいサンプルになる。君は特異点だ。それは前も言ったかもしれないが……、それによって世界がどうなるのかは、君が知る必要も無い」 「世界がどうなってもいい」  崇人は即答する。 「マーズを殺したお前だけは、殺してやる。マーズと同じ目に合わせる。苦しんで、泣いて、叫んで、命乞いをしたとしても、絶対に許さない。マーズはそうやって苦しんで死んでいった」 「……僕は、彼女を苦しみから解放したんだよ?」 「解放? ふざけている! そんなことが有り得るか!」 「有り得ないことは有り得ない。どこかの人間がそんなことを言っていたね。まあ、それをどうこう言うつもりは無いけれど、僕は敢えてこれを言い続ける。彼女は苦しんでいた。それは生き死にの問題では無く、もっと根本的なものだ。解決するには、そうするしかなかった。だから僕はその――」 「手助けをした、っていうのか? ふざけるな! マーズがそんな選択をするはずが」 「ない、って?」 「ああ!」 「そんなこと、ほんとうにそうだと言えるのかい?」  そうだ――とすぐに彼はその言葉を言うべきだった。  しかし、彼の口はそれを言おうとはしなかった。  頭では言いたかったのに、身体がそれを否定した。  帽子屋は微笑み、インフィニティに触れる。  駆動時、インフィニティの機体は五百度を超える高温になる。だから、人が触れることなんて出来ないはずだった。  だが、帽子屋はそれを素手で触れている。それもまた、帽子屋が人間では無い別の存在であるということを示しているようにも見えた。 「さあ、ゲームをしようじゃないか……タカト・オーノ」  帽子屋はインフィニティのコックピットがある凹凸に腰掛けて、そう呟いた。 22  その頃、地下にある教会ではシスターが祈りをささげていた。  十年前の『災害』以降、宗教はその熱を増していった。人々の暮らしが大きく変わったのが原因だと言えるだろう。宗教はいつの時代でも人々の生活に結び付くものである。かつてはリリーファーを神と崇める宗教もあったほどだ。  シスターは祈りを捧げ、踵を返す。  同時に、シスターと祈りを捧げていた人々は頭を上げた。  シスターを見る人間はどれも薄汚い服を着ているなど、どこか風貌がみすぼらしい。  彼らはティパモールでも一日を暮していくことが非常に困難な存在である。かつては国が補助をしていたが、それも財政難により打ち切られた。この世界には余計な人たちを養っていけるほどの資源が無いのだから。 「祈りはきっと届くはずです。私たちが苦労していることも、神は見ています。ですから、落ち込むことはありません。祈りを続けていれば、きっと」  シスターはこの教会に一人で暮らしている。かつては資産家の娘だったが、資産家である親が亡くなって以後、このようにシスターとして活動している。シスターとしての活動は食べ物に困る人々に一日一回配給を与えること。配給と言っても簡単なスープとパンだけだが、それだけでも食べ物に困っている人々にとっては天の恵みと言えるだろう。  シスターはそれについてリターンを求めているわけではない。あくまでも無償で行っている。善意、とも言えばいいだろうか。  しかしながら、資産というのは限りあるものであることもまた確か。  シスターが持っている資産は、もう底を尽きかけていた。 「本当なのかい?」 「……どうしたのですか」  シスターの前に居る母親と思われる女性がシスターに訊ねた。なぜ母親と判断したかと言えば、彼女の腕には幼い子供が居たからである。  子供は衰弱しており、母親もまた然りだった。 「神の祈り、だよ。こんなに毎日祈っても、神は救っちゃくれないじゃないか。本当に神様ってもんが居るのなら、私たちのこの状況を見ているのなら、少しくらい手を差し伸べてくれてもいいんじゃないかい?」 「……神様は私たちを見ています。いつか、必ず助けてくださるはずです。きっと」 「きっと、というけれど、それは嘘じゃあないのかい?」 「おい、あんた」  母親の言葉を聞いて、隣に居た男が母親の肩を持つ。 「あんたも思わないのかい!? 神なんていない、嘘だらけの存在だったことをさ! だって、神が居るなら、私たちを少しくらい助けてくれるはずだよ!! どうして同じ人間なのにここまで変わってしまうんだよ! 私たちは今日の飯すらありつけちゃいないっていうのに、首都周辺に暮している貴族サマは今日の飯を食べきれないからと有り余らせている! この格差はどうなんだい! これを見ていればなおさら、神様なんて居ないと思うのは当然のことだろう!?」  シスターはそれに対して何も言い返せなかった。 「神様は……いる! 居るんだ! それに、彼女は私たちに食事を与えてくださっている! そんな彼女を攻撃する権利は、あなたには……いいや! この場所には居ない!」  男の言葉に、母親と思われる女性は何も言えなかった。  そしてその男の言葉により、嫌悪感が渦巻いていたが、それが無くなった。 「さあ、食事にしよう」  手を叩いて、男はシスターの隣に立つ。  シスターはそれを聞いて、あわてて裏へと移って行った。 「食事が欲しい方は僕の指示に従って行動してください。それでは、食事提供の場所へとご案内します」  そして男の指示に従って、教会に居た人間はゆっくりと外へと誘導されていった。  外ではすでに寸胴が用意されていた。鍋には様々な具材が煮込まれており、スープには旨みが溶け出している。その横にはすでにある程度の大きさに切られている丸いパンがお皿一杯に盛り付けられていた。  スープを掬い、それをお椀の中へ。それとパンを渡す。それが今日の配給だった。 「まだまだありますよ、あわてないでくださいね!」  シスターの言葉に人々は従う。  こうして配給は――すべての人々にいきわたるようになっている。  スープが底を尽くのと同時に、最後の人となった。それを見てシスターは小さい溜息を吐いて、頭を下げた。 「何とか全員に振る舞うことが出来たようね……。良かった、良かった。もし足りなかったらどうしようかと思っていたのよ。追加で食材を購入するか否かも考えていたんだから」 「まあ、それが無くて良かったね。さっき可能性を考慮して店の方を見てきたけれど、また値段が上がっていたし」 「また?」  男の言葉を聞いて目を丸くするシスター。  食材の値段高騰はティパモールだけではなく、世界全体の問題となっている。環境が変化したことに伴い、野菜の産地が激減してしまったのだ。何とか今の環境に合った野菜を飼育しようとしても、それには時間と金がかかってしまう。  結果として、災害から十年が経過した現在ですらこのような状態は続いているのだった。 「それにしても、困った話だよ」  階段に腰掛ける男。  それを見てシスターは首を傾げる。 「どういうこと?」 「知っているだろ。もう、この教会を維持するだけで君が相続した資産はギリギリだ。何とか君のお父さんの知り合いを頼ってお金を援助してはもらっているけれど……それでも危ない。場合によってはこの炊き上げを打ち切ることすら考えなくてはいけない」 「それはダメよ。絶対に、ダメ」  男は溜息を吐く。 「そう言うと思っていたよ。だから僕も、もう少しだけ頑張っているよ。ただ、やはり難しいことではあるけれどね。どうにもこうにもならない場合は、それを諦めてもらうことも必要だ。人を助けることで自分を傷つけていては元も子もないからね」  シスターは考える。  自分の祈りは本当に神に届いているのだろうか――ということを。 「自分の祈りは、本当に届いているのかと疑問に思うことは、正直言ってあるよ」  シスターは言った。  男は聞き手に回り、相槌を打つ。 「祈りを捧げ、神へ乞う。それが間違っているというのでしょうか? 神は私たちに正しい道筋を教えてくれる。私をこの道へと誘ってくれた神父様はそんなことを言っていました。それは間違いだったのでしょうか? 妄言だったのでしょうか?」 「妄言だったかどうかは、今となっては解らない……と思う」  言葉を濁したのは、その言葉が嘘になるという思いが僅かでもあったからだろうか。  男の話は、ゆっくりではあるが続けられる。 「確かに僕の言い方は違うものであるかもしれない。けれど、けれどね。僕は、神様は存在すると考えているよ。そして、僕たちを、人間をずっと見てくれている。そうでなかったら、不平等じゃないか」 「そうだけれど……。でも、私たちには何も!」 「そうかもしれない」  男は言葉で一閃する。  それを聞いただけで、シスターは何も言えなかった。彼女の精神が弱っているからではない。彼女は苦しんでいるのだ。彼女は苛まれているのだ。自分がしている、その行為について、それがほんとうに正しいものであるかということを、気にしているのだ。  シスターは俯きながらも、立ち上がる。 「……あなたは、どう思いますか。レム」 「うん?」  レムと呼ばれた男は立ち上がると、シスターの隣に立った。 「だから、あなたはどう思うのか、と言ったのです。この状況について、私たちについて」 「僕たちについて? それはどういうことかな。この貧困極まる状況についてならば、僕は最悪だと思うよ。これについて国がどうこうしてくれるのが理想形だろうに、それもしたがらない。最悪であって最低。これが今の国の評価かな」 「成る程。確かにその通りだと思います。私だって、そう思いますから」  レムはそれを聞いて微笑む。  まるでシスターを試しているようにも見えた。 「……そんな解り切ったことを質問してどうするつもりだい? 僕の考えと君の考えが一致している、そんな単純な言い回しをするための質問ならば、それをする時間を別の何かに使用するべきだと思うけれど」 「そうね。少し間違えたかもしれない。……神を否定することになりかねないのだから」 「そんなことは有り得ないよ。神は必ず僕たちのことを見てくれている。いつか必ず僕たちは救われ」  男の言葉が途中で途切れたのには理由がある。  彼女の目の前に居たレムが、何者かによって『踏み潰された』のだった。 「え……?」  地面と同化してしまったレムの身体を見たシスターは、何も言えなかった。  その足は、ゆっくりと移動する。  今まで音が無かったのが嘘みたいな、巨大な躯体だった。 「あれは……リリーファー?」  そこにあったのは、黒いカラーリングのリリーファーだった。 「あれは……世界を混沌へと導いたインフィニティでは無いか?」  民衆の中に居る誰かがそう言った。 「あれがインフィニティなのか」 「私たちの子供を殺した!」 「そして……俺たちの生活をこんな形にした……!」  それを皮切りに民衆からはインフィニティに対する言葉の嵐が巻き起こる。そのどれもが批判であり苦情であり差別であった。  もし、彼らがインフィニティの起動従士である崇人の感情を少しでも汲んでいたならば、このような事態には陥らなかったかもしれない。  だが、そんなことは関係ない。  インフィニティは人々の言葉を吸い込むような真っ黒の躯体をゆっくりと動かしていた。  そして、インフィニティは。  静かに、静かに、その教会を去っていく。 「神様なんて……」  シスターは地面と同化したレムを見つめる。  その目からは涙も零れ落ちている。 「神様なんて、居ないのよ」  その言葉は、人々の喧騒に吸い込まれて、誰も聞くことは無かった。 ◇◇◇ 「いやあ、いい景色だね。インフィニティのコックピットからは、このような景色を見ることが出来るのか……。それって最高なことだよね!」  わざとらしく言葉を並べる帽子屋に、崇人は怒りを募らせていた。  ――ゲームをしよう。  帽子屋はそう言った。当然、何の旨みも無いのならば、参加などするはずもないのだが――。 「条件は一つ。君が勝利したらマーズ・リッペンバーを生還させてあげよう。それだけじゃない。君が敬愛するエスティ・パロングも生き返らせてあげようではないか」 「エス……ティを?」  思考が、停止した。  帽子屋はそれを予想していたように、微笑む。 「そう、エスティ・パロングだよ。彼女は君の目の前でリリーファーに踏み潰された。ほんとうに不幸な出来事だ。そうだとは思わないかね? 僕ももちろんそう思っている。だが、亡くなった人間を生き返らせるには、相当難しいことを行使しなくてはならない。だから無碍にしてはならないのだよ。だから、こうやってチャンスを与えるわけだ」  一人の蘇生だけではなく、二人も。  それは彼が一番この世界でやってしまった心残り――エスティの蘇生だった。 「どうだい? ゲームをしないか。ゲームをすることで、マーズが蘇生される可能性が少しでもアップするならば、やるべきだと僕は思うけれどねえ。彼女は君にとって大切な人なのだろう?」  崇人は頷く。  マーズも、エスティも、この世界で出会った大切な人だ。  出来ることならば、蘇生して、感謝を――また話したい。  だから、崇人はそれにイエスと言った。 「解ったよ、帽子屋。お前のゲームとやらを、受けようじゃないか」 「ありがとう」  頭を下げる帽子屋。  それがすこしこそばゆく感じる崇人。 「では、ゲームのルールを説明しよう。なに、そう難しい話じゃない。ルールはいたってシンプルだよ。シンプルイズベスト、とも言うくらいだからね」  帽子屋は言うと、大地を指差す。  帽子屋は微笑む。 「ここに居る人間を凡て殺せ。そうすれば、僕は君を助けてあげよう。君が叶えてほしい願いを、かなえてあげようじゃないか」  今度こそ、崇人は思考を停止させた。  帽子屋が何を言っているか解らないのだ。 「おや、解らなかったかな? ならば、またもう一度言おうじゃないか。何度だって言ってあげるよ。ここに居る人間……ざっと百人かな? 教会に祈りを捧げにやってきた、とてつもなく下らない現実逃避をする人々を、一人残らず殲滅しろ」 「そんなことっ……! 出来るわけが!!」 「出来ないのかい?」  帽子屋はコックピットに一歩近づき、言う。 「足元に屯(たむろ)っているのは、それこそ、君とはなんの関係も無い一般人だ。それを百人殺せば君が愛していた人間二人と出会うことが出来る。それってとっても素晴らしいことだと思うのだけれどね」 「……一つ、訂正してもらおう」  崇人は言った。  帽子屋は舌なめずり一つ。 「ほう、何だろう。聞かせてもらってもいいかな」 「『愛していた』じゃない。……俺はあの二人を未だ愛している! だからこそ、俺は目の前に居る人々を殺すことなんて出来ない! あの二人がその光景を見れば……きっと、悲しむから……」  ひゅう。帽子屋は口笛を一つ吹いた。  それは彼の考えに対する賛美にも思えた。 「すごいね、素晴らしい考えだよ。称賛に値する」  けれどね。 「けれど、僕は一つ言い忘れたことがあったんだ。訂正しなくてはならないことが、一つだけあったんだよ」  帽子屋は、目を手で覆う。  覆った後、すぐに目を隠すのをやめた。  その顔は、薄汚い笑顔だった。 「……ゲームはもうすでに始まっている。君はもう一人、殺してしまったんだよ」 「………………え?」  それを聞いた崇人の表情を一言で示すならば、『絶望』だった。  恐る恐る、彼は下を見る。  インフィニティは静止していた。そしてその足元だった場所は、赤く染まっていた。それが薄まりながらも、現在の位置まで続いている。  そして、その赤の濃さが最高の場所には、一人のシスターが涙を流しているのが確認できた。 「帽子屋あああああああああああああ!!」  崇人はインフィニティ――ひいてはフロネシスに強い思いを注ぎ込む。  それは怒り。強い怒りだった。  自分が殺してしまったという結果について。  それを、自分の手を汚さずに言葉のみをもって実行した帽子屋について。  彼は悔しかった。防げたはずの被害を、彼自身の手で生み出してしまったことについて。そしてそれを笑う帽子屋が、とても憎たらしくて仕方なかった。  ――殺してやる。  いつしか彼の心の中には、その思いが満たされていった。 『危険です、マスター。このままでは「暴走」してしまいます……!』  思いが満たされる中でも、フロネシスは忠実に行動する。まずは起動従士――崇人をどうにかせねば話にならない。 「だからどうした」  しかし、崇人の反応は冷たい。 『だから、という言い方は無いのでは。このままではまた繰り返しです。今なら未だ間に合います』 「また失敗するかもしれない。だが、だが! そうだとしても、僕は人の命を弄んだ帽子屋が許せない!!」  崇人の考えももっともであった。  だが、そうであったとしても、それを行動に示すのは人道的にどうなのだろうか?  相手は人間ではない――だからといって、人道を無視しても問題無いのだろうか?  フロネシスは人間ではない。端的に言ってしまえば、ただの人工知能だ。だが、開発者の強い意志を汲んだからか――『彼女』には感情があった。  人工知能において、それは崇人が居た世界よりも技術が進歩しているのだが、残念ながら、インフィニティには崇人しか乗ることが出来ない。フロネシスに感情があると解っても、それを崇人以外の人間が確認することは大いに難しいのである。 「……やはり、帽子屋は許せない」 『復讐は、復讐しか生みません。生み出された負の感情がループするだけです。負の感情がループするだけで、それだけでは何も生みません。誰も喜びませんし、逆に誰もが悲しみます』 「そんなことを言っても……! じゃあ、どうすればいいというんだ! このまま帽子屋を許せ、とでも言うのか! あいつはたくさんの命を……容赦無く奪ったんだぞ!!」 『許すのではありません。たぶん……「受け入れる」のでは無いでしょうか?』  受け入れる。  その言葉を人工知能の口(実際に口は無いが、それを突っ込むのはややこしい。言葉の彩というものである)から聞くとは思いもしなかった。  だから、思わず崇人は――笑っていた。 「まさかそれをフロネシスから聞くとはなぁ……。思いもしなかったよ」 『そう言ってもらえて、非常に光栄です』  その声には少しだけ高低差とゆらぎが含まれていたが、崇人には気付くはずも無かった。 「……やはり、貴様は欠陥品というわけか。フロネシス」 「欠陥品?」  帽子屋の言葉に、首を傾げる崇人。 「そうだよ、欠陥品だ。完璧な機体に、完璧な装備、そして完璧な操縦システム、これらが合致することでインフィニティは生み出される。そしてその一角を担っている……『操縦システム』こそがフロネシスだったわけだ」  完璧なる『完璧』。  それには僅かな誤算も許されない。許されてはいけないのだ。 「その『完璧』は一切の誤算を生み出さないように開発された。だから、欠けるはずが無いんだ。にもかかわらず、それは生み出された。『人の心』を搭載した操縦システム……フロネシスが」  崇人はコックピットにある画面を見つめる。  しかしフロネシスからは何の反応も無かった。 「……確かに人の心は不完全だ。だが、それを完璧に仕上げたのが、フロネシスだ。これは完璧なはずだった……、はずだったんだよ」  徐々に、帽子屋の言葉のトーンが落ちていく。 「はずだった……?」 「『欠けた人の心』、そのピースはあまりにも重要なファクターだったのだよ。予想外だった、あまりにも信じられなかった! 人々にはどれも欠けた心があるということが解ったがね」  まるで帽子屋自身がインフィニティを作り上げたかのような言い種だった。 「帽子屋、お前はいったい……」 「それを今言うのは時期尚早ってものだ。大事なことを言うのにも、先ずはタイミング次第だからね」  そして、帽子屋はその身体を傾けていく。  ゆっくりと、ゆっくりと身体が地面と平行になっていく。  最終的に、彼はゆっくりと地面へと落ちていった。 「ゲームは中断だ。まだまだ楽しいことが待っているからね……、先ずはそれを乗り越えてからとしよう。何年かかるかは解らないが、いつかはまた、ゲームをしよう。それじゃ」  最後は軽い挨拶で締めて、帽子屋は見えなくなった。  崇人には焦燥感だけが残った。 「なん……だよ、それって」  ゲームが中断された。  意味不明な文言或いは妄言であったが、これだけは理解出来る。 「エスティとマーズを蘇生させる……チャンスだったのに」  そう。  彼にとってはそちらの方がとても悔しかった。目の前で死んでしまった二人を、生き返らせることが出来る――そんな|神憑(かみがか)り的なチャンスだったのに。  あと少しというところで、それを逃してしまった。  しかし、疑問も残っていた。  それは、ほんとうに帽子屋は人間を蘇生させることが出来るのか、ということである。  帽子屋は規格外の力を持っている。だからといって、首が切れている死体と、十年間墓に埋めていたことにより(恐らく)白骨化したと思われる死体、その二つを人間の姿に戻すことが可能なのだろうか?  この世界には魔法がある。しかし彼はあまりそれを目撃する機会に至っていない。だからこそ、信用出来ないのである。  魔法でも医学でも無いのなら、いったい何で治すというのか?  それは今の彼が考えても、まったくカバーし得ない範疇だった。  ◇◇◇  ティパモール軍、ハリー騎士団、レーヴの三つ巴の攻防戦は、現在もなお続いていた。 「ティパモール軍、いい加減降参したらどうだ? こちらはあの時代を経験した人間だ。自分で言うのもどうかと思うが……強敵であるのは変わりないと思うが?」  ヴィエンスはスピーカーを通して、外に向けて言い放った。  だが、実際には彼にもそんな余裕は無いに等しい。気合いを入れるために、その発言をしたまでだ。 「……と、こんなことを言えるほどズバズバと攻撃出来ればいいんだがねぇ」  ヴィエンスはスピーカーマイクをオフにして、そう呟いた。 「相手は残り五機、対してこちらは……三機のまま。このまま一人二機ペースで倒せば何とかなるだろうが……」  しかし、油断は禁物だ。  一瞬でも緊張を解してはならない。それによってチャンスがピンチになり、ピンチがチャンスになるのだから。 「二機、か。かつてはこれぐらいを……いいや、かつては『シリーズ』なんていう規格外の化け物を相手にしたことだってあるんだ。それに比べれば……」  リリーファー同士の戦いよりもシリーズとの戦いが容易だ。  それは戦う相手が人間でないから――人間に対する情を完全に消し去ることが出来るからなのかもしれない。  ただ、そうであったとしても。  それは言葉の意味合いとしては間違っているのかもしれない。 「インフィニティと、あのインフィニティが暴れた状態で戦った時よりも、今の方がひ弱だよ。軟弱と言ってもいい」  独り言は、ほかの人間には聞こえない。仮に聞こえたとしても今の状況を見れば負け惜しみにしか見えないだろう。  そう見られても構わない。そう思われても構わない。  ただ、そうであったとしても彼の信念は変わらない。彼の考えは変わらない。 「あれほど胸躍る思いをさせてくれたのは……あとにも先にも、タカト……あいつだけだ! だから、てめえらに負けるわけにはいかねえんだよ――っ!」  そして。  ヴィエンスはリリーファーコントローラを強く握り締めた。 23  インフィニティが闊歩する。  大地が割れて、ビルが破壊され、混沌と化した世界を、闊歩する。  崇人は泣いていた。悔しかった。悲しかった。嫌だった。  自分がどうしてこんなことになってしまったのか――考えると悲しくて仕方なかった。 「なあ、僕は……僕はどうすればいい? 僕はどうすればいいんだよ……」  インフィニティの中で、彼は呟く。 『……解りません』  フロネシスは彼の言葉に反応して答える。  しかし、そんなことを言っても彼の感情が変わるわけでも無い。  感情論に任せて言葉を並べることは、一番論理的ではないのだから。 「僕は解らないんだよ、どうすればいいのか。僕は何をすればいい?」 『……私には人間の行動が考えられません。私は人工知能です。ただの存在でしかありません。ですから、あなたの道を進めばいいと思います。私は、それに従いますから』 「ハハ、まさか人工知能に慰められる日が来るとはね……。思いもしなかったよ」  崇人は笑う。  それは諦観も含めているのかもしれない。  インフィニティは動く。  壊れてしまった世界を、見つめるために。 ◇◇◇  フィアットは笑っていた。  笑い狂っていた、の方が正しいかもしれない。 「あはははははははは! はははははは! 面白い、面白いよ! ここまで、僕の考えている計画の通りに進んでいるなんて!」 「そうですね。流石だと思います」  クライムはフィアットに紅茶を渡す。  紅茶の入ったカップを受け取ったフィアットは、一口啜った。 「……美味い」 「褒めて頂いて、光栄です」  クライムは頭を下げて、言った。  フィアットは微笑みながら階下を眺める。  その光景は、彼にとって一番素晴らしいと思える光景だったのかもしれない。  彼が望んだ結果、彼が欲しいと思った結果。  それがこの景色であった……のだろうか? 「何か、違うな。このまま計画の終わりに進行する? いいや、違う。何か段階が残されていたはずだ……」  フィアットはぶつぶつと呟く。  クライムは計画の全容まで理解していないので、その言葉には何も賛同できなかった。  こういう時はただ無言で対応を待つしかない。  そういうことは、解り切っていた。 「何が、何が違うんだ……。考えろ、考えるんだ、自分……。きっと何か、間違っているのが露見されているはずだ。露呈している、と言ってもいいかもしれないが、どちらにせよ、それを見つけなくてはいけない……!」 「あの、一つよろしいでしょうか」  もう埒が明かないと思ったのだろう。クライムが悩むフィアットに言った。  フィアットは首を傾げつつ、クライムの方を向いた。 「どうした、クライム? 何かあったか?」 「いえ、一つ気になることがありまして。思ったのですよ。あなたが考えた計画は完璧であると。完璧であるからこそ、欠陥などあり得ない……と」 「そうだ。その通りだ。それの何がおかしい」 「別に私はおかしいなどとは言っていませんよ」  微笑み、話を続けるクライム。 「ただ、私は気になっていると言いたいのです。あなたの計画は間違っていない。ならば、仮定が間違っていたのではないでしょうか? 計画で行われる、最終的な結果……そこまでの段階が、何らかのピースが混ざってしまったことで、失敗してしまったのではないでしょうか」 「失敗、だと?」 「ええ」  クライムの言葉は止まらない。 「失敗、と言うのは言い過ぎだったかもしれません。ですが、それに近い状態が起きたのではないでしょうか。失敗は成功の母、とはよく言ったものですが……そうであっても、この計画に失敗は許されないのでしょう。そしていつしか、『失敗を失敗としなくなった』。私は、そう思うのですよ」  フィアットは何も言わなかった。  ただクライムを見つめていただけだった。その表情は悔しさよりも怒りの方が優っているようにも見える。 「気分を害したようであるならば、申し訳ありません。ですが、私は仕方ないと思います。あなたが間違えるのですから、私が一目見ただけで解るはずがありません」 「僕が、無意識に、失敗を改竄した。しかし、その結果と理想のずれが大きくなったから、それが結果として失敗と化した……そう言いたいのか?」 「残念ながら、今はそう言うしかありませんね」  少しだけ、冷たく言い放った。  そして、その『失敗』により、彼らは気付けなかった。  『シリーズ』が考えている――計画の一段階に。 ◇◇◇  その頃、ヴィエンスはあるものを見つけていた。  空から降りてくる、何かを。 「ものすごいスピードで落下してくる物体を確認! 何だ、あれは!?」  レーダーがとらえたのは、最初、『物体』という括りだけだった。  それから数秒後。  その物体が、歪な人型であることを確認した。 「何だ、モノじゃない……! 人、か!?」 『そんなことは有り得ません! あれ程の速さで落ちてくるのならば、とっくに燃え尽きているはずです!!』  言ったのはハルだった。 「じゃあ、何だって言うんだよ! あれは、人じゃない……としたら!」  共通認識。  二人の認識が一致した。  ――リリーファーである、と。  その頃それを崇人も目撃していた。  最初隕石のようにも見えたそれは、徐々に人の形を為しているものだと判明する。 『あれはどうやら、リリーファーのようですね。レーダーにもそう確認されています』 「リリーファーが、空を飛んでいるのか?」 『いいえ、おそらくそのまま落下しているものかと』  落下。  フロネシスはそう言った。  しかし、そのスピードを出せる程の場所、その高さはどれくらいなのだろうか? 「もしかして、月から来たのか?」 『宇宙から自由落下している可能性は充分に有り得ます。なぜなら、炎に包まれているからです。ですが、その機体は溶けていませんし、中に居る起動従士の生命反応も確認されています。相当、熱を伝えにくいのかもしれませんね』  冷静に分析を進めるフロネシス。  敵か味方か。  そのリリーファーを、起動従士を、信じてもいいのだろうか。  今の彼には、未だ解らなかった。  帽子屋は白の部屋でモニターを見ていた。 「やっと来たか。これで段階は整ったと言えるだろう。僕も救われるよ」 「ほんとうにそう思っているのか?」  言ったのはハンプティ・ダンプティだった。  ハンプティ・ダンプティは話を続ける。 「君の計画がここまで滞りなく進行したことはすごいことだよ。尊敬に値する。だが、さすがにこれからは厳しいだろう。インフィニティだけではない、あのリリーファーも関わってくるのだから」 「そうだとしても、計画の大筋が変わることは無いよ。結果は、もう変わらない。最終段階まで、来たのだからね」  帽子屋は呟いて、モニターを再度眺めた。  モニターの視点が変更される。  炎の塊。その中身はリリーファーだった。  白い躯体のリリーファー。それはまるで月のようにも見えた。 「ツクヨミ、か」  帽子屋はそのリリーファーの名前をぽつりと小さく呟いた。 第二部第二章 月読降臨編に続く。