第一章





 薄ぼんやりとしたうちに県内の一般高校に進学した俺だが、即座に後悔したことと言えば最寄り駅から高校のある高台まで伸びる長い上り坂だろう。春だってのに軽いハイキング気分であと三年間この坂を上ることになると思うと溜息が出る。しかも坂は上るだけじゃなくて下らなくてはならない。下りる方が楽じゃないかと考えられるかもしれないが、そんなことは絶対に有り得ない。足への負担と体力の消耗を考えると明らかに下り坂の方が体力を消耗する。この時間が初日ということもありどれくらいかかるか想定も出来なかったので少々早めに外出をしたわけだが、この様子だと夜更かしは慣れるまでしない方がいいだろう。
 そんなわけで体育館で入学式が開催されている間、俺はずっと不安な気持ちを抱いていた。おそらくは新入生の大半が抱くはずも無い感情になるのだろうが、そんなこと俺はしったことじゃない。実際、仮にこの高校生活が希望に満ちたものになったとしても、あのきつい坂道のことを考えるとすべてが吹っ飛ばされてしまう。それほどの価値、なのだ。
 入学式が終わった後はクラス分けである。これもまた新入生にとってみれば楽しいイベントの一つなのだろうが、あの坂道のことを未だに引きずっている俺からしてみると、あまり気分の良いものではない。正直言ってさっさと帰ってしまいたい。
 クラス分けは四組になったらしい。しかしまあ、よく見渡してみると、男子はブレザーで女子はセーラー服か。最初の頃から思っていたけれど近所でもこの高校だけの制服になっているのは少々ちぐはぐな感じがする。
 担任の岡崎からは他愛も無い話しか無かった。これからの高校生活についてとか、自分はバレーボール部の顧問であること、自身もかつてバレーボールで金メダルを取るほどの優秀な成績を持っている人間であるということ、高校生活には明朗な生活が必須でありそういう生活を望むなら是非部活に入るべきだとか、色々なことを話していた。すべては彼の主観であり、俺たちに響くものであるかどうかは俺たち次第であるわけだけれど、俺の席から周囲を見ると何人か真剣に頷いているところを見ると、少なくとも何人かは担任の話を真剣に理解し、ある程度受け入れる何かがあったらしい。

「自己紹介をしてもらおうか」

 朝のホームルームの時間半分を目一杯使い切った岡崎はそう言って出席簿を取り出す。
 出席簿の最初――つまり『あいうえお』順で最初――のクラスメイトから挨拶が始まる
 挨拶と言っても簡単なものだ。出身中学とそれ以外に『話しておきたいこと』を一人ずつ話していった。その『話しておきたいこと』が問題であって、趣味であるとか好きな食べ物であるとか色々な話題にしている。それがいずれの友人関係の構築に反映されると判断しているのだろうけれど、そんなこと俺はどうだっていい。
 俺の番が近づいてきた。やはり何だかんだ言っても緊張はしてくる。そんなものはまともな学生生活を送ってきていれば、分かる話だろ?
 というわけで俺は出身中学と好きな食べ物を話しておいて、元々考えておいた挨拶を噛まないように慎重に言い終えると、漸く席に腰掛けた。入学式の挨拶なんて定番中の定番だから草案は頭の中に幾つかパターンとして考えておいた。その中の一つを使ったまでに過ぎないから、別に緊張するほどでもないと言われてしまえば、それまでの話になるわけだが。

「私の名前は、沢宮明里。西が丘中学校出身。話したいことは色々とあるけれど、先ずはこれだけ」

 凜とした声が背後から聞こえた。
 思わずその声に振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。いや、少女と言うのは間違いかもしれない。なにせクラスメイトだ。もう少し言い方を変えた方がいいだろう。彼女の格好は校則通りのセーラー服だったが、後頭部をオレンジのリボンで括っている、いわゆるポニーテールのような状態となっていた。彼女は可憐な感じからしてどこかの令嬢かと疑われかねないオーラを放っていたが、しかして、その話はまったく違う感じだった。
 彼女の話は続けられる。限りなく、彼女自身の意思によって。

「私は記憶探偵としてこの学校で活動することを目的としている。……ああ、一応言って置くけれど、どういう活動なのかは誰にも言わない。強いて言えば、私の価値観にそぐわない人間、とでも言えば良いのかな。正確に言えば、それは間違いなのかどうかは定かではなくて、結局は私が合う存在ならば誰だって良い、って話になるのだけれど。とにかく、記憶探偵というワードが気になるならば、誰だって大歓迎よ。仲間になるのも、依頼人になるのも、ね」

 クラスの中は呆然となっていた。当然だろう。突然自己紹介と思いきや謎のワードを連発して勝手に自分語りを開始したのだから。
 しかし担任の岡崎は意外と担任の歴が長いのか、それを気にすること無くそのまま次の人間に自己紹介をスライドさせていった。次の自己紹介が始まればあっという間に人間の話題とは変わっていくもの。先程の彼女の意味深長な自己紹介などあっという間に流されていくのだった。
 それでも俺は彼女のことを気に掛かっていた。恋心? 冗談は寝てから言ってくれ。はっきり言ってそんな感情を抱いていたわけでは無い。どちらかといえば、その意味深長で訳の分からない発言をした彼女に少々興味を抱いただけの話。もしかしたら俺の高校生活が少しでも楽しいものになるんじゃないか、なんて思っただけの話さ。
 だから俺は背後を振り返ったんだけれど――そこで俺は彼女と目線が合った。

「……何よ、さっきの言葉に興味を持ったというの?」
「興味を持った、というかだな。あんな発言したら普通はスルーされるか怖いもの見たさで一回は触ってみようかのいずれかだぞ」
「で? あんたは? それを聞いてどう思ったわけ?」

 意外にも――というか想定通り――彼女はその意味深長で突拍子も無い挨拶に気にしていなかったようだった。気にしていたらあんな挨拶なんてするわけもないだろうし、それは当然と言えるだろう。
 彼女は俺の顔を見て何となく心情を察したのか、窓へ視線を移し始める。おいおい、俺の話は無視というわけか。というか質問をふっかけてきたのはお前だろう。

「俺はそのどちらでもない、強いて言えば興味本位で話しかけてきた、ってだけに過ぎないね」
「後者に所属しているじゃない。というか、興味を持っているなら持っていると言えば良いのに。良いわよ、話してあげる。あなた、私と話が合いそうだし」
「合う? 俺とお前が?」
「そう。あんたと、私が」

 合うわけ無い。合うわけが無い。そんなことを思っていたけれど、未だホームルームは続いている。取敢えず今はあまり話さない方が良いだろう。初日から担任に目を付けられるのも面倒だ。
 そう思って俺は、また後で、と一言だけ言って前に倣った。彼女は――明里は何も言わなかった。言わないことは当然だろうし、それが彼女の性格から当たり前のことだろうと勝手に思い込んでいた。不思議だよな、明里と話したのは今日が初めてのはずなのに。


 こうして、俺たちは出会った。
 今思えばその出会いも――必然だったのかもしれないけれど。


◇◇◇


 このように一瞬にしてクラスメイトに存在感を与えた沢宮明里だったが、意外にも初日は変な行動を起こすこと無く、至って普通の女子高生として過ごしていた。
 そして放課後になると、待ち構えていたかのように俺の机の前に立ち、

「ついてきなさい」

 それだけを言い放ち、教室を出て行った。いきなりそんなことを言いだしたが、いったいどこへ向かえばいいのだろうか? 目的地を言わないと人はそこへ向かうことは無いが、それを考えているのだろうか? まあ、あまり考えない方が良いか。
 クラスメイトの視線を受けながら俺は鞄に筆記用具その他諸々を詰め込んで(俺は教科書を学校に置いていく派だ)、教室を後にした。
 想像通り――というか予定通り――明里は教室の前の廊下で待ち構えていた。

「早かったわね」
「お前がついてこいと言ったからだろ」
「良い傾向ね。さ、ついてきなさい」

 だからなんで命令されなきゃいけないんだ、なんて文句を言う暇も無く、明里は踵を返して廊下を突き進んでいった。
 俺は明里についていくように早足で廊下を駆けていった。
 明里が足を止めた場所は、職員室だった。

「職員室……?」

 俺は何故ここにやってきたのか訳が分からなかったが、その疑問を消化するよりも早く明里はノックをして職員室へと入っていった。

「お、おい。いったい何をするのか話を聞いていないぞ俺は」
「まあ聞いていれば分かるわよ」

 人を人形か何かだと思っているのか、お前は。
 人の意見をまったく聞くことの無いこの女はずかずかと職員室に入っていく。職員室に学生が入るのは珍しくないのだろうが、どうやら一年生が初日から入ってくる――その行為が珍しいのだろう。誰もがあの学生は何をしに来たんだ? という疑問と好奇心が織り交ぜられた複雑な表情でこちらを見つめていた。はっきり言って恥ずかしいような面倒臭いような、そんな感覚だ。

「ああ、居た居た」

 やがて明里は一人の先生の席の、その前で止まる。
 そこに座っていたのは――担任の岡崎だった。
 どうやら岡崎は明里がやってくるのを分かっていたらしく、そしてそれをその声で感じ取って、小さく溜息を吐いて回転椅子を回転させた。

「さっき聞いた時は驚いたが、まさか本当にやってくるなんてな……」
「だって、作れるって言ったじゃないですか。だったら善は急げ。部員をさっさと集めて作るに越したことはありませんよ。というわけでこれ、創部届」

 そうして明里は一枚の書類を岡崎に手渡す。……え? 創部届? 今なんと言った? 我が一年四組の担任である岡崎は、一体何を言った?

「それにしても本当に学生を集めてくるとはな……。と言っても、一名だけだから同好会扱いになるが」
「ええ? 部活動扱いになるのでは?」
「お前なあ」

 岡崎は深い溜息を吐いた後、話を続ける。

「学生規約、ちゃんと読んできたか? それを理解しての、昼休みのあの発言だったと思っていたが……。部活動は十人以上の学生が必要。そして同好会は二名以上居れば問題ない。部活動と同好会の差はかなり大きくてね、まあ、貰える配分金とか、顧問の要否とか。一応同好会で設立しておけば顧問は不要だが、今後大きくして部活動にする際は、顧問を探す必要があるからはっきり言ってそこは面倒だ。どうする? 今からでもあと八名集めてくるか?」
「いいえ」

 明里は即座に首を横に振った。

「別にこの活動を大きくするつもりはないから、同好会で問題ありません。ところで部室は文化部部室棟の空き部屋を使って良いのよね?」
「ああ。それについては問題ないが……。ああ、でも長く使っていないから物置扱いになっているかもしれん。先ずは掃除をしないと何も出来ないかもしれないぞ」
「それで構いません。会員は二人居ますから」

 そう言って明里は俺に目線を合わせる。岡崎もそれを見てゆっくりと俺の方に視線を向けた。どうやら岡崎は俺のことをたった一日で覚えていてくれたらしく、期待にも似たような眼差しを向けていた。

「……ほほう。君がねえ。まあ、別に構わないよ。これで許可を出しておこう。ところで同好会の名前は……、ええと、『探偵同好会』?」
「ええ。困ったことがあれば何でも解決! 探偵倶楽部という手もあったけれど、同好会イコール倶楽部という扱いだからこれもこれで問題ないように思えるわ!」
「社会奉仕活動をする同好会ね。了解。そう通しておこう。一応言っておくが、学生間での金銭のやりとりはあまりしないほうがいいぞ? さすがに学生規約に禁止とは書かれちゃいないが、金はトラブルの源だからな」
「心得ているわ」
「じゃ。後は分からないことがあったら俺か文化部の責任者である御園先生に話してくれ。……と思ったけれど、お前達はまだ入学したばかりだし、俺から御園先生に挨拶を入れておくか。ついてこい」

 頭を掻くと、ゆっくりと立ち上がる岡崎。こう見ると俺よりも十センチ以上高いように思える。確か現役時代はアタッカーとして有名だったと言っていたようなことを薄ぼんやりとした中で聞いていたような気がする。アタッカーとして身を粉にしてバレーボールに向かえたのもその身長があってこそ、の話だったのかもしれない。
 そうして俺たちは岡崎を先頭にして職員室の奥まったスペースにある机へと向かった。そこには白いワンピースにカーディガンを羽織った女性が眼鏡をかけて書類の山に立ち向かっていた。女性は見た目からして俺たちと同じくらいか、それよりちょっと上くらいの印象に見えるが、新任の教師なのだろうか?

「御園先生。ちょいとお時間よろしいですか」
「どうかなさいましたか?」

 書類から目線を離すことなく、御園先生と呼ばれた女性は話を続ける。
 岡崎はそれを聞いて、さらに話し始めた。

「実は、文化部が一つ増えることになりますので、そのご報告とご許可を戴きたく」
「あー。分かりました。後で見ておきますので置いておいてください。ええと、」

 そこで漸く書類から目線を離して、回転椅子を回転させ、俺たちのほうを見た。
 やはり、若い。そのまま学生服を着ていてもこの学校の女子学生だと言われても違和感が無い程度には。新任の教師にしては仕事量が多すぎるし、年齢を予想するに……。

「はい。そこの君、今年齢を予想しようとしたでしょう。辞めなさい。レディに対して何という考えを抱いているのか知らないけれど」

 ……俺の思考を読まれた、だと?
 どんな魔法を使ったのか知らないが、人の心を読むのは辞めていただきたい。人の心とは侵されがたいテリトリーみたいなものだ。そんなものに土足で踏み込まれると正直辛いものがある。
 俺があまりにも分かりやすい表情で驚いていたためか、御園先生はそこで柔和な笑みを浮かべる。

「……一応言っておくけれど、人の心なんて大層なものを読むことは出来ないのよ。だって、そんな技術は無いし、不可能じゃない。今のは、いつも私に初めて会う人に話すセールストークみたいなものよ。常套句、と言ってもいいかもしれないわね」
「相変わらず御園先生は冗談がお好きな方ですね。……というわけで、この二人が今回設立する『探偵同好会』の構成員、要するに会員ですね」
「探偵同好会……ね。承知しました。後でまた部室に伺いますので、そのおつもりで。なに、そう畏まるつもりはありません。どういう風に学生が活動を進めていくのか、文化部の責任者として確認する必要がありますから」

 至極もっともな理由だった。責任者として状態を把握しておくために定期的な現場確認が必要――御園先生はそう言っているのだろう。
 それじゃ何かありましたら私に言ってくださいね、とだけ言い残して御園先生は再び書類の山と格闘し始めた。

「……御園先生はいつもああなんだ。有能だからかもしれないが、仕事がいつも山積みだ。でも残業は殆どしない。素晴らしいだろう? 俺も見習いたいよ」

 溜息を吐いたそのときの岡崎の表情は、疲れが溜まった社会人のそれだった。
 しかし直ぐにそれを切り替えると、

「よし。それじゃ、次に君たちの活動拠点となるだろう部室に案内するとしようか。多分御園先生も言った通り、掃除をしないと何も出来ないだろうからね。このまま向かうかい?」
「ええ。お願いします」

 俺の意見は求めない、ってわけね。
 ええ、ええ、いいですよ。ここまで来たら乗りかかった船だ。取敢えず二人きりになって明里に問答が出来るようになるまでついていってやる。
 そうして俺も、明里と岡崎についていくように文化部部室棟へと向かうのだった。

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