第一章3
机の上に、トレーを置く。
無論ただのトレーではない。その上におかずやサラダ、スープにご飯が載っている。いわゆる定食という奴だけれど、それについては長々と語る必要性はない。
「……辛そうね、それ」
瑞希が少しだけ悲しそうな表情を浮かべているのはどうしてだろうか?
見た目だけ言えば、バンバンジーみたいに見える……。
切られた蒸し鶏に、胡麻ベースのソースがかけられている。
そしてその下には菜葉が敷かれている。
きっとソースが染み込んでいて、美味しいに違いない。
しかしながら、その蒸し鶏の上には明らかに辛そうな――一言で言うなら食べるラー油の中に入っている具材があるだろ、ピーナッツとかさ。アレが乗っかっていた。
「中華料理って感じがするよね……。中華料理って、何でもかんでも辛くしてしまうみたいなところないかしら? わたしはそういうのがあるから、あまり中華料理を食べないんだけれどさ」
あれ? 瑞希って辛い物嫌いだったっけ?
「食べ物の好みは変わるものよ。……特にスポーツしているとね、食べ物の好みは変えざるを得ないの。だからわたしはボンゴレビアンコにしている訳」
「……それが食べたかったからではなく?」
「断じて違うわよ」
間髪入れずに否定されてしまったので、ぼくは何も言えなかった。正確には言い出すことも出来なかったのだけれど、それを胸を張って言える程豪胆な人間でもない……。ほら、居るだろ。リクライニング出来る座席で後ろの人に一声かけるかかけないかで違うじゃん。
「言いたいことは分かるけれど……。でも、声をかけない人ってそんなに居るもんなのかしらねえ……。もっと余裕を持っている人間ばかりではないのかな、グリーン車というのは」
「グリーン車こそがこの世の地獄を煮詰めたような煉獄だよ……、それは言い過ぎと言われるかもしれないし案外的を射る発言かもしれないし、それについてはもっとグリーン車に詳しい有識者でも呼ばないと、話が全く進みやしないんだよな」
「じゃあ、どうしてわたしにその話を持ちかけた訳?」
そりゃあ、話す人間が瑞希しか居ないからだよ。ぼくの交友関係の狭さを舐めるなよ。
「そこで胸を張れることでもないでしょうに……。まあ、それはそれとして、よだれ鷄の味はどう?」
そう言われたからには、よだれ鷄を食べてみることにしよう。これはぼくがやりたいのではなく、瑞希から勧められたからやっているのだ。ぼくは悪くない、多分。
予防線をピアノ線みたいにピンと張って、ぼくは鶏肉の一切れを箸で掴んでみせた。かなりソースが染みているように見えた野菜だったが、シャキシャキ感が残っているように見えた。というか、菜葉の上にキャベツが敷かれているのは知らなかった。目で見えないのだから、そこについては仕方ないことなのだろうけれど。
口の中に鶏肉を放り込む。
そこから一瞬の沈黙があって、先ずやってきたのは旨味だった。鶏肉の旨味というのは、形容しがたい何か幸福感がある。牛肉でも豚肉でも味わうことは出来るのだろうけれど、何故だか鶏肉の方がより美味しく感じる。気のせいだろうか?
そして次に襲い掛かったのは、強烈な辛味だった。
口の中がヒリヒリと痛い。しかし、食べられない訳でもないし、食べたくない辛味でもない。
食べたいバランスと食べたくないバランスを計算して作られているような気がした。
しかし、この料理は人を選ぶ気がする……。だったらメニューの何処かにでも辛さに注意とか一言書いておかないと、いつか誰かがやらかしてしまいそうな気がする。うん、あとでおばちゃんに言っておこう。老婆心かもしれないけれど。
「……うわー、辛そうだね。だから大丈夫かって言ったのに。普通に冒険しないでアジフライでも食べていれば良かったんじゃないの?」
それはつまり、ぼくにアジフライ以外食べるな――そう言いたいのか?
たまにはぼくだって冒険してみたいものだ。冒険をしないのは、安定を求める上では最適のプロセスだし、長生きをするにはそれがベストな選択であることは言うまでもない。
しかしながら、それを実行するとどうなるかと言えば――答えは火を見るより明らかだ。
ツマラナイ人生に陥ってしまう――これに尽きる。
そんな人生で長く生きていたいか? と質問されれば、きっと大半の人間はこう答えるだろう。だったら、多少の危険があったとしても冒険したい。そうであれば、人生の楽しみが増えるかもしれない――と。
「それじゃあ、今回の冒険の感想を一言」
「……フィフティ・フィフティかな」
絞り出したその一言を聞いて、瑞希は失笑していた。
きっと、彼女にとってはそれぐらい下らない答えだったのだ。
今となっちゃ、それもまた幸せだったのだろうけれど。
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