食材とスパイスと、もう一つの価値 (メニュー:カレーライス)
風が涼しくなった時期なので、きっと秋なのだろう。
俺は喫茶店の中を掃除していた。掃除することも大事だからな。必要十分条件――いや、それはここで使う意味じゃないか。
とにかく、店を奇麗に清潔に保つことは大事だ。だから俺は今日もこういう暇な時間を使って掃除に明け暮れているわけだが――。
カランコロン、とドアにつけられた鈴の音を聞いて、俺は急いで掃除用具を仕舞うためカウンターの奥へと向かった。掃除は終わっているといえば嘘になるがほとんど終わっているのは確かなので、取り敢えずここまでという形にしておこう。
入ってきたのはいかにも胡散臭そうな人間だった。スーツを着て片方だけの眼鏡……なんて言えばいいんだ? なんか鎖みたいなものがついているやつ。なんて言えばいいのかなあ、こんなときスマートフォンが使えれば……。
「いらっしゃいませ」
まあ、そんなことは取り敢えず置いておくとしよう。
接客にそんな知識は必要ない。少なくとも今の段階では。
「おい、この店にメニューはないのか?」
いつも通りの質問。
テンプレート通りに答える俺。
「この店はあなたが一番食べたいものを、あなたがお店に入ったと同時に作るお店となっております。ですので、メニューはございません。しいて言えば、無限にメニューがあるといえばいいでしょうか」
「無限にメニューがある? バカを言え! そんな店があるはずないだろう!」
ああ、予想通り面倒くさそうなタイプだ。
たまに来るんだよな、こういうタイプ。そして毎回説明する。面倒だよ、こういうのが。
取り敢えず説明はした。これからどう鵜呑みにするか、だ。
「……わかった。取り敢えずそれは良しとしよう。ただ、これだけは言っておこう。私は、この世界で食の評議員をしていたものだ。評価は厳しいものだということは理解してもらうぞ。私の評価次第ではこの店の客が減ることもあるだろうな」
……脅迫かよ。
このおっさん、この手口で何回か無銭飲食でもしているんじゃないだろうな?
そんなことを勘繰ってしまうほど、胡散臭い人間だった。
厨房を覗く。そんなことを関係ない、とでも言いたげにメリューさんは食事を作っていた。だから、俺が気にすることはない。メリューさんが作る食事に任せておけばいいのだから。
「とにかく今食事を作っているのだろう? だが、この店は安っぽい店だな……。腹が減ってしまって何もなかったから仕方なくこの店に入ったが、隣に高級店でもあればすぐにそっちに向かっていたものだ! そうでなければこんな店……」
どうやら高級志向の客らしい。
あまり言いたくないがそんな客、こっちから願い下げだ。
だが、あまりいうこともできない。なぜならこの店の店主はメリューさん。メリューさんが食事を作っているのだから俺はそれに逆らって喧嘩をすることはできない。食事ができるまでの繋ぎをどうにかするしかないのだ。
メリューさんの料理がやってきたのはそれから五分後のことだった。その間料理が来ないとかコーヒーが温いとか机が汚いとかいろいろ文句を言っていた。そして文句を言うたびにメモしていた。律儀だし、人の汚点とか欠点を探しまくっている人間だ。きっと、友人もいないんだろうよ。こんな人間、普通に嫌う人がたくさんいてもおかしくないタイプだ。
「お待たせしました、料理となります」
メリューさんが出したのは茶色の海に沈む赤、白、茶の素材。そして広がるスパイスの香り。茶色の海と対比して真ん中にある白い島。
――そう、カレーライスだった。
「……なんだ、これは。ただのカレーライスではないか!」
それを見て憤慨する男。ならばいったい何の料理なら満足したというのか。
――というか、メリューさんはこの男が食べたい料理を作ったわけじゃないのか?
メリューさんは男の反応を予想していたかのように、微笑む。
「ええ、そうですよ。これはただのカレーライスです。ですが、私が丹精込めて作り上げた逸品となっております。時間も手間もかけたものです。味には絶対の自信があります」
「そういうことを言っているわけじゃない! 普通の食材に、普通の味付けだろう!? 所詮、このような店で出しているものはその程度のものしかできない。『丹精込めて』など言い訳がましく言っているのがオチだ!」
「では、お食べください」
メリューさんは食い下がらない。
「だから私は――」
「食べていただければ、解ります。それでもし不味いようであればあなたの書く記事にこの店の酷評をしていただいて結構です」
メリューさん、さすがにそれは言いすぎじゃ……。
でも、店主のことだからそれは即ちこの店の発言と同一になる。だからそれを俺が覆すことなんて、できない。
そしてメリューさんの発言を聞いた男は、スプーンを手に取ってライスの島を少し崩してカレーの海へと浸す。それをスプーンで掬い、口の中に運んだ。
最初は半信半疑――どうやらそんなに美味しいとも思わなかったのだろう――のような表情を浮かべていたが、食べて少しして目を見開いた。
衝撃を受けた、のだろう。
「なんだ、このカレーは……。ありえない、ありえないぞ! 普通の食材、普通のスパイス、普通の調理法のはずだ! にもかかわらずこのカレーは、高級店にも引けを取らない! まさか、そんな馬鹿な……」
「高い食材で高いスパイスを使って、美味い料理ができる。そんなものは、当然なんですよ」
メリューさんは言った。
「重要なのは愛情なのよ。料理を食べてもらう人の笑顔、料理を食べてもらう人が、それを食べてもらうことで喜んでくれる……そう思えば、食事なんて簡単に美味しくなる。高い食材を使って不味くさせるほうが、ある種の才能と言ってもいいほどに」
「愛情……。下らん、そんなものがスパイスの一つになりえる、だと? そんなことは絶対にありえん」
「なぜそう言える? それは自分が愛情を受けていなかった、その裏返しか?」
その発言に、男は何も言い返せなかった。
メリューさんの話は続く。
「この店は私が引き継いだものだ。そして、そのとき私はこう言われた。『この店を継ぐのなら、料理は愛情をもって接せよ』と。当時はその言葉がどういう意味を持ち、そして何を意味するのか解らなかったが、ここで過ごしていくうちに理解できたよ。私なりの料理、『その意味』をね。料理というのは食べた人の心を幸せにしていくものなんだ。それくらい、解らないかしら?」
「愛情……幸せ。下らん、下らん、下らん! ただ美味さだけを追求していればいいのだ、料理というのは! 貴様の発言はそれを冒涜するような発言だ!」
「でも料理人は誰もかれも、それを追求していると思うけれど? ……そして、幸せになった対価にお金をいただく。それは十分に理に適っていることだと思うが」
「そんな……。そんなことは認めんぞ。ありえない!」
「ありえない?」
メリューさんはそう言って、あるものを指さした。
それは、男の目の前にある皿だった。
「それじゃ、空っぽになっているそのお皿はどう説明つけるつもりだ? 美味かったのだろう、美味しかったのだろう? そうじゃなければ完食なんてしないものね」
「これは……!」
今度こそ。
今度こそ男は何も言えなくなった。
そして男は立ち上がり、そのまま出て行った。
「……ああいう人間って、すぐ考えを改めようとはしないのよね。実際問題、これが正しいことなのだけれど、それと自分の生き方を客観的に比べることができない、とでもいえばいいかしら? 悲しい生き物よね、人間って。ほんとう、ここで人間の姿をまともに見ることができてつくづく思うよ」
そう言ってメリューさんは少しだけ悲しい目をした。
何か深い闇を抱えているような、何か悲しい過去を抱えているような、そんな目だった。
「まあ、いずれ解ってくれるよ。本当の料理とは何たるか、を」
そう言ってメリューさんは戻っていった。
おれは皿を片付けようとしてそれを持ち上げた。
「あれ……?」
すると皿の上に紙幣が数枚置かれていることに気付いた。とてもじゃないが、これはあまりにも多すぎる。カレーライス一杯、いや、五杯でも足りないくらいのお金だ。
それを伝えようとしてメリューさんのいる厨房へ向かおうとしたが――ひとまず、これはあとで報告することにしよう、そう思った。まだ営業時間ということもあるし。
――後日、このお店がその世界で『隠れた名店』として紹介されることになり、客足が普段よりも増えたのだが、それはまた別の話。
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