第一章7
高徳が帰ったのは、夜遅くだった。もう十二時をとっくに回っていたかな……。これだと明日は早起き出来ないので、そこについてはちょっと考えなくてはならないのだけれど、生憎ぼくは明日の講義受講予定はない。
本当は一講義存在していたけれど、教授が学会に参加するため休講になっているのだ。
はっきり言って、これは学生にとってはボーナスタイムだ。
「それじゃあ……、落ち込むなよ。レディ・ジャックは憎いかもしれないがな、それでどうこう出来るほど、人間も強い生き物じゃねえんだ……。それを分かってくれよ」
高徳は酔っていた。こいつ、実は一回浪人しているから、もう二十歳なんだよな……。十九歳だから、きちんと法律を守ることは大事ではあるのだけれど、こうやって酔っ払って自分のありのままの姿を曝け出している以上、アルコールは絶対に摂取したくないと思うのだ。
「まあ……、それぐらい分かっているよ。帰ったら水飲んどけよ、チェイサー? ってやつだからな」
分からないけれど、分からないなりの知識を言う。
それを聞いてか、右手を挙げた高徳の足取りは、少しだけふらついていた。
本当に大丈夫か、あいつ――そんなことを思ったけれど、しかしながらそれを考える余裕もない。一先ず、ぼくも少し考えなくてはならない。
レディ・ジャックについて――そして、どうやれば彼女に復讐出来るのか、ということについて。
レディ・ジャックは殺人鬼だ。普通の人間じゃない。
だからといって、会うことを忌避するのかと言われたら――答えは否、だ。
そんなことで忌避出来るのなら、苦労しない。
今ぼくは、レディ・ジャックに会わなくてはならない。
会って、何をするのか?
分からない。
分からない。
……分からない。
けれど、やらなくてはならないのだ。
それは、ぼくの生き方にも、ぼくの行動原理にも、ぼくの価値観にも則っている。
反することではない。
しかして、それを実行しようとするならば――それはなかなか難しいかもしれない。
幾らレディ・ジャックに文句の一つを言いたくても、居場所が分からないのなら意味がないからだ。
意味がない行動は、する意味がない。
分かっては……いるけれど。
「……暖かいコーヒーでも買いに行こうか」
けれど甘党のぼくにとっては、きっと自動販売機に行ったらそれがココアに変わってしまうのだろう。
自分のことは、自分が良く分かっている。
分かっているが故に、もどかしいこともある。
「……ん?」
ぼくは、そこで気がついた。
目の前に誰かが立っている。
ぼくの住まいの辺りには電柱があまり立っていないために、電灯が見当たらない。
従って、薄ぼんやりと明かりが照らされているだけに過ぎない。
ゆらりゆらりと踊るように動いているその姿は、人間性を感じられない。
というか、不気味だ。
ぼくの身体が逃げろと言っている。
逃走しろと言っている。
しかし――だとしても――、そう簡単にそれが出来るほどではない。
人間、驚いていると動くことも出来ないんだな。
ゆっくり――ゆっくり――ゆっくりと、しかし確実にぼくとの距離を詰めてくる。
逃げろ、逃げろ、逃げろ――。
そう思っていながらも、なかなか動くことが出来なかった。
そうして、ぼくの直ぐ近くまで辿り着いたそれは――漸く語り始めた。
「……何故、逃げなかった?」
鈴を鳴らしたような声だった。
赤髪の少女が、目の前に立っていた。
パーカーのフードを被らないで、つり目になっている顔を隠さないでいた。
そんな彼女の右手には、チャキチャキと音を立ててカッターナイフが握られていた。それが何度もカッターの刃を出したり仕舞ったりしているようで、それでチャキチャキという音が出ているようだった。
「逃げなかったと言われてもね。別に逃げたいと思っていた訳ではないよ。幾ら他人だろうと、目の前で逃げるのは失礼に当たるだろう?」
売り言葉に買い言葉とは良く言ったものだ。
「……逃げなかったのは称賛に値するけれど、わたしがどういう存在であり、どういう立ち位置であり、何のためにここに立っているのかを理解出来れば……、まだ何か違うかもしれないけれど」
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