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006





 プロットを提出してから、心なしか歩の反応が良くなったような気がする。
 そう思うのは、おれの気のせいだろうか。
 しかしながら、ここに暮らしてから三日が経過していてもなお、未だ良い文章が出来上がってはいない。
 原稿用紙にして、十枚。
 実に四千文字程度。
 順調と言えばそれまでなのだけれど、今まで書いていたペースから比べれば雲泥の差だ。
「……いやはや、ここまで書けないとは思わなかったな」
 とはいえ、今まで書けていなかったことを考えていれば、及第点と言っても良いのだけれどね。期限も決められていない以上、だらだらと書き続けてしまうのはどうかと思うが、こればっかりは致し方ない。
「あ、来月の新人賞に出してもらうから」
「……今、何て言った?」
「いや、だから。来月末締め切りの新人賞に出してもらうって言っただろ? やっぱり原稿は締め切りがないとね」
 いや、待てよ。
 未だ四千文字しか書き上げていないんだぞ?
 最低何文字あれば良いんだ、その新人賞って。
「うーん、大体十万文字もあれば良いと思うけれど? テンプレートに流し込んで、枚数によって決められるから、実際は改行が多ければ多い程良いけれど、それはそれで読みづらいしね」
「いや、歩、お前……。自分で何を言っているのか分かっているのか?」
 初稿も出来上がっていない段階で、あと一ヶ月半後の新人賞に出せ、って?
 流石にそれは出来るという保証がない。
 おれは、もう三年近いブランクがあるって言うのに。
「鉄は熱いうちに打て」
「は?」
「ことわざでもあるだろう? やる気があるなら、時間は早ければ早いほうが良い。だったら、直ぐにやって来て、実現可能性の比較的高い締め切りを設けるべきだ。そうだろう。そうでなければ、だらだらと続けてしまう。適当に書いて、適当に区切りを付けて、やる気をなくして、フェードアウトしてしまう。そういったことをしたいのか、きみは?」
「……別にそこまで言わなくても良いだろうよ」
 ただ、事実であることは間違いないし、痛い所を突かれる感じではある——それは間違いなかった。
「分かっているつもりなら良いのだけれど、実際の所、きみはノルマを達成しないといけない。というよりかは、その才能をそのまま腐らせておくには勿体ないんだよ。……分かるかな?」
「へいへい、良く分かっていますよ」
「ほんとうかなあ? 面倒臭いから話を適当に終わらせようとしていないか?」
 そういうところの勘は良いんだよな。
 致し方なく、おれは歩の言うことを聞くことにした。
「……話を戻すけれど、新人賞ってのはどんなものなんだ? 流石に何の出版社がやっているかどうか、ぐらいは教えてほしいものだけれどね」
「雷光社。知っているかな?」
 雷光社、聞いたことがあるな。
 確かライトノベルも、純文学も、幅広いジャンルの作品を取り扱っている総合出版社じゃなかったっけ? 出版社の中でも一、二を争うシェアだったと記憶しているけれど。
「ご明察。そこまで業界の分析が出来ているのならば、ぼくもあまり言う必要もないかな。……そこは、ぼくもデビューした出版社だ。もう何作品も出してもらっている。恩義を感じていないと言えば、嘘になるぐらいにね」
「で、その雷光社が新人賞を?」
「雷光社小説大賞、というのは知らないかな。確か前回は応募数が八千件を超えたなんて話も聞いたから、少しは耳に入っているのだと思うけれど」
「そりゃあ、名前ぐらいは……。ウェブ小説の小説賞も乗り込んできて、今や小説賞はレッドオーシャンと化しているのに、未だに応募数のトップシェアを走っているんだったか」
 幾度か応募したことがあるから、それぐらいは知っている。
 まあ、一次選考を一度突破したかしていないかぐらいで、結果としては散々だったのだけれど。
「その小説賞に応募してほしい。まあ、強制とは言わないけれどね。でも、締め切りや目標が生まれると、やる気になるだろう?」
 とは言うものの。
 未だ四千文字しか書き上げていない人間に、良くそんなことを言えたものだ……。
 仮に十万文字ジャストで話を終えるようにしたとしても、九万六千文字が残っている。それを、一ヶ月半で?
 それに初稿で出せるほど完璧な原稿を書けるとは到底思えない。
 ということは。幾度か書き直しやブラッシュアップを必要とする、ということ。それらを逆算すると——初稿を書き上げるタイムリミットは、恐らく二週間もないだろう。
「なあ、歩——」
 おれは、諦めるつもりだった。
 だから、歩にそう言葉を投げるつもりだった——間に合わない、とてもじゃないが出来ることではない、と。
 けれど、歩は——あいつは、笑っていた。
 そんなことも出来ないのか? と嘲笑しているようだった。
 それぐらい出来ないと困るぞ、と小馬鹿にしているようだった。
 或いは、人を焚き付けるような、そんな感じか。
 いずれにせよ——何かしらの挑発行為であったことには、間違いない。
「——いや、何でもない」
「何でもない、って? 別に言ってくれても構わないんだよ。まあ、別に良いんだけれどね。言いたくないのならば、それで」
 おれが、こう言い出すのを分かっていて敢えてそういう態度を取ったのであれば——歩は優秀だ。やり方そのものは気に食わないが、結果としては最高だと考えるのだろう。
 ああ、やるさ。やってやるさ。
 結果がどうなろうと、今更考えることでもない。
 やれるだけやって、それでも駄目なら、諦める。
 やれるだけやって、失望されたのなら、それ迄。
 腹を括る——その言葉は、今、このときのために使うのだろう。そうおれは考えて、
「やるよ。やってやろうじゃねえか。目標があれば、確かにそれを達成するしかないと考える。それが人間だ、間違いない。そして……そいつが高ければ高い程、燃えてくる」
「良いね」
 ニヤリ、と笑みを浮かべて歩は幾度と頷いた。
 最初から、この結果を望んでいただろうに——役者な男だ。
「それでこそ、村木肇だ。全力でバックアップするよ、だから早く……ここまで辿り着いてくれよ」
「ほざいていろ。いつお前を追い越しても知らないぞ?」
 友人であり、仲間であり——好敵手。
 こいつとは、こんな関係だったのだ。
 それを今思い出し——おれは再びパソコンに向かっていくのだった。




 しかし。
 そう簡単に言ったところで、何万文字も一気に書くことが出来ているのなら、おれはとっくに作家として花を開いていたはずだ。それが現実になっていないのだから、つまりはなることが出来ない——才能がないということの証左になるのだろう。
 そう延々と自分を卑下し続けたところで、時間は平等に流れていく。
 結果が生まれない時間が増え続けるということは、イコール、小説を書けていないということだ。そんなことを続けていってしまっては——結局、意味がない。
 歩に、わざわざ専用の部屋を設けてくれて、そのための時間を割いてくれたというのに、おれはいったい何をしているんだ?
 卑下し続けることは、悪いことだ。
 けれども、そうとしか思えなくなってしまうのは、致し方ないことなのかもしれない。
「……プロットは出来ている」
 アイディアはある。
 世界は繋がっている。
 連綿と、連綿と。
 さりとて、それを文字にアウトプットしようとして——そこで手が止まる。
 おかしな話だった。昔ならばそんなことはなかったはずだ。脳内で物語が紡がれ続け、アニメーションとして流れ続け、その情景をひたすら文字としてアウトプット出来た。だからこそ多作を出来たし、それを賞レースに載せることだって出来たはずだ。
 歩は、その頃のおれしか知らない。
 だから、失望しているのやもしれない。
 つまりは、おれのことを心配していることの裏返しなのだろうけれども、でも、何時までもおれだって落ちこぼれる訳にもいかないことぐらいは分かっていた。
 分かっていたけれど、それを解決する手段が見当たらなかった。
 もしかしたら、小説を書き続ければ、何か突破口が見出せるのかもしれないけれど……、今の段階では、何も見えやしない。
「一度、話をしてみようかな……」
 作家から、創作についての話を聞いてみよう。
 そうすることで、何かアイディアが出てくるかもしれないし、文章が書き始められるかもしれない。
 そう、一縷の望みをかけて、おれは歩と繋がる電話に手を伸ばした。

◇◇◇

「創作をしていく上で重要なこと? きみにしてはえらく抽象的な質問だね……。もう少し、具体的な質問をすることは出来ないのかな?」
「……鋭い質問ばかりしないでくれ。おまえの言動にはカッターナイフでも隠されているのか?」
 或いは、スイスとかで売られている十徳ナイフか?
 ナイフが隠されている、という意味合いではそっちのほうが正しいかもな。
「まあ、いいや。ぼくもちょっと話をしたいところだったし」
 そう言って開いていたノートパソコンを畳んだ。
「そういえば、ノートパソコンで執筆しているんだな。家に居るんだから、デスクトップにすれば良いんじゃないか?」
「色々試行錯誤をしていたんだけれどね……、例えば喫茶店で書くこともあるし、旅先でも書くことがある。もう滅多にないけれど、出版社とのミーティングで実際の原稿を見せるときにパソコンを使うこともあるね。となると、デスクトップとノートパソコンを同時に使っているとなると、問題が生じるのは何だと思う?」
「……普通に考えて、データのやりとりとかか?」
「ご明察。いちいちデータを移動させないといけないんだよね。まあ、クラウドサービスの自動同期機能とかでも使えば問題ないんだけれど、それってインターネットに常時接続しておく必要があるし、あんまり好きじゃないんだよね。バックアップを常時取ってくれる、という意味ではありだけれど」
「ノートパソコンを使うメリットは、何かあるのか?」
「起動が速いと良いよね。書きたい、と思った時に直ぐに書けるから。だから、ずっとそうしている。色々試行錯誤した結果、とでも言えば良いかな」
「試行錯誤、ね……」
 思い返せば、自分もそんなことをしていたような気がする。ある時は数万円もする高級キーボードを使ってやっていたこともあったかな。確かに打鍵速度は上がるのだけれど、費用対効果が悪すぎた。それにいちいちキーボードを接続しておく必要がある。その頃はノートパソコンしか使っていなかったし。そういう意味では今歩から借りているノートパソコンは、起動速度が速いな。だから、書けるとなったらスリープを即解除して書けるのだろう。……今のところ、そんな機会があんまりないのが、玉に瑕ではあるのだけれど。
「……歩もあるんだろう?」
「何が?」
「何が、って……。アイディアが出てこない時だよ。無尽蔵に小説を書ける訳ではなくて、いつかは絶対枯渇するときがやってくるはずだ。人間なのだから、それは致し方ないことであると勝手に思っているのだけれど……」
「何だ、そんなことか」
「そんなこと、って……」
 歩は立ち上がり、テーブルに置かれているコーヒーメーカーのスイッチを押す。
 直ぐにコーヒーが抽出され、コーヒーの良い香りが部屋の中に広がっていく。
「そりゃあ、そんなことはいつだってあるよ。ぼくもそんなことはなくしたいと思っているぐらいだけれどね、難しいよ、やっぱり……」
「売れっ子作家でも、そんな悩みはあるのか?」
「売れっ子だろうが、作家の卵だろうが、作家は作家だ。皆同じ悩みを抱えているだろうし、全員が全員ライバルと思うのは当然のこと。アイディアが降ってきたとしても、その画期的なそれは、一から十まで調べ上げれば誰かが随分昔に思いついていた、なんてことは良くある話だよ」
「そのアイディアはどうするんだ?」
「考えるとすれば、二つ」
 指を二つ伸ばして、さらに話を続ける歩。
「一つは、それをそのまま捨ててしまうことだ。それは簡単だよ、忘れてしまえば良いのだから。けれども、大きなデメリットはある。それは次のアイディアを考えなければならないということ……。それを生み出すには、さっきのアイディアと同じかそれ以上の時間を費やさなければならなくなる。それが大変だということ、それはきみだって分かっていることだよね」
「まあ、そうだな……。アイディアというのは、場合によっては何年も出すのに時間を費やしてしまうぐらい、難しいものだ。複数の問題を一挙にして解決するアイディアもあれば、一つ一つ問題を片付けていくごく小さな解決方法もある……。アイディアというのは、難しいものではあるよ」
「そう。だから多くの作家はきっと二つ目の手を使っているはずだ」
 二つ目の手。
 まあ、アイディアを捨てる以外の方法と言われれば、答えは案外推測出来るものではあるけれど。
「二つ目の手は、そのアイディアを流用することだ。しかし、アイディアを百パーセント流用してしまったら、それはパクリと見なされかねない。だから、少し変える。例えば、勇者と魔法使いと僧侶のパーティが魔王を倒す、王道RPGのシナリオを考えたとしよう。そういう時、そのアイディアはそのまま使えない。数多の作品で使われているアイディアだからだ。使い古された、と言い換えても良いかもしれない」
「まあ、確かに……」
 寧ろ、敢えてそういう作品にするのもありかもしれない、と思ったけれど……、そんなことは口に出さないでおこう。
「でも、例えば僧侶ではなくて魔法使いを二人にしてみたら? 勇者と呼ばれる存在が二人居たとしたら? そういうアクセントを一つ追加することで、物語はかなり面白くなるし、予測不能な展開を生み出すことが出来る。読者は何を期待してそれを読んでいるか? それは、予測不能な展開を望んでいることにほかならない。予測可能な展開ばかりな小説は、読まれるだろうか? 答えは否だと、ぼくは思っている。あくまでも、ぼくの持論ではあるけれどね」
「……成る程な」
 やっぱり、プロだ。
 物語に向き合うということは、甘いことじゃない。
「……思った答えが得られたのならば良いけれど。もし変な答えだったりしたら、それはそれで困っちゃうかな」
「いや、別に問題ないよ。ありがとう、歩。お陰で、少しは前に進めそうな気がする」
「そうか。なら……それで良い。きみは絶対に、その物語を書き上げなければならないのだからね」
 歩に言い切られると、ちょっと緊張するな。
 復帰最初の作品ぐらい、完全に趣味で進められないかな?
 そう言ったら、歩が深い溜息を吐いた。
「……あのね、だから言ったと思うのだけれど、確かに物語を紡いでいく上で、ストレスというのはかなり重要な要素になってくることがある。阻害されてしまうのであれば、ストレスは除去せねばならないからね。まあ、人によってはストレスが生まれることで原動力になる人も居るけれど……」
「歩は違うのか?」
「違うね。ストレスは抱えない方が良い。そりゃあ、締め切りが近づくと多少のストレスは抱えることになろうけれど」
 歩もそんなこと考えるんだな。
 締め切りなんて余裕でクリアしているのだとばかり思っていたけれど。
「……何を期待しているのか知らないけれど、超人でも何でもないんだよ。なるべく締め切りには間に合うように書いているのだけれど、やっぱり間に合わない」
「間に合わない、って言うけれどどうしているんだよ? 伸ばしてもらうのか?」
「やむを得ない事情があった場合はそうせざるを得ないのかな、と思わなくもないけれど。そこまでは考えていないね。大抵、締め切りに間に合わせているから」
 間に合わせている、って……。
「そうは言うが、簡単なものではないと思うけれど。それとも、アレか? 火事場の馬鹿力とまでは言わなくとも、締め切りが近づけば近づくほど、執筆速度が上がるのか?」
 そんな都合の良いことがあるとは思いづらいのだけれど。
 というか、そんな能力があるのなら、多くの創作をしている人間は喉から手が出る程欲しいに決まっている。
「え? 当然だろう。やろうと思えば徹夜で数万文字ぐらいは書くよ。まあ、あんまりしないけれどね。やっても三時間で一万文字が限界かな。それ以上やると次に響く」
「いや、時速三千文字でも充分過ぎると思うんだけれど……」
 多分ちゃんと計算したら、それ以下のスピードの作家だらけだと思うんだけれどな。
 というか、その言葉はおれにもダメージが来るから辞めてほしい。
「まあ、最初から計画立ててコツコツ書いていれば良いんだよ。きみは一ヶ月半後に十万文字の完成原稿を提出しなければいけない。そこが難しいポイントではあるのだけれどね。ほら、作家の締め切りって基本初稿だし。つまり誤字脱字やトリックの矛盾があっても全然問題ない。寧ろ、その後に修正を繰り返して完成度を高めていくんだから。けれども、賞レースは違う。審査員に見てもらって評価をしてもらう——そのためには完成形を見せなくてはいけない。となると、ブラッシュアップは繰り返す必要があるんだから」
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