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007





 そんなことは言っていたけれど、やはり簡単に出来る話ではない。
 難しい話だ。無理難題、と言っても良い。今、歩が言っていることは、逆立ちをしながら縄跳びでダブルダッチをしろ——と言っているぐらいの無理難題だ。
 いや、ちょっと待て。その無理難題だと無理難題とは言えなくなりそう……か?
「……そんなことを言っている場合では、ないか」
 再び、独居房。
 パソコンが置かれて、ベッドも置かれて、呼べば欲しい物は大抵くれるこの部屋を、独居房などと呼ぶのは本当の独居房と比べると烏滸がましいのやもしれないけれど、しかしながらおれは間違いなくこれを独居房と呼ぶだろう。
 軟禁だよ、これは。間違いなく。
「書け、って言われてもなあ……」
 カレンダーを見る。一ヶ月半後——つまり来月のカレンダーにはでかでかと丸がつけられている。
 これはおれが奮起してつけたものか? と言われると答えはノー、だ。
 何故わざわざそんなことをせねばならないのか。そりゃあ小説を書かないといけないのは、十二分に理解している。歩が期待していることだって、分かっている。
 さりとて、おれはそんな緊張感を持ってはいなかった。
 数年間、書くことが出来なかった人間だ。
 そんな人間が、いきなり一ヶ月半で十万文字を書くことが出来るか?
 それを有識者に聞いたところで、殆どの有識者は不可能だと——出来るはずがない、と言うに違いない。
 無理難題とはこのことを言うのだ。
 逆立ちでダブルダッチ、なんてものではなく。
 或いは、絶対に実現出来ないことを指しているのだろうけれども。
 でも、時間は誰にも均しく流れていく。
 それを肯定することも否定することも、人間からしてみれば烏滸がましい話だ。世界の仕組みを否定していることと、同じなのだから。
「やるしか、ない」
 おれは、歩が言ったことを反芻する。
「……やるしかないんだよ、おれは」
 これは、歩から提示された——いわばラストチャンス。
 それをふいにするつもりはなかった。
 なかったの、だが……。
「難しい話だよな、全く」
 背もたれに寄り掛かり、独りごちる。
「だけれど、やるしかない」
 それは、期待を裏切るから?
 それは、背水の陣であるから?
 それは、進まないと駄目だから?
 答えは、そのどれでもない。
 しかしながら、それを知っているのはおれだけ——いや、他の誰もが知らなくて良い。
 これはそういう選択で、これはそういう方法で、これはそういう顛末だ。
 先ずは一文字、されど一文字。
 その一文字の重みは、おれにだって分かっていた。




 一週間後、おれは何故か歩と一緒に遊園地に来ていた。
「いや……何で?」
「取材だよ。別にそれ以外の意味はない。一応言っておくけれど、そういう気持ちもないから安心したまえ。あ、もしかして肇くんはそういう気持ち、あったりする?」
「ねーよ! ……いや、だから答えになっていないような」
 朝六時に叩き起こされて何処へ向かうかと思っていれば……、しかも歩は深めの帽子にサングラスという感じで、ちょっとだけ変装をしているように見える。
「変装しないといけないぐらい、有名になっちまったのか?」
「きみは本当に疎い人間だよね……。一応、ぼくはデビュー作の発表時に顔写真を出しちゃっているんだよ。それからは、甘いマスクを纏った天才小説家だなんて言われちゃってさ。まあ、気分は良いけれど」
 だろうな。
 おれからしてみれば、ただの自慢にしか見えないけれど、
「あんまり卑下しない方が良いと思うよ……。人は誰にだって、他の人間には代えがたい何かを持っているものさ。肇くんだって、きっと何か才能があるはずだよ? 未だ本人にも、誰にも気付かれていないだけで」
 そうかね。
 才能というやつは、最初から存在しない可能性だって十二分に有り得るんじゃないのか?
「まあまあ、そう言わずに。今日は楽しもうじゃないか。ストレスも溜まっているだろう? 小説なんて全てが順風満帆に書ける訳じゃない。やはり何処かで立ち止まることもあるさ。さりとて、それを乗り越えなくてはならない。人間、いや、小説家というのはそういうものだから」
「んー、そんなことを言われてもな……」
「いやあ、急に呼び出して何かと思えば、こんな場所で何を?」
 声がした。
 振り返るとそこに立っていたのは、金髪にピアスをしている男だった。そこまで言えば完全にヤンキーかそれに近い存在であろうものなのに、まさかのスーツ姿ときた。そこまでするなら、他の身嗜みもしっかりしてはいかがだろうか? ——などとは、口が裂けても言えなかった。度胸がないからだ。
「近藤さん。急に呼んでしまって申し訳ないですね。仕事はお休みで?」
「……この格好を見てそう言うのなら、それはどんな嫌味ですか?」
「でしょうねえ。今日は平日ですから。いやあ、悪いことしちゃったなあ」
 笑顔で言っているけれど、絶対そんなこと思っていないだろ。
 言動と表情が一致していねえんだよ。
「……ところで、もう一人は?」
「いや、先ず既知の人間から紹介してもらえないか?」
 流石に、ツッコミを入れない訳にはいかなかった。
「あー、彼は近藤さん。編集者だね、一応、ぼくの担当さん」
 編集者?
「……編集者に見えない、って思ったんだろう? まあ、それは誰でも先ずは言われることだから、致し方ないことなのだけれどさ。で? 彼が以前見せてくれたプロットを書いた——」
「うん。肇くんだよ、村木肇、悪くない雰囲気でしょ?」
「え? お前、あのプロットを見せたのか? しかも、編集者に……」
「編集者ってのはその道のプロだからねえ。才能の原石、それを見つける審美眼を持ち合わせている」
「審美眼って、美しい物を見分ける才能ではなかったっけ……」
「派生して、そういった普通の人間には見つけられないようなものを見極められる——みたいな言い回しにも使うことも、ままあるでしょう。言葉とは、常に変わっていくものですから」
 うわ、言っていることは結構まともだ。
 どう考えても編集者には向いて居なさそうな見た目をしているのに。
「話を戻すけれど、もう一人は?」
 そう。
 誰もやってきた人間がたった一人であるなどは言っていない。
 やって来たのは、二人。
 もう一人はおかっぱ頭の小柄で、丸い眼鏡をかけたおっとりとした女性だった。
「冴木ちゃん、って言うんだけれどね。うちの新人編集です。本当は一年目って、単独で編集にはなれないんですよ。やっぱり下積みというか、他の編集のノウハウを盗み取ることも必要な訳。だから、最初の三年ぐらい……だったかな? は、ベテランのサポートをする立ち位置に居るんですけれどね?」
「……近藤さんにしては、話が見えてきませんけれど、要は何が言いたいんですか?」
「そりゃあ勿論。彼女を、村木さんの担当にしてもらえないかというお願いなんですけれど」

◇◇◇

「「……えっ?」」
 おれと歩は、近藤さんの話を聞いて目を丸くした。
 というか、聞き返そうにも何が何だか、さっぱり理解出来なかった——整理しなくてはならないだろうけれど、あまりに突拍子もない発言だ。
 伏線も、予想も、何にもない。
 きっと歩だって——同じ反応をしているから概ね予想通りではあるのだろうけれど——意味が分かっていないはずだ。
 その二人の反応を見て、近藤さんは思わず吹き出した。
「くっ……はははっ! いやー、やっぱり予想通り、いや、それ以上の反応を示してくれたねえ。まあ、そう思ってしまうのも無理はありません」
「そりゃあそうですよ、流石に意味が分からない……。常識的に、有り得ない話でしょう。その、デビュー前の作家に編集をつけるなんて」
「正確には、編集の卵、です。彼女は未だ入社したて。当社の新入社員研修を受け終わって、部署に配属されたばかり、と言って良いでしょう。そういった人間にいきなり編集の仕事を教えられるでしょうか? 答えは、否です」
「そりゃあ、まあ……」
 おれだって、作家になったことないから詳しいことは分からないけれど、今起きようとしている事態が異常事態ってことぐらいは把握している。
 というか、有り得ない。
 未だおれは作家にすらなっていない。
 作家としてのスタートラインにすら、立てていないのだから。
「……一応、訂正しておくと。確かに彼女は編集の仕事はしてもらいます。けれど、それは本格的なものではありません。原稿を読んで、アドバイスをします。アドバイスを受ける受けないは、あなたが決めて頂いて構いません。我々のアドバイスに、強制力はありません」
「……つまり?」
「あなたの作品、その個性を潰すつもりはない。……そう言いたいんです」
「近藤さん、あんた、そこまでして関わりたい理由はなんだ? よもや、ぼくの言った方針に反発するつもり、と?」
 言ったのは歩だった。
 歩には歩なりの考えがあったらしい。
 というか、方針って、具体的には何を決めたのか教えてほしいところではあるけれど……。当の本人が何も知らないで進めていく、というのはあまりにも末恐ろしい話だ。
「いいや、そんなつもりはありません。けれど、放っておけないんですよ、あんな作品のプロットを読まされてしまっては。編集者という仕事をしている人間として、そんな才能の原石を放っておけない。だって、放ってしまったなら、他の会社が掠め取っていくでしょうから。それは、はっきり言って会社の——ひいては、自分自身の損失に繋がります。もしかしたら、遠い未来では一緒に仕事が出来る機会があるかもしれない。けれど、どんな作家先生であろうとも、デビュー作は一度きり。そのデビュー作に携わることが出来れば、こちらとしては、とても嬉しいことはない。編集者冥利に尽きる、とはこのことを言うのでしょうね」
 早口で、随分と長い説明を受けたような気がした……。情報量が多すぎて、若干目眩がする。
「……まあ、細かい話はアトラクションを楽しみながら、とでも参りましょうか」
 急に笑顔になったかと思いきや、そんなことを言い出した。
 そういや取材のために来たって言っていたっけ……。
「まあ、そうだとは思っていましたよ。そちらの取材旅行の規程を、全く読まなかった訳ではありませんから」
 取材旅行?
 そんな文言があるのは聞いているけれど、何でそれが絡んでくるんだ。
「そう。なら嫌がる顔をしないで下さい。こちらもあんまり干渉しないようにします。大の大人が四人で、こんな遊園地で遊んでいる……。仮にあなたの正体が判明しなくとも、SNSでは何かしら言われるに決まっています。SNSはそういうものですから」
「まあ、SNSを悪く言うつもりは毛頭ないけれど……。やるなやるなと厳命されているのは、そういうことが理由だったり?」
 そうなのか。
 まあ、今の時代SNSで何を言われるか分からないし、何からいきなり炎上してしまうか分からないものな……。それをマスコミが焚き付けてさらに火を大きくする事例だって、最近は良くあることだし。
「と、とにかく! 火のない所に煙は立たない、とは言いますが。そもそも火を立てなければ良い訳です。分かりますか? こちらとしても、面倒なことはしたくないのですよ。出版社も不況のあおりをくらって、大した力を持てなくなってしまいましたから。ほら、元々SNSで大量のフォロワーを持っている作家さんが、自分自身でマーケティングをしているでしょう? あれって、そういうことも考えていると思うのですよね。宣伝費というのはなかなかペイ出来ませんから」
「……待て待て。取材旅行の下りからどんどん脱線してはいないか?」
「ああ、そうでした」
 ここいらで修正しておかないと永遠に話し続けそうだったからな……。そろそろ本題に入ってもらった方が良いだろう、と思う。
 というか何時までも入園前でぐだぐだしていたくない。
「話を戻しますけれど、取材旅行の規程がありまして……。当社の場合だと、編集が必ずその日程を把握していないといけない、という決まりがあります。そしてそのためには……」
「……同行するのがベストだ、ってことか?」
「その通り」
 近藤さんは頷いた。
 恐らく近藤さんもそのルールはおかしい点がある——そう思っているのだろう。
 しかしながら、近藤さんは社会人であり、組織に属している。おれも一時期——いや、今も、か。まあ、実際に働いていないから別にノーカンで良いと思うのだけれど——組織に属していたから、分かる。
 ルールを変えるのは、あまりにも大変だ。
 大変だと分かっているからこそ、そう簡単にルールを変えるなど言うことも出来ない。
「まあ、厭かもしれないけれど、諦めて下さいねえ。良い小説のアイディアが出ることを、期待していますから」
 そう言って、近藤さんは踵を返し、歩いて行った。
 少し遅れて冴木さんも頭を下げ、それを追いかけていく。
「……良いのか?」
「何が?」
「何が、って……。さっきの話だよ、編集がついてくるって、それは何というか——」
「何。もしかして肇くんは二人っきりでイチャイチャしながら遊ぶのを期待していた、ってこと?」
「お前……」
 人をおちょくるのもいい加減にしろよ。
「冗談だよ、冗談。別に馬鹿にしたい訳でもないし。でも、仕方ないことだよ。こうして監視はされるけれど、きちんとお金は出してくれるのだし。作家って個人事業主だからね。企業勤めならば、会社が税金なり年金は半分? だっけ、払ってくれるのだろう? それに、税金の計算も会社の経理がやってくれる、って。けれども、ぼくは個人事業主だ。聞いたことはないかな? 個人事業主と企業勤めでは、もらうべき金額が倍になってしまう、と。手取りで同額にしたいと考えるならば、額面を倍にしなければ企業勤めの水準には届かない。それぐらい、生きづらいんだ」
「……作家にならない選択もあったのかよ?」
「ないね。それは」
 直ぐに、否定する。
「第一、ぼくにはそれ以外取り柄がないし」
「取り柄……か」
 おれがそれを言った直後、歩は直ぐに曇っていた表情を明るくさせる。
「さ、行こう。ゆっくりしていると乗れるアトラクションにも乗れなくなってしまう。急がないといけない。出来れば、編集の連中を何処かに追いやってしまいたいところだけれど」
「だったらさっきそう言えば良かったじゃねえか!」
 何は、ともあれ。
 取材旅行、とやら——さっさと終わらせようじゃないか。
 おれはそう思うと、歩と一緒に遊園地の中へ足を踏み入れた。

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