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009
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遊園地のディテールを気にするために、わざわざ現地に足に運ぶとは恐れ入った——なんて言いたいところではあるけれど、存外それが作家として普通なことなのかもしれない。
作家というか、物語を作っている人間からしてみれば、世の中のありとあらゆる事象の中から何かしらのインスピレーションが湧いてくるものだと思う。日常では当たり前の、在り来たりの、良くあることであったとしても、だ。
しかし、おれはというと……、物語はおろかちょっとしたアイディアさえ出てきやしない。
もう、作家としてなれないってことなのかもしれないな。
「……何を思い詰めているんだか」
歩の言葉で、おれは我に返った。
「歩?」
「なに、悲劇のヒロインぶっているのか知らないけれどさ、少しは『前向きになろう』って努力するつもりもない訳?」
「簡単に言うがな……」
分からないんだよ。
そんなことを言われたって。
努力するとかしないとか、そういった考えじゃなくて。
何というか……その、前が見えない、というか。
「それが言い訳だって言っているんだよ」
厳しい。
やっとのことで這い上がってきた人間に対して、突き落とすような立ち振る舞いだ。
おれが何か悪いことでもしたか?
「悪いこと——そうだね、強いて言うなら、『何もしたがらないこと』かな。せっかく勇気を出して、ぼくの元にやって来たというのに、これじゃあ何の意味もない。まあ、それは本人が分かりきっていることなのだろうけれど」
「分かっている。分かっているよ……それぐらい」
「進捗はどうだい、そういえば?」
「……、」
「答えられないぐらい悪いか。まあ、その荒れぶりならば、致し方なしと言ったところか」
「……おまえに何が分かるんだよ」
何が分かるんだよ。
作家として、大成功したおまえが、作家になりたくてなれなくて現実に打ちのめされている人間の気持ちなんて——。
「ああ、分からないね」
はっきりと。
はっきりと、言い放った。
「何故そんなにも悲しそうな顔をしているのかが……分からない」
続けた言葉は、言い訳のようにも聞こえた。
あいつは、そう思っていないかもしれないけれど。
「おっ、列動いたね。一個ぐらいはアトラクション乗れそうかなあ」
暢気にそんなことを言いながら、歩は歩いて行く。
おれはただ、それについていくことしか、出来なかった。
◇◇◇
「だ、大丈夫ですかね……?」
「おまえさんはあれを見て大丈夫と言えるのか?」
冴木は未だ若い。だからかもしれないが、こういった空気を読むというか……そういったことに疎い。
「近藤さん……、あの作家って結構ヤバイんですか……?」
「作家が全部こうではないと思ってはいるが、まあ、中島先生は変わり者の部類に入るとは思うよ」
だからこそ、良い作品を書くんだがな……。
とはいえ、ああいう物言いさえ辞めてくれれば、こちらももっと積極的に表に出していきたいものなのだが。
「見てくれは良いから、表に出してサイン会みたいなのをしたいと思うこともあるだろう?」
「まあ……、サイン会は作者とファンが直接ふれあう貴重な機会ですからね。それの人気度によって作家さんがモチベーションアップに繋がる事例もあるみたいですし」
「ああ。だが、あの先生はそれをしたがらない。小説を書くこと以外は出来る限りやりたくない、という主義でな……。今回は一応取材だから表に出ていることもあるが、それさえも珍しいことだってあるんだ」
「へえー……、何でなんでしょうね?」
「そんなもん、おれが知りてえよ」
謎に満ちていることは間違いない。
というか、あの連れ添い……友人とか言っていたか? にも多分あの事実は伝えていない——いや、友人なんだからそれぐらいは知っているか……。
「……そういや、おまえさんも知らないよな?」
「えっ? 何をですか?」
冴木にいきなり脳内の会話を出力した質問を投げたところで理解してくれる訳もない。
とかく一から十まで物事を伝える。コレが大事だ。作家先生にも学んでほしいことだが。
「大事な話だ。おまえさんも、もしかしたらあの先生の担当になるかもしれないからな……」
◇◇◇
それからの遊園地取材は、地獄と言って差し支えなかった。
普通遊園地に行けば多少なりとも楽しめるものであるのが至極当然だと思う。しかしながら、先程の口論をしてからおれと歩は一言も言葉を交わすこともなかった。
流石に歩も気付いたのだと思う。
かといって、おれも言い過ぎてはいたかもしれないが、正論は正論だ。
謝ろうとして、いったい何を謝れば良いのか分からなくなる。
だから、その場はそこで手打ちにするしかなかった。
遊園地を出て、お土産屋を物色して、何故か高いクッキーやぬいぐるみを買って、両手一杯に袋を抱えている歩は、楽しそうなのか何だか表情からは見えてこない。
「肇くん」
「うん?」
帰り際に、歩が言った。
咄嗟だったので、おれも反応して首を傾げていた。
「……助かったよ、今日はありがとう」
「…………そうか」
会話は、長く続かなかった。
先程の口論をしていれば、仕方ないのだが。
そうして、おれ達は家路に就くのであった——。
8
普通の物語であれば、これで完結って話になるのだと思う。
蟠りがなくなったかと言われると微妙だけれど、少なくとも会話は出来るようになった、ってね。
しかし、これは現実だ。
現実は、空想ほど甘くはない。
帰ってから、おれはまた小説を書いていた。
そして、おれはまたスランプに突入していた。
いや、正確にはスランプに戻った——と言えば良いのか。書けているタイミングが珍しいぐらいなのだから。
一分、一時間、一日……経過しても、一文字も書けなかった。
アイディアが、プロットが、あったはずだ。
情景が浮かんできていたはずだ。
だのに、書けない。
「……進捗が良くないみたいだねえ」
一文字も書けずに、二日が経過した。
こんなことをしているうちに、コンテストの締め切りは刻一刻と迫っている。
コンテストの締め切りは、ちょうど五週間後。
カレンダーの日付の上には、ばつ印が並べられている。
歩が定期的に進捗を確認しに来るが、おれの状況を見て溜息を吐いてばかりだ。
「……何度来たって状況はそう簡単に進展しねえよ」
「そうかい? それとも、書けなくなってしまった理由でもあるのかな」
歩の言葉が、鋭く突き刺さる。
まるで、ナイフだ。
これ程までに突き刺さるナイフがあったものか。
「……ちょっと気分転換しないかい?」
三日目の昼、進捗を聞き出した歩は、おれにそう提案した。
おれはそれを聞いて、目を丸くしていた。
ただでさえ書けていないのに、気分転換だって? 一文字も全く書けていないんだぞ。流石にそれは——。
「いやいや、気分転換は大事だよー? どんな高名な作家だって、オンオフの切り替えは大事にしている。そうでないと量産出来ないからね、物語を。ぼくだってやっているよ、色々とね」
「ふうん。例えば?」
「お風呂に入ると良いよ。一日三回は入っているし」
「おまえはドラえもんのしずちゃんか」
風呂に入るのはリフレッシュになる、ってのは昔から言われていることかもしれないが、流石に一日三回は入りすぎではないだろうか?
まあ、人の生活リズムにああだこうだ文句を言うのもどうかと思うのだけれども。
「風呂って気分ではないな。いや、別に入りたくないって訳ではない」
「そうか。それなら散歩は?」
「散歩……ねえ」
それぐらいだったら、今から始めても大した時間にはならないか。
「よしきた。それじゃあ、近場に散歩に出掛けようじゃないか。最近出来たアイスクリームショップが気になってね」
「まさかそこに行きたいから、わざわざおれのやる気を引き出したのか?」
歩は答えなかった。
飄々とした態度を取っているけれど、大抵は図星だろう。
「準備をするから、少し待っていてくれるかな」
そう言って足早に歩は立ち去っていった。
別に散歩なのだから、準備をすることなんてないだろうに。
おれはそう思いながらも、歩の言うことを忠実に守るべく、寝転がった。
◇◇◇
十分後、おれと歩は近所の商店街を歩いていた。
商店街、と言っても閑散とした町並みが広がっている。少し離れたところにショッピングモールが出来てしまったことが遠因だろうが、歩が言うには昼間この辺りで買い物をしようなどと思う人間はあまり居ないのだという。かくいう歩でさえ、ショッピングモールで買い物をするか宅配で済ませてしまうのだとか。
何でもかんでもスマートフォンで注文が出来るようになったのだから、便利な世の中だ。
さりとて、便利であるからと言って全て良くなった訳でもない。当然その流れで喪われていったものだってある訳だ。
「……しかし、まあ」
まさかアイスクリームを食べに来ることになろうとは。
アイスクリームショップは商店街の入り口から少し離れたところに出来ていた。というか、行列が出来ていて、とても分かりやすかった。まさかと思うが、そこからあの行列に並ぶのか? 等と歩に問いかけたが、
「愚問だね」
そうばっさり切り捨てられ、おれは泣く泣く行列に並ぶこととするのだった。
しかし……。
「カップルばっかりだな。それに、高校生ぐらいの学生も多いか」
「ユーチューブやインスタグラムでバズっていたからね。一度気になっていたんだよ。作家たるもの、様々なものにアンテナを張り巡らせておかないといけないからね?」
「と言いつつ、ただ食べに来たかっただけじゃないのか?」
答えなかった。
せめてそこは否定してくれ。
はてさて、時間がもったいない。おれは歩から貸してもらったiPadを取り出した。
今は便利なものだ。クラウドに原稿を保存しておけば、インターネット環境さえあればどんな場所でだって書くことが出来るんだ。
今は、少しでも、書かないといけない。
一文でも、一行でも——一文字でも。
それでも、前に。
書き続けないと——書かないと——意味がない。
おれは、今、そのために生きているんだから。
「……ま、たまには息抜きも大事って訳さ」
気付けば、列の先頭まで到着していて、歩がアイスクリームを二つ注文していた。
それを手渡してきて、おれはふと画面を見る。
画面上の原稿用紙は、昨日から少しだけ文字が増えていた。
9
五週間という期間を、長いと取るか短いと取るか――それは人によるとしか言い様がない。難しい話だよな、全く……。しかしながら、普通に考えれば五週間は長いとも短いとも言い切れない。大抵は、何かやることを設定しなければそれの長さなんて測りようがないからだ。
今の文字数は、約二万文字。
はっきり言って、遅い。
一週間で二万文字という数字をどう捉えるかという話だけれど、これが全く文章を書いたことのない人間であれば優秀と言って差し支えないだろう。
「でも、簡単に言うが」
それから先が大変だ。
二万文字という数字に変えてしまうとこいつは凄いことだと思われてしまうのだろうけれど、しかしこれを一冊の文庫本に換算するとどうなるか。
二万文字と言うのは、一冊の文庫本で言うところの五分の一。
二百ページの文庫本が一冊だと仮定しても、未だ四十ページしか進んでいない。
冷静に考えてほしいが、四十ページでとてつもなく展開が進行することはあまりない。冷静に考えて、それぐらいスピードやテンポよく進んでいたら、寧ろ後半の展開が心配だ。前半のスピードが失速するのもダメだし、変に加速して読者を置いてけぼりにしてもダメだ。
では、二万文字でどこまで進んだのか? と言う話に翻ることにすると、
「……プロットは予定通り、か」
そう。
まさか自分でもここまで想定通り進むとは思いもしなかった。途中止まっていたことはあったとしても、全体的な展開から考えれば瑣末なことであったことは、火を見るよりも明らかだ。
「出来たのかい? そりゃあ良いことじゃないか」
昼食のタイミングで進捗を報告したところ、歩からそう言われた。
「良いこと……なのだろうけれど」
「なんだ、不満なのかい? 進捗をあけっぴろげに言えるのは良いことだよ。作家とて、一から十まで完璧に同じペースで書き続けられる訳ではないのだからね。やはりムラもあるだろう」
「……そういう歩も、やはりそうなのか?」
「人間だからね、そういうことだってあるよ」
あっさりと言い放つと、切ったハンバーグを口に放り込んだ。
大抵、歩と家で食事をするときは出前だ。出かけて外で食べても良いのだろうけれど、歩はプライベートな空間での食事を好むことが最近になって分かってきた。
即ち、同窓会みたいな場所にやってくること自体が、そう当たり前ではないということだ。
物珍しい、と言って差し支えないだろう。
「……ぼくからしてみれば、羨ましいけれどね? リフレッシュをしてもなかなか文字が出てこないことだってある。一日かけて一行書ければ御の字って日もあるぐらいだ」
それは……。
なかなかにハードな一日ではないだろうか?
産む苦しみと言うのは、分かっているつもりだ。
だからこそ——歩のその発言は、重くのしかかってくる。
「作家によっては、映像をノベライズするだけっていうのも居るだろう? ……別に肇くんがそうであるとは言わないさ。誰しもそういった経験は持ち合わせているだろうからね。そういう作家は、ある種の特異的な存在であるとも言えると、ぼくは考える訳だ。やはり文章は文章でしか生み出せないって人も居るだろうし、頭の中に常に流れている映像をひたすら文章化するだけで小説が出来上がる、っていうのも居る。作家は、作家の数だけ違いがあるってことだよね」
「……なあ、歩」
おまえは、ずっと凄い存在だとばかり思っていた。
思い込んでいた、というのが正解かもしれないな。いずれにせよ、おれの考えだ。誰かが否定してくれるだろうし、勝手に否定してくれたって構わない。それぐらいの吹けば飛ぶ程の凝り固まっていない概念だ。別に、それをじっくりと固めていこうだなんて考えちゃいないし、考えることもしない。
さりとて、翻って考えると、ただの人間である以上、おれはただ凡人の域を出ないのだと考える。
当たり前といえば、当たり前だ。目の前に居る歩は作家として順風満帆な人生を送ってきて、こちらは崖っぷちの人生になっているのだから。
拾った者と、拾われた者。
ある種の対比が出来ているとでも言えば良いだろうか。
「ぼくは、凄い人間でもなんでもない。確かに、自分が紡ぎたいと思った物語を世に出して、多くの読者に見てもらえている時点で、普通の人間とは違うのだろうね。そこは否定しないし蔑むつもりもない。それをしてしまえば、今までぼくの作品を読んできてくれた読者のみんなを裏切ることになりかねないからね」
けれども。
「けれども……、未熟であることには変わりない。偉大なる先人と比べれば、ぼくはまだまだだ。作家としては発展途上とでも言えば良いか。まだ発展するのか、と言われるとイエスと言い切れないところはあるけれど。しかし、そうだ。天才とは違う、努力しても掴めないものは、ある。努力——血の滲むような努力をしたとて、天才との差は埋まらない。天才は、生まれてからその才能を得て、享受して、それを得られたことを苦にも思わない存在だ。……別に天才が悪いとは言わない。それは、運なのだからね。運も才能のうち、とは誰かが言っていたような気がするけれど」
「運も実力のうち、じゃないのか? それを言うなら」
歩の言葉を、おれは一部否定する。
「ああ、そうだったっけ? ……ってか、ぼく、何て言った?」
「運も才能のうち、って言ったぞ。才能なのかもしれないけれど、世間一般に広まっている言葉とするならば運も実力のうち、だろ」
「……何だか小難しくなったね。少し原稿が詰まってきているかな?」
「詰まっているのは前からだが……読むか? 一応、第一章は書き上げたんだ。これから第二章に取りかかるから、全然序盤の話ではあるのだけれど」
そう言って、おれは印刷していた原稿を手渡す。
決して歩のために持ってきたのではなく、これは校正用だ。iPadとかにPDFを映し出しても良いのだけれど、やっぱり見直すのは紙に限る。紙であれば目が滑ることもないし、そのまま直接書き込むことだって出来る。まあ、目が滑るか滑らないかは人それぞれだし、PDFだってスタイラスペンを使えば書き込みは出来るのだけれど。
「これは?」
「言わないと分からないのか? 原稿を読んでくれる、って言ったよな。確か。もしかしたら言われたのが何だか随分昔のような気がして、違った解釈をしていたのかもしれないけれど」
「……いや、言ったよ。確かにね。意地悪をするようで悪いね。確かにその通りだ」
乾いた笑いを浮かべながら、歩は原稿を受け取った。
「ふむふむ……。ファンタジーにしたんだね。魔法の才能がない主人公が、魔法の才能がピカイチで今世紀最高の魔法使いになれると噂される幼馴染みと冒険をする、と……。良いねえ、在り来たりだけれど」
「駄目か?」
「別に?」
歩はそう言って、一枚だけ原稿用紙を摘まむと、読み始めた。
「別に、在り来たりだって構わないと思うからね。例えば異世界転生と一つ取っても、どの作品もオリジナリティを発揮している作品が殆どだろう? お約束を踏まえる必要もないし、敢えてそのお約束を踏み外してしまったって構わない。全ては読者に如何に刺さるか。読者がこれを読んでどう感想を抱き、どう面白いと思ってくれるか——それに尽きると思うよ」
二枚目を取り出す歩。
「作者——即ちぼくや肇くんのような存在は、その作品の完成度を持ってモチベーションを高めると思う。完成度が高いイコール面白い訳でもないしね。無論、概ねイコールになるケースはあると思うけれど、面白い作品の中には文法が間違っていたり言葉の意味が間違っていたりすることもあることはある。要は欠点があったとしてもそれを無視出来るぐらいの面白さがあれば、きっと物語は売れる。多くの人に、物語を届けることが出来る」
「……成る程な」
つまり、幾ら作者の方で完成度を高めたとしても、それはエゴだと。
読者がどう受け取るか、作品はそれに尽きる、ということか。
「漸く分かってきたみたいだね。そう、例えばこれが趣味の領域だったら構わないんだよ? 所謂商業作品には絶対出てこないような作品を書いてきたって、別に良いんだ。文句を言われる筋合いもないからね。本人が、作者が、どれだけ楽しく書けているか——趣味に関しては、それだけで良い。評価する人間が居るとしても、それは作者がどう受け取るかだから。……でも、商業になってしまうとそれは違う。読者の意見や評価は無視出来ない、寧ろ第一に優先すべきものとして扱われる訳だ」
「……ううむ」
分かってはいるけれど、こうも明言されてしまうと、反応に困ってしまうな。
そりゃあ、作家としては歩の方が先輩だし、間違っていないと思う。
けれど、読者の顔色ばかり伺っていても、それは如何なのだろうか? 自分がほんとうに書きたい作品は、絶対に書いてはならないということになってしまうのだろうか?
「……色々と、悩んでいるようだね」
「ああ。だって、やっぱり気になるじゃないか。如何しても自分が書きたい作品を世に出したい。それが作家であり創作をする人間全ての夢や希望じゃないのか?」
「肇くん、きみは随分明るい言葉ばかり使うね」
くすくすと笑みを浮かべて、歩は言った。
原稿用紙は四枚目を終えて、五枚目に差し掛かっている。
時間はどんな時であっても進む速度は変わらないはずなのに、今はとっても遅く感じる。
何だろう。全身からひどい汗が出ているような、そんな錯覚にさえ陥ってしまう。
早く終わらないか——と思ってしまうが、しかしそれは同時に歩にとっても面白くない作品だったという評価を下すことになるのとイコールだ。
歩の——現役作家の貴重な時間を奪ってまで、執筆中の作品を読んでくれているのだ。
ただの、アマチュアの。
作家志望の、ただの人間の。
その作品を、今、一人の作家が読んでくれているのだ。
そんな状況であるのに、相手を慮らない訳にはいかない。
「……現実は、時に残酷だよ」
歩は、低い声で冷たく言い放った。
「残酷、か」
「そう。確かに、作家、いや創作者は誰も自分が描きたい作品を書きたくない訳じゃない。当たり前だよ、自分の空想や妄想や想像を、世の中の多くの人間に届けたいだろう? 承認欲求と言うと言い方が悪いかもしれないけれど、そんなイメージだよ」
六枚目。
七枚目。
無言で、歩は原稿用紙を捲り続ける。
それがあまりにも恐ろしくて。
それがあまりにも辛くて。
ただ、ただ——永遠にも長い時間を感じたような、気がした。
「……良いんじゃない」
そして、読み終わり——歩は言い放った。
「良い、とは」
「言葉通りの意味だよ。少しはまともに受け取るべきだと思うけれどね? さりとて、それを擁護するつもりもない。肇くん、きみの書く物語は——その才能は、枯れちゃいなかった。それは間違いない」
「……そうか」
それを聞いて、おれはほっとしていた。
溜息を吐いたと——そう言い換えれば良いかもしれない。
しかしながら、それでも油断は出来ないし安心も出来ないと言って良い。
安心したのは束の間、である。
「——ただ、粗が目立つね。アマチュアだから致し方ないのかもしれないけれど、それでも光る物があると分かってもらえるのならば、それは商業のルートへ続く可能性が、少しばかりは出来てくるのかもしれない」
「つまり、未だそれに程遠いと?」
「……直ぐ根暗になる。あんまりそういうマイナス思考で居るの、辞めた方が良いと思うけれど?」
全てを持っている人間に言われたところで、それは僻みでしかない。
「……まあ、いいや。とにかく、読み終えたけれど……。まだまだ、磨く要素はあると思うよ。どんなくすんだ石だって磨き続ければダイヤモンドのように輝き続ける——ってのは、わりかし有名な話だからね」
聞いたことはあるけれど。
しかし、それを光り輝く側から言われてしまっては、おれは何も言えなかった。
それは、勝者の発言だったから。
敗者からしてみれば、それは勝者の余裕にしか見えないから。
「……なあ、歩」
おれは、気付けば歩に問いかけていた。
「何だい?」
歩は、いつも通りの表情で、おれに答えた。
「作家になるってさ——難しいことなのかもしれないよな」
「聞かせてもらおうか」
歩がそう姿勢を正すけれど、別に勿体振って言う話でもないと思う。
おれがおれであり続けるために、歩が歩であり続けるために——人間それぞれ考え方は違うし、当然それは人生にもアプローチし始める。
だから、簡単に言ってしまえば。
別に作家にならない人生の選択だって——十二分に有り得るのではないだろうか?
「人生は無限に広がる選択だって、何処かの誰かが言っていたような気がするけれど……。それって存外間違いでもないんだろうな、って最近思えてきてさ」
「成る程?」
「例えば、『塾に通うかどうか』という選択肢があるとして、それをイエスかノーで選択することが出来るはずだろう? そして、その選択によって人生が大きく左右されることだって、当然あると思うんだよ」
「バタフライエフェクトって奴だね」
何だっけそれ?
「つまりは、一匹の蝶の羽ばたきが大きな竜巻を巻き起こすことが出来るか? といった命題だね。簡単に言えば、それは有り得ないと切り捨てることが出来るかもしれない。しかしながら、現実はどうだろうか? それこそ、風が吹けば桶屋が儲かるというレベルのバタフライエフェクトが起きているのではないだろうか? 常々、思うよ」
「そんなこと、考えているのかよ……」
やっぱり、歩とおれでは頭の構造が違う。
何を考えていて、何を好んでいるのか。
そりゃあ、作家になるよ。成功もするよ。
天才なのだから、こいつは。
「……難しい話をするつもりはなかったんだけれどね?」
嘘を吐くな。
まあ、話を切り出したのはこちらだから、強ち間違っちゃいないのか?
「つまり、肇くん、きみの人生だって選択の連続だった——そう言いたいのかな?」
「ああ」
つまりは、そういうことだ。
一万にも百万にも十億にも——無限大に広がっている選択から、一つの選択を選び続けた結果——これが今の人生だ。
後ろには二度と戻れない数々の選択があり、前にも二度とやり直せない選択の数々がある。
人生は、ロールプレイングだ。
人々は、それぞれの役割を自覚し、行動する。
簡単に言えばそれまでだけれど、それを考えてそう行動する人間が果たしてどれだけ居るだろうか?
「……生き方を否定するつもりはないよ。だって、それはその人間そのものを否定することに繋がるのだからね」
歩は、溜息を吐いてそう言った。
何処か諦めたような口調にも思えた。
「けれどね」
歩は話を続ける。
「それでもやっぱり——人間というのは、常に評価し続け、常に否定し続け、常に肯定し続け、常に試行錯誤し続ける生き物であると思うのだよね」
「……何か、学生時代を思い出したよ」
歩は、確か大学の時もそんな高尚な考えだったような——そんな気がする。部室でああだこうだと議論になることもあれば、歩の話に誰もついて行けずに歩の独壇場になってしまったことだってあった。
今思えば懐かしい思い出。
しかし、二度と戻ることのない出来事でもあった。
「はっきり言えば、世知辛いものだよ。人生というのは」
歩はさらに続けた。
「成功した人間だと思うのだろう? ぼくのことを。けれども——けれども、それは傍から見れば正解なのかもしれないけれど、ある種間違っているようなそんな感覚に陥ってしまうような、気がするとぼくは思うよ」
「……つまり?」
「成功した人間という評価は、あくまで世間の評価に過ぎない——ってことさ」
相変わらず、相変わらず——。
難しいことを言う奴だ。
大学時代から変わっていないのは、おまえぐらいじゃないか?
「さあ、話はこれでお終い。修正してほしいことは沢山あるよ。さりとて、光る物もある。それをさらに磨き上げるような——そんな感じにするんだ。分かったかな?」
立ち上がり、歩は言う。
強引に話を切り上げられ、少しばかり消化不良感も否めなかったが——しかし、歩の言っていることが正しく、おれはそれに従うべく、一つ溜息を吐いたのち、その言葉に同意するのだった。
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