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011



「……はい?」
 歩の言葉に、おれと牧場は二人で目を丸くした。
 いや、牧場の方はアバターだから、そこまで厳密な表現は出来ないだろう——と思っていたが、最近の3D技術もトラッキング技術も素晴らしく、目を丸くした表情もお手の物だった。こりゃ、近い将来人間そっくりの3Dグラフィックが出てきても——不気味の谷を軽々と越える代物が出てきたとしても、何らおかしくはないな。
「いや、だから言った通り——」
「意味は分かっている。分かっているけれど……如何して?」
 牧場は問いかける。
 そりゃあそうだろう。幾ら友人だとしても、見ず知らずの作家志望者の作品を読んで、それにアドバイスを送ってほしい——そんなお願いを聞かれて、一言目に了承しますなんて言う人間は居やしない。
 もし居るとすれば、そいつはよっぽどのお人好しだ。
「駄目かな?」
「駄目かな、って言われてもなあ……。こっちだって執筆作業が遅れ気味なところもあるし、あんまり他の仕事入れられないんだよね」
 まあ、そりゃそうだよな。
「そこを何とか」
 いや、そこでさらに押そうとする歩も歩だけれど。
 普通向こうが難しいと言ってきたら、食い下がるものじゃないのだろうか……。
「……プロローグだけ読んであげる」
「えっ?」
「プロローグだけ読んで、面白かったら続きも読むよ。もし少しでも琴線に触れる様子がなければ、それで辞めるから。それでも良い?」
「良いよ、それでも」
 歩は直ぐに言った。
 おれの作品に対してかなり高く買ってくれているのは大変有難いことだけれど、それを言うのはおれの役割じゃないだろうか?
「……面白いね、アンタ」
 牧場は笑いながら、そう言った。
 首を傾げる歩は、どうやら牧場が何故そう言ったのか分からない様子だった。
 いや、流石におれだって分かるぞ。相手が言いたいことは——。
「だって、普通は作者が自信満々に胸を張るものだろ? それを、作者ではないただの友人がそこまで胸を張って言えるって……。まあ、胸を張っているのは稀代のベストセラー作家、か。重みが違うと言えばそれまでだけれど」
「まあまあ、面白いのは確かだよ。ただ、今読んでいるのがぼくだけだからさあ。ほら、こういうのって複数人で読んでおいて、多方面からコメントを貰った方が良いじゃないか。だからさ、」
「あーはいはい、分かりました。読みますよ、読めば良いんでしょ! 良いからさっさとその原稿を送りなさいよ!」
 その言葉を待っていましたと言わんばかりに、歩は直ぐにチャット欄に原稿のファイルをドラッグアンドドロップしていく。
「早っ……。まるでこっちの台詞を待っていました、って感じじゃない……」
 牧場は驚いたような呆れたような、そんな表情を浮かべていた。
 カチッ、カチッ、とマウスのクリック音が聞こえることから、どうやら今ファイルを開いてくれているらしい。
 そして、目を右から左へゆっくりと動かしている。黙読しているのだろう。しかしそんなところまでトラッキング出来るだなんて、凄い技術だなあ——などと思っていたら、
「……成る程ね」
 ぽつりと、牧場の呟く声が聞こえた。
 続けて、
「少し、時間貰える? 何とか読み進めて、今日中にはアドバイスを送るから」
「それで良いよ。よろしくね」
 そうして、Web会議は急展開を迎えて終了するのだった——いや、本当に何が起きているのか、さっぱり理解出来ない。
 何故、急に態度が変わってしまったのだろうか?
 まあ、ともかく——アドバイスを頂けるというのは、有難いことだ。
 戦々恐々とはするが、先ずは待つほかない。
 そう思い、おれはそのアドバイスが来るのを待っている間、続きを書こうとするのであった。



 返事が来たのは翌日のことだった。正確に言えば、翌日の午前四時だったか。こんな朝早くといって良いのか分からないぐらいの夜更けに、メールを受信した通知がスマートフォンから鳴り響いていた。
 もう二時間ぐらいは眠っておきたかったが、しかしながら少しでも目覚めてしまったのなら、今から二度寝するのもどうかと思う。締切までそう時間がないと言うのだから、少しぐらい朝活ではないけれど、一ページでも進められるのならば進めた方が良いだろう−−などと思いながら、おれはスマートフォンを手に取った。
 メールの宛先は、最早言わなくても良いだろう——牧場からだった。
 VTuberっていうのはコミュニケーションが大事な職業である、とは確か歩から聞いていたような気がする。いつも配信ばかりしている社会性ゼロなわけではなくって、そういうのはキャラであり、あくまでもきちんと相手のことを考えてコミュニケーションをとっているのが殆どである、と。
 歩からそう力説され、あんまり本気には捉えなかったけれど、確かに言われてみるとその通りなのかもしれない。多少の問題はあろうとも、企業相手にやり取りするケースだってあるそうだし、企業に属している人間だからこそそれなりの研修だってやっているのだろう。内情を知らないから、ああだこうだと仮説を立てるだけに過ぎないのだが。
「どんなメールが送られてきているのやら……」
 スマートフォンでメールを見ると、最初にこんな文章が書かれていた。

◇◇◇

 毎々お世話になっております。
 牧場ひつじです。
 昨日は、会議ありがとうございました。ご配慮の足りない点などなかったでしょうか? もしあればご容赦ください。
 さて、お送りいただいた原稿を拝見いたしました。そして、本日中に全て読み終えることができましたので、ご報告させていただきます——。

◇◇◇

「て、丁寧過ぎる……」
 昨日出会った、あの自由奔放な姿はどこへ消えてしまったのだろうか? 実はこのメールはゴーストライターによる代筆なのではないだろうか? などと色々思考を張り巡らせてしまう。
 しかしながら、書いている文章は丁寧である。
 社会性がゼロだなんて、そんなのは嘘っぱちだったのかもしれない。
「……にしても、」
 一応、というかこちらも姿勢を整えて、読み始めている。
 書かれているアドバイスはどれも的確だ。正直耳が痛いと思うぐらい痛烈なものだって書かれている。おおかた、歩が辛口で採点してくれみたいなことを言ったのかもしれないが、今のおれにとっては有り難かった。
 何故ならこれから賞レースで戦わなくてはならない原稿だ。
 良いところばかり言って修正点が皆無になってしまうような、完璧な原稿が生まれるわけがない。まあ、無論それが理想ではあるのだけれど。
 閑話休題。
 おれはパソコンを立ち上げていた。
 書くためか? と言われるならば、当然イエスと言うだろう。
 当たり前だ、こんな熱意を持ったアドバイスをもらって、ただ胡座をかくだけになるか?
 だから、おれは書く。
 ただ一歩ずつ、一歩ずつ、着実に——前に。




「……進めば良かったのだけれどなあ」
 昼前、進捗は最悪の一言だった。
 締切まで逆算すると、一日五千文字は書かないと終わらない。当然確認や修正の時間だって必要だ。書いただけではいおしまい、なんてわけじゃない。商業に乗っている作品だって、当然作者が書いた原稿がそのまま掲載されているわけじゃないし、それを一応募者が実行するのも、何らおかしい話ではなかった。
 しかしながら、それはそれ。
 進捗としては最悪の一言。
 つまり、一文字も進んでいない。
 正確には四千文字ぐらいは書いた。概ね中盤の盛り上がるエピソードの一つだ。そこから終盤戦に持っていくにあたる結束点と言っても差し支えない、重要なエピソードだ。
 しかし、書き上げたところで、どうにもそれが気に食わない。
 そのまま先に進めても良かっただろうし、前の自分ならそのまま進めていただろうと思う。
 しかしながら、あのアドバイスを見てしまうと、より完成度の高い作品を目指さなくてはならないという、ある種のプレッシャーを感じていたのかもしれない——多分。
 そういうわけで、おれは今一文字も書けない、大スランプに陥っていたのだった。
「……参ったねえ」
 そうおれの前で言ったのは歩だった。
「うーん、聞いている話だとあんまり変な感じはなかったけれどねえ。もしかして、アドバイスということにかなりプレッシャーを感じてしまった、とか?」
「可能性は——否定しないが、」
「一応言っておくけれど、天才ってのは居ないからね」
「……うん?」
 いきなり何を言い出すかと思ったら。
「頭が良かったり、素直だったり、段取りが良かったり……多くの人間が羨むようなことを出来る人間が居るとするだろう? それを一概に『天才』と呼ぶのだろうけれど、天才は傍から見れば、凡人とは考えが違う。一握りの天才は紛れもなく存在するだろうけれどね。しかしながら、多く居る天才と呼べるような存在ってのは、凡人には考えられないことを為出かすことが多い——別に侮蔑している訳ではないのだけれどね」
「……ええと、つまり?」
「天才になることは、そんなに難しくないってこと。凡人がやろうとも考えないことをやってのけるのが、凡人と天才の違い。圧倒的な差を縮めるためには、奇想天外なアイディアと並大抵じゃない努力を兼ね備える必要がある……。だから、ぼくは今ここに居る、という訳でもあるのだけれど」
「天才になろうだなんて思っちゃいないよ……。そもそも、天才ってのは最初から決められていることだろうし、それを決めることなんて全く出来やしない。天才と凡人では、スタートラインが違う。そのスタートラインを変更することは出来ない——けれど、走る速度ぐらいは変えることが出来る。それが努力って奴だ。そうだろう?」
「……何だ。分かっているんじゃないか」
 歩は溜息を吐いて、おれにそう言った。
 理解しきってはいないけれど、少しずつ歩み寄るべきだな――とは思っているよ。
 それぐらいの心情の変化は、ある。
「……ふうん、少しばかりは色々と考えているってことなのかな? まあ、分かるよ。そういう切磋琢磨というのは。別に否定するつもりもないし、寧ろ肯定したいぐらいだからね。やはり何でも競争しないとつまらないものだよ」
「……そういうものかね」
「そういうものだよ、少なくともぼくがずっと過ごしてきた世界では、ね」
 過ごしてきた世界、か。
 確かに歩はずっとプロ小説家の世界を歩んできていたんだ。素人、もとい作家志望のおれがああだこうだ言ったところで、そんなことは無意味だと言って良いだろう。或いは、嘲笑の対象に入ると言っても差し支えない。
「ぼくだって、スランプの一つや二つぐらいするからね。珍しい話でも何でもない」
「おまえが?」
 想像できないな。
「想像したくない、だけじゃないのかい? ぼくは完璧でも何でもない。天才と言われるかもしれない——天才と疎まれるかもしれない。さりとて、ぼくという存在はどちらかと言えば凡人の方だと思っているよ。ただまあ、ここまで辿り着くのに並大抵じゃない努力をし続けてきたのは、間違いないけれどね」
「……おれはどうすれば良い?」
「どうしても良いんじゃないかな」
 質問をしているのに、曖昧な回答をもらっても困る。
 何か、明確な答えが欲しいのに——。
「そもそも、何か答えを他人から得ようとしていること自体が間違っている——そう思うべきではないのかな? 例えば、自分自身が存在できなくなるぐらい、致命的なエラー……。そんなことが起きてしまったのなら、流石に手を差し伸べることはあるのだろうけれど」
「……、」
「でも、それをしてしまうときみのためにならない。分かるだろう? ここまで書いてきて、プロの力を借りて完成させたとしても、その原稿は果たしてきみが百パーセント頑張って執筆した作品となり得るのだろうか? 答えは、ノーとなるのではないかな。やはり、自分が書いた作品こそが自作であると胸を張って自慢できるのだと思うし。それとも、きみはそんなことを関係なしに言えるのかな? そんな面の皮の厚い人間であるとは思ってもいないけれど、さ」
 歩はずっとアドバイスをしてくれる。
 それはきっとおれのことを思って——だ。そうに違いないし、それを否定するつもりもなければアドバイスを無碍にするつもりもない。
 けれど。
 今、かけて欲しい言葉は、そうじゃない気がする。
 気がするんだよな……。
「……ぼくも色々と言いすぎた。とにかく、ぼくも色々ともう一度きみの原稿を違ったアプローチで見てみることにするよ」
「…………え?」
 いきなり歩がそんなことを言い出したので、おれは思わず顔を上げた。
「言いすぎたよ、流石に。きみの立ち位置的にがむしゃらに行動したくなるのは分かる。アイディアや文章を詰め込みたくなるのも分かる。表現したいことが山ほどあって、それを一つの作品に入れ込みたくなるのも、全て分かるよ。分かるけれどさ」
「……分かるけれど?」
「アイディアってものは、出し惜しみすべきなんだよ。それが良いアイディアであったとしても、ね。会心の出来のアイディアがたくさんあったとしても、それを選択しなければならない。どれを使って、どれを使わないか——。それが、間違いなく作家としての第一歩であるとぼくは思うね」
「無闇矢鱈にアイディアを詰め込みすぎない、ってことか」
 成程、言い得て妙だな。確かに様々な作品はあるにせよ、一つのアイディアで攻める作品も少なくない。たくさんアイディアがあるからと言って、それを一つの作品に詰め込んでしまったなら、それは意味がないのかもしれない。アイディア全てが、掛け合わせて良くなるものばかりとも限らないのだろうし。
 そういう意味では、歩の言葉はひどく沁みた。今書いている作品は、一応一つの大きなアイディアで物語が成立している。けれども、それの展開が立ち行かなくなってしまったからとて、別のアイディアを持ってくるというのは間違い——ということだろう。
「……成程な。確かに、おまえのいう通りかもしれない。やっぱり、他人のアドバイスってのは大事だよな」
「アドバイスを受けるタイミング、ってのもあるよ。今はちょうど良いタイミングだった、ってだけ。さあ、どう? さっきよりは、先の展開が思いつくようになったかな?」
 ああ、少しだけな。
 未だ物語の展開の周囲は、暗い闇に包まれているけれど——細い、細い一筋の道がはっきりと伸びているのが分かるよ。
「どうやら、大丈夫なようだね」
 歩は幾度か頷いて、おれに言った。
 もしかしてこうなることを分かっていたのか——質問しようと思ったが、それも野暮だと思い、何もおれは言わなかった。

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