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013



 締め切りまで、あと一週間を切った。
 そのタイミングで、漸くおれは原稿にエンドマークを入れることが出来た。
「……終わった」
 書き上げた瞬間、おれはそのまま身体を倒し、横になった。
 天井に視界を移し、おれはぽつりと呟く。
「……終わっちまったなあ」
 まさか、終わるだなんて。
 おれは全く——全く思いやしなかった。
 恐らくはこの一週間程度の追い上げが功を奏したのだろう——そう自己分析する。
「先ずは……報告かな」
 この短い間、ずっとおれをフォローしてくれた歩に。
 物語が完成したことを、報告せねばなるまい。
 そうして、おれは自室を後にするのだった。




「……遂に、出来たんだね」
 歩の言葉を聞いて、おれは大きく頷いた。
「ああ。とは言っても、修正なり校正なりの時間が必要だけれどな。ギリギリまで頑張るつもりだよ」
「そうだね……。それが良い。そうすると良いよ。作品は完結する方が素晴らしいけれど、それでは未だ洗練されていない。誰しも初稿から完璧な作品を仕上げられる訳がないんだ。だから、作家は必ず何度も校正を繰り返す。それは、間違いを正すためだけのシンプルなものもあれば、『物語を正確に伝えるため』という使命もある……とは言うけれど、ぶっちゃけ凝り性じゃなければそこまでやらなくても良いような気がするよ、個人的にね」
「え?」
「だって、冷静に考えてみれば分かるけれど、そんなもの永遠に見つかるよ。例えば初稿が八十五パーセントの完成度だったとして、一度の校正で百パーセントに至ることはない。せいぜい九十パーセントが限界だろうね。そして、二度目は九十三パーセント、三度目は九十四パーセントと増える割合はどんどん減っていく。……何故だと思う?」
「何故……と言われても。その原稿に慣れてしまうから、とか?」
「半分正解かな。もう一つは——作家の性格がでてしまうのだと、ぼくは思うよ。とはいえ、たとえぶっきらぼうな性格であったとしても、何回かは必ず校正はしてくるはずだ。テレビでいうところの撮って出しなんてことは、先ず有り得ない。昔のように、雑誌に掲載した原稿でさえも単行本に収録する際には修正を繰り返すぐらいなのだから」
「……そういや、昔は小説を掲載する雑誌が沢山あったような。どうして減ってしまったんだろうな?」
「さあ? でも客観的に考えるならば——出版不況というキーワードで説明がつくんじゃないかな? それに、多様性もあるだろうね。昔は小説と言えば、紙の書籍一択だった。けれど、電子書籍が発達したしサブスクリプションも多数存在する。そういう多様性の結果……昔ながらの雑誌というのは、差別化をしていかなくてはいけない。例えばアニメ化している作品のビジュアルブックをつけるとか、書き下ろしの短編集をつけるとか。しかしながら、売上が低迷しているのに費用が嵩むということは、利益が下がるのは火を見るより明らかだ。爆発的に売上が増えたとてそれは一過性に過ぎない。それが恒常的になっていくのがベストなやり方なのだろうけれど、残念ながらそこまでは至っていない。当たり前と言えば、当たり前かもしれないけれどね。それに、作家の働き方も変わっていったんじゃないか、って勝手に思っているよ。昔は徹夜で作業をするのが美徳みたいな時代があった。悪く言えばやり甲斐搾取ってやつだ。けれども、それは禁止されていく傾向にある。かつては会社員だけだったのに、それがフリーランスにまで拡大しつつある訳だ。働き方が自由に出来る、ってのがフリーランスの醍醐味だって言うのにね……。それに、出版社のアプローチの仕方も変わっていった。昔は、出版社が広告まで引き受けていた。つまり、編集なり営業なりが売りたい作品をアプローチして、予算をかけて、どんどん宣伝していって、最終的にはメディアミックスを狙う——そんなやり方があった訳だよ。けれど、今は如何だろうか? 今はインフルエンサーという概念が存在する。作家という肩書きだけじゃなく、ユーチューブの登録者数が百万人を超える人気VTuberだって居る訳だし、各種SNSにまで広げてしまうとさらに影響力は拡大する。それこそ、出版社の古来のアプローチとは比較にならない程度に、ね。作家のファンが既に一定数出来上がっている状態で、出版社が書籍を出さないかとアプローチをかけていく訳。新人育成という概念が根本から変わってしまった——そう言っても良いだろうね。でも、出版社が新人育成を完全に止めてしまったか——と言われるとそうではないよ。そこは安心してくれて良いと思う。そうじゃなければ、肇くん、きみが作家としてデビューすることは非常に難しくなってしまうのだからね。インターネットでバズってからじゃないと作家になれないというのは、ある種作品のパワーを見せつけてからという意味では最高のプロモーションたり得るだろうけれど、新人作家の作品というのはそれだけで箔が付く。だって、未だ誰も見たことのない作品だ。そういった作品を読みたいと思う人間は、まだまだ居るからね」
「……成る程な」
 一気に話してはくれたけれど、あまりにも長すぎて話の内容を全て理解出来たか——と言われると正直怪しい。
 とはいえ、話は理解しておいた方が良い。
 今後、作家として生きていくのであれば猶更、だ。
「……まあ、きみはまだまだ知るよしも無いし、これから延々と続いていく競争を乗り越えていかなくてはいけないわけだからね。とはいえ、賞においては完成度よりも優先されてしまうものがあることはある」
「…………それを見逃してしまうほどのアイディア、だったか?」
 例えばの話をしよう。
 異世界を舞台にした小説が二つあるとして、片方は剣と魔法を駆使して生きていく王道ファンタジーだとする。そちらは完成度が高かろうとも、世の中に存在する数は星の数と同義と言っても何らおかしくはない。
 しかしながら、もう片方が――それこそ突拍子もないアイディアで一作品書き上げたものであったとしよう。完成度が前者より低かったとしても、その作品が圧倒的に面白いと認められるならばそれが作品として成立する可能性は十二分にある――そういうことだろう。
「でも、それを見つけてくれるのって、やっぱり運なんじゃないのか?」
 プロになれば何かしらの手段を使って直接編集なりに提案することも出来る——とは思う。
 しかし、今の視点はあくまでも賞の応募者——即ちアマチュアである。
 アマチュアとプロが同じ舞台に立ってしまったら、後者が大きく優位に立つことは火を見るより明らかだ。
 しかしながら、アマチュアがプロになるためには、そういった競争に勝ち進んでいかなくてはならない。年々酷くなる茨の道、とでも言えば良いのだろうか。小難しい話を延々とするつもりは毛頭ないのだけれど、
「運も実力のうち、だよ。……やはり、そこは致し方ないのだと思う。どんなものであっても、不運な人間は居る。そういった人間の方がより難易度が高く厳しい壁として立ちはだかるのも、それはしょうがない。最早、こればっかりは如何しようもないのだから」
「そんな、見放すようなこと……」
 言ったって、それこそ何も変わらないのだろうけれど。
「安心して欲しいのは、きみは少なくとも運は良い方だと思っているよ。だって今こうやってレクチャーを受けられるんだから。プロ作家の下読みなんて、なかなかないんだぜ? それも、何の見返りもなく——だ。ちょっとばかしは凄いことだなと思ってくれると嬉しいけれど」
「思っているよ。そりゃあ……」
 感謝してもしきれないぐらいだ。
 ただ、感謝するタイミングは間違いなく今ではないのだけれど。
「ま、そういうことだよ。とにかく、校正ってのはある意味では執筆よりも手間だと思う人だって居るぐらい、大変なプロセスのうちの一つだっていうこと。それが分かっていれば、ぼくは何一つとして文句を言うことはないよ」
「分かったよ。有難う」
「なに、これぐらいであれば何時だって。それに……もしくは今度はきみがこれをレクチャーする番かもしれないしね? それが誰をターゲットにするかが分かっていないけれど」
「来るさ、絶対に。……ところで、」
 急に歩から話題を振られたので、おれは首を傾げる。
「なに、別に大した話じゃない。けれど、肇くんが校正に手こずっているのなら、少しばかりお手伝いをしようかな、なんて。無論直接指示することは御法度だ。だけれど……作業スペースの一時的な変更ぐらいは手伝ってやれる。そういう時こそ、面白いアイディアってのは出てくるものだし」
「歩。おれはいったいお前が何を言いたいのかがさっぱり……」
 おれの言葉が唐突に終了したのは、歩が何かを取り出したからだ。
 そこにあったのは、一枚の便箋だ。
「ちょっと旅行でも洒落込もうじゃないか。一泊二日の小旅行ではあるけれどね。……勿論、きみが駄目と言ったらなしにするつもりではあるけれど」
「そんなの……」
 そんなの、駄目って言う訳ないだろう。
 おれのために色々頑張ってくれているのに、それを無碍に出来る訳がない。
「良いよ、寧ろそうしてくれると有難い。ずっと作品と向き合ってきたからか、ちょっとここいらで新たなアプローチをすべきだと思っていた頃だったんだ」
「そうかい……。そう言ってくれると有難いよ。それじゃあ、出発は明朝で良いかな?」
「うん?」
 幾ら賞の応募期限まで時間がないからと言っても、急過ぎでは?
「今週しかぼくもスケジュールが空いていなくてねえ。来週からは新作の推敲を始めなくてはいけないし……。何で先に発売日を決めてしまうのか、と何度も編集に聞いたけれど駄目だったね。売れると思った作品はある程度一年間のスケジュールを決めてしまうのだとか言っていたよ。だから、ずらせるとしても四半期の間だけ。七月発売の作品を十一月に延期することは出来ない——と言っていたね。全く、困ったものだよ」
「何というか……大変だな」
 わざわざ大変な時期に旅行なんてしなくても良いのに。
 或いはお前もそこである程度執筆しておきたいというのがあるのか? もしくは現実逃避かもしれないけれど。
 そこまで聞く勇気は、今のおれにはなかった。



 明朝、おれと歩は東京駅に来ていた。
 旅行の目的地は仙台だった——寒い時期にわざわざ行くまででもないだろうに、等と思っていたけれども、歩の言い分的には行きたいときにそこに行くべきであり、そこに寒いも暑いも関係ないだろう、ということだった。そこについては何ら間違っていないし、明確に否定するのも間違っているような気がする——けれども、やっぱり冬という点は考慮して欲しいものだ。
 とはいえ、一泊二日。
 小さいスーツケース一つあれば、着替えは充分だった。それに、執筆用に用意されているiPadがある。ノートパソコンの方が打鍵感は良く、寧ろ執筆としてはそちらが良いのだろうけれど、短期間の日程である以上、重量物はなるべく減らしておきたい——というのが歩の言い分だった。成る程、一理ある。そう思っておれは歩の言うとおりに、iPadだけを持参したという次第であった。
「……一応言っておくけれど、新幹線で良いんだよな?」
「切符をもらっているだろう? それでもなお、信用してくれていないのは流石に如何なものだと思うけれど……。行きたいのなら特急で行ってもらっても構わないよ? 未だ本日第一号の仙台直通特急は出発していないだろうから、切符の変更はきくだろうし」
「いや、そういう意味で聞いた訳では……」
 新幹線ならば一時間半ぐらいで到着するが、仮に特急とした場合は五時間程度かかるはずだ。景色をのんびり楽しみたいのならば、それもそれでありなのだろうが、今回はそれを楽しむ余裕が果たしてあるのやら。気分転換という意味合いでは特急でも良いのかもしれないけれど。
「因みに旅のスケジュールは?」
「言ってもそんな観光地を巡るものでもないのだけれどね」
「?」
 旅行って観光地を巡ってなんぼみたいなところ、ないか?
「一応言っておくけれど、執筆によるスランプの気分転換——それが第一の目的だからね? その辺りだけははっきりとさせておかないとね。美味しいものぐらいは食べるから安心して」
「ぐらいは、ってことはそれ以外はあまり期待出来ない、ってことだよな……」
 何だろう。一気にやる気がなくなってきた。
 とはいえ、百パーセント遊べるものでもないってことぐらいは、薄々感づいてはいたのだけれども。
「ま、申し訳ないけれどそこに関しては了承してもらうしかないねえ。そういうものだよ、残念ながらね」
「……歩も何かするのか? 重そうなスーツケースだけれど」
 おれと同じぐらいの荷物しか持ってこないだろうに、何故か一回り大きいスーツケースを持ってきている。
「……色々と仕事があるんでね。致し方ないんだよ。ホテルも別部屋の方が良いだろう? プライベートを確保出来るからね」
「まあ、それは別に良いけれど……」
 プライベートを気にするものでもないが、まあ、そちらがそう言うのなら構わない。
 ただまあ、仮に相部屋とするならベッドぐらいは分けておきたいけれど。
「それじゃあ、改札に入ろうか。……それとも駅弁ぐらい買っておく? それぐらいの余裕はあっても良いと思うけれど」
「駅弁か……」
 気にはなるけれど、なかなか食べるタイミングってものが見つからないんだよな。
 だって駅弁というぐらいだから、駅に行かないと買えないものだし。
「今回は全部ぼくが奢るから気にしなくて良いよ? 食べたくないのなら、それもそれで良いけれど。ただまあ、飲み物ぐらいは買っておいた方が良いかな。車内販売もあるにはあるけれど、やっぱり少しだけ高いんだよね」
 そこまで言うのなら、致し方ない。
 きっとラインナップを見ているうちに食べたい駅弁も出てくるだろう——おれはそう思って、歩の意見に賛同することにした。

◇◇◇

 新幹線ホームは途轍もなく混雑していた。旅行シーズンって奴なのかもしれないけれど、大半は外国人だったと思う。座ってそのまま移動出来るんじゃないかってぐらいのサイズのスーツケースを一つや二つ手でもって居る。重そうな感じだよな、全く。しかし、それを乗せることは出来るんだろうか? とふと思う。確かおれの持っているスーツケースは一応機内持ち込み可サイズを選んでいるはずだから、普通に座席上の棚には載せられるはずだ。しかし、あのサイズでは……到底無理だろう。そいでいて、スペースにも限りがあるとしたら、載せることなど出来ないのではないだろうか?
 と、そんな自分には何一つ関係ないどうでも良いことばかりを考えていると、乗る予定の新幹線がホームに入線してきた。
「何号車だっけ?」
「グランクラスと行きたいところだけれど、グリーン車が空いていたからグリーン車にしたよ。グランクラスの方が確実に快適で、確実に優雅な時間を過ごすことが出来るのだけれど、仙台までだとその効果があんまり発揮しなくってね……」
「成る程ね?」
「まあ、そこまで理解してくれているのなら良いのだけれどね。さて、駅弁も買ったことだし。さっさとグリーン車に乗り込もうか」
「一応聞いておくけれど」
 ちょっとだけ気になったことがある。
「何?」
「……電車の中でも推敲はすべきなのか?」
「出来るのなら、それが一番ベストのやり方だと思うけれど?」
 歩に言い返されて、おれは最早何も言えないのだった。

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