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014
4
結論を言うと、おれは一切作業が出来なかった。それは推敲も何もかもを含めて、という話でである。と言うのもしばらくずっと原稿ばかりしていたから、いざグリーン車に乗り込んでしまったら、一気に眠気が出てきてしまった——と言う訳だ。恐らく多少は歩も理解していたのだろうけれども、弁当を食べて気づいたらくりこま高原を通過していたと言うのだから、末恐ろしい。起こしてくれても良かったのではないか?
隣を見ていたら、ずっと歩はタブレットを手に取って、睨めっこしていた。スタイラスペンを持ってちょくちょく何かを書き込んでいる様子だったので、もしかしたら校正や推敲をしていたのかもしれない。
「……目を覚ましたのかい?」
歩の言葉に、おれは目を丸くする。
「こんな環境だと、眠ってしまったよ……。本当なら、もうちょっとしっかり作業をしておかないと絶対に間に合わないのだろうけれど」
「とはいえ、休憩は大事だからね。別に問題ないよ、締切にさえ間に合えば良いのだから。あとは、作家と編集が一対一で決めて行くことだ。それは喧嘩でもあり、譲歩でもあり、会談でもある」
「……成程ね?」
商業というのは、なかなかに難しい。
それを今からでも教えてくれているのはとても有難いことではあるのだけれど——ただ、今の立ち位置は未だ作家候補生の一人に過ぎない。つまり、商業として作家になれない限りは、今のアドバイスは全くの無駄——ということになるのだ。
「さて、もう仙台駅か……。早いものだねえ。ちょっとばかり観光でもしようじゃないか」
そう言ってタブレットをカバンに仕舞う歩。
おれは何一つ作業が進まなかった罪悪感を手にしつつも、電車を降りる準備をするのだった。
5
仙台駅に降り立つと、先ず感じたのは寒さだった。東京とはまた違う一段階下の寒さ、とでも言えば良いだろうか?
にしても、一応防寒着を着込んでいるとはいえ、この寒さか……。温泉でも浸かればまた違った感じがあるのだろうけれど、どうにかしてこの寒さを乗り切る手段がないものか。
「ところで、肇くん。運転はできるかな?」
「やったことはあるけれど……、でもペーパードライバーに近しいものだと言うことは変わりないぞ」
「松島に着くまでの間でいいから、運転してくれない? 普通の乗用車だから、特に問題はないと思うけれど」
「松島?」
「うん。やっぱり観光地と言えば松島だからね。ホテルもその辺りを確保している。電車で移動してもいいのだけれど、やっぱり足がないと困るからね。というわけでレンタカーを予約していると言うわけ」
「ちなみに歩は運転できるんだよな?」
「そりゃあまあ、一応ね。ただ、申し訳ないけれどぼくも仕事を進めていかないといけない。色々と予定が詰まっていてね……。無論、大変そうならすぐに運転を代わるから、遠慮なく言ってほしいし、もし今でも運転に自信がないと言うのなら、さっさと言ってほしい。無理強いはさせるつもりはないから」
「……いや、まあ、それぐらいはできるよ」
それに、良い気分転換にはなるだろうから。
そういうことで、おれは運転手役を了承し、レンタカー店へと歩き始めた。
6
レンタカーを借りて荷物を乗せて、外に出る。
高速道路を乗る程の距離でもないらしいので、別に問題はないか。いずれにしても、見知らぬ土地であることは間違いないので、何処かでカーナビを使いたいものだ。
「しょうがないけれど、運転中にカーナビの操作が効かなくなるのは面倒なことだよね」
「しょうがないと分かっているなら良いじゃないか」
「だって助手席に座っていれば操作できるんだし、別にそれで良くないか? 例えばカメラをつけておいて、助手席から操作していなければロックすれば良い。ただそれだけの話では?」
まあ、おれはカーナビ業界のことは詳しくないけれど、それをしない理由がきっとあるだけで、一度は絶対に検討していると思うけれどね。
「……とにかく何処かコンビニにでも停めて、カーナビを入れるか?」
そう提案したのに、歩はスマートフォンを取り出した。
何をするかと思いきや——。
「ここから松島までどう行くか教えて」
スマートフォンにそう語りかけたのだ。
音声検索ということか?
数秒後、「音声案内を開始します」の言葉に続いて、スマートフォンの自動音声で案内を開始した。
「……便利だなあ、全く」
「別に、きみの持っているスマートフォンだって、これは出来ることだと思うけれどね?」
「それをしようと思っていたって、ついつい車に標準搭載されているカーナビを使おうと思ったりするだろう? つまり、そういうことだよ」
まあ、それはそれ。
とにかくカーナビにデータを入れるためだけに駐車する必要は無くなった。
一路おれ達は、歩のスマートフォンによる案内のもと、松島へのドライブを開始した——。
◇◇◇
松島まで行くのは初めてだけれど、正直仙台の道がそこまで走りづらいかと言われると、答えはノーだ。高速道路もそれなりに走っているし、第一ルートがわかりやすい。それなりの間隔でホテルが点在しているのも良いポイントだろう。
「……いやあ、快適なドライブだね? もしかして、運転は慣れている方なのかな?」
「そりゃあまあ、前職で色々とやらされたからな……」
その結果が今である、と考えるとそれはそれで面白いのだけれど。
まさか営業車で全国を飛び回っている頃に、友人を乗せてドライブするなんて思いもしなかったよな。
そう過去を振り返っていると、歩はポーチからタブレットを取り出した。
いや、まさかと思うけれどこのタイミングでも原稿をするのか?
「当たり前だろう? そりゃあまあ、少しは観光はしたいのだけれどね。残念ながら、進捗が少し遅れ気味でね。あんまり遊び続けてしまうと、未来の自分が苦労してしまうんだよ。だから、少しでも進めないといけない。例え進捗が最悪であろうとも、その日の進捗がゼロであってはならない。一文書いてもいいし、一文字修正しても良いし。とにかく、どんなに進まなかったとしても、一文字も書かなかったなんてことはあってはならないんだよ」
なんというか、耳が痛い話だ。
しっかりやらないといけないことであるのは、火を見るよりも明らかであることは間違い無いのだけれど。
「……耳が痛いな、全く」
「でも、全ての作家がやらなくてはいけないことだよ。よもや、作家を始めたらそこで終わりとか思っちゃいないだろうね?」
「そんなことは全くもって思っていないのだが……」
「それならそれで構わないよ。これからもそう思い続けてほしい」
松島に到着すると、車がたくさん走っているのを目の当たりにする。
いやでも目に入る景色であり、それが現実である。
何一つ間違っちゃいないのだけれど、それでも——。
「嫌かな? この風景が。この景色が。この——時間が」
歩はそんなおれの違和感に気づいたのか、首を傾げてこう言った。
「悪いな……。ちょっと、やっぱり」
「怖いのは、最早致し方ないことかもしれないね。それに、嫌だと言うのなら無理矢理にやらせるものでもない。嫌悪感を抱いているのだから、猶更だよね」
言われていることは分かっている。
分かっているのだけれど——言葉を受け入れられない。
受け入れたくない、とでも言えば良いだろうか?
だが、今はただ——。
「済まん……。ここで、のんびりと過ごしてもいいか?」
「いいよ、別に。きみがやりたい風にやればいい。悪かったね、嫌なことを思い出させて」
別に、歩は悪くない。
悪いのは、おれなんだから……。
そう思っていたが、しかしついにはそれを口に出すことはできなかった。
声に出してしまうことで、さらに歩から優しい言葉をかけられるのが——怖かったからだ。
7
かくして、おれと歩はホテルまでやってきていた。
松島の観光を色々と考えてくれていたらしいのだけれど、残念ながらあれから何一つ出来やしなかった。テンションが最悪とでも言えば良いのだろうけれど、そんな一言で片付けて良いようなものでもないのもまた事実。いずれにしても、悪いことをしたと思っている。反省せねば。
ホテルと言ってもビジネスホテルだ。これぐらいがちょうど良い。部屋に入ると少し長い廊下の先にベッドが置かれている。一人がけのソファに、テーブル。テレビに冷蔵庫も置いてある。ドライヤーは……まあ、使うことはないかな。
先ずは、ベッドに横になる。
まだ夕飯の時間までは長い。夕飯も一緒に食べることになっているので、それは分かっている。しかしながら、それまでにある程度作業をしなければならないし、作業をするように厳命されてしまった以上、頑張らなくてはならない。
何せ期限が決まっていることだ——頑張らなければここまでサポートしてくれた歩に何も言えなくなってしまう。
とにかく、頑張っていかないといけない。
だから、おれは疲れてしまったのに、なんとかタブレットを手に取る。
タブレットにはすでに原稿のデータが入っている。それとスタイラスペンを用いて校正していく——と言うのが流れだ。もう時間がないので、校正をしつつ最終的な原稿を仕上げていかなくてはならない。いくらタイムリミットが二十三時五十九分までだと言われても、そんなギリギリに提出はしたくない。できるなら、多少の猶予を持っておきたいのだ。
「……とは言うが」
原稿はPDFだ。そこにアプリを用いて、スタイラスペンで色々と書き込む——というスタイルになっている。それにしても無料アプリでいいような気がするけれど、セキュリティがどうのこうの言って、有料アプリばかりを使っているような気がする。本当に良いのだろうか? こっちが仮に作家になったとしても、それを完全に返し切れないような気がするし。というか、仮にそう思われていたら、こちらとしてはかなりプレッシャーに感じてしまうのだけれども。
しかし——いざ読み進めていくと、やはり書いている時には得られなかった感想が出てくる。視点が変わっているから、とでも言えば良いのだろうけれど、よもやここまで違った感覚を得られるとは思いもしなかった。少しは校正をすべきと言う言葉の意味を、ようやく理解したような気がする。
「……頑張らないと」
頑張らないといけないことぐらい、とっくのとうに分かっている。
おれのためにどれだけの人が労力を割いてくれているのかってことぐらいは、誰かに言われなくても分かっている……つもりだ。
つもり、なのだけれど。
「でも、難しい話だよな……」
頭の中では、理解しているつもりだ。
時間は有限であり、誰にでも平等に流れ行くものであることぐらい、分かっていた。
「分かっているよ、それぐらい……」
この未完成の原稿を、より完成度の高いものに持っていくためには、このプロセスが大事だ。
これを繰り返さなければ、良い原稿はできやしない。
第三者に物語を見せる以上、これは絶対に必須のプロセスだ。
「読んでいくうちに、何かに巻き込まれていくような」
そんな感覚。
或いは——そんな錯覚。
そんなものは、きっと同じ立ち位置に居なければ、理解もされやしないだろう。
「くそっ……」
それでも。
それでも。
それでも——何度読み進めようとしたって、先に進めない。
先に、進めさせてくれない。
それは先入観か?
それは価値観か?
それは人生観か?
否、否、否……。そのいずれでもないと思う。どれぐらい人生経験が浅かろうとも、それぐらいは分かるような気がする。あくまでも分かるような気がする——だけではあるのだけれども。
まるで、読めば読む程迷路に迷い込んでしまうような——。
「……ダメだ」
これでは、いつまで経っても先に進めやしない。
終わらせなければならないプロセスは、まだまだあると言うのに。
とにかく——前に進めないといけない。
だから、おれは立ち上がった。
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結論を言うと、おれは一切作業が出来なかった。それは推敲も何もかもを含めて、という話でである。と言うのもしばらくずっと原稿ばかりしていたから、いざグリーン車に乗り込んでしまったら、一気に眠気が出てきてしまった——と言う訳だ。恐らく多少は歩も理解していたのだろうけれども、弁当を食べて気づいたらくりこま高原を通過していたと言うのだから、末恐ろしい。起こしてくれても良かったのではないか?
隣を見ていたら、ずっと歩はタブレットを手に取って、睨めっこしていた。スタイラスペンを持ってちょくちょく何かを書き込んでいる様子だったので、もしかしたら校正や推敲をしていたのかもしれない。
「……目を覚ましたのかい?」
歩の言葉に、おれは目を丸くする。
「こんな環境だと、眠ってしまったよ……。本当なら、もうちょっとしっかり作業をしておかないと絶対に間に合わないのだろうけれど」
「とはいえ、休憩は大事だからね。別に問題ないよ、締切にさえ間に合えば良いのだから。あとは、作家と編集が一対一で決めて行くことだ。それは喧嘩でもあり、譲歩でもあり、会談でもある」
「……成程ね?」
商業というのは、なかなかに難しい。
それを今からでも教えてくれているのはとても有難いことではあるのだけれど——ただ、今の立ち位置は未だ作家候補生の一人に過ぎない。つまり、商業として作家になれない限りは、今のアドバイスは全くの無駄——ということになるのだ。
「さて、もう仙台駅か……。早いものだねえ。ちょっとばかり観光でもしようじゃないか」
そう言ってタブレットをカバンに仕舞う歩。
おれは何一つ作業が進まなかった罪悪感を手にしつつも、電車を降りる準備をするのだった。
5
仙台駅に降り立つと、先ず感じたのは寒さだった。東京とはまた違う一段階下の寒さ、とでも言えば良いだろうか?
にしても、一応防寒着を着込んでいるとはいえ、この寒さか……。温泉でも浸かればまた違った感じがあるのだろうけれど、どうにかしてこの寒さを乗り切る手段がないものか。
「ところで、肇くん。運転はできるかな?」
「やったことはあるけれど……、でもペーパードライバーに近しいものだと言うことは変わりないぞ」
「松島に着くまでの間でいいから、運転してくれない? 普通の乗用車だから、特に問題はないと思うけれど」
「松島?」
「うん。やっぱり観光地と言えば松島だからね。ホテルもその辺りを確保している。電車で移動してもいいのだけれど、やっぱり足がないと困るからね。というわけでレンタカーを予約していると言うわけ」
「ちなみに歩は運転できるんだよな?」
「そりゃあまあ、一応ね。ただ、申し訳ないけれどぼくも仕事を進めていかないといけない。色々と予定が詰まっていてね……。無論、大変そうならすぐに運転を代わるから、遠慮なく言ってほしいし、もし今でも運転に自信がないと言うのなら、さっさと言ってほしい。無理強いはさせるつもりはないから」
「……いや、まあ、それぐらいはできるよ」
それに、良い気分転換にはなるだろうから。
そういうことで、おれは運転手役を了承し、レンタカー店へと歩き始めた。
6
レンタカーを借りて荷物を乗せて、外に出る。
高速道路を乗る程の距離でもないらしいので、別に問題はないか。いずれにしても、見知らぬ土地であることは間違いないので、何処かでカーナビを使いたいものだ。
「しょうがないけれど、運転中にカーナビの操作が効かなくなるのは面倒なことだよね」
「しょうがないと分かっているなら良いじゃないか」
「だって助手席に座っていれば操作できるんだし、別にそれで良くないか? 例えばカメラをつけておいて、助手席から操作していなければロックすれば良い。ただそれだけの話では?」
まあ、おれはカーナビ業界のことは詳しくないけれど、それをしない理由がきっとあるだけで、一度は絶対に検討していると思うけれどね。
「……とにかく何処かコンビニにでも停めて、カーナビを入れるか?」
そう提案したのに、歩はスマートフォンを取り出した。
何をするかと思いきや——。
「ここから松島までどう行くか教えて」
スマートフォンにそう語りかけたのだ。
音声検索ということか?
数秒後、「音声案内を開始します」の言葉に続いて、スマートフォンの自動音声で案内を開始した。
「……便利だなあ、全く」
「別に、きみの持っているスマートフォンだって、これは出来ることだと思うけれどね?」
「それをしようと思っていたって、ついつい車に標準搭載されているカーナビを使おうと思ったりするだろう? つまり、そういうことだよ」
まあ、それはそれ。
とにかくカーナビにデータを入れるためだけに駐車する必要は無くなった。
一路おれ達は、歩のスマートフォンによる案内のもと、松島へのドライブを開始した——。
◇◇◇
松島まで行くのは初めてだけれど、正直仙台の道がそこまで走りづらいかと言われると、答えはノーだ。高速道路もそれなりに走っているし、第一ルートがわかりやすい。それなりの間隔でホテルが点在しているのも良いポイントだろう。
「……いやあ、快適なドライブだね? もしかして、運転は慣れている方なのかな?」
「そりゃあまあ、前職で色々とやらされたからな……」
その結果が今である、と考えるとそれはそれで面白いのだけれど。
まさか営業車で全国を飛び回っている頃に、友人を乗せてドライブするなんて思いもしなかったよな。
そう過去を振り返っていると、歩はポーチからタブレットを取り出した。
いや、まさかと思うけれどこのタイミングでも原稿をするのか?
「当たり前だろう? そりゃあまあ、少しは観光はしたいのだけれどね。残念ながら、進捗が少し遅れ気味でね。あんまり遊び続けてしまうと、未来の自分が苦労してしまうんだよ。だから、少しでも進めないといけない。例え進捗が最悪であろうとも、その日の進捗がゼロであってはならない。一文書いてもいいし、一文字修正しても良いし。とにかく、どんなに進まなかったとしても、一文字も書かなかったなんてことはあってはならないんだよ」
なんというか、耳が痛い話だ。
しっかりやらないといけないことであるのは、火を見るよりも明らかであることは間違い無いのだけれど。
「……耳が痛いな、全く」
「でも、全ての作家がやらなくてはいけないことだよ。よもや、作家を始めたらそこで終わりとか思っちゃいないだろうね?」
「そんなことは全くもって思っていないのだが……」
「それならそれで構わないよ。これからもそう思い続けてほしい」
松島に到着すると、車がたくさん走っているのを目の当たりにする。
いやでも目に入る景色であり、それが現実である。
何一つ間違っちゃいないのだけれど、それでも——。
「嫌かな? この風景が。この景色が。この——時間が」
歩はそんなおれの違和感に気づいたのか、首を傾げてこう言った。
「悪いな……。ちょっと、やっぱり」
「怖いのは、最早致し方ないことかもしれないね。それに、嫌だと言うのなら無理矢理にやらせるものでもない。嫌悪感を抱いているのだから、猶更だよね」
言われていることは分かっている。
分かっているのだけれど——言葉を受け入れられない。
受け入れたくない、とでも言えば良いだろうか?
だが、今はただ——。
「済まん……。ここで、のんびりと過ごしてもいいか?」
「いいよ、別に。きみがやりたい風にやればいい。悪かったね、嫌なことを思い出させて」
別に、歩は悪くない。
悪いのは、おれなんだから……。
そう思っていたが、しかしついにはそれを口に出すことはできなかった。
声に出してしまうことで、さらに歩から優しい言葉をかけられるのが——怖かったからだ。
7
かくして、おれと歩はホテルまでやってきていた。
松島の観光を色々と考えてくれていたらしいのだけれど、残念ながらあれから何一つ出来やしなかった。テンションが最悪とでも言えば良いのだろうけれど、そんな一言で片付けて良いようなものでもないのもまた事実。いずれにしても、悪いことをしたと思っている。反省せねば。
ホテルと言ってもビジネスホテルだ。これぐらいがちょうど良い。部屋に入ると少し長い廊下の先にベッドが置かれている。一人がけのソファに、テーブル。テレビに冷蔵庫も置いてある。ドライヤーは……まあ、使うことはないかな。
先ずは、ベッドに横になる。
まだ夕飯の時間までは長い。夕飯も一緒に食べることになっているので、それは分かっている。しかしながら、それまでにある程度作業をしなければならないし、作業をするように厳命されてしまった以上、頑張らなくてはならない。
何せ期限が決まっていることだ——頑張らなければここまでサポートしてくれた歩に何も言えなくなってしまう。
とにかく、頑張っていかないといけない。
だから、おれは疲れてしまったのに、なんとかタブレットを手に取る。
タブレットにはすでに原稿のデータが入っている。それとスタイラスペンを用いて校正していく——と言うのが流れだ。もう時間がないので、校正をしつつ最終的な原稿を仕上げていかなくてはならない。いくらタイムリミットが二十三時五十九分までだと言われても、そんなギリギリに提出はしたくない。できるなら、多少の猶予を持っておきたいのだ。
「……とは言うが」
原稿はPDFだ。そこにアプリを用いて、スタイラスペンで色々と書き込む——というスタイルになっている。それにしても無料アプリでいいような気がするけれど、セキュリティがどうのこうの言って、有料アプリばかりを使っているような気がする。本当に良いのだろうか? こっちが仮に作家になったとしても、それを完全に返し切れないような気がするし。というか、仮にそう思われていたら、こちらとしてはかなりプレッシャーに感じてしまうのだけれども。
しかし——いざ読み進めていくと、やはり書いている時には得られなかった感想が出てくる。視点が変わっているから、とでも言えば良いのだろうけれど、よもやここまで違った感覚を得られるとは思いもしなかった。少しは校正をすべきと言う言葉の意味を、ようやく理解したような気がする。
「……頑張らないと」
頑張らないといけないことぐらい、とっくのとうに分かっている。
おれのためにどれだけの人が労力を割いてくれているのかってことぐらいは、誰かに言われなくても分かっている……つもりだ。
つもり、なのだけれど。
「でも、難しい話だよな……」
頭の中では、理解しているつもりだ。
時間は有限であり、誰にでも平等に流れ行くものであることぐらい、分かっていた。
「分かっているよ、それぐらい……」
この未完成の原稿を、より完成度の高いものに持っていくためには、このプロセスが大事だ。
これを繰り返さなければ、良い原稿はできやしない。
第三者に物語を見せる以上、これは絶対に必須のプロセスだ。
「読んでいくうちに、何かに巻き込まれていくような」
そんな感覚。
或いは——そんな錯覚。
そんなものは、きっと同じ立ち位置に居なければ、理解もされやしないだろう。
「くそっ……」
それでも。
それでも。
それでも——何度読み進めようとしたって、先に進めない。
先に、進めさせてくれない。
それは先入観か?
それは価値観か?
それは人生観か?
否、否、否……。そのいずれでもないと思う。どれぐらい人生経験が浅かろうとも、それぐらいは分かるような気がする。あくまでも分かるような気がする——だけではあるのだけれども。
まるで、読めば読む程迷路に迷い込んでしまうような——。
「……ダメだ」
これでは、いつまで経っても先に進めやしない。
終わらせなければならないプロセスは、まだまだあると言うのに。
とにかく——前に進めないといけない。
だから、おれは立ち上がった。
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