×

015



「……そいで、こっちにやってきたという訳かな?」
 隣の部屋には、歩が居た。
 歩も歩で新作の原稿をやっていることぐらいは知っていたし、それを邪魔してしまうことは悪いことも、分かっていた。作家志望者の原稿よりもベストセラー作家の原稿の方が優先度は何倍も高いに決まっているからだ。
「悪い」
 おれは気づけば謝罪の言葉を口にしていた。
「……如何して?」
「歩も忙しいことは分かっていた。忙しい合間を縫って、おれに力を貸してくれていることぐらい……それぐらい分かっているつもりだった。だから、できる限りそれに応えようとして、おれは歩の力をなるべく借りないようにしようと思っていた。……けれど、その結果がこれだよ」
「謝らなくても良いよ」
 歩の言葉は優しかった。
「——謝ったところで、原稿が進むとでも思っているのならば、幾らでも謝るが良いさ」
 しかし、おれの予想を反して、歩の言葉は、まるで尖ったナイフのように突き刺さる。
「作家になりたいのではないのかい、きみは! 誤って、誤って、謝って……。それだけで済むと思っているのならば、それだけでなんとかなろうと思っているのならば、作家なんて辞めちまえば良い。作家になりたい、その意思はそんな簡単に捻じ曲げて良いことだったのか? きみにとっては」
「違うよ、おれはただ……」
「いいや、違わないよ。きみは逃げたがっているだけだ。協力を無碍にしているだけだ。ぼくがいつきみへの協力を嫌った? 嫌うのならば、最初から手を差し伸べることなどしないで、自分の仕事に向き合っていれば良いだけの話だ。そうだろう? けれども、ぼくはそれをしないで、きみに手を差し伸べて……。自分が忙しいのにこうやって旅行までしている。まだ、まだきみは分からないのか?」
 歩の言葉は、全てが突き刺さる言葉だった。
 もう少し遠慮してくれたって、良いのだろうに。
 でも——それもまた、優しさなのかもしれないと悟った。
「……とにかく、ぼくは何も嫌な表情はしていないつもりだよ? 少なくとも、きみの目の前では、ね。きみが努力して努力して努力して——作家になることに関して、全力でバックアップしているはずだ。それをきみは無碍にするつもりなのか?」
「何で」
「うん?」
 何で……。
「何で、おまえは、おれが作家になることを応援するんだ……? バックアップしてくれるんだ……? ずっと思っていたんだよ、全く理解できないし、想像できなかった。何故なら、おまえにとってメリットは何一つなかったはずだ」
「肇くん」
 歩は笑みを浮かべ、おれの顔を見る。
 妖艶な笑み——目を見るだけで、吸い込まれてしまいそうな、そんな表情。
 全てを見透かされているようで、あまりにも不気味で、あまりにも恐ろしい。
 そんな表情をした歩は、しっかりとおれの顔を見て、
「ぼくはきみに作家になって欲しいんだよ。分からないのか? きみは死のうとしていた。作家になることを拒み、社会の一員にもなることすらできず……、自らが持っている物語を、誰にも見られることなく闇に葬ろうとさえしていた。けれど、」
 けれど。


「……そんな物語はあってはならない。物語は、全て公開されるべきだ。どうせ死のうと思っていたのなら、公開して後悔すれば良い《、、、、、、、、、、、》。物語には、永遠の可能性がある。ならば、一度ぐらい挑戦したって良いと思わないかい?」




 公開して後悔しろ——その言葉は真っ直ぐに突き刺さる。しっかり研がれたナイフの如く、おれの心にしっかりと突き刺さった。
 一度きりの人生なのだ。だから、後悔なんてしても無駄だ——一度しかできないことなのだから、絶対にしたいと思ったのならしてしまった方が良い。
 死んでしまった時に、後悔ばかりを並べてしまうよりも、でも満足していたと思っていた方が百倍素晴らしいことだ。
 正直、歩がそこまで考えているのかは分からない。こいつの考えはいつも分からないというか、予想の範疇を軽々と超えてくる。
「……如何にも、おまえらしいというか何というか。そんなことは才能がない人間には出来ねえよ……。才能があるならば簡単に出来てしまうのだろうけれど、ない人間は——」
「肇くん」
 歩はおれの言葉に割り込んだ。
 それ以上、その言葉を言わせるつもりはない——と、そんな強い意志を感じさせるほどに。
「いつから創作というのは、才能がないと出来ない形になってしまったんだい? ライセンスがあるわけでもないのだし」
 深い大きな溜息を一つだけして、さらに話を続ける。
「人間は、想像することが出来る。哲学者が言っていただろう、人間は考える葦である、と。他の動物は出来なくて、人間は出来ることがたくさんある。そのうちの一つ、それが考えることだとぼくは思っている。イマジネーション、とでも言えば良い。人間は誰しも頭の中に一つの世界を作り上げることが出来る。それが一つで済めば良いが、二つ三つと複数の世界を同時に構成することだって出来るだろう。それは人間のみが可能で、人間が人間たりえる理由の一つと言っても良いと思う。そうでなければ、多数の発明を生み出すこともなかったし、今日までの安寧は有り得なかっただろう」
「……つまり?」
 長々と語っていたが、結論は全く言っていないように思える。
 別に厳密な時間管理をしているわけでもないのだから、ここであっさりと判明してしまえばそれで良くって、単純に何を言いたいのかさっぱり分からなかった——だから質問をしただけに過ぎなかった。
「物語は、誰もが思いつくものかもしれない。けれど、一人一人が考えた物語には、少なからず独自性が存在する。誰かの物語をなぞるだけならば、それは創作ではない——模倣だ。コピーは幾らオリジナルらしく振る舞おうとしても、オリジナルには敵わない。何故ならば、オリジナルで見せた衝撃を上回ることが出来ないからだ」
 一息。
「……どんな小さなものであっても、オリジナリティは出していけば良い。それが必要であり、それが大事であり、それが不可欠なのだから」
「オリジナルは一つしかないのだから、どんなものでも公開すべきだ、と?」
「分かっているんだったら、さっさと反応すれば良かったんだよ」
 そう言われてもな。
「物語を生み出すことは、厳しい道のりだよ。誰もが簡単に生み出せるのならば、この世界には数多の作品が飽和状態になって流通しているに違いないだろう? でも、そうじゃない。そう簡単に物語は生み出せない。だからこそ、輝き——そいでいて、面白い」
 相変わらず——相変わらず、何を言っているのかさっぱり分からない、そう思う時がある。
 昔から、こいつはそうだったような気がする。気のせいだろうか?
 いや、もしかしたら変わったのは歩ではなくておれなのかもしれないな……。
「とにかく、物語を作り出すと言うことは並大抵のことではないよ。誰もが出来ることだけれど、殆どの人間はせいぜい一エピソードに過ぎない。一つのエピソードをざっくばらんに作り上げることが出来るのは未だ良いけれど、一つの物語を——始まりから終わりまで——作り上げることはなかなか難しい。全ての人間ができることではない、と言うのだけは言っておくよ」
 そんなものなのかな……。
 さっぱり、イメージが湧かないのだが。
「肇くんが描く物語は、ぼくが読んでも素晴らしいものだと思うよ。……けれど、それをもっと輝かせないといけない。そのままでは、ただの原石だ。原石は輝かせてこそ美しい。それがただの石かダイヤモンドか、その違いは簡単に見つけられない。難しい話だと思うかい?」
「いいや、別に……。でも、期待を込められているのは、それぐらいは分かるよ」
「期待を込めないと。そりゃあ、そうだろう? きみが何を考えているのかは、正直理解できないけれど……。それでも、だよ。学生時代、素晴らしい作品を書いていたのを忘れたかい? ぼくと切磋琢磨してより良い作品を書き続けていたこと——それを忘れてしまったのかな?」
「忘れたつもりは——」
「忘れているさ。だって今のきみ、楽しそうじゃないから」
 本当に——本当に、痛いところを突いてくる。
「楽しそうじゃない——」
「だって、そうじゃん」
 砕けた感じで歩は語る。
「校正が面倒くさいことも分かるし、面白くないプロセスであることも分かるよ? 何度も経験してきたわけだからね。でも、これは物語を面白くしていく上で大事なプロセスなんだよ。自分よがりの物語を、他人でも読めるようにしていくための路面整備——それが校正だよ。だから、絶対に面倒くさいなんて思っちゃいけない。大事なことなんだ、物語を世の中に出していくためには」
「簡単に……」
 簡単に言ってのけるな、相変わらず。
 後悔しないこと——ってそう簡単に言っているけれどさ、それが出来れば全くもって苦労はしないんだよな。
「簡単に言うなよ、って?」
 おれの話の先を読んでいたのか、歩は答えた。
 薄ら笑いを浮かべて、話を続ける。
「別にきみのことを蔑んでいるつもりもなければ、貶めようとするつもりもない。それは一応理解してほしいし、信頼してほしいことであるとも言える。……ただまあ、それを理解出来ないと言うのであれば致し方なし。こちらとしては一応善意を持って支援をしているつもりではあるのだけれどね」
「理解はしている。感謝してもしきれないし、返しきれないものであることぐらいは」
 けれど。
「けれど……だ。簡単に言われても、こっちだって簡単には対応出来ない。校正というプロセスがどんなに大事で、それが物語の純度を高めていくことにどれだけ大事なことかぐらいは分かっている——分かっているつもりだ」
「いいや、分かっていないね」
 歩はおれの発言に割り込むように、一蹴した。
 何が分かるんだよ、おまえに。おれの気持ちが。
 ずっと苦労して、物語も一文字も紡げなくて、今必死になってもがき苦しんでいる気持ちが。
「……肇くん、きみは小説を書けなかった。いいや、違う。書けていたのに書けなくなってしまった。そうだろう? その原因について、今はここで語る必要もない。今は必要のない説明だからだ。或いは、蛇足と言っても差し支えない」
 しかしながら、と歩は言葉を繋げていく。
「その長いトンネルを抜けることが、今のきみには大事なんじゃないのかな? トンネルは一度抜けたらもう二度と潜ることはない……なんてことはない。必ずと言って良いぐらい、そのトンネルを潜るはずだ。長いかもしれないし、短いかもしれないし。或いは長いトンネルを抜けたと思ったら、それは換気用の口が開いているだけだった……なんてこともあるかもしれない。いずれにせよ、誰にだって有り得ることだし誰にだって予見出来ないことだよ」
「分かっているなら……」
「でも、同情はしない。それを乗り越えるのが人間だと思っているから」
 擦り寄っているようで、しかしすぐに冷たく突き放す。
 歩、おまえは一体何がしたいんだ?
 全くもって、今のおれには理解出来なかった。
「……肇くん、きみの物語は面白い。それは断言して良い。ずっと小説を書けなかったということは、その回路がぐちゃぐちゃになってしまっていたということ。それを短いリハビリ期間を経て、ここまで立派な物語を作り出せた。……昔から、何一つかわりやしない。きみはずっと昔から、昔から、そうだったんだよ」
「昔から……」
 そうだったっけ?
 思い返してみても、そんなことがあったような記憶はない。
 ただ、昔は面白かったのは間違いない。小説を書いて書いて書いて——それだけで良かった。
 良かった、はずだったんだ。
 大人になってからは、結局は作家になれなくて、趣味で書きたくても、仕事のことばかり考えてしまって、切り替えが出来なくなって……。
 気がつけば、この有様だ。
「小説を書くことは、物語を紡ぐことは、そう苦しむことではないはずだよ、肇くん」
 歩はそう優しく語りかける。
 おれの心情を理解しているのか——或いはそうではないのか、分からない。
 ただ、今更ながらそれを質問するのも違う気がして、何も言えなかった。
「自分が書きたい話は、絶対に苦しむことなんてしないはずだ。すんなりと展開が生きてきて、中のキャラクターが勝手に動き出して、物語のラストへと話を進めてくれるはずだ。まあ、キャラクターが暴走してなかなか思い描いているラストに進まなくなることもあるといえばある。けれど、それもまた創作をしていく上での醍醐味だとぼくは思っている。どう思う?」
「どう思う、ったって……」
 ただまあ、否定はしない。
 間違っていると、素直には思えないからだ。
 今はそこまで至っていないのかもしれない。けれど、少なくとも学生時代に歩と一緒に小説を書いていたあの頃は……きっと、あの頃はそうに違いなかったと思う。
 あの中にあったキャラクターが、世界が、物語が、生きていた。
 それを、おれは代弁者として物語を書き留めているだけに過ぎなかった。
 世界中で一人しか味わえない究極の物語を、世界中に広めたかった——そういうと高尚な話になってしまうかもしれないけれど、しかし実際はそうだったのだと思う。
「物語を広めていきたい、そのためにはより真っ直ぐな言葉や表現を突き詰めていく必要がある。誤字脱字だって最たる例だ。それを出来る限り無くしていくことで……読者がノイズを持たなくなる。誤字脱字や表現の違いがあるだけで、読者は大小様々なノイズを抱えてしまうんだ」
「ノイズ……」
 雑音、とも言い換えれば良いか。
「ノイズを排除すること。それが校正である——そう考えてみれば、そんなにやらなくても良いのでは、なんて思うことも薄れるんじゃないかな? 物語を伝える上で、不必要なノイズを無くしていく作業だ。きみが面白いと思った物語を、たくさんの人に伝えていきたい。それもきみが一番伝えたいことをそのままに。……そう思うと、やる気が湧いてくるだろ?」
 ノイズを排除する、か。
 確かにそう言う意味では必要なプロセスなのかもしれないな——そうおれは思った。
 しかして、やはり難しいんだよな……。大事なこと自体は分かっているけれど、一度書き上げた物語をもう一度読み上げて粗がないかを探す——と言う訳だ。それを分かっていても簡単に出来る程苦労はしない。
「……難しく思っちゃいけないんだよ、肇くん」
「うん?」
「物語を書くことが、作家としての矜持と言っても良い。頭の中で思い描くストーリーを、如何に読者に届けるか。そのためのプロセスとして大事なのが校正だ。確かに最初は自分でやらなきゃいけないから難しいだろうと思う。現に、出版後に誤字脱字が見つかったりしてSNSとかに画像が出回って赤っ恥を喰らうケースだって嫌と言う程見てきたよ。けれどね、かと言って手を抜いて良いかと言われるとまた違う。それは絶対にやらなければならないことだ。絶対に、ね」
「完璧主義の作家だってたまに出てくるけれど」
「多分、彼らなんかはたくさんやっているんじゃないかな? 無論、それで見落としてしまうことだって十二分にあるだろうけれどそれを嫌ってしまう人だって居るさ。人間だもの、みんな違いがあって当然だろう?」
 そんなものかね。
 ただまあ、ここでうだうだ言っている場合でもないのは事実だ。
 たとえここで立ち止まっていようとも、時間は有限だし、誰にも平等に流れている。
 即ち、新人賞の応募期限は変わるはずがないってことだ。
「……分かったよ。大いに理解した。悪かったな、こんなつまらないことに関わらせて」
「いいや、これをつまらないとは何も思っていない。作家として暮らしていく上では重要なプロセスであることには変わりないからね。物語を文章として出力していく以上、人間の間違いはある。それをなくしていく、或いは減らしていくためにもこのプロセスは絶対に不可欠だから」
「そう……だったな。何度も言っているかもしれないけれど、ありがとう。多分、おまえが居なかったらおれはここまでやってこれなかったんだと思う」
 おれはそう言うと、何故か歩が顔を背けた。何か変なことでも言ってしまったか?
「そう、思ってくれるなら嬉しいよ。きみの才能は、このまま埋もれさせてしまうのはあまりにも惜しいからね。……これからも頑張ってほしいな」
「そうだな……。ありがとう、歩。それじゃあ、また」
 そう言って、おれは歩の部屋から出ていくのであった。

前へ
目次
次へ