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016

10

 とはいえ、その日は直ぐに校正に取り掛かることはしなかった。先ずは温泉に入って頭をスッキリさせようと思っていたのだ。このホテルはビジネスホテルなのだろうけれど、二階に温泉が備わっていた。天然温泉ではないだろうけれど、とはいえ部屋にあるバスタブでシャワーを浴びるよりは大分リラックス出来るような気がすると思い、先ずはそのようにした次第である。
 思えば、こうやって温泉にゆっくり浸かるなんて、いつぐらいぶりだろうか? 社会人になってからは、少なくともこんな生活はした覚えがない。荒んだ生活だらけを繰り広げて、肉体的にも精神的にもしんどくなっていたような、そんな気がする。
「……そう思うと、歩に大分救われた部分があるな」
 捨てる神あれば拾う神あり、と言う言葉が、今ならとてつもなく身に染みる気がする。
「拾われたのなら、少しは恩返ししなくちゃいけないよな……」
 思ってはいる。
 しかし、実際にそれが実現出来るかというと、存外自信がない。
「やらなきゃいけないのは分かっているけれどさあ……」
 温泉には、誰も居ない。
 貸切状態だからこそ、こんな風に独り言を大きく呟けるというのもある。
「まあ、やるっきゃないよな」
 自分で自分にやる気を出させるってのは、存外難しい。
 他の人間はそう難しいことじゃない、なんて言ってきそうだけれど、少なくともおれには無理だ。如何にかして何とかして解決していかなくてはならないのは……間違いないことなのだろうけれど。
 そう奮い立たせて、おれは浴槽から上がるのであった。
 未だ、やるべきことは沢山残っている。


11

 翌朝、朝食会場に到着すると歩が優雅に食事をしている最中だった。
「おや、大分お寝坊さんじゃないかな? ダメだよ、作家というのは個人事業主だけれど、だからと言って睡眠時間を削って執筆をするなんてことをしては。そんなことをしても仕事のスピードは上がった風に見えるかもしれないけれど、健康を害してしまうからね。仕事は謝れば締め切りを遅らせてくれることもあるかもしれないけれど、健康は一度ダメにしたら元には戻らないんだから」
 おれに気づいた歩はそう語っていたが、健康についての助言はおれが一番痛い程分かっていた。
 分かっていた、が——。
「……終わったよ」
「うん?」
 歩は首を傾げ、おれの言葉を待った。
「——終わったんだよ、校正。おれの物語を、一番伝えやすくするために如何すれば良いのか、ってことを、な。アクセルを踏んでしまったら、眠気なんて吹っ飛んじゃって。気づけば朝方になってしまっていたんだよ」
 おれの言葉を聞いて、暫し思考が停止していたような感覚だったが——やがて堰を切ったように笑い飛ばした。
「あははっ! それじゃあ、一睡もせずにやり遂げたっていうのかい! あの原稿の校正を」
「時間はないんだろ?」
 あと一週間ぐらいしか、なかったはずだ。
 それが歩の決めた、タイムリミットなのだから。


「だから——だから、おれはやったんだ。後悔したくないように、物語を公開するために」


「良いねえ。そうでなくっちゃ」
 歩はおれの決意にも似た言葉を聞いて、そう答え笑みを浮かべた。
「……こうなることを、分かっていたのか?」
 そうでなければ、そんな反応は出せないはずだ。
「まさか。流石にそれはぼくのことを買い被り過ぎだよ。そりゃあ少しぐらい予測は立てて行動はしているつもりだよ? けれども、こんな予想はしたことがない。そういう意味では、ぼくの予想を上回る行動を取ってくれた、と言うことでもある。もっと驕って良いことだよ」
「褒めている、と?」
「そうだよ?」
 歩はさも当然のようにそう言ってのけた。
 何というか、相変わらず感性が合わないというか……。
 まあ、ああだこうだ考える暇はない。そう思って朝食を食べるべく、再び入り口へと戻るのだった。


12

 このホテルの朝食はバイキング形式である。
 スクランブルエッグにソーセージといったよくあるテイストのものもあるし、今日はご飯の気分なの、と思ったとしても納豆に海苔に漬物まで備わっている。しかも出汁茶漬けが出来ると言うのだ。お代わりか、或いは二日酔いした次の日のメニューとでも思っているのか? それ以外にもコロッケにハンバーグにほうれん草のソテー——忘れてはいけないのは仙台名物として笹かまぼこが置かれている点だ。まさか仙台名物がこういったビジネスホテルの朝食で食べられるとは! 時代も時代である。まあ、知らなかっただけで昔からこうだったのかもしれないけれどね。知識はどんなもんだって構わないから、蓄えておくに越したことはない。いつどんな知識が創作に役立てられるか、分からないのだから……。
 それにしても、何を選べば良いのかさっぱり分からない。
 少なくなっているおかずもあるし、それは人気のおかずということと言って良いのだろう。少なくなっているとはいえ、それを定期的にスタッフの人が監視して直様交換をしているから、別に気にすることはない。少ないおかずがあるなら、それをキープしておいてあとで取りに行けば良いのだから。別におかずが少ないからってスタッフに文句を言う必要はない。
 結果として、選んだメニューは——すクランブルエッグにソーセージ、シュウマイを二つ、ポテトサラダにレタスときゅうりのサラダコーナーには彩としてミニトマトを添えて、ハンバーグとコロッケ、笹かまぼこも追加している。
 ご飯と味噌汁も忘れてはいけないし、その付け合わせとして納豆も忘れちゃいけない。
 納豆は嫌いな人も居るのは十二分に理解するが、やはりご飯の付け合わせとしては一番のアイテムであろう。
 それを持ってきたのを見て、歩がつまらなそうな表情を浮かべて一言言い放った。
「……何というか、もう少し栄養バランスを考えた方が良いような気がするけれど」
「そうか? 一応、サラダ類はあるだろ」
「レタスときゅうりとミニトマトで、どう食物繊維やビタミンを補え、と……?」
 まあ、別に良いじゃないか。これがいつもの食事です、とかなら確かに栄養バランスを考えろと言われても何も言えなくなってしまうのだけれど、ホテルでの朝食バイキングだぞ? ちょっとぐらい食べたいものを食べて、栄養バランスを崩した食事にしてしまっても良いのではないだろうか。
「いやいや……。まあ、きみの食生活だから、あんまり頭ごなしに否定するのも違うのだろうけれど、さ」
 分かってくれるなら、それで良い。
「いや、理解するとは一言も言っていないけれどね? せめてヨーグルトでも食べたらどうだい。宮城県のものじゃなかったけれど、さっき岩泉のヨーグルトが出ていたよ。ねっとりした食感で美味しかったし、乳酸菌もしっかりと取れるから是非食べてみると良い」
「……何というか」
 おれは何となく思った。
「うん?」
「歩って、そういうところしっかりしているだな、ええとこれは——自己管理とでも言えば良いのかな」
「そりゃあそうだろう。作家なんて個人事業主だぞ? 会社と雇用契約を結んでいるサラリーマンとは違う。健康保険も年金も違うんだ。一年に一度の健康診断も含まれちゃいない。自分で一から十までやらないといけないんだからね」
「ああ、そう言えば……そりゃあそうだよな……」
「まあ、一応作家向けの健康保険組合は存在するし、もし国民保険だと嫌だなと思うのならそこに加入するのも一つの選択肢かな。ぼくはそっちに加入しているし。編集からそう促された、ってのもあるけれどね」
「如何して?」
「そりゃあ、出版社からしてみれば作家は売れるコンテンツを生み出してくれるんだから。そのコンテンツを売れるようにサポートするのが編集はじめ出版社の役割だと思うし。……まあ、今は色々と違ってきて、昔みたいに完全にサポートする世の中では無くなってしまっているけれどね。ウェブ小説の書籍化が良い例だよ。あれは既に固定のファンが居るからね。そのファンを喜ばせつつ如何に新規層を獲得するかってのもあるけれど、既に宣伝に用いることの出来る材料は揃い踏みだ。何百万アクセスだの、ランキング一位だの、有名な作家のお墨付きだの……。そういった材料は、あんまり詳しくない一般人であったとしても惹かれるものだよ。あらすじやタイトル、表紙でイメージが湧かなくても、そんな具体的な数字が出てきていれば、『ああ、この作品は面白いのが分かっているな』と思って手を取りやすいだろう?」
「確かにな……。既に読者が多数居る、と言うのが大きな強みではあるのか。しかし、そうなると猶更面倒というか。そうしなければ勝ち目がないみたいな感じになっているような——」
「まあ、それはそうだね。否定をするつもりはないよ。ウェブで公開してきた作品だけれど、如何に付加価値をつけていくのかと言うのは誰しも考えることだろうし」
「じゃあ、勝ち目はないって言うのかよ?」
 諦めるしかないのか?
「諦めてしまっては困るね。そんなことをしてしまうからこそ、より争いに打ち勝てなくなってしまう。確かに、読者が既に多数存在すると言うのは大きなアドバンテージだ。しかしだ、だからこそこちらとしても作品の良さと言うものにアプローチしていけば良いのではないかな?」
「作品の良さ……?」
「別にウェブ小説に作品の良さがないだとか、そんなことは言わないさ。彼らには彼らなりのポリシーがあって、それなりに面白さとは何ぞやと言うことについて研究を重ねているはずだ」
 おれはコーヒーを啜る。
 正直徹夜明けの身体にこれは結構しんどいものがあるのだが、しかしながら大事な話であることは間違いない。眠気など起こしてはならないし欠伸なんてもってのほか。ともなれば、カフェインで無理矢理脳を覚醒させ続けるしか方策がないのだ。
「即ち、こちらとしては大きなディスアドバンテージがある——それを利用した賞も存在するぐらいだね。小説投稿サイトの賞なんて読者選考が入っている。つまり、如何にそのサイトの読者に気に入られるか、といった作品を自ずと執筆する必要がある、と言う訳だね。それはマーケティングでもありリサーチ力でもあり……はたまた、筆の速さでもある。作家として如何に今後長続きさせていくかどうかの三要素が全て出揃っていると言うことだね」
 確かに、そうかもしれない。
 けれど、おれが応募する賞は違う。提出こそウェブでやるものだが、選考は作家なり専門家なりが集まった選考委員による読み合わせ——そしてそこから一次選考、二次選考と進むはずだ。
「悪く言えば最後まで読者は物語を読むことは出来ない——しかし、良く言えばクローズドな空間で選考が行われるということだ。インターネットにどれだけ多くの読者がいようとも、スタートラインは同じだし評価されるパラメータも一緒、と言うこと」
「……成程な」
 確かに、歩の言う通りだ。
 そういう意味では、今回の賞はスタートラインが誰も彼も一緒だ。
 仮に選考委員が色眼鏡をかけてしまったのならば、それは選考の意味がない。それこそ、読者選考を最初に始めるウェブ小説のそれと大差がなくなってしまうのだろう。
 ウェブ小説の台頭により、オリジナル作品の捻出が大変だ——なんてネットニュースの記事を見たことがある。誰もがウェブで小説を書けるようになったからこその悲鳴なのかもしれないな。スカウトでもすれば良いのかもしれないが、そうなると編集者の選球眼がカギとなってくるのだろうし。
「まあ、そんな大変に思わなくても良いと思うよ。失敗しても次がある。まだまだ、やれることはたくさんあるのだから。……ちょっとヨーグルトおかわりしてくる」
「あ、ああ……」
 ヨーグルト、美味しいとは言っていたけれどお代わりする程か?
 思えば、おれは歩との話に夢中になっていて、全く食事に手をつけちゃいなかった。こりゃあ不味いな。今日には東京に戻らなくちゃいけないってのに。そう思いながら、おれは納豆パックのプラスチックのフィルムを思い切り剥がした。

◇◇◇

 チェックアウト時間の十時ギリギリに、おれはフロントに到着した。
 既に歩はコーヒーを飲んで待ち構えていた。優雅にパソコンを開いているけれど、仕事内容は地獄そのものなんだろうな……。あいつも売れっ子の作家なのに、良くもまあおれにここまで労力を割いてくれるものだ——なんて言うと、あいつは怒るだろうから言わないでおく。
「やあ、遅かったじゃないか。おかげで仕事が進んだから良いのだけれどね」
「……そう言ってもらえて良かったよ」
 皮肉を言われているような気もするけれど、そんなことをああだこうだと気にしている暇はない。
 とにかく、校正が終わったのだ。
 そこだけは大事にしておきたい。
「あともう数日だからね……。これで終わってしまうのはかなり良かったと思うよ。あとはゆっくりと準備をしておけば、締切前日には提出できるかな?」
 何でここから数日寝かすのかは不明だったが、まあ間違いはない。それは歩の言う通りだった。
 だから、何となく。
 何となくだけれど——東京を出る前よりは、何となく足取りが軽かったようなそんな気がした。
 これであとは提出するだけだ。
 あらすじを書いて、フォーマットに落とし込んで、それで……。
「……ん?」
 そこでおれは引っかかった。
「何か思い出したのかい?」
 歩の言葉に、おれは何度も頷く。
「大事な——大事なことをすっかり忘れていたよ……! おれは、まだあらすじを考えていないと言うことに」
 天国から一転、急転直下に地獄行き。
 最後の難関は、忘れた頃にやってくるのだった——。

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